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【Day 3】畔倉重四郎 連続読み~2020年1月 神田松之丞~

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青すぎる あの牧場に行くつもりだったけれど

この列車は そこまでは着かないんだって

チバユウスケ『人殺し』

Hide And Seek

目の前を飛ぶ鬱陶しい蚊を手で潰すことと、日常生活で自分の邪魔ばかりしてくる人間を殺すことに差はあるのだろうか。どちらも命を奪う行為であるのに、前者は罪に問われることなく、後者は法で裁かれることになる。

仮に、『絶対にバレない殺人ができる』としたら、読者は殺人という罪を犯すだろうか。「一度くらいはやってみたい」と思うだろうか。自分の胸に手を当てて正直に答えるとするなら、読者は何と答えるであろうか。

テレビゲームには、平気で人が人を殺すものがある。決してそれを否定する訳ではないが、ゲームで人を殺すことと、現実で人を殺すことの違いが分からない人間が少なからず存在する。時折、ニュースなどで「加害者は、人を殺すゲームを所持しており」などと、ゲームと殺人動機を関連付けて報道されることがある。そのようなニュースを目にすると、少なからず「ゲームは精神に良くない」とか「殺人を犯すかも知れない」と心配する人間が出てくるのは当然で、突き詰めて行けば「人を殺すゲームは禁止」ということになるだろう。最近のニュースでは「映画での自殺シーンは控えて」という文言が書かれたものもあり、社会が極力、そうしたものを遠ざけている様子が伺える。

令和という元号に変わり、節目ということもあって、何かと「それまでの悪しき習慣」を断ち切ろうという雰囲気があることは否めない。誰もが皆「変わりたがっている」というのは、決して悪いことではないが、変化の中で淘汰されるべきものと、淘汰されてはならないものは少なからずあって、果たして社会全体が正しく仕分けできているのかは不明な部分が多い。

人の良心がどこまで信用されているか、という部分が重要になってくるだろう。それは詳細を書き記すとするならば、『フィクションをフィクションとして楽しめるか否か』であったり、『冗談を冗談と正しく受け取れるか否か』であったり、『仮想世界を現実世界と区別して認識できるか否か』であったりする。

すなわち、自分以外の『モノ』との距離を正しく保てるか否かが重要である。私の感覚では、年を重ねるごとに社会全体の『人の良心に対する信頼度』は減っているような気がする。「殺人映像を見せたら、この人は殺人を犯す」と、強く思う人が増えた結果、その思いが突き進められて「殺人映像を見せなければ、この人は殺人を犯さない。だから、殺人映像は今後一切、撮ることも流すことも禁じなければならない」となっているように思える。

豊かな国は法が緩く、そうでない国は法が厳しい。

さて、そんなことを考えながらも聞く『畔倉重四郎』という悪人の物語。令和になって、『真の悪』が隠され、規制され、淘汰されつつある中で、悪人を描いた物語はどのようにして人々を熱狂させていくのか。

私の思いを述べよう。

人は誰でも誰かを殺したいという欲求を持っていて、理性がその欲求を強く求めないように押さえつけている。或いは厳重に鍵を掛けて暴走しないように管理している。

たまにニュースなどで、人を殺した犯罪者が現れると、それを見た人々は「人を殺すなんてありえない」と思いながらも、強い興味を抱く。連日連夜、殺人の状況を報道するニュース番組から目が離せないのは、自らの内に秘めた『殺しの欲求』が、理性に押さえつけられた部屋の扉の隙間から、じっと覗いているからである。『殺しの欲求』という名の獣は、いつでも飛び出したくて待ちきれないのだ。だから「見る」ことで少しでも疑似体験をしようと望む。殺しに限らず、犯罪紛い或いは犯罪の映像を「見る」ことで、自分には一生経験することの出来ないことを楽しむ。詳しくは述べないが、アダルト業界に溢れる映像も、どう考えても犯罪だろうという状況の映像が多い。

 

さて、講談師・神田松之丞が三夜目までに語ってきたのは、一人の男が殺人を犯し、仲の良き友を鬱陶しく思うまでの経緯である。途中差し挟まれたのは、実の父親が殺人犯に仕立て上げられた盲人の決意であった。

稀代の悪人と、正義の光を見つめる盲人は、今宵、どのようにぶつかり合うのか。

その対決の行く末やいかに。

 

第九話 三五郎殺し

どれだけ堅気の世界で生きようとも、過去の罪を覆い隠すことは出来ない。ライオンを薄い布で覆い隠したところで、すぐに布は引き裂かれて元の姿を表すこととなる。

九話目までに大勢の人間を殺した重四郎は、殺害に協力した三五郎を言葉巧みに騙し、大雨の中で殺害する。

重四郎が三五郎を殺そうとする場面での松之丞の語りには、重四郎に命を奪われる状況となった三五郎の戸惑い、焦り、怒りの感情と、重四郎の冷酷無比などこまでも深い無感情が強烈な対比になっているように思えた。まるで、温かい熱を求めた氷が周囲の冷たい氷に押し潰されて、欠けてなくなっていくかのようである。

