落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

ゆるりふわりとパパン・パン~2019年1月2日 お江戸日本橋亭 講談初席~

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ザギンで見かけたアベックの 女はパイオツカイデーだったな
リーマン今日もよそよそしい タイミング見計らってドロン
あいみょんナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌』

 

  吾輩の辞書に『バタンキュー』という文字は無い

ナウなヤングにバカウケのエンタメ、講談。漢字二文字の破壊力。チョベリグな二文字。

2019年は講談飛躍の年であっただろうか。私の感覚では某講談師とその周辺以外は、それほどの活気では無かったような気がする。イマ三百という感じの盛り上がりであったように思う。それでも、『講談』の形式はどんなものかということは、少なからず世間に認知されつつあって、「篠沢教授に全部」ならぬ「伯山先生に全部」という状況に2020年はなるのではなかろうか。

素人の私が講談に持つイメージは、『堅い』とか『難しい』とか『英雄譚が多い』という三点セットのイメージである。女子大生ホイホイならぬお堅い人ホイホイな場所が、講談の寄席であるという印象もあったのだが、色々な流派の講談を聞いていると、「あれ?案外堅くないぞ。しかも美人な講談師も多いし、思わずジュルだぞ」と思い始めた。

そう、思わずジュルな講談である。読者は冗談はヨシコちゃんと思うかも知れず、「そんなバナナ!」と思うかも知れないが、そんなバハマことではないのである。そんな梨、そんな信州りんごなのである。狸も驚いて信楽の里に帰るほど、講談は魅力的なのである。

演芸に関しては19番ホールまで付き合う私は、お江戸日本橋亭の講談初席に参加した。やはり年齢層は圧倒的に高い。私のような一休さんが並ぶと奇異の目で見られる気がするのだが、心の中で「あわてない、あわてない」と唱えながら2000円を払って入場。

難しい講談を聞いたときの意識と、大学生のアルバイトは急に飛ぶが、今回の初席は結論から言えば、意識も飛ぶことなく、むしろ涙と笑いに包まれたチョベリベリ・サイコー・ヒッピハッピシェイクな会だった。

 

一龍齋貞奈 三方ヶ原軍記 途中まで

たとえ、三方ヶ原軍記の内容が分からなくても、カワイイ子がなんか一所懸命に喋っている様子を見る。それも、くりっとした目と、可愛らしい表情で喋りながら、パンパンと何か叩いている。それを見るだけで「はらたいらに1,000点」よろしく、安定感があって良いのである。確実なのである。

私個人としての思いは敢えて書かないが、貞奈さんの語り。「今の君はピカピカに光って~」と歌いながら、ジーパン脱ぎたい。ん?脱ぐ様を見たい?

 

 田辺いちか 沢庵禅師 虎拝領

いちかさんの講談はサルでもわかる。2020年は翔んでる人だと思えるほど、語りの清らかさに、茄子がママ,胡瓜がパパである。

シラクってるお殿様のワガママに、嫌々ながらも付き合う家来の者たち。大久保彦左衛門、柳生なんちゃらが出てきて、檻の中の虎を怒らせたり、宥めたり。

徳川家光が出てきたら、殆どの場合、家来が困る話になる。『梅花の誉れ』、『隅田川乗っ切り』など、徳川家光将軍と言えば『ワガママ』の代名詞と思っても良いかも知れない。巨人で言えば江川卓、フランスで言えばシラク立川流で言えば、おっと。

そんな志らくのワガママを受けて、見事に解決していく様子を見るのが気持ち良い。ブラック企業に勤めた従業員が、上司の無茶振りに反旗を翻し、出世していく感じがあって堪らなく好きである。また、いちかさんの語りがとにかく良いのである。澄んだ瞳、清らかなる流れを感じさせる語り。動物への愛と、ワガママに翻弄されながらも一所懸命な家来の様子。底に流れるは愛だと思う。最後は愛が勝つ。

 

 田辺一乃 円山応挙の幽霊画

落語では小満ん師匠、浪曲では真山隼人さん、そして、遂に講談で聴くことのできた『円山応挙の幽霊画』。これはもう、涙がちょちょぎれるお話である。

落語の場合は感動の物語という訳ではなく、そこは落語であるから面白いテイストになっているが、浪曲に関しては号泣もの。さて、講談は!とワクワクしながら聞いた。

結論、バッチシです。話がピーマンの肉詰めである。めちゃんこ良いのである。

一乃先生のやわらかく包まれるような語りと、情景がバリバリに見えてくるリズム。円山応挙が出会った若い花魁、紫花魁とのお話から、その花魁の死、そして夢の話。全てが最終的に繋がって花開く場面で、円山応挙が放つ言葉に、ぐわわっと涙が込み上げ、目からは熱い涙が零れた。

浪曲で聴くのもとても良いのである。真山隼人さんの『円山応挙の幽霊画』については、以前記事にも書いたが、物凄い浪に飲み込まれて、最後まで怒涛の展開で涙が溢れ出た。

講談は、節こそ無いものの、ゆっくりと丁寧な語り。そして、数奇な運命によって巡り合う人々の姿を、淡くもはっきりと活写する。物語そのものがとても良い話ではあるのだが、一乃さんの語りの中に籠る、親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ち、そして間に挟まる円山応挙の姿が見事に描かれていて、私、「生きてて良かったぁ」と思った。

素晴らしく温かい一席。お見事!

