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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

イッパチ/怒りの投擲~5月19日 三遊亭笑遊独演会~

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上がった 上がった 上がったぁ ◎◎が上がったぁ~

 

 地獄はあいつにとって故郷です

 

奴は大金を得られるなら地獄にだって行きますよ、武器も持たずにね

  -Apache- Incredible Bongo Band

 大佐から手紙が届いた。大佐の命令は絶対である。否、命令などでは決して無いし、強制参加でも無ければ、むしろ自由参加の会だが、私は大佐からの手紙を見た時、即座に「行きまっさー」と心に決めた。ここからの記事は上記の中タイトルの楽曲を聞きながら読むことをオススメする。

 大佐のコードネームは”SHOW YOU"、日本では笑って遊ぶと書いて"笑遊"である。寄席にロケットランチャーと拡声器を持ち込むことなく、大爆笑のロケットを放ち、大音量で叫び声をあげ、寄席の客席を一瞬にして笑いの焼け野原と化す男。人呼んで『落語界のマッドマックス』であるが、この度、私は新たなる呼び名を考えた。

 それは『落語芸術協会のジョン・ランボー』である。

 ただ飯を食うためだけに店に入ったにも関わらず、偏見の塊のような警察官にケチを付けられ、警察署へと連行されたジョン・ランボーは、保安官が向けた髭剃りを見てかつての戦争体験を思い返し、保安官を次々と殴り倒して山へと逃げ込む。

 ただ寄席で爆笑を巻き起こすために高座に上がったにも関わらず、客席の静まり具合に納得が行かずにマイクを握り、自らの両足をバシバシと叩きあげながら、「盛り上がってるかぁああ!!!お前らぁああ!!!」とばかりに絶叫の雄たけびを上げ、落語の演目をその都度思い返し、観客を次々と笑わせた後で袖に消えて行く。

 二人は同じである。ジョン・ランボー三遊亭笑遊と言っても過言ではない。

 ランボーは「この山では俺が法律」と言っているが、笑遊師匠は「この会では俺が法律」と言っていないが、殆どそんな空気なのである。

 そんなアパッチ(ならず者)な笑遊師匠から独演会の手紙が届き、上方から名人候補の桂福丸さんまで出演されるというのだから、行かない訳が無い。ランボー、すなわち笑遊師匠がどんな怒りの脱出を決め、怒りの阿保銃(アホガン)をぶっ放し、爆笑の戦場で、誰が最初の血を流すのか、必見である。

 

 三遊亭あんぱん 英会話

 開口一番は急遽、四番弟子になったあんぱんさん。詳細は書かないが、とりあえず笑遊大佐の四番弟子で、戦場だったら鉄砲玉の位置だが、奇跡的な幸運の連続で生き延びそうな風体。前回の独演会で見た時は、『戦場に出たら真っ先にお陀仏』だろうと思っていたのだが、凄まじい進化を遂げ、二等兵並みの実力を身に付けていた。その裏にはコードネーム"Z S"、日本では寿に車甫と書いて”寿輔"の存在があり、寿輔大佐の入れ知恵もあって、会場は大盛り上がりの大爆笑に包まれた。照れくさそうに微笑みながら勝利を噛み締めるあんぱんさんの、何とも言えない嬉しそうな表情を見ていると、『表情は鏡』という言葉通り、こちらまで笑顔になる素敵な高座だった。あんぱんさんもランボー予備軍で、ただ道を歩いているだけで保安官にケチを付けられそうではあるが、そんな保安官を蹴散らすほどの爆笑の一席を見せつけた。これはひょっとすると、ひょっとするかも知れない。笑遊大佐と寿輔大佐のエロスと情熱を受け継いで、戦場にピンクの大砲をぶっ放す日が、いつか来るかも知れない。その時は心して打たれて欲しい。あんぱんだけに、安心して欲しい。(・・・)

 

 三遊亭金かん 道具屋

 三遊亭金遊師匠の二番弟子で、歌舞伎俳優のような端正な顔立ちと、痺れるくらいに落ち着きのある声の金かんさん。こちらはランボーとは打って変わって、スマートな顔立ちは正にライアン・ゴズリング並みのルックス。『きみに読む物語』の意味が変わって来てしまうほどの、落語の語りによってお風呂場で頭をごしごしされているかのような、心地の良い語り口。きっと女性だったら思わず『シャンプーされたい。頭ごしごしされたい!』と思ってしまうこと間違いなし。

 そんなライアン・金かんさんは『正義を売った日』ではなく、『道具を売った日』を演じられる。一度落語の世界に入ると、表情は正に『ドライヴ』のライアン・ゴズリング。思わず頬杖を付いてしまうほどの色っぽい間抜けさ。

 一体この道具屋の『幸せの行方・・・』はどうなってしまうのか。笑遊大佐の下でどんな変化を遂げるのか、見果てぬ『ラ・ラ・ランドへの道へ。乞うご期待。

 

 三遊亭笑遊『たがや』

 正直、ネタ出しを確認していなかったので、『たがや』をやると笑遊大佐が言った時は血が滾った。落語好きにはお馴染みだが、そうでない方のためにご説明すると、この話は簡単に言えば『たがやが侍三人の首を刎ねる』という話である。これは下剋上のような物語であって、花火に掛けて首を刎ね上げる最後の場面が秀逸である。私は最後の首を刎ねるシーンに辿り着くと、どうしても第一作『キングスマン』のある場面を思い出してしまうのだが、そんなファンタジックで爽快な場面の連続する話である。

 もしも容易に『たがや』を想像したい場合、それに近い場面と言えば第一作キングスマンの教会でハリー・ハートが暴れまくる場面を見れば良い。

 私の頭の中には、はっきりとたがや無双の場面が染みついていたので、笑遊大佐のネタ卸しでも、痛快な気分を味わうことが出来た。むしろ、素晴らしいのは、あれだけの齢を重ねてもネタ卸しに挑戦する意気込みである。まだ未完成ではあるけれど、今後口馴染み、あの爽快なぶった切りの場面が流暢な語りで再現されたら、そう思うと、ゾクゾクが止まらないのである。どうか長生きして欲しいし、一度でいいから笑遊大佐の本域の『たがや』を見てみたいと思う。

 笑遊大佐の素晴らしさは、ネタ卸しの完成度など抜きにして、独演会という場における観客全員の熱気で演目が作り上げられるところである。観客にとってみれば、ネタの完成度などもはやどうでも良くて、笑遊大佐が一所懸命に覚えた話を、何とかして苦労しながらも語る姿に心惹かれ、魅せられているのである。それは、決して観客からの押しつけがましい『凄いもん見せてくれるんだろう?』という気持ちではない。それとはまったく異なる位置で、そこに立っているだけで士気が高まる、そんな雰囲気を持っているのである。

 どんなに劣勢の状況にあっても、その人がいるだけで状況が盛り返すということが戦場では多々ある(行ったことないけど)。ガンダムで言えばヘルベルト・フォン・カスペンであり、もちろんナポレオン・ボナパルトでもあるのだ。たとえ島流しにあっても、その偉大なる功績と佇まいは観客の心をくすぐり、笑いを巻き起こすのである。嘘だと思うならば一度出会って見ると良い。独演会に行けば、その偉大さが分かる筈である。

 杖を付きながらも、必死になって高野山を登り、周りの大勢の人々に支えながら頂上に到達するかのような一席だった。

 

 桂福丸 寝床

 お初の落語家さん。風貌はいかにも秀才と思えるが、どこかほんわりと、柔らかな語り口。それでも、端正に積み重ねていく言葉と間。客席からの声にも怯むことなく、自らのリズムを崩さない芯の太さ。そこから演目へと流れる。

 割とあっさり目の語り口ながら、爆笑をかっさらっていくスタイルは、笑福亭たまさんに雰囲気が近い感じがする。だが、まだ初見であるため詳しい判断は付かない。いずれにせよ、個性が滲み出る『寝床』の演目は、笑遊師匠のお客様にも見事に受け入れられていたように感じられた。

 笑遊師匠曰く次の名人候補とされる福丸さん。もっと他の演目を見ないと何とも言えないが、淀みの無い語り口と、カッと見開かれた眼が素敵な落語家さんだと思った。最期はお決まりのオチで仲入り

 

 鏡味 味千代 太神楽

 長らく私は太神楽を大神楽と誤って記載しており、正直、物書きとして大変申し訳ないと思った。同時に、同じような体験をしたことが一度だけある。

 皆さんもご存知かも知れないが、May J.という人がいる。私は今までずっとMay Jだと思っていたのだが、どうやらMay J.であるらしく、それを教えられた時は、鳥肌が立つほど驚愕し、なぜ今まで見えていなかったのか、愕然とした。

 お分かりで無い方のために、敢えて大文字で書くが、

 

 ×  May J

 〇 May J.

 

 お分かりいただけるであろうか。この小さな『.』これが付くと付かないとでは大違いなのである。May J.ファンに「May J」と書こうものならば、顰蹙を買ってしまいかねないので、May J.をお使いになる方は注意して欲しい。

 さて、反省はこの辺にして、お馴染みの太神楽である。もう幾千回も見たので、よほどの新技が出なければ興奮しない体になったが、今回は客席の美人の「おおおお!!!!」とか「え、どうやんの、どうやんの」とか「うっそぉおお、無理だよ~」みたいな掛け声もあって、ミラー効果とでも言おうか、別の意味で興奮した(キモッ)

 自分一人では興奮しなくても、他人によって興奮することは多々ある。素晴らしい新技の披露で、胸も高鳴る素晴らしい太神楽であった。

 

 三遊亭笑遊 愛宕山

 再び戦地に舞い戻ったランボー・笑遊大佐。まだ聞いたことの無い人の楽しみを奪いたくないので誇張して書くが、笑遊大佐の『愛宕山』は、『ランボーmeetsフォレスト・ガンプ』な内容である。はっきり言って読者は怪訝な表情をされているかと思う。だが、あまりにも多くの描写があるため、それを丁寧に解説していたら完全ネタバレになるので、徹頭徹尾、誇張して書くことにする。

 まずは、物語には金持ちの旦那、幇間の一八、シゲゾウが登場する。金持ちの道楽に付き合わされ、山登りをするシーンは、哀れみと感動が同時に押し寄せてくる名場面である。また、この時は客席の話へののめり込みっぷりも凄まじく、旦那の後を追う一八が険しい山を登る場面で手拍子が起こった。一八は『奴さん』を歌いながら山を苦しそうに登る。客席からは「頑張れー!もう少しだー!」という掛け声がある。

 この一体感。独演会でしか味わえない熱狂ぶりに私は感動してしまった。芸は演者と観客が作るというが、まさにその一つの到達点を、私は笑遊大佐の山登りの場面で感じたのである。

 私の脳内には、赤いキャップを被り、シャツをズボンにインしたガンプの走り出す場面が浮かび上がっていた。ちょっと横振り気味に両腕を振り、ただひたすらに走り続けるガンプ。ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』 が流れ始め、走る姿を見た者の誰もが魅了される。心の中で私は叫んでいた。

 

 Run!!! 笑遊!!!  Run!!!

