落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

軽さと鋭さの風を吹かせて~2020年2月11日 浅草演芸ホール 春風亭朝枝~

君の行く道は

果てしなく遠い

だのになぜ

君は行くのか

そんなにしてまで

ザ・ブロード・サイド・フォー『若者たち』 

 ポイント・オブ・ノー・リターン

一廉の人物になろうと決意し、奮い立った心に突き動かされて数十年。歳を重ねる毎に達成できた目標と出来なかった目標とが増え、次こそはと改めること数度、未だ一廉の人物どころか凡才愚才を突き通しながら今日に至る。

社会に出ると、よほどのことが無い限り『昇進』することは無い。小心者故に出世できぬと諦めて、幾度となく傷心しながらも生きている私にとっては、昇進なぞという言葉は夢のまた夢であって、とんと縁の無いものであるように思える。

幾歳月が過ぎて、気がつけば何者にもなれぬまま、希望と夢と理想が膨らみ、現実との差異が徐々に大きくなって押し潰されて行く人間が、果たしてこの世界にどれだけいるというのか。自らを誤魔化し誤魔化し生き永らえて、口から出る言葉と言えば不平不満、人を見れば疑いの眼差しを向け、聞く耳も、物を見る眼さえも失い、やがて老いた肉体を見ても素直に受け入れることが出来ぬまま、いつまでも成長することの無い魂の年齢に囚われて生きる屍になりたくはない。

今のままで良いのだろうかという思いが、私の頭をもたげるのである。常に自問自答するのである。「これでいいのか、私は」と、問えば問うほど深みに落ちて行く。やがて「これでいいのだ」という言葉に辛うじて引き上げられ、するすると深みに落ちた心を光の当たる場所へと引き戻すのであるが、隙さえあれば「いや、このままでは駄目だ」という考えがやってきて、てんとう虫が這っている棒を上下逆さにされたかのように、途方の無い心の落下と上昇を繰り返す。

それが、二月という時節の持つ嫌な魔力である。

一度、この魔力にやられてしまうと、どうにも物事が上手く行かぬような気がしてくる。自らの取り柄に対する自信も、自分自身の存在も、また、周りとの接し方も、全てが疑わしくなってくるから不思議である。殊更に声をあげることでは無いのだが、自分の力を疑ってしまうのである。

今後自分がどうしていけば良いのかということを一年365日のうちで最も悩むのが2月である。2月の私が一番様々なことに対して思い詰めている。だから、2月の私の面も心も酷いもので、鏡なぞを見たり、昔の日記なぞを読み返していると、あまりの酷さに吐き気がしてくるくらいである。去年の2月の記事を見ても、どうにも思い悩んでいる節があって良くない。

恐らくは、1月という新年を祝う雰囲気からの流れで、2月に様々な祝いの雰囲気が街中に充満しているからであろうと思う。誰それが転勤であるとか、誰それが昇進であるとか、節分、バレンタインデーなど、傷つきたくも無いのに心が傷ついてしまう行事が余りにも多く、その祝い事の真っ只中にいる人々を見ていると、途端に全身を小さな羽虫が駆け回っていくかのような嫌悪感に苛まれ、どうにも苦手で心が穏やかでは無くなってくる。

というのも、相手を祝っている場合ではなく、まずは自らが正しく成長せねばならないという思いが第一にやってくるからである。単純に心の余裕が無いのである。器が小さいのである。1年365日で最も心に余裕が無いのが2月なのである。

だから、演芸を見ても、誰かが大勢に祝われている会には参加したくない。ひっそりと、自分だけの楽しみとして、誰かを祝いたい。世間が大注目のお祝い行事より、極わずかな人々だけが集まったお祝い事の方が、私は好きなのである。

どちらも祝うということでは同じであるのだが、どうにも私の心持ちとして異なる。大勢の人々が熱中しているものは避ける傾向が元々あるから、そういう性根によるものである。1000人が1人を祝う会と、10人が1人を祝う会だったら、私は絶対に後者に行く人間である。それがなぜなのかは上手く説明できない。

