落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

縁を綯う~7月16日 渋谷らくご 20時回~

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闇の深さに怯えながら、それでも覗き込むのさ 

 縁の意と意図、糸

 「どうにもならんよ、こればっかりは」

 見知らぬ居酒屋で、齢65になろうかという男はそう言って日本酒を飲んだ。お猪口に並々と注がれたお燗のしてある酒を、嬉しそうにぐいっと飲み干すと、ぷはぁっと息を吐いて、男はすっかり紅くなった頬を痒そうに掻きながら、私の方を見た。

 「所長、ちょっと飲み過ぎのようですが・・・」

 「ええねん。飲みたい時は飲む。なぁ、森野。おれが酒を飲んでるのか、酒がおれに飲まれてるのか、どっちやと思う」

 「それ、どっちも同じです」

 「いいや、違うんや。これが分からんと、さっきの話は分からん」

 徳利を満たしていた日本酒はあっという間に底を尽きた。私はカウンターに向かって「すいませーん、同じのもう一杯!燗でお願いしまーす」と叫んだ。

 店内には、私と所長以外の客はいなかった。人気の無い店である。人気が無い店ほど、トーキングイージーなことは無い。それなりに空間も広かったが、周りを気にせずに話すことができる。店を貸し切っているような気分だ。

 店員は気さくで、開店早々に来た若造と初老の男性コンビに驚く素振りも怪しむ素振りもなく、お通しを出して生ビールを出してくれた。

 店に入ってから、もう既に二時間が経とうとしていた。

 「ええか、森野。本当に不思議なもんや。男と女。ほんまにようわからん。だがな、森野。お前は分かる筈や。おれが言った言葉通りや」

 「人間万事塞翁が馬

 「そや。それや。それに尽きるで。だからどうしようもないねん、こればっかりは」

 揚げ豆腐をつつきながら、所長はすっかり酔っていた。既に同じ話を三回しているが、なかなか前に進まない。ちょっとずつ、ちょっとずつ確信に迫って行くような気がした私は、所長の言いたいことを何となく言ってみる。

 「良い時もあれば、悪い時もある。悪い時もあれば、良い時もある。これは、その時には分からない、ということですよね」

 「その通りや。そんでな、それがいつやってくるか、全く分からへんねん。気づいた時にはもう、遅いって時もあるんや。来るぞ、来るぞと思って来たら嬉しいけどな、来たらあっという間、一瞬で終わりや」

 「所長、それちょっと卑猥ですね」

 「レフト・アローンっちゅうやっちゃ」

 「行ってしまった・・・」

 店員さんが熱燗を持ってきてくれた。私は徳利を持って所長のお猪口に注ぐ。「すまんな」と言って所長はお猪口に入った酒を口に近づけると、温度を確かめるようにして一口飲み、「上出来や」と言って嬉しそうに机に置いた。

 「森野、お前は読書家なんや。もっとおれの言いたいことが上手く言えるやろ」

 所長とは、昔の映画や文豪の話で盛り上がる仲である。これは持論であるが、『古きを良く知る者は、例え自分より年上の人間との会話であっても、分け隔てなく話すことが出来る』と私は思っている。最初から年上だと思って『自分とは考えの違う人、古い考えの人だ』と突き放すのは勿体ない。どんな年齢差であっても、その差を埋めるのが本であり芸術でもあると私は思っている。

 そんなことを、所長に理解して頂いたのが嬉しくもあり、また僅かに重圧でもあるのだが、所長は私の言葉を待つように、じっと私の方を見ている。

 いつだって、その眼差しは優しく、そして、私に期待している眼がそこにある。

 少し、「うーーーん」と言いながら時間をもらって、私は口を開いた。

 「人間、いつ死ぬか分からないことと同じように、いつ誰と出会うかも分からないですよね。誰と出会うべきかも、誰と出会わずにいるべきかも。所長が仰ったようなことは、確かにどうにもなりません。良いか悪いかも、その時は分からない。でも、そうなる前と後では、はっきりと変わっている自分がいる。所長と出会ってから、僕は----」

 ふいに、所長は私の言葉を遮って、

 「そこから先はおれが言いたい。おれは森野、お前が面白いと思った。お前と初めて会うた時から、おもろいやっちゃと思ったんや。でもな、おれとお前が出会ったことは不幸かもしれへんで。おれにとっても、お前にとってもや」

 「そんなことありません。とても幸せですよ」

 「今はお前はそう思うとるかもしれん。でも、後々に---」

 「いや、ありえないですね。僕は感謝しても感謝しきれませんよ、所長には」

 「そうか。なら今は一緒や。おれもお前の言葉が好きや」

 「これ、僕が女だったら大変でしたね」

 「大変やったな」

 そう言って、私と所長は笑った。

 結局、所長が『どうにもならんよ』と言った、そのことが、今もずっと私の心の中に残っている。知らず知らず、歩き続けていたら、生き続けていたら、そのことになるのだ。そのことに気づいてから、何だか人と接することが楽になったような気がする。そして、そのことになったら、もう、覚悟を決めて相手を全力で楽しませること、そして自分も楽しむしかないのだ。

 縁の意とは、縁の意図とは、そして糸とは、そのことによって綯われ、やがては綱となるのだと思う。

 そんなことを思い出しながら、渋谷らくごの記事を書く。

 

 柳亭市童 夢の酒

 残念ながら、疲れがピークに達し、あまり覚えていない。申し訳ない。

 

 立川笑二 五貫裁き

 今日の会は、笑福亭福笑師匠を目当てに行った会だった。だから、笑二さんが何をやるかも気にしていなかったし、どんな演目でも面白いことには間違いないから、と至ってフラットな気持ちで高座を見ていた。

 だが、その考えは大きく覆されることとなった。

 『五貫裁き』という演目は、堅気になって八百屋を始めようとした八五郎が、大家さんの助言を信じて行動を起こすが、思い通りに行かず、徳力屋という質屋の旦那に怪我をさせられる。それを見た大家さんが奉行に訴え出ろと八五郎を説得し、名奉行である大岡越前に裁かれるのだが、徳力屋は裁かれず、八五郎が罰を受ける。困り果てた八五郎が大家さんに食ってかかるが、大家は罰を素直に受け入れろと八五郎を説得する。不思議に思いながらも大家を信じた八五郎は罰を素直に実行する。やがてその罰が、八五郎に八百屋を開かせる。

 というような話で、珍しく全編をざっくり記述した。それも笑二さんの芸が、物語の筋の随所で光っていたからである。

 まず、冒頭の八百屋を始めようとした八五郎の姿。笑二さんはマクラも少なく、八五郎という男を言い表す言葉を短く纏め、大家との会話でくっきりと八五郎という男の性格を浮かび上がらせる。

 言葉による立体的な人間の造形手法に鳥肌が立った。

 言葉だけで、あれほど一人の人間の精神と温度を表現できるなんて、想像もしていなかった。

 同時に大家の人と成りが、八五郎と会話すればするほど、浮き上がってくる。ひょっとすると、「こんにちわ、隠居さんいますか?」と「はいはい、どなた、ああ、八っつぁんかい」という短い言葉だけで、全ては表現しきれてしまうのではないか。

 なぜその時にそれを強く思ったのかは分からない。だが、その日の笑二さんの言葉、声、トーン、間。全てが絶妙に八五郎と大家を浮き上がらせていた。

 私自身も驚いているのだが、登場人物の深い信頼関係が滲み出てくるような会話を初めて聞いたように思った。

 徳力屋に怪我をさせられた八五郎の姿。それを見つめる大家の眼差し、言葉。決して説明されることの無い、二人の間に流れる情、信頼関係、絆、深い繋がり、人同士の強い結びつきを感じさせる言葉が、胸にじんわりと染みてくる。

 怪我をさせられ、奉行に訴えて見たが、返って自分が罰を受けることになっても、八五郎は大家さんに喚いたり、叫んだり、怒鳴ったりしない。「どういうことなんだ?」という大家への思いがあっても、それは最終的に「なんかよくわかんないけど、大家さんの言われた通りにしてみよう」という考えになる。

 この信頼関係に私は胸を打たれた。きっと八五郎には大家さんを信じる強い理由や心があるんだろうなぁ。大家さんも八五郎に多くを語らずとも、自らの知恵と心で助けてやっているんだなぁ、という二人の心が感じられて、思わずジーンときた。

 一旦は裁きを免れたかに見えた徳力屋も、次第に罰に苦しめられる。その心変わりが見ていて楽しい。八五郎に多くを語らない大家と、大家を信じる八五郎と、罰の真の意味に気づかない徳力屋の関係が、徐々に分かってくるのがとても面白かった。

 私は『五貫裁き』は人情噺であると思う。大岡政談の一つと言われているが、私は奉行よりも大家が主役だと思った。こと笑二さんの演じ方に関して言えば、私は大家さんだと思ったのである。

 終盤、鬼気迫る啖呵を徳力屋に向かって切る大家さんの場面がある。私はそれを聞いて涙が出そうになった。それは、大家さんが八五郎を思う気持ちが、徳力屋への怒りと共に溢れたように思ったからだ。笑二さんの声、眼、その真剣さにぐっと前のめりになって聴いた。凄い迫力だった。

 大家さんの啖呵を聞いた八五郎は、さぞ嬉しかったに違いないだろうと思った。同時に、大家さんを信じ続けた八五郎と、八五郎に知恵を与えた大家さん、二人の間の羨ましいまでの絆に、私は胸が締め付けられたのである。

 こんなに素晴らしい話があるのか、と感動に浸っている暇も無く、最期は何だか全てが時の流れの中へと消えていく終わり方。それでも、否、それだからこそ、聞き終えた後に笑二さんの凄さに震える思いだった。

 『五貫裁き』自体、初めて聞いた演目だった。笑二さんで聴いて、物凄く好きになった。Youtubeで様々に音源を聞いたが、渋谷らくごの高座で聴いた笑二さんの会に勝らなかった。それほどに、笑二さんの語りには何か凄まじいものがあったのだ。

 私が最初に抱いていた笑二さんの印象は、優しくて良い話をする大らかな落語家さんだった。元犬や、饅頭怖いを聞いた時は、優しい雰囲気そのままの人だなぁと思っていた。ところが立川談笑師匠の一門独演会でその考えは一変した。大喜利で告げられた衝撃のエピソードで、初めて笑二さんという人間の人間らしさを感じた。

 その後、お直しや居残り佐平次、棒鱈などを聞いて、もっとダークな部分、人間の浅ましい部分が感じられるようになって、言ってみれば芥川龍之介を『杜子春』や『鼻』を読んでいた人が、『蜘蛛の糸』や『地獄変』を読み始めたような感覚だろうか。笑顔の多い人だなぁと思っていたら、思わぬところでブチ切れたり、借金が多かったという情報を知った時のような衝撃があって、それ以来、底の見えない笑二さんの、見た目だけじゃない面白さに興味を惹かれるようになった。

 一体、どんな場所から笑二さんは人間を見ているんだろう。

 立川笑二という落語家の、凄まじいまでの深淵を覗き見た一席だった。正直、福笑師匠目当てだった自分を恥じたくらいの凄まじい一席だった。

 

 笑福亭福笑 桃太郎

 インターバル前に残った、何とも言えない凄みに自分でも戸惑いながらも、打率10割、敬遠の球ですらホームランに変える勢いの福笑師匠が高座に上がった。

 前回、『知的なアウトサイダー』と勝手に私が銘々した、内臓飛び出るくらいに面白いシブラクの四人の会があって以来の福笑師匠。とあるネットニュースでは『性善説桂枝雀に対して、性悪説笑福亭福笑』みたいな記事があって、正しくその説を立証するかのような『憧れの甲子園』で死ぬほど笑った身としては、福笑師匠を見逃すわけにはいかない。

 70歳の古希を迎えてもなお、衰えることの無い笑いへの情熱。一言一言が面白いし、何よりもダミ声を聞いた途端に、「ああ、これだよ、これこれ」と安心して笑う態勢が整う素晴らしい声。

 東京でもたまに聞く桃太郎が、福笑師匠の手によって大迫力、大爆笑の古典になっている。思わず私の席の近くにいた人が「今の新作?古典じゃないよね」と言うほど、思いっきり脚色されている。

 だが、桃太郎という古典に流れるのは面白可笑しく脚色したという、それだけでは無いことを、福笑師匠は最後の数分で見る者に気づかせてくれる。

 散々笑った後で、最後の最後に胸に染み込む教えを諭してくれるような、そんな尊い語り。オチを話すまでのゆっくりとした、静かなトーンと、そしてオチの言葉に、何百、何千もの感情を凝縮したような語り。

 まだ、あれほどの実感を込めてオチを言う落語家を私は知らない。歳を重ねた者だけが発することの出来る、実感の籠った語り。あれは、誰がどうやっても真似することの出来ない、究極の語りだと私は思う。

 出来ることならば、東京にどんどん来て欲しいと思うのだ。大阪の人が羨ましくて仕方がない。

 上方落語の記事をある程度書いてきたが、その中でも、笑福亭福笑師匠はあまりにも偉大な存在であると私は思うのだ。東京で言えば柳家小三治師匠や三遊亭円丈師匠、桂米丸師匠と同じように、重鎮であり、伝説であり、凄まじい落語家だと私は思っている。