 

 人はなぜ走るのだろうか。

 人はなぜ山を登るのだろうか。そこに理由は無いのかも知れない。

 ただ走る姿を見るだけで、ただ山を登っている姿を見るだけで、涙が零れてしまいそうになるのは、そこに言葉にならない何かがあるからだろう。

 いじめられっ子のフォレストが、同級生の乗った車に追いかけられる場面が『フォレスト・ガンプ』という映画にはある。その場面もフラッシュバックしてきた。なぜだかは分からないけれど、人が一所懸命に走る姿に感動したことのある人ならば、きっと笑遊大佐の『愛宕山』の一八の山登り場面は印象に残るだろう。

 一八とシゲゾウが頂上に辿り着いたとき、会場は万雷の拍手に包まれた。こんな独演会、見た事ない。ここまで話に入り込ませてしまう笑遊大佐の人柄。これは話芸だとか技術云々の話ではない。この場に集まった誰もが笑遊大佐の話に夢中になっているからこそ起こる、一つの奇跡だと私は思った。これだから独演会は止められない。自分と同じように、一人の落語家に心を奪われた人間が何十人といる空間。

 私は思う。

 

 こんな幸せな空間は、世界中どこを探しても、今、この瞬間にしか無い。

 

 頂上へと辿り着くまで、完全に『フォレスト・ガンプ』を見せられていた私は、次に『愛宕山』と言えば、名場面の『かわらけ投げ』の場面である。

 この辺りのやり取りで、徐々にヒートアップしてくる旦那が面白い。最後に強烈な場面も描写されて、私はそこが一番好きなのだが、敢えて書かない。

 やがて銭を投げ始めた旦那を見て、一八は金に目が眩む。このどうしようもなく愛すべき存在、一八。金を得るために愛宕山の山頂から傘一本で飛び込もうとするがビビる姿が面白い。なんて哀れなんだろう。この愛すべき哀れみに涙が零れそうになりながら、愛宕山の頂上から落ちて行く一八。目当ての金に思考が奪われ、帰還することを一切考えない無鉄砲さ。それでも逞しく縄を作る場面になってようやく、ランボー・一八の登場である。幇間という稀有な商売に付きながら、心くじけることなく金に貪欲な一八。誰が言ったか忘れたが『どん底から見上げた空は青い』。たとえ気の合わない相手であっても、時間を割いて自らの私腹を肥やす幇間の心持ち。その雑草のような力強さに、私も時代が違えば幇間として身を終えたかったと切に思う。人に合わせ、人に尽くすことで生き残る姿には、哀れみの中で力強く生きる者の光がある。

 オオカミの恐怖に怯え、旦那とシゲゾウへの怒りに燃えた一八の怒りの投擲によって、撓る竹。そして勢いよく愛宕山の頂上へと飛んでいく一八。落語の中でこれほどダイナミックでおかしみのある場面が他にあるだろうか。

 そんな怒りの大跳躍の後で、まさかまさかの哀しみのオチ。近頃、「落語は哀しい」という有名な落語家の言葉を目にしたが、その哀しみが笑いへと昇華される瞬間の、何ものにも代えがたい幸福を味わいながら、大笑いによって熱くなった頬と、腹と、胸と心を感じ、私は笑遊大佐の一時間にも及ぶ大熱演を見終え、思った。

 

 最高だ。笑遊師匠!!!!

 

 お江戸上野広小路亭の階段を下りて行くとき、誰もが口をそろえて「とても面白かったです」と言っていた。私も同じ言葉を笑遊師匠に言った。

 最高だった。あんなに素晴らしく、ド派手で、爆音の『愛宕山』は初めて聞いた。私にとっては、三遊亭笑遊師匠は名人です。令和になっても、長生きしてください。

 熱狂の『愛宕山』を聞き終えて、私は京都の愛宕山を登ってみたいと思った。かわらけ投げもしてみたいと思ったが、調べたところ、京都の愛宕山ではかわらけ投げは出来ないらしい。ならば銭でも投げようかな(ジョーク)

 熱く、燃えるような三遊亭笑遊師匠の独演会。何度来ても、爆笑に包まれる会場。

 次は一体どんな落語を見せてくれるのだろう。楽しみでならない一夜だった。

カエスガエス・ヒンスドンス~5月14日 隅田川馬石・古今亭文菊 二人会 古典でござる~

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返す返すも貧す鈍す

 

扇子巻子が好かん酔漢

 

 萬子筒子に索子信ず

 

金糸銀糸に近視禁止

  タレソカレソノタソガレガシー

 綻びたとて傷にもならぬ、そんな約束を破られて一人。ぽつりぽつりと街角に、隠れるように歩きながら、何から身を隠そうとしているのかも知らずに、伊賀も甲賀も分け隔てなく、心は破られた約束に対する腹立たしさを耐え忍びながら、歩を進めよと身体に告げている。

 小手先三寸で待ち望んでいた約束を相手に破られると、どうにも相手に対して自分が軽んじられていると思う。相手のために取った時間も、相手と会おうという思いも、相手と会ってどんな話をしようかという夢想も、全てが軽く扱われているような気がしてくる。そんな生半可な思いで、私は相手のことを思ってなどいないし、約束はしていないのだ。叶わぬ約束ならば、最初からしない方がマシなのである。振らない竹刀は持たない方が良いのである。

 折角、朝から私が未発見だった世界の扉を、幾つも幾つも開かせる情報を教えてくれる素敵な方からとても嬉しい情報を頂き、何とか手を伸ばして掴んだ芽を、咲くかどうかも分からないが、咲くことを待ち望み、ただ信じたいと願う幸福な気持ちであったのに、前々から約束していた素敵な芽を踏みにじられると、もう何とも言えない憤怒の念に駆られ、激しい憎悪とともに憤懣遣る方ない気持ちになり、どうにか解消して霧散させたいという衝動のまま、演芸会に行きたくなる。どうにも、一人では消し切ることの出来ない怒りの炎は、優しくて温かい演芸のぬくもりが、ゆっくりとゆっくりと、火力を弱めてくれる。そして最終的には弱火でコトコト、黒豆茶を煮ることになるのである(何の話ぞ)

 素敵な二人会があって、今日はこれに行こうと決めていた。

 隅田川馬石師匠は、私にとって『まっつぐに外れて行く人』という印象がある。少々矛盾した言葉かも知れないが、詳細に語るとしよう。

 本人は至ってまっつぐに、誰よりもキラキラとした瞳を輝かせながら、まっつぐにまっつぐに進んでいるのだけれど、それが客席から見ていると、徐々に徐々に曲がっていくような感じ。アハ体験のように、気づかないうちに景色が変わっているまっつぐさと言えば良いだろうか。野球で言えば、最初は直線なのだけれど、キャッチャーのミットに辿り着くまでに、殆どミットに収まるまで気が付かない角度で曲がって行っている感じ。その僅かな曲がり具合に、客席はどっと沸いているように思える。でも、まだ馬石師匠の言葉を上手く表現できているかは分からない。それでも、私のささやかな馬石師匠の落語体験から言わせてもらうと、そんな感じである。

 古今亭文菊師匠は、『まっつぐが輝いている人』という印象がある。もう何度も見ているので、様々に言い表す言葉が見つかってはいるのだが、敢えて馬石師匠の印象に近い言葉から文菊師匠を表すと、そんな言葉が生まれてくる。

 本人の意識無意識に関わらず、まっつぐをただまっつぐ歩いているだけで、客席は魅了されてしまう。それは持って生まれた品格もそうかも知れないが、何よりもその品格に胡坐をかくことなく、一切淀みの無い語り口で物語を語る様こそが、文菊師匠のまっつぐが輝く大きな要因になっていると思う。

 アハ体験というよりも、ライブ・ペインティングでどんどん絵が荘厳になっていく様を見ているような感じ。野球で言えば投球フォームからキャッチャーのミットにボールが収まるまでの弾道の全てが、金色の輝きを放ち、十回に七回はキャッチャーを球場の外まで吹っ飛ばしてしまうような、そんな素晴らしい落語をされる。

 そんな二人のコントラストが楽しめる会なのだから、楽しくない訳ないじゃない。

 

 柳家小はだ たらちね

 前座さんの中では結構会う確率が多い小はださん。色んな会で重宝されているのか、漫画に出てきそうな素朴な佇まいと、飾り気のない独特の雰囲気を持つ前座さん。鉄板の『妻の旅行』で寄席の爆笑をかっさらう柳家はん治師匠門下の二番弟子。一番弟子はふんわりとした雰囲気が妖精のような柳家小はぜさん。柳家のどっしりとした土着的な雰囲気はそのまま、目の前のことに一所懸命な小はださんの姿が好印象。

 前座さんのお話で会場の雰囲気が良く分かるのだが、比較的良くお笑いになるお客様が多い様子。客席の反応が良いとわかりやすく調子の良くなる小はださん。芸は演者と客席が作るものだと思いながらも、その素朴で真面目そうな雰囲気が落語に合っている小はださんの語り口。これは合う合わないの話だけれど、春風亭朝七さんという稀代のスーパー前座の陰に隠れてはいるが、確実に二つ目としての実力を備えつつある小はださん。これは予想だが、いずれ『柳家小はだ・春風亭朝七 二人会』が開催されてもおかしくない。もちろん、その時には名前も変わっているだろうと思う。

 前座さんの話題が続くが、女性では目を引くほどの美しさを持つ金原亭乃々香さんは、恐らく春風亭一花さんと同じような『親父殺し路線』を走るだろうと思われるし、林家やまびこさんや林家きよひこさんや三遊亭ごはんつぶさんは新作派でドカドカ行くだろうし、春風亭朝七さんと柳家小はださんは古典好きな太客に愛されるだろうし、春風亭枝次さんや春風亭一猿さんは独自の路線を突き進むだろうと勝手に予測している。

