落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

令和狐狼拿流行記~2020年4月5日~

 

 疫毒預防

自分はコロナで死なないと思っている人間ほど、コロナを恐れている人間にとって怖い存在はなかろうに、それでもまだ外を歩きながら平然としている人の多いこと。

日本人の能天気さが海外にどう映っているかは別として、私も私なりに考えることがあって、こうして文章を書くことにした。これから書くことは、あくまでも私個人の意見であり、誰かに対して強制したり、注意喚起するものでなく、私自身の考えの整理として記すものである。

結論から言えば、外出はするな、と私は考えている。

しない方がいいとか、極力避けた方がいいという話ではなく、とにかく誰とも会わない。これ以外に感染経路を絶つ手段は無い。

日々のニュースを見ているうちに、そう思うようになった。

免疫力があれば、新型コロナウイルスに罹患しても回復するであろうことは分かるのだが、果たして自分自身にその免疫力があるのかということまでは分からない。また、免疫力のある人間が免疫力の無い人間に接触することによって、命を奪ってしまう可能性も無いとは言い切れないのだ。

人の心の情として、誰かに会って話をしたいという気持ちは十分に理解できる。私もつい最近まで、これも遅すぎるとは思うのだが、そういう考えの元に行動していた。だが、それは一方から見れば、無神経であり、無謀であり、誰かを殺めてしまう可能性のある行動であるのだ。そう考えると、安易に行動してしまうことの怖ろしさに足が止まる。

具体的な数は分からないが、この状況下で『自分だけは大丈夫だ』と思うのは危険な思想であると判断せざるを得なくなった。

ニューヨークの死体袋の映像(https://www.youtube.com/watch?v=GQi_N3EYwRQ)、吉の丞さんのお姉さんのYoutube動画(https://www.youtube.com/watch?v=kRr_j2dq4lE

上記の動画を見ると、いかに日本が平和ボケしているかということが如実に分かり、これはいよいよ、自己防衛しなければならないという考えに至った。(遅きに失した感は十分にある)

 

コロナに対して日本の対応が遅れたことは、想像であるがオリンピックの影響が大きいと考えている。何年も前から準備し続けていた世界的な行事を、ギリギリまで延期決定できなかったことが、今の現状に影響を及ぼしているのではないかと考える。というのも、オリンピックの延期が決定してから、ようやく政府や都が動き始めた印象が強いからである。それまでは何も言わず、遠い国の火事だと思われていたものを、すでに足元を焦がすほどに近づいていることに気づかぬままに、日本はようやく動き始めたのである。

無精の小噺がある。無精の親子が、その無精さ加減によって、家が燃えてもめんどうくさがり、やがて閻魔大王の前で「生まれ変わるなら何になりたい」と問われ、「鼻だけが白い黒猫になりたい」と言う。その理由を問われて男は「暗闇の中で、鼠が米粒と間違えてやってくるだろうから、それを取っ捕まえて食う」と言うのである。

それほどの無精が、今の日本の状況であるように思えるのだ。果たして、コロナで亡くなったとき、人は閻魔大王の前で何と言うのだろうか。

 

『疫病は公衆衛生の母である』と言われており、疫病によって人々の衛生観念が高まっていることが感じられる。それでも、まだ命の危機を感じるほど深刻には捉えられていない節があって、それは政府がそうだから何とも言い難い部分である。

私は政府の対応は遅すぎたと思っている。統計を取ったわけではないから何とも言えないが、あまりにも遅すぎている。それは、今の都内の感染者数の増加を考えれば明らかなことであるし、何より、海外の状況を見ているのだろうかと疑ってしまうほどに、国民に対する強制的な発言が無い。本来ならば「一切の外出を禁ずる」と一言言えば済む話である。「交通機関は完全に停止とし、外出したものには罰を与える」くらいまで言わなければ、国民は動きを止めない。なぜなら、外出することの怖さを真に感じないからである。極論を言えば、『外出した者は死刑』とまで言ってしまわなければ、人はどんなに疫病が蔓延しようとも外出するであろうと考えている。

政府の強制力が効果を発揮していない現状があると私は感じている。武漢での発症から、今日に至るまでの間で、どれだけの感染者と死者が出ているのか、政府、そして国のトップにいる人間の対応の遅さによって、国民が殺される現実が目の前にある気がしてならない。

