落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

白さと軽さと心地よさと~2月11日 立川左談次を偲ぶ会~

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今日のためにね、一所懸命に稽古してきたんだから

  白猫一匹 座布団の上

 ある夜。万雷の拍手に迎えられ、舞台袖から大きな白猫が一匹、まるで座布団の上に寝転がるかのようにして現れた。真っ白な顔には居心地が良さそうな笑みが浮かび、嬉しくて堪らない時に多くの猫がそうするように、喉を鳴らして白猫は言葉を発した。

 「若きカテーテルの悩み」

 不思議に揺れた白猫の声が、霧のように会場へと染み渡っていく。どうやら何か病気を患っていることが分かった。私は初めて見たから、最初はなんだかわからなかった。でも、椅子に座して舞台にいる愛らしい白猫の姿を見ていた私は、笑い声をあげて白猫に拍手を送った。

 「今日のためにね、一所懸命に稽古してきたんだから」

 そんなことを言って、白猫は様々に表情を変えたり、声を変えながら『厩火事』という落語の演目をやった。白猫は、とても美人な女性に化けたかと思えば、博識な老人に化けたり、遊び人の男に化けたりもした。その表情はとても嬉しそうで、気持ち良く縁側に寝転んで微睡むかのように、座布団の上で話をしていた。

 「白いなぁ」

 私は心の中でそう呟いた。まるで舞台の後ろにある黒い背景にスッと消えて行ってしまうのではないかと思えるほどに、白猫は白かった。痩せ細っていながらも、その笑顔には不思議な柔らかさと、透明さがあるように私には思えた。

 雲のような軽さと、壺の中で僅かに震える透明な氷のような声を持つ愛らしい猫は、おどけたように最後のオチを言って、舞台袖へと戻っていった。

 あとで、気になって白猫の名前を調べてみた。それは、人間の姿をした白猫ではなく、れっきとした噺家で、立川談志の弟子で、唯一無二のフラと軽さを併せ持ち、芸歴五十年にもなる真打だった。

 私の中で、大きな白猫の姿がゆっくりと形を変えた。

 立川左談次、その人との最初の出会いの夜だった。

 白猫が去った後で、古今亭文菊師匠は『死神』を演った。何も言わずに、ただ神様には色んな種類がいるのだというようなことを言ってから、『死神』は始まった。何か言いようのない、強い思いを私は文菊師匠から感じた。

 間抜けな呪文を聴いていると、なんだか不思議な感覚に陥ったのだ。

 今になって思えば、死神を吹き飛ばすための呪文は、立川左談次師匠へ向けての言葉だったのではないか、と思った。『死神』の主人公は、欲に目が眩んで人の命を助ける。助けたことによって、自らの命を失うのだ。

 言外に『命の蝋燭の長さを伸ばしたい』というような思いが感じられて、野暮だとは思いながら文菊師匠の見えない言葉を見たような気がした一夜だった。

 

 『軽さ』の大切さ

 「森野くんは言葉が軽いね」

 先輩の呆れたような声に、私は戸惑った。

 「もっと良く考えて発言をしなよ。返事ばっかり良いけどさ」

 私は頭を下げて「すいません」とだけ言って謝った。

 物の弾みで言ってしまった言葉が、先輩を苛立たせてしまった。

 私は反射的に言葉を返してしまう癖があって、それが人にはあまり物事を深く考えていない、表面的な、上辺だけの人間であるというように捉えられていた。

 言葉に関して言えば、『軽い』ということはあまり良い意味で用いられていない。

 軽口、尻軽、軽薄、軽佻、軽率、軽々しいなど、『軽い』ということは、浅はかで、薄くて、地に根を張っていない印象がある。

 じっくり物を考えていると、速度が求められる場所では相手の時間を奪ってしまうことになる。ゆっくりと食事をしていると、相手が早く食べ終わったときに、待っていてもらわなければならなくなる。せっかちな人々が多い中で、私は自分でも無意識の内に、軽率で軽はずみな言動をする人間になっていた。

 もっと重くなりたかった。厳重で、重厚感のある、言葉に重みのある人間になりたいと思った。けれど、そう思えば思うほど、他人の時間を奪ってしまうことが心苦しくなっていた。

 要求された書類をすぐに作ると、粗が目立ったり、意味がちぐはぐになったりする。

 他人から何か言葉を聞かれると、すぐに答えるけれど、答えが間違っていたりする。

 そんな時に、相手の冷ややかな視線が胸に突き刺さってくる。

 ああ、軽くちゃ駄目なんだ。軽いってことは、良くないことなんだ。

 

 そう思い始めていた時に、私は立川左談次師匠と出会った。

 

 あっ、と思った。その『あっ』には、立川左談次師匠の持つ『軽さ』が、私とは違う『軽さ』であることの驚きが込められている。

 左談次師匠の『厩火事』は、とても軽かった。塩味で、薄くて、さらりとしていた。軽いことは良く無いと思っていた私にとって、それはとても不思議なことだった。

 その不思議に答えが出ないまま、私は立川左談次師匠の『五十周年記念』の渋谷らくごに行った。そこで、『妾馬』を聞いたとき、私は自分の中に沸き起こった言葉をはっきりと掴んだ。

 左談次師匠の軽さには、得体の知れないもの、すなわち、言葉以外の何かが滲み出ていた。それは、良い軽さだった。最高の軽さだった。落語という世界の中で、唯一無二の軽さだった。

 

 軽妙

 

 数多ある否定的な意味を持つ『軽さ』の中にあって、『軽妙』という言葉には、それら全てを覆す強烈な力があった。左談次師匠の発する言葉は、軽くて快かった。軽快だった。軽やかな言葉の運び、気軽にどこまでも歩んでいけるような、身軽さのある笑み、そして言葉。

 「愛嬌がありゃ、軽くてもいい。むしろ、軽い方が楽だぜ」

 もちろん、左談次師匠の言葉の『軽さ』は、稽古によって培われた洗練ゆえの軽さである。

 『妾馬』を聞いたとき、私は、自分の軽さを肯定的に捉えるようになった。今は軽いと言われる言葉も、磨きに磨いて洗練を目指そうと思った。

 「森野くんは相変わらず軽いけど、なんだか憎めないね」

 先輩は諦めたのか、にやっと笑って私に言った。私は照れながらも「いやぁ、どうもすみません」と言葉を返すと、先輩は「まぁ、俺にもそんな時代があったよ」と言って笑って背を押してくれた。

 人に支えられて、言葉は洗練されていくのだと私は思った。

 少しだけ世界が生きやすくなって、これからもまだまだ左談次師匠の高座を見たいと思っていた矢先、2018年3月19日に立川左談次師匠が亡くなったというニュースを見た。

 お礼を言うことが出来なかった。

 その軽さに触れ続けていたいという思いも叶わなくなった。

 あとで、ポッドキャストで『はじめてのさよなら』を聞いたとき、その声にならない声が胸に響いて辛かった。同時に、最後まで高座に上がり続けた左談次師匠の思いに、私は泣いてしまった。

 高座での笑顔の左談次師匠の姿が何度も浮かんできて、その度に私の胸は締め付けられた。ラジオで聞いた『阿武松』の、微かに震えた声を聴きながら、おどけた様子で、にっこりと笑う左談次師匠の姿が浮かんだ。

 もう会えないのだ、という途方もない悲しみに、私はぽっかりと胸に開いた喪失感を埋めるために、色んな噺家を聞いた。それでも、左談次師匠の落語は左談次師匠にしかできない。

 今は『厩火事』と『妾馬』、この二席を生で見ることが出来て本当に良かったと思う。私に『軽さ』の大切さを教えてくれたのは、左談次師匠だった。

 

 偲ぶ会 ふいに

 たまたまツイッターを眺めていたとき、立川左談次師匠を偲ぶ会が開かれていることを知った。これは行かなければならないと思い、すぐにメールを送った。

 当日のお江戸日本橋亭には大勢の観客が押し寄せていた。こんなにも立川左談次師匠を思っていた人がいたのかと驚いた。

 会場は大入り満員である。それほど、左談次師匠は愛されていたのだ。

 同時に、かなり大勢の客が押し寄せたことによって、主催の鈴々舎馬桜師匠が急遽謝罪するほどだった。これも立川左談次師匠のイタズラかも知れないと思って、私は嬉しくなった。もちろん、会場に集まった大勢の誰一人として、馬桜師匠を責める人はいなかった。むしろ、「サダヤンのいたずらだね」と笑っている人が多かった。

 そんな、嬉しいいたずらの後で、いよいよ偲ぶ会が始まった。

 

 鈴々舎美馬『穴子でからぬけ』

 鈴々舎馬風門下の見習いで、背が低く、円らな瞳で老齢な紳士を一撃で魅了した美馬さん。「私も昔はあんな感じだったわよ」と婦人の嫉妬を買いかねない美貌。この話は『兄に弟が賭けをして騙す』という内容なのだが、実に可愛らしくて、愚かにも私は「この子になら騙されたい」と思うほどに可愛らしかった。愛嬌は罪を消し去る。そんな素敵な一席だった。左談次師匠に『軽さ』があるとすれば、美馬さんには『可愛らしさ』がある。そんな風に思った。

 

 鈴々舎八ゑ馬『つる』

 上方落語家と思いきや、鈴々舎馬風門下の八ゑ馬さん。心地よい関西弁とリズム。確かな技術と、見事な言葉展開で、左談次師匠を偲ぶ会に花を添えた。恐らく玄人の落語通が揃った中で、見事にその役目を果たしていた。

 

 鼎談~立川左談次師匠を偲んで~鈴々舎馬桜 五街道雲助 春風亭一朝

 鼎談の内容については、記さない。これはあの場だけのものにしたい。

 私の手帳の中にはあるので、知りたい人は口外しないことをお約束として

 メッセージを送らせて頂きます。

 左談次師匠の人柄、エピソードもさることながら、私は雲助師匠の言葉が

 一番感動しました。

 

 仲入りの後で、今回の主催者が登場。

 

 鈴々舎馬桜『大安売り』

 左談次師匠が上方から移入した噺だそうで、三遊亭歌奴師匠や三遊亭兼好師匠にも受け継がれている話だ。今の型は馬桜師匠の型であるらしい。

 この話は簡単に言えば『力士が自分の取り組みの内容を言う』という内容である。左談次師匠がやっているのを聞いたことは無いが、不思議と惹き付けられる話である。

 力士の軽さに対してヒートアップしていく尋ね人の姿が心地よいし、結構酷い負け方をしているのに、がっかりする様子もなく、微動だにせず自らの取り組みを語る力士の姿が妙に心地が良い。

 馬桜師匠が醸し出す絶妙のふんわり感の奥に、左談次師匠の軽やかな姿と笑みを浮かべて胸が締め付けられた。

 ああ、もっと色んな話を左談次師匠で聴きたかったなぁ。

 その名残りを馬桜師匠に感じながら、最後は見事なオチで、一つの話に籠る左談次師匠の心意気を感じる素晴らしい一席だった。

 

 春風亭一朝『宿屋の富』

 左談次師匠のことを「さだやん」と呼びながら、思い出話を語る一朝師匠。その嬉しそうな笑顔で始まった『宿屋の富』。

 一朝師匠には『可愛らしさ』があると思う。完全にベテランの域に達しているのに、何とも言えない可愛らしさがあって、厳格さのようなものはあまり感じられない。むしろ、自分の道は自分で決めるというような、線が細くもしっかりとした強い意志が感じられる。