 いずれにせよ、今の前座界にも類稀なる未来の名人が潜んでいることには間違いない。一体、どこで化けるのか。とても楽しみである。

 

 古今亭文菊 千早ふる

 とっても温かい会場に登場の文菊師匠。客席を探りながらも、安心した様子で馬石師匠のことを語りながら、客席との距離をグッと縮めて演目へ。

 浪曲が差し挟まれる場面は絶品で、江戸資料館のホールのおかげもあり、心地よく胸に響いてくる文菊師匠の声。300人ほどの小劇場全体に、これでもかと艶やかなハリのある声が響くと、一瞬「オペラ?」と勘違いしてしまう。心奪われてしまう美しい声と、眩いばかりに輝く高座。落語じゃなくて歌と踊りでも十分満足できるほどの美声で会場の美しいご婦人方をうっとりさせ、最後は可愛らしくオチ。

 たとえ知ったかぶりをしていても、隠居の可愛らしさと八五郎の真面目さがとても面白い。段々と知ったかぶりの状況を勢いで抑え込もうとする隠居の調子が上がってくるところも素晴らしい。「いよーっ」とか、「千早ふるぅ」の言い方、声の強弱が会場に見事に合致しているように思えた。声の響きは会場によってもまるで違うのだな、と思った。

 同時に、お客様がとにかく笑う。これでもか、これでもか、というくらいに笑うので、久しぶりに良い会だなぁと思った。耳を立てていると初めてのお客様も多い様子である。

 素敵な美声に酔いしれた一席だった。

 

 隅田川馬石 品川心中

 ゆったりと登場して高座に座り、カッと目を見開いて客席を見る馬石師匠。たとえ遠くから見ていてもはっきりと分かる眼の開き。前列には馬石師匠と言えば!のご常連さんも座しており、馬石師匠の心境や如何に。

 マクラの内容は詳しくは書きませんが、文菊師匠のこと、義太夫のお話。おっと、寝床かな?と思いきや、吉原の話になって、まさか文菊師匠が『お直し』をリクエストか!?と思いきや、演目へ。

 さらりと場面説明を語りながら、スッと女郎のお染に焦点が当たる。落ちぶれて心中を企てるお染の姿が、まるで『夢見る少女』のような純粋さである。グッと客席が話に入り込んでいたのだが、思わぬところで携帯が鳴ってしまった。一気に会場の空気感が現実に戻ったのが如実に分かる。うーん、大事なところだったのだがぁ。と思うのだが、特に触れることなく話を続ける馬石師匠。携帯の電源をお切りくださいますよう、お願い申し上げます。

 夢見る少女の純粋さで心中を決意したお染さん。金蔵が心中を決意する場面は驚くほどあっさりとしている。「はい、言ったね。言いましたねー」というような、金魚掬いでもするかのように、鮮やかに金蔵の言葉を拾ったお染さんの、ヤバイ女感が漂い始める。どうにか雰囲気も持ち返して、カミソリを互いの首に当てるシーンは緊張と緩和があって面白い。本気とも冗談とも付かないお染の行動に振り回され、川へと突き落とされる金蔵の哀れさ。そして、お染の心変わりの速さが面白い。当人でないからこそ笑えるのだが、金蔵の立場だったら大変である。

 太宰治の言葉であったか、『貧すれば鈍す』という言葉にもあるように、落ちぶれた女郎が心中を考えるに至る過程には、盛りを過ぎた女の『貧』があるように思う。くしくも『貧』は『品』とも音が合う。貧すれば品を失する。鈍した思考は愚にも付かない男を心中相手にしようと思い至る。そこに悲壮感はない。以前に小満ん師匠で聴いて以来久しぶりの『品川心中』であり、実に七か月ぶりであるが、通底するのは死すらも粋と見做す人々の意志である。

 当時の人々にとって心中とは『粋で色っぽい』ことであったのかも知れない。愛し合った二人が冥途で添い遂げる。その行為自体を美徳化していた時代もあったのではないだろうか。だからこそ、心中という悲愴さを感じさせる言葉であっても、どこか羨望の眼差しで見てしまう明るさが、『品川心中』には表れているのではないか。

 故に、あっさりと心中を止めてしまうお染の冷酷さが私は少し怖い。女心は秋の空とでも言おうか、心変わりの速さは面白いのだが、現実世界でやられたら困るな、と思う。同時に、この会に参加する前に約束を破られた私も、きっと秋の空の変わりように心を乱されただけなのかも知れないと思った。

 繰り返される貧によって鈍した金蔵の愚行。金蔵はお染に振り回され、お染は時の流れに振り回され、お染に振り回された金蔵は親方を振り回す。親方の周りにいた若い衆は金蔵に振り回される。色んな人々が、色んな貧を体験し、それぞれに鈍していく。その様の繰り返しの中に、人間の言いようの無いおかしみが籠っているように感じられる。たとえ貧して鈍したとしても、ほんの少しのおかしみで全ては乗り切っていけるのではないか。そう単純なことではないけれど、そんなことを感じた一席で仲入り。

 

 隅田川馬石 反対俥

 何が馬石師匠を駆り立てたのか、寄席で十八番の『反対俥』。この話も考えたら久しぶりに馬石師匠で聴く。馬石師匠の寄席話と言えば『元犬』と『反対俥』は是非見てほしい一席である。どちらも馬石師匠らしさ全開である。

 会場のセットも横断幕も舞台も全てマラソンの舞台そのもので、目の前には箱根の山が見えており、沿道に集まった人々の誰もがマラソンなのだろうな、と思っていたところ、肝心の走者が開始の合図と共に猛ダッシュで100mを走り切り、沿道に集まった聴衆に向かって「実は短距離走でした!」といって、そのまま「ですから!短距離走だったんで!100m走だったんで!」とひたすらに言い張るような反対俥だった。

 時間さえ許せば、マラソンの反対俥も見たかったのだが、恐らく時間も押していたのだろう。あっという間の反対俥だったが、そこは馬石師匠らしさで見事にカバーしていたし、ちゃんとドラム缶も飛んだし、上野の駅は通り過ぎたので安心の一席(何が安心なのだろうか)

 

 古今亭文菊 質屋蔵

 何よりも面白かったのは、馬石師匠の高座を見終えた文菊師匠の一言。これは敢えて書かないが、文菊師匠の一言に私も「確かに」と笑いながら頷いてしまった。爆笑に呑まれ温かい雰囲気はそのまま、菅原道真公の話から演目へ。

 シブラクで見た時よりも、会場の雰囲気もあってか僅かにテンポが早い気がした。時刻も21時の15分前だったので、恐らく時間も押していたのだろう。それでも、テンポの速さは淀みの無い語り口に支えられ、またホールに響き渡る心地の良い声とともに、何度聞いても面白い場面の応酬で、最期まで全く飽きることなく聴くことが出来る。

 これで文菊師匠の質屋蔵は三回目。もしかしたら質屋蔵の強化週間?なのだろうか。相変わらず幽霊にビビる番頭さんが話す『質屋に溜まる怨念話』は面白いし、ずる賢い定吉は冴えているし、勘違いする熊さんは憎めないし、自分の策にビビる番頭さんも情けないけど、まっつぐで面白い。

 質屋蔵の一席は面白い噺の短編集のようだと思う。オー・ヘンリーとか志賀直哉辺りが書きそうな、どこでお時間が来てもスパッと切れる一席だが、前半に仕込んだマクラが最後に効いてくるという趣向もあって、かなり練られた話だと思う。

 文菊師匠の絶叫も、広いホールだと美しく響く。静かで、どこかファンタジックで面白い一席で終演。

 

 古い時代に記された物語の、新しい二つの語り口

 馬石師匠のお餅のようにもちっとした柔らかい雰囲気と、文菊師匠の刀剣のようにスパッとした鋭い雰囲気が混じった不思議な会を堪能した。

 千早ふるの一席でスパッと胸を切られた後は、品川心中でがっつり柔らかくて太く弾力性のあるものを飲み込み、反対俥できび団子をスッと茶で飲み干した後、爽快にバッサリと質屋蔵で切られる。そんな『刀剣茶屋』みたいな異種?な雰囲気が心地よかった。どこか馬石師匠は甘味、文菊師匠は塩味のような感覚があるんですが、読者の皆様はどうなのでしょうか。

 たとえどんなに時代を経ても、色褪せることのない遠い過去の時代に作られた物語を、今、現代に生きる二人の、とびきり個性的な二人の落語家が語る。二人会の素晴らしさは、それぞれの微妙な差を感じられるところかも知れない。どちらが優れているとか劣っているということは一切ない。それぞれに、それぞれの持ち味を表現しているから、素晴らしいのだと思う。

 そんな二人会で、今大注目なのは『春風亭百栄師匠と柳家はん治師匠』の二人会なのだけれど、うーん、どうすっかなーーー。

 化学反応と言えば化学反応で、二人会によっては『混ぜるな危険!』も有り得ると言えば、有り得るのだけれどもね。

 二人会の楽しみにも目覚めてしまいそうな、そんな一夜だった。

情けないけど、まっつぐだ~5月11日 渋谷らくご 14時回~

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な、な、な、何を抜かしやがるんでぇい!あべこべだい!