 今更私が語らずとも、それは誰もが認識していることだと思う。

 そんな笑福亭福笑師匠の貫禄と年季の入った気合の高座。

 素晴らしい一席を見ることが出来た。

 

 柳亭小痴楽 宿屋の仇討ち

 小痴楽さんの宿屋の仇討ちに関して言えば、私は特別な思いを持って聞いた。というのも、小痴楽さんは7月14日に繁昌亭で『大工調べ』を、7月15日には成金で郡山に行っている。要するに、旅の終わりに7月16日の渋谷らくごを迎えているわけだ。

 きっと小痴楽さんの中で、旅の楽しさが溢れるほど実感を伴って湧いてきていたのではないだろうか。幸運にも上方での小痴楽さんの高座を見ることが出来た私にとっては、いつもの高座とは違う楽しみ方が出来た。

 始終三人でいる男達が会話をする場面も、それを咎める侍の場面も、お客に振り回される伊八の姿も、どれもが以前、深夜寄席で見た時よりも遥かに面白くなっていた。上方の話が挟み込まれる場面では、正しく一昨日行って来たのだろうという実感が籠っていて、私はなんだか嬉しくなった。旅をする落語家を追い、再び東京に戻って来た時にどんな言葉を話すのか、どんな演目をやるのか、追っているからこそ味わうことの出来る喜びが、ここにはあるように思えた。それは本当にたまたまだったけれど、不思議な感覚があって、小痴楽さんという一人の落語家が、真打に向けて準備段階に入っているんだなぁということが如実に感じられた。皆さんも是非、チケットは本人から買いましょう。

 こんな風にも思った。きっと、小痴楽さんにとっては人生の何もかもが落語と繋がっているのかも知れない。旅をした自分を思って『宿屋の仇討ち』をやったり、東京の落語の凄さを上方で見せてやるぞ!という気概を込めて『大工調べ』をやったのかも知れない。これは私の単なる推測でしか無いけれど、小痴楽さんには、そういう情熱のようなものを高座から感じた。全ては芸で魅せて行く。そんな小痴楽さんの美学があるのだとすれば、私はカッコイイなぁと思う。本人にその気があるかは分からないし、きっと語らないとは思うのだが、それでも一席一席、小痴楽さんそのものを爆発させて、会場を盛り上げているのは事実である。

 私も真打昇進の公演には必ず行く。どんな高座が見れるか、今から9月が楽しみだ。

 

 総括 綱と縄

 縁を糸とするならば、会う回数が増えれば増えるほど、その縁は綯われ、やがては縄となり、最終的には何物でも切れぬ綱となるのかも知れない。そう考えると、目に見えぬ縁の糸というものは、一度手繰り寄せたら、その糸を運命だと思い、良縁だと思ったならば、綱にするまで糸を綯えば良いと思うのだ。

 高座に上がる落語家さんを見れば見るほど好きになったり、新しい発見をするのは、私自身が縁の糸を綯っているからだと思う。文菊師匠と伸べえさん、その他私が好きな落語家さんとは皆、直接の話し合いは無くとも、演者と観客という強い縁の綱で結びついているように思う。

 今はまだ糸の人も、縄の人もいる。それは、人間関係と同じように、会えば会うほどに強く綯われていくものだと思うのだ。無論、バッサリと縁の糸を切って二度と綯わないという人も中にはいる。縁の糸を切るも綯うも、全ては縁を手繰り寄せる人次第では無いだろうか。

 冒頭、私は実体験を書いた。特に重要な部分は敢えて書かなかった。人それぞれ、想像して頂ければ良いと思ったからだ。

 どういうきっかけで、縁の糸、縄、綱を想像したのだったかは忘れた。ただ、この日の渋谷らくごで見た笑二さんの高座があまりにも素晴らしすぎて、しばらく言葉に窮していた時期に、ぼんやりとそんな言葉が浮かんできた。その言葉が浮かんできたと同時に、お世話になった所長との思い出が蘇って来て、「あっ、書けるな」と思ったので書いた次第である。

 近頃、私もより面白い文章が書きたいと思うようになってきた。つらつらと長い文章を読むのは読者も体力がいるであろうし、見た瞬間に気が滅入る人もいるであろうと思う。

 だが、これは私の演芸の記録でもあるので、そこを妥協するわけにもいかない。

 そういうわけで、演芸以外のブログを立ち上げようかと思案している。

 さて、どうしようか。

 それでは、また、次の機会に。

その熱量に用がある~7月15日 天満天神繁昌亭 昼席~

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ぬくもりという名の獣道

  Moanin'

 いつもと同じ時刻に起きる。上方遠征最終日の三日目、天気は良好である。それまでの二日間は、降りしきる雨ではなく疎らに降る雨であったため、幸いにも服が濡れて気分が落ち込むということは無かった。

 室内鑑賞が主であるから、体調管理はそれほど難しくはなく、たとえ湿り気を帯びた夜の街を歩いても苦ではなく、むしろどこか色気があって良いと思ったほどである。

 旅に終わりは付き物で、終わるからこそまた旅に出ようと思う。次はどんな景色を見ることが出来るのか、次はどんな芸に出会うことが出来るのか。『分け入っても分け入っても青い山』と詠んだのは種田山頭火であるが、私は山頭火と同じような心持ちで旅をしている。たとえ一人旅であっても、それが少しばかりの寂しさも伴わないのは、そこに自らの信念と情熱があるからである。足腰が丈夫であるならば、歩いた方が得である。心が折れることなく、情熱を失うことなく、前に進みたいと強く望むならば、進むべきであるし、恐らく私は進んでいるだろう。

 勿論、体の声を聞くことも大事である。諸先輩方の言葉によれば、年齢とともに心と体の差異を感じるという。「心では行けると思っていても、体が付いて来ない」という状況は、今の私には無い。そんな日が訪れるかどうかも疑わしいくらいである。それでも、もしその言葉通りの状態が私に訪れたとしたら、私はなるべく受け入れようとは思うであろうが、何とかならないものかと策を練るであろう。その策も全て失敗に終わろうと言うのであれば諦める、という訳にはいかない。きっと『心では諦めないが、体は諦める』瞬間が来るのかも知れない。いずれも、訪れて見なければ分からない。

 それでも、そんな状況が来ることを少しでも先延ばしすることは出来る。第三者に自らの身体を矯正してもらう、と言えば聞こえは良いが、要するにマッサージに行こうと思った。浅はかな考えかも知れないが、旅の疲れを癒すにはマッサージに限る。心がどれだけ癒されようとも、体も癒さねば広く活発に行動することは出来ないと思ったからだ。ローマの詩人ユベナリスは「健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」と書いている。私も同感である。祈り続けるだけではなく、一つ一つを確かめながら補正していく。心も体も。何と比較して補正していくかと問われれば、それは自らの理想である。どのような精神が健全であり、どのような身体が健康であるか。これは自らの判断に委ねられている。情報は溢れている。その中で、自らが信ずるものを信じれば良い。

 そんなことを、天満天神繁昌亭のすぐ近くのマッサージ店で肩を揉まれながら考えていた。とても気持ちが良く、それまでぼんやりしていた体の不調がスッキリした。マッサージ師は「お兄さん、肩凝ってますね。背中も張ってますよ」と言う。自分では気づかないうちに体に無理をさせていたのだろうと思う。

 マッサージ店を出ると、丁度、天満天神繁昌亭の開場時刻になっていた。桂二豆さんという方が一番太鼓を叩いていた。その音に引き込まれるかのように、ぞろぞろと繁昌亭の中へと入って行く人々。私もチケットを取り出して中に入った。

 いよいよ、目的の九ノ一さんの高座である。

 

 桂九ノ一 牛ほめ

 ほぼ満員の会場。年齢層が高い。恐らく60代が殆どであるように思えた。そんな中で、才気煥発、気迫と熱量を持った九ノ一さんが高座に上がった。

 一目見て、目には見えない強いオーラが九ノ一さんから放たれているように私は思った。別にスピリチュアルな話をするわけではない。それでも、確かにはっきりと、何か強いものが発散されているような佇まい。それをどう言い表せば良いか分からないが、とにかく、その雰囲気が私の心を打っていることは間違いない。

 東京で見る『牛ほめ』のどれとも異なる、力強い言葉と所作。才能という一言で片づけたくは無いが、素質という点では九ノ一さんの気迫と熱量はズバ抜けていると思う。何よりも、『この人がこの話をやったら、どんな風になるんだろう?』という思いを強く抱かせる。これは私の完全な好みであるが、これまで記してきた記事をお読みの方であればご理解頂けると思うのだが、文菊師匠や伸べえさんには『この人がこの話をやったら、どんな風になるんだろう?』と思う魅力がある。落語鑑賞において、それはとても重要なことだと思っている。古典という不変の物語をどのように演じるのか、それぞれ見る者には『自分の好きな演じ方』というものがあると思う。『この話をこの人で聴きたい』という思いがあるからこそ、足繁く寄席に通ってお目当ての落語家を見たり、独演会に行って落語を楽しむ。もちろん、それ以外にも様々な理由はあるだろう。私に限って言えば、『この人がこの話をやったら、どんな風になるんだろう?』という思いが、追いたい落語家を決定している。

 そんな思いで私は九ノ一さんの高座を見た。やはり、他の誰とも違う、覇気のある力強い高座。何度も聞いている前座噺なのに、そこにまだ私が見た事の無い新しい雰囲気、視点が感じられた。何よりも才気走っていて、声が大きくて、笑顔が物凄くくっきりとしている。顔が大きいせいもあるかも知れないが、何もかもがダイナミック。

 私は思った。

 

 あっぱれ!!!桂九ノ一!!!

 

 これから、どんな風に進化していくのか楽しみでならない。出来ることならば、頻繁に東京で活躍する落語家になって欲しいと思っている。他の誰とも違う、唯一無二の気迫と熱量を武器に、磨きに磨きをかけて行って欲しいと思う。同時に、大阪の地でしかその成長ぶりを逐一見ることが出来ないというのが、非常に嘆かわしい。東京にも凄い前座さんはたくさんいる。春風亭朝七さんや林家やまびこさん、柳家小はださんなど、それぞれの個性を十二分に発揮して、未来の落語界を担うと思う前座さん達が大勢いる。その中に混じって、上方には桂九ノ一さんがいる。

 もしも大阪に住まわれている方がいるならば、九ノ一さんの高座に触れて欲しいと思う。そして、応援して欲しいと思う。それほどに、凄い才能だと私は思っている。いずれは名人であると信じて疑わない佇まい、オーラが九ノ一さんにはある。

 迫力の牛ほめで袖へと去って行く九ノ一さん。会場にいたお客様は未来の名人の高座を万雷の拍手で包み込んだのだった。

 

 笑福亭松五 平林

 ゆったりとした足取りで高座に座る松五さん、お初。虚弱体質という風に見えるのは、先ほどの九ノ一さんの高座を見た影響なのか。静かに滔々と演目へ入った。

 上方であっても、平林の読み方は変わらないようである。オチは異なっていたが、静かで奥行きのある高座だった。

 

 桂ちょうば 皿屋敷

 twitterでは良く目にしていた桂ちょうばさん、お初。すっきりとした顔立ちと飄々とした語り口が心地よい。演目は怪談話寄りの滑稽話で、鳴り物も入って実に鮮やか。流暢な語りと、さらさらとした春の陽射しに照らされた川の流れを見ているかのような淀みの無い語り口。三連休の初日に見た吉坊さんと同じく、しっかりと細部にまで気の入った所作。どこか掴みどころのない、ふらふらっとした雰囲気、あっさりした雰囲気が何とも言えないオーラを発していて面白い。近所の含蓄のあるお兄さんが、弟や弟の友達にせがまれて、仕方なく落語を一席披露してみたら、めちゃくちゃ上手で拍手喝采。というような光景を想像するくらいに、抜け目なく上手い。

 幽霊を怖がる男にも可愛らしさがある。言い方は失礼かも知れないが、絶妙な詐欺師感がある。可愛らしい愛嬌のある声と顔で駄々をこねられたら、思わず何でも買ってしまいそうな、そんな飄々とした明るさを高座から感じた。

 と言っても、初見である。出来ることなら、もう少し他の演目も見てみたい。

 

 笑福亭智之介 マジック

 「鮮やかでございます」だったか、そのような言葉が決まり文句の智之介さん。

 初めての方が多いのか、客席には引き込まれたご婦人が多く。「あらー!!!」とか「おおっー!!!」という声が上がっていた。

 何度見ても種が分からない私は、ただひたすら沈思黙考していた。あのマジックの種は、一体何なのだろうかと。

 

 森乃福郎 紀州

 物凄い顔の小ささと太い眉に名人の風格を漂わせる福郎師匠、お初。柔らかく教え諭すような優しい語り口が耳に心地よい。愛嬌もあって可愛らしく、語りのふんわりとした感じが他に無い個性を放っている。『紀州』という演目は、簡単に言えば『次代の将軍を決める』というお話であるが、様々に挿話が入り込んで脱線する部分に面白さがある。

 年の功とも呼ぼうか、様々に知識を披露する福郎さんの含蓄のある語り。この辺りは年齢の高い落語家の特権とも呼ぶべき利点で、歳を重ねているからこそ言うことが出来る様々な情報、考え方は聴くだけでも非常に価値があると思う。何せたかだか二十年しか生きていない青年と、齢98を迎えようとする大老とでは、圧倒的に経験に差がある。この経験の差を上手く纏め、人々に伝わる形で披露できるのが、高齢となった落語家である。ただ高齢であるというだけでも、有難いお話を聞く価値はあるが、それだけにとどまらず、言葉の一つ一つにひょっと顔を出す知性には、痺れるほどの面白味がある。

