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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

笑顔のために生きる~2020年1月24日 文菊寄席~

 私の信条は

『毎日を笑って過ごす』ことだ。

 

 公園の茶トラ猫

「おぎゃあ」と生まれてから墓地に収まるまでの間に、一体どれだけの時間を幸福に過ごすことが出来るのかと考えてみれば、自分の心次第であるという結論に達するのだが、自分の心というものは始終落ち着きがなく、あちらこちらへ行って想像が付かないので、結局分からないままに過ごしている。

時折、まるで鳥が餌を見つけたかのように、幸福を啄むことがある。啄んでいる間は幸福で、しばらく食べ物が消化されているうちも幸福であるのだが、再び空腹がやってくると幸福を感じなくなるのだから困ったものである。人も同じで、自分の好きなことや楽しいことを体験している間は幸福を感じ、またその後に思い出を反芻することも幸福なのだか、自分の嫌なことや、何もしないでいると、途端に幸福を感じなくなる。

人それぞれ、何に幸福を感じるかというのは異なるのだということを、公園を散歩しながらぼんやりと考えていた。

嬉しいことや幸福が続くと、ついつい浮かれてしまう。幸福が人を馬鹿にするのか、馬鹿が幸福なのか、それは分からない。でも確実に、幸福なときは馬鹿になっている気がする。我を忘れていると思う。何かを体験しているときに、一瞬光った最初の熱に心をじりじりと焦がされて、気がつけば我を忘れて夢中になっているということが多々ある。理性が動きを止めて、本能が行動を始める瞬間、きっと私は馬鹿になっている。というか、理性が動いているときは人間で、理性が停止したときは動物なのかも知れない。

そう考えると、私は人間である時間が長く、動物である時間が短いのかも知れない。さらには、人間であるときは様々な物事に悩んだり考えたりしてストレスを感じるが、動物であるときはそういうことから解放されて、思う存分、雄たけびをあげているのかも知れない。

すっかり葉も落ちて、心なしか頼りない曇り空を眺めながら、冷たいコンクリートが漂わせる雨の匂いを嗅ぎつつ、ぼんやりと景色を眺める。

すぐ傍の横断歩道をランドセルを背負った小学生たちが群れになって歩いている。みな、高い声でワーワーと何か楽しそうに話しながら笑顔である。まっすぐに手を挙げて横断歩道を渡っていた。それを見ていた私は、一体何を背負っているのだろうか。小学生はランドセルを背負うが、大人になればもっと背負うものが増えてくる。責任であろうか、誇りであろうか、その他様々なものを背負わなければならなくなる。段々と重くなっていく子泣き爺でもあるまいに、次第次第に背負うものが重くなっていく。どこかで荷を降ろそうにも、そう簡単に降ろさせてはくれない厄介な荷物である。

小学生が横断歩道を渡るときに手を挙げるのは、自分の背が低く、運転席にいる運転手に見えない可能性があるからである。大人になって背が伸びれば、容易に運転席からは視認できる。だが、社会に出ると、幾ら手を高くあげても見てもらえない時だってある。ともすれば気づかれないまま車に轢かれてしまうことだってある。私だって、誰かがあげた手を、正しく視認できるか自信が無い。気がつけば、悲愴な表情を浮かべながら手をあげていた大人が、心の手をあげていた大人が、虚無へと続く朝のホームへと落下していく。それを轢く電車の車掌は、視認できる筈も無いまま死人を作る。

ちょうど、公園を一周したところで一匹の猫にあった。茶トラの猫だった。落ちた枯れ葉と同化するように、茶トラはぼんやりと景色を眺めていた。

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猫は、とかく、かわいい猫は、革命家である。革命家の言葉や姿は、それを聴いた人々の心を打ち、人々は思い思いに言葉で革命を語り始める。たった一言だけでも、ほんの些細な佇まいでも、革命家は人を熱狂させる。

ここに、一匹の革命家がいて、私に言葉をくれたのである。

「君の歩むその道には、多くの木がそびえたつ。君はその木を時に切り落としたり、ときにぶつかったり、ときに避けながら歩いていく。たまに、木に登って景色を見たくなったり、或いは木とともに生きることもあるだろう。君は既に木を持っているのだ。君は木持ちなのだ。君の心の木は枯れているのかい。君の心に葉は実っていないのかい。見てごらん、ここには枯れた木も実る木もある。そして落ちた葉が景色に彩りを与えている。

