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”こころ”の中で何度でも~2020年9月11日 渋谷らくご~

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閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

木村弓『いつも何度でも』

  

 いつも何度でも

 心躍る夢を見たい。そう歌ったのは木村弓さんである。

 心躍る落語が見たい。そう思ったのは僕であり、あなたである。

 遠い昔に感じていたことを、ふいに実感を伴って思い出す瞬間がある。

 例えば、亡き祖父の墓前に立ったとき。

 或いは、去っていった人々の写真を眺めたとき。

 或いは、若かりし頃に訪れた場所に、年月を経て再び訪れたとき。

 いつも何度でも、その瞬間に込み上げてる実感には熱がある。

 ふつふつと、胸を焦がすような熱がある。

 もう二度と会えないとしても、確かに故人が生きていたことを記憶している僕は、故人を思うとき、故人に会っている。

 同時に、故人に対して抱いていた感情を持つ僕自身に僕は会っている。

 どれだけの時が過ぎようとも、旧友に会えば懐かしさを感じるのは、旧友と過ごした楽しさを知っている自分に出会うからであろう。好きだった女の子に、時が経って会ったときも、その子のことが好きだった自分に会うことができる。人間は案外、記憶の中にいる自分を、忘れずに保有し続けている生き物なのだ。

 

 そんなことを考えながら、渋谷を約半年ぶりに歩いていた。

 

 相変わらず、様々な文化がごちゃ混ぜになったような場所で、人は疎らなれども、歩く若者たちの姿は個性に溢れている。

 首を痛めそうな姿勢でスマホを見る桃色の髪をした女性。どこの風景か分からない写真が胸元にプリントされたシャツを着る男性。へそを出して、今にも踊りだしそうなスタイルの良い女性。電話越しに怒鳴り散らす強面の男性。恐ろしいほど年齢がかけ離れた男女。怪しく煌めくラブホテル。シャッターの降りたライブハウス。しきりに『守りたい』をアピールするクラブ。汚れた道路に似つかわしくない甘い匂いを放つネオンランプの店。全員がマスク越しに目と目で会話をしている。時に麗しげに、時に誘うように、時に虚ろに、時に気だるそうに。

 一人、坂を上がったり下ったりしていると、見えてくる懐かしき場所、ユーロライブ。懐かしさとは、零れる涙を衣で覆うという意味があるそうで、再びこの場所にやってきたときは、少し感慨深かった。まさかまた、この場所に来るとは思わなかった。だが、今日、唐突に見たい、と思った。それが、一体何の理由があったかも分からない。僕は今日が渋谷らくごの初日であることを知らなかった。だが、たまたまtwitterで『古今亭文菊』の文字を見たとき、なんだか無性に行きたいという気持ちになった。その気持ちに、僕は素直に従おうと思った。

 古今亭文菊師匠に会うとき、僕は古今亭文菊師匠に出会うとともに、古今亭文菊師匠が好きな自分にも出会っている。そして、その自分は、自分の中で好きな自分に含まれる。誰かのことを好きになることは、誰かのことが好きな自分に出会うということでもある。まあ、そうやってまわりくどく書かずに、素直に文菊師匠が好きだと言ってしまえばそれまでなのだが、内容はもっと深い。僕は、文菊師匠の芸に触れて、まだ見ぬ僕に出会いたいのだ。或いは、文菊師匠の落語を見て、描きたいのだ、自分を。幸福な自分を。そして、文菊師匠の落語を聞くことで、僕は最高の自分に出会うことができる。最高の自分を描くことができる。

 好きな噺家が生きている。それだけで、僕も、そしてあなたも、最高ではないだろうか。

 かなしみの数を言い尽くすより、同じくちびるで そっと笑おう。

 

 古今亭志ん五 寄合酒

 

 さっぱりとした語り口で、日常を語り始める志ん五師匠。その語り口の軽やかさと、周りの人々の様子を観察する優しい視点が微笑ましい。ふわふわと、静かに染み込んでくる語りの世界が、ゆったりとした古典落語の世界へと誘ってくれる。

 特別派手なことは起こらず、ただただ緩やかに、穏やかに、江戸の時代を生きる人々の滑稽な様子を語る志ん五師匠。貧すれば鈍するという言葉はあるけれども、それぞれに個性的な人々が登場する。大勢の人物が登場しながらも、それぞれの姿が鮮やかに浮かんでくるのは、淡々とした語りの中にも、人間らしさを滲ませる志ん五師匠ならではの語りにあるのだろう。静かで、どこか貧しく、飢えていながらも、ぼんやりと生きている江戸の人々の楽しみに触れるとき、今を生きる自分がどれほど幸福な生活環境にいるのかということを思い知らされる。江戸の時代に比べれば、飲食店は増えて飯に困ることもなく、酒を飲もうと思えば24時間営業のコンビニがある。蛇口をひねれば水は出てくるし、洗濯は自動でやってくれる。暑ければハンディファンを顔に当てるだけで涼を感じられる。昔の人々は、風鈴の音だけでも涼を感じられていたのだから、人間はだいぶ、豊かになりすぎたように思う。貧すれば鈍するという言葉も、今や、富めば鈍すると言っても良いのではなかろうか。ちと言い過ぎの感もあるが、まあ、そこは妄言としてご容赦頂こう。

