落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

ご報告と抱負も兼ねて 落語の加減乗除~9月14日 17時回 渋谷らくご~

 9月より、渋谷らくごにて記事を書かせていただくこととなりました。

 森野照葉(もりの てるは)と申します。

 とある素敵な女性に何から何までご助言を頂き、執筆者として選ばれることとなりました。

 これまで支えてくださった、美人の皆様、野郎どもには感謝しても感謝しきれません。すべては私の実力と継続の結果であり、私に文才があり、私が持て余した才能の結果であり、私が誰よりも優れていたことの証左ですが(洒落です)、これに甘んじることなく、驕ることなく、より一層、落語を好きな方が増えることを望むとともに、落語好きな方に喜んで頂ける記事を書き続けていきたいとおもっております。

 10月には、とある噺家さんの懇親会に参加することが決まっており、恐らく、私がどういう人間かバレてしまうと思いますし、「ああ、あの人だったのか・・・」とがっかりされるかも知れませんが、読者の皆様にも、また、演芸に携わり、演芸の世界でご活躍されている皆様とも、少しずつですが接していけたらいいな、と思っております。ま、ネットに顔出しは絶対にしませんが。

 ご常連の中には、一体どうなっているのか分からないほど噺家の皆様と接点の多い方々もいらっしゃいます。そういう方々へのあこがれもあり、いつか自分もそうなりたいな、と思ってはいるのですが、根がシャイであり、なかなか人と接するのが難しい性格であるため、どうなるかはわかりません。

 ひとまず、お読みいただければと存じます。

 あなたのために、書きました。

  http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20190914-2/

 本当はあなたと語りたいことが多いのですが、話すとなるとこぼしてしまう思いが多くなってしまいそうなので、こうして文章を書いている次第です。

 酔うと、もうそれはそれは、舌が十枚あるんじゃないかというくらいに喋るのですけれどね。

 簡単ではございますが、これにて、失礼。

心臓の鼓動(5)~9月17日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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生きててよかったぁ。

  心音

 人には恋をしたときだけに鳴る心臓の音がある。それは一生のうち、何度鳴るかはわからない。悲しいかな、多くの男女はその音が鳴ったことに気づかないまま恋に落ちる。

 恋に落ちたあとで、互いの心音を近くに感じるとき、お互いがお互いのリズムを確かめ合うことの弾けるような快さと、温度を伴って押し寄せてくる波が肌を撫でる安堵感に、人は心臓の鼓動を高鳴らせる。だが、一度でも互いの心音がかけ離れてしまえば、指揮者を失った楽団の演奏のように、互いの心音はリズムを失い、不快と不安の波に飲み込まれ、やがて恋は音もなく消えていく。

 だからこそ、恋に落ちた男女が互いに求め合うのは必然のことであろう。互いに互いの心音がそばに無ければならないのだ。たとえ、それが世間にどう思われていようとも、互いの心音によって成り立つ幸福を知ってしまったら、心音のリズムを失うことなど人にはできない。

 渋谷の街は、男女の崩されることのない心音で溢れている。残念ながら、その心音を私は知ることが出来ない。私には私にしか聞くことの出来ない心音があって、それはどうやらまだ、鳴る相手を互いに見つけていない。

 かつて江戸の時代に、一人の男と一人の女、それも互いに美男美女。数奇な運命によって互いに惹かれ合い、心音を重ねあった男女がいた。

 男の名を与三郎。女の名をお富。

 男女の物語。語るは隅田川馬石。現代に生き、現代に語る、この一人の得体の知れない不思議な噺家は、遠い昔の物語を自ら編集し、毎夜高座に上がり、なぞるように、人の歩みの如く、一つ一つ確かめながら、今宵まで語ってきた。

 そしていよいよ、最後の一席を語るために一人の噺家が高座に上がる。隅田川馬石。この男の計り知れない魅力を、一人、客席にいる男は見続けてきた。

 客席にいる男は、自らを振り返る。

 今年の初めにも同じようなことがあったな、と男は思い出す。

 その時は、一人の講談師が語る、一人の男の人生を見たのだった、と男は思い出す。その時も五日間であった、と男は思い出す。

 そして、その五日間を俺は語ったのだ、と男は思い出す。

 俺は書き記したのだ、と男は思い出す。

 今宵、一人の噺家が語る、男女の人生を見て、俺は何を語るのか。

 そして、何を語って来たのか。

 男は、自らの運命を思い出す。

 男は、動き出した自らの運命に震える。

 男は、語る場を得たことを確かめる。

 かつての俺は、今の俺をどう捉えるだろう。

 男は、じっと目を閉じた。

 この場所で鳴る、多くの心音は今、一体どんな音を鳴らしているのか。

 客席の男は、隅田川馬石という名の、一人の噺家の語る男女の物語を待ち望んでいる。この五日間、ずっと待ち続けていたのだ。

 お富与三郎。

 二人の運命やいかに。

 

 春風亭昇々 妄想カントリー

 昇々さんに関しては、駄目な詐欺師の心持ちである。

 カモを見つけても、騙ることが無い。

 

 玉川太福/みね子 佐渡に行ってきました物語

 かなり久しぶりになってしまった太福さん。私の浪曲熱の再燃があるかどうかは別にして、新作はやっぱり面白い。

 でも、この五日間ですっかり馬石師匠の真剣味のある芸にハマってしまったから、太福さんでは任侠物を聞ける機会があることを望むばかり。

 

 三遊亭兼好 天災

 スピーディな語りと、随所に挟まれる可愛らしくて印象に残るボディランゲージ。なんて可愛らしいんだろうと思う。オリジナルで挟み込まれる小ネタも面白く、自信が漲っている感じが素晴らしい。お声がとにかく最高だし、ウサギがぴょんぴょん跳ねているのを見ているような可愛らしさがある。さらっと淀みなく立て板に水の語りができるほど、身に芸を落とし込んでいるんだろうなぁ、と思う。

 個人的には相合傘と、殴ることによって何かしら忘れさせようとする短気な男が好きである。

 大安売りや三十石など、ボディとお声を存分に活かした素敵で面白い噺の多い兼好師匠。これは暇さえあれば見に行きたい。が、私は面白いものは面白い人で、ある程度好みが出来てきたし、真剣なものは真剣な人で、この人で見たい!というのがはっきりしつつあるので、全ては気分と時間次第。

 でも、安定して会場を味方に付けて、バッチリ笑わせる技量は凄い。なんて芸達者なんだろう。お人柄の良さが滲み出る高座だった。悪口も洒落っ気があって憎めない。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その五~与三郎の死~

 袖から馬石師匠が現れたとき、私は言いようのない感慨に打たれた。今日という日まで、お富与三郎という男女の物語を語ってきた馬石師匠。毎回、丁寧に扇子と手拭いを置き、簡潔なあらすじを述べながら一席ずつ語り終えて四日が過ぎ、ついに五日目、最後のお話を語ることの感慨。

 今夜で終わってしまうのかという悲しみもあれば、また新たな馬石師匠を知ることができたという喜びもあり、また、落語というものの幅の広さを改めて実感してきた四日間であっただけに、最後もこの場に居ることができた運命に感謝する心持ちであった。

 今業平と呼ばれた与三郎が木更津でお富と出会ったことに端を発し、全身に三十四個所の傷を受ける無残な仕打ちののち、一目を憚って江戸で暮らしていたところ、玄治店でお富と運命の再会を果たす。喜びも束の間、あらぬ嘘を吹聴した目玉のトミを殺害した二人。蝙蝠安に殺しの場を目撃され、強請られることに耐えられなくなった二人は玄治店を明け渡すが出刃を振り回しての騒動は絶えない。やがて奉行の無宿狩りにあって、与三郎は佐渡島流し、お富は無期懲役となって互いに離れ離れ。

 島で死ぬのは嫌だと、与三郎はお富に会うため元後家人の後家鉄と坊主の松とともに、島を抜け出す。道中鉄は海に飲み込まれ姿を消すが、二人は何とか地蔵ヶ鼻に辿り着き、そこで漁師の弁慶なる人物に助けられる。江戸を目指す二人。泊まった宿屋で周囲に正体がバレた二人は、互いに二手に分かれて逃げ出すのだが、坊主の松は捕まり命を落とし、逃げた与三郎は自分に傷をつけた源左衛門と対面する。

 一人では敵わないと思った与三郎は、仲間の助けを借りて赤間源左衛門を刺し殺す。その後、両国の横山町に戻ると叔父から両親が死んだことを知らされる与三郎。天涯孤独の身となりながら、叔父の助言を受けて品川で怯えながら生きる与三郎。

 ある晩、与三郎は追っ手に怯えて飛び込んだ宿屋で島流しにあっていた時に親しくなった観音小僧の久次と再会する。久次は妻に挨拶をさせようと、与三郎に紹介をするのだが、久次の妻とはお富だった。

 数奇な出会いに戸惑うお富と与三郎。空気を察したのか久次はお富に与三郎を手厚く労うように告げ、その場を去る。

 再会に戸惑いながらも、与三郎はお富と酒を酌み交わす。いつしか酔っぱらった与三郎はお富の膝の上で眠りにつく。眠りについた与三郎を眺めていたお富は、与三郎の持っている脇差が、赤間源左衛門のものであることに気づき、与三郎が源左衛門を殺めたことを知る。

 奉行の前に出たところで、罪からは逃れられないと悟ったお富は与三郎を刺し殺す。続いて自分も死のうとするのだが、そこに久次の使いがやってきて、与三郎と一緒に逃げるための金を渡す。与三郎を殺した返り血を浴びたお富を見て、ただならぬ雰囲気を感じた使いは去っていく。

 お富は久次からもらった十両と与三郎の髷を持って、霊巌島で弔いをすることを決意する。

 翌朝、一番舟で霊巌島へと漕ぎ出た舟だが、寸前のところで呼び止められる。お富は観音小僧久次の証言によって召し取られ、磔の刑にされ命を落とす。

 唯一残された叔父の藍屋吉右衛門は、与三郎によって大勢の人々が命を落としたことを知り、弔いを行ったという。

 やがてお富と与三郎の一件は芝居や歌舞伎などによって広まり、大勢の人々がこの二人の数奇な運命を知ることとなった。

 

 「読み切り」という言葉を聞き終えたとき、私の胸に残った思いは様々であった。走馬燈のように、五日間の記憶がよみがえってきた。

 もしも木更津の海で出会ったお富と与三郎が、源左衛門に見つかることなく愛し合う関係を続けていたとしたら、運命はどのように変化したのだろう。いつまでも源左衛門を騙しとおせるだけの心の切り分けが、お富には出来たのだろうか。