 この話は簡単に言えば『富くじに関連した騒動が起こる』という内容で、本当はお金が無いのだけれど、大金持ちで、金が無くても暮らしていけるほどの金持ちだと嘘を付く男と、その嘘を信用する宿屋の店主との会話が面白い。

 金が入ることを毛嫌いする素振りを見せながら、結局富くじを買ってしまう男が店主の去った後で、「はぁ、これでとうとう一文無しになっちゃった」というような独り言を呟く様子に、可愛らしさとともに寂しさというか、哀れさが滲んでいて、不思議な悲しみに笑ってしまう。

 会場は全体的に温かいお客様、良く笑うお客様がいて、終始ドッカンドッカンとウケていた。中盤で『富が当たったら、どうする?』みたいな会話をする人々の姿も、リアリティと同時に妄想が全開で、「現実にもいるよね、こういう人」という感じがとても面白かった。何よりも一朝師匠の可愛らしさが見ていてとても楽しい。さっぱりとした落語の世界でわちゃわちゃと楽しんでいる感じが何とも言えないのだ。

 終盤で、富くじが一等であると一文無しの男が気づく場面がある。一等に気づくまでの場面が物凄く面白い。下手をすれば嘘くさくなりがちなのに、全く嘘くささが無い。それどころか「どうなっちゃうんだろう。どうなっちゃうんだろう」と見ているこっちが惹き付けられてしまうほどに、可愛らしくて魅力的な主人公。そして一朝師匠の目がかっと見開いて「当たったー!!!!」と叫ぶシーンには、言いようのない興奮が押し寄せてきて、まるで自分も一等に当たったかのような錯覚を覚えた。

 一等の富くじに当たってからの人間の心模様も見事で、抱腹絶倒の素晴らしい一席だった。こんなに笑った『宿屋の富』は初めてだった。

 実はCDが配られていて、そこには立川左談次師匠の『宿屋の富』と『付き馬』が収録されている。これが実に素晴らしいので、聞いていない方には是非聞いて頂きたい。借りたい人は私にメッセージを頂ければ、お貸し致します。都内限定です。

 

 五街道雲助『付き馬』

 雲助師匠は私にとってはウイスキーな人です。

 樽の中で熟成されたウイスキーを飲んでいる感じと言えば良いと思う。

 渋くて粋なチョイ悪(死語?)な姿もさることながら、耳に心地よい低音ボイス。にかっと笑った時の表情が夕陽のような明るさ。

 そんな雲助師匠の『付き馬』ときたら、とにかく面白くて、会場は爆笑の嵐に包まれた。

 この話は簡単に言えば『集金に来た男を煙に巻く』という内容である。

 畳み掛けるように言葉を発しながら、様々な風景を描写したり蘊蓄を挟みながら闊歩する借金を抱えた男、その金を何とかして頂こうとする男の不安な様子との対比がとても面白かった。

 出来ることなら私は「雲助師匠に連れまわされたい」と思うし、『五街道雲助 付き馬ゆかりの浅草ツアー』があったら絶対申し込むし、「どうだ、今日は仕事を切り上げて飲みに行くか!」と言われれば、何軒でも梯子して、梯子を外されて帰れなくなるくらいに酔いたいとも思う。

 それほどの魅力と語り口が『付き馬』の主人公で、金を払わないようにする男にあった。物凄く音源が欲しいと思うほど、最高の『付き馬』である。

 後半に、集金係の男が騙される場面があるのだが、これが怒涛の勢いで会場に爆笑を巻き起こした。一言発するごとにドッカンと笑いが起こる。集金係の男にとっては可哀想な結末なのだが、なぜだか爽快感がある。あの爽快感が不思議である。

 また、最後のオチのトーンが最高である。うわぁっ、痺れるっ!と思うほど、カッコイイオチである。お金を誤魔化してかなり悪いことをしているのだが、不思議な爽快感があるのは、お金を払うことなく逃げた男に対する憧れの気持ちだろうか。

 白酒師匠じゃないが、私の心は「くもすけっ!くもすけっ!」とときめく気持ちでいっぱいになった。

 これもCDで立川左談次師匠の音源を聞いた。最高である。とにかく喋りまくる。そして最後にはオチ。くうう、カッコイイ。となぜか思う。そんな爽快な一席だった。

 

 最後は三本締めで終了。雲助師匠の言葉が粋で「さだやんの冥途の弥栄(いやさか)を祈って」みたいなことを言った時には痺れた。今、間違いなく粋な言葉を知っている雲助師匠。3月上席の夜の部が楽しみでならない。

 

 総括 いつも心にある人と

 笑い過ぎて頬骨が痛くなった帰り道。私は左談次師匠に思いを馳せた。いつも思い浮かぶのは、笑顔の左談次師匠の姿だ。

 本当に最後の僅かな期間だけしか、その高座を見ることは叶わなかったけれど、色んな人に愛されて、そして魅力的な人物であることが分かった。

 数々のエピソードを聞き、またCDで左談次師匠の落語を聞き、私は左談次師匠が心の中で生きて行くのだと思った。それが今はとても嬉しい。

 CDの音源に息づく左談次師匠は、相変わらず白猫のように愛くるしくも飄々とした姿で、座布団の上で心地よさそうに喉を鳴らして言葉を発している。

 いつも心にある人と、いつも生まれる笑顔とともに、私はこれからも生きて行こうと思うのだ。

 そして、渋谷らくごの3月興行では、立川左談次師匠の追善興行が行われる。私にとって思い出深い『妾馬』も映像で流れるとのことだ。

 多くの人に立川左談次師匠に触れてもらいたい。映像でも十分に伝わるほどの軽さを持った人だ。

 もしも、あなたが軽さに悩んでいるのだとしたら、きっとその軽さを肯定してくれる筈である。笑える冗談とともに、満面の笑みを浮かべながら、あなたを肯定してくれるだろう。

 もちろん、私も行く。

 そうだ、立川左談次師匠は生きているのだ。

 私の胸の中で。

 そして、映像や音源、どんなことでもいい。左談次師匠に纏わる話を聞いたとき、あなたの中で立川左談次師匠は何度でも生まれるのだ。その笑顔と、軽やかな姿で、白く、清く、心地よく。

 3月は忙しいけれど、楽しみが多い。

 待ってますよ。立川左談次師匠。あなたの素敵な高座を。

 あなたの生きた、この世界に溢れる笑顔を思いつつ、

 そして、素敵な演芸との出会いを祈りつつ、

 立川左談次師匠の冥途での弥栄を願いつつ、

 この記事を終わります。

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我々は何に争わされているのか?~争いモンスターとの付き合い方~

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毎日少なくとも一回、

何か小さなことを断念しなければ、

毎日は下手に使われ、

翌日も駄目になるおそれがある。

            ニーチェ

  車内での偶然

 電車の中で二人の青年の話を聞かなかったら、そんなことを考えることもなかっただろうし、ぞなもしの友人が私の質問に返事を返さなかったら、こんな記事を書くことも無かっただろう。

 私の乗った電車の座席は満席で、目的の駅まではまだ少し時間があったため、私は仕方なく吊革につかまってぼんやりと窓の向こうを眺めていた。座席には二人の高校生らしき青年が座り、電車が動き出すなり左にいた青年がポケットからスマホを取り出すと、何やら人差し指を動かし始めた。それを見た右側の青年がスマホをのぞき込むと、

「あっ、それクラロワじゃん」と嬉しそうに笑った。

 クラロワとはなんだろうと私は思った。アセロラや知恵の輪やザギトワなら知っているが、クラロワは聞いたことが無かった。すぐにスマホを取り出して調べると、正式名称が出てきた。どうやら『クラッシュ・ロワイヤル』の略称であるらしかった。

 兵隊を使って互いの王様を攻撃し、先に王様の体力を減らして倒した方を勝ちとするゲームであるらしく、正方形の上下の端の中心に髭を蓄えた、人の好さそうな顔をした王様が座している。正方形の真ん中には川が流れていて、川を渡るための橋があり、それを渡ってお互いの陣地にいる王様に兵隊を送り込み、王様を攻撃するというシステムらしい。

 どうやら左の青年はクラロワというゲームの達人であるらしく、右にいた青年はスマホの画面を眺めながら、「うわっ、めっちゃすげぇじゃん」とか「圧勝じゃん。無傷じゃん」などと興奮した様子だった。左の青年は、「まっ、最強のカードがあるからね」と自慢げにカードの説明を始めた。

 「エレクトロウィザードを持ってれば、大体の相手には勝てるよ。出てきた瞬間に周りの奴等を気絶させられるし、二体同時に攻撃もできる。しかもコスト4で召喚できるから、かなり使いやすい。移動速度も速いし、地上と空中のどっちも攻撃できるからね。無敵よ」

 どうやら、カードを使うと兵隊が召喚される仕組みであるらしい。あらかじめ配られたカードがあり、それぞれカードを召喚するためのコストと呼ばれるものがあって、そのコストの溜まり具合によって、召喚できる兵隊が異なるようだった。

 右の青年は感心した様子で「マジか、そいつはやべぇな」と言った。私は心の中で(この青年の語彙力がやべぇな・・・)と思いながらも、何となく会話を聞いていた。

 

 ぞなもしの友人のゲーム観

 以前、私のブログにも登場したぞなもしの友人(この人の古典を聴いた!~1月5日 神田連雀亭~ - 落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ)に、私は「クラロワって知ってる?」とメッセージを送ってみた。しばらくして、ぞなもしの友人から返事が返ってきた。

 『そんなん誰でも知ってるぞな。知らないのは君か宇宙人くらいぞな。ただの戦争ゲームぞなよ。僕は好きじゃないからやってないぞな。それよりPUBGの方がうんぬんかんぬん』

 ぞなもしの友人のメッセージを見たとき、私はどうやら先ほどまで宇宙人だったらしいと思ったと同時に、『戦争ゲーム』という言葉が引っかかった。

 かれこれゲームから遠ざかって十年近くなる。そもそもスマホでゲームをすることが一切ない。要するに完全な宇宙人であった私だが、ぞなもし友人の『戦争ゲーム』という言葉とともに、クラロワというゲームに対して、別の思いを抱くことになった。

 私はさらにぞなもしの友人にメッセージを送った。

『ついさっき地球人になったよ。クラロワって戦争ゲームなの?カードで王様を攻めるんだから、将棋みたいなもんじゃないの?』

 すると、ぞなもしの友人は

『まだまだ森野氏は宇宙人ぞな。クラロワはれっきとした戦争ゲームぞな。戦略がどうのこうの言われてるぞなが、結局、強いカードを持ってる奴が一番強いぞな。課金して強いカードを手に入れれば、簡単にランキング上位ぞな。最近のゲームは大体そんなもんぞな。そんなことより、PUBGをやらないかぞな?PUBGはクラロワみたいなクソうんぬんかんぬん』

 メッセージを見て、私はしばし窓の向こうを眺めながら考えに耽った。

 最強の武器を持っている者が一番強い。今、この世界で一番最強の武器を持っている者は誰だろうか。ドナルド・トランプだろうか、金正恩だろうか。

 最強の武器を買うためには金が必要である。今、この世界で一番お金を持っている者は誰だろうか。どうやらAmazonのCEO、ジェフ・ベソス氏であるらしい。ということは、ジェフ氏はお金さえ使えば、最強の武器を買うことの出来る立場にある。もう既に最強の武器を手にしているのかも知れないが。

