落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

After-Vision

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想像は容易く別世界へと我々を誘ってくれる。

だが、想像できない者はどうであろうか。

この世に想像できない者などいるのだろうか。

想像する力は誰にでもあるが、その力を

十分に発揮できない者と、

間違った方向に発揮する者とがいるようであるが、

詰まる所、想像とは、想像した者だけが

想像した方向に進むことができるという

不思議な道しるべであるのかも知れない。

想像を終えるとき、我々は元の位置には戻らず、

どうやら、別の位置に座標を置くようである。

MORINO TELL HER

何を書こうか悩む。Timo Lassyのアルバム『Big Brass』を聞きながら、私は何を書こうか悩んでいる。

思うがままに、書くことにする。

たとえば、一枚の絵がある。

普段は誰も見向きしないような平凡な絵。それは、男女が互いに喧嘩している絵で、見る者の心の状態が悪ければ--或いは絶好調であれば--その絵は視界に入っただけで足を止めてしまうような力がある。

その絵は、美術館やレストランに飾られるほどのものではなく、至って普通の駅の壁などに掛けられていて、大勢の人が行き交う場所に掛かっているにも関わらず、誰一人として足を止めてじっくりと眺めることの無い絵である。すなわち、心の状態が悪い者も、絶好調である者も通らない場所に絵は掛かっている。

この絵の作者が誰かということに意味は無い。絵は作者の手を離れた途端に、作者の存在を消してしまう。言い換えれば、作者そのものが絵を完成させたことによって消えたのである。

そんな絵が、ある日、突然消えた。

壁に掛かっていた絵が消えた日。そこを通る誰の心にも一つの言葉が浮かんだ。

『男女が喧嘩している絵は、一体どこに消えたのだろう?』

絵の掛かっていた場所を通り、それぞれの場所へと移動する間、誰もが消えた絵について考えを巡らせる。誰かが絵に文句を言って撤去されてしまったのだろうか、誰かが盗んだのだろうか、誰かが買ったのだろうか、誰もが絵について考え始める。

やがて、何度も絵の掛かっていた場所を通る度に、そこに絵があったことを知る人々は思い始める。

『もう一度、あの絵が見たい』

すると、ネット上で一つの発言が生まれる。

『〇〇駅の壁に掛かっていた、男女が喧嘩している絵を知っている人はいませんか。もし画像があったら、教えてほしいです』

おそらくは、その駅を通っていたであろう人々が言葉を寄せる。

「私も見たいです」

「あの絵、どこ行っちゃったんでしょうね」

「誰かに買われたんですかね?」

「私も気になってました!写真撮っておけばよかったー」

「作者、今頃泣いてんじゃね?」

「素敵な絵でしたよね」

「〇〇駅にあったやつですよね!」

結局、何一つ有益な情報がもたらされないまま、時が過ぎていく。

次第に、『男女が喧嘩している絵』は忘れ去られる。

忘れ去られたころに、小さな街の美術館にその絵は現れる。

今度は、きちんと題名と作者が記されている。

『After-Vision by MORINO』

絵を初めて見る者は、大したことの無い絵であると思いながらも、美術館に飾られているのだから、相応の価値があるのだろうと納得する。同時に、MORINOという作者がなぜ絵を描いたのかと興味を持つ者も生まれる。

壁に掛けられていた頃の絵を知っている者は、驚きとともに絵を眺める。発見し、喜びのあまりネット上で発言する。

「幻の絵、発見!」

「〇〇駅にあった絵が美術館に展示されてました!」

「作者はMORINO、絵の名前はAfter-Vision!」

「大したことの無い絵だけど、なんか見ちゃうな」

「男女が喧嘩してる絵だ!懐かしいなぁ」

「作者の名前、初めてみたわ」

「何が凄いの?」

様々に意見が寄せられ、絵はある一定の評価を得る。

やがて、誰かの所有物となる。

ひっそりとした、小さな家の壁に、『男女が喧嘩している絵』が飾られている。

その絵をじっと見ながら、老夫婦は手を繋ぐ。

紳士が、

「この絵の男女は、僕たちかもしれないね」

すると、婦人、

「そうね。たくさん、喧嘩したものね」

「喧嘩する度に、いつも仲直りすることができたのは、どうしてだと思う?」

婦人は、紳士の目を見ながら

「それは私が、あなたを愛していたからよ」

紳士は首を横に振って、

「それは違うよ」

婦人は少し怒った様子の表情を浮かべ、

「じゃあ、一体何かしら?」

紳士はにやりと笑って、

「僕が君を愛していたからさ」

小さな窓の向こうでは、土砂降りの雨。

明日になれば、晴れるという天気予報を

老夫婦は今朝のニュースで知った。

 