 不思議と、聞きなれた寄合酒も、久しぶりに聞くと何だか違って聞こえる。無意識の内に、僕自身が今の状況と照らし合わせてしまっているからかも知れない。悪疫の影響によって、様々な事柄が一変した。心は疲弊し、生き方は変わり、人々の顔はマスクで覆われ、検温やアルコール消毒など、衛生観念は明らかに強まった。どこか少し、不自由になったと言えば、不自由になった。今まではやらなかったことをやるようになると、なかなかうまくはいかないものだ。

 少し噺は逸れるのだが、僕自身はパソコンのキーボードを打つ指を変えた。今までは、何となく、無意識で好きな指でタイピングを続けていたのだが、左右の指それぞれに、打つキーボードの範囲を定めた。左手小指でA、右手人差指でU、右手中指でIなど。

 すると、最初のうちは慣れず、早く打つことができない。だが、しばらく慣らしていくうちに、今までよりはるかに早くタイピングすることができるようになった。どんなことでもそうだが、従来の方法から、さらに効率の良い方法へと移行するときには、戸惑いと不慣れさによる不自由さが付き纏う。だが、それもいずれ慣れる。今は、世の中の状況も、きっとそうなのだろうと思った。

 さて、話を寄合酒に戻そう。寄席では割と頻繁に聴いている話だったが、どこか貧しさが感じられた。それは、志ん五師匠がマクラで語られたことが関係していたのだろう。貧しさの中で、光を求めるように強く生きている人々の姿が浮かび上がってきた。

 そういえば、ザ・マミィというお笑いコンビの酒井さんは、アルコールジェルを手に乗せた直後に水を飲むという。それで、焼酎を飲んでいるのと同じ効果を得られるのだそうだ。これは凄いと思い、僕もアルコールプッシュした直後の手を鼻に持っていったのだが、あまりのアルコールの強さにむせてしまって、上手く水を飲むことができなかった。貧しさは決して馬鹿にできない。むしろ、想像力を掻き立ててくれる、素晴らしい状態なのだ。

 志ん五師匠のゆるやかな語りが光った、地味だけれどもたくましい一席だった。

 

 古今亭文菊 唐茄子屋政談

 志ん五師匠のときも、文菊師匠のときも、袖から高座へ上がるときに、本当に素敵な笑顔をされていた。僕にはまるで、「聞いてくれるお客様がいて、とても嬉しいなぁ」と言っているかのように見えた。それほどに今、僕自身も、そして噺家さん自身も、語ることの喜び、体験することの喜びを感じているのではないだろうか。これはきっと僕だけではないだろう。落語会に集まる誰もが、語ることに喜びを感じ、体験することに喜びを感じている。今まで以上に、僕にはそれがはっきりと感じられた。まるで、近くで新しい井戸が掘り起こされて、そこに村人たちがこぞって集まり、水を汲み上げて飲もうとしているような、そんな雰囲気がある。そして、それはだいぶ少人数であって、ゆったりとしていて、水がそれぞれに満遍なく行き渡る感じがある。客席には人が少ない方がいいと僕は思っている。少なければ少ないほどいい。と言っても、さすがに一人は厳しいのだが。

 文菊師匠が語り始めるだけで、僕は江戸の世界に入り込むことができる。久しぶりに見た文菊師匠は、古典の世界へと入り込む冒頭のリズムが、格段に凄まじくなっている気がする。これはあくまでも僕の感覚だが、話へと入り込むテンポ、序盤から観客を江戸の世界に引き込むリズムと間が、素晴らしく良い。確か、浅草演芸ホールでトリを取っていたとき、『猫の災難』を聞いた時も、その何とも言えない冒頭の『会話の間』が良かったことを僕は覚えている。三年近く文菊師匠を見ているが、去年あたりから明らかにギアが変わっている。40という節目を境に、文菊師匠の中で何かが大きく、物凄いスピードで成長し、膨張し、はち切れんばかりに凄くなっている。それを、上手く言い表すことはできないけれど、何かがやはり以前とは大きく異なっている。

 唐茄子屋政談のお話も、以前に聞いたことがある。それでも、渋谷らくごで、この日、久しぶりに聴いた唐茄子屋政談は、以前とは比べ物にならないほど凄まじかった。これほどまでに、大きく異なるのか、と驚いたほどである。