 ぞなもしの友人が言うように、クラロワは戦争ゲームであるらしかった。お互いに命を奪い合うために兵隊を送りこみ、戦略を練り、最強の兵隊を送り込む。自分の王様が殺されれば悔しがり、相手の王様が死ねば喜ぶ。

 私はふと思った。何が楽しいのだろう。

 そのままの問いをぞなもしの友人に送った。返事はすぐに返ってきた。

『クラロワはつまんないぞな。血が流れないぞな。グロくないぞな。ゲームというのは、普段できないことが出来ないから面白くて楽しいぞな。血がブシャーと飛んだり、内臓がドバアアっと出たり、車が大クラッシュしたり、ビルが燃えたりするから楽しいぞな。この面白さが分からないぞなか?』

 私はただ一言『わかんないね』とだけ送って、それでぞなもしの友人とのやり取りは終わった。

 

 争わない民藝

 ぞなもしの友人の言葉をぼんやりと考えながら、私は柳宗悦氏の『無対辞』の言葉を思い出していた。民藝館で見た柳宗悦氏が蒐集したという民藝品は、ただそこに存在するだけで、美しくあった。それは何ものとも争っていないように思えた。そのもの自体であるが故に正であるというように、私には思えたのだった。

 誰とも競い合うことなく生きるということが、人間の一つの生き方であると私は思う。幼い頃は「誰々ちゃんよりも早く走れるようになりたい」とか「誰々ちゃんに負けないように勉強しなくちゃ」とか、他人と比べて自分の能力を誇らしく思っていた頃もあった。むしろ、そうした競争意識が人を成長させることも十分にわかる。出来ることなら勝負には常に勝ち続けていたい。負けて悔しい思いなどはしたくない。

 勝負ごとに負けると、決まって周囲から「いいか、その悔しさをバネにしろ。もっと練習するんだ」と言われていた。その頃は「はい、先生。頑張ります!」だったが、今は「いや、悔しくもなんともないです」という気持ちである。向上心は欠片も無いと思われるだろうが、私は誰とも争いたくないのである。要するに誰とも勝負しない生き方をしたいのである。

 なんてつまらない人生だ!と思われる方もいるかも知れないが、私は少なくとも「私は私。この世界で誰とも争うことのない人間なのだ」と思っている。そう記せば「ふっ、お前は分からないだろうが、お前は操られているんだよ。より大きな存在にね」と言ってくる人もいそうだし、「争わずに生きられるわけないじゃん」と言ってくる人もいるかもしれない。

 柳宗悦氏の言葉を借りるとするならば『高い代価なるが故にものを誇るのは浅はかな趣味である」という言葉に尽きるだろう。高級な毛皮を身に纏い、何十億という宝石を身に付けてそれを誇ることは、決して思慮深い趣味ではない。同じように、金持ちが人間として必ずしも素晴らしいとは限らないのだ。

 私が柳宗悦氏に共感するのは、そうした『競争主義』であるとか『拝金主義』というような概念に対して、『何ものとも争わず、全てを肯定する思想』を氏が持っているからである。見た目は地味でも、一見すると何に使うか分からないものでも、それはその存在であるが故に美しいと私は思うのである。

 今でこそ、誰とも争いたくないと思うが、世間を広く見渡してみると、戦争とまではいかなくても、小さな争いは日常茶飯事であるようだ。

 私はそこで、一つの問いが浮かんだ。

 

 我々は何に争わされているのか?

 幼い頃からずっと、競争することが日常であった。100m走なり、テスト勉強なり、様々に人は争わされる。スマホのゲームでさえ人と争って勝ち負けを決める。勝てば気持ちが良く、負ければ気持ちが悪い。誰かに勝つということは、それだけ気持ちの良いものだという意識が、私の中には植えられたのだろう。いつの間にか。

 私はオリンピックの競技を見ていても、昔は「日本勝て!日本負けるな!」と血眼になって応援していたが、もうすっかりそういう気持ちが無くなって「日本が勝とうが負けようがどうでもいい」という気持ちになった。それよりも選手が一所懸命になっていたり、美人が汗を流して肩で息をしている姿を見る方が興奮する。

 私はそれまでの経験によって『競争主義』の観念に縛られていたのだと思う。人よりも抜きん出れば金持ちになれるとか、美人と結婚して毎日行為に及ぶことは、男として最上の幸福であるとか、友達はたくさんいる方が良いとか、そういう様々な情報を繰り返し繰り返し言われ続けたことによって、自分でも「お金持ちになれれば幸福」とか、「美人を抱けたら幸福」とか、「毎日誰かとお話できたら幸福」と思うようになっていたのだ。無意識のうちに。

 そうだ。結局、私は何に争わされていたのか全く分からないのだ。そいつの正体は全く分からないのだ。気が付いたら、そいつはいなくなっていたのだ。スマホのゲームの中に潜んでいたり、学校教育の中に潜んでいたり、日常のありとあらゆるところに、透明な姿で潜んでいるのだ。

 勘違いしないでほしいのだが、大事なのはそいつとどう付き合うかということである。誰かと争うことが悪いとは言わない。争うことだって十分に必要なのだ。重要なことは、争うことに対して自分がどう捉えて生きて行くか、ということである。

 私は争うことはキッパリ諦め、自分が自分の思うままに好きなように生きることを決めたし、幸いにもそのように生きることの出来る環境にいる。

 あなたはどんな風に、そいつと向き合っていくか。仮に名前を付けるとするならば『争いモンスター』との付き合い方が重要である。争いモンスターは事あるごとにあなたを争いへと誘い、勝てば無常の喜びを、負ければとてつもない悔しさをあなたに与える。そして、その与えられたものに対して、あなたがどう反応するか。それは、あなた自身にしか分からないのだ。気を付けてほしい。『争いモンスター』はいつでも、あなたが争うことを待ち望んでいるのだから。

 

 総括 私の好きなゲーム

 目的の駅に辿り着き、電車を降りて、高校生の嬉しそうな表情を眺めながら、私は自分がやるとしたら、どんなゲームをやるだろうと思った。真っ先に思い浮かんだのは『テトリス』だ。正方形のブロックを積み上げて、ブロックが横一列に揃うと消えるゲームだ。もしかしたら、『テトリス』にも争いモンスターが潜んでいるかも知れない。だが、一人でテトリスをする分には、誰とも争うことは無い。

 自然に目を向ければ、植物は争っていない。木々も争っていない。自然は、何ものとも争っていないのだ。そう考えると、争わないものは『自然』なのかも知れない。

 結局、今日、私は目的とする駅で降りて、入りたいと思っていた場所に入れずに家に帰った。でも、何の怒りも抱かなかった。単に縁が無かったのだと諦めて、家でゆっくりと本を読むことにした。入りたい場所に入れず、そこで過ごす筈だった時間がぽっかり空いたことによって、私はじっくり本を読むことが出来たし、ぐっすりと寝ることが出来たし、色んなことを考えることが出来た。

 誰とも争わずに、自分の考えに従って生きるのは随分と楽しい。傍から見て「つまらないわ」と思われても、私は一向にかまわない。誰とも争わずに生きられた今日は、とてもとても幸福な一日であった。

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渡辺美里な人達の速度~2月16日 深夜寄席~

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羽を光らせ羽ばたいて

 

鯉は舟乗り 滝昇り

 

ぐんぐんぐんぐん 伸びるべえ

 

小痴を楽しみ  笑う人

  この胸に深々と突き刺さる矢を抜け

 新宿の街を歩いていると、擦れ違う男女の笑顔が眩しすぎて自分がくすんでいる気がしてくる。

 服装一つとっても、グッチやバーバリーなどのお洒落な高級ブランドを身に纏ったハイセンスな準モデル級カップルが街を闊歩するのに対して、山袴に手拭いにタンクトップこそが永遠のスタイルというような田舎者くらいの、圧倒的なくすみ具合を自分に対して感じ、山下清VS志茂田景樹くらいのファッションセンスの差を感じてしまって泣きたくなってくる。

 食べ物だって、こちとらどこの誰が握ったかも分からない塩っ気たっぷりのおにぎりを食すのに対して、フォークとナイフと蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具を使ってコース料理を楽しむ人を見て指を咥えるくらいの差がある。

 要するに、新宿という街は私にとって、圧倒的なセンスと輝きの差を見せつけられる危険な場所なのである。

 だから私は、ついつい誰からも答えの返ってこない問いを頭の中で繰り返し、自分のセンス、自分のくすみ具合を少しでも磨き輝かせようとする。その問いは私の胸に突き刺さって離れない。その矢を引き抜くことが、自分のセンスと輝きを知るための唯一の方法だった。

では、その矢とはどんな問いかというと、以下の三つになる。

 

・自分の才能が分かり始めたマイレボリューションの後で、明日を乱せないまま大人になって、誰にも伝えられずに涙を零し、夢を諦めた人がどれだけいるんだろう。

 

・現在進行形で夢を追いかけ、たやすく泣くことも無く、夢に対する恐怖を抱きながらも走り出している人が、この街にはどれだけいるんだろう。

 

・革命を求めることが出来ず、自分の生き方さえも分からず、誰とも見つめ合うことの出来ない人、非渡辺美里な人達が、この街にはどれだけいるんだろう。(非渡辺美里は、渡辺美里に非ずの人だから、渡辺美里以外の人は全員非渡辺美里な訳だけども)

 答えは返ってこない。では、この三つの矢を抜くためにはどうしたら良いか。

 それは、新宿末廣亭 深夜寄席に行って二ツ目の落語を見れば良いのだった。

 

 笑福亭羽光私小説落語 悲しみの歌』

 冒頭から突拍子も無いことを言うが、羽光さんは顔がエロい。

 絶妙に童貞を拗らせて生きてきた気がするから好きだ。

 会場を見渡し、客層を眺めながら、淡々と静かな語り口で、急に爆弾のようなエロさを放り込んでくるところが最高に気持ちが悪くて心地よい。

 この話は、簡単に言えば『中村君が仮死状態で女子の人工呼吸を求める』という話で、短いのだけれど、男のあらゆる願望が詰まった一席である。

 身体能力は低いのに、性欲は強かったり、むさくるしい男の接吻は体が拒否し硬直するのに、女子が接吻するとなると体の緊張が解けて赤ん坊のようになる主人公、中村好夫、すなわち笑福亭羽光さんの青春時代の姿が描かれる。

 脇を固める友人の松尾と松田の性格もさることながら、泳げない好夫が碁石を拾うだけなのに溺れて意識を失ったり、なぜかプールを飛び出しグラウンドへと転がって行ったり、女子がひたすらに好夫との人工呼吸を拒んだりと、笑える小ネタとリアリティが詰まっていて、初めて私小説落語を聞く人にもわかりやすい設定だった。

 晴れて女子の人工呼吸を受け、蘇生した後の中村君の罪の無い「あれ?僕はどうしていたんだっけ?」みたいな言葉が面白かった。

 非モテ男子の切ないリビドーが迸った短くも濃い一席だった。もしかしたら、新宿を闊歩するハイセンスな男女には一生分からない落語かも知れないとも思った。

 笑福亭羽光さんは、自分の才能が分かり始めたマイレボリューションの後で、もがき苦しみながら明日を必死に乱そうとした。数少ない友人に支えられ、自分の才能に気づき始めた青春時代を、私小説落語にするという形で昇華した素晴らしい落語家さんだ。

 羽光さんの落語を見て、最初の問いに答えが出た。

 羽光さんのように、自分の青春時代を落語に昇華させることの出来なかった人は、数多くいるのだろう。だからこそ、羽光さんの落語は、そんな夢を諦めてしまった人達のために、必要な落語なのだと思った。