 私が五日間を通して感じたことは、お富がわからないのである。

 一席目の『木更津の見初め』の時は、間違いなく互いに死ぬ覚悟を持ち、死を選んでいた。ところが、『玄治店の再会』以降、お富は与三郎を裏切り続けるが、与三郎は生涯お富を追い続ける。続く『稲荷掘の殺し』では、与三郎はお富を愛するあまり人殺しに手を染めるのだが、その事実を知ったお富の胸中が計り知れない。一体どんな気持ちで目玉のトミを殺したのだろう。与三郎に対して繕っていたのだろうか。私の予想では、海へ飛び込んだが助かったところから、お富の心は大きく変わり始めていたのではないだろうか。それは、お富自身も無意識のうちに。

 四日目の『佐渡の島抜け』でも、与三郎はお富を追い続けている。捕まれば死ぬという状況であっても、決して諦めることなく島抜けをする与三郎。なんと逞しい愛の力を持った男であろうか。

 一方お富。無宿狩りに合い、佐渡へと与三郎が流されることになったとき、目玉のトミ殺害の一件が明るみに出なかったことによって、お富はどこか悪戯な運命を受け入れたのではないか。最初に与三郎と出会った頃のお富はいない。どんな胸中で無期懲役を受け入れ、お富が暮らしていたのか知りたい。

 時が経ち、再び目の前に現れた与三郎を見たお富の胸中とはいかなるものなのか。考えても考えても及び知れぬところである。及び知れぬところであるからこそ、お富という人間の奥深さ、魅力が増していくのであろう。

 お富と与三郎が最後の再会を果たし、酒を酌み交わす場面の、与三郎の人間らしい振る舞いに共感する。それほど人を好きになるという与三郎の気持ちと同じような思いが、私にもあると感じるからであろう。体に傷を受け、一目を憚って生きることになり、佐渡へと流され、命がけの脱走をし、日々あらゆる事柄に怯え暮らしながらも、最後、お富の膝元で「生きててよかったぁ」と言える与三郎の心。

 これを、お富はどう見るのだろう。

 誰か教えてくれないだろうか。こんな与三郎をどう女性は見るんだろうか。

 もしも私が悪い女だったら、「馬鹿だなぁ」と思うだろう。心の底から与三郎に対して「馬鹿だなぁ」と思うだろう。たとえ与三郎で無くとも、自分の周りに自分を愛してくれる男が腐るほどいたと思われるお富である。そんなことを考えても不思議ではない。現に与三郎と離れてからは、色んな男の妾や妻となっている。最後には与三郎と仲の良かった観音小僧の久次である。信じられない豪胆な心である。

 安直に悲恋の物語として語るには、あまりにもお富がわからない私である。お富にとって男とはどういう存在なのだろう。与三郎と他の男とでは、一体何が違うというのか。考えても考えてもわからず、あるのは結果だけである。

 普通だったら、自分を愛してくれた男を殺せるだろうか。野暮だと承知だが、お富が与三郎を殺し、自分も死のうとするのだが結局死なず、最後まで生きようとする行為が、私にはズルく思えるのである。なんてズルい女だ、と思ってしまうのである。

 「それは森野、お前が女を知らないからだ!」と言われればそれまでだが、どうにもお富という女が、悪い女にしか見えなくなってしまう。だが、そうせざるを得ない状況に、お富も陥っていたのではないかと考えると、お富の行動は理解できる。

 自分を愛してくれた与三郎の愛に応えるためには、お富の行動はお富にとって精一杯の行動だったのではないだろうか。源左衛門に関係が発覚したときは、間違いなく死こそが互いの愛の保存方法として、最も適切な方法だったのだ。だが、お富も予想しなかった運命によって生き永らえたことにより、お富は自分でもどう生きて良いか分からなくなった。結局、生まれ持っての美しさを頼りに生きる他無かったのだ。

 そして、与三郎と再会した時には、お富はその生き方以外に生きていくことが出来なくなっていた。かつては死を選ぶほどの思いを抱き、与三郎を愛していたお富は、その頃と同じように与三郎を愛せなくなっていたのだ。だから藤八と食事をしたり、誘惑されることも厭わなかった。与三郎は他の男と何の差も無い男に、お富にとってならざるを得なかったのだ。

 何とか与三郎に対して前と同じように愛そうとしたお富。与三郎が殺し損ねた目玉のトミにトドメを刺して見るも、変わらない自分の心をお富は自覚できなかった。やがて無宿狩りで与三郎が島流しにあった時も、お富は死を選ばなかった。

 男に愛されることに縋ったお富は、観音小僧の久次の妻になってもまだ、天が与えた美しさに甘え続けた。だから、与三郎と二度目の再会を果たしたときは、心底うんざりしたのかもしれない。また同じように愛し合う関係を取り繕って見せたが、お富にとっては限界だった。すべてに疲れ果てたお富は、事の発端となった源左衛門、すなわち最初に自分を愛し、妾とした男の刀で、死を決意するほどに愛し合った与三郎の胸を突き、自分も死ぬことで終わらせようとしたのだろう。

 だが、お富は死ななかった。もう自分ではどうすることも出来ないほどに、お富自身も制御不可能の本能に従い、生きたのだ。最後に召し捕られたときには、内心、お富は安堵したのではないだろうか。

 と、ここまで書いてきたが、結局のところはわからない。与三郎に対しても、私は自分の願望を押し付けているだけで、結局のところはわからない。最後の最後、お富と逃げようとしなかった与三郎は、お富と同じように、すべてに疲れ果ててしまったのかもしれない。だから、最後にお富に刺されるとき、にっこりと微笑むような表情を浮かべたのではないか。命がけでお富を愛した自分が、最後の最後に諦めてしまったことに対する、どうしようもない、言いようのない思いが与三郎の中に込み上げてきて、その底知れなさに、微笑むしかなかったのではないだろうか。

 五日間。様々なことを考えさせられるほどに、毎度、ドラマチックな展開を見せたお富与三郎。隅田川馬石師匠の編集のセンス、そして、普段はあんなに不思議な天然っぽさを感じさせる高座なのに、初日から楽日まで一切気を抜かない圧倒的な集中力。骨の髄まで痺れるほどの迫真の語り。何よりも声と眼。全てが普段とは全く異なる、鬼神宿りし迫真の高座だった。奇人宿りし白痴の高座が早く見たい。

 

 総括 お富与三郎 通し公演を終えて

 改めて、隅田川馬石師匠で『お富与三郎』を通しで聴くことが出来て本当に良かった。私にとって『お富与三郎』は、どんな物語であったか。一言で言えば、『男女の心の合わせ鏡』であろうか。

 数奇な運命によって、互いに向き合うこととなったお富と与三郎の鏡。無限の像を互いに映しながらも、徐々に、徐々に、鏡の傾きが変わってゆく。そして、互いに映し出していた無限の像は、傾きの変化によってさまざまに変化し、やがてどちらも落ちて割れてしまう。

 その欠片を拾い集めて、私は語っただけに過ぎない。元は美しい一つの鏡であった筈のお富と与三郎の心を、自分なりに再構築して私は書いた。私には、隅田川馬石師匠が語る『お富与三郎』が、これまで書いた記事のように、思えたのである。

 

 だが、これも私の鏡の変化によって変わっていくだろう。時間が経てば「なんであのとき、あんなことを思っていたんだろう」と思うときが来るかもしれない。その時のための記録でもある。

 

 渋谷らくごの『心臓』である隅田川馬石師匠。その『心臓の鼓動』を私なりに書き記してきた最後の記事となる。この五日間、全身全霊で『お富与三郎』を聞いていたため、他の演者も非常に魅力的なのだが、短い文章になってしまったことをお詫び申し上げたい。

 

 渋谷らくごにとって、また、初めて落語を聞く人にとって、新しい試みである五日間であったと思う。隅田川馬石師匠という人の、時代のニュートラルさ、初めて落語を聞く人に対して与える、境界線の無い雰囲気。いつでも気軽に飛び込めて、すんなりと想像出来てしまう、馬石師匠の語り、表情、声、間。

 

 全てが極上の演芸体験であったことは間違いない。

 

 お富与三郎の通し公演は、どの日を聞いても、冒頭から簡潔な説明があるためわかりやすいのだが、ボーっとして一つでも聞き逃したり、上手く想像をすることが出来ないと、なかなかすぐに本題の理解をすることは難しいということも、初めて連続物を聞くという人にはあるだろう。しっかりとした会では、パンフレットなどで一話一話に簡単なあらすじを記載している場合もある。とても要領よく物語を語られていた馬石師匠であったが、それでも聞き逃してしまう人のために、この記事が役に立っていたとしたら幸いである。それに、最終日は大入り満員であったと聞く。僅かでもこの記事で足を運んだという方がいたら、これ以上の喜びは無い。

 また、より多くの人々に隅田川馬石師匠の語る『お富与三郎』が、どのようなものであったか。そして、一人の名も無き演芸好きがどのように感じたのか、伝われば幸いである。

 そして最後に、隅田川馬石師匠。本当に素晴らしい通し公演をありがとうございました。

 また、ここまで読んでくれた熱心な読者の皆様、あなたのおかげで私は記事を書き続けることができます。本当にいつもありがとうございます。

 それでは、再び、素敵な演芸に出会えることを願って、

 これにて、渋谷らくご 隅田川馬石 お富与三郎 五日間の通し公演、心臓の鼓動と題した五つの記事。

 書き終わりでございます。

心臓の鼓動(4)~9月16日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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 ウワバミよ!