 冒頭に勘当される若旦那の様子。その語りのリズム、表情、言葉の強弱が驚愕の素晴らしさだった。何と言えば良いのか、楽曲のたった1小節で聴く者の心を掴んで引きずり込む感じと言えば良いのか。それほどに良い語りのリズム。そして、その後に登場するおじさんの様子。この『おじさん』の人物描写が、物凄く説得力を伴っているように感じられた。非常に細かいところだが、おじさんとおばさんのやりとりの台詞や、若旦那に厳しく当たりながらも、若旦那を思うおじさんの優しさが胸を締め付けられるほど良い。思わず涙が零れてくるほど良い。人情という二文字では到底言い表すことのできない心の温かみを、文菊師匠の語りは聞く者に与えてくれる。それは、きっと文菊師匠に透けて見える、そして確実に受け継がれている圓菊師匠の魂であり、芸であり、心意気によるものだろう。そして、そんな圓菊師匠の厳しさの中で、逃げることなく芸の道を進み続けた文菊師匠の、文菊師匠なりの圓菊師匠への思いなのではなかろうか。つくづく思うのだが、圓菊師匠が今の文菊師匠を見て何を語るのか興味が尽きない。きっと「まだまだだ」というだろう。そして、それこそが文菊師匠への何よりの賛辞であると僕は思う。

 唐茄子屋へと転身する若旦那とおじさんのやりとりにジーンときたあとで、若旦那が出会う良き人の姿もまた良い。名を名乗らず、見ず知らずの唐茄子屋のために唐茄子を売る男性のカッコ良さは粋で、人情味があって、これぞ江戸っ子という感じがして好きだ。同時に、どれだけ落ちぶれようとも、人に支えられて心を入れ替えていく若旦那の姿も良い。人は出会う人によって考えも、生き方も変わってくる。それが必ずしも美談になるかと言われれば、はっきりと断言することはできない。それでも、若旦那は様々な人々に支えられ、吉原で遊びに明け暮れていた日々から、唐茄子屋として立派に人の心を思う人物へと様変わりする。その心模様の美しき変化が、『唐茄子屋政談』というお話には詰まっている。弱きを助け、強きを挫く、若旦那の勇ましさには、おじさんの思いと、名乗らずに唐茄子を売ってくれた男の心意気が染み込んでいる。不器用でも、道を間違えようとも、道を踏み外そうとも、どれだけ失敗を積み重ねようとも、生きている限り、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。僕は強く、そう思う。たとえ、それは詭弁だと言われようとも、僕は信じる。

 立派になった若旦那の先行きをさらりと語って終わる『唐茄子屋政談』。文菊師匠が描き出す人々の人情が、今まで以上に分厚く、熱く、涙が出るほど力強かった。

 古今亭文菊師匠。あなたはどれだけの時が経とうとも、僕の中で進化し続ける素晴らしい噺家です。

 

 アフタートーク

 サンキュータツオさんが登場し、アフタートーク志ん五師匠のマクラの解説からお話への繋がりの妙。文菊師匠の人情味、おじさん、唐茄子を売ってくれる人のカッコ良さなど、まさしくその通りだ!と共感することしきり。

 ほくほくとした気持ちでユーロライブを出た。落語会が終わったら絶対に寿司を食べようと思っていたので、予定通り寿司を食べた。牡蠣が信じられないほど美味かった。

 

 こころの中で何度でも咲く

 好きな噺家さんに会う度に、その噺家さんを好きな自分を何度も思い出す。会う度に、そして、語りを聞くたびに、心の中で何度でも咲く花がある。朝顔ならぬ笑顔とでも呼ぼうか。朝顔は朝咲くというが、笑顔は好きな噺家さんに会うたびに、何度も咲く。笑顔の美しさは計り知れない。同時に、心の中でも笑顔は咲いている。ゆっくりと、ふんわりと咲く。蕾のままでいることは決してできない。なぜなら、自然と咲いてしまうからだ。噺家に限らず、好きな人に会うときは、誰でもそうではないだろうか。

 好きな人に会うために、化粧をしたり、身だしなみを整えたり、いつもより多めに財布にお札を入れたり、そうしたちょっとの変化が、美しい花を咲かせる養分になる。後は、好きな人に会えば、それは自然と咲いてくれる。ひょっとすると、枯れてしまうかも知れないが、おそらく、そんなことは殆どないだろう。

 だから、好きな人にはとにかく会った方がいい。好きな人には、会えるうちに会えるだけ会っておいた方がいい。気がつけば会えなかったなんていうのは、寂しすぎる。

 全てはあなた次第である。と、今年の2月。大雪の中でユーロライブを去るときに思った。その思いは今も変わらない。どれだけ世界が変わっても、最終的に決断するのは自分自身である。

 だからこそ、こころの中で何度でも決意をしよう。会いたいと思ったら会う。好きだったら好きだと言う。いつも何度でも、輝くものを、自分の中に見つけていこう。

 それでは、あなたが素敵な演芸に出会うことを祈って。

 また、いずれどこかでお会いしましょう。