 

喋るのが下手なオイラでも、上手に話せるようになりますか

物覚えが悪くても、オイラは上手に話せるようになりますか

今は自分を信じて、喋り続けていたい。

 

全ての思いを、文菊師匠はたった一席で纏めてしまうんです。

  I Hear A Rhapsody

  渋谷の雑踏の中で孤独を抱えているのは僕だけなのかも知れなかった。人々はまるで息と息を混じり合わせて、一つの香水でも作るように肩を寄せ、手と手を絡ませながら街を歩いている。建設中のビルのすぐ横では、目もあやな服を身に纏い、最先端の音楽でも聴いて、アリアナ・グランデになりたいと願っているかのような女性達が、ジャンクフードを口にしながら楽しそうに会話している。

 道玄坂を登り切るまでの間に、僕は何度も異国を旅する。ある時は中国に、ある時はイタリアに、ある時はアメリカに。

 日本にいる筈なのに、日本にいないように思うのは、そこが日本では無いからではなく、そこに日本人が多くいないから。

 情けないな。

 散乱するゴミと散弾銃のように四方八方へ飛び散る人々の声。きっと僕の体はもう穴だらけかも知れないと思いながら、セブンイレブンのある路地を曲がる。とても暑い日だ。こんな暑い日には、とびきり頭を冷やしてくれる話が聞きたい。幽霊の話なんか最高だ。シンプルで、怖くて、ちょっと背筋が凍るような、そんな幽霊でもいい。

 ラブホテルの乱立する路地を歩く。年齢差がヒマラヤの頂上と琵琶湖の底くらいはありそうな男女が手を繋ぐことなくホテルに消えて行く。女の折れ曲がった楊枝のような腕の、丁度折れた部分に引っかかった黒いバッグが、落武者の首だったら良いのに、と思う。きっと今日は、年季の入った老紳士の首でも落として、バッグにするんだろう。否、紳士が落とすのは首ではなく金か。

 情けないな。

 とぼとぼと歩みを進める度に、騒音は増していく。

 ガヤガヤと、ザワザワと、ドカドカと、ウジャウジャと。

 いつから、そんな集団に溶け込めなくなったんだろう。

 いつから、そんな集団を遠ざけてしまったんだろう。

 体力の衰え?精神的なもの?僕の何が、騒ぐ集団から遠ざかろうと思わせるのか。

 情けない。情けないけど、まっつぐだ。

 ただただまっつぐ、僕は歩いてきたのだ。

 文菊師匠に、会うために。

 

 台所おさん 鮑のし

 おさん師匠の醸し出す雰囲気は、不思議で温かい。どこかぶきっちょだけど、まっつぐで、飾り気がない。自分の気持ちも素直に話す。1,000人の会場にいても、100,000,000人の会場にいても、その場に馴染めない時は馴染めないし、孤独を感じる人は孤独を感じるのだ。たとえ他の999人、99,999,999人がどれだけその場で熱狂していても、孤独なときは孤独なのだ。その、たった一人の、小さくて強い存在を、おさん師匠は誰よりも愛しているし、認めている。そんな風に僕は感じる。誰にも見向きされることのない幸せを、おさん師匠はたくさん知っているし、たくさん持っている人のように思える。だから、一言一言が、ぐっと握られた拳のように力強い。誰もいない路地でひっそりと暮らす野良猫を見つけて、自分が食べようと思っていた鯖缶をそっと差し出し、「さぁ、お食べ」と言って猫に近づき、そっと猫の頭を撫でながら、鯖缶を食べる姿を見つめる眼差し。そんな、まっつぐで、ピュアで、どうにもとっちらかった瞳が、妙に物語に哀しさを滲ませているように僕には思えた。

 お腹をペコペコにして帰ってきても、食事にはありつけず、色々と奥さんから指示されて、それに素直に従う甚兵衛さん。情けないけど、まっつぐな甚兵衛さんの姿に心をくすぐられながら、大工の棟梁に出会う場面で、なぜか物覚えの良くなる甚兵衛さん。最後に畳み掛ける場面は、なぜだかうるっと来てしまった。色んな人に支えられて、お腹を空かせているのに、楽屋話を全部話してしまう愚かさもあるのに、人から言われたことを素直に守って、言い間違いをしながらも、一所懸命に言葉を発する甚兵衛さん。

 ああ、なんて素敵な人なんだろう。

 そんな甚兵衛さんは、猿股を忘れてしまう。その情けなさに、悲哀という一言では言い表すことの出来ない、色んな思いが詰まっているように思えた。

 僕は台所おさん師匠が大好きだ。そう強く思った素敵な一席だった。

 

 玉川奈々福/沢村豊子 慶安太平記 牧野弥右衛門の駒攻め

 豊子師匠の手を引きながら、舞台へと上がる奈々福さん。

 開場前、三味線の音色が聞こえるので「おや?」と思っていると、奈々福さんの声が聞こえた。最高の浪曲を届けるために、入念なリハーサルを行う奈々福さんの、プロとしての魂。そして、その魂に応え、その魂を導くかのように鳴り響く豊子師匠の三味線。木馬亭やアマチュアの方との共演であっても、決して手を抜くことなく、浪曲師を導く豊子師匠の三味線は、上手く言葉では言えないけれど、張り詰めた思いを一瞬一瞬で弾けさせながら、物語に緩急と彩りを、そして節に宿る魂とともに、躍動している音色がある。あまり浸透していないけれど、『浪情』というものの、風?と呼ぶべきか、正に波であり浪である三味線の音が、とてつもなくカッコイイ。

 人は一人では生きていけないし、浪曲は一人では出来ない。その場、その場で即興の音色と、節と間が生まれ、人々は浪曲に浸る。浪曲の浪に一度飲まれてしまったら、ぐわんぐわんと心を揺らされるだけでいいのだ。三味線の音と、浪曲師の声に身を任せてしまえばいいのだ。

 奈々福さんと豊子師匠には、固く結ばれた強い絆を感じる。豊子師匠の手を取る奈々福さんの手、眼差し。「ありがとね」と満面の笑みで声をかける豊子師匠の姿。観客の僕が見ている以上に、二人の間には特別な絆が生まれているように思える。

 豊子師匠の素晴らしさを書き始めたらキリが無いのだけれど、色々と書いてきた記事の中で、いかに裏方として働いているか、とか、若い浪曲師のためにご尽力されているかとか、僕の浪曲関連の記事を見て頂けたら、ほんの少しはお分かりいただけるだろうと思う。

 浪曲の未来を担い、浪曲を支え続けてきた二人の最高の一席で、インターバル。

 

 瀧川鯉八 やぶのなか

 歌丸師匠に触れた巧みな構成力のマクラから演目へ。一人の新婚女性を起点に、女性の旦那様と、女性の弟と、弟の彼女、四人それぞれの心境が語られる落語。落語とは会話の妙であるという一つのキーワードが、ごっそりと削がれている。芥川龍之介の『藪の中』に基礎があると思われるそれぞれの独白方式が、物語に起こる様々なことを、様々な視点と角度から見ることが出来て、いわば神様になって人の心の全てを覗いているような、そんな奇妙な空間が生まれているように思えた。

 たった一つの出来事であっても、そこに関わる人々は、それぞれに色んな思いを持っている。それは、互いに顔を合わせていたり、全員が同じ場所にいる場合、お互いに気を使って封じ込まれてしまうような思いである。それを、登場人物が誰かに語り掛けるという方式を採用し、それぞれを独立させて語らせることによって、それぞれがそれぞれに感じたことを、誰にも邪魔されることなく観客は聞くことが出来る。その独白を聞く観客は、それぞれの微妙な思いの食い違いや差を聞いて、それぞれに頭の中で話をくみ上げ、「私だったらこの意見に賛成だなぁ」という思いを抱かせる。

 と、色々と分析したけれども、鯉八さんは僕にとっては『哲学派』の人だと思っている。哲学のようなことを、日常の些細なことから浮き彫りにして投げかけようとしているような、そんな思いを高座を聞く度に思う。

 

 古今亭文菊 質屋蔵

 もう何度も出会っている人なのに、出会う度に新鮮な心持ちで出会うことが出来るのは、僕がここに座っているからではなく、文菊師匠が座布団に座っているからではなく、ただこの空間と、この時間が、この瞬間にしか流れていないから。

 全て見通されているのかも知れない、と思える僕は幸せかも知れない。僕は九州を一週した。旅を終えて文菊師匠の独演会に行き、そこで『大山詣り』を聞いた。再び、渋谷らくごで、文菊師匠は『九州』に纏わる話を始めた。その時、私は思った。

 もしかしたら、この人と出会うことは運命の一つだったのかも知れない。

 長い長い人の歴史において、僕が文菊師匠に出会って心惹かれる。天文学だって、どんな数学だって、完璧に答えを出せない『出会いの偶然』。それって、信じてもらえないかもしれないけれど、確実に、ある。少なくとも僕は、思うのだ。これは、運命だ、と。はっきりと、しっかりと。

  もう一つ、きっと文菊師匠は鯉八さんの歌丸師匠の話に呼応するように、質屋蔵をやろうと決めたのかも知れない。質屋蔵と言えば、歌丸師匠の録音が残っている。恐らく、歌丸師匠への敬意も含めて文菊師匠はネタを選んだのではないか。歌丸師匠の録音はとても良い一席なので、是非聞いて欲しい。

 文菊師匠の『質屋蔵』は、ネタ卸し後の2度目の時に独演会で聴いて以来だった。2018年の7月22日に聴いて以来だから、ほぼ1年ぶりに聞いた。

 幽霊に対してビビる番頭さんと熊さんの姿が可愛らしい。独演会の時はたっぷりだった定吉と熊さんとの掛け合いも、30分の枠に収めた短縮バージョンのような気がする。(私の気のせいかも)

 幽霊にビビっている感じは情けないけれど、一所懸命に幽霊を見張っている二人の姿が可愛らしい。突然叫び出す番頭さんにびくっと驚きながらも、「驚かすなよぉ」と、優しい笑みが零れる。幽霊の正体とか、それに至るまでの過程が面白い。そして、前半に仕込まれた伏線を見事に回収する巧みな技。

 幽霊を聞きたいと思っていた僕の気持ちと、九州を旅した僕の気持ちを、一つに纏めてしまった文菊師匠。ここまで奇妙な一致が続くと、本当に不思議だなぁと思う。嬉しいけれど、ちょっと怖い。

 

 総括 まっつぐに、行こう

 誰と出会っても、たとえ孤独を感じたとしても、おさん師匠のように自分の感性を信じて、自分の好きなものに優しい眼差しを送る人もいる。奈々福さんのように、豊子師匠との間で魂と魂で結ばれた関係を持つ人もいる。鯉八さんのように、現代の誰もが、それぞれの独白を吐露することだってある。そして、文菊師匠のように、全てを引き受けて一つに纏め上げて、圧巻の落語を披露する人もいる。

 みんな、まっつぐに歩いている。

 情けないな、と思っても、カッコ悪いな、と思っても、それでも、僕はまっつぐに、ただまっつぐに進むしかないのだ。

 情けないけど、みんな、まっつぐに進んでいるんだ。

 きっと、情けないという気持ちすらも忘れてしまうくらいに。

 だから、まっつぐに、行こう。

 誰か素敵な人に出会える。その日まで。

2018年のGWの話

ゴールデンウィークの一人旅。

湖や滝や日本庭園など、自然の美しさ、日本の風景というものを強く体験することができた。

山について僕が感じたことを語ることにする。

山梨県にある母の白滝を見るため、僕はカメラを持って滝の写真を撮っていた。
丁度、そこに高校生くらいだろうか、インストラクターを引き連れて『三ツ峠』と呼ばれる登山道を登っていく様子の集団がいた。
それまで僕は三ツ峠があることを知らなかった。
興味本意で、僕は図々しくもその集団の後ろをついていくことにした。
途中、そのグループが山の説明か何かで立ち止まったので、僕は耐えきれず前に進んでいった。
すぐに頂上なのだろうと思ったが、これが大きな間違いだった。