大雨の中で、互いに名前を呼び合いながらの命の奪い合い。決して流され消えることの無い『殺しの炎』が燃えている。やがて真一文字に首を掻っ切られ、無残にも転がっていく三五郎の頭。そして、唯一の友に斬られた三五郎の悲痛とも、驚きとも言い表せない表情が見える。それを無表情で見つめ、「こいつも動かなくなっちまった」というような事を呟くように言う重四郎の姿が、恐ろしくも鮮やかに脳裏に浮かび上がってくる。と同時に、さらりと笑いを混ぜながら、今後へと繋がる大いなる伏線を仕込むところが、物語の策を感じて面白い。

重四郎には情が無い。むしろ、『殺し』に不必要な感情や倫理、ありとあらゆる理屈が抜け落ちている。それは、第六話において確実なものとなった『人殺しの快感』への強い欲望であろうか。表現が適切かは分からないが、もはや重四郎にとっては『人を殺すことが絶頂に達する手段』ということであろう。

かつて、ある殺人鬼が猫を殺し、やがて友人を殺した際に、その場で絶頂に達したという話を聞いたことがある。およそ理解できるものでは無いが、重四郎の場合には、表向きは感情の無い、静かに状況を見つめている様子ではあるのだが、その内では、暴れ狂う快感に身悶えし、身体がそれに追いついていないように思える。映画やアニメのように、人を殺したからと言って全員が感情を爆発させ、高笑いをあげる訳では無い。むしろ、自分の犯した行為すら自分ではどう反応して良いか分からず、茫然としている姿の方が、とても現実味があって、見ている方としては筋が通っているように思える。

圧倒的な闇が大雨を飲み込む。だが、その隙間に挟まれてしまった男の間抜けさが後に大きく闇を割く光となろうとは、この時はまだ誰も知らない。

 

第十話 おふみの告白

運命とは皮肉なものである。大雨の殺人の一席の後で、まるで快晴を予言するかのような光に溢れた一席。

重四郎が大黒屋重兵衛として切り盛りする宿へ、城富がやってくる。類稀なる才能を発揮する城富の姿を見ながら、巨大な闇の中に覆われている城富の姿が見える。人々が城富を褒めたたえ、笑みが起こるのだが、宿の主が、かつて城富の父親に罪を着せた重四郎であることを知っているのは、それを語る松之丞とそれを聞いている客だけである。まだ、すぐ近くに巨大な悪が潜んでいることを城富は知らないということの、もどかしさを晴らすかのように、三五郎を失ったおふみが城富と出会い、夫婦になる。

宇宙に星があるように、また、太陽があるように、どれだけの闇が世界を覆いつくそうと、『光』は消えないのだろう。影が光から逃れられないように、光もまた影から逃れられない。重四郎が闇を纏い、光を一つ一つ潰したところで、決して光は消えないのだということの真理がここにはある気がする。

おふみの思いが美しい。夫となった城富に全てを打ち明ける場面での、城富の戸惑いも何とも言えない。なぜ重四郎はおふみを殺さなかったのであろうか。バレないという確信があったのだろうか。或いは人殺しの快感に酔って麻痺していたのだろうか。何かしらおふみを殺すことにリスクがあったとしか思えない。宿におけるおふみの立ち位置がどのようであったのか気になるところではあるが、重四郎に殺されることなく、愛する夫に真実を告げる場面は、ついに重四郎が召し捕られるまでの大いなる一歩である。

同時に、城富の運命を思う。城富にとっては願ってもいないほどの幸運であろう。同時に、重四郎にとっては何という不幸であろうか。もしもこの一席までに重四郎のファンになっている人間がいたら、おふみを心の底から憎むである。

大いなる闇を打ち砕くための、小さな光の集合を見た力強い一席だった。

 

 第十一話 城富奉行所乗り込み

おふみの言を受けて、すぐさま大岡越前守のいる奉行所へと乗り込む城富。そこで、ついに重四郎が実の父親に罪を着せ、穀屋平兵衛殺しの真犯人であることを告げる。

大岡越前の真実を見つめる姿勢と、戸惑いながらも三五郎の言葉を信じ、大黒屋重兵衛と名を変えて生きる畔倉重四郎の罪を語るおふみの姿が、いよいよ本格的に悪との対峙に向かって動き出す、次話への期待が大きく膨らむ一席である。

 

 第十二話 重四郎召し捕り

どのような策によって重四郎は召し捕られることとなったのか。大岡越前守の計略にまんまとかかった重四郎の姿が面白い一席である。決して『無様』という言葉が当てはまらないほど、勇ましい抵抗を見せる。

ニコニコとして誰からも慕われる大黒屋としての顔はどこにも無い。本性を現わし逃げる重四郎は、むしろカッコイイとさえ思えてしまうから不思議である。

なんと言っても、捕まってなるものか!と襲い掛かってくる相手の腕を切り落としながらも逃げる重四郎の姿の語りが凄まじかった。『安兵衛駆け付け』でも感じたのだが、1対大勢の殺し合いの場面における松之丞の語りは、うねるかの如くノンストップで勢いがある。あの現象に名前を付けるとすれば『松之丞大乱闘タイム』ということになるだろうか。数少ない『松之丞大乱闘タイム』を味わえる素晴らしい一席である。他に優れた現象名があれば、教えて頂きたい。

残り七話を残して捕まった重四郎。いよいよ白洲の場で名奉行、大岡越前守との対決である。おふみや城富の思いは重四郎の悪を裁くことが出来るのか。四夜目に向けて大いなる転換の一夜が幕を閉じた。