 行き場の無い性欲に満ち溢れ、女子との恋にときめきながらも、実ることの無い恋の想像を抱えたまま大人になった人達のために、私小説落語は輝いているのだ。このセンスは、エロくて、モテなかったからこそ、誕生したのだと思う。私はそう勝手に思っている。

 

 瀧川鯉舟『壺算』

 登場して第一声が「みなたん、今日は」みたいに聞こえて、思わず笑いそうになってしまうくらい雰囲気のやわらかい鯉舟さん。本当は「みなさん」と言いたかったのだと思うのだが、私にはそう聞こえた。

 以前、笑福亭たまさんの独演会で、コッテコテの落語ファンの厳しいアウェイな視線を浴びながらも『幇間腹』を披露した鯉舟さん。今回は深夜寄席初登場ということもあって、若干緊張されていた様子だったが、見事な表情と滑舌で乗り切った素敵な壺算だった。内容は簡単に言えば『瀬戸物屋を騙して甕を買う』という話だ。

 恐ろしいほど会場が静かだったたまさんの独演会での『幇間腹』に比べると、客席も温かくてかなりウケていた。

 その時、二つ目の問いに答えが出た。

 鯉舟さんは、現在進行形で夢を追いかけている落語家さんだ。たとえウケない会場があったとしても、泣くことなく、諦めることもなく、むしろ逞しく明るく高座に立って演目をやり続けている。きっと、この先どうなってしまうか、という恐怖を抱いているかも知れない。それでも、高座に立ち、楽しそうに客席の反応に乗せられながら、淀みなく独特の滑舌で進んでいく壺算はとても面白かった。

 自分で決めた名を立派にするために、今も邁進し続けている鯉舟さんの爆笑の高座。とても心地が良くて、やわらかくて、穏やかな気持ちになった。

 

 桂伸べえ『熊の皮』

 ずっと凄い伸べえさん。今日は羽織をいつの間にか脱いでいたし、お馴染みのマクラも風格と自信が漲っていて、「うおお、今日は超本気モードだ!」と思って心の中でゾクゾクしていた。

 特に大学のマクラで拍手喝采が起きた時の、マイクに触れ、俯きがちでにやりと笑いながら、位置を直す伸べえさんがめちゃくちゃカッコ良かった。

 前に寄席で見た時は「いやいや、ここは拍手もらうところじゃありませんから」というような謙遜の感じだったのだが、今日はさりげなく「ああ、ウケたな」と確かめるような表情がめちゃくちゃカッコ良くて、私はかなり震えてしまった。

 今までで一番自信が漲っているマクラだった。失敗しても大丈夫。その失敗は必ず糧になると私は信じている。凄く凄く進化し続けている伸べえさんを、私はこれからも応援し続けます。

 そして、普段よりも随所にアレンジが挟み込まれ、輝き続けた『熊の皮』。内容は簡単に言えば『正直な甚兵衛さんが赤飯のお礼を言いに行く』という話。

 今まで聞いたことも無かったフレーズとエピソードが挟み込まれていて、それが抜群に面白かった。自分の中で物語を落とし込み、さらに笑いを追加する姿勢も素晴らしいのだが、声の間とテンポ、そしてトーン。唯一無二のフラと相まって爆笑必死の最高の一席だった。会場もドッカンドッカンウケていた。

 伸べえさんは名前の通り、どんどん伸び続けている。去年の深夜寄席からずっと見ているけれど、凄まじい成長である。これこそ、二ツ目の落語家さんを追う醍醐味だと改めて思った。

 同時に、少し遠い存在になってしまったのかも知れないとも思った。色んな人が伸べえさんの高座に出会い、その凄まじさに気づいていく。私の役目は微々たるものかも知れないと思った。

 それでも、三つ目の問いに答えが出た。伸べえさんは革命を求めることも無ければ、自分の生き方を決めることも無ければ、誰とも見つめ合うこともない。ただ自分自身の落語、高座、自分自身と戦い続けている。伸べえさんは非渡辺美里であって、伸べえさんなのだ。

 ありのままに、自分という存在に忠実に生きている桂伸べえさん。段々と自分という存在を肯定し、風格を漂わせる伸べえさん。今日は素晴らしい高座だった。本人はきっと「まだまだです」と言うかも知れないけれど、常にその「まだまだ」の気持ちを更新し続けて、面白くなり続けている。本当に凄いよ、伸べえさん。

 私にとって伸べえさんは、落語の可能性を拡げ続ける凄い落語家なのだと、高座を見る度に思う。どんどんどんどん新しい言葉が追加されたり、声や間、トーンが変わったり、その変化を見ることも楽しい。

 何度同じ話を聞いても面白い。最高の落語家の一席だった。

 

 柳亭小痴楽『あくび指南』

 自分の行いをひたすらに積み重ねることが、マイレボリューションなのだ、と小痴楽さんの高座を見ていると思う。渋谷らくごで「俺は今日はあくび指南がやりてぇんだ」と、演目にあまり関係の無いマクラから、急に演目に入ったのが約一年前くらい。正確には去年の3月9日。そのちょっと前に確かネタ卸ししたのが『あくび指南』だったと思う。

 そこから磨きに磨き続けて進化した『あくび指南』。改めて柳亭小痴楽という落語家の、落語に対する真摯さというか、真剣さを感じた地味に凄い意志を感じる一席。

 たった一つの演目でも、手を抜くことは無く、むしろ試行錯誤しながら高座にかけ続ける姿に、小痴楽さんの凄まじい意気込みを感じた。同時に、模索しているのかも知れないとも思った。

 確か三遊亭白鳥師匠だったと思うのだが、自分の高座を録音し、ウケた部分とウケなかった部分を聴き直して、がらりとネタの構成を変えるということをしている落語家さんがいる。

 同じように、小痴楽さんも『あくび指南』をやり続けることによって、自分の中で最もしっくりくる部分を探しているのかも知れない。そして、何よりも『あくび指南』という演目そのものを楽しもうとしている。そんな嬉しそうな姿を見たように私は思った。

 革命は一夜にしてならず。様々なことを積み重ねて、積み重ねて、いつの間にか起こっているものなのかも知れない。真打に向けて、色んな話を覚えることも大事かも知れないが、軽い噺で魅せることに挑戦しているのかも知れない。

 言動やファッションが取り上げられがちだけど、誰よりも真摯に落語と向き合い、自らの芸を磨き続けている小痴楽さんの凄まじい意気込みに万感の拍手を送って一席が幕を閉じた。

 必ず、真打披露興行には行く。どんな演目をやるのか、今からとても楽しみだ。

 

 総括 想像も付かない速度で

 末廣亭を出ると、再び活気のある飲み屋が目に入った。その中で、人々は酒を酌み交わし、顔を赤らめながら笑いあっている。目を輝かせて酒を飲んでいる。

 そうだ、自分がくすんでいるんじゃないんだ。自分も輝いているんだ、と私は思った。一人一人が、光り方は違うけれど、誰もが輝いているんだ、と思った。

 それは、深夜寄席で四人の高座姿を見て感じるものがあったからだ。自分の青春を昇華させた羽光さん、緊張しながらもめげない鯉舟さん、ありのままの自分で勝負する伸べえさん、堅実に芸を磨き続ける小痴楽さん。

 想像も付かない速度で、芸に磨きをかけている四人。芸歴は違うけれども、自分の芸を磨き、高座に上がり、お客様の前で一席を披露することは同じだ。そして全員が、楽しい空間を共有したいと思っているのだ。

 ぐんぐんと芸は伸びて行く。どんどん凄くなっていく。

 私も四人の姿に感化されて、成長することが出来ているのだろうか。私は私のマイレボリューションを分かり始めているのだろうか。

 もしも分かり始めているならば、たやすく泣いたりしない。自分の本当の悲しみを、自分で癒しながら前に進んでいく。

 明日を乱すために、誰かにこの思いを伝えるために、私は頑張ろう。

 非渡辺美里な人なんていない。みんな、渡辺美里なんだ。マイレボリューションなんだ。

 そんなことを思いながら、私は家路へと急いだ(なんか着地点違う気がするけど・・・)

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生きてないと死ねない~笑い続けて生きていたい~

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サーファーもどき アメリカの彼

  靴下が履けなかった頃のはなし

 自分の人生で最も挫折感を味わった頃と言えば、靴下を履くことの出来なかった頃になるだろう。あの頃は恐ろしいほど、何も出来なかった。箸も上手に持つことが出来なかったし、買い与えられた服を着ることも出来なかったし、言葉をきちんと話すことも出来なかった。

 その頃の私にとって、ドラえもんはドエラモンだったし、箸は掴むものだったし、靴下は履かなくて良いものだった。それは私の人生をかなりボキボキと折って、生きづらいものにさせた。ドラえもんをドエラモンと言うと、「何それ?ドラえもんでしょ?」と友達に言われて恥ずかしい思いをしたし、箸を掴んで食事をしていると、友達から「パパとママに教わらなかったの?」と笑われたし、靴下を履いていない私を見ると、友達は「くっせー!」と鼻を摘まんで私の裸足を指さすのだった。

 毎朝、目が覚めて靴下を見る度に、「これは私の人生には必要の無いものだ」と思うようになった。靴下を履こうとしてもがき苦しむ時間を作るくらいだったら、ポンキッキーズを見て笑っている方がマシだった。そのうち時間がやってきて、親の目を避けて靴を履いてしまえば、靴下を履かなくても良い一日が始まる。爽快だった。とても爽快だった。みんな、どうして靴下を履いてしまうのだろうと思った。というか、靴下は靴の中で履いているのだから、靴中、もしくは足下じゃないのか、と思ったりもした。それほど私は靴下というものが好きではなかった。

 それでも、親にバレてしぶしぶ靴下を履かなければいけない時もあった。

 私はかなり抵抗した。自ら靴下を履けない子供を演じたこともあった。

 「手が届かない」とか「足がベトベトして履けない」とか嘘をついて、母親に履かせてもらったこともあった。それでも、学校に着いたらすぐにトイレに駆け込んで靴下を脱いだ。上履き入れの袋に靴下を入れて、私は裸足で学校生活を過ごしていた。

 脱ぐのは簡単だった。足と足とをこすり合わせていれば脱ぐことが出来た。こすり合わせるのは楽しかった。片方の足の指先で靴下をロックして、靴下を押さえられている方の足をグッと引っ張ると、ぐいいいんと靴下は伸びつつも、足がスポッと抜ける。

 それがとても気持ち良かった。一旦、片方の靴下を脱いでしまえば、もう片方は意外と簡単に靴下をロックすることが出来て、いとも簡単に靴下を脱ぐことが出来る。

 脱ぐは易し、履くは難しだった。

 そんな私の喜びを知りもせず、またその喜びに気づかない友達(果たしてそれを友達と呼べるかどうかは分からないが)は、私の裸足を見つけて笑うのだった。それがとても悔しかった。どうして私の喜びが笑われなければならないのだろう。私は私なりに、一番気持ちの良い状態でいるのに、むしろ靴下を履いていることや、履こうとする行為そのものが嫌で嫌で仕方がないのに、靴下を履かないということは、友達が笑って指を指すほど、奇妙なものであるらしいと私は実感した。

 他人にとって奇妙に映るものでも、私にとっては当たり前であるということが、人よりも多かったことによって、自然、私にはあまり友達が出来なかった。友達百人など未だに夢のまた夢である。