 

時次郎の眼

 

ノーコンプライアンス

 

今日も迫真

  なぜ若い女性は派手な食べ物を好むのか

 渋谷のセンター街を歩くことにする。毎度、ユーロスペースに行くための『安全通路』を通ることに慣れきっている私は、たまにはごちゃごちゃしたところを通ってみたいと思い立ち、自ら『危険地帯』であるセンター街をふらふらと歩いた。

 『ポテトモッツァレラハットグ』なる食べ物をムシャムシャと食す若者たちの姿を見つける。タピオカにしろ、ハットグにしろ、なぜあんなブツブツの気持ち悪いものを食すことができるのか、私にはまったくわからない。

 タピオカミルクティーやハットグやらは見ただけで鳥肌が立つ。大体、私にとってハットグと言ったら、田原俊彦である。ハッとしてGoodである。

 なぜあんな脂っこいものを食べることができるのか、教えて欲しいくらいである。歳のせいか、体を絞っているせいか、キュウリやモヤシなどのサッパリしたものしか食べたくない気持ちが強い。

 きっと、渋谷でハットグを食べている人たちの気持ちがわからないように、私が落語を好きであることとか、落語をなぜ好きであるかがわからない人たちもたくさんいるのだろうと思う。何が良くて何が悪いというわけではないけれど、やっぱり私は落語を愛する人愛する人間なのだと思う。

 世の中には、落語を知っている人と知らない人がいる。私は少しでも、落語に色んな人が興味を持ってくれたら幸いである。そんな思いでブログを書いている。

 一番の落語の醍醐味は、連続物を聞くことにもあるかも知れない。毎度、登場人物がどんな風になっていってしまうのか。ハラハラ、ドキドキ、緊張感のある展開に目が離せない。

 隅田川馬石師匠の連続物、『お富与三郎』の通し公演が、多くの人に届くことを願って、それでは、心臓の鼓動の4度目の記録を記して行こう。

 

 立川こしら 田能久

 とてもアクロバティックな噺家さんだと思う。久しぶりに見て、しかもお初の噺だったため、なんと申し上げて良いか、言葉に窮する。恐らく、田能久というネタを一度どこかで聴いていたら、もっと違う角度から楽しめたと思う。

 改めて古典で田能久を聞いた後での感想となるが、こしら師匠の大胆なアレンジが随所に光った田能久だった。オチに向けたスーパーアクロバティックも含めて、どうやらまだ私には語る言葉が無いようである。

 

 柳亭市童 明烏

 こしら師匠の後に出ると、物凄いキッチリして見える市童さん。時次郎の眼がめちゃくちゃ可愛いなぁ。と思った。源兵衛と太助が出てきた辺りから、睡魔に襲われてしまった。本当に申し訳ない。なんと失礼なことであろうか。

 

 橘家圓太郎 あくび指南

 ザ・ノーコンプライアンス

 あくび指南の演出は好みが分かれるところである。

 何と申し上げて良いか分からない。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その四~佐渡の島抜け~

 お待ちかねの馬石師匠。正直、馬石師匠のお富与三郎が楽しみすぎて、前半の三人に対して、大変申し訳ないがあまり頭に入って来なかった節がある。

 目玉のトミを殺した場を見ていたのは蝙蝠安だった。お富と与三郎は目玉のトミの兄貴分である蝙蝠安に強請られ、たびたび金を持っていかれる。困り果てたお富と与三郎は玄治店の家を売り払い、住まいを移すのだが、そこでも出刃を振り回しての大騒動。

 当時の奉行は無宿狩りをやっていて、無宿人を捕まえては佐渡へと流していた。佐渡は金山があるため、そこで捕まえた者たちに労働をさせて資金を集めていた。無宿人である与三郎は捕まり、佐渡へと島流しにあってしまう。

 お富と引き離され、たった一人佐渡で働くことになった与三郎。このままでは一生お富に会えないまま、佐渡で暮らさなければならないことを悟った与三郎は、ひとめお富に逢いたいと思うようになる。

 やがて与三郎は、坊主の松と鉄の島抜けの作戦を聞くことになる。潮の加減で死体や海のゴミが集まる個所があり、一本の松が生えている場所が目印だと言う。そこに丸太が流れ着いており、その丸太を縄で縛って船にし、島を抜けるという作戦である。

 雨の強い夜、与三郎は震えながらも松と鉄についていく。岸壁までやってきて、荒れ狂う波を見つめながら、三人は丸太があることを信じて、鉄、松、与三郎の順に岸壁から飛び降りる。

 荒れ狂う海から顔を出した与三郎。鉄と松の名を呼ぶと応答する声がある。何とか三人はゴミが集まる個所に辿り着き、そこで丸太を発見。縄で縛って船を作り荒波の海へと航海に出る。

 ついに島を抜け出した三人であったが、途中で大きな波が襲い、鉄が飲み込まれる。松と与三郎は波に飲み込まれた鉄に向かって叫びながら、航海を続ける。

 二人は波に飲み込まれ、辿り着いたのは地蔵ヶ原(?)と呼ばれる土地。そこで色の黒い漁師に命を救われ、宿屋に泊まるのだが、厠へ立った与三郎は自分たちの案内された部屋とは別の場所で、自分たちが罪人であることに気づき、捕えようとしている人物の会話を聞き、即座に松に告げ、逃げることを決意する。

 二人一辺に捕まっては不味いと、松と与三郎は二手に分かれて宿屋を出る。運悪く松は捕まり命を落とす。悪運が強いのか与三郎は何とか逃げ出すことが出来た。

 逃げた与三郎が出会ったのは、火にあたっている乞食。寒さを凌ぐために火にあたらせてもらった与三郎は、乞食に顔に傷があることを知られる。火で暖をとらせてくれたお礼にと、与三郎は傷をつけられた偽りの理由を乞食に話す。話し終えると、乞食の仲間らしき男がやってきて、乞食に金を渡して去っていく。与三郎は男が気になり乞食に尋ねると、「あれは赤間源左衛門の親分で、自分はその一番の子分の松だ」と聞かされる。

 驚いた与三郎はその場を離れ、急いで源左衛門のところへ行き、源左衛門を呼び止める。そこで、自らの正体を明かした与三郎。源左衛門も与三郎を見て驚く。

 因縁の二人が遂に対面した。一体、この後、どうなってしまうのかは、最終日に分かる。

 

 今回も、見どころ満載。緊迫感溢れる場面の連続で、震える。震える。震える。特に、与三郎が佐渡から逃げるために岸壁から飛び降りる場面。そこから丸太を見つけ船を作って島抜けするまでの一連の場面は、物凄い緊迫感である。馬石師匠の情景描写力もさることながら、鉄や松を声のトーンを微妙に変えて表現したり、波に飲み込まれた鉄に向かって放つ言葉など、実際に荒波に飲み込まれているかのような緊張感があって、胸の鼓動が早くなった。

 見事、島抜けを果たした松と与三郎。漁師の肌が黒かったことから、ちょっとした小ボケもあったが、その後、松と与三郎が宿屋に泊まる場面も凄い。自分たちが島を抜けてきた罪人であることが、宿屋の者にバレていたと与三郎が気づいてから、宿屋を逃げ出す場面の緊張感。ハラハラしながらも、松が捕まって命を落とす場面には思わず心の中で「ああ~~~!!!」という思いでいっぱいだった(伝わるのか?)

 松之丞さんの『慶安太平記』で、由井正雪一派が捕まる場面でも同じようなことを思ったことを思い出した。

 さて、運良く逃げた与三郎が乞食と出会う場面。単なる乞食かと思っていたら、なんと与三郎とお富の関係をバラしたミルクイの松だった!!!これはかなり衝撃的で、赤間源左衛門まで現れて、与三郎が源左衛門を呼び止め、遂に三十四個所の身体を傷つけられた恨みを晴らす場面まで、怒涛の展開に痺れた。

 

 うわーーーー!!!!!!!

 一体、

 どうなっちゃうのーーーーー!!!!????

 

 と、心の中で絶叫しながらも、結末は最終日である。もうチケットは速攻で買った。絶対に行って、この目で確かめなければ一生後悔するであろう。

 この記事を読んでいる読者も、ここまで読んだら、もう、後は、行ってほしい。というか、来てください。渋谷らくごユーロスペース。安全通路でも危険地帯でも、どっちを通って来てもいいから、是非、来てください。で、一緒に語りましょう(嘘)

 

 総括 明日はどっちだ

 いやー、とんでもないっす。今回の『お富与三郎』の通し公演。四回目まで見て、もう、なんなのさ。いやさ、なんなのさ!!!!という、もう、なんとも、最後まで見ないと、何とも言えない。

 馬石師匠の言う通り、どこを見ても最高潮の盛り上がりを見せる『お富与三郎』

 マジで、どんな結末が最後に待っているというのか。

 ぐっすり眠れるか分からないけれど、じっくり待ちましょう。

 最終日は、昇々さん、太福さん、兼好師匠、そして馬石師匠という最強のラインナップ。

 もう、見るしかないよね。

心臓の鼓動(3)~9月15日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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ぼっちゃん

 

冗談だよ~

 

子連れ

ママとマンマ

 

腕をあげたねぇ

 焦がれ死ぬような男女の恋

 祭囃子が鳴り響く道玄坂をとつとつと歩きながら、つるつると心は満ちて穏やかである。朝目がさめて悲しい知らせに胸を痛めども、なにせ根が起き上がり小法師、そう簡単に臥せって泣いているわけにも行かず、あらゆる意欲をかきあつめて服を着替え家を出て、ここまでやってきた。

 粋な恋路のひとつやふたつ、男と女と生まれたからには、歩みたいと望んでしまうのが人の性か。恋に感けて疎かになる些事が火元ととなって全身を焦がす大事に至るまでは、まだ些かの時を要するようである。

 何を因果に惹かれ合うのか。また、何を持って関係は丈夫になるのか。添田唖蝉坊の曲のような心持ちである。

 「ああわからない、わからない」

 すっかり心は『あきらめ節』で、ユーロスペースに辿り着き壁に貼られた文字を眺めながら、とんと分からぬ女心に振り回されて、男とは何と情けない生き物であろうかと思う。いっそ、何もかも捨て去って与三郎のように、体も心も切られれば踏ん切りでも付くというのか。否、たとえ身も心も傷を負ったとしても、男には焦がれ死ぬような女がいて、また女には、自分にはどうすることも出来ない罪を作ってまで愛するほどの、男がいるのである。これを粋な恋とせずして、何とするというのか。

 与三郎に憧れさえ抱きながら、今宵も隅田川馬石師匠の『お富与三郎』を聞く。なんと贅沢な時間であろう。だんだん歌舞伎でも見て見たくなってきた。たとえ、世間様から鼻で笑われるような恋であろうとも、その禁断の味は、当人にとっては常人の理解を越えた蜜の味なのではないだろうか。

 現代にはただ一人、その狂おしいまでのお富と与三郎の関係に、憧れる一人の男がいるだけに過ぎない。

 「ああわからない、わからない」

 

 春風亭昇羊 吉原の祖

 途中まで「ぼっちゃん」という単語が聞こえていたのだが、昨夜、随分と記事を書いて時間を過ごしてしまったためか、急に襲ってきた眠気にやられ、殆ど筋を覚えていない。無念。

 

 橘家文蔵 試し酒

 文蔵師匠のお酒噺は最高である。なんだかんだ言っても、洒落でも、お酒が出てくる噺を文蔵師匠で聴くことのできる喜びは大きい。酔っぱらって色々と口をついて出てくる言葉を聞いていると、その愛嬌たっぷりの可愛らしさに、何もかも許してしまうような力がある。

 五升の酒を下男の久蔵が飲み干すことが出来るかどうか、久蔵を従える近江屋と尾張屋で賭けをするお話である『試し酒』の一席。

 圧巻なのは、何と言っても五升の酒を飲むことに挑戦する久蔵の姿である。私の知人でも大酒飲みの人間はいるが、それでも五升飲めるほどの人間はまずいない。というか、そんな人が世の中にいるかどうかも分からない。だが、酒を飲めば多くの人間がそうなるように、段々と酔っぱらっていく久蔵の姿が面白い。