登っても登っても頂上が見えてこない。挙げ句、クマ出没の看板まで出てきた。もう諦めよう。これは名誉の撤退だと思って引き返そうとした。
すると、後ろから山岳部らしき四人の青年が大きなバッグを背負って駈け登ってきた。どうせなら、クマに襲われても誰か一人食われれば助かるだろうと思ったし、これは何かの啓示なのだと勝手に思い、僕は再びその青年達の後ろをついていくことにした。

青年達はぐんぐん登っていき、あっという間に引き離されてしまった。まずいぞ、と思いながらも、僕は引き返せない気持ちでいっぱいだった。ここで戻ったら後悔するぞ、頂上に登ったと言えなくなるぞ。と心の声が聞こえた。
適当に登って、諦めた話をすれば笑い話にもなるだろう。でも、僕はどうしても登りきりたいと思った。
僕は何かに集中したら、なかなか他のことは出来ない性質があるらしいと思った。

酷く足が痛み、呼吸も苦しく、何度も転びながら、僕はゆっくりと頂上に近づいていた。
ああ、これだ。と思った。
どうして人間はわざわざ苦しい思いをしてまで山に登るのか。長い距離を走るのか。僕は発見した。
その言葉を心の中で呟いていた。

この苦しみを乗り越えた先に、僕はどんなことを考える人間になっているのだろう?

諦めてしまえ。引き返せ。どうせ無理だ。
そんな言葉を聞こえないフリしながら、僕はただ心の中で言葉を繰り返していた。
途中、下山してくる人々が口々に僕を見て「こんにちわ」と声をかけてくれた。とても嬉しかったし、勇気が出た。
今まさに僕は山の中にいて、確かに登っていて、諦めずに進んでいる。「こんにちわ」という何気ない挨拶の中に、言外の力がある。僕はそう思った。

一人で登るのは確かに孤独だった。でも、僕は山は一人で登りたいと思う人間だ。誰かと共有したくないのだ。山登りの苦しみを。山頂の景色の美しさは共有したいけれど、そこに辿り着くまでの自分の苦労はあまり人には見せたくないし、他人のもあまり見たくない。
命の責任を自分一人で抱えている。その責任感、緊張感が僕は山登りの魅力だと思う。

山登りは自分との対話なのだと思った。もう諦めるのか?ここがお前の限界か?と問われても、いいやまだ諦めない。まだ自分の限界じゃない。と返事をする。
そうやって登りきった山頂の景色は、何物にも代えがたい景色になるのだ。単なる美しさに自分の思考がプラスされる。その景色を見出だした事がある人にしか分からないかも知れないけれど、僕は是非、この記事を見ていただいている方にも感じてほしい。

山を登るときと山を降りるときでは、全く心持ちが変わっていることに僕は気づいた。
よくこの険しい道を登ってきたなぁ、と登っていた時の自分が無性にいとおしくなるのだ。

山登りを終えて、近くのレストランで食事をした。
これが美味いのなんの。実に絶品だった。

最後になるが、今回のGWは一昨年に比べるとそれほど活発に動いた訳ではなかった。けれど、三ツ峠を登りきって、何か大きな終止符が打たれた気がする。
得るものはとてつもなく大きかった。他にも実は見せられない手記があるのだけれどもね(笑)

とりあえず、旅のベストショットをスライドショーにしました。少しおすそわけです。(個人のラインのため、ここには未記載)
今は軽い筋肉痛を癒しながら、この後、落語でも聞きに行きます。
そうそう、孝行糖という落語を一席覚えました。

ではまた、いずれ日々の雑感を書こうと思います。

孤独の間隙~4月23日 浅草演芸ホール 夜席~

 

Laugh and the world laughs with you,

weep and you weep alone.

―――Ella Wheeler Wilcox 『Solitude』

  Solitude Man

  大勢の人々がいる空間が苦手だ、人混みなどを見るとゾッとする、と、あなたが一度でも思ったことのある人ならば、きっと私はあなたと友達になれる気がする。

 同じような服を着て、同じような髪型をして、同じような鞄と、同じような靴と、同じような受け答えを強要されたことのある私にとって、それはとても大きな苦痛だった。なぜ人と同じことをしなければならないのか、我慢が出来なかったし、それを私に強制する社会を恨んだし、人と同じことをする人間を馬鹿にしていた。

 多少、昔よりは気持ちは和らいだが、未だに人と同じことをするのを私は嫌っている。特に、同世代の人間が体験することの殆どのことを、私は体験したくないと思ってきたし、事実、体験していない。それは意図的に私がそう望むからである。つまらぬことだが私は『君の名は』も見た事が無ければ、『ボヘミアン・ラプソディー』も見た事が無い。『TikTok』や『SNOW』も存在は知っているがやったことは無い。だからどうした、と言われればそれまでだが、私はそうしたちっぽけなところから、人と同じことをしたくないという気持ちを持って生活をしている。

 必然と言うべきか、私は大勢の人が夢中になっているものを見ると、その対象から遠ざかってしまう性格である。私のささやかな人生経験の何がそう思わせるのかは分からない。だが、考えられる原因は幾つもある。

 まず、大勢の人間が熱中しているものは、競争率が高い。故に、私が熱中したとしても、私以上に熱中している人間に出会う可能性が高くなる。ゲームなどを例にとってみても、対戦ゲームであれば、私以上に強い人間に出会うと気持ちが萎えてしまう。何とも根性不足であるが、私は対戦ゲームなどもトレーニングモードで、一人でひたすらに技を磨くことに面白さを見出している。他人と争うことは念頭に無い。ただ自分が満足できるまで技を極められたら、それで良いと思う性格である。

 また、大勢の人間が集まる場所には『同調圧力』があると私は思っている。無言の圧力と言っても良いかも知れない。多数の人間の意見に流され、仮に反対意見を持っていたとしても、「NO」とは言えないような空気が大勢の人間が集まる場所にはある。

 1億人が涙した映画があるとして、仮に私がその映画を見たとする。私は涙せず、むしろ面白くなかったという感想を抱いたとする。そんな私が映画に涙した1億人の中に放り込まれて『お前が涙しなかった理由、面白くなかったと思う理由を、涙した連中に納得させてみろ』と言われたら、正直骨が折れる。その労力を考えたら、あっさりと嘘をついて「すみません。感動しました。号泣しました」とその場では言うだろう。後で一人でもんもんと文章を書いて、『正直、あれは面白く無かった』と書くような人間である。口では納得させられるとは思わないが、文章でならば納得させられるという自負はある。その自負が無ければ、そもそもブログで記事など書かない。

 どうにも社会は競争だの、勝負だのにこだわっている感じがある。私は平成になろうが令和になろうが、他人と争う気は毛頭無い。ただ自分が好きな人と、好きな時間を、好きなだけ味わっていられれば、それだけで良いのだ。

 さて、大勢の人々が集まる空間や人混みが嫌いな私は、孤独であろうか。孤独であると言えるだろう。兎角、世間では孤独とはマイナスなイメージを抱かれがちである。だが、私は孤独をマイナスだとは思っていない。むしろ、とてもプラスだと考えている。何かを好きになっても、孤独であることほど状態として良いことは無い。

 それは、私の心の中に、『自分だけが愛しているものがある』という誇りがあるからだと思う。たとえ一人であっても、『これは私しか知らないぞ』とか、『これは私だけが愛しているものだ』というものがあると、幸せに生きることが出来る。自分が熱中しているものや、好きなものは、その対象に対して興味を持っている人が少なければ少ないほど、幸福度が増すと私は考えている。

 演芸の記事を書いていても、『これはまだ、私しか言葉にしていないぞ』と思うと、勇気が湧いてくる。まだ誰も気づいていない芸人の素晴らしさを言葉で表現するとき、そこには物凄い喜びがある。自分だけが知っているものを掘り起こして、それを読者に読んでもらう。どんな風に思って頂けるかは多少気にはするが、書き終えた時の喜びというものはとても大きい。同時に、こんな風に自分は思っていたんだ、ということがはっきりしてくるから、それはそれで気持ちが良い。

 私のような孤独な人間は、自分だけの楽しみを多く持っている人間であると言える。それは犬や猫の動物でも構わないし、漫画や映画でも良い。自分だけが知っているもの、自分だけが気づいているものを、多く持っている人は、たとえ一人ぼっちであっても、幸福な孤独の状態にある。同時に、自分だけが気づいているもの、自分だけが好いていることを、他の誰かが知ってくれて、興味を持ってくれたりすると、それはそれで嬉しくもあり、喜びでもある。矛盾しているかも知れないが、自分が愛していたものを、誰かが愛してくれたら、こんなに嬉しいことは無いのだ。

 だからこそ、大勢の人が愛しているもの、熱中しているものには、私はあまり興味を抱かない。それはきっと私以外の誰かが発見したものであるからだ。

 例を挙げるとすれば、神田松之丞さんだってそうだと思う。まだ人気が爆発する前の、2017年の年末頃以前に松之丞さんに興味を持っていた人達は、2018年以降、物凄い幸福を味わったのではないだろうか。今、仮に私が初めて松之丞さんを見たとしたら、2017年に見た時ほどの興奮を抱かなかったであろうと思う。それは、大勢の人が愛する講談師に、松之丞さんが成ったからである。

 もっと考えを延長すれば、恋人も同じである。自分だけがこの人のことを一番知っている。自分だけが誰よりもこの人を愛している。同時に、相手も同じようなことを自分に対して思っていてくれたとしたら、これ以上の幸福がどこにあるだろう。孤独の価値は、人数が少なければ少ないほど良い。という気がする。

 さて、前置きが長くなったが、私はそんなことを浅草演芸ホールの帰り道に思ったのである。

 