 というか、私は自分が正しいと思うものを馬鹿にする人を避けたし、嫌った。可哀想だとも思った。靴下を履くことを正とする人々が、靴下を履くことを正としない私の尊厳を傷つけた時も、怒りと同時に「可哀想な人だな」と私を馬鹿にした相手に対して思うようになった。この良さを理解できなくて可哀想、と思うようになった。

 それでも、結局私が靴下を履くようになったのは、人付き合いが面倒になったというのもあるし、案外、簡単に靴下が履けるような体になったからというのが大きかった。ぐっと体を屈めて靴下を履くコツを発見し、意外と楽に靴下が履けるようになった時は、靴下が履けなくて苛立っていた思いが解消され、むしろ靴下を履くことに慣れて、そのうち、靴下を履くことに対して何とも思わなくなった。

 靴下がなぜ靴下と呼ばれるのか、未だに意味は分からないが、私は少なくとも外出中は靴下を履くようにしている。家に帰ると真っ先に脱ぐ。出来ることならば履いている時間がなるべく少なければ良いと思っている。靴下を履く時間が0.1秒くらいになったら、非常に便利だろうと思っているし、自分の人生をあまり靴下を履くことに費やしたくないと思っている。積み重なれば、私は一生のうち何日ぶんの時間を靴下を履くことに費やすのだろうかと想像して、少しばかりゾッとする。それでも、今はすっかり靴下を履かなければならないと思うようになった。が、出来ることなら履きたくない。

 

 満員電車と精子の時代

 満員電車に乗り、目的の駅に到着し、電車からぞろぞろと溢れ出す人の姿を見ていると「この人たちは精子の時からずっとこんな感じだったのだろうか」と思うことがあった。確か何かの短編で読んだ。大勢の人が歩く中を、誰ともぶつからないように生きている男がいて、そいつの祖先は江戸時代にも同じように人混みを避けていて、縄文時代にも同じように人混みを避けていて、最終的に精子の時に精子の群れを避けた時に卵子に着床した。みたいな話があって、正にそれが現代の社会でも起こっているのだと思う。

 そんな世界の見方が私の中にインプットされてしまっていて、時折エスカレータに乗り込むサラリーマンの集団を見ていると、この人達の中で、たった一人がエスカレータの先の卵子に着床するのだろう、と想像して一人で笑うことがある。

 何を期待されてこの世の中に生まれたかなんてことは、誰にも分からない。レールと擦れ合った車輪の軋む音を耳にしながら、所定の位置で停車した電車が人々を吐き出すときに、人々は何を思って電車を降りているのだろう。

 会社に行かなくちゃいけないと思っているのだろうか。

 今日はこの仕事を片付けようと思っているのだろうか。

 突然、電車が不慮の事故か何かで停車すると、車内にいたサラリーマンは慌てて携帯を取り出し、恐らく勤め先の上司であろう人に電話して「すいません、電車が遅延して出社が遅れます」というようなことを言っている。

 これ、精子だったらありえないよね、と思う。

 「すいません。精子の数が多いんで、私は着床できません」とか

 「すいません。疲れちゃったんで、卵子への着床が遅延しそうです」とか、報告するのかな、と想像して、結局、また一人でニヤける。

 この人達の中で、何人が靴下を履いているのだろうか、と想像したりもするが、全員が靴下を履いている。靴下を履いた精子。長靴を履いたネコ。みたいなものか、と想像して、なぜかニヤリ。

 

 生きてないと死ねない

 誰かからの過剰な期待は、嬉しいと思う反面、かなりの重圧になる。

 君ならできるよ、とか、君にしかできないことなんだ、と聞くと、勘弁してくださいよ、と思う。そんな大きなこと、したくないっすよ。と思う。

 思う、が、任してください、と言ってしまう自分がいる。

 あっ、やべえな、と一瞬思う。

 期待に応えられない自分を想像して、やべえな、と思う。軽はずみで発言して、期待に応えられなかったらダセェとも思う。でも、やるだけのことはやって、一所懸命に自分の出来る限りはやってみて、それでもだめだったら、しょうがねぇ、と諦めることにしている。結局、失敗したら、とにかく人のせいにする。凄くワルい奴だな、と自分に対して自分で思うけど、人のせいにしないと、結局悩んじゃうから、すぐに人のせいにする。悪いのは私じゃなくて、私に期待したあなた、と思うことにしている。

 でも、それはかなり最終手段である。殆どの場合は、何とか期待に応えられている。本当に、首の皮一枚に全神経が集中してるくらいのギリギリさで、なんとか人のせいにせずに済んでいる。

 落語に出てくる登場人物は、結構ワルイ人達も出てくる。一緒に死のうとして死ななかった人だったり、不倫を隠す人だったり、誰が落としたか分からない財布を拾ってきちゃったり、饅頭が怖いと言って言葉の隙間を突いたり、嘘を教えて恥をかかせたりする。でも、なんで笑えるかと言うと、結局、自分もそういう人間だからなのだと思う。

 なんだかんだ、一所懸命にやっているけれど、遊びたいときは思いっきり遊びたいし、ふざけたいときはふざけたいし、自分の筋は通したいと思ったりもする。盗人にも三分の理なんて言葉にもあるように、どんなに悪いことだって、どんなに筋の通らないことだって、なんだかんだ筋が通って、理屈が存在してしまう。そういうTHE 悪な世界も確実にあって、それはそれで良いのだと思う。

 確か筒井康隆先生が『モナドの領域』で書いていたと思うのだけど、「人間が人を殺したり、戦争をすること。極論を言えば、人間のする行為は全て肯定できる」みたいな言葉があって、もしかすると全然違うかも知れないのだけれど、その言葉を読んだ時に「そうだよね」と思う自分がいた。人間は生きているだけでいいんだな、と思っていたのだけれど、筒井康隆先生の本を読んで改めて実感したというか、そんな感覚があった。

 人間は生きてないと死ねない。死んでたら生きられない。生まれてくる時に死んでた人なんていないと思う。みんな、生きてるからこそ死ねるし、人と争えるし、人を憎んだり、愛したりできる。生きてるからこそ、って部分が重要だと思う。

 どうせ100年後にはみんな死んでいる世界なのに、なぜかその命を短くしたりする。その後の人生を生き辛くしたりもする。勿体無いな、と思うけれど、それが人間だよね、とも思う。こんなこと、文章だから言えるけれど、人と話をして理解してくれた人は少ない。というか、こんなことを書くことによって、改めて自分の考えの根幹を探ろうとしている自分がいる。

 なぜこんなことをツラツラと書いたかと言うと、演芸に携わっていると、意外と政治とか現代社会の在り方に発言する人が多くてびっくりしたというか、自分には無い考え方を持っている人がたくさんいるんだな、と思うことが多々あって、それは別に「見なければいい」ので、殆ど見ていないのだけど、たまに目に入ってくると「なぜこの人は、こんな風に思ったんだろう」と気になってしまうことがあって、かなり抽象的にボカして書いているけど、何ていうんだろう。私はあんまり物事を細部まで見ていないのかも知れないな、と思うことがあった。

 何年か前に、「私は人間のするべきことの全てを肯定して生きる」と発言した時に、とある人から「それは危険な思想だ」と言われた。詳しく説明は無かったのだけれど、なぜ危険な思想なんだろう?と自分で考えてみて、何となくわかった。つまるところ、私は自分が殺されても憎しみを相手に抱かない思想の持主であるということだ。

 確かに、出来ることなら殺されたくはない。殺されたら仕方ないと思うし、もっと生きたかったな、と思うだろうし、なんでこいつに殺されなきゃいかんのだ、と思うかも知れない。でも、最終的には「生きてたから、死ねた」みたいに思うのかも知れない。

 書いていて、全然分からないし、これも永遠のテーマではあるんだけれども、何で自分はこんなに身の回りのあらゆるものを肯定して生きていられるんだろう、と思うことが多々あって、それはただ単に、その物事から遠くにいるのか、もはや自分の人生をあきらめているのか、生きているというそれだけで満足しているのか、これが全く自分でも分からないのだ。

 もうかなり堂々巡りで意味不明かも知れないが、私は生きているし、そのうち死ぬだろう。生きている限り、笑っていたいのだ。何か面白いことを探し続けていたいのだ。

 出来ることなら、人生に何の苦労もなく生きていたい。苦労しなきゃ人間は成長しません。ということを「大嘘やん!」と一蹴したいくらいの気持ちである。

 結局、色んな固定観念とか世間一般の「こうあるべき」を破壊したいだけなのかも知れない。もうね、こうなってくると、推測ばっかりなんだけれども(笑)

 たまに深夜のテンションで書き綴ってみた。

 今宵はここまでに致しとうござりまする。

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炬燵からマントル、そして氷風の大川への冒険~2月8日 シブラク 20時回~

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広い野原、他には何もない。大雨が降ってきたら、お前さんはどうする?

 

吹き矢ですか? 鎖鎌だ!

 

7年越しの夢が叶いました

 

静かにしろぃっ!

  寒波到来 前夜

 寒い。とにかく寒い。冷蔵庫の中?くらい寒い。土曜日には『40年に一度の大寒波』がやってくるらしい。こちとら『100年に一度の講談ブーム』の熱で寒波なんぞ熱風に変えたるわいっ、とか思いつつ、通り慣れた道を通ってシブラクへ。

 かなり大勢のお客様、そして圧倒的女性率、そして美人揃い。これだけでオジサンは満足なのであるが、今回は神田鯉栄先生が初登場ということもあって、かなり楽しみな会である。さらには『2018年 おもしろい二つ目賞』を受賞した柳亭市童さん、明るく軽やかな雷門小助六師匠、そしてトリはお馴染み文菊師匠ということで、もう「行くっきゃNight!」な会である。

 受け付けで頂いた『どがちゃが』を読みながら、改めて月夜乃うさぎさんの流麗で美しい文章に「ああ、いいなぁ」と思い、落語通な方と書いてあるところに、「ひょっとして私かな」と勝手に思い込みつつ、開口一番はこの方。

 

 柳亭市童『天災』

 去年の2月4日に鈴本演芸場早朝寄席で、市童さんの『天災』を聴いて以来、一年ぶりの『天災』。佇まいの貫禄、声のトーン、間、そして表情。全てが明らかに一年前より進化している。何よりも登場してから、落語の世界へと誘う雰囲気とリズムが心地が良い。

 冒頭から荒々しい出来事が続くのだが、紅羅坊奈丸が登場する辺りからの会話が私は大好きである。粗野で乱暴な八五郎を順序立てて諭していく奈丸。穏やかな表情から一瞬、鋭い目つきで「おいっ!」と詰め寄る奈丸の表情の変化がとても素晴らしかった。

 奈丸に諭されて改心(?)した八五郎の姿も素敵である。おっと、忘れていたが『天災』という話は簡単に言えば『乱暴な男が諭されて心を入れ替える』という話である。

 私はこの話が大好きである。というのも、この話には人間の心の変化がとても気持ち良く温かく表現されている気がするからだ。同時に、それまでの自分の考えが、他人によってより良い方向へと進んでいくような、不思議に心に染みてくる話だと私は思っている。

 これはどんなことにでも言えることなのだが、自分では『当たり前』だと思っている物事が人間にはたくさんある。人に会ったら挨拶するのは当たり前、人に親切にしてもらったらお礼を言うのは当たり前というように、人間にはどこかに共通した『当たり前』を持っている。