 目をひん剥いて酒を飲みながら、主人の近江屋をからかったり、賭けの本質を突いたり、お酒に纏わる話を語ったりする久蔵が可愛らしい。飲み終えた後の「注いでくだせー」の異様な力強さ。一緒にお酒を飲みたくはないが、賭けはしてみたいと思うほどの粋な久蔵。でも、きっと長生きはしないだろうなと思う。

 現代だと、久蔵が了解しない限り完全にパワハラになるだろうと思う。きっと気難しい人だと、「この賭けに久蔵は本当に納得しているのか!」とか、「久蔵は常日頃、こんな身体に悪い賭けの道具にされているんじゃないか?」と言い出しかねないと思うが、そこは洒落の世界。洒落と現実を混同させてはならない。というか、そういう野暮なことを言っては、落語を楽しむことはできない。洒落を楽しめなくちゃ、落語は楽しめない。

 そうそう、文蔵師匠が冒頭でお話されていた酒飲みの医者の小噺。あれは、酒好きの本質を突いている気がする。酒好きにとどまらず、煙草好きにも通ずるのだが、体に悪いとされているものを得て、結果的に体が悪くなったとしても、悪いのは酒であり、煙草であって、自分ではないとする考え。そういう考えの人は私の周りにもいる。どれだけ煙草を吸おうが、「みんな吸ってるけど、長生きしてる。煙草をどれだけ吸おうが、関係ない」と言われると、もはや気遣っても何をしても、その人が良ければ良いかな、と思って、それ以上は何も言わない。

 私もお酒はほどほどに楽しむ方だが、今朝、悲しいことがあったので、久しぶりに飲もうかなと思った。心が傷ついたら酒を飲む。なんと単純な思考であろうか。いかんいかんと思いつつ、ハイネケンを飲もうと決意した一席だった。

 

 三遊亭粋歌 働き方改革 わんわーん

 企業で主催される落語会があったとしたら、引っ張りだこなのではないか、と思えるほど現代社会の未解決な問題を新作落語としてやっている粋歌さん。『影の人事課』という超名作を作っていたりするなど、実際に会社勤めをされた経験が存分に活かされた落語がとても魅力的で、面白くて考えさせられる唯一無二の噺家さんである。

 まず『働き方改革』の一席は、出産後の子連れ出勤を拡張して、様々なものを連れてきたら、一体職場がどのように変化していくのかという噺である。実際にあらゆるものを連れて出勤することが可能な世の中になったら、この落語のように様々な問題が起こるだろう。世の中には、職場に連れていきたいと思うほど大事なことが人それぞれある。私は特に職場に連れていくものは無いけれど、たとえば保育園が受け入れてくれなかったり、病院が受け入れてくれなくなったら、子供や両親を連れて職場に出勤せざるを得ない状況になってしまうかも知れない。

 職場で働くための、正しい働き方改革とは何か。とても面白くて、真面目に考えたいお話である。

 二席目の『わんわーん』も、女性ならではの生き辛さがひしひしと感じられる一席である。避けては通れない嫌な人との関わり合いにおいて、なんとか相手を傷つけずに奮闘するも、心がめげてしまう主人公の姿が可哀想であると同時に共感する。

 私は直接出会ったことは無いが、世の中のご婦人の中には、自分の夫の地位を誇ったり、自分の優雅な生活を周囲に誇示したいご婦人がいるようである。私は特に何とも思わないが、そういったご婦人と付き合わざるを得ない女性達たちは、日々ストレスに苛まれているらしい。一体自分の立場をどう考えているのか分からないご婦人は、やたらと攻撃的な言葉で周囲の女性たちを圧迫したり、傷つけたり、嫌な思いをさせているようである。悲しいかな、そういうご婦人に限って、自分自身に対しては甘く、自分こそ絶対だと思っている節もある。と、書いているが、出会ったことが無いので、殆どドラマなどで見たりする時に抱いた印象だけで書いているので、参考にはしないでほしい。

 男は割と、そういう嫌な人間に対する対処は意外なほど冷静にできる。と、一括りに言っても私の場合であるが、嫌な人間とはそもそも一切会話をしない。自分の世界に入れない。だが、女性はなかなかそうもいかないようである。下手に行動したり発言をすれば、女性たちの輪から外されたり、嫌な仕事を押し付けられたりと、様々あるようである。おそらく、この辺りの捉え方の違いによって、男と女は喧嘩になる。「そんなこと、ほうっておけばいいじゃないか」なんて男が言おうものなら、女は「放っておけないのよ!無理なのよ!」と激高するだろう。男はどうにも、女性の言葉や理論理屈には敵わない生き物であるということを、私も含めて理解した方が良い。

 お偉いマダムの飼っている犬が、人語を話すことを発端に、その人語の聴き分けに苦しむ主人公の姿が可哀想でならない。私だったら何とかしてあげたいと思うが、内容が内容だけに、どうすることも出来ない。「まぁ、さらっと流しておけばいいじゃない」なんて言ってしまいかねないが、女性というのは『さらっと流す』ということが出来ないのかも知れない。目の前のことに常に一所懸命で、真っすぐに向き合うからこそ、女性は苦労が多いのかも知れない。私などは、目の前に嫌なことがあると、避けて通るか、無理して嫌なことの上を通るようにしている。ま、殆ど想像だけれども。

 主人公の女性が旦那に弱音を吐きながらも、マダムの犬の鳴き声の聴き分けを、録音してまで熱心に勉強するというのが素晴らしい。旦那の出世のためにも努力する主人公。こんな女性に出会ったら男だったらとても嬉しいと思う。

 いつの時代も、女性には苦労が絶えない。そう考えると、男とは何と呑気な生き物であろうか。と、こう書いていると「誰が金を稼いでいると思ってるんだ!」という男性には反感を食らってしまいかねない。

 「ああわからない、わからない」

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その三 〜稲荷堀の殺し〜

 長い長いお富与三郎の話を簡潔に纏め、年々変化していると語る馬石師匠。聞けば、なんと十五~六年前、二ツ目の時に雲助師匠から教わったとのことで、随分と歴史のある噺である。全9席をみっちり聞く日が訪れるかは分からないが、馬石師匠の簡潔にまとめられたお富与三郎を聞くだけでも、十分にその全容が分かるからありがたい。

 さて、ふとした出会いから良い仲になったお富と与三郎。源左衛門に見つかり体に三十四個所の傷を受け、木更津の地で人目をはばかり生きることとなった『切られ与三』は、三年の月日の後、数奇な運命によって再びお富と出会うこととなる。というのが、前回までのざっくりとしたお話であった。

 お富と再び出会った与三郎。お富は多左衛門という男の妾になっていたが、お富と与三郎の事情を知った多左衛門は二人の邪魔になってはいけないからと、金をやってどこかへ行ってしまう。ようやく玄治店に二人きりで暮らすこととなったお富と与三郎。ところが喜びも束の間、二人で食べて暮らしていけなくなったお富と与三郎。そこへ蝙蝠安と目玉のトミがやってきて、玄治店の一部を賭場にして博打で食ったらどうだと提案する。その案に乗った二人。その賭場にやってきたのが奥州屋の藤八。藤八はお富に惚れ込み、隙あらば自分の女にしようと企む。藤八は、お富を誘って食事に行ったり、金を渡すようになる。そうなると、お富は藤八との関係を与三郎に黙っている訳にはいかず、相談をする。金持ちの一人や二人に嫉妬するような俺じゃない、とばかりに与三郎は藤八とお富の関係を認める。

 ある日、お湯屋に出かけたお富を見送った与三郎。その後でやってきたのは奥州屋藤八。ばったり出くわすのはきまりが悪いと、戸棚へ隠れる与三郎。藤八はお富の姿が見えず、仕方なく家に上がってお富を待つことにした。そこへやってきたのは目玉のトミ。トミは藤八の考えを知っていて、お富を嫁にするなんて考えない方が良いと言う。疑問に思った藤八はトミの言い分を聞き、三両の金をトミに渡す。トミはお富と与三郎の関係を、嘘が七割、真が三割と、存分に尾ひれを付けて藤八に話す。それを聞いて怒りに悶える藤八。トミが帰った後、やってきたお富に我慢ならない様子で、二度と来ないと告げて家を飛び出していく。

 全てを聞いていた与三郎は戸棚から現れ、出刃包丁を持って家を出て行く。稲荷掘(とうかぼり)で目玉のトミを突き、家へと帰ってくる与三郎。心配したお富に事の顛末を話すと、お富は「トドメはさしたのかい?」と聞いて、トドメをささず、出刃も刺しっぱなしだと答える与三郎。

 雨の降りしきるなか、二人は相合傘で稲荷掘に向かい、そこで苦しんでいる目玉のトミを、お富は刺し殺す。トミが持っていた三両を奪って二人は逃げようとするのだが、それを見ていた何者かに止められる。そいつは・・・

 というところまでが、今回のお話であった。

 今回も見どころが幾つもある。藤八に尾ひれを付けて語る目玉のトミ。怒り狂った与三郎がトミを刺す場面。事の顛末を語る与三郎に対して言葉を放つお富。そして、クライマックスでお富がトミにトドメをさす場面。

 痺れに痺れる怒涛の人間模様に、唸る、唸る、唸る。特にトミに出刃を刺した与三郎が「お前があんまり人を馬鹿にするからっ!」みたいな言葉や、トミを刺したと話す与三郎に向かってお富が「腕を上げたねぇ」という場面や、お富がトミにトドメをさす時に吐く名調子とお囃子。初日とも二日目とも違い、遂に人殺しという越えてはいけない一線をお富と与三郎が越えた場面であった。

 もしも、トミを刺した与三郎にお富が「お前さん、なんて馬鹿なことを!」と言っていたら、この噺はお終いである。ここでお富は「腕をあげたねぇ」とか、「トドメは刺したんだろうね」というようなことを言うからこそ、お富の人間の深みというか、お富という女の魔性の力に、見る者は痺れるのだと思う。それほどの事を一瞬のうちに、与三郎に言えるお富。

 

どんだけ与三郎に惚れてんねん!!!