 浅草演芸ホール 桂伸治師匠のトリ

 たまたま時間が空き、私は18時から浅草演芸ホールに入った。新宿末廣亭では喬太郎師匠がトリを取っていたが、前述したようなこともあって、私は行こうとは思わなかった。これは決して新宿末廣亭に行った人を否定する訳ではない。私は大勢の人が行くような寄席をあまり好まない。同時に、喬太郎師匠がトリであると、喬太郎師匠だけが目当てになってしまい、それ以外を楽しむことが出来ないという心を持っている。だから私は、出演者全員を楽しむことが出来ると思う寄席を選んだ。それが、浅草演芸ホールであったのだ。穿った考えかもしれないが、喬太郎師匠のトリの会には行っても、代演となるとパタリと行かなくなる人も大勢いるだろうというのが、私の考えである。

 さて、そんな穿った考えを披露したところで何の得にもならない。ただ、なぜか人の少ない、まるで軽井沢の別荘のような風の吹く浅草演芸ホールの方が、私には特別に素晴らしいものに思えたのだ。上手く言えないと呟いたし、正直、上手く言おうとすると反感を買いかねないのだが、大多数が好んでいるから正義だとか、良いという考えが、私には無いのだということに気づいた。冒頭にも書いたように、他人がどう思っていようとも、「これはまだ私だけが知っている面白さだ」と思いながら見ていると、些か不純ではあるかも知れないが、物凄く楽しめる。同調圧力ゼロの空間が、そこには存在していた。そのフリーな気持ち良さに目覚めてしまったら、大勢の人がいる寄席に行けなくなってしまうかも知れない。

 余談だが、その点、文菊師匠はかなりベストな知名度、人気であると思う。まだそれほど認知されていないが、落語好きの中では唸るほどの抜群の実力と知名度を誇っており、普段寄席で見る常連さん方もそれほど見かけることも無い。かなり丁度いい具合である。無論、その丁度良いは『私にとって』という意味であるが。松之丞さんほどの知名度を文菊師匠が得てしまったら、それはとても寂しいし、いやだ。私だけのものになってほしい。嘘です。でも、ちょっと悲しいと思ってしまう心はある。

 さて、話しを戻そう。とても良い雰囲気で始まった浅草演芸ホールだ。

 

 伸乃介師匠の落ち着きのある語り口で、静かに繰り返される『高砂や』の優しい幸福感、蝠丸師匠の気遣いながらもオチにアレンジの光る『湯屋番』、ぴろき師匠の確かめるような脱力の『漫談』。ぴろき師匠まで素敵な笑い方をするご婦人がいたのだけれど、桃太郎師匠の時にいなくなってしまったのが少し残念だった。

 仲入り前の桃太郎師匠も、とても面白かった。ティッシュも頂き、とても嬉しかった。桃太郎師匠のなんとも言えない語り口、間、とてもとても面白くて、桃太郎師匠が作り出す独特の雰囲気が私は大好きな『お見合い中』だった。ちょっとハプニングもあったけど、それも含めて素敵な時間だった。

 

 伸三さんは多分立川流仕込みの『権兵衛狸』、終わった後にちょっと肩を落としている感じだったけれど、真面目な語り口は絶品。小文治師匠はハイトーンと表情が素敵で、乙な紫の風が吹くような『粗忽の釘』、小文治師匠の色気のある艶やかな語り口を久々に聞いてうっとり。コントD51さんはお馴染みのおばあちゃんのコント。目の前で見ると迫力が凄くて怖かった(笑)。幸丸師匠はスタンダップコメディも行けそうな素晴らしい漫談、序盤でちょっとハプニングがあったけれど、皮肉を効かせたナイスリターンは手塚ゾーンならぬ、幸丸ゾーンに入っていた。

 夢太朗師匠は、粋なリズムと優しい表情。『寝床』と言えば鉄板のキラーフレーズ『誰ががんもどきの製造法を聞いているんだ!』も見事に決まり、次から次へと繰り出される欠席理由が気持ちいい。他の演目を聞いてみたいと思った。

 南玉師匠の緊張感ある曲独楽から、いよいよ伸治師匠のトリ。何とも言えない素敵な雰囲気がある。

 伸治師匠の素晴らしさというのは、気迫を見せないようなところであると思う。もちろん、気迫のある圧巻の高座をする落語家さんも素晴らしいけれど、伸治師匠のような、ふわっとした感じで、水面を泳いで行くような、やわらかく心に染み入るような雰囲気と語りが、何とも言えない心地よさがある。それは、お弟子さん達にも共通して流れているものである気がするのだ。どことなく、近所の知り合いというような、そんな親近感がある。肩の力を抜いて、客席に寄り添うような伸治師匠の優しい包容力みたいなものを、私は客席から感じる。伸治師匠の弟子になったら、自分の好きなように伸び伸びと、自分のありのままに楽しめるんだろうなぁ、と凄く思う。これはあくまでも感覚だが、きっと落語協会噺家さんの弟子になったら、かなり厳しい修行をするような気がする。そこに挑戦したいという強い気概のある人も、きっとたくさんいるとは思う。

 伸治師匠の色気マクラから、演目は『崇徳院』。男が女に惚れ、女が男に惚れ、その間を取り持つ人の心意気。温かい空気が流れ、結末はどうなるのか分からないけれど、素敵で面白い噺である。伸治師匠が楽しそうに語られている姿を見ると、こちらまで楽しくなってしまう。

 これも個人的な意見だが、喬太郎師匠を見る時は『面白いものを見せてくれるんだろう?』という、挑戦的な気持ちを自分に対して認める。ネームバリューというか、喬太郎師匠に対する期待が物凄くある。もちろん、喬太郎師匠はその期待に見事に応えている。でも、どこかで、そんな期待を振り払いたい気持ちがあるんじゃないだろうか。いつも舞台に立てば大勢の観客が自分に期待している空間というのは、それはそれでかなりの重圧であると私は思う。これも私の単なる推測に過ぎないが、そういう自分に対する期待を調整するために、喬太郎師匠はトリの初日には『夢の酒』をやるのではないだろうか。これも詳しく語ることは止めておくが、私はそんな気がする。

 何とも不思議であるが、冒頭に記したように、私は人が少なければ少ないほど、様々なことを楽しめる性質であるから、伸治師匠の『崇徳院』が素晴らしかったと思うと同時に、とても素敵な空間で落語を楽しんだ、という気持ちが強く胸に残った。これは何度か体験したことがある。特に笑遊師匠や伸べえさんの時に、それを強く感じた。

 最高の気分で浅草演芸ホールを後にし、私はぼんやりと、自分にとって素晴らしい寄席とは何だろう、と考えた。恐らく、愛する人と二人だけで見る寄席であろう、と思った。演者と私と愛する人。その三人だけの寄席というものを想像して、私は少し見てみたいな、という気持ちを抱いた。

 

 孤独の間隙

 孤独であることを悩むことなど無いな、と私は思う。むしろ、孤独であることはとても幸福であると思う。話せば長くなるし、趣旨とずれるし、前述したことと重複しそうであるから、止める。

 孤独であると、自分にとって想定外のことが減って行くから、意識的に自分を想定外の場所に連れて行く必要がある。ここで言う想定外とは、まだ自分が想像もしていない世界に出会うことを意味する。いつも同じリズム、いつも同じパターンの繰り返しでは飽きてしまう。自分を飽きさせないためにも、様々なことに挑戦すること、色んな物事に取り組むことは、とても重要なことであると思う。

 心の筋肉、と言うと些かポエマーのようであるが、心にも筋肉があるとするならば、それは教養によって磨かれるのではないだろうか。教養を強要する訳では無いが、私の一つのオススメとしては、『自分しか知らないものを見つけること』である。この喜びを一度味わってしまうと、なかなかやめられるものではない。

 そんなことを最後に記す。どんなに齢を重ねても、『自分しか知らないものを見つける」と、素敵に心が若返る気になると思う。もしも時間があれば、それを言葉にしてみると、さらに自分の考えが明確になるように思う。

 あなたの素敵な言葉で、演芸が彩られることを願いながら。

 それでは、また。

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讃花鳥笑歌~4月21日 新宿末廣亭~

朝顔 昼顔 夕顔あれど

寄席に咲くのは笑顔の花ぞ

誰が咲かすか 高座をごらん

扇子 手ぬぐい 座布団一つ

裃振り分け 江戸の風

 

私の心の草花は 光を浴びねば育たない

養分取らねば育たない

笑いという名の光を浴びて

笑合成でもしやしょうか

色んな笑を浴びましょう

自分一人じゃできないことも あなたとならばできやしょう

  わたし、笑う

 空気を吸って、ちょっと屈伸。

 うん、今日もいい天気。カーテンを開けて、窓の外。

 わんわん吠えている犬がいる。

 わんわん鳴っていた選挙カーはもう通らなくなって、

 いつもお願いをしていた人の、お願いが叶ったかどうかも分からない。

 ちっぽけな私の力で、誰を助けられたんだろう。

 ありがとうって言葉は、永遠に帰って来ないまま、

 迷子になってしまったようで、なんだか寂しい。

 まどろむような朝。珈琲にミルクは溶けていく。

 聞こえない音を鳴らすオルゴールが回る。

 誰かに会いたい、そんな気持ちだけが私の中にある。

 

 素敵な人に出会うと、素敵な人になれる気がする。

 素敵な本に出会うと、素敵な人になれる気がするみたいに。

 素敵な言葉に出会うと、素敵な人になれる気がする。

 素敵な音楽に出会うと、素敵な音楽を口ずさむ人になるみたいに。

 素敵な場所に行くと、素敵な人になれる気がする。

 素敵な景色を見ると、自分が素敵な景色の一部だと気付くみたいに。

 私は毎日素敵なことに出会って、どんどん素敵になっていきたい。

 毎日毎日素敵になる自分を信じていたい。

 わたし、笑う。きっと自分が知っている一番素敵な笑い方で。

 わたし、歩く。きっと自分が知っている一番素敵な歩き方で。

 わたし、見る。きっと自分が知っている一番素敵な見方で。

 わたし、話す。きっと自分が知っている一番素敵な話し方で。

 わたし、聞く。きっと自分が知っている一番素敵な聞き方で。

 私の顔も、足も、眼も、口も、耳も、きっと自分が知っている中で

 一番素敵なものに近付いている。そんな風に私は私を信じていたい。

 柳家小里ん師匠と柳家喬太郎師匠の名前を見た時に、行かなきゃって思ったのは、そんな風に思ったからなのでした。

 