 八五郎の場合は、『水をかけられたら、かけてきた小僧を殴る』ことや、『瓦が落ちてきたら、その瓦を施工した職人を怒鳴る』ことは『当たり前』のことなのである。その『当たり前』を認識させた後で、奈丸は「では、何もない広い野原で、雨が降ってきたらどうする?」と尋ねる。すると、なんだかんだあって八五郎は「うーん、仕方ねぇ、諦めるよ」と言う。ここに、八五郎の『当たり前』を転換させる見事な論が展開されていく。

 奈丸の教えを受けて、改心した八五郎が微妙に上手く行かないところも面白い。何か新しい考えに感銘を受けた人は、それを考える以前の行いによって他者から評価されている。

 八五郎の奥さんは「あんたが喧嘩の場にいなくて良かった」と言われ、喧嘩をしていた友人のところに行くと、「うわっ、面倒くさいのが来た」みたいなことを言われる。可哀想な八五郎だと思うが、八五郎は気にすることなく、奈丸の教えを友人に伝えようとするが失敗する。何か新しい考えに感銘を受けた人の、その最初のつまづきのようなものが表現されていて、なんだか憎めない。

 現実社会で言えば、ZOZOTOWNの前澤社長も、以前はツイッターで一般の人に暴言を吐いた時期もあったが、100万を配った辺りで賛否両論が巻き起こった。どうしても、それまで人が試みたことの無いことを行う人というのは、様々な方面から意見を言われてしまうものである様子。行為の善悪は別として、『天災』という演目には、今までの考えを改めた人の成長と失敗があるような気がするのだ。

 

 雷門小助六井戸の茶碗

 続いて登場は小助六師匠。優しいお顔立ちと軽やかな語り口で語られる朗らかなマクラ。真っすぐで正直だと言いつつ、浮世を楽しんでいるようなさらりとした雰囲気から演目へ。

 この話は簡単に言えば『究極の物々交換』というような話で、前回の文菊師匠の記事でも書いたかも知れないので、あまり詳細は書かない。

 小助六師匠らしい淡々としつつも、随所に笑いどころが挟み込まれ、さらりとして軽やかな一席である。

 市童さんと小助六師匠には、炬燵に入っているような温かさを感じた。蜜柑でも食べながらゆっくりと聞いて、「ああ、いいなぁ」と思う演目が続いて、インターバル。

 

 神田鯉栄『三遊亭白鳥作 鉄砲のお熊』

 渋谷らくご初登場にして、燃え上がる炎のような高座が超カッコイイ鯉栄先生。『一人スカッとジャパン』とか『爆炎を上げるインパラ』などなど、様々に例えているが、燃えていることには変わりない熱い講談師。

 小さな体からは想像も付かない勇ましさと、巻き舌で畳み掛けるような口跡が実に素晴らしい。張り扇の勢いとともに、気迫の佇まいで登場。

 そんな燃え上がる炎の講談の前に、マクラでは失恋話。私が鯉栄先生の話の中の男性だったら、逆にギャップにやられて感動するんだけどなーと思いつつ、恥ずかしそうに語る姿にドキがムネムネでした。

 淡い恋のマクラから、相撲の話ということで演目へ。白鳥師匠作の『鉄砲のお熊』へ。

 シブラクに出ることが出来た嬉しさを感じる激アツの一席。特に主人公の女力士おみつ(お熊)や、女形では天下一品の役者時次郎(千之丞)の恋がとても面白く展開されていく。まるで一本のドラマを見ているかのような、怒涛の恋模様が繰り広げられていた。

 もしも次回シブラクに出るとしたら、清水次郎長伝や流れの豚次伝も聞いてみたい。とにかく流れるような江戸弁と、しゃがれた声、そして巻き舌。これらを思う存分堪能したい。そう感じさせる渾身の一席だった。

 炬燵でぬくぬくしていたかと思いきや、いきなり地球の核『マントル』まで連れて行かれ、その熱で心がボウボウと燃え上がるような灼熱の一席だった。

 

 古今亭文菊『夢金』

 完全にネクストレベルの文菊師匠。お着物から声のトーン、リズムまで、もはや老齢な達人の領域に達しようとしている気持ちがガンガンに溢れ出しているかのような、強烈な雰囲気を醸し出しながら演目へ。

 この話は『強欲な男の話』というくらいに留めておく内容。出てくる登場人物も欲の皮の突っ張った人たちが登場する。

 もはや文菊師匠の真骨頂とも言うべき淀みの無い流麗な言葉の数々、そして登場人物の表情の機微、所作。強欲な熊の金に対する態度、謎の侍と美女。サスペンスチックな物語の中で、熊の強欲さに何とも言えない味わいがある。

 なぜそれほどまでに大金に熊はこだわるのか。語られることは無いが、博打やら女遊びやらで、かなり金遣いの荒そうな人物である感じが伝わってくる。侍と女を船に乗せて船頭をやっても、やたらと文句ばかりで真面目に仕事をしない。とことん金に目が無い性格が描写される。寒い大川を渡る場面の錦絵のような風景が目に浮かんできて、先ほどまでのマントル級の熱さから、突然、氷風の大川へと場面が展開したことによって、演芸で風邪を引きそうなくらいの温度差である。僅か数分でこれだけ寒暖の差があると、もれなく演芸熱に悩まされそうだ。

 じっくりと丁寧な語り口、そして侍を騙して逃げる熊の姿。不思議な恰好良さがある。強欲な人間が大金を手にするのか、、、と思ったところで、最後は静かな幕切れである。

 聞き終えた後の何とも言えない胸のザワザワ感。熊や侍や女について、それまでのことがあまり深く描写されていないからこそ、謎が多く残る一席である。サゲは演者によって異なるようで、文菊師匠の型は三三師匠から受け継いでいるのだろうか。

 Youtubeで違法に上がっている動画が霞むほどの名演。やはり完全にネクストレベル、ネクストステージへと昇りつつある文菊師匠。ますます凄まじくなっていく文菊師匠は、見逃し厳禁です。

 

 総括 温度差が凄い大冒険

 炬燵から地球の核、そして最後は氷風に身を引き締められる。私がブリだったら氷水で締められて美味しいだろうな、と思うほどに温度差が物凄い会だった。

 市童さんの大進化と、小助六師匠の軽やかでさらりとした温かさから、喜び爆発で灼熱の鯉栄先生、そして強烈な氷風とともに笑いを起こして去っていく白銀の文菊師匠まで、とんでもない会だったなと改めて思った。

 これからも鯉栄先生にはたくさんご出演されて欲しいし、文菊師匠は物凄い勢いで名人に達しようとしているし、もうね、凄まじすぎて言葉が追い付かない。

 まだまだシブラク。凄まじい。

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目標を据えた一席~はなし亭 1月28日~

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われわれが表向き装っているものこそ、

われわれの実態にほかならない。だから、

われわれはなにのふりをするか、

あらかじめ慎重に考えなくてはならない

             —————Kurt Vonnegut Jr.『Mother Night』

  大いなる夜-Great Night-

 一歩一歩と足を踏み出すにつれて、夜はその色を濃く深くしていく。建ち並ぶビルの小窓から零れる白熱灯は揺らめきもせず、差すように無機質な光で夜の闇に抗っていた。

 本所地域プラザBIG SHIPへと辿り着く前のサミットストアでは、買い物カゴを抱えたご婦人が買い物をしていた。随分と賑やかである。その中にいる私は、この賑やかさとは別の、静かな熱狂がこの後にあるのだと思い、興奮していた。

 古今亭菊之丞師匠、古今亭文菊師匠、柳亭こみち師匠。この三人がネタ卸しをする会、はなし亭。昨年の11月6日から僅か2ヶ月と少しでの開催である。ネタ出しがされているため、今回はかなり楽しみだった。

 BIG SHIPの中に入りエレベータに乗り込むと、老齢な紳士が後から遅れて乗り込んできた。私は既に階数のボタンを押していたので、慌てて開くボタンを押した。紳士はか細い声で「ああ、すいませんねぇ」と言って乗り込み、点滅した階数のボタンを見て、「あっ、一緒ですね」と言った後に「文菊さんですか?」と尋ねられた。

 私は察しが良いので、自分のことを文菊師匠と間違われているとは思わなかった(もし紳士が間違えたのだとしたら、嬉しいが)。当然、言外に「あなたのお目当ては?」と聞かれているのだと察し、「はいっ」と答えた。すると、紳士は嬉しそうに笑って「そうですか。あなた、随分お若いんですねぇ」と聞かれたので、「どうも」と会釈して返した。ここはおかしい。私は60代で薄毛肥満眼鏡の『心の声が口から出る系』親父である筈なのだが、紳士はどうやら見間違えた様子である。

 エレベータが開くと、カウンターには菊之丞師匠と文菊師匠。しっとりと穏やかな菊之丞師匠と、なぜか2cmくらい浮いてる!?と思うほどに浮遊感のある表情と佇まいの文菊師匠。入場料1000円を払って、ん?えっ、金額?入場料って、入場料って

 

1000円!?

 

 恐らく初めて来た人は間違いなく驚くに違いない。真打三人のネタ卸しの芸が見れて1000円である。めちゃくちゃ申し訳ない気持ちになりながらも、文菊師匠に1000円を渡し(あ、1000円受け取ってもらっちゃった。きゃっ)と思いつつ、菊之丞師匠からパンフレットを頂き入場。

 会場の様子はさすがの常連集団はもちろんのこと、ほぼ固定メンツと言った感じの、落語の髄の髄まで知り尽くし、かつ時間に余裕のある年配の紳士淑女がご列席という雰囲気である。一体これだけ大勢のお客様は、どこからやってくるのだろうと不思議で仕方がない。私は毎日どこでもドアを使っているのだが(大嘘)

 さて、初っ端から大ネタが続く今回。開口一番はこの方。

 

 柳亭こみち『おせつ徳三郎』

 前回、見事な『富久』でトリを飾ったこみち師匠。明るく小気味の良い軽やかな口調と、溌溂として芯のある素敵な声をお持ちの落語家さんである。

 この話を簡単に言うと『恋に落ちた男女の心中未遂』という内容である。冒頭は、徳三郎という男とおせつという女が恋仲にあるという話を、近くにいた奉公人の定吉から旦那が聴く場面がある。この時の定吉がとても可愛らしかった。あまり話しちゃいけないことだとわかりつつ、給金アップに目が眩んでぽろぽろと徳三郎とおせつの話をしてしまう定吉の表情と声が可愛らしい。この後にまさか暗い話になっていくとは思えないほど明るくコミカルな雰囲気である。

 中盤で、おせつのところに婿が来ることを知ってから、徳三郎が刀屋へ行くことになる。調べたところ、どうやら前半は『花見小僧』、後半は『刀屋』と演目が分かれているらしく、二つ合わせて『おせつ徳三郎』であるようだ。

 徳三郎の真っすぐな恋心が気持ちが良い。刀屋に入るなり「刀をください!人が斬れる刀を!」みたいなことを言う場面があるのだが、愛する人と夫婦になれないのなら、愛する人を殺して自分も死ぬという気持ちの強さが心に突き刺さる。本当に人を好きになったり、愛してしまうと、飯が喉を通らなくなってやせ細ったり、歯が抜けて噛むことが出来なかったり、何をしても脳裏に愛する人の姿が浮かんでしまって、何も手に付かないという状況になってしまうほどに、人を愛したことがある人にしか分からない感覚かも知れない。私も含め、現代の人がどれほどの感覚を持っているのかは分からないので一概に言うことは出来ないが、徳三郎のおせつを思う気持ちは、純粋で力強いものだと私は思った。