 

 と、思わず叫びたくなるほどである。心底与三郎が羨ましくてならない。

 私はもう、お富の表情と言葉に身震いするほど痺れた。いいなぁ、言われてぇ。そんな風に思われてぇ。と思ったが、洒落の世界である。殺人もご法度であることは重々承知である。

 与三郎も与三郎で、目玉のトミを刺した後の動揺っぷりが良い。また、その言い訳に「お前があんまり人を馬鹿にするからっ!!!」である。この一言を私は聞き逃さなかった。この言い訳の言葉が、与三郎という人間の本質を現わしていると思う。人殺しの理由が「馬鹿にされたから」という。この感じが何とも言えない素晴らしさである。なんといえば良いのか、「えっ、そんなことなの?」という感じではない。人間の尊厳が傷つけられるということの、一つの答えとして「馬鹿にされたから殺す」というのは、なんだか、良いなぁ。と私は思う。

 相合傘で殺しのトドメをさしに行くという風景も素晴らしいし、トドメをさすお富の台詞も良い。物凄く良い。初めての夫婦の共同作業が、自分たちを馬鹿にした男を殺めるということの、何とも言えない素晴らしさ。常人では理解できない二人の、愛とも恋とも呼べない関係性。お互いのどす黒い血を混ぜ合わせ、お互いの肉体で巨大な薔薇を描こうとしているような感じと言えば良いのか。どこからが境目かも分からぬほど溶け合い、互いが互いの一部であり、一つの液体であるかのようなお富と与三郎の関係性。ついに禁断の殺しに手を染めた二人の未来には、一体何が待っていると言うのか。

 

 総括 魅せられっぱなし

 いよいよ、明日は四日目である。こうなったら、無理してでも最終日は行く。こんな話を聞かされたら、行かないのは一生の後悔である。

 それにしても、馬石師匠の語りの素晴らしさ。それまで落語の滑稽話しか聞いて来なかったが、こんなにも痺れる話を五日間通しでやるというのは、尋常ではない精神と技術だと思う。今回の通し公演で、すっかり馬石師匠の魅力にハマってしまった。それまではちょっと不思議な人くらいにしか思っていなかったのだが(失礼)、今回でその印象を改めた。凄い。凄すぎる。っていうか、馬石師匠も含めて、雲助一門、精鋭揃いというか、後の名人が揃っていると思う。

 なんちゅー企画を渋谷らくごは打ち立てたんだろう。こんなに凄い企画、次もあるか分からない。出来れば毎年恒例にして欲しいし、他の人でもお富与三郎を聞いてみたいと思う。

 狂おしいまでのお富と与三郎の関係性。興奮して眠れない。

心臓の鼓動(2)~9月14日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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親の心 子知らず

 

貸してたんだ

 

悪い奴です

 

いやさ お富ぃ~

  サクサクノーサボタージュ

 ユーロスペースに来ている。昨日の衝撃を引きずったまま、私はユーロスペース来ている。昨日見かけた人は殆どいない。誰が好き好んで貰うのかというポストカードの二枚目を、私は貰っている(失礼)。家の棚に馬石師匠が増える。次々に増殖する馬石師匠。浸食される棚。減っていくのは財布の中身だけである。

 通し公演のうち一話でも聞いてしまったら、他を聞かないというのが私は耐えられない性分である。面白いと思ったら必ず頭から読むことにしている。どこを切り取っても楽しいことには間違いないのだが、やはり頭から読まねばスッキリしない。

 だから、馬石師匠のポストカードが増え、財布の中身が減ろうとも知ったことではない。ポストカードは大切に棚にしまい、財布の中身はお仕事を頑張るだけのことである。

 さて、今回はメンツも渋い。初心者向けと銘打ってはいるが、正直、通好みの回であることは否めない。それでも、全員の演者に落語の奥行きを感じさせる凄まじい力がある。パンケーキやタピオカミルクティーを飲んでいる場合ではないのだ。

 

 台所おさん 片棒

 おさん師匠の醸し出す雰囲気の和やかさ、第一声の「おさんです」になぜか笑ってしまう。目の前で妊婦がお産を始めた想像をしてしまうからだろうか。妊婦のお産を見たおさん師匠が「おさんです」と言っている風景を想像してしまうからだろうか。たった一言なのだけれど、ばああっと風景が見えてしまうが故に笑ってしまうのか。自分でも何だか分からないのだけれど、笑ってしまうのである。

 そんなおさん師匠は、師匠である柳家花緑師匠のことを語りながら不思議な関係性を語っていく。唯一無二のフラを持ち、温かくて親しみやすいおさん師匠の雰囲気に会場がグッと包み込まれていく。

 自分の身代を譲ることを決めたケチベエが、三人の息子の誰に譲るかを判断するため、「自分が死んだらどんな弔いを出してくれる?」と聞くのだが、どれも満足な答えにはならない、という『片棒』の一席。

 『弔い』という暗い印象の話題なのだが、三人の息子たちの陽気さと、それに翻弄されるケチベエの対比が面白い。おさん師匠の雰囲気が醸し出す、独特の貧乏感(褒めてる)が、本当にケチでケチで、切り詰めて切り詰めて身代を大きくしたんだなぁという雰囲気が伝わってくる。語りの中に貧乏でも強く生きる人の心意気を感じるのは、おさん師匠ならではだと思う。私が勝手に思っているだけかも知れないが、おさん師匠の語りには朴訥とした雰囲気、まるで冬に染まった森の中を歩いているような気分である。木には葉は無くとも、その力強さに胸打たれるのである。

 金や銀の陽気さも、どこか貧しさの中で逞しく生きる健気さがあって、ドラマ『おしん』でも見ているかのような、母性本能(が私にあるか分からないが)をくすぐられてしまう。何とも言えない優しい雰囲気に包まれて、ゆったりと笑った一席。

 

 柳家小里ん 不動坊

 その見た目から放たれる名人の風格に、徐々に虜になってきた私がいる。粋だねぇ、乙だねぇ、と思う生き様を私は小里ん師匠から感じるのである。小里ん師匠、雲助師匠、一朝師匠の世代は、古典落語好きには堪らない素晴らしさを持っていて、古典落語の魅力にどっぷりとハマってしまったら、絶対に聞きたくなる噺家である。

 最初は私も面白さが分からず、「なんかつまんないなー」と思っていたのだが、一年、二年と聴いて行くうちに、「と、どんでもねぇ!!!」と思うようになった。あれは一体どういう理屈でそうなるのか、私自身もさっぱり分からないのだが、齢を重ねたものだけが持つ、独特の雰囲気と言葉のセンスに痺れるのである。特に小満ん師匠なんかは素晴らしくて、隙あらば見に行きたい。

 小里ん師匠の不動坊も、出てくる登場人物の間抜けっぷりが面白い。働き者の男の元に大家がやってきて、「嫁をもらう気はあるか?」と尋ねる。訳を聞くと、講談師の不動坊火焔が死に、未亡人となったお滝を妻に迎えないかという話。お滝は不動坊の借金を返さなければいけないのだが、誰かその借金を返せる人と縁を結びたいという。

 普通だったら、借金のある女との縁談は断りそうなものだが、働き者の男は可笑しな理屈でお滝と結婚することを決める。その話を聞いて黙っていられない長屋連中が、不動坊の幽霊と偽って、破談にしてやろうと企むという話である。

 あらすじだけでも、結構アクロバティックというか、現代では考えられないようなイタズラ企画なのだけれど、登場人物の全員がちょっとずつ可笑しな考えを持っているから面白い。

 お滝との結婚に浮かれる働き者の男が、銭湯で妄想に耽る場面や、破談の企みを実行する長屋連中の失敗ぶりが見どころの面白い話である。

 思い返せば、高校生の時分、私は夏祭りなどで同級生のカップルを見つけると、なんだか悔しくて邪魔をしてやりたいという気持ちがあった。あれが一体どこからやってくるのか自分でも分からない。僻み嫉み妬みは恐ろしいもので、色々と悪さをしてやろうという考えは巡ったのだが、結局、「〇〇と▽▽が祭りのときに一緒に歩いてたぜ」という噂を流すだけに留まった。後年、自分に彼女が出来たときは、あまりの浮かれっぷりに勉強も部活も手に付かなくなり、別れを切り出された時には全身の毛が抜けるような絶望感に苛まれたが、今、こうやって何とか孤独に生きることが出来ている。

 さて、何の話だったか。そうそう不動坊の話。かなり派手な話ではあるのだが、人間のヤンチャさ、滑稽さが不思議に面白い話である。中学・高校のいたずらな恋を思い出す一席だった。

 

 柳家小八 ねずみ

 喜多八師匠との思い出を語る小八さん。忘れてくださいと言ったけれど、微笑ましすぎて忘れられない。いいなぁ、私も喜多八師匠を見たかったなぁという思いがふつふつと沸き起こってくる。小八師匠の中で生きている喜多八師匠の姿に思いを馳せながら、演目は『ねずみ』、ここまでどの演者も尺の長い噺で、気合の詰まった回である。

 街を歩いていると一人の子供に「宿に泊まらない?」と誘われた男。行って見ると何やら訳ありの宿。訳を聞いて男はねずみを彫る。聞けば男は彫りの名人左甚五郎。甚五郎の彫ったねずみによって商売繁盛するのだが、商売仇は虎を彫ってねずみの動きを止めてしまう。再び宿を訪れた甚五郎がねずみに向かって一言申すと・・・というお話である。

 滔々とした落ち着きのある声と、力の抜けた語りが魅力的な小八師匠。何とも言えない脱力感に包まれながらも、元気ハツラツオロナミンCな子供や、その子供を見つめる腰を痛めた父親の目線が優しい。気取る様子もなく、静かにねずみを彫って去っていく甚五郎や、甚五郎の作品を見た田舎者たちの姿など、声量の大小や表情の濃淡を繊細に描き分けて、物語の強弱を見事に表現している小八師匠。

 特に、父親が語る貧乏な『ねずみ屋』を営むことになった噺は、しんみりとした雰囲気がある。甚五郎をどのように描くかもさることながら、父親の語りが特に見どころのお話であるように思う。

 甚五郎の活躍が光る一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その二 〜玄治店の再会〜

 昨晩の鬼気迫る迫真の表情を見ているだけに、穏やかに微笑えむ馬石師匠がちょっと怖い(笑)徐々に客が減っていく怖さを感じながら連続物に挑む馬石師匠。

 さらっと前回の予習をしながら、演目に入る。

 与三郎を殺そうとした源左衛門を止めたのはエドキンという髪結い床の男。与三郎を殺さずに金儲けをした方が良いと提案する。源左衛門は納得し、与三郎を簀巻きにして木更津の親類のもとに連れて行く。

 それから三年の月日が経ち、体中に三十四個所の傷を受けた与三郎は、一目を憚って縁日に出かけるのだが、周りの人々から稀有の眼で見られる。『切られ与三』などと異名が付く。かつては見ただけで女が帯を解くほどの美男子だった与三郎も、三十四個所の傷を負って誰も見向きをしない。それどころか誰もが避けて行く。縁日で使う10両の金を貰ったが、一切使わずに帰る途中、植木鉢を抱えた女と擦れ違い、与三郎はかつてのお富ではないかと疑う。気になって後を追うと玄治店という店の主人多左衛門の妾になっていることを知る。

