古今亭文菊a.k.a自由が丘の貴公子~2020年2月29日 自由が丘PLUS南口店 独演会~
身分相応と、
身分不相応という言葉を知ると、
人として一気に上に行ける。
身分
自らの地位や資格は、自分では決めることができない。ある集団や組織の中に属していると、否が応でも身分というものをわきまえなければならず、それには耐えられるものと耐えられないものがあって困る。
桜が薔薇になれないように、また、薔薇が桜になれないように、人には生まれながらに身分や役割というものが与えられているのだろうか。
自由が丘という駅に降り立ったとき、僕が考えたのは大体そんな感じのことだった。
みすぼらしい身なりではないけれど、東京に来るまで上下ジャージで日々の生活を過ごし、世間の流行の影響を一切受けないド田舎に生まれ、町で一番有名な建物がイオンモールであったド田舎育ちの僕からすれば、自由が丘に住んでいる人たちというのは、人生の出だしから恵まれている。最初からスタバも駅も高島屋もISETANも近場にあるのは羨ましすぎる。
悔しいのだが『お洒落なお店』としか表現することの出来ないお店が建ち並び、ベンチに腰掛ける人々の足の長さや面構えのシュッとした精悍さ、スカートの両脇を僅かにあげて礼をする上品な小学生。ドラマでしか見たことが無かったようなハイソサエティを目のあたりにし、僕は自分がものすごく場違いな存在なのではないかと思い始めた。薔薇園に撒かれたハルジオンかと思った。
だが、僕は今、この場に立っているのだった。
スタバでコーヒーも飲めるし、タピオカジュースだって飲もうと思えば飲める。買おうと思えば洒落た服も買えるし、食べようと思えば美味しいチェリーパイだって食べれる。けれど、心がそれを望まない。それらを心が求めない。
言ってしまえば、それが『身分相応』ということなのだろうと思う。
目の前にタピオカの有名な店があり、そこに行列ができていたとしても、僕はそれを欲しない。そういう欲がない。逆に、もしも僕がその行列に並んだとしたら、それはとてつもなく『身分不相応』なことのように思うのだ。「え、この俺が、タピオカ店に並ぶのか!?」と、自分で自分が信じられなくなる。だから、僕は一度もタピオカ店にならんだことがない。
また、上下ジャージも同じである。そのファッションこそが至高であると思える環境にいるときは、『身分相応』であると思える。だが、さすがに東京にきて、まして渋谷で上下ジャージは幾らなんでも『身分不相応』である。
書いていて、よくわからなくなってきたので、文菊師匠の会の感想を。
お洒落なカフェに集まった大勢の方々の拍手に迎えられて登場した文菊師匠。非常にリラックスされていて、ゆったりとしているような語りの印象。地元話に花が咲いたのだが、ド田舎の僕にはまるでわからない。先に書いたように、僕はどこか場違い感を抱いたのだが、落語の世界に入ってしまえば特に問題はない。
人の生き方には様々あるが、自由が丘に生まれ、自由が丘で育ったと言われれば、それだけで「凄い!」と思ってしまうのが不思議である。未だに『白金』だとか、『銀座』とか聞くと、「おおー、お金持ち!」と反応してしまうのだから、つくづく貧乏人は出世しないな、と自分に対して思う。
肩の力の抜けた、ゆったりとした間で語られた『長屋の花見』。往復ビンタのような激しいテンポではなく、やんわり、ふんわりと頬をさすられるかのような語りが印象的だった。
どことなくどんちゃん騒ぎ感はなく、ゆっくりとした時間の流れの中にあって、少しばかりの工夫で、花見を楽しもうという粋な考えが物語全体に流れている。文菊師匠の穏やかな声色と、確かめるような心地よい間にうっとり。
花見と言えば、もっと賑やかでわちゃわちゃするように思えるかもしれないが、文菊師匠の語りには、満開の桜の中で、人と人との小さな幸せが染みだしてくるような、そんなやわらかい語りだった。ひょっとすると初めて聞いたかもしれない。文菊師匠の持つ品のある語りと、表情がとても素敵である。特に大きなことは起きずとも、細部に流れる人と人との心意気が、じんわりと素敵な一席だった。
古今亭文菊 火焔太鼓
古今亭のお家芸と言えば、この一席であろう。『長屋の花見』の影響を受けてか、力まず、穏やかで、描き方を考えながら筆を走らせているような語り。自分の中で一つ一つの描写を、確かめて、はっきりと見ながら語っている感じがした。特に、すすけた火焔太鼓の描写が細かくて、女将さんの色気も抑えられていて、かつ、火焔太鼓を買ってきた旦那の間抜けさもデフォルメし過ぎない感じで、しみじみとした登場人物の描き方が妙に印象に残った。
何度か文菊師匠で火焔太鼓を聞いたことがある。人物描写の濃さが目立つ場面も幾つかあったが、どことなく、細部に気を配っている感じがあって面白かった。
『試している』と書くと語弊があるかも知れないが、古今亭の代名詞のような『火焔太鼓』を、文菊師匠自身も、どこに力点を置くべきか試行錯誤しているのではないかと思った。今回、僕が思ったのは、火焔太鼓の描写と女将さんの人物描写に対して、文菊師匠は自分なりのバランスというか、自分の任にあった表現に合わせに来ているような感覚があった。って、こんなマニアックな話をしてもどうしようもないのだけれども(笑)(あくまでも個人の感想です)
しみじみと、自由が丘という場所に生まれた文菊師匠なりの、身分相応な落語を体験したように思った二席だった。
懇親会
例の如く、懇親会では落語友達の方々とお話をしながら、美味しい料理を頂いた。
せっかくなので、下にアップする。
非常にヘルシーなお料理で、文菊師匠の落語を聞いた後だと、よりさっぱりするかもしれない。でも、飲兵衛の私にとっては、まだまだ飲み足りなかった(笑)
先週に引き続き、文菊師匠ともお話しできて良かった。
しみじみと素敵な時間を過ごすことができた。