想像を終えて、窓の外を見ると、曇り空である。ぼんやりとジャズを聴きながら、想像の世界に耽る。

家にいるときは家にいるときで、積んでいた本を読んだり、溜めていた音楽を聞いたり、こうして文章を書いてリラックスするということができる。本来ならば、寄席に行って笑ったり、最近気になっているお笑いライブにいって、好きな芸人のネタを見たいのだが、時節柄というか、厚化粧の横文字女が五月蠅いので、仕方なくというか、こうして自宅で過ごしているのである。さすがに、ライブなり寄席がやっていないとなると、家を出る動機が無くなる。ただでさえ狭い部屋であるから(そうは言っても一人暮らしには十分すぎる広さであるが)、一人で過ごすにはかなり時間を持て余す。

気晴らしに筋力トレーニングをしてみるのだが、非力ゆえ長くは続かず、すぐに力尽きてベッドに寝転がり、ぼんやりとしている。幸い、キイランドの短編集がこれ以上無いほど面白く、こんなに素晴らしい作家の文庫本がなぜ世に出回っていないのか、と憤りを覚えるほどであるが、こうしたマイナ(一時はメジャであったかもしれないが)な作家の作品に触れることが、私の唯一の楽しみである。

人に関してもそうである。どちらかと言えば、人気のある人より人気の無い人の方を好む。人気の無い人の方になぜ心惹かれるのかというと、自分でも上手く説明できない。おそらくは、自分の心のどこかに、人気の無い人と共通する何かがあるからだろうと思うのだが、それが何かは全く分からない。

考えてみれば、一人でパソコンの前に向かって文章を書くというのは、普通の人というか、文字を書く習慣の無い人にとっては困難なことであるのかも知れない。私は自分基準で世間を見ているから、時々、「え、こんなことにも苦痛を感じるんだ・・・」と驚くことがある。特に、コロナの影響でスーパーの食品が軒並み売り切れになっているのを見ると、思うところはあるのだが、それをネットにあげたところで何の解決にもならないから書かない。結局、自分はどう行動すべきかということは、自分で決めるしかないし、誰にも制限されない。

キイランドの短編に『希望は四月緑の衣を着て』というタイトルの作品がある。日本語訳を担当した前田晃先生の訳文のセンスが大変に素晴らしく、痺れるほどの名文が随所にある。文章自体はさすがに昭和一桁の作品だけあって、今では殆ど使わない漢字『缺點』などがあるが、そういう漢字を一つ一つ調べて、「なるほど!」と思う瞬間が楽しい。幼い頃、私は辞書を齧りついて読むような人間であった。さすがに古舘伊知郎のように辞書の内容を丸暗記するほどでは無かったが、そういうことが小さい頃から続いていて、それが今に活きているのではないかと思う。(まぁ、誤字脱字はあるし、曲解されることもあるけれども)

もうすぐ、キイランドが『希望は四月』と書いたような四月が来る。歳を重ねる度に、何か新しいことに挑戦しようと決めており、今年も新たに始めたことが幾つかある。それはここに記すことではないので、記すことはない。

記せることと言えば、お笑いライブの感想を書きたいと思ったことくらいである。

今までは、落語・講談・浪曲のような、日本の古典芸能をメインに約2年ほど書いてきた。5月から3年目に突入するが、今後はお笑いライブにも注力していこうと考えている。それは、2020年3月22日に新宿バティオスで行われた『グレイモヤ』というライブの影響が大きい。

とにかく衝撃だった。特にサスペンダーズのペイチャンネルネタと、銀兵衛のイチゴショートケーキの力説ネタが最高だった。どれほど素晴らしいかということを表現するには、まだまだ私はお笑いライブを見ていないから、何とも言うことができない。

とにかく、熱量が半端では無かった。勢いと言うか、全身全霊というか、熱いものがあって、それが堪らなく面白かったのである。

コロナの影響もあって、しばらくはブログの記事も減るであろうが、一つ一つの会を大切に記憶に留めておきたい。

せっかくなので、過去記事を読み返して、それまで見た演芸を思い返すのも一興である。私は、自分の思いを記録することによって、いつでもその当時の思いにアクセスしたいと常々考えている。それを読者と共有することができたら、この上無い幸せである。

『自分の見た演芸に対する、自分の思いを整理する』

それも、私がブログを書く一つの理由であろう。

演芸は見れなくとも、私の記録の中には様々なAfter-Visionがある。

残像を、言葉で思い返すことのできる幸福を味わいながら、

この記事を終わることにしよう。