 東京で言えば柳家小満ん師匠、柳家小里ん師匠などは、聞いているだけで痺れるくらいにカッコイイ言葉を聞くことが出来る。それと同じように、上方には笑福亭福笑師匠のような、ハッとするような言葉を放つ落語家さんがいるのだ。

 森乃福郎師匠も、その愛嬌のある風貌から放たれる含蓄のある言葉が素晴らしかった。とても貴重な時間に立ち会うことが出来たように思う。

 

 口上 笑福亭笑瓶 森乃福郎 桂文之助

 口上では、テレビでお馴染み笑瓶さんと、仲トリの福郎師匠、そしてお初の文之助師匠。笑いに包まれた良い口上だった。福郎師匠の「次リニューアルするときは、私はいませんので、その分もお祝いしときます」という言葉に少し胸がきゅっとする。もしかしたら、私は再び繁昌亭のリニューアルに立ち会うかも知れない。その時は、この光景を忘れないようにしようと思った。同時に、私の書く記事全ては、私自身が記憶に残すため、同時に、一人の演芸ブロガーが生きた時代に出会った演芸に対する思いを多くの人に伝えるために書いている。

 どうか、末永く続くことと、御贔屓頂ければと存じます。

 

 笑福亭笑瓶 VIP患者

 一切テレビを見なくなった私が、幼い頃に良く見かけていた笑瓶さん。薬のCMで声を担当もされていた。高座も、生で見るのも初。一体どんな落語が聴けるんだろう!?と思いきや、仲入りの抽選会が長引いて、急遽、漫談へ。

 これがどれも面白い。会場がドッカンドッカンとウケていた。特に糖尿病の話から、病院の話など、短い持ち時間の中で、腹を抱えて笑ってしまうほど面白かった。私の近くにいたお客様も、全身をよじらせながら「あっはっはっはー」と笑っていた。

 昨年の9月から繁昌亭に出ておらず、自ら『上方落語の天然記念物』と仰る笑瓶師匠。どうやら体調を崩されたり、ご病気をされていたようである。テレビを全く見ないので、まだ見ていた2016年以降、とんと芸能界、テレビに興味を失ってしまった。

 生の演芸の魅力に惹かれているため、テレビの芸能人に対する私の捉え方は、テレビを見る多くの人達とかけ離れてしまっているのではないか、と思う。不祥事、不倫、その他事件に関しても、特別な興味を抱かなくなってしまった。何も考えが無いというわけではないが、取り立てて述べるまでもない、と思っている。

 たとえテレビに出なくなったとしても、生で、生きていて、その高座が面白ければ十分であると思う。テレビに出なくなったからと言って、人気が無い、死んだ、ということにはならない。テレビは頂点では無い、少なくとも私にとっては。ラジオだって、Youtubeだって、幾らでも自らの情報を発信する術はあるのだ。用いるべき手段を用いて、世に出れば良いと私は思う。

 爆笑の渦に包まれて、颯爽と帰って行く笑瓶師匠。とても貴重な高座だった。

 

 桂文之助 星野屋

 気象予報士の資格を持つという、見た目も真面目そうな文之助師匠、お初。ネタは露の都師匠と被って『星野屋』。女形の色気があって良い。優しい顔立ちと知性がある。まだ初見であるため、これと言って特徴を述べることは難しいが、端正で落ち着いた語りがしみじみと心地よかった。

 

 総括 上方落語の熱量

 これで、三連休の上方落語遠征は幕を閉じることとなった。帰り際、桂九ノ一さんをお見かけすると、「あっ、昨日の・・・」と九ノ一さんは言ったが、私が出会ったのは一昨日である。これで私の『兵庫船間違い』もチャラになるであろうと思った。

 「最高でした」と言って九ノ一さんと握手を交わした。またいつか必ず私は九ノ一さんに出会うだろう。その時には、今日見た数倍、数百倍も凄い高座が見れる筈である。

 外に出ると、笑福亭笑瓶さんがサインに応じていた。東京から来たことを告げて、サインを頂いた。滅多に生でお会いすることの出来ない人だと思ったから嬉しかった。嬉しすぎて、演目の張り出された写真を撮り忘れたが、仕方ないと思って諦めた。

 素晴らしい三日間だった。初日には熱く品のある高座を見、二日目は浪曲の熱と東西の熱のぶつかり合いを見、そして三日目に若き一人の落語家の熱を見た。ご飯だったらアツアツである。風呂であったら高温過ぎて茹で上がる。それほどに、凄まじい熱量が上方落語にはあった。

 心底、自分は落語が好きなのだな、と思う。出来ることなら、その思いが多くの人に伝われば良いな、とも思う。私の記事を読んで、たくさんの落語家を好きになって、色んな良いところを発見してくれたら、こんなに嬉しいことは無い。願わくば、私と同じように、自らの言葉で語り始めてくれたら、私は喜んでその記事を読む。

 話すことは相変わらず苦手で、芸人さんの前に出ると緊張するけれど、少しでも自分の思いを直接言うことが出来るように、これからも演芸を見続けて行きたい。

 東京も大阪も、それぞれに素晴らしい落語家はたくさんいるのだ。

 あなたにも、そんな素敵な落語家との出会い、素敵な演芸との出会いが訪れる日が来る。望み続ければ、必ずそれはやってくる。

 上方三部作の記事を読んで頂いた方がいたら、本当に感謝である。またいずれ、上方落語の記事は書く予定である。

 良い出会いに恵まれた三日間。これからも私は良い出会いに恵まれるだろう。

 今はただ、その予感に胸を高鳴らせながら、この記事を終わりたいと思う。

 それでは、また、いずれどこかの会で、ご一緒致しましょう。 

東の意地と西の度量~7月14日 東西交流会in天満天神繁昌亭~

 

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えっ

 

子供が生まれたんですよ

 

こっちー

 

 転失気問題

 

すみれの花が~

 

ちんぴはちんぴ

 

 一心寺から繁昌亭へ

 一心寺を出て繁昌亭まで歩く。およそ1時間ほどで到着した。

 会場前にはゾロゾロと人が集まっている。チケットを切ってもらい、中に入ると、そこには何と桂紋四郎さんがいた。軽く挨拶をして指定の位置に着座。

 会場は物凄い数の人、人、人。見れば若い人も大勢いる。落語は老若男女問わない演芸だと心底思う。落語は年配の方々が見るものというイメージを抱いている方が多いように感じられるが、流れはむしろ若い人達にあるような気がする。

 もちろん、綺麗なご婦人も多い。客席に耳をそば立てていると、 どうやら初めての人が多い様子。

 東の落語家さん達が、西のホームでどんな風に受け入れられるのか。そして西の落語家さんは、どんな風に受け入れられているのか。そんな単純な疑問を抱きながら、活気のある会場で、いよいよ東西交流会が始まった。

 

 笑福亭鉄瓶 天災

 Twitterで何度か目にしたことのある鉄瓶さん。読み方は『てっぺい』。見た目からキレッキレの、炎のように燃える、熱い雰囲気を感じるお姿。マクラから怒涛の勢いで激情をぶちまけながら、会場を盛り上げる。勝手に頭の中で浮かんできたあだ名は『怒りのポンポコリン』という感じで、何となく『平成狸合戦ぽんぽこ』の鷹ヶ森の権太を想起させる。

 怒ってはいるのだけど、それが全然嫌味に聞こえない語り口。共感してしまう可哀想な状況。「許せない!」という思いよりも「おかしくないですか?」と問いかけてストレスを発散する姿勢が素晴らしいと思う。相手を傷つけずに正しく言い返す術は見習いたい。

 天災という話は、簡単に言えば『いい教えを聞いた男が、それを試して失敗する』という内容である。初めに出てくる短気な男に不思議な愛嬌がある。日常生活では絶対に出会いたくは無いのだけれど、少し間の抜けた考えの持ち主なんだなぁと思うと、なんだか可愛らしくも感じられる。男が妻と母親を叩くなど、やっていることは信じられないほど理不尽なのだけれど、それが全く嫌味に感じられない鉄瓶さんの語りと所作。恐らく肚に何も無い、短気の中の短気っぽさを感じるから、肚でどうのこうのと考えるよりも先に手が出てしまう男の、その単純さが嫌味にならないのかもしれない。短期な男に清々しさを感じたほどである。もちろん、一にも二にも「人を叩くなんて許せない!!!」と過敏になる人には、短気な男は受け入れられないかも知れないが、そこは自分に影響が無いフィクションと捉えて、楽しんで頂ければと思う。

 そんな短気な男が心学の先生に出会う。この部分のやりとりも上方らしさがあって面白く、冒頭のマクラが混ざり合って、会場は爆笑の嵐。ひょっとすると、鉄瓶さん自身も短気で根に持つタイプなのかなと思ってしまうほど真に迫っている。また、短気な男が友人に教えを試して失敗する場面は、最高潮の盛り上がりを見せた。

 お初だったけれど、怒りを上手に芸に落とし込んで、笑いに変え、天災という話の面白さをブーストさせていたように思う。マクラから演目への流れも最高で、さっぱりさわやかなストレス発散のような、お見事な一席だった。

 

 三遊亭朝橘 茄子娘

 東京でもあまりお目にする機会の無い朝橘さん、お初。読み方は『ちょうきつ』。2017年の4月に真打に昇進している円楽一門の落語家さんである。

 風貌は、霊長類の動物に似ており、若干強面ではありながら、たっぷりのマクラで生まれたばかりの赤ん坊について語る。赤ん坊に対する愛が高座から溢れていて、客席も大盛り上がり。その流れで演目へ。

 茄子娘という話は、簡単に言えば『茄子と結婚して子が生まれる』という、ファンタジックなお話。初めて聞くと「なんじゃこりゃ」と思うかも知れないが、聞いてみると面白いお話である。一体どんな想像力を駆使すれば、こんな話を思いつくことが出来るのか。きっと作者自身も茄子が大好物であったに違いないと思う。

 ひょんな勘違いから茄子が和尚のを訪ねるのだが、その時の茄子の語りも細部に茄子独特の訛り(?)があって面白い。茄子に絡めた小噺を幾つも聴いているような感じである。きっと赤ん坊が生まれて、より実感を伴って朝橘さん自身も語ることが出来るのだな、と思うほどに愛に溢れた語り。三遊亭円楽師匠譲りの懐の深い、見るものを愛でる眼差しと語りの温度。そして知性と人の心の温かさを感じさせる声と所作。殆ど見る機会は無いけれど、高座から発せられる父性が温かい。自分にもいつか、そんな日が来るのだろうか。私も出来ることなら玉ねぎと結婚して、毎日泣かされたい。と思うが、それはさておき、父になった朝橘さんの温かい一席だった。

 

 桂二乗 天狗さし

 お次はお初の桂二乗さん。見た目の雰囲気では優等生感のある知的な風貌。きっと飲み会とかでも会計係とか、酔った人を介抱したりとか、忘れ物が無いか最後に確認して帰るような人だろうな、という見た目。

 声も真面目でまっつぐな印象を受ける。どこかの社長令嬢が見たら一目惚れしてしまうんじゃないかと思うほど、真面目さが高座から醸し出されているように私には感じられた。独演会に行ったら、きっと働き盛りのキャリアウーマンがわんさかいるに違いない、とそこまで妄想するほどに、端正で真面目な語り。

 そんな二乗さんが東西交流会のメンバーをあだ名で呼んだりすると、思わずドキッとする(乙女かっ)。私が女性だったら、結婚するのはこういう人だろうな、と思う。文菊師匠は私には高嶺の花過ぎるし、一緒に居たらきっと文菊師匠を駄目にしてしまうと思うの。だからあたし、二乗さんならいいかなって、思うわ。(突然の乙女化)

 演目の『天狗さし』は、初めて聞いたお話。上方でしか聞けない珍しい話を聞けるのは、本当にありがたい。もっとちょうだい!という気持ちになる。

 この話は、簡単に言えば『金儲けのために天狗を刺そうとする男が、坊主を刺す』という内容で、冒頭から馬鹿馬鹿しくて最高に面白い。金儲けを持ちかける男の、単純かつズレにズレた奇想に振り回され、ほぼ狂人なのではないかと思うほどに、自らの欲望?のままに突っ走って行く。この辺り、春風亭昇々さんがやったら狂いっぷりが加算されて面白いのではないかと思う。

 二乗さんの真面目な雰囲気とは裏腹に、金儲けを企む男の奇天烈っぷりがさく裂する滅茶苦茶な話で、真面目さと奇天烈さのバランスが絶妙にマッチした不思議に面白いネタだった。そもそも、この話がなぜ出来たのか気になるし、男がなぜ金儲けに天狗を選んだのかも気になる。また、天狗を保管しておく蔵で天狗が泣くところの描写があるのだが、妙にリアリティがあってゾッとした。

 話の面白さを支える二乗さんの端正で癖の無い語りが素晴らしかった。出来ることならば、もっと他の話も聞いてみたい。文菊師匠とは異なる、上方の品格を感じた一席。凄い落語家さんが上方にはたくさんいるなぁ、と改めて思う。

 

 柳亭小痴楽 大工調べ

 仲入り前のトリは柳亭小痴楽さん。東京で頻繁に高座を見ているせいか、心の中で「頑張れ!」と応援してしまう。そんな応援なんてせずとも、小痴楽さんは小痴楽さんのままで最高の語りを始める。どこかの街のヤンチャな兄貴的風貌ながら、ちょっとお茶目なハプニングをしつつ高座に上がってきた小痴楽さん。全てを曝け出して笑いに変える姿がカッコイイ。私が女性だったら結婚相手は二乗さんだが、遊ぶならこっちーにする(何言ってるんだか)

 東京では定番のマクラも、真打昇進に関するマクラも、とにかく会場がドカーンッとウケる。若い女性達も喜々として嬉しそうに笑っていた。飾らずにスタイリッシュで、ありのままでまっつぐ、そんな痛快、爽快な小痴楽さんの流暢な語りに流されるがまま、うっとりとしていると『棟梁』のワードが出てきて、思わず胸が高鳴る。

 

 ここで大工調べか!!!