 そんな徳三郎を優しく諭す刀屋の旦那の姿が良かった。こみち師匠は声のトーンを落としつつ、真っすぐな徳三郎の思いを受け止める。少し調子に乗って『どかんぼこん』まで教えてしまう辺りの茶目っ気が面白おかしくも、全体の雰囲気はシリアスでありながら温かい。

 『どかんぼこん』を教わって、刀屋を飛び出していく徳三郎。その後の展開は敢えて書かないが、こみち師匠らしい温かいオチが待っている。

 全体的に暗くなりがちな話だと思われたが、前半の可愛らしい定吉から、刀屋の旦那の茶目っ気、徳三郎の真っすぐさ、おせつの真っすぐさまで、男女の恋愛における不思議に美しい雰囲気を、こみち師匠の語りと声が作り出していたように思う。

 かなりの大熱演で50分くらいだっただろうか。富久に続き、大ネタを卸すこみち師匠の逞しい心意気に感動しつつ、お次はこの方。

 

 古今亭文菊『百年目』

 いつもの中腰態勢から座布団に着座し、語り始める文菊師匠。自分でもどれだけの時間になるか分からないと言いつつ、丁寧な番頭や旦那のマクラを話始めた。こちらとしては24時間喋りっぱなしでも良いと思うのだが、『百年目』のような大ネタは初めてである。

 この話を語る前に、少し余談を。

 この記事の冒頭にカート・ヴォネガット・ジュニアの言葉を引用した。

 私の好きな言葉である。人が生活をする上で、自分が何かを装っているという気持ちになることがある。社会の中で自分は他人からどう見られているか、という部分は自分という存在を他者に示す上で、とても重要な戦略になってくるものだ。表面に出てくるものが実態にほかならないのだとすれば、何を隠し、何を隠さないか、という部分が自分を形作っていくのではないだろうか。というのも、非常に頑固で真面目だと思われていた人間が、実はかなりの遊び人であったりすることもある。反対に、かなりの遊び人だと思われていた人間が、ひとたび仕事に取り掛かると、無類の真面目さを発揮することがある。

 一人の人間の中に相反すると思われる行動や感情が備わっているのだという事実を、ヴォネガットは冒頭の言葉で捉えているのでは無いかと私は思うのだ。

 Twitterでは、人間そのものよりも『言葉そのもの』に注目が集められているように思う。その人がどんな人物で、どんな性格で、どんな声をしているかという情報は遮断され、『言葉』だけがクローズアップされる。まるで、湖に落ちた一滴の雫の如く、その雫がどこからやってきたかは分からず、誰が落としたかも分からないことと同じように。

 孔子の言葉に、こんなものがある。

水清ければ魚棲まず、人潔白なれば仲間無し

  透き通るような川を眺めていると、美しいと感じる。それは、自分の心にある濁りを認め、清き水に対して憧れを抱くからだろうか。

 人間はだれしも、清く正しく生きたいと思いながら、清く正しく生きられないというもどかしさを抱えながら生きているのではないだろうか。さらに言えば、そのもどかしさが強ければ強いほど、自分を責め、自分に呆れ、嫌気がさして悩んでしまうのではないだろうか。だから、自分が思う清き人から「君のそれは間違っているよ。全然駄目だよ」と言われた時に、絶望し、自らの命を自ら絶ってしまう人もいるのではないだろうか。

 これは想像することしか出来ないし、安易に言葉をかけることは出来ない。それでも、生きていた方が良いと私は思う。世の中には一見真面目に見えるが、見えないところで大いに遊んでいる人達がいる。人間とは本来、自分勝手で我儘でありながら、やるべきことはきっちりとやる存在なのだと思う。

 もう一つ、ロバート・ウェストールの名作『禁じられた約束』の中に、こんな言葉がある。

きみは、このひどい世の中をわたっていくには気立てがよすぎる

 とある方のご意見から、興味を持って読んでみた。やはり運命というものはあるようで、私が『百年目』を聴いたことによって抱いた思いの手助けをするかのように、あらゆるものが私の元に集まってくるのだな、と思った一冊、そして言葉である。

 気立てがいい、すなわち心の持ち方である。ひどい世の中を渡っていくには、心の持ち方が良過ぎると生き難い。これはかなりの名著なので、是非読むことをオススメする。

 以上のことを踏まえて、『百年目』について語ろうと思う。この物語は簡単に言えば『普段は真面目な男が大恥を晒して悶え苦しむが、最期には救われる』という内容である。

 『百年目』の主人公で番頭の次兵衛は『真面目で主人から厚い信頼を受ける男』である。冒頭は小言マシーンの如く、奉公人に対して細かく小言を発する。小言を発する文菊師匠の声とリズムが気持ち良くて、「あっ、私も小言を言われて叱責されたい」という無駄な願望を抱きつつも、立派な番頭であるということが分かる。

 番頭が店を出て幇間の一八と出会う場面から、着替えをして屋形船に乗り込むまでの場面は、真面目な番頭から生粋の遊び人へと変貌を遂げる次兵衛の、人間らしい姿が鮮やかに描かれていた。先に引用したヴォネガットの言葉のように、表向き(店)では真面目な男を装いながら、一度店(表向き)から離れると屋形船でベロベロに酔っぱらう遊び人となる。この人間らしさが実に面白い。そうそう、人間ってそうだよね。という気持ちになるのだ。

 次兵衛が屋形船に乗りながらも、人に見られないように窓を閉めて外面を気にするところなど、実社会においても十分に起こりうるというか、今まさに起こっている風景があった。仕事とプライベートにきっちり線を引いている感じも、次兵衛にかなり共感してしまう部分である。

 この辺りの変貌前、変貌後の文菊師匠の変わりっぷりも面白いし、状況的にも奉公人だらけの変貌前から、遊女と幇間に囲まれた変貌後と、見事に『所変われば品変わる』という感じで、かなり面白いと私は思った。

 変貌前、変貌後と書いたが、どちらが本当の姿であるかということは、私は決めない性質である。一所懸命に仕事に精を出し、主人から厚い信頼を受ける次兵衛と、幇間や遊女に囲まれてベロベロに酔う次兵衛も、どちらも本当の次兵衛だ。そして、私自身にも次兵衛と共通する部分がたくさんある。会社に勤めている方には、是非とも見て頂きたい演目である。

 さて、そんな遊び人となった次兵衛は、遊んでいる先で、なんと勤め先の主人にバッタリ出くわしてしまう。狼狽のあまりパニックになった次兵衛は「お久しぶりでございます!」というようなことを言って、一気に酔いが覚めて青ざめる。主人は周りの幇間や遊女に「私の大事な番頭さんです。楽しんで遊ばせてください」みたいなことを言って足早に去って行ってしまう。

 文菊師匠の演じる主人の温かさと、一瞬で青ざめ絶望感に苛まれる番頭次兵衛の対比が実に見事で、強烈に印象に残っている。特に、主人に遊びが露見したことに慌てふためき絶望し、寝込んだり、普段やらないことを率先して行うようになる次兵衛の姿に、涙が込み上げてくる。詳しくは書かないが、私にもそういう経験があるからだ。

 布団に籠りながら、絶望に打ち震え、夜逃げか謝るかの二択で苛まれ、結局眠れない一夜を過ごす次兵衛。この次兵衛の人物描写たるや、文菊師匠は凄まじかった。何よりも次兵衛という人間を幾重にも表現しているのが凄まじい。冒頭の辣腕の次兵衛、着替えて遊びまくる次兵衛、そして主人にバレてパニックに陥る次兵衛、布団の中でもがき苦しむ次兵衛。全てがくっきりと丁寧に細部まで表現されているからこそ、次兵衛が主人と対面する場面が物凄くくっきりと、鮮明に立ち上がってくる。緻密かつ精巧な文菊師匠だからこそ浮かび上がってくる、感動のラスト場面。次兵衛の思いが込み上げてきて、私の眼からは熱い涙がとめどなく流れ始めた。

 震えながら主人の前に出てくる次兵衛。細かい説明は無いが、私の想像では頬が痩せこけ、目の下には隈ができ、虚ろな表情である。そんな次兵衛をじっと見つめながら、温かい表情、全てを受け止めた主人の表情、そして穏やかな語り口に胸を締め付けられる。

 一所懸命に番頭として働いていることを褒め、旦那という言葉の由来を説明するくだりがあり、それから帳簿を調べたこと、一つの抜けもなかったこと、自分の金であれだけの遊びが出来るのは立派だ、と、ゆっくりと、丁寧に、まるで頭を撫でて優しく褒めたたえるかのような、主人の語り口と視線、表情に涙が止まらなかった。次兵衛と同じ気持ちになって、感動に咽び泣きながら主人の言葉を聴き、その一つ一つが胸に染みた。文菊師匠の描き出す主人の姿、俯きながら主人の言葉が一つ一つ体に染み込んでいく次兵衛。どれもが静かにじんわりと輝いている気がした。叱るどころか褒め称えるという主人の懐の深さが、何よりも温かい人情を感じさせた。

 どうか終わらないで欲しいと思いながらも、最後のオチを言ってお終い。気が付けば1時間を超える大熱演だった。あまりの凄まじさに、仲入りで席を立つことが出来ず、放心状態のまま菊之丞師匠の出番がやってきた。冒頭はあまり話が入って来なくて申し訳なかった。

 仲入りの最中、私の頭の中には「すげぇ」しか浮かんでこなかった。ひたすらに「すげぇ、すげぇ」と笠を取って欲しいわけでもないのに、頭の中はその言葉でいっぱいだった。しばらくすると「次の段階に進んだんだ。これはネクストレベルへの大きな指針だ」と思うようになった。

 文菊師匠は、40歳を迎えるにあたって、大きな指針として『百年目』を選んだのではないか、と私は思った。自らの体力を大ネタを演じることに合わせに来ているという印象を受けた。これから先の10年、20年、30年に向けて、大きな基礎を作り上げようとしているのではないか。それほどに凄まじい一席であったし、とてもネタ卸しとは思えないほど仕上げられた一席だった。

 恐らく、今後は大ネタを演じるために地盤を固めて行くような気がする。いずれは真景累ヶ淵や塩原多助一代記とか、牡丹灯籠とか、長編において無類の真価を発揮していくのではないか。そう思ってしまうほどに凄まじい演目であると同時に、もはや30分ネタでは他の追随を許さないほどの段階にまで、自らを高めようとしているような、凄まじい気迫のようなものも、私は感じてしまったのである。もしかすると、それは私の願望に近いかも知れないが、初めて1時間を超すほどの大ネタを聴くことが出来て、文菊師匠の見えない決意を感じてしまったのである。

 同時に、もはや15分でも物足りないくらいに文菊師匠にどっぷり浸れる演目に接したいという欲求が生まれてきた。1時間でも2時間でも、語り続ける文菊師匠を体験したいという願望。何とも我儘な願望であるが、それほどに『百年目』を演じた文菊師匠は、今までとは明らかに違う次元に達した感じがあった。

 誰も到達したことの無い未知の領域へと進む決意と同時に、人間らしく酒を酌み交わして遊ぶことにも同じくらい全力であるというような、文菊師匠の見えない思いを勝手に感じ取ってしまった『百年目』。もしも今、見逃したら絶対後悔する。そんな次元に文菊師匠は達しようとしている気がする。あくまでも私の個人的な意見ですが、明らかにギアが変わった文菊師匠。見逃し厳禁の一席で仲入り。

 