 寄席に咲く

 寄席の木戸口から連なる行列を眺めていると、今日一緒に空間を作ってくれるのは、この人達なんだな、といつも思う。

 もう本当は私のことを知っている人も、

 私かなって思っている人も、私のことを全然知らない人もたくさんいる。

 同じように、私も相手のことを知らないし、この人かなって人もいる。

 みんなが寄席を作っている。

 考えてみたら、物凄い奇跡。

 きっと、こんなに大勢の人がいるんだから、この空間に混じり合わない人もいるだろう。でも、それは決して悪いことじゃない。混じり合えないまま生きて行くことだって、とても大事なことだと私は思う。

 許せないことを許せないまま生きていくことと同じように。

 笑えないものは笑えないまま生きていく。

 そんな自分を認めていく。他人と違うからといって、自分を否定する必要なんて無いのだ。ただ一つの座席に寄っていくだけだから、寄席なのだ。

 今日も私は寄席に行き、自分の好きな場所に座りました。お気に入りの場所に座れたので、今日一日、ここに座り続けようと思って座りました。特に気にすることは無かったのですが、隣の人の笑い声が聞こえると、なんだか嬉しいものです。

 自分一人じゃないんだ、笑っているのは。そう思うと、ぷかぷかと湯船に浮かぶアヒルのように、この空間に居続けることが出来る幸福が、呑気で温かいのでした。

 

 昼席の温度

 り助さんの勢いのある与太郎を聞いた後で、柳家小もんさんが出てきました。とても乙な人です。粋な人です。私は小もんさんが出てくると、ほっとします。ゆっくりと湯船に浸かるような心持ちになるからです。

 優しくて、温かい温度で語られた『手紙無筆』の後で、お次は桃月庵白酒師匠です。軽やかなリズム。サーフボードに乗って温かい海を滑るような『ざるや』。雲助師匠の絶品の『ざるや』が、白酒師匠の中で生きているように思えて素敵でした。

 高座から漂う素敵な匂いと、可愛らしい語り口が絶品の桂やまと師匠『近日息子』の後で、橘家半蔵師匠の『反対俥』の語りには、橘家圓蔵師匠が見え隠れ。柳家小ゑん師匠の活き活きとした語りが、会場を盛り上げた『下町せんべい』。

 もうすっかり心はほかほかになっていました。レンジでチンをしなくても、寄席でショウすれば私の体は温まるのでした。

 小燕枝師匠の柔らかな物腰、静かに淡々と小さん師匠との思い出を語りながら、嬉しそうに、遠くを見つめて微笑むような、やわらかい『長短』の後、同じように志ん生師匠との思い出を語る伯楽師匠は『猫の皿』。高座にはいないけれど、私の心の中に生きている小さん師匠と志ん生師匠。どちらも素敵な笑顔で、今、高座に座っている二人とともに、そこに存在しているのだと思いました。

 柳家権太楼師匠は、高座に上がるとたくさんの笑顔を咲かせます。愛らしさの中に、強い人間臭さを感じました。笑顔の花咲か爺さんと言うと、少し失礼かも知れませんが、ぱあっと花を咲かせる権太楼師匠の姿は、まさに花咲か爺さんでした。

 可愛らしい金坊が素敵な三語楼師匠の『真田小僧』、馬の助師匠の破裂するような声で繰り出される『百面相』。小団次師匠は選挙演説のような力強さで『ぜんざい公社』、そしていよいよ、トリの柳家小里ん師匠が出てきました。

 小里ん師匠を初めて見た時は、口元が猫みたいで可愛いなぁと思っていました。口元とは裏腹に、クルミを横に割いたような目元が怖かったことを覚えています。最初は地味だと思っていたのですが、だんだんと私も大人になったようで、小里ん師匠の面白さが分かってきました。小里ん師匠の語りには、江戸の時間が流れている気がするのです。江戸の時間軸とでも言いましょうか。高座に座って語り始めた途端、寄席の空間が江戸の時間軸になるような、不思議な感覚を味わいました。

 『試し酒』には、お酒を飲む場面があります。『五升の酒を飲むことが出来るかどうか、賭けをする』というお話で、五升の酒を飲もうとする清蔵の姿が、とても面白いのです。私は小里ん師匠の清蔵がとても好きです。気取らないし、芯が通っているし、真面目で、一所懸命な清蔵の姿を、私は小里ん師匠を通して、見ているような気がしました。

 お酒を飲む場面は、思わず息を飲んでしまうほどの凄みがありました。五升なんて簡単に飲める、そう言っているかのような、力強い飲みっぷりをする清蔵。だんだんと酔いが回ってくる姿がとても素敵なのです。思わず「頑張って!」と声をかけてしまいたくなるような、そんな可愛らしさが小里ん師匠にはありました。

 私も飲みたい。そう思っている間に、小里ん師匠はお酒を飲み干し、オチを言いました。その後で、左右を見ながら何度も『ありがとうございました』という小里ん師匠の姿が印象に残りました。どうにも言葉には言えません。なんだか胸がジーンときました。

 温かい昼席の温度に温められて、私は一人、減ったお腹を増やすのでした。

 

 キリンザストロングな夜席

 焼き鳥があって、キリンザストロングがあったら、きっと夜席は『とり喬』だったかも知れません。小里ん師匠の『試し酒』もあって、私は飲みたくて飲みたくてうずうずしていました。でも、明日は月曜日なので飲むのは控えます。金曜日に飲んだので、休肝日にします。そんなことを思いながら、夜席が始まりました。

 きいちさんのワンハプニングな『平林』の後で、サーカスのように楽しい小太郎さんのんを廻さない『ん廻し』。しゃがれた声が渋い龍玉師匠の『たらちね』のあと、喬之助師匠の真面目な人柄溢れる『締め込み』、TKOの木下さんに似ている萬窓師匠のくりくりっとした目が素敵な『悋気の独楽』、鉄板のはん治師匠『妻の旅行』、トゥーランドットを語る悟りの境地で朝馬師匠『六尺棒』、遠い過去を思い出しながら、今を生きて役目を果たしているような、静かな語りに熱の籠る小袁治師匠『堪忍袋』。

 随所にキリンザストロングのキラーフレーズも混じりながら、仲入りを迎えました。この辺りから、どっと寄席に人が増えたように思います。

 仲入り後はキレッキレのアドリブ?時事ネタ?全開でノリにノッた馬るこ師匠の『都都逸親子』、ヤクザBZに絡まれながら高座に上がり、ヤクザTBZをいじりつつ、物凄い顔芸を見せた左龍師匠『宮戸川』、ヤクザBZ、いや、怒られるのでやめますね。少し酔っているのかと思うほど、絶品の文蔵師匠『馬のす』。糸を引っ張ったり、お酒を飲んだり、枝豆を食べたり、時事ネタを話してみたり、文蔵師匠は見た目はYKZだけど心優しいBZです。仲良くなりたいです、仲良くしてください。

 勝丸師匠の失敗なのか成功なのか分からない曲芸の後で、いよいよ『とり喬』の大将、柳家喬太郎師匠の登場でした。私が初めて行ったホール落語で、抜け雀を見て以来、ずっと大好きで、面白い喬太郎師匠。本当は喬太郎師匠とパセラに行きたいし、喬太郎師匠の好きな歌を一緒に歌いたいし、二人で超高カロリーなハニートーストを食べたいくらい好きなのだけど、私よりも大好きな人はいるだろうから、少し離れた場所で見ているくらいの、初恋の距離感で私は喬太郎師匠を見ている。

 『夢の酒』に入るまでのマクラで大笑いしました。いつも笑顔にしてくれる、素敵な喬太郎師匠。素敵な人に出会うと、素敵な人になる。そんな風に信じさせてくれたのは、喬太郎師匠でした。

 たとえこの世界が誰かの見ている夢であっても、私は喬太郎師匠の高座を見ることが出来る今を幸福に思います。こんなに面白い落語家が生きている今に、私は生きていることが出来る。それだけで素敵なことだと思うのです。素敵な人が生きている今日は、素敵な日に違いない。そう思いませんか。

 

 わたし、帰る。

 新宿末廣亭を出て、家へと帰る道中、私は今日のことを思い出していました。お酒を飲もうと決め、お酒を飲み、ゆっくりと眠ると、夢の中で好きな落語家の高座を見ることが出来るかも知れないと、そんな風に思いました。

 今のところ、私の夢に出てきたのは、初代林家三平師匠と、古今亭文菊師匠のお二人だけです。残念ながら桂枝雀師匠は出て来てくれません。きっと呼ぶのにも少々銭がかかるのかも知れません。

 あまり夢を見るほうではありませんし、見た夢を覚えている方ではありません。ですが、今日は誰か素敵な人と額を合わせながら話をする夢を見ました。よくわかりません。

 家に着いて、お風呂に入って、眠る。そしてまた、私は目を覚まして、空気を吸って、ちょっと屈伸をする。鏡を見ると、昨日より少しだけ素敵な笑顔に近づいている気がする。

 自分が思う一番素敵な形を思い浮かべていると、きっと自分はそれに近づいていくのではないかと思うことがあるのです。同時に、一番素敵な形を思い浮かべなければ、一番素敵な形を知っていなければ、それに近づくことは出来ないと思うのです。

 だからいつも私は、自分が思う一番素敵な形を思い描き、それに近づいているのだと信じるようにしています。思い描かなければ、何も形にはならないと思うからです。言葉にしなければ、何も相手には伝わらないことと同じように。

 この文章も少しだけ、またいつもとは違う文章になりました。前記事を見た人は驚いてしまうかも知れません。私は少し驚いていますが。

 言葉はいつも、私の心に沿って生まれてくるのでしょう。

 笑顔もきっと、あなたの心に立って、咲くのではないでしょうか。

 あなたが素敵な演芸に出会えますことを祈ります。

 それでは、また。

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単語のタンゴ

たたみからたたみかけられたたみがみたたたみをたたんでしまうたたり

 

畳から畳み掛けられた民が見た畳を畳んでしまう祟り 

 

わたしがわたしにわたしをわたしにわたしのわたしとたわしのわたしとわたわたしながらわったし

 

私が私に私を渡しに私の私とタワシの私とワタワタしながら割った詩

  即興の世界

 とても幸せになんてなれない。酷く酔った夜はいつもそう思う。でも、おれは金色の内臓を持っているから、こんちきしょうの内臓を持っているから、どうにか立ち直って、酔い潰れようが恋潰れようが、そんなことは知ったことじゃないんだぜ。