 ゴロツキの蝙蝠安に連れられて金をねだりに妾の家に行く与三郎。お富さんであろうかと気になりながら、妾の家に行くと、そこにいたのは紛れもなく、あの日別れたお富の姿である。多左衛門の妾になったことを許せない気持ちを溢れさせ、「いやさ、これお富~」と鳴り物入りで名台詞を放つ。そこまでが今宵の一席だった。

 昨晩の衝撃が凄すぎたのか、今回は至って平安な、切羽詰まるような場面は無いにしろ、命を取り留めて金儲けの出汁にされ、顔に三十四個所の傷を負って『切られ与三』とまで言われるようになった与三郎の転落っぷりが可哀想である。運命がそうさせるのか、お富と出会ったときも、またしても金持ちの妾になっていることが許せない与三郎。お富に惚れ、とことんまで翻弄される与三郎の気持ちが痛いほど分かる。別れた直後に彼氏を作るような女なんて、好きになっちゃ駄目!魔性の女なんだから!と思いつつも、与三郎は諦めきれずにお富に惚れ込んでいく。

 お富もまた、誰かの妾になることは生きていくために仕方の無いことだったのだろうか。それでも、ちょっと不純すぎやしないか。男なら一度自分に惚れた女は、生涯自分に惚れ込み、他の男となんか付き合って欲しくないと思うのだが、それは淡い幻想であろうか。私が与三郎だったらお富を切って自分も死んでいるかも知れない。

 生きていくことの数奇な運命に翻弄されながら、何と言ってもこの話の一番の見どころは、再びお富に出会った与三郎が放つ台詞であろう。お囃子と相まって、絶品の艶やかさ。言葉の意味は何となくでしか分からないけれど、粋で、色気のある与三郎の名調子が、馬石師匠の柔らかくて耳馴染みの良い声と相まって心地よく聞こえてくる。

 第一話との雰囲気の差が段違いの、華やかな一席で、昨日の怖さは一体何だったのかと思うほどに明るい一席だった。ちょっと安心した。いつもの馬石師匠が戻ってきた気がした。

 いよいよ明日、物語は中盤である。これからさらに、どのように物語が展開されていくのか。お客は増えていくのか。見どころ満載の『お富与三郎』である。

 

 総括 連続して見ずとも

 『お富与三郎』をトリの演目に据えながら、脇を固める演者も演目も、凄まじく太くて渋い一夜だった。昨日のことがまだ脳内に残っているだけに、続きである今日の一席を聞くことが出来た意味はとても大きいような気がする。何せ、あんなに痛めつけられていた与三郎が、ぱっと粋にお富の前に現れて名調子・名セリフを言い放つのだから、陰と陽を見せつけられて心が中和される。

 何よりも馬石師匠のマクラと演目とのギャップが凄まじい。軽くサイコパスを疑ってしまうほど、演目に入った途端に切り替わる眼と表情に驚く。底知れない馬石師匠の連続物の凄味。是非味わってほしいと思う。あと、ポストカードの写真に添えられる言葉が、微妙に合ってるんだか合って無いんだか分からないところが面白い。

 たとえ連続して見なくとも、冒頭の馬石師匠の簡単な解説を聞いていれば、すっと頭の中にそれまでの情景が浮かんでくるだろう。連続して聴いている人は、よりはっきりと物語の筋を感じることが出来る。

 残り三公演。一体どんな最後になるのか、楽しみでならない。

心臓の鼓動(1)~9月13日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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おあとはとはとは

 

ごちそうさまでした

 

お酒様

 

横櫛 

  神様のいたずら

 「なぁ、これ何て読むの?」

 ユーロライブの壁に貼られたシブラクのポスターを眺める青年二人。

 金髪の男がツーブロックの男に向かってそう言った。

 「くまたがわ、うまいしじゃね?」

 「変な名前だな」

 それは「すみだがわ、ばせき、だ!」と心の中で思いつつ、私はぼんやりと渋谷らくごのポスターを眺めていた。

 9月13日~9月17日まで、隅田川馬石師匠がトリを取る五日間。落語に興味の無い人にとっては『くまたがわうまいし』が語る五日間である。

 十代目金原亭馬生師匠から、五街道雲助師匠へと受け継がれ、そして隅田川馬石師匠へと、継承の系譜を辿る『お富与三郎』。男女の色恋の話と言われているが、内実はもっと複雑に絡み合っている。

 直前まで、行くか悩んでいたのだが、一話だけ見て、興味が無かったら止めようと思っていた。ところが、一話を聴いて、その凄まじさに身震いし、最終日に不安はありつつも、私は五日間、通しで隅田川馬石師匠の『お富与三郎』を聴くことに決めた。きっとこれは神様のいたずらであろう。

 さて、今宵は隅田川馬石師匠をトリに据えた回である。一体『お富与三郎』とはどんな話であるのだろう。他の演者は一体何をやるのであろう。そんな期待感の中で、シブラク20時回が始まった。

 

 柳家小はぜ やかん泥

 物凄く若く見えるのだが、37歳の小はぜさん。歳を取らない薬でも飲んだのかと思うほど、きらきらとした眼差しと笑った時の笑顔がマダムキラーな噺家さんである。

 ふんわりとした柔らかくて優しい雰囲気があって、マシュマロとかマカロンが好きな人は小はぜさんが好きになるのではないか。一定のトーンと愛嬌のある間が可愛らしい。

 間抜けな新米泥棒のオトボケっぷりが炸裂する『やかん泥』というお話。泥棒をするという犯罪のお話でありながら、リスが他のリスの家から胡桃を盗んでいるかのような、ほんわかとした空気が流れている。

 人生、誰と出会うかは分からないが、何事にも向き不向きというものがあるらしい。たとえ、泥棒という道に足を突っ込んだとしても、小はぜさんの描き出す新米の泥棒だったら、きっといつかは立派な人間になるのではないか。どんな因果か泥棒になった新米泥棒の、温かな前途の見える一席だった。

 

 玉川奈々福/沢村美舟 阿武松緑之助

 渋谷らくご浪曲お姉さんである奈々福さんの登場。美舟さんは妖艶な佇まいに、左手薬指にはキラリと指輪が光っている。男だから、女の左手薬指は癖で見てしまう。話しかけることなど無いのに、美人を見るとつい「結婚してないかな・・・」と確認してしまうのは悪い癖である。私が与三郎だったら、手を出している(何を言っているやら)

 三味線の音に導かれて、語られたのは『阿武松緑之助』。大飯食らいの力士が入門した相撲部屋を追い出され、死のうと思っていたところ、その飯の食い様を認められ、再び別の相撲部屋に入って稽古し、やがては自分が追い出された相撲部屋の親方と勝負をするという一席である。

 人の才の向き不向きは誰にでもあるだろう。それをとことんまで突き詰めて行けば、必ず誰かが認めてくれる。その才が例え人より何十倍何百倍と飯を食うことであったとしても、人との差異は些細なもの。差があるか無いかなどどうってことではない。

 浪曲の話となると、随所に派手な見せ場がある。特に大飯をモリモリに盛る女中の姿や、三升も食べつくした長吉が「ごちそうさま」と言う場面には驚いた。「阿武松って、ごちそうさまって言うんだ・・・」という驚きがあり、落語で聞いてきた『阿武松』では、ただの一度も長吉はごちそうさまとは言わなかった。そこが少し驚きだった。一人の名横綱の人間らしさがぐっと身近になる一言だった。

 最後に武隈と戦う場面ではいつもうるっと来てしまう。特に勝利した長吉に向かって負けた武隈が言い放つ「強うなったなぁ~」という言葉を聞くと、うううっと胸が締め付けられて、感動する。

 たとえ一度は捨てられた才能も、諦めずにいれば花開く。圭子の夢は夜開く。自らの才能とは何かを考えさせてくれる。温かい一席でインターバル。

 

 立川吉笑 親子酒

 冒頭からガッツリホーム感の吉笑さん。マクラでは禁酒の話題から、未来の真打昇進パーティまでを詳細に語るという爆発ぶり。捲し立てるような語りで、想像を詳細に語り出す様は、『湯屋番』で番台に立つ若旦那よろしく、一人キ〇ガイになっていて、観客の想像の中で繰り広げられる吉笑さんの真打昇進披露パーティがとてつもなく面白く、全員がパーティに出席したいと思ったことだろう。

 ノリにノッた吉笑さんの禁酒解禁の妄想から、演目は『親子酒』である。「おおっ、まさかの古典かっ!」と驚いたが、そこは立川流である。オーソドックスな古典落語になる筈がない。

 その予想を遥かに上回るほど、吉笑さんらしい仕掛けが爆発する話だった。

 禁酒の約束をした親子。だが次第に耐えられず結局は飲んでしまう親。そこに帰ってきた息子も酔っぱらっていて、親子ともども約束を破って酔っぱらうという『親子酒』の一席。

 特に、マクラの一人キチ〇イが『親子酒』の話の中でも効果を及ぼしていて、吉笑さんの巧みな構成力が、マクラと演目に階層と繋がりを感じさせた。この辺りは恐らく狙ってやっている気もするのだが、緻密に計算され、会場の温かい雰囲気と相まって熱狂の話になった。

 汗だくになり、若干のトランス状態にあるかのような吉笑さんの語りが凄まじい。禁酒の約束を破った後の、女将さんの入れ知恵に僅かなしたたかさを感じてドキッとする。夫婦の禁断の関係まで感じさせるような男女の行動を、さらりと語る吉笑さんのスマートさが、古典落語を現代的な感覚で再構成しているように思えた。

 普段の古典落語に飽きたり、ちょっと古典落語の雰囲気が肌に合わないなと思ったら、立川流をオススメしたい。特に談笑一門の噺家さんのオリジナリティは凄まじいものがある。また、落語芸術協会噺家さんも率先して古典落語を現代風なアレンジを入れてやっている方もいる。落語協会では新作派の噺家さんや鈴々舎馬るこさんが古典改作派の筆頭だろう。一度聞いたら二度とオーソドックスな古典落語が聴けなくなる危険性もあるが、楽しみ方は人それぞれである。

 余談だが、私は目をパチパチしました。(隅田川馬石師匠の公演全部を聴くという人は、目をパチパチさせてくださいという吉笑さんの問いに対して)

 素晴らしい熱気と、爆笑の渦に包まれた一席。立川吉笑さんは今後、ますます吉笑さんらしい落語を生み続けていくのだろう。そんな勢いと熱量を感じた素晴らしい一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その一~木更津の見初め~

 さっぱりとした髪型と、餡子のような薄紫のお着物を着て登場の馬石師匠。丁寧なお辞儀の後、染み込むような優しい声と間で、今回の企画にお礼を述べて、普段の不思議な雰囲気を消して、語りの中でも自分を消していく馬石師匠。