 

 これはあくまでも私情だが、江戸落語の真髄を見せようという小痴楽さんの気概、そして真打に向けてより一層気合が入っているのだという、一つの証明として、西のホームで小痴楽さんは大工調べをやろうと決めていたのではないか。どれだけの人の胸が高鳴ったかは分からないが、私は小痴楽さんのネタ選択に、並々ならぬ強い意志を感じたのである。

 冒頭の与太郎と棟梁が会話をする場面。棟梁の面倒見の良さが胸にジーンと来る。それを間に受けることなくぼーっとした与太郎がまた可愛らしい。大家の家に行って失敗する与太郎も、大家の家に行って大工の道具を返してくれと頼み込む棟梁も、温かい人の情がある。会場も物凄く温かくなっているように感じられた。小痴楽さんの、あの美しい流れを耳に感じる語りに、会場にいた誰もが虜になっていた。

 そして、棟梁が大家に啖呵を言う場面。一切の淀みなく、凄まじい語りのテンポに思わず鳥肌が立つ。

 

 うわぁ、うわぁ、うわぁ、うわぁ

 すげぇ、すげぇ、すげぇ、すげぇ!!!

 

 段々と啖呵が後半に行くにつれて、私の心の中で、小痴楽さんへの「すげぇ!」がヒートアップしてくる。

 そして、啖呵を言い切った瞬間。会場からは割れんばかりの拍手。喝采

 東京から来た私ですら感動で茫然としてしまうほどの絶品の、圧巻の、凄まじい啖呵。それが、大阪の人々にも受け入れられたのだなと思うと、なぜか感動してしまう。東京で普段見る高座には無い。上方ならではの空気感と迫力。正に前々記事で書いたような『そこにしか無いもの』に出会った瞬間だった。

 素晴らしかった。あまりにも素晴らしかった。黄金の調べと言ってもよいほど、勢いと、激しさと、小痴楽さんの全てが凝縮されたような最高の啖呵だった。

 さらに凄まじいのは、その啖呵の後で与太郎が毒を吐く場面。これも啖呵の勢いそのままに、会場がドッカンドッカンとウケる。さぞ小痴楽さんも気持ちいいだろうな、と思うほど、渦のように爆笑が巻き起こっていた。

 最後のオチもお見事。仲入り前に会場は最高潮の盛り上がりを見せた。

 圧巻、圧巻、圧巻。

 

 凄いぞ!!!小痴楽さん!!!

 

 春風亭昇也 長命

 圧巻の『大工調べ』の後、客席は大いに盛り上がっていた。袖に下がる小痴楽さんが扇子を首後ろの着物に入れる部分を見た女性達がキャーキャー言っていた。物凄い狂喜の仲入りに、私も自分のことのように嬉しかった。江戸にも凄い落語家さんはたくさんいるよ。是非見においでよ。と思いながら、仲入りが終わった。

 春風亭昇太師匠の結婚に絡めた話をするお弟子さんの中では、この人の語りを聞くのが面白いかも知れないと思えるほど、キャスターのような語りで、ウキウキしながら毒舌も加味していく昇也さん。会場を味方に付けながら、一緒になって自らの師匠の結婚について語る昇也さんは物凄く嬉しそうだった。

 成金の話も出た。マクラから毒舌全開である。そんな流れで、ネタは長命(短命でも可)。江戸落語を親しむ私としては、昇也さんのネタ選択に思わず、

 

 うおお!凄い!短命だ!!!

 

 と心の中で唸った。先ほどの小痴楽さん然り、この二人のネタ選択には勢いを感じる。昇也さんも昇也さんで、時事に絡めてきたと思った。

 これがもう、どう書いても、あの時の面白さを表現できないのがもどかしいのだが、昇太師匠の結婚が、普段の短命に思いっきり挟み込まれていて、それだけで会場が物凄い爆笑に包まれていた。会場が爆破されたのではないかと思うほど、とにかくウケていた。あんなにウケた短命を聞いたのは人生で初めてである。

 何よりも、会場にいた人々が昇太師匠を知っているし、昇也さんの語りに愛があったからこそ、あそこまで最高潮に盛り上がる短命になったのだと思う。詳細は詳しく書かないが、もし機会があるのならば、なるべく昇太師匠の話題がホットな内(いつまでするか分からないが)に、短命の演目を聞いて頂きたいと思う。物凄く面白い。異常な面白さの短命。むしろ『短命(昇太師匠結婚ver)』とした方が良いくらいである。

 とにかく、面白いのである。もう一度言う。

 

 とにかく、面白い!!!

 

 桂佐ん吉 浮かれの屑より

 トリは桂佐ん吉さん。今月、桂紋四郎さんの会でお見かけし、丁寧で、上手い、絶品の語りを披露した佐ん吉さん。話に引き込む話芸ももちろんのこと、鳴り物に合わせて動く所作が凄まじい。

 東京では『紙屑屋』と呼べるお話である。私は初音家左橋師匠と林家たい平師匠でしか聞いたことが無い。上方では音曲噺の最高峰として知られる演目であるそうだ。

 最後を飾るにふさわしい鳴り物が連続するお話で、それに合わせて佐ん吉さんが動く、動く、動く。よくあれだけ動いても息切れしないなと感心してしまうほど、きめ細かい動きは圧巻だった。

 この話は、簡単に言えば『親に勘当された若旦那が、紙屑屋を始める』という内容で、紙屑などを取り分ける蔵の近くに、三味線の稽古屋があるという設定。若旦那は様々に紙屑を取り分けながらも、三味線のせいだったり、手紙や本のせいで色々と気が散って、集中力がない。どこか愛らしく、根っからの道楽者なのだなぁ、という雰囲気と、その道楽に心底熱中しているのだろうなぁ、ということが、三味線の音色にあわせて踊る仕草から見受けられた。

 前日に桂吉坊さんの『七段目』で音曲噺を聞き、ここで佐ん吉さんの音曲噺の最高峰に出会えるとは思ってもいなかったし、とても幸運なことだと思った。鳴り物が入ると、ぐっと鮮やかに景色が映える。佐ん吉さんの踊りも美しかった。

 笑いだけではなく、艶やかで芯の通った芸を見ると、心がキュッと引き締まる。

 素晴らしい音曲噺で、東西交流会は幕を閉じた。

 

 総括 最高の東西交流

 東京にいても、あまり見ることが出来ない白熱の高座を見ることが出来た。きっと、東西の落語家が、それぞれに、それぞれの場所で圧巻の高座を披露してきたからこそ、今日のように、大盛り上がりの会が行われたのだろうと思う。聞けば、東西交流会が始まって以来、初めての超満員だそうで、約250人ほど、立ち見も出るほどの大盛況だという。

 入り口には、大勢の人々が我も我もと先ほどまで高座にいた落語家さん達に話かけていた。中でも、小痴楽さんは物凄い人気で、小痴楽さんを見た女性達が「あっ!小痴楽さんだ!」「えっ!?嘘っ!?本当!?きゃああー」というような感じで、ぴょんぴょんとウサギのように跳ねながら興奮していた。私もそんな風に喜べたらどれだけ良いことだろう。美人を見ると固まってしまう(体が)ので、ぴょんぴょんと跳ねながら近づいて「綺麗ですねー」とか言ってみたい(嘘です。無理です)

 沸きに沸いた。特別な、興奮の一夜だった。

 もしも機会があれば、次は横浜にぎわい座で東西交流会が行われるそうである。次は西の意地と東の度量を見る機会になるかも知れない。

 この夜の朝橘さんの娘を思う熱い思い、小痴楽さんの生粋の江戸落語の意地、そして昇也さんの師匠への熱い愛を短命に込めた姿勢。思い返しても凄まじい熱量があった。

 同時に、鉄瓶さんの炎のような燃える高座、二乗さんの端正で真面目だけど奇天烈な話の妙、そして佐ん吉さんの音曲噺の艶やかな所作と語り。懐の深い、度量のある上方落語をたっぷりと味わうことが出来た。

 今後も定期的にこの会が続いて欲しいと思う。機会があれば大阪に出向いてでも見たい。熱狂の一夜だった。

 ホテルに戻りベッドに入っても、興奮して眠ることが出来なかった。今日は朝からずっと、良い日になるだろうという予感があって、その通り、否、それ以上に幸福な一日になった。

 明日はいよいよ最終日。九ノ一さんの高座である。

 しばし心を落ち着かせながら、ゆっくりと、幸福を抱えて私は眠った。

一心不乱の節の情~7月14日 一心寺門前浪曲寄席~

 

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抽象絵画

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ジャコメッティとヤナイハラ

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一心寺

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その心の先にある光 

  辻征夫で目が覚めて

 朝6時に目が覚めた。雨音は無い。くしゃくしゃのシーツに紛れて、流れることなく留まった枕の横にあった辻征夫の詩集を手に取りページを開く。雨についての詩を読む。私の心の中に降りしきるものを感じる。辻征夫先生とは友達になれるような気がする。出会うべくして出会ったのだと私は思った。

 今日は良い日になるという予感があって、それは時折やってくるのだが、前日あれほど楽しかったのに、さらに楽しくなる気がするのだから、なんとも贅沢であろうと思った。

 旅に出ると、何か美しいものを見たいという気持ちが強くなる。無意識の内に、美しさに惹かれてしまうのは、本能がそれを求めているからだろうか。東京を出て大阪の土地に降り立ったのだから、何か美しい出会いの場に自らを置いてみたい。そう考えると必然、美術館に行きたいという思いが沸き起こってきた。

 どこか美術館が無いかと探してみると、『国立国際美術館』が近くにあることが分かった。少し散歩でもしようと思い立ち、ホテルを出たのは8時頃であったか、うすぼんやりとした曇天の空模様の中、私は歩くことにした。

 天満天神繁昌亭界隈については随分と詳しくなったと思うが、まだそれ以外の地理については殆ど何も知らない。ただ歩いているだけでも、街を流れる川や、ひっそりと静かな街の佇まいが、曇り空の中で熱を籠らせているようにさえ感じられる。まるで、コーマック・マッカシーの『The Road』に出てくる世界を想像してしまうくらいに、灰色の空がぼんやりと、私の心を埋め尽くして虚無へと誘っていく。

 道中、何を考えていただろうと思い返す。喧噪の無い世界のことだっただろうか。それとも、どんな美術作品に出会うのだろうという期待感だろうか。『The Road』では父と子は終末の世界を歩き続ける。道中、様々な出来事に巻き込まれるが、それでも希望を捨てることは無い。父が子を支え、子が父を支える関係がそこにはある。では、私は一体何に支えられているというのか。ただ風に流されて、流されるがままに揺蕩っているだけの、肉体を持った魂なのか、と飢餓感を抱き、とりとめのない事柄を考えながら、私は目的の場所まで辿り着いた。

 まだ開場時間まで時間があるため、近くのコンビニで休憩した。たまたまTwitterを見ると、『本日の浪曲』情報を毎日上げてくださる方のツイートが目に入り、見ると、一心寺というお寺で浪曲会があるという。ならば、美術館に行った後でも間に合うだろうと思い、私は美術鑑賞の後に一心寺に行く予定を立てた。こうした偶然の発見があるから、Twitterは面白いと思う。おおよそ、私の行動はtwitterの情報によって気まぐれに変化していく。

 開場時刻になって、私は国立国際美術館に入り、そこで『抽象世界』と『ジャコメッティとI』という二つの展示を見た。

 思うところは、確かにあった。

 元々、私はジャクソン・ポロックのような、岩本拓郎のような、抽象絵画を愛している。その無限の想像力を見る者に湧き起こすような色使い。そして色の躍動感。存在そのものが一つの『概念』であるかのような作品群。それらを見ることは私にとって非常に重要なことであり、はっきりと意味のある行為なのだ。

 言語と同義で私は『抽象絵画』を捉えている。何か感情の、言語化しきれない部分を『抽象絵画』は担っているように思うのである。一度、その得体の知れない概念に出会ってしまうと、鳥肌を抑えることが出来ず、ひたすら自己との対話の中で、答えを探すというか、処理をすることになる。その瞬間に、1対1で作品と向き合う空間が生まれる。それはとても幸福な時間であり、殆ど無の境地に達する瞬間もあるのだが、同時に苦痛の時間でもあるから、今は少し語ることは止そうと思う。

 

 一心寺へ

 ただひたすら歩いて、歩き続けて三千里、とまでは行かないが、ようやく辿り着いた一心寺。Google mapで一心寺に設定していたおかげで、線香と蝋燭の匂いが立ち込める一心寺でお詣りすることが出来た。浪曲の会場は『一心寺南会所』で、幟もあるのでわかりやすい。ご常連のお客様が多いらしく、受付で楽しそうに話をされている姿が目に映った。中には木馬亭で良く見る人々もいて驚く。私は生来の人見知りなので、特に話しかけなかったが、浪曲愛する人々の力には凄まじいものがあると思う。

 こういう人々に支えられているからこそ、浪曲は再び、新しい世代によって目覚ましい発展と注目を浴びるのだろう。確かマッカーサーは『ルールを守った者よりも、ルールを破った者が我々の記憶に残る』というようなことを言っている。

 何がルールという訳では無いが、古典も良いけれど、新作を作り続けて時代に合う、時代を作る浪曲が生まれることも、私は期待したい。玉川太福さんを筆頭に、若手浪曲師達には、きっとできる筈である。

 そして、今まさに、東京から大阪へと住む場所を移し、この一心寺の舞台で一人の浪曲師が活躍をしているのだった。

 

 京山幸乃/一風亭初月 橋弁慶

 もしも自分の運命を変えてしまうような演芸に出会ってしまったら?