 酒の世界に身を浸している時は、あ、ちげぇや。おれが酒を飲んでいるときは、そりゃ難しいことなんて全然考えたりはしないよ。四六時中、「あ、地球は自転してるな」とかさ、「あれだな、月の満ち欠けってのは傲慢だよな」なんて考えてたら、それこそ脳みそが蟹みそなわけで、まぁ、美味いかどうかは別として、持たないわけさ。横歩きでも続けない限り、おれは泡吹いて倒れちまうよ。

 酒を飲み終えて風呂に入って、それでもアルコールがおれから離れないっつうんならさ、おれはあるコールをしなくちゃならない。ルービ・ルービ・シュンホニーって言わなくちゃ、おれからアルコールは抜けていかない。プリン体は居座ったまま、おれの染色体のXYの疼きが止まらなくなっちまうんだぜ。だから、俺はシャワーを浴びる時にはワルシャワのことを考えながら、悪さはしないんだぜ。自分のワルサーをぶっ放すようなことはしないんだぜ。もちろん、モンキー・パンチもしないぜ。猿の殴りはするかも知れないけどさ。

 とにかく今日は随分と酔っちまったから、それに、悲しみに寄っちまったから、少し戻らなくちゃいけないんだね。アルコールの後のナイテールみたいなもんだよ。Alcoholの後のNaitell。意味わかんないけどさ。ま、とにかく、トルナドールズのテルスターでも聞きながら、宇宙にでも行こうじゃないか。

 

 アストル・ピアゾラ

 死んでから評価されたくないと言ったのは、誰だったけな。まあ、どうでもいいや。おれは死んでから評価されたくない。生きているうちに絶賛されたい。みんなもそう思わない?だってさ、死んだら何も分かんないんだぜ。どれだけ美人が涙してもさ、その涙を拭うことも、見ることも、言葉をかけてあげることも出来ないんだぜ。それって凄く悲しいことじゃないかな。出来ないのにさ、今、こうして生きているおれは、想像しちゃってるんだぜ。ちょっと傲慢にもさ、「あなたの死に、美人が泣きます」ということがさ、起こりうるもんだという体で書いているんだぜ。浅はかだと笑ってくれるな。おれはいつでもマジだぜ。おれから何一つ奪ったところで、問題無いと思っているかも知れないけれど、そんなことはないぜ。おれはおれを構成している全てのもので成り立っているんだぜ。踵の汚れから脳天を突き抜けて行く美声まで、マジでおれは全部愛してるんだぜ。DNAだかDeNAだか知らねぇ。でもなんか生きてるものを全部愛したくないかね、諸君。どうかね。この酔い覚めのおれを認めてはくれないかね。いやいや、そういうことじゃねぇや。別に誰の賛同も受けなくたっていいや。おれはもともと産道を通って、山道や参堂に三度以上参っている。参るってのはねMy居るなのか、My illなのか、間入るなのか、マイルなのか、どうでもいいんだけどさ。なんか踏んじゃうとさ、いざ踏んでみるとさ。なんか色んな意味が込められてそうじゃん。え?興味ないの?あ、そう・・・

 何が悲しくてこんな文章を書いているかって言うとさ。まぁ、大体のことは察しがついてるのかも知れないし、冊子が付いてるのかも知れないけど、おれの創刊号の見出しは『小池一夫氏、死去』なわけでね、『ケーシー高峰氏、死去』でね、もうね、いたたまれないのよ。いたたたた、板畳まれないのよ。やってくれたな、と。ついにやってくれたな、と。別にフォローはしてなかったけど、流れてくる言葉にいつもおれは共感してたし、心のどっかでは「このジジイ、おれと同じだな」と思ってたわけ。おれが言うか、小池先生が言うか、くらいのね。そういう気持ちってあるじゃん。「こんな発言、私には到底ムリー、リームー」っつってね。ワームみたいな顔した女が睫毛から鱗粉飛ばすような勢いでさ、言う人いるじゃん。そりゃ、おれも短歌の人達には毎回びっくりさせられるし、一体どこから言葉を組み合わせてくる発想が生まれてるんじゃい、とね。思うことはあるよ。発想が発走して発送されて八層の考えをさ、鼻で笑って「はっ、そうですか」みたいには言えない部分がね、そりゃありますわ。南総里見八犬伝

 で、小池先生に限って言わせてもらえば、考えてることが同じだな、と思っていたわけ。だから同族嫌悪的にフォローもしなかった。また素敵な言葉をツイートされてるなとか、あ、これはちょっとおれと考えが違うな、みたいなツイートを見る度にさ、この人は良い人だな、と思ってくるわけよ。一度、話しがしてみたいな、と思うわけよ。そりゃおれだってね、永井豪、じゃねぇや、吉田豪さんみたいにさ、プロインタビュアーではないしさ、コネもねぇしさ。ハリネズミヘアーでも無ければ、美人と自分の部屋で酒を飲むこともないわけ。あ、ちげぇな。美人とは美人の部屋で酒を飲むことはあるけどさ。大抵、おれは「うーん、君の思うことは100%分かるよ」みたいなことを言ってさ、なんだよそれ、光GENJIかよ、勇気100%かよって思われることもあるけどさ。いやいや、確かにおれもある意味では源氏だし、有機100%農法だし、勇気元気のアンパンマン・ボーイな訳だけどさ(マンでボーイを気にするなマンボウ

 もちろん、実験人形ダミー・オスカーとかね、もう最高なわけですよ。女性にも是非見て欲しいよね。主人公が人格変わるとめちゃくちゃ傲慢だし、正直、わけわかんないんだけどさ。その訳の分からない理不尽さがたまらなく面白いし、ま、美人がいいのよ、美人が。叶精作先生の凄くリアルな筆致とともにね、見てほしいねぇ。

 渡胸とオスカーのような、一人の肉体に二つの人格っていう設定はさ、何回か似たようなドラマを見たこともあるけれど、小池先生が書くオスカー像っていうのは、とても魅力的なんだよね。それはさ、憧れでもあるんだよ。普段のおれはさ、渡胸みたいにさ、女性には奥手だしさ、もうそれはそれは、滅多に話しかけられないわけ。でも、お酒を飲んで少し饒舌になるとさ、おれはおれで、もう一人の自分を出しているのかな、とか、そんな考えを思ってくるわけ。でも、それはオスカーみたいに物凄く傲慢で危険なのにカッコイイ人間じゃない。そりゃ女を襲ったりしたら犯罪だからさ、そんなことは絶対に許されないけれど、許されないことを実行するオスカーに共感できる哲学があるから、どうしても読んでいておれは、オスカーかっけぇなぁ、憧れるわぁ。って思うわけさ。

 それって、なんでもそう。漫画やら演芸を見てさ、「うっわぁ、かっけぇな~」とか思う訳じゃないですか。思いませんか?何っ、思わないだとぉ。うーん、だったら話は出来ないけどさ。おれはかっけぇなぁと思うわけ。で、それはやっぱりおれ自身に、その対象に対する憧れがあるからなんだろうな、と思う。おれは一秒後には文菊師匠になっていたいし、また一秒後には小池先生にもなっていたいわけよ。でもさ、ある程度発言権というか、言葉に力を籠めるっていうのは、それはそれは短い人生の中で、なんとかして自分の言葉を磨いて、大勢の人に認めてもらわなければならないっていう部分があるわけじゃないですか。今おれ、何も分からずに押下してるけどさ。

 その点、見せ方の上手い人とか、上手く話題を作ってドカーンと知名度をあげていく人とかを見るとね、やっぱなんか、汚いのし上がり方だよな、と思うわけ。おれはそりゃ、有名にはなりたいけどさ、自分が汚いな、と思う方法ではのし上がっていきたくないわけよ。傲慢だよ、そりゃおれの傲慢さだけどさ。なんか嫌じゃん。「お前の発言は矛盾してるー」とか「お前は炎上商法だー」みたいなさ、そんなの嫌なのよ。

 

 五里霧

 ゴリラが夢中になったみたいに文章をつづってきたけど、まだ心はどうにも収まんないよね。あれだな、少し酒を飲み過ぎたのがいけなかったな。もう一回嘘だよな、と思って小池先生のニュース見て、あれ、やっぱ嘘じゃねぇや。って思ったときに、おれ、自分でもびっくりするくらい、悲しい顔してたな。マジか、と思った。さっきも書いたけど、おれはものすごく小池先生の言葉に共感してたし、おれの代わりに小池先生が言ってくれてんだな、と思ってたから、ま、それがしばらくの間は続くんだろうな、と思っていたら、だもんな。早いよなぁ。早いよ。

 それにさ、今日は桂枝雀師匠の命日だったんだぜ。もう今日ではないけど、もう少し昨日にいさせてくれてもいいんじゃないか。おれだってたまにまだ3月かと思うときとかあるけどさ。なんかちょっとなぁ。おセンチだったぜ、朝からずっと。本当にね、なんだろうね、凄く幸福なのに、まだ幸福を求めようとしているおれ自身が存在してて、書けば書くほど、もう目が冴えて冴えて行くわけ。同時に虚しさがドーン、ドーンと襲ってくるわけですよ。そりゃ文豪も一回や二回は筆置くわ、と思ってさ。でもね、面白いのはさ、そんな文豪達も、女性に救われてるんだよね。尾崎先生だってさ、奥さんと結婚してから奮起してるしさ。その小説がまた堪んなくて、wikiにもあるけど、三島由紀夫から『着流しの志賀直哉』とも呼ばれていたらしいよ。そりゃ、志賀直哉先生は偉大だよ。偉大過ぎるよね。偉大過ぎて太宰みたいに「くっそ目障りだな、このジジイ」とか思ったりもするけどさ。それでも志賀先生やら、太宰だって、女性に救われているわけでしょ。だれかおれを救ってくれる女性いないの?とか思うよね。やっぱゴーマンだな、おれは。

 そんなわけで、もうそろそろタンゴに踊りつかれてしまいました。こんな駄文を読んでくれてありがとう。んで、小池一夫先生の冥途の弥栄を祈ります。きっと向こうで、モンキー・パンチ先生と笑いあっているんじゃないだろうか。「あれ?君も来ちゃったの?」「どうも、来ちゃいました」「そっか、じゃあ、二人で漫画でも描く?」「いいですね、どんな漫画にしましょうか」「そうだな、じゃあ泥棒が出てくる話は?」「いいですね、じゃあ美人も出しましょう」「タイトルはどうしましょうか」「とっておきのがあるよ」「なんですか」「ルパン三世