刻一刻と緊張感は増している。だが、そのスピードはまだ遅い。日本は海外に比べれば兎と亀くらいの差である。眠らない兎が今も走り続けているのに、亀は自らの速度を上げることができないまま、走っては止まってを繰り返している。

 

しかしながら、そうは言っても問題は幾つもある。

自己防衛として、あらゆるものを振り切って外出をしなかったとして、では、その後はどうやって生きればよいのか、という点である。

今、誰もが外出をしなければ良いことは分かっている(と、私は信じたい)。それでも、外出をしなければ生きていけなくなるという不安が、国民全体には流れているように思う。

それは、国が何も保証してくれないという現状があるからである。

動きを止めたら、動きを止めた期間を誰が保証してくれるのか。

今、多くの国民はこの部分に困っているのではないだろうか。

「コロナが猛威を振るっているのは怖いけれど、会社は出社しなきゃいけないし、政府は自粛要請しかしないし、働かないと給料は貰えないし、外出しなきゃ食料は買えない」

概ね、上記のような考えが多いように私は感じている。そして、未だに『案』はあれど、『施行』されたものは何も無い。また、『施行』されたとしても非常に限定的で、国民すべての不安を解消するほどの『案』ではないということに、誰もが気づいている。

 

ここから先の未来は、どう考えても自己防衛をしていくしか無いのかも知れない。極論を言ってしまえば、『死ぬまで耐えろ』としか今の状況は言っていないように思う。

そんな状況下にあって、真っ先に打撃を受けているのは読者もご存知のように、会社に属さずに生活するフリーランスの人々である。会社であれば、雇用が守られ、ある一定の給料は毎月貰えるが、フリーランスはそうは行かない。個人事業主にとって、他者との関係性が絶たれることは、収入激減に繋がらざるを得ない。

バーや居酒屋などの飲食業界から、接客業は大打撃である。また、スポーツ界も大打撃であることは、具体的な数字を見なくとも想像に容易い。そうした業界に携わっている人の話を聞けば、コロナ以降と以前で大幅に収入減となっていることが分かる。

また、この状況がいつまで続くか分からないというのが、国民にとって大きな不安になっていることは間違いないであろうし、働く者にとっては重大な関心事になっている。誰もが終息することを願いながらも、いつまでその息が生活を苦しめるのか。『長期戦』という言葉が発されたが、果たしていつ終わるのか。『明けない夜は無い』と言うが、いつまで明けない夜が続くというのか。夜が明けるまでに、どれだけの人間が生きられるのかということに目を向けなければ、最悪、夜が明ける頃には人類は大量の犠牲者を出しているかも知れず、滅んでいるかもしれないのである。もしくは、誰も夜明けを知らぬままに、世界が終わるかもしれないのである。

 

物事を過剰に考えるな、と、この状況下で私は言うことができない。どこまでも考えること、過剰に考えることが、むしろ自分の命、ひいては他者の命を守ることに繋がるのではないだろうか。こんなブログで私がどれだけ自分の考えを記そうと、考えない者は考えない。読まない者はここまで読まない。

それは分かっている。そして、私はそういう人間を変えようとは思わないし、否定する気も毛頭ない。間違っているとも言わない。

だが、私は考えているうちに、外出はしないという結論に至った。自分と相手のことを考えたときに、リスクが余りにも大きすぎる。また、4月以降は生の演芸も一切見ない。とにかく、事態が終息に向かうまでは、一切の鑑賞を絶つことにした。

それが、私の答えである。

非常に心苦しいが、それが、私の答えである。

何より、寄席の土日休館(これも、本来であれば全日休館が最良)、渋谷らくごの中止を見ていると、やはり世間全体の流れが、悲しくも、そういう方向に向かっていることは間違いないであろう。

では、森野はどう生きていくのか。と読者は不安に思うであろうか。

それについては、個人的なことであるため記さない。

私が現段階で思うのは、人と会わないこと、外出しないこと、である。

私は私以外の考えを批判する気も否定する気も無い。

なぜなら、答えはその人の中にしか無いからである。

この数日で、その考えに至った。

自らの過去の行動を振り返って、浅はかだったと思うことも幾つかある。

遅きに失した自分に後悔は無いが、反省する部分は幾つかあった。

そんな自分に対する思いも込めて、この記事を書いた次第である。

精神論を言うつもりは毛頭ない。現状を正しく見て、私なりにどう行動することが最善であるかを考えただけである。

読者がどう行動するか、それは読者自身に委ねられている。

今は、そう記すことしかできない。