無駄なものなんて、一つも無いのだよ」

じっくりと、私は革命家の背を眺めながら物思いに耽った。

公園を一周している間に、様々なことを思い出した。昔の思い出を敢えて語ることはしないが、どこかで、「大人になった」ということが心に染みてきたのだった。

公園には子供専用のアスレチックがあった。私はもうそこで遊ぶことはできない。私の身体には小さすぎるのだ。止まることの無い成長が時折、憎ましく思えることさえある。成長すればするほど実る葉は増えるが、それに伴って養わなければならない栄養も増えていくのである。今、私は正しく栄養を取れているのだろうかと不安になる。

「枯れ木に花を咲かせましょう」

そう言ったのは、花咲か爺さんである。なぜか爺さんである。そこに作者の悲哀がある気がして、僕は好きである。

では、一体、木に花を咲かせるにはどうしたら良いか。

たくさん方法はあるだろう。

きっと、笑顔だ。と私は思ったのである。

笑顔になれる場所で、満開に咲く花を私は見たいと思った。

それはとても素敵なことだろうと思ったのである。

 

 笑顔の咲く場所

一人の噺家さんをお招きして、とある会場で落語を楽しむ。今日はそのお手伝いをさせて頂いた。

色んなことが初めてだったけれど、とても貴重な体験をすることができた。

ずっと、別世界の人だと思っていた人が、すぐ目の前で静かに、高座を眺めながら、語られる物語のために言葉を放っている。噺家さんの中には、何百という物語が通った跡があって、今宵、その跡をどんな物語が通っていき、その歩く様を見ることができるのだろうかと胸を高鳴らせた。

高座が出来上がって、客席が生まれて、ああ、ここで今夜、大勢のお客様が、一人の噺家さんの物語を楽しむのだと思うと、なんだか心に様々なことが染みてきた。

素敵な花瓶に差した花が美しいように、素敵な高座に座して語られる噺家さんは何よりも美しい。ここだけの、特別な時間が流れていて、それがたまらなく心地よいのだ。

なんて素晴らしいんだろうと思うと同時に、素敵な高座を作り上げることは並大抵のことではない。予期せぬアクシデントや、言葉にはならない不満が生まれることだってあるのだ。大人になればなるほど、それは語られないままに流されて、いつしか潰えてしまいがちである。どんなことも、最初から完璧ということは無いのだということを知る。だからこそ、演者と客席が双方に、限りなく完璧に近い高座と関係でいること。もちろん、その『完璧』は人それぞれであるから難しいのだけれど、それを追い求めて、誰もが楽しめる環境を作ることが出来たら、こんなに幸せなことはない。

高座を作り上げることは技術的な話ではある。一番大切なのは『気持ち』だと思う。どんな高座でありたいか、どんな会でありたいか。目には見えないからこそ、言葉で意思疎通をはかって、目の前に具現化する。これって、物凄く難しいことなんだけれど、やっぱり『気持ち』ってとても重要だと思う。

落語は、とかく素敵な落語は、『笑顔のため』であることがとても重要な気がする。そのほかの『利益』だとか『集客』だとか、そういう所為『金儲け』の道具ではないと思う。たまに、Twitterなどでせっかく予定を入れていたのに、急にキャンセルされた噺家さんのツイートを目にすると、「なんて心無い行為をする人がいるんだ!!!」と憤慨する。もちろん、集客や利益が重要なことも分かる。でも、落語はそういうものではないと思う。そういうことを抜きにして、誰もが『笑顔のため』に生きることが、一番なんじゃないかと、私は思います。

初めてスタッフをさせて頂いて、それを強く思った。誰一人として悲しむことの無いような寄席は、多分30~40くらいが限界なんじゃないかと思う。むしろ、私はそのくらいが一番ベストである気がするのだ。

色んな人が、『笑顔のために生きている』。

終演後、会場を後にするお客様一人一人の笑顔が、とても素敵だった。普段、客席にいると味わえない感動だった。上手く言葉には出来ないのだけれど、嬉しくて嬉しくて堪らない一夜になった。

 

古今亭文菊師匠の絶品の三席。『子ほめ』、『紙入れ』、『夢金』。高座に上がる前のお姿から何から何まで、とても貴重な光景を見ることができた。

そして、今回、このような機会を頂いた主催の方々にお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。

今まで、客席で見ている立場から、180°、また一つ落語の楽しみ方を知ることの出来た素晴らしい一夜でした。

今日も明日も、私だけではなく、誰かの『笑顔のために生きる』。そんなことを思う、素敵な一夜だった。