 驚くほど想像しやすい語りと磨き上げられた言葉。ゆったりとした語りのリズムに伴って情景が鮮やかに浮かび上がり、一瞬で世界はお富与三郎の世界へと変わっていく。

 脈々と受け継がれた話であるだけに、馬石師匠の気合も並々ならぬものがある。全く落語を知らない人が聴いても、容易に情景を想像することができ、また、その語りの心地よさに心が惹き付けられることは間違いない。

 『お富与三郎 その一 木更津の見初め』は、見ただけで女が帯を解くほどの美男子である与三郎と、博打打ちの赤間源左衛門に金を積まれ妾となった絶世の美女であるお富が出会い、互いに逢瀬を重ねて行くのだが、子分の告げ口によって事が露見し、怒り狂った源左衛門が二人の間に割って入り、お富は海へと身を投げ、与三郎は顔を刀で傷付けられるというところまでを語った噺である。

 圧巻なのは、馬石師匠の語りである。今回、通し公演ということで5夜連続で回が行われているのだが、どこか一日でも良いから馬石師匠の語りを聴いて欲しい。きっと、それまで馬石師匠に抱いていたイメージをがらりと覆すような、真に迫った芸を見ることができる。

 とにかく、情景が見えるのである。与三郎の目線になってお富が見える。お富の目線で源左衛門が見える。源左衛門の目線で与三郎とお富が見えるのである。その語りの凄まじさに恐れ慄いて欲しい。

 美男である与三郎が江戸から木更津へとやってきて、お富を見つける場面の鮮やかな予感。お富と酒を酌み交わして良い仲になる与三郎。そんなことは露知らず、博打の旅から帰ってきた源左衛門が、子分と風呂場で交わす言葉。全てが鬼気迫っていて、子分が源左衛門の顔にぱっと泥をかける仕草をする場面には息が詰まった。

 随所に見どころがあって、私は源左衛門に向かって子分が与三郎とお富の関係を暴露する場面が好きである。子分の忠義心と源左衛門の疑心がぶつかり合い、やがて源左衛門が納得するまでの、ひりつくような関係性に唸るほど痺れた。

 この時、私は深い深い井戸の底で、月の光を浴びてトクンッ、トクンッと脈動する心臓の姿を見た。それは、紛れもなく渋谷らくごの心臓の鼓動だった。

 自らの生業に精を出す源左衛門がいる一方で、お富の心が与三郎に惹かれていくのは仕方の無いことであろうか。私は女心というものがとんと分からないが、滅多に家にいない乱暴な亭主と、美男子でいつも傍にいてくれる男だったら、女は美男子を選ぶものなのだろうか。それは女としての本能であるのか、それともお富の心の間隙に吹きすさぶ風に、お富自身が耐えられなくなり、間隙を埋めるために与三郎を求めてしまったのか。それは、決して語られることはない。あるのは、お富と与三郎が良い仲になったという事実だけである。

 亭主がありながら、別の男と良い仲になるお富を、どう見るべきか。非常に悩むところである。私が亭主側だったら許せないが、お富の立場を考えたら答えるのは難しい。まして、時代は今のように娯楽の多い世界ではない。人と人との会話が大きな楽しみとなっていた時代である。この辺りは、答えを出すことは出来ない。

 いずれにせよ、怒った源左衛門によって与三郎は縄で縛られ、顔を傷つけられる。人は怒ると眼になると言ったのは峠三吉であるが、馬石師匠の怒りに満ち溢れた眼は、正にそれを体現していた。今まで見た事も無い、馬石師匠の怒りの眼。全身が一つの眼となって、与三郎を見つめている。これは私の言葉だが、人は悲しいと鼻になり、嬉しいと口になり、楽しいと耳になるのではないかと思う。

 お富が海へと身投げしたという話を聞いても、悲嘆に暮れることなく、目の前の与三郎に怒りをぶちまける源左衛門の姿には、本当にお富を愛していたのだろうかという疑問が残る。女をファッションのように扱う成金を見かけることが多々あるが、源左衛門もそんな人間だったのではないかという疑問が沸き起こってくる。大事な装飾具を盗もうとした男に怒り狂う源左衛門の姿が恐ろしい。

 真の愛とは、どこにあるのか。真の愛とは、一体何なのか。

 与三郎にも良心というものがあれば、旦那のいるお富に手を出すことも無かったのではないか。想像するに、与三郎は自らが美男子であるということに、浸っていたのではないだろうか。自らの面を最高の道具として使っていたのではないだろうか。

 これは私の話だが、もしも見ただけで女が惚れるような面構えをしていたら、その面を存分に利用する。私だったら絶対に利用する。

 三浦翔平が、小林稔侍を旦那とする桐谷美玲に出会ったら、絶対に稔侍の留守中に美玲と良い仲になる筈である。最後は稔侍に見つかって刀でバッサリ切られて殺害され、「本身の刀だとは思わなかった・・・」という稔侍の供述の嘘を暴きに、古畑任三郎がやってくるだろう。(注:古畑任三郎Season1第七話『殺しのリハーサル』より)

 余談はさておき、源左衛門が与三郎を切りつける場面の凄惨さに思わず身震いしてしまう。残忍な源左衛門の行為に死を覚悟する与三郎の心に、痛いほど胸が締め付けられる。男女の恋心とは何と罪深きものであるか。同時に、こんな焦がれるような恋がしてみたいと思ってしまうのも男の性というものか。

 殺されるかに見えた与三郎は、何者かの仲裁によって命を助けられる。一体その人物とはだれなのか。それは、また明日の話。

 

 総括 見なきゃ損だよお前さん

 『お富与三郎』の終演後、全身を一気に駆け巡る疲れ。緊張でこわばった体が緩和し、力の抜けた腕で拍手をした。凄まじい一席である。連雀亭で見た松之丞さんの『甕割試合』と同じか、それ以上の力の抜けっぷりである。

 放心状態の中、しばし物語の世界を反芻しながら、私はゆっくりと立ち上がってユーロスペースを後にした。

 渋谷の街には、少しくらい小林稔侍に刀で顔を傷つけられた方が良い男も、いないではないのだが、そんなことを微塵も考えさせることのない鬼気迫る迫真の一席に、私はただただ茫然と、言葉も無くふらふらと歩いた。

 まだ、後四回ある。絶対に見なければ損だ。

 私も、与三郎のような美男に生まれたかった。冗談半分で友人から『ミャンマーに行けばモテモテじゃん?』と言われたことがあるが、ミャンマーに行ってまでモテようとは思わないし、そもそもミャンマーを何だと思っているんだ!という怒りが湧いてくる。

 日本の地に生まれ、実話を元に生み出されたという『お富与三郎』。現代のようにインターネットの社会で繋がり合い、出会って結ばれる男女が多い世界において、偶然の出会い、まして夫のいる女と良い仲になるという禁断の恋愛。お富と与三郎が辿る運命とは、一体どのようなものであるのだろうか。

 考えてみれば、小はぜさんの演目も数奇な運命によって泥棒になった新米の話であったのかも知れない。奈々福さんの話はとても数奇な運命によって大成した力士の話であった。吉笑さんの話は自らに科した規則を自ら破っていく人間の性を描いていた。

 そして、馬石師匠の話は数奇な男女の出来事を語っていた。

 何もかも、数奇な縁で結ばれているのかも知れない。その数奇な運命を、数奇にして模型。好きにしてもオッケーなのだろうか。

 では、翻って私の数奇な恋の運命とはいかに。。。

 さて、2話目もとても楽しみである。一体どんな話が、語られるのだろうか。

 もう一度言う。

 見なきゃ損だよお前さん。

ゆく川の流れの道理~ 9月13日 渋谷らくご 18時回~

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前座

 

嘘でもいいから 

  ガミガミ親父

 渋谷にいる若者達はみんな、パンケーキとタピオカミルクティーを求めている。渋谷に来ると、いつも私は、パンケーキを食べたそうにしていて、タピオカミルクティーを飲みたそうにしている若者達の顔を見ることになる。いつか糖尿病になるぞ、と心の中では思うのだが、それを口に出して言うことは無い。言ったところで、好きなものをやめることなど人には出来ない。なぜなら私は、落語を聞きたそうな顔をしていて、落語を求めている人間をたくさん知っているから。

 反抗期を終えて、太閤記を読み、抵抗器を弄りながら感動しアンノウンな未来を見つめていた若いころの私とは、生きてきた次元が違う若者達が街を闊歩している様子を脇目に、私はユーロライブへと歩いていた。

 すれ違う若者は、虹色に光るブレスレットを付けていたり、黒地に白文字で『ARMY』と書かれた服を着ていたり、追剥にでもあったかのようなジーンズを履いていたりする。幾分涼しくなって、過ごしやすくなったからこそ、心は開放的になって、色んなことへの欲望が花開く。圭子の夢は夜開く。

 ユーロライブへ行く道の途中、通りの壁に『新しい価値観が、未来を作る』と書かれたポスターがびっしりと貼られていた。目のやり場に困って道の花壇を眺めれば、片手にトリスハイボールの500ml缶を持ちながら、ニヤニヤと笑って嬉しそうに語り合う中年二人がいる。なぜか親近感が湧く。

 月は煌々と輝いている筈なのだが、渋谷のビル群に遮られて何も見えない。ふつふつと私の胸に沸き起こってくるのは、月の輝きを遮るビルや雲のような、横やり、注意、邪魔な思考。頭の中で、幾重にも生まれてくる言葉。それら全てが、渋谷を歩く若者への小言なのだけれど、私にそれを言う資格はない。虹色のブレスレットをしていようが、ARMYを着ていようが、ボロボロのジーンズを履いていようが、全ては許容されている世界。ああ~のんきだねぇ。という気分だが、私は昔を思い出す。

 かつて、私の故郷には何かと小言を言う爺さん、通称『ガミガミ親父』がいた。今、そのガミガミ親父が渋谷に来たら、一体どんなことを言うのだろうかと気になって仕方がない。

 ガミガミ親父は、人の子だろうと何だろうと、自分にとって気にくわないことは何でも言った。挨拶はきちんとしろ、田んぼで遊ぶな、どこの屋号のもんだ、暗くなると危ねぇから早く帰れ、などなど、色んなことを言われたものである。

 私は一度ガミガミ親父に出くわすと、なるべく怒られないように、静かにしている子供だった。絶えず人の眼ばかり気にしていたのがよくなかった。目も悪かったから、時々、父親に背格好の似ている人を自分の父親だと勘違いして、父親が見ているという緊張感で生きることがしばしばあった。

 時代の流れは不思議なもので、怒鳴ったり、注意したりする人をあまり見かけなくなった。どこの誰とも分からない人にいきなり怒鳴られる、ということが殆ど無くなった。神社仏閣などに行って手水舎での作法を間違え、蔑むような眼で罵倒された経験が私にはあるが、それもレアなケースだと言えるだろう。