 

 田辺鶴遊 豊竹呂昇

私は『髭の一鶴先生』という講談師を映像でしか見たことがない。それでも、らく兵さんが『立川談志らしさ』を感じさせるように、鶴遊先生は『田辺一鶴らしさ』を感じさせる一番の講談師だと思う。

サービス精神旺盛かつ、一見すると頼りなさそうな風貌でありながら、語りに淀みはなく、また一鶴先生を彷彿とさせるハイトーンボイス。毎回、住所(?)を公表するのはなぜかという疑問がある。それはさておき、畳み掛けるような語りと切れ味鋭い声の抑揚。聴きながら心がまるでジープに乗って山を疾駆するような感覚。パパンパンパンと張り扇の音に導かれて、あれよあれよと怒涛の勢いで展開していく物語。

特に、巾着切りとして名を馳せた萬吉(?)と後に豊竹呂昇となる女義太夫の出会いから成長、そして別れまで、一気呵成に語られる姿は凄まじい。聴く度に癖になる語りである。

まだ『正直車夫』と合わせて二席しか聞いていないが、妙に癖になる語りである。体が二郎ラーメンを求める感覚に近いと言えば近いが、もっとあっさり系の、時折、お新香が食べたくなる感覚と言えば良いだろうか。さっぱりとした漬物をアテにビールが飲みたくなる。そんな後引く講談師。美しく鮮やかな人情の一席だった。

 

一龍齋貞山 高野長英と三次 若き日のひとこま

私は六代目三遊亭圓生という落語界の大名人を音源でしか聞いたことが無い。貞山先生の放つ雰囲気と語りには、晩年の圓生師匠のような肩の力の抜けた、遊び心というか、何とも言えない『抜け感』あって、それが絶妙に心地よい。

幾ら齢を重ねたからと言って、自らの芸を誇らしげに見せつけるような、ちょっと鼻に付く芸という感じが一切無い。取り立てて目立つような派手さは無くとも、随所に小さな笑い、そして芯の通った思いが籠っているように思えて、味わい深い。

また、表情がとても良い。貧乏人には無料で薬を渡し、金持ちからはふんだんに金を頂くという、長英自身の信念が大げさに語られない。むしろ、当たり前のことのように響いてくる。言葉と考えが洒落ていて、思わず膝を打ってしまうような爽快さがある。

するりするりと耳に心地よく言葉が入り込んでくる。言葉が差しだされ、想像するまでの間がとても良い。高野長英という人と、その弟子(?)の三次との掛け合いも、駆け出しの医者の雰囲気が静かに満ちていて、とても素晴らしい。

先日、浅草木馬亭で『柳田格之進』を聞いたとき、語りの衒いの無さ、そして、かなりのベテランで、見た目はかなり頑固そうに見えるのだが、語りを聞くと、案外、寛容で柔軟な人であるような気がして驚いた。もっと怖い人なのかなと思ったのだが、語りには遊び心があるのである。この『遊び心』という言葉、もっと適切な言葉がある気がするのだが、なかなか出て来ない。何と言えば良いのだろうか。祖父母が孫を可愛がる感じと言えば良いか。長い人生の中で培われた、人生を楽しむための知恵が凝縮されたような感覚を、貞山先生の高座から感じるのである。

また、先にあがった鶴遊先生に述べた言葉と一鶴先生との思い出も、実に愛があって、面白くて、一鶴先生の物真似も似ていて、私が最初に抱いていた『堅い』とか『難しい』というイメージは完全に取り払われた。

ここには、長きに渡って、勇ましい講談を語り続けてきた一人の老齢な講談師の、滲み出るような人生の知恵があるように思えた。

ぼんやりと仲入りで、改めて貞山先生の凄さを噛み締める。見た目はめっちゃ怖いけど、語りは優しくてゆるりとしてふわりとしている。心地よい気分に瞼を閉じて、しばし休憩。いつの間にか『死語』も消えている。

 

 田ノ中星之助 大久保彦左衛門 盥で登城

お次の演目はこちらを参考にしてください

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/01-15_ookubotarai.htm

お初の講談師。勢い凄まじく、はとバスツアーの思い出から演目へ。

若干、聞いていた私が疲れてしまい、細部の内容については定かではない。大久保彦左衛門が活躍する話であり、誰かが喧嘩して、彦左衛門が頓智を利かせて丸く収める話であったという気がする。

 