 人は一体どうしたら良いのだろう。その運命は果たして良い方向へと進むのか、そんな事は誰にも分からない。ただ一つだけ言えるのは、自分の人生を最良にするか否かは常に自分自身に委ねられているということだ。私の周りで常に前を目指している人々は、トライ&エラーを繰り返しながら、自問自答をし続けている。まっつぐに突き進む人の周りには、自然と素敵な才能を持った人々が集まってくる。或いは目をかけられていて、ある日突然、見出される者もいるのだ。

 京山幸乃という人の、まっつぐな大きな瞳には一点の迷いもなく、力強く、まるで黒真珠のような輝きがある。そして、芸の道、浪曲の道を突き進むと決めた、一心不乱の強く太い心がある。マクラでは過去を振り返りながらも、今の自分を見失うことなく、ブレることの無い声。そして雪のように白い肌。一目見ただけで、その力強く、凛とした侍のような佇まいに圧倒された。

 そんな風に、私は幸乃さんを見た時に思った。クリームパンの中にあるクリームのような着物が素敵だった。そして、一風亭初月師匠の鋭い眼光。佐藤貴美江師匠のクールさと、一風亭初月師匠の妖艶さに迫られたら、お兄さんは「立ち上がれニッポン」状態です(意味が分からない)

 演目は、弁慶と牛若丸の出会いに纏わる一席である。

 伸びやかでハリのある声、ドスの効いた弁慶の声。プロとしての確かな節回し。何よりも、カッと見開かれた大きな瞳が、迫力のある浪曲だと私は思った。もはや本当に三本?と疑いたくなるようなキレ味鋭い初月師匠の三味線に導かれて、胸と心が心地の良い波を渡るが如く、揺られ揺られて気持ちが良い。

 この話では、特に弁慶が過去を振り返り、まさかこんな形で牛若丸と対面することになろうとは!と後悔する場面があるのだが、そこで私の胸にぶわぶわっと熱いものが込み上げてきた。じんわりと瞳が温かく潤うのが分かった。

 物語に流れる人と人との情が、一心不乱に芸の道を突き進む幸乃さんの節と相まって、まっつぐに、太く、私の心に染み込んできた。もがきながらも、一つ一つ丁寧に、確かめるように、三味線の音に導かれた幸乃さんの姿が心に焼き付いて離れない。たとえどんな選択であっても、人生航路じゃないけれど、一度決めたら二度とは変えぬ、その一心不乱さの、輝きに満ちた姿を、私は遂に見ることが出来た。

 

 大当たり!!京山幸乃!!

 

 万雷の拍手と共に去って行く幸乃さん。客席のご婦人も「あの子、幸枝若の弟子よ。凄いわね」と言っていた。まさか私も一席目から泣くとは思っていなかったので、嬉しい驚きだった。本当に凄い。これからがとても楽しみだ。

 

 真山一郎 涙の花嫁姿

 お初の一郎さん。見た目から発せられるオーラが凄い。良い声してそうだなー、スケソウダラー、と思いつつ、三味線無しのオペレーターによるバックミュージックによる浪曲。三味線での浪曲に慣れている身としては僅かな違和感はあるが、エコーの効いた晴れ渡る空の様な声には、天界から降り注ぐお告げでも聞いているかと思うほど、耳に染み込んでくる。品のある女形の声と表情。実の娘と分かっていても、自分が実の母だと言い出せないカヨの気持ちが、しっとりと染み込むように心を潤す。

 客席のご婦人のすすり泣くような声が聞こえる。はるか遠くにあるものを、優しく見守るかのような、一郎先生の眼が印象に残った。

 艶のある素敵な節と、母と娘の思いに浸って心地よく仲入り。

 

 春野恵子/一風亭初月 天狗の女房

 お江戸上野広小路亭で見て以来の春野さん。十八番シリーズということで、天狗に攫われて、天狗の女房になった女の話。一振り一振り巨大な鎌で心をバッサリ切られるかのような、鬼気迫る迫真の浪曲で、太く、刻み込むかのように、どす黒い人間と、天狗の心情が渦巻き、洞穴という舞台も相まってか、ほぼトラウマになるのではないかと思うほど、おどろおどろしい物語だった。

 以前書いたかも知れないが、春野恵子さんの浪曲は登場人物が憑依しているかのように、表情、声、どれもはっきりとして真に迫っている気がする。瀕死の天狗を前に、それまでの怒りや憤り、鬱憤を開放する女の、言いようのない闇に恐ろしさを感じて身震いしてしまった。そして、初月師匠の三味線。連続して単音を弾きながら、徐々に音階を上げて緊張感を高めて行く。その三味線の音色が、どろどろした物語を極限まで高めているように感じられて、しばらく目が離せなかった。初月師匠の表情と、恵子先生の表情が、ぐぐっと物語を盛り立てていた。

 幻想的で日本昔話のような、何とも言えない怖さ、根源的な怖さに何度も心が震えた。正に十八番の、鬼のような一席。一瞬、恵子先生が天狗に見えた。

 

 天光軒満月/虹友美 空海一代記~スリランカの花

 スティーブン・セガールかと思うようなオールバックと、『浪曲』とも言いたい深い皺。佇まいで良い声してそうだなぁ~という感じの風貌の満月師匠。

 満月だから月の光なのに、むしろ太陽の光を想像してしまうほど、有難い徳のある説法でも説かれているかのように響いてくる声。何となくお寺らしさがあるなぁ。これは数十万の壺でも買ってしまうかも知れない。と思うほどに、誠実で温かい雰囲気。

 最後の歌唱(?)は若干引いて聞いてしまったけれど、会場に集まったご婦人・紳士の皆様は、神々しさに包まれて、とても安らかな表情をしていた。

 続くスリランカの花は、日本の敗戦後、スリランカの大統領が言った一言で日本が救われたという話。恥ずかしながら存じ上げなかった。

 短いけれど、満月師匠の貫禄と心地よい声に心洗われて終演。

 

 総括 初・一心寺

 思えば遠くへ来たもんだ、という海援隊の歌があるが、日本全国、世界中、行こうと思えばどこへでも行けるのだな、と思う。東京から大阪へ行き、この一心寺で一心不乱に芸の道を突き進んでいる幸乃さんんを見ることが出来て良かった。本心を言えば、羨ましくもある。私はまだ、人に誇れるほどの力も、知名度も無い。他に好きなことをやりながら、空いた時間に、別の好きなことをやっているだけに過ぎない。私には好きなことが多すぎて、一つにこれだ!と決めることの出来るものが無い。だから、一つの道を究めようと努力している人が、とても羨ましいのだ。

 大勢の常連に紛れ込んで、さして読まれもせぬ記事を書く男が、一心寺を後にし、一路、繁昌亭へと向かうのだった。

上方、再びの~7月13日 天満天神繁昌亭 リニューアル興行~

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 私は知りたがり。全部知りたい。知らされていたい。

byカール・ラガーフェルド

  そこにしか無いもの

 どんな場所にも、どんな人にも、その場所にしか無いもの、その人にしか無いものがある。嘘だと思うなら、その場所に行ってみれば良い。会うべき人に会ってみれば良い。きっと『そこにしか無いもの』の存在に気づくであろうと思うし、気づかないとしたら、それはまだあなたが、それを発見するに足る運命には無かったということになるだろう。だが、そこにしか無いものの存在に薄々気づいているとするならば、運が良ければ、否、必ず、発見できる。

 宝くじを買わねば当たらぬように、求めなければ得られないものがある。ただ餌を待つ雛鳥のままで、親鳥がやってくるとは限らない。それが一人で生きるということの一つの宿命なのだ。だから私は自分の羽を使い、餌を求めてさ迷う。ミミズしか食べることの出来ない雛鳥がいる一方で、私は虫や花の蜜や動物の肉を食べたいと望む。そして必ずそれらを私は食すだろう。何かを得ようとする望みを強く持たなければ、何かを得ようとしても何かを得ることは出来ない。

 そんな考えもあって、私は興奮して眠ることが出来なかった(もともとあまり寝ないのだが)。前記事の渋谷らくごのあまりにも強烈な名演四席のおかげもあって、それほど疲れもなく(というか5時間眠ればスッキリ快調)、朝を迎えた。

 起きてすぐに、身支度を整えて東京駅に向かい新幹線に飛び乗った。目的地はただ一つ、新大阪、そして南森町駅のすぐ傍にある『天満天神繁昌亭』である。改装前の5月に訪れ、7月のリニューアルオープンという話を聞き、どうしても行きたいという思いが抑えきれなかった。もともと7月に行くことは予定しており、三連休に合わせて行くことを決意した。この度の一番の目的は『桂九ノ一さんの高座を見ること』。これが私にとって一番大きな目的であった。

 新幹線の車内で、リリー・クラウスモーツァルト(No13,14,19,22)を聞いていた。リリーのピアノは柔らかくて甘い感じがする。グールドのピアノを白ザラ糖とするならば、リリーのピアノは上白糖に近いような感覚がある。どちらも好みの問題であるが、シュッとしたいとき、一人で何かに没頭したい時はグールドのピアノを好む。何か他の事を考えながら、ぼんやりまどろんで景色を眺めるときや、本を読む時にはリリーのピアノを好む。

 読みかけの本を閉じて、大阪駅を出る。以前は京都から南森町に来ており、結構タイトなスケジュールであった。今回は時間の余裕もあり、また、新しい靴を試したいという思いもあって、梅田界隈を歩きながら繁昌亭を目指すことにした。

 

 色々なお店があります

 梅田と言えば、何か名店があった筈だと脳裏を情報がよぎった。とある方のツイートで『レーズンバターにジョニ黒』の画像を見たことがあり、「うわ、最高!」と思ったことを思い出した。必死に記憶を頼りに名店の名前を思い出そうとした。カツラ、ヅラ、アヅラ、イヅラ、エヅラ、オヅラ・・・ウマヅラマヅラッ!!!

 大阪が誇る名喫茶店、『マヅラ』は、大阪駅前第1ビルの地下1階にある。『地下にある』というだけで胸が高鳴るのだが、その地下に行く前の階段の壁に『色々なお店があります』という看板があった。それを目にしただけで、齢27の若造は言いようの無い興奮を覚えた。ワクワクするとは正にこのことであろう。子供の頃に『面白いお店』とか『なぞ店』とか『何が出るかはお楽しみ』に訳も分からず興奮していた時と同じ興奮が、この時蘇ってきたのである。また、地下にあるだけで興奮するのは、バーの扉を開く時に抱く、ある種の快感、ある種の背徳感があるからであろうか。

 地下に降りると、そこには最高の空間が広がっていた。とても凄い空間が広がっていたのである。少年が虫取りでもするかのように、地下を一周した。もっと長い時間いたいと思ったが、繁昌亭の開演は14時からであるから、それほど長居は出来ない。出来ることならば、次は繁昌亭抜きで行きたい。

 マヅラの前にはジョニー・ウォーカーの像がある。私は中学生の時に読んだ村上春樹の『海辺のカフカ』を思い出した。

 何たるノスタルジー。頭の中で想像をしたことはあったが、ジョニー・ウォーカーの像を目の前で見ることは初めてだった。『海辺のカフカ』ではあまり良い人物では無いジョニー・ウォーカーの笑みを眺めながら、私は思った。

 

 この空気感、堪らん!!!