前置きが長くなったし、どことなく暗い出だしではあるのだが、やはり誰かが昇進をして、それを祝っている雰囲気というのは素晴らしい。ささやかであればささやかであるほど、それは特別なものなのではないかと私は思うのである。祝い事に関しては、祝う相手に対して祝う相手が少なければ少ないほど良いという気がする。

くどいようだが、1000人が1人を祝う会よりも、10人が1人を祝う会の方を私は好む。

 

春風亭朝枝 真田小僧

最初から抜群に落語が上手いことは誰にも周知の事実であり、その風貌からは想像できないほど愛嬌のある表情と、落ち着いた声とリズムが魅力的な朝枝さん。前座名を朝七と名乗っていた頃から、落語好きであれば一目も二目も置かれていた存在であることは間違いないだろう。失礼ながら私も『https://engeidaisuki.hatenablog.com/entry/2018/08/22/235537

記事に書かせて頂き、大変多くの方にお読み頂いた。

今日も改めて思ったのだが、実に『軽い』のである。ベタベタッとしたいやらしさが無く、軽やかですらっとしていて、爽やかで快い。

実に不思議なことなのだが、私は『立川左談次』師匠を思い出した。左談次師匠の持つ独特の軽さの中に、朝枝さん独自の端正でシュッとした鋭さがあって、その『軽さ』が何とも言えず素晴らしいのである。

かつて『マフィア派』などと書いて、「後ろから首をスパッとナイフで切られる」というようなことも書き記したのだが、気がつけば心をさらりと切られているような、鎌鼬的とでも呼べば良いのか、『軽さの整い』が実に見事なのである。

間違いなく将来が有望であり、落語通にも初心者にも受け入れられる力量があり、何よりも表情と声とリズムが程よいバランスで確立されている。『非の打ち所がない』と言えば褒め過ぎかも知れないが、それほどに流暢で底の見えない魅力を秘めている。

今回は袖の様子も眺めることができ、スーツ姿もバシッと決まっていて様子が良く、また高座を終えた後の表情も何とも言えず様子が良かった。どう言い表して良いか分からぬのだが、一つの節目を終えて、また一つ長い歳月をかけて迎える節目へと向かうことに些かの曇りもなく、ただひたすらに自己を見つめて芸を磨くかのような意志を、私は朝枝さんの高座から感じた。

『軽い』ということが、実に見事な良さを持っている。例えば、胸に靄を抱えている人間であったり、霞がかった思いを抱いている人間が、朝枝さんの落語を聞くとスッと胸を梳くような、そんな快さを味わうのではないだろうか。落語の世界における『軽さ』と、今後さらに突き詰めていくのではないかと思えるような『鋭さ』を既に持っているのが朝枝さんであるような気がするのだ。

そして、この後に文菊師匠が高座に上がるのだが、袖から現れた時の笑顔が何とも言えず美しかった。というか、朝枝さんからの文菊師匠というのは、クールミントな流れであって、濃い料理を食べた後に、洗面所などに置かれたマウスウォッシュで口を爽やかにするような、そんな爽快感がある。いずれは、寄席においても『爽快ゾーン』として、朝枝さんからの文菊師匠の並びが生まれて行くかも知れない。無論、文菊師匠は文菊師匠で、深みや奥行きを突き詰めた『軽さ』を持っている人で、その『軽さ』は水のような清らかな流れを持っているように思うから、朝枝さんの立ち位置は絶妙な位置を突いている気がする。

私が言うまでも無いが、春風亭朝枝さんの前途は明るい。もちろん、それは朝枝さん自身が今後も絶え間なく落語の世界で芸を磨くことを前提としてである。私を含め多くの落語ファンはきっと同じ思いであるに違いない。春風亭朝枝さんが真打になり、やがては大名人と呼ばれ、鈴本でトリを取っている光景が来るであろうことを。そして、その日まで芸を磨き続けるであろうことを。

今日、私は軽さと鋭さを持った未来の大名人の、大いなる一歩、その一席を目の当たりにしたのだった。