宝井琴嶺 赤垣源蔵 徳利の別れ

去年も聞いたのだが、書き記しておかなかった琴嶺先生。昨年も貞水先生がトリで、そのときは茶碗屋敷であったと思う。

もはや講談を聞き始めて数年が立てば、タイトルを聞いただけでどんな話なのか、パッと想像が付くほど、赤穂義士伝の中では良く高座に掛けられるお話である。

琴嶺先生の語りは勇ましさの中に、ちょっとしたお茶目さもあり、また、時計を気にしながらも、随所に豆知識的な情報が差し挟まれて興味深い。一席が終わった後でも、その後の源蔵のお話や、貧乏徳利の話など、「よし!見に行くか!」と思うような情報が聴ける。

溌溂として勇ましい一席だった。

 

一龍齋貞水 伊賀越えの仇討より 荒木又右衛門と鷲津七兵衛の出会い

トリを務めたのは、人間国宝の貞水先生。一富士二鷹三茄子になぞらえて、日本三大仇討ちのことを語りながら、俗に伊賀越えの仇討ち、36人斬り(?)とも呼ばれる荒木又右衛門が、鷲津七兵衛と出会うお話。

これは、貞水先生が前座の頃に覚えたお話らしく、昭和30年頃と仰っていた気がする。

本筋もとても面白いのだが、話に入る前と、話に入った後の脱線が、とにかく面白い。めちゃめちゃに面白いのである。詳細については語らないのだが、この話を教わった頃の講談界のお話や、七兵衛が大の字で寝ている部分まで語ったときに、差し挟まれたお話や、その後の随所に、もはや『貞水節』とも呼べる一撃必笑の小ネタが差し挟まれて、どっかんどっかんと会場がバカウケしている。

これは私の感覚で、以前も書いたかも知れないが、落語が好きで寄席に来ているお客様は、結構大声で笑う。それこそ「わっはっはっはっは」とか「あっはっはっはっー」とか「ガハハハハハハ」みたいな感じで、とにかく笑い声が明るい。

反対に、講談のお客様はそんなに馬鹿笑いしない。ちょっと噛み殺したような笑いというか、極端に言えば「ふふふふふ」とか「あはは」くらいの感じである。講談そのものが、それほど『笑い』に触れていない感じがするからかも知れないし、やはり英雄が勇ましく活躍する物語があるだけに、そんなに笑ってもいられないのではないか、と思っていた。

ところがどっこい、貞水先生の語る物語は、「今までなんで笑わなかったんだ?」と思ってしまうくらい、どっかんどっかんと会場が湧くのである。立て続けの熱演で、確かに笑いどころが少なかったとは言え、ここまで笑える話に仕立て上げる貞水先生の凄さ。物語自体もかなり面白く、「え!?これが仇討ちに繋がるの!?仇討ちってもっとシリアスじゃないの!?」と驚いてしまうほど面白い。感覚的には、『神崎与五郎の詫び証文』を抱腹絶倒の物語にしたかのような衝撃だった。

仇討ちする過程にも、様々にバリエーションがあるのだなと思って驚いた。

信じられないほど面白く、またエピソードが濃い。どんだけ博識で洒落てんだよ、と羨ましいくらいに、本筋とそれ以外のエピソードがことごとく面白いのである。

ネットでは怪談話が得意な講談師として良く知られているが、私は『茶碗屋敷』と今回の二席しかまだ聞いたことが無いので、とても陽気で面白いおっちゃんくらいのイメージである。

頬骨と腹が痛くなるほど笑った一席。貞橘先生、良い先生に弟子入りしてるなぁ、と羨ましく思った。同時に、貞橘先生の本筋から逸れたお話がめちゃくちゃ面白いのは、貞水先生から来ているのだなぁと感じられて、師弟関係の美しさに心がくすぐられた。

圧巻、大爆笑の一席で講談初席が終わった。

 

 総括 ゆるりふわりと

『堅い』というイメージのある講談も、貞水先生の爆笑の一席を聞くと、それは講談の一面でしかないということが分かる。落語も浪曲も講談も、同じように幅が広い。

落語には文字が読めない人同士が会話する話から、圓朝物のような恐ろしい話まである。

浪曲には不細工な顔の女性が心根の清らかさで出世する話から、二人の男がお弁当の具を交換する話まである。

講談には矢の名手が扇の要に矢を当てる話から、一人の役者が工夫を凝らして出世する話まである。

なんと幅が広いことであろうか。講談だからと言って、一概に『お堅い』と思っていた自分が情けない。きっと講談ファンも、そんなに『曲者』も『お堅い人』もいないのではないか。それは人間のある一面であって、本当は面白い部分があるんじゃないか。

人は見かけによらぬもの、会って話せば案外、話が合うかも知れない。

ぼんやりと日本橋を歩きながら、じゃらじゃらと派手な装飾品に身を包んだマダムとすれ違った。

ゆるりふわりと、どこかで張り扇の音が聞こえる。柔らかさと鋭さの共演。それが、講談の一つの魅力かも知れない。

まるで作り立ての餅と、固まった餅だな、と思いながら、私はぶらぶらと家に帰った。