 

 恐らくネットを調べればマヅラの店内とその周辺の画像も出てくるであろう。だが、実際に目で見ると100倍、1000倍は最高の空気感である。これは読者にも是非、行って堪能して欲しいと思う。

 店内に入ると、陽気なご婦人に「いらっしゃいませー」と言われて席に案内される。私は店内のキラキラとした光、何とも言えない照明とほのかに香るシガーの匂い、そして甘く気だるい大人のティータイムが、ゆっくりと艶やかに流れている。まるで1960年代のジャズ喫茶に訪れたかのような昭和の雰囲気が場内に満ち満ちて、そのまま保存されているかのようである。「変わり続けるために、変わらずにいる」、そんなコブクロのANSWERのようなお店だと思った。

 店内では、ダンディな紳士四人が「よぉ、待ちくたびれたよぉ」などと言いながら笑顔で話し合っている光景を見ると、心の中で「お、大人だぁ。大人だぁ~~」と胸が高鳴る。タランティーノの『レザボア・ドッグス』で、粋なスーツ姿の男達がテーブルを囲んで食事をしている光景を見たときと同じ格好良さがそこにはあった。子供の頃に憧れた粋でクールな大人の休息、それがマヅラにはゆったりと満ちているように思えた。

 早速、私も大人の仲間入りをするためにブラックティーのホットを頼んだ。プチ断食を行っている身としては、コーヒーよりティーであろうと思ったからである。敢えてコーヒーを外すところも、大人だろうと思った(どんな大人像やねん)

 ご婦人の持ってきたホットティーを飲む。断食で味覚が鋭敏になっていたせいか、物凄く美味い。思わず「ティー!!」と心の中で叫んでしまった。そのままゆったりと飲み干し、調子に乗って一度外したブラックコーヒーのホットを注文。胃が水風船だったら破裂していたかも知れない。

 ブラックコーヒーとミルクが運ばれてきた。大人だからミルクなんぞ入れるものか、と思いながらも一口飲む。程よい酸味とほのかな甘みが舌の上で転がる。16畳の部屋の隅から隅までだああっと転がるかのように転がる。思わず「ティー!!」と叫んでしまった(コーヒーだけどね)そして結局、ミルクも全部飲んだ。

 パンパンに膨れ上がった水風船、もとい、胃袋を押さえつつ、しばし店内の光景を目に焼き付けていた。ああ、今、私は松田聖子の曲が聴きたい。早見優の曲が聴きたい。小川範子の曲、河合奈保子の曲が聴きたい。好きな女性を巡って誰かと喧嘩したい。と思いながら、名残惜しい気持ちを抑えて、椅子から立ち上がった。

 この場所に来る人物を想像する。余暇を楽しみ酒飲む者、超売れっ子アイドルと敏腕マネージャ、恋愛に疲れたOL、酷くメンタルが傷ついたサラリーマン。色んな人々のために、マヅラはここまで長く、この場所にあったのだろうということが、何となく肌感覚で分かる。東京にも、そんなお店がたくさんある。また、惜しまれつつも閉店してしまった喫茶店がある。きっとマヅラのように、昔からずっと多くの人の憩いの場になっていたのだろうと思った。

 店を出る時、会計にはマスターが立っていた。ネットでは98歳になるという。本当かどうか疑わしいほど元気である。私はマスターに礼を言って地下の、『色々なお店がある』場所から、階段を上がって外に出た。一度下に降りて、また上に上がる。何だか人生のようだ、と思う。良い時もあれば悪い時もある。悪い時もあれば良い時もある。地下にある『色々なお店』には、再び地上で生き抜くための、強い力があった。

 

 桂九ノ一さんとの再会

 腹も心も満ちた私は、2か月ぶりに天満天神の通りを歩いた。もうすっかりお馴染みの提灯、だるま食堂、そして、天満天神繁昌亭である。いつ見ても、だるま食堂の角を曲がった時に見える繁昌亭の光景には、清らかな凛とした雰囲気がある。近くの大阪天満宮にお参りをして、繁昌亭に戻ると呼び出しの太鼓の音が聞こえた。

 太鼓を叩く人物を見て驚いた。桂九ノ一さんである。大きな背、大きな顔、眼鏡、太い眉、そして全身から放たれる覇気。そうだ、きっとそうだ。私が魅せられた人を、見間違う筈がない。お江戸日本橋亭でド迫力の、気迫の、高座を披露し、私の落語鑑賞において新しく『気迫と熱量』の概念を見出した落語家、私の心を掴んで離さない男、それが桂九ノ一さんである。

 これはサインを貰っておかねばと思った。途端、胸が早鐘を打つように高鳴った。向こうは私のことなど、一ミリも知らない。一方的に私が魅せられているだけなのだ。

 一番太鼓が終わり、お客様との会話が終わったタイミングで、私は九ノ一さんに声をかけた。

 「あ、あの・・・く、九ノ一さんですよね!?」

 私の声に、九ノ一さんは私を見ると、

 「はい!!!そうです!!!

 と大きくて溌溂とした声で返事をした。私の体がビリビリと震えるような力強さに、「これだ、これだよ」と嬉しく思いながら、おずおずと声を出す。

 「あの、僕、東京から来まして、サインもらってもいいですか?」

 そう尋ねると、九ノ一さんは驚いたように、

 「僕でええんですか!?

 と言って戸惑っている様子である。私はペンを渡して「だ、大丈夫です。ここにでっかくお願いします」と言ってサインを書いてもらった。九ノ一さんが書いている最中、勇気を振り絞って、

 「あの、前に東京で三十石を見まして・・・」と言うと、九ノ一さんが

 「三十石ですか?

 と僅かに不思議に思う表情をしたので、緊張しながらも、

 「あの、九雀師匠と坊枝師匠の時の、日本橋の・・・」

 と言うと、

 「ああっ!兵庫船ですね!

 と言われ、私の心は大きなショックを受けた。まさかまさか、痛恨のミスである。

 バレー部の女の子に恋をして、告白の時に「君が〇〇中との試合でジャンプサーブを打って点を決めた姿は恰好良かった」と言ったら、その女の子から「私、フローターサーブしか打ってませんけど?」と言われるくらいのショックである。思わず心の中で「終わった・・・」と思いながらも、めげる訳にはいかない。一度決めたら、粉々になっても前に進むのが男だ。

 「す、すいません。兵庫船でしたね。僕、あれを見てあなたのファンになりました。間違いなく未来の名人になると思います。いや、僕が言うのもアレですけど、とても迫力があって・・・」とか細く小さい声で言うと、九ノ一さんは嬉しそうに、

 「ほんまですか!?大阪でもそない言われたことないです。嬉しいです。ありがとうございます

 と、満面の笑みである。

 「あの15日に出ますよね。僕、見に行きます」

 「えっ!?ホンマですか。見に来てくれはるんですね!

 「はい、あ、どうも。ありがとうございます」

 九ノ一さんからサインを貰って会釈をした。私の心臓はまだバクバク言っていたし、まともに目を合わせることが出来なかった。それでも、ずっと前から思っていた、言いたかったことは言うことが出来た。緊張しすぎてやった演目を間違えて、実に怪しい奴になってしまったかも知れないけれど、言いたいことが言えて、私はとても満足だった。

 まさか、会えるとも思っていなかったから、これはきっと落語の神様が出会わせてくれたのだろうと思った。あの時の感動を、上方遠征の初日に、まさか伝えることが出来るなんて思ってもいなかった。私はただ、あの時、お江戸日本橋亭で九ノ一さんの高座を見て感動したことを伝えることが出来た喜びに打ち震えていた。チケットを切って繁昌亭の中に入り、指定の席に座ってもなお、私の胸はドキドキしていた。

 それでも、私は間違いなく最高に幸福だった。伝えたかったことを伝えることが出来た嬉しさに満たされていた。ああ、私は『そこにしか無いもの』を今、この場所で見つけたのだと思った。

 

 リニューアルの繁昌亭

 繁昌亭の会場内を見て回った。扉の右には広いスペースがあり、売店上方落語家の似顔絵が飾られている。扉の左にはトイレと、壁に繁昌亭建設に出資した方達の名前のプレートがあった。私は売店でリニューアル記念の手拭いとクリアファイルを購入した。高座のある広いスペースには、天井にあった提灯が新しくなっていた。5月と比べ格段に綺麗になっている。

 心機一転、リニューアルした天満天神繁昌亭が始まっていた。

 

 桂文五郎 普請ほめ

 トップバッターを務めたのは文五郎さん、お初。桂文珍師匠の4番弟子で、漫才コンビ、カミナリのツッコミ(石田たくみ)に少し風貌が似ているように見えた。前座にしてはめちゃくちゃ上手いと思って調べると6年目とのこと。上方は階級制度がはっきりしていないから、前座だろうと思い込みで見てしまう部分があるので、この辺りがまだ上手く切り替えが出来ていない。

 ドスの効いた声色と、喋りのリズムの緩急で会場は大盛り上がり。大阪のお客様はノリが良い感じがする。どんな話でものめり込んで聴くというか、自分の実感として聞く力が強いような気がする。また、笑い方も、東京では「あはははは」だが、大阪では「あっはっはっはっは」というような感じで、とにかく陽気に笑う。その勢いに呑まれて私も笑う。

 文五郎さんの勢いのある、くっきりとした人物の演じ分けが気持ち良い。こういう迫力を持った人、熱い人が出てくる感じが良いなぁと思う。どちらかと言えば、東京の落語家にはクールな感じを私は抱いているからだ。それもまたそれで良いけれど、大阪に来たらガツンッと熱い高座が見たいと思ってしまうのも私の性であろうか。

 大盛り上がりの一席目で、気持ち良く笑った。

 

 桂ちきん 狸の賽

 お次は若干トリッキー感のある、奈良から来たというちきんさん、お初。マクラがめちゃくちゃ面白くて、特に動物園に行く前にたくさんの珍しい人を見るという、大阪ならではのマクラが最高に面白かった。事実、私はこのマクラが結構ウケた。5月に動楽亭の近くにある動物園前という駅を降りた時、その周辺の異様なディープさに圧倒された経験があったからだ。やたらと連なる『カラオケスナック』、すれ違う大阪のおっちゃん達の『異様な歩き方』と『焦点の合わない目』、どれもが心に僅かな恐怖心を抱かせつつも、人間の別の一面、だらしなさと呼ぶべきか、そんな愛くるしさを垣間見た身としては、ちきんさんのマクラがめちゃくちゃ面白かったのである。

 この演目は簡単に言えば『狸が恩返しにサイコロに化ける』というお話である。狸の可愛らしさと、ちきんさんの持つトリッキーなフラがマッチした素敵な一席であると思った。どことなく、以前連雀亭で見た桂三幸さんと同じような匂いを感じた。

 一席しか見ていないので、何とも判断が難しい部分であるが、とても可愛らしく、トントン拍子の語り口が心地よい一席だった。

 

 桂吉坊 七段目

 方々で良い噂を耳にしていた吉坊さん、お初。座布団に座るまでのお茶汲み人形のような所作、そして満面の笑顔。そして物凄く幼く見える風貌。見る人が見たら中学生か高校生と思うのではないかと思えるほどに若い。どうやら本人もそれはご存知のようで、マクラでは自らの容姿を活かして会場が大爆笑に包まれた。

 見た目とは裏腹に、端正で丁寧かつ細部にまで緻密に気を配った所作と語り。思わず唸ってしまうほどに見事で、艶やかな風貌。見た目から発せられる雰囲気に他とは違う何かがある。浄瑠璃に出てくる人形に、人間らしさを与え、人の情の温かみを付与したような、何とも言えない品に溢れた佇まい。語りの淀みの無さと、芯の通った声と語り。誇張し過ぎない声色と抑揚。面白いだけではなく、芯があって太い感じ。

 一席しか見ていないのが実に惜しい。結構東京でも活動されているようなので、機会があれば見てみたいと思う。七段目は鳴り物が入っていて、滅多に東京では鳴り物入りの話を見る事が出来ないぶん、鳴り物が良く入る上方落語を聞くことが出来たのは貴重な体験だった。何と言えば良いか、吉坊さんには得体の知れない輝きがある。高座の照明が少し強くなったかと思うほどの輝きがあるのだ。なるほど、数々の大物が心惹かれる気がするのも分かる気がする。輝きの奥底にある知性を感じた圧巻の芝居噺、もっと見てみたい。

 

 桂朝太郎 マジカル落語

 荷物を持って登場の朝太郎さん。三幸さんの高座で慣れているおかげで、落語家が物を持って入って来ても違和感が無い。ネタ(?)に入ると、アサダ二世とマギー隆司を足して2で割ったような芸。大阪にもこういう落語家さんがいるのだなぁ、と思うと謎の安心感がある。ちょっと胡散臭いくらいの人が出ないと、あまり端正な落語を立て続けに聴くのは疲れてしまう。

 いっぱい小道具を出して披露する。客席は怪しみながらもグイグイと引き込まれて大盛り上がり。中には呆れながら笑う人もいたけれど、めちゃくちゃ面白かった。

 こういう人がふっと出てくるところが、寄席の醍醐味だと思った。

 そもそもマジカル落語というかほぼマジックなのだけれど、その曖昧な感じが最高の一席(?)だった。

 

 笑福亭仁福 いらちの愛宕詣り

 仲入り前はちょっと怪しいヘアスタイルと、上方落語と言えばこの声の感じを聞かなくちゃ!と思うダミ声を持つ仁福師匠、お初。

 仁福師匠が登場するまでの会場がドッカンドッカン笑いの渦に包まれていたためか、軽い小噺で様子を見る仁福師匠。お馴染みの小噺でも物凄い勢いでウケるので、「そんなに笑うと疲れまっせ」と心配する仁福師匠。それでも会場は物凄く温まっている。