 古今亭菊之丞『星野屋』

 大ネタ二席でガッツリ体力を奪われ、さらには文菊師匠の大熱演の長講で集中力をごっそり奪われ、感動で半永久的に震え続けるんじゃないかと、自分が音叉になったのかな?みたいなことを思いつつ、登場の菊之丞師匠。大阪では最期は案外短い話が多いと言いつつ、演目へ。

 ほぼ『おせつ徳三郎』から全員ネタの内容が被りつつも、この話は簡単に言えば『男女の心中に絡んでいざこざが起こる』という内容である。

 途中、館内放送が流れて雰囲気は台無しかつ、『おせつ徳三郎』とほぼ同じようなパターンということもあって、大変申し訳ないのだが私の集中力も途切れ、ざっくりとした印象しか無いのだが、それでも、女性のズルさとか、男の願望みたいなものが言葉から伺えた。仲入り前の文菊師匠の人情噺とあたたかさが気持ち良過ぎて、あんまり人が言い争う話を聞きたくなかったということもあって、大変申し訳ないが、うろ覚えである。

 寄席においてもそうだが、ネタのリレーというのは非常に難しいものがあって、そのセンスの良しあしは寄席に通って見分けつつ、自分なりに決めていくしかない。寄席に行って噺家の話を聞き「あ、この流れでこのネタか。センスいいな」とか、自分の価値観を決めて行くのも寄席の素晴らしさだと私は思う。この人、同じ話しかしないんだな、と思うのも寄席ならではである。

 今回は三人が好きなネタを卸すということもあって、そういったリレー的な趣向は排除されているため、観客としても鑑賞の際に難しい面もあるかも知れないが、そういうものだと割り切って望むのが良いと思う。

 館内放送に邪魔されつつ、最後は綺麗にオチ。

 

 総括 文菊師匠のネクストレベル そして大きな目標を据えた一夜

 もはや放心状態で、家に帰るまでの間に『百年目やべぇ、百年目やべぇ』と繰り返しながら家路についた。それから圓生師匠の『百年目』を聴いて、もしかしたら圓生師匠の型で文菊師匠も演じられているのかな、と想像しつつ、文菊師匠の余韻を確かめるように圓生師匠の『百年目』を繰り返し聞いた。

 私にとっても、文菊師匠の現在を知り、かつ今後の未来を感じさせる上で、非常に重要な一席になった。まだ体験されていない方には是非とも体験してほしいと思うし、恐らく20年、30年後には十八番、至高の芸になっていると思わざるを得ないほどに凄まじい一席である。とにかく凄まじい。そして、聞き終えた後に文菊師匠に対して感じる思いが色々と付加される演目である。と、ここまで書いているが、これはあくまでも私の個人的な感想及び願望が含まれているかも知れないので、真意は分かりません。

 100年先にも語り継がれるであろう、究極の一席。その誕生の一夜に立ち会うことが出来てとても幸福だった。熱い涙をぬぐったとき、晴れやかに心に訪れたぬくもりを感じながら、不思議と温かい夜を歩いた。

 一歩一歩と家へと足を踏み出す度に、『百年目』の物語の先で、次兵衛が立派な存在になっていることを思う。同時に、次兵衛も立派な存在となり、同じように番頭の働きを褒める存在になっているだろうことを思う。人の心のあたたかさは、その温度を保ちながら未来永劫続いていくのではないだろうか。そんな人と人の温かさに、じんわりと心震えながら、私は夜の闇の中へと消えて行った。

 

 余談、『百年目』の最後の辺りで、主人が『栴檀と南縁草』の話が出てくる。『子ほめ』で聞き知っていた栴檀がこの大ネタの最後に出てくるというのが、何とも感慨深い。前座噺として慣れ親しんだ栴檀が、見事に染み込んでくる素敵な法話を聴いて、落語の物語における大きな繋がりを感じた。ますます落語

 

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短歌と位相とバーネット・ニューマンと~1月24日 雑記~

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ねむらない樹

 

八月のフルート奏者

 

永遠でないほうの火 

  三十一音の位相

 日常生活は正弦波だ。山あり谷ありだけれど、一日を終えてベッドに入ると、最初の位置に戻っている。日々が進むほどに、振幅が大きくなったり、かと思えば小さくなったり、時々、ノイズが乗ったりして、波形が乱れる。

 私は自分の感情が正弦波のようだ、と感じることがある。商用電源と同じくらいの正弦波交流だと思っている。素敵な演芸に出会うと、ノイズまみれになるし、美人に出会うと振幅が大きくなるし、怖い人に出会うと振幅が小さくなる。

 短歌に出会うと、感情の正弦波の位相をずらされるような気持ちになる。まるでコンデンサか何かかも知れないと思う。コンデンサは電気を蓄えたり放出したりする部品だが、短歌は感情を蓄えたり放出させてくれると私は思う。「きっとこんな感情に違いない」とか「ああ、これはこんな気持ちなんだ」と、短歌を詠むことで感情の蓄積と放出があって、それは一種の快感に近い。コンデンサが放つ電気のように、ビリビリと力強くて痺れるものだ。

 たった三十一音なのに、世界の全てを見てしまったかのような気分になる短歌がある。私の好きな短歌を幾つか紹介しつつ、私の感情の正弦波の位相が、どのようにズラされたかを解説していこう。

 

 山階基

缶コーヒー買って飲むってことだってひとがするのを見て覚えたの

出典:「早稲田短歌」41号 2011年 山階基

 

 何気ない日常生活の、当たり前の行為を再認識することによって、今現在、自分が行っていることの全てが「他人の模倣」によって習得されたのだ、と考えさせられた短歌である。キーボードを叩いて文字を打つこと、ペンを持って文字を書くこと、自転車に乗ること、言葉を話して人と会話をすること。全てが先人の行動の上に成り立っているという『受け継がれていく感じ』がひしひしと伝わってきて、自分の遺伝子や日常生活の無意識のレベルまで他人の影響があることを認識した。同時に、亡き祖父の好きだった言葉、口癖、笑顔、行動、ありとあらゆる小さな行動の一つ一つが、自分の動作に生きているのだという喜びを感じた一首でもある。

 他にも、例えば小さな失敗をした時にも思い出したい短歌である。出来るはずだと思っていたことが出来なかったときに、こんなことも出来ないのかと自分を責めてしまうことがあっても、ふいにこの短歌を思い出すと、「もっと色んな人の工夫を知って、再度チャレンジしよう!」という気持ちになる。だから、この短歌はとても『開かれている』ような気がする。音の響きやリズムも良いし、最後の『覚えたの』という言葉の選択に、言いようの無い力強さを感じてしまうのだ。

 大丈夫、今出来ないことも、きっと出来るようになる。だって、君の覚えてきたことは、誰かがやるのを見て覚えたことなのかも知れないのだから。

 そんなメッセージを感じとってしまって、私の位相は見事にズレた。人が失敗するのを見ると、「次はこんな風にやってみたら?あの先輩はこんな風にやってたよ」と声をかけて励ましてあげたくなる。そんな素敵な短歌だ。

 

 初谷むい

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

出典:『花は泡、そこにいたって会いたいよ』 2018年

  ああ、もう超良い。と思ってしまう素敵な恋の短歌である。イルカが飛んで、イルカが落ちた後で、目の前でそれを見ていた彼氏が「ん?」と振り向くのを見る彼女の視線がある。この『何も言ってないのに』という言葉の選択が痺れる。そこに言葉は無いのだけれど、目の前の彼氏は確かに言葉を聞いたような気がして振り向く。言葉を発したのではなく、イルカが飛んで落ちただけなのに、振り向く。この二人の関係性の瑞々しさが伝わってくるというか、何とも言いようの無い感じ。

 恐らく水族館でイルカショーか何かだと思うのだが、後になって思い返しても「どうしてあの時、きみは振り向いたんだろう?」という謎を残したまま永遠に消えない記憶。言葉と言葉で繋がっていたお互いの関係性が、幻の言葉に振り向くような関係になったことを象徴するかのような、素晴らしい一瞬を切り取った短歌のように思える。

 私のように文章をだばだばと書く人間からすれば、言葉を放っていないけど、振り向くっていう、この短歌の雰囲気が、たまらなく良い。

 キーボードを叩いていると「また何かブログでも書いてるの?」と聞かれて「ううん、君との結婚式の場所を探してたの」と返すような感じと言えば、ご理解いただけるだろうか。こちらの意志とは全く予想もしなかった角度からの相手の反応というか、「何も言ってないのに、ちゃんと私のこと思ってくれるんだ」というような瞬間が、この短歌にはあるわけですよ。

 こんな恋、こんな関係性も素敵だなぁと。彼氏のその謎の反応に、ありとあらゆる意味を見出してしまいそうな、素晴らしい短歌に位相をズラされて、素敵な恋がしたくなる短歌です。

 

 北村早紀

みんな好きなら私の好きはいらんやろかき氷でつくるみずたまり

出典:「現代短歌」2016年10月号

  女子会でお互いに好きなものを言い合う風景が浮かんでくる。それぞれに好きなものを言い合っていくと、みんなが好きなものが発見される。例えば五人中四人がかき氷が好きだったとしたら、この短歌の主人公は残りの一人で、「いや、みんなかき氷好きなら、私の好きは言わなくてもいいと思うけどさ、かき氷でつくるみずたまりなんだわ」みたいな、周囲の反応を見つつ、自分の一番好きなものを発表する信念の強さを感じてしまって、微笑ましいなぁ。と思う短歌である。

 落語好きの方でも、有名な噺家さんの話題になると「柳家小三治師匠のココが!凄いの!」とか「一之輔師匠はね、この話のこのフレーズが!」みたいなこだわりの多い人がいて、それは通になればなるほどというか、好きになればなるほど、好きな部分が細かくなっていく感じがあって、それは誰にも理解されなくても良い!という強い信念があるのだと思う。

 本当に好きなものというのは、他者から全く理解されなくても全然平気なものなのだと思う。私の場合は、私が自分が好きなものを留めておきたくてブログを書いているし、こんなに素晴らしい人がいて、私はこの人にこんな素晴らしさを感じるんだ!ということを発信していきたいから記事を書いている。幸いにして、認めて頂けているのかも知れないが、自分としてはまだまだ書き足りないことの方が多い。一生かかっても語りつくせるか分からないほど、好きなものというものは、それだけ自分にとって特別なものなのだ。

 この世界に自分しか愛していないだろうな、と思うモノがたくさんあると、それはとても幸福なことだと思う。なぜなら、そのモノ自身もあなたにしか愛されていないのだから、お互いがお互いに一つしかないという特別感。そんな素敵な位相のズレを与えてくれる短歌。

 

 総括 短歌を詠むということ

 短い言葉で世界を切り取る短歌。バーネット・ニューマンの絵画に感じるような清廉さが短歌にはあると私は思っている。

 バーネット・ニューマンの絵で、1953年作の『Onment Ⅵ』というものがあるが、『Zip』と呼ばれる白線こそが短歌であるように私は思うのである。

 白線を描かれる前の青い景色は、日常生活を送る自分自身が見えている景色。短歌という白線が描かれたことによって、それまでの日常生活の見え方が変わってしまった後の絵、それが『Onment Ⅵ』だと私は思うのだ。さらに言えば、自然で言えば『滝』が一番短歌に近い気がする。

 私は語るとかなり煩い『滝マニア』で、長期休暇があると地方の滝を見に行って写真と動画を撮るほど滝が好きなのだが、滝には様々な形があって、エロスを感じさせるものから、清