 若い頃は、やたらと注意をしてくる煩い高齢者が大嫌いだった。頭でっかちで、頑固で、自分の常識を振りかざしてくる人間が、心の底から嫌いだった。過去の栄光に囚われて、「おれたちの若い頃は・・・」などと口癖のように言う高齢者が嫌でたまらなかった。そんなことよりも、新しいもの、新しい価値観、そして何よりも自分の信念こそが、新しい時代を切り開いて行くのだと私は思っていた。

 だが、大人になってみると、次第にそういう大人が減っていることに気づいた。というか、煩い高齢者も煩い高齢者なりに、苦しんでいたのだということが分かった。自分達の積み上げてきたものを、簡単に淘汰されてたまるか!という誇り。何よりも時代の中で必死に働きながら、生きてきたという自負。それが、強固な思想を作り上げていることに気づいたとき、安直に反抗していた自分の愚かさが恥ずかしくなった。

 『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という言葉のように、人は成長していくのだろうと思った。最初はぐんぐんと、重力に逆らって伸びる稲穂。これは人の若さに似ている。何ものにも屈しない力で、時の流れの中で成長し続けて行く。やがて、実りの秋となり稲穂が実ってくると、ゆっくりと風にたなびいて頭を垂れる。歳を重ねた人々も、経験故に若者の気持ちが分かってくる。そんな風景を、私は実社会の中で感じるのである。

 無論、全てが全てとは言わない。中には不条理な者もいるし、ずっと実らない者もいる。一概に全てを言うことは出来ないのだが、少なくとも、私はそういうことを考えられるほどには、社会を見てきたように思う。若い頃のように、煩い高齢者を即決で否定できない自分を認めるのである。

 今宵は、そんなことを考える一夜になった。

 

 入船亭扇辰 化け物使い

 人使いが荒く、誰も近寄りたがらない隠居の元に一人の田舎者がやってきて奉公をするのだが、隠居の引っ越し先に化け物が出るという話を聞き、田舎者は化け物が大嫌いだと言って隠居の元を去っていく。奉公人を失った隠居は化け物に出会い、化け物をこきつかっていくのだが、最後は化け物も隠居のもとを去ってしまう。

 そんな『化け物使い』という一席に、私は扇辰師匠の、小痴楽さんへの強いエールを感じた。

 それは、扇辰師匠が『化け物使い』のような日々を越えてきたのではないかと、思ったことがきっかけである。

 どんな場所に行っても、奉公をするからには奉公先の主の言うことを聞かなければならない。滅私奉公という言葉もあるように、誰かに仕えるということは自分を滅しなければならないこともある。自分を滅することの出来ない人は、奉公先を変えたり、別の仕事に付いたり、或いは自分で会社を起こしたりする。今は、時代の多様化に伴って、ありとあらゆる職業に就くことができる時代である。10年先には、新しい職業がたくさん出現しているという話も耳にする。生き方は自由だ。でも、会社に入って自分勝手に仕事をしていたら周りが迷惑をする。会社はチームで動いている。どんな社会も、自分で会社を起こさない限り、誰の指図も受けずに自分の裁量で動くということは容易には出来ないだろう。

 これは想像だが、落語の世界も師弟の関係はそれと同じなのではないか。前座になると、とにかく寄席で皆の為に働かなければならない。自分勝手に生きていると、師匠から仕事を貰えない。周りと良い人間関係が築けない。前座の苦労は想像を絶するのであろうと思う。同じような経験を、人生でしたことのある人間だけが分かる苦しみであろう。

 そんな時代を扇辰師匠は逃げずに乗り越えてきた。そんな風に私は思うのである。

 『化け物使い』の中には、小言ばかり言う隠居と、化け物が嫌いな杢さんが登場する。私は扇辰師匠の眼差しは、両者の気持ちを兼ねているように思うのだ。

 はたから見れば絶対に逃げ出したくなるような、文句ばかり言う隠居のもとで杢さんは黙々と働く。入船亭扇橋師匠に弟子入りした頃の、扇辰師匠の姿が見えてくる。どんなに周りが恐れるような苦労の中にあっても、自分の信じた道を突き進んで諦めず、自らの才能を磨き上げてきた扇辰師匠の姿が、そこにはある気がした。

 同時に、扇辰師匠は隠居の目線でも杢さんや化け物について小言を言い放つ。時を経て歳を重ね、小言の一つや二つを言う立場になった扇辰師匠の気持ちが目に見える。口は悪くとも、心は広くて大きい隠居の言葉が、不思議と嫌味に聞こえない。むしろ、積み上げてきたものに絶対の自信があるからこその、常人には理解が難しい細部への気配り。要領が悪いと杢さんに言われようとも、自らのスタイルを変えない姿勢。それだけの頑固さと実行力があるからこそ、人を使う立場になったのだろうと思わせる説得力が語りから感じられた。

 扇辰師匠の、隠居の言葉を借りた小言は、そのまま小痴楽さんに向けられていると私は思う。誰よりも相手のことを思っているからこそ、小言を言うのだ。相手が憎くって言っているのではなく、相手により良くなって欲しいと望んでいるからこそ小言を言うのだ。

 思えば、私の出会ったガミガミ親父だって、きっと私のことを思っていたから注意をしたのだ。時々、これは絶対に間違っているだろうと思うようなこともあったけれど、それでも、本当に相手のことが嫌いだったら無関心で何も言わないだろう。これは私の感覚だが、他人に対して無関心な人が増えたように思う。

 寂しいから、落語を聞こう。

 

 柳亭小痴楽 大工調べ

 年寄りの小言を突っぱねるような男でないことは、既に周知の事実である小痴楽さん。一見、傍若無人で乱雑なように見えて、実は年配からの信頼が厚そうな小痴楽さん。もうまもなく真打昇進という時期を迎えて、小痴楽さんほど現代の若者らしくありながら、同時に古き良き伝統の流れを汲んでいる落語家はそうそういない。

 小痴楽さんを何も知らない人が外見と言動だけで見たら、年寄りを足蹴にしそうな雰囲気(ごめんなさい)なのだが、実はそうではない。人は見た目によらない。きちんと、『何が正しいか』を理解している人だということが、『大工調べ』という一席、そしてそれに纏わるエピソードから伝わってくる。

 詳細については広瀬和夫さんが以下の記事で書いている。

 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190814-00000016-pseven-ent&p=1

  この記事を読む以前に、私は大阪の天満天神繁昌亭で小痴楽さんの『大工調べ』を聞いていた。特に、オチに捻りがあって、そのようなオチにした経緯が気になっていた。上記の記事を読んで、全てが腑に落ちたのである。

 小痴楽さんは自分の筋というものをとても大切にしている。もしも、『大工調べ』のオチが当初のままだったとしたら、小痴楽さんという人間の奥行きが狭くなっていたと思う。それだけに、小痴楽さん自ら、小遊三師匠の言葉に突き動かされ、左談次師匠に筋を通してオチを変えたという話は非常に興味深い。

 『大工調べ』という話は、店賃を溜めた与太郎が大家に大工道具を奪われ、それを取り返すために棟梁が力を貸したがために、大家と騒動になる話である。古今亭志ん朝師匠の録音を聴いてもらえば分かると思うが、オチがどうも道理に合わないのである。

 思えば、私には『自分が間違っているけれど、押し通したいこと』が人生の中で多々あったし、もしかしたらこれからもあるかも知れない。自分ではっきりと「ああ、ヤバイ、今、俺は完全に間違ったことを言っている・・・」と自覚しつつも、引っ込みがつかなくて突っ走り、大恥をかいた経験がある。恥ずかしすぎて詳細なエピソードを書くことが出来ない。道理に合わないと分かっていながら、押し通してしまった自分を恥じた経験が私にはあった。

 そんな経験のおかげか、扇辰師匠の『化け物使い』は、小痴楽さんの『大工調べ』を別の観点から考えさせてくれた一席になった。ガミガミ言うが筋の通っている隠居の一席の後で、威勢と勢いが良くて、ついつい肩を持ちたくなるが筋が違っている棟梁を、最後にバッサリと斬る大家の痛快な一言で終わる一席。

 小痴楽さんが意識しているかは分からないが、見事に扇辰師匠の気持ちを受けとめていると私は思った。

 これも想像であるが、扇辰師匠は一つの問いを小痴楽さんに投げかけたのだと思う。「小言ばかり言う隠居とその周辺に対して、お前はどう思う?」という問いに、小痴楽さんは「道理に合ってねぇことは、合ってねぇんだから仕方がねぇ」というような感じで、きちんと返している。自分に非があるときは、きちんと自分の非を詫びる姿勢。その潔さが、小痴楽さんの落語の爽快感に繋がっていると私は思う。

 この美しい二席の中に、扇辰師匠のエールと、それを受けて真打に昇進する小痴楽さんの気概を私は見た。

 二年前の9月、開演時刻をとっくに過ぎているのに、私の目の前を通り過ぎて行った小痴楽さんはもういない。今、しっかりとチケットを手売りし、道理を携えた一人の真打が、座布団の上で、無限に広がる落語の世界へと誘っていた。そして、あの日、圧巻の三井の大黒を見せた扇辰師匠は、渋く、ささやかに、ひっそりと、新真打に花を添えていたのである。多分、添えたのだと思う。いや、もしかしたら内心イライラしてるかも知れないけど。まぁ、洒落でしょう。

 

 総括 ゆく川の流れは絶えずして

 同じように見える川の流れであっても、一つとして同じものはない。時代、時代で、人々の趣味趣向は移ろいゆくものである。こと、渋谷においては、明日にはパンケーキも、タピオカミルクティーも流行から外れて、豆大福と抹茶が女子高生の流行になるかも知れない。世の中の流行りも、正しいさも、その時々で変わるのかも知れない。

 それでも、ここに、変わらないものがある。

 渋谷の奥地にある、ユーロライブの、小さな会場の中で、落語は語られている。齢を重ねた噺家と、これから羽ばたこうとする噺家が、落語の世界を通じて語り合っている。それを、あなたは見過ごしてしまうのだろうか。

 あなたにとってのガミガミ親父は、いつまでもガミガミ親父だろうか。道理には合わないことを無理に押し通すような、生き方もあるだろうし、道理の通りに生きる生き方もある。

 相手のことを知らず、ただ嫌悪感のみで相手を真っ向から否定するのはよろしくないようである。若者だからと言って馬鹿だとは限らず、高齢者だからと言って頑固とは限らない。思い込みと単純化を捨て去って、相手のことを思いやってみたいと思ったのなら、落語を聞けば良い。そこにはあなたが必ず気づくことの出来る、川の流れの道理がある。

 私はそっとゆく川の流れの道理を見つめ、ぼんやりと考えながら、次の回の開演を待つのだった。