 勢いそのままに演目へ。東京では『堀之内』のような一席で、簡単に言えば『粗忽な男が大暴れする話』である。粗忽な男の粗忽っぷりが痛快で、酔っぱらって訳の分からなくなった男が、愛宕山まで行くまでの道中がハチャメチャで面白い。実生活では絶対に絡みたくないけれど、その粗忽っぷりに爽快感を覚えるほどに荒唐無稽な男が大暴れする。特に仁福師匠の声が最高である。ダミ声ってなぜあんなに魅力的に聞こえるのであろうか。未だに良く分からないけれど、はっきり心地が良いということだけは分かる。この辺り、田中角栄の声の研究で誰か論文を出していないのだろうか。

 畳み掛けるように爆笑の波が沸き起こり、最期はさらっとまさかの下ネタで仲入り。こりゃぁ、まだまだ上方には私の知らない面白い人がたくさんいるのだなぁ、と思った一席だった。

 

 口上 桂三歩 露の都 笑福亭仁福

 口上では、めちゃくちゃ緊張しているのか、ろれつの回らない三歩師匠が強烈だった。あまり口上に慣れていないのか、どもり気味で喋る姿に独特のフラがあって面白い。そんな三歩師匠を助けるように仁福師匠がツッコミを入れて挨拶。

 なんと7月13日が誕生日だという仁福師匠。会場もお祝いムードに包まれて拍手喝采。繁昌亭と絡めて素敵な口上だった。

 お次は露の都師匠。気品ある大阪の女性という佇まい。声の素敵なトーンで、面白おかしく口上を言っていたのだが、内容は殆ど覚えていない。三歩師匠の印象が強すぎて、あまり話の内容が頭に入って来なかった。

 最後は大阪締めというお初の手締めで一度幕が下りた。そんな手締めがあるなんて知らなかった。『そこにしか無いもの』はやはり、その場所に行って知った方が印象に残る。

 

 桂三歩 青い瞳をした会長さん

 口上の時も思ったが、独特のフラと歯が無いスタイルを推していく三歩師匠の独特のフラが面白い。お初だったけれど、見ただけですぐ好きになってしまうような風貌。赤べことシーサーと獅子舞をごちゃ混ぜにしたような顔で、魔除けに効きそうである。

 マクラではバナナババロアと女房の早口言葉を披露。このワードの言い方がめちゃくちゃ面白い。まさかバナナババロアの言い方だけで、あんなに会場を爆笑させる人がいるとは思いもしなかった。話し方のとろっとした感じが絶妙に面白く、フラだけでも十分に笑いを取れる落語家さんであると思った。東京で言えば桂南なん師匠や三遊亭笑遊師匠に通じるような、唯一無二のフラがある落語家さんだと思った。

 ネタは三枝師匠の作で、以前どこかで聞いた記憶があるのだが忘れてしまった。Youtubeにあるようなので、機会があったら聞いて欲しいが、一つ一つの発言に会場が割れんばかりに盛り上がっているのが印象的だった。

 

 露の都 星野屋

 トリは都師匠、お初。気持ちの良い語りのリズム、張りのある声、そして品のある佇まい。まるで高座に白く美しい文鳥がいるかのような佇まい。演目は以前、菊之丞師匠のネタ卸しで聴いて以来の『星野屋』。この話は簡単に言えば『心中することになった女が、母の力を借りて騙し合い合戦を繰り広げる』という内容である。

 女性が中心に登場し、また語りのリズムの心地よさも相まって、十八番なのではないかと思うほどに素晴らしい語りだった。特に登場する女性のリアリティが尋常ではない。心中という重いテーマでありながらも、物凄くあっさりとコミカルに聞こえるのは、都師匠の絶妙な語りとトーンにあるのではないかと思う。まるで山の天気のようにコロコロと変わる女性の心の速度が面白い。今思っていたことが5秒後にはまるで正反対の考えになっているかのような、切り替えの早さ。そして、巧みに相手を騙す知恵。男はどこまで行っても女性の知性には敵わない生き物なのかも知れないと思ってしまう。

 よく女性は感情の生き物だと言われているが、果たしてそうなのだろうか。むしろ、女性は言葉に実感を強く持って生きているのではないか、と思う。男が言葉を単なる記号として捉えているとしたら、女性はむしろ言葉一つ一つを生き物のように扱っているのではないか。だからこそ、何気ない言葉の一つをとっても、自分にとって強い実感を伴って伝わってくる。言葉が感情と強く結びついて心に伝わっているからこそ、感情の生き物だと言われているのではないだろうか。男は言葉を聞いて額面通りに受け取る。だが女性はその言葉の裏の裏の裏の裏まで考えたりする。個人差はあれど、男女間では言葉に対する感じ方の違いがあるのではないか、と思うのである。

 と、そんなことを書いたところで何という訳ではないのだが、長く落語界に身を投じ、女性落語家のパイオニアとして活躍してきた露の都師匠の高座には、女性ならではのからっとした、可愛らしい雰囲気を感じたのである。

 特に、心中を回避しようとする女と、その母の会話に説得力があった。私は落語家に男女があろうと、特に何を思うという訳ではないのだが、このネタに限って言えば圧倒的に女性の方が良いだろうと思った。メインで女性が登場し、その説得力が強いと思うからだ。

 何人もの弟子を育て上げている都師匠。その理由も何となく感じられるような素晴らしい一席で終演。

 

 総括 上方一日目

 最高の三連休初日であると思った。改めて上方落語の凄まじいパワーを感じた一日になった。繁昌亭の昼席では、お初の落語家さんを見ることが出来てとても嬉しかった。朝からずっと様々なことを考え、まとまったり、まとまらなかったりした考えが、ぼんやりと中空に乱雑に浮かんでいる感じが、なんだか心地が良い。

 寄席の後、断食(と言ってもゆるく)のため、軽く運動をした。散歩で難波橋を渡り、道頓堀へ向かった。雨はしずしずと降っていたが、人通りは多かった。丁度、提灯祭りをやっていて、船に乗った男達が船を漕ぎながら、道頓堀川を進む姿を見た。初めて生でグリコサインの看板を見た。異国からの家族連れも多い様子で、道頓堀のガヤガヤとした雰囲気も、なんだか日本であって日本では無いような、不思議な雰囲気に包まれていた。

 途中、『古書 象々』という古書店を見つけた。本当に偶然、看板が目に留まったのである。これは何か運命であろうと思い、エレベータで目的の場所に行き、扉を開いた。詩集やデザイン、日本の古めかしい玩具などが置かれていた。中で、辻征夫という詩人の詩集があって、幾つかサイン本もあった。最初に手に取った詩集を開いてみると、『吾妻橋』の文字。そこに書かれた一文に心惹かれて購入を決めた。

 遠く大阪の地に来ても、運命というものはどこにでも転がっているようである。大事なことは、それを感じることの出来る心があるかどうかであろうか。

 冒頭に記したように、『何かを得ようとする望みを強く持たなければ、何かを得ようとしても何かを得ることは出来ない』と私は思う。まずは思うこと、そして行動することが大事だと私は思うのだ。現に、私は上方落語を見たいと望み、大阪に行き、そして出会うべき人に出会った。行くべき場所に行ったのである。すると、必然、行きたかった場所以外にも行きたい場所が見つかる。会いたかった人以外にも会うべき人に出会う。そんな偶然が人生には付き物で、そんな偶然の出会いに私は感謝と同時に、嬉しさと運命を感じるのである。

 あなたにも、そんな出会いがいずれ来るだろう。ひょっとすると、私とあなたは出会うかも知れない。もしかしたら、既に出会っているのかも知れない。

 どんな時でも、望み、そしてその望みに向かって行動をしていれば、まるで「導かれた!」と思うような出来事に出会うだろう。私は別に神仏の話をしているのではない。人生にはそういうことが、少なくない頻度で起こりうるのだ。

 見逃すか見逃さないかはあなた次第。大丈夫、きっとあなたなら見つけられる。

 それではまずは、上方の1日目の記録を閉じるとしよう。

落語的ホストクラブ『MEIJIN』~7月12日 渋谷らくご 20時回~

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ウナちゃんマン

 

どないやっちゅーねん

 

ぱんつ一丁っすよ これだよ

 

めんどくせぇ 

  1か月前

 渋谷らくごの7月公演が公開になったとき、私は番組を見て思った。

 

 ホストクラブやんっ!!!

 

 もちろん、落語好きには堪らない、もう一度書く、堪らない四人が出ているではないか。しかも客席は美人揃いの予感(森野リサーチ)で、これは行くしかあるまいぞ、アルマタイト、と思っていた。

 だから、私はこの日が待ち遠しくて仕方が無かった。

 つべこべ書かずに、会員制でもなければ、自由参加の落語的ホストクラブについて語ることにしよう。

 

 桂三四郎 世間の車窓から

 トップバッターは上方のイケメン落語家、三四郎さん。会場入りする前のお姿はピンクのシャツ。もう既にカッコイイ。若い女子ならメロメロ(若い女子じゃないから分からないけど)のルックス。甘いボイス。それでいて、野球少年のように笑いに貪欲。笑いのストライクを取るために、何度も何度もしつこくネタを投げ続ける姿勢に、スリーアウトでもノーチェンジです私。永遠に表の回を9回続けてコールド負けも何のその。何度投げられても全部がストライクゾーンって、そんなバッターいるかーい。私か。

 文菊師匠のことを語られていて、もうそれが、私としては、オネエ入りますけど、

 

 もっとちょうだいっ!!!

 文菊のプライベート話

 もっとちょうだいっ!!!

 

 と、ドーピングしたIKKO、又は発情期の牛かよってくらいに口から涎垂らして興奮してしまうわけなんですが、この話題を嫌味なくさらりと語られる姿はお上品。

 ホストクラブに入っていきなり三四郎さんが出てきたら、初っ端からシャンパンタワーですわ。リゼだかロゼだか知らないけど、ハマショーのMoneyばりに「ドンペリニヨォオオン」とか言いながら、「飲んじゃってー!飲んじゃってー!」のコールに応えるように、次から次へと諭吉飛ばしますわ。ベッドでドンペリニヨォオオンですわ。

 ちょっと乱れた。

 三四郎さんはマクラからめちゃくちゃ面白い。謎の概念『フユキタル(冬来たる)』と時うどんの関係性(フユキタルは時うどんで無効化できるのかっ!?)とか、この三年という間で結構な確率でフユキタルが来ているという事実に笑ってしまう。

 全てを曝け出して、剥き出しで笑いに直進する三四郎さんの姿勢、これはもはや、ある程度知名度が上がってきた俳優が、鍛え上げられた肉体美を惜しげもなく写真集で披露するみたいな、そんな現象だと思う(どんな現象なんだよっ・・・)

 肝心のネタは『満員電車で起こる様々な面白い出来事』を見ているような話で、何となく『浮世床』っぽいワイワイ・ガヤガヤな感じ。もちろん、『浮世床』の舞台は髪結床で、上方落語がルーツ。上方の落語家さんは今まで見てきた印象だと、『笑わせてナンボ』という感じがする。とにかくこれでもか!これでもか!と笑える話を畳み掛ける姿勢が凄まじい。芸の真剣味もさることながら、会場をドッカンドッカンと笑わせてこそ芸だ!という感じが、押しつけがましくなく、こってりとせず、じわじわと伝わってくる感じがして、それがとても心地が良い。

 起きていることは大したことじゃないのに、登場する人物のデフォルメされた個性が畳み掛けるようにして次から次へと披露される。物語を見ている立場だと、実際の電車の中で起きるかも知れない風景だなと思うし、行ったことのない土地だからこそ、余計に楽しく見ることが出来るのかも知れない。案外、知らないとか、行ったことが無いというのは、物語を楽しむには重要なことなのかも知れないと思った。

 丁度、明日から上方である。時間があれば大阪の山手線である大阪環状線を一周してみようかしら。

 爆笑に次ぐ爆笑を巻き起こし、颯爽と羽織を掴んで去って行く三四郎さん。おっといけねぇ。掴んだのは羽織だけじゃなく、皆さんのハートもですね。

 本当に良かった、私が女性じゃなくて。きっと女性だったら、シブラクには二度と来たくないと思うだろう。だって好きになっちゃうから。異性として見ちゃうから。少しお姉さん的立場で、「あらあら、三四郎君。またやんちゃしてぇ~、もーうワ・ガ・マ・マ」みたいなことを思ってしまうから。

 

 

 古今亭文菊 紙入れ

 イケメンの大渋滞だな、と思いながらも登場の文菊師匠。ホストクラブだったらボトル入れてますね。サントリーのオールドに白ペンで名前書きますね。で、「あなたの素敵な高座に、乾杯っ」とか言いながら、二人でどこかのタワーマンションの最上階でスカイツリーを眺めながら、愛の電波を飛ばしまくりますね。地デジじゃなくて文デジですね。チャンネルのどれを押しても文菊、文菊、文菊、高解像度で高精細で、一挙手一投足を見逃さない8Kも驚愕の映像美で、私の脳内を文菊化っ!ってそれまんま文菊じゃねぇかって話になるわけなんですけどね。良くわかんないけど。

 ホストクラブとしてはめちゃくちゃずるいよね。上方の甘いマスクと甘いトーンの三四郎くんを見せて、私にシャンパンタワーをさせたかと思うと、今度は雰囲気を変えて一気にアダルトな夜を担う男、文菊の登場ですよ。どう気持ちを切り変えたら良いって言うんですか。これは大罪ですよ。太客の横取りなんて、ご法度ですよ。キャストとの色事だってボーイは禁止されているっていうのに、客とマクラなんてご法度よ!と思いつつ、

 「あ、あたしには、さんしろー君が・・・」とか強がってあたしが言うと、

 「いいんですよ、奥さん。さ、一緒にタワマンへ

 とか言われて文菊師匠に手を引かれ、そのまま都会の夜景を見ながらジャズに酔いしれて、もう、何か色んなものを折られそうで怖いわっ、あたし。口座ごとあげちゃうっ。あなたの高座に惚れて、私の口座あげちゃうっ。

 とか思いつつ、文菊師匠の神がかり的ネタ選びで『紙入れ

 

 思いっきり『不倫』の話じゃねぇか!!!

 

 これはねー、もうねー、お手上げです。文菊師匠。分かってらっしゃる。としか言えませんわ。あたしの心を読んでるのかしらってくらい、さんしろーくんにどっぷり掴まれた心を一気に引き戻して、「ね、奥さん。いいでしょ?」って、ダンディな声と愛嬌で言われたら、そりゃ誰だって不倫しますわ。不倫は文化ですわ(暴言)

 クレジットカードがあったら上限まで使っても足りず、挙げ句は借金するんじゃないかと思ってしまうくらいに、文菊師匠の十八番と言って良い『紙入れ』。シンキチを弄ぶ女将さんのドSっぷりが堪らない。ちょっともう自分の性別が分かんなくなってきてしまうほどに、絶品、絶品、絶品の女形

 文菊師匠に弄ばれたい。紙入れの女将さんにも弄ばれたい。二重で文菊師匠に弄ばれて、もう豆腐だったらふやけてバラバラってくらいに、あたしの心は搔き乱されてしまった。好き、もう大好き、でも選択肢が多すぎて誰に決めればいいか迷っちゃう。

 

 三遊亭遊雀 蛙茶番

 あなたの心をジャックする。正に『YOU JACK』な遊雀師匠。バラバラの豆腐である私の心を抱きしめて、温かいお味噌汁に入れてくれる。そんな大人の了見、懐、渋み、温度。傷ついた乙女のハートをCWニコルが『りんごの木にかくれんぼ』で「魔法の国へ飛んでいこう」と歌ったように、誰も知らないところへ連れていってくれる存在、それが遊雀師匠(もっと他に良い表現はあったはず)

 楽屋話も最高で、もう男だけど興奮しました。

 

 見たい!!!

 文菊師匠の臀部!

               臀部!

                  臀部!

                    臀部!

 

 叶わぬ夢はさておき、ホストクラブだったら完全にオーナーですよ。正に『名人of名人』。若い頃にきっとたくさんの女性を魅了したのだろうな、と思える眉間。そして様々に変化する表情。七色の声色。全てが一つの頂点に達しているような人なのに、それでもなお、まだまだ「負けてられねぇ!」と思う強烈な意志を持つ遊雀師匠。

 これは往年の名俳優である石原裕次郎菅原文太高倉健に通ずる硬派な男の美学ですよ。これですよ。これです。

 そんな遊雀師匠の惚れ惚れするような男の美学全開の『蛙茶番

 

 いよっ!待ってました!!!

 

 と、ようやくこの辺りで自分が男であったことを再確認する。別に確かめたわけではないが。

 前半の二人のホスト狂いから抜け出し、自分の人生を歩みだす様は正に坂口杏里そのもの。

 このネタは簡単に言えば『男のシンボル、開陳!』な話で、底抜けのダンディズムが思いっきり空回りする。とにかく半公が最高である。女性には引かれるかも知れないが、自分を愛してくれるという話を聞いただけで、心を奮い立たせて遮二無二燃えるのもまた、男なのである。男とは、時として、そういう生き物なのだ。馬鹿だと思って笑うなら、笑うがいいさ。それでも、男はめげない。不倫にビビる男も入れば、堅物の若旦那も入れば、ちょっとした喜びを力に変える男もいるのである。

 たとえ思いっきり空回りしても、男には意地がある。誇りがある。好きな女の前では恰好良くありたい。誰もが惚れ惚れするような存在でありたい。そんな男の美学を、たっぷりの笑いに包んで表現する遊雀師匠に、男である私が惚れるのもおかしくないことなのだ。

 ここまで見て感じたのは、客席の温かさに呼応するように、とても演者が楽しんでいるように見えた。特に遊雀師匠は思わず言葉にしてしまうほど客席を褒めていた。客席にいる私としても嬉しい。芸は客と演者が作る。それを身を持って実感しているのは遊雀師匠本人であろう。

 素晴らしい。本当に素晴らしいホストクラブ『MEIJIN』。オーナーの遊雀師匠に別れを告げ、いよいよ店を出たところで、バッサリ闇討ち。

 

 蜃気楼龍玉 牡丹灯籠~栗橋宿~

 不倫の罪は重かったか。私は敢え無くバッサリと龍玉師匠に袈裟掛けに心を斬られた。鮮やかな一閃。トントン拍子の語り口と迫力の声。言葉の語尾に雲助師匠の影響が感じられて最高。

 初めて龍玉師匠を見たのは、鈴本の寄席、ネタは強情灸。強面の表情からは想像も付かない骨太な落語で笑いを起こしていた。今宵は怪談話。遊雀師匠まで思いっきり会場が爆笑していたから、ここは怪談話で締めるだろうと予想していた。

 『栗橋宿』については、詳しい内容は他に頼るとして、男女の関係性を巧みな言葉と表情で表現していた。正直、初めて見た人は戸惑ってしまうのではないだろうかと思うくらいに、真に迫った龍玉師匠の語り。

 特に登場する人物の表情が、龍玉師匠にしか出来ないと思えるような表情。シリアスに寄りすぎず、どろどろし過ぎず、割とあっさりと聞けるのは龍玉師匠の持つフラの影響があるのだろうか。

 今は、龍玉師匠をどう表現していいか、私には分からない。

 とにかく、凄まじい高座だった。

 この記事の前半のふざけっぷりが嘘みたいに、キチッと場が締まって終演。

 

 総括 狂乱の一夜

 久しぶりに最高の四人を見た、というような回だった。一か月前に期待した以上のものが今日、ユーロライブの会場には存在していた。三四郎さんは度肝を抜くような笑いで、文菊師匠は鉄板の色気で、遊雀師匠は名人の艶色で、そして龍玉師匠は得体の知れない真剣味で、会場を塗り替えていた。

 凄さの渋滞のような回である。さすがに冷静に文章が書けないと思ったので、感情のままに書いた。

 本当に素晴らしい会だった。安心して上方に行けますわ(何に安心したのか)

 さて、実はもう一記事。この回の前に昇々さんの回にも参加した。これは次回のお楽しみ。

 落語的ホストクラブ『MEIJIN』、次は一体いつ開かれるやら。次はシャンパンタワーどころじゃないかも知れない。レッドカーペットを引くかも知れない。ってそりゃ緋毛氈か。

 今はまだ興奮状態である。冗談だと思って読んで頂けたら幸いである。(8割本気だけど)

思えば心地が良いだろう~7月11日 はなし亭~


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人の心の向き不向き、思えば心地が良いだろう

  さすらう雨にひたひたと

 雨だ。雨が降っている。行き交う人々は傘を差して、雨から逃れるようにして足早に走り去っていく。時折、私の傘がすれ違う人の傘にぶつかる。「すみません」と言って前に進む。謝りながら進んでいる。濡れまいと傘を差しているのに、頭の中にはずぶ濡れの自分がいる。濡れたいのか、濡れたくないのかも分からないまま、私はただ傘を差すことが当たり前だと思って前に進んでいる。

 雨は群れになって落ちてきて、地面にぶつかると水溜りになる。雨の日には雨の日の楽しさがあって、それは何日も続くと憂鬱ではあるのだけれど、それでも、雨の日は景色が濃くなっている気がするから好きだ。地面から立ち上がってくるコンクリートの、独特の濡れた酸っぱさと甘さが鼻を舐めるのも、何とも言えない不思議な感覚。しっとりとした自分の頬の弾力を確かめるときの、あの小さな罪悪感は何だろう。言葉にならないまま消えて行く事柄を、言葉にして確かめたい。そんな思いが雨となって落ちて、やがては地面に消えて行く。太神楽みたいに傘を回せば雨の雫がコロコロと回ったりして、益々繁昌、なんてことになればいいけれど、それって結構難しいんじゃないだろうか。と、考えながら、目的の場所に着いた。

 

 古今亭文菊 ちりとてちん

 文菊師匠の語る円菊師匠との思い出は、いつも温かい温度を保って聞こえる。私は円菊師匠の高座を見たことは無いけれど、色々な本で見たり、誰かが語っていることを聞いたりして、円菊師匠のことを知ったりする。文菊師匠の語りには、円菊師匠の最後の弟子としての喜びを感じる。本当に、本当に、周りが想像を絶するほどの辛い経験をしていても、それが文菊師匠の中で一つの核になっている気がする。だから、文菊師匠が円菊師匠の言葉を放つ時、そこには文菊師匠の核になった円菊師匠がちらりと見える気がして、何だか心地が良いのだ。

 私は人に語るとどうしても泣いてしまう話が幾つかあって、その内の一つに、のび太が亡くなったおばあちゃんと対面するという話がある。詳細を書くと泣くので書かないけれど、文菊師匠の今の姿を、円菊師匠が見ていたらどんなことを思ったんだろうと思う。きっと甘い言葉を円菊師匠は言わないだろうと思う。でも、どんな風に文菊師匠を語るんだろう。どんな風に今の文菊師匠をお客さんに伝えるんだろう。どんな形で、円菊師匠の胸には文菊師匠が留まるんだろう。聞いてみたいけど聞けないことが山積みになるばかり。きっと、それは文菊師匠も同じだ。

 『ちりとてちん』という話は、簡単に言えば『知ったかぶりの男が腐った豆腐を食べる』という内容なのだけれど、冒頭の旦那とお世辞の上手い男との会話には、何だか不思議な温かさがある。これは想像でしか無いけれど、文菊師匠の演じる旦那には円菊師匠、お世辞の上手い男と知ったかぶりをする男には文菊師匠の姿があるように見える。

 知ったかぶりをする男が登場すると、途端に旦那のイジワルな態度が現れて、それがとても面白かった。まだネタ卸しだから、これからどんどん細部が極められていくと思う。

 文菊師匠と円菊師匠の関係に思いを馳せてしまう、そんな素敵なネタ卸しの一席だった。

 

 古今亭菊之丞 厩火事

 すっかりほくほくとした会場。温かい雰囲気に包まれて登場の菊之丞師匠。時代はどんどん変わって行くという話から、お馴染み縁の小噺では時事ネタも挟んで会場は大盛り上がり。とても上品な語り口で演目へ。

 『厩火事』という話は、簡単に言えば『夫と喧嘩した妻が、仲人から良い話を聞き、それを夫に試す』という内容である。女形の色っぽさもさることながら、仲人の雰囲気も素敵だった。

 途中で、エンターテイメントなハプニング(?)もあって、この会だからこその素敵な光景を見ることが出来た。ネタを覚えることの難しさを改めて実感するような高座だった。

 どんどん磨きがかかって、どんな風に菊之丞師匠のモノになるのか。

 とても楽しみな奮闘が見れたネタ卸しの一席。

 

 柳亭こみち 大山詣り

 見る度に「好き」が増していくこみち師匠。寄席を含めどの会に出ても、満面の笑みで嬉しそうに落語をする姿を見ていると、こちらまでウキウキしてくる。落語の世界に入って、本当に楽しくて楽しくて仕方がないのだなぁという雰囲気が感じられて、それが羨ましかったりする。きっと客席で見ているお客様の百倍、千倍は落語が好きだと思う。そう感じさせるほどに、こみち師匠は高座に上がるとウキウキしているように見える。

 あらすじしか覚えていないと言いつつ、丁寧な大山詣りの様子から、これぞこみち師匠と呼べるような、可愛らしい人物が多々登場する。登場人物に愛嬌があって、どこかディズニー感というか、カートゥーンな面白さがあって、私は勝手に七人の小人が山に行くような想像をしてしまった。

 『大山詣り』は、その名の通りのお話なのだけれど、道中で喧嘩した男が企むお話だ。喧嘩した男はどうなるのか、男の企みに騙された人々がどうなるのかという部分も注目である。

 とても愛嬌があって可愛らしいこみち師匠。柳亭燕路師匠の持つ可愛らしい愛嬌を見事に受け継いでいる感じがする。特ににっこりと微笑んだ表情が素敵だ。是非、燕路師匠の笑顔とお声も見て聞いて頂きたいと思う。

 落語が大好きで、とっても溌剌としたこみち師匠の、「好き」がまた増したネタ卸しの一席。

 

 総括 心地よさで満たされて

 会を終えて外に出ると、雨は止んでいた。束の間、濡れた路面を歩きながら帰る。

 ネタ卸しを続けることの大変さ、同時に楽しさを知ることが出来て、とても幸福だった。

 どんな風になっていくんだろうと、未来に思いを馳せるのは素敵な気分だ。もちろん、今に全力投球も大事だけれど、定期的にこうやってネタ卸しの会に行って、全世界で初公開のネタを卸す瞬間に立ち会うのも良いだろう。もしかしたら、二度と高座で聞くことが出来ないかも知れないのだから。

 素敵な心地よさに満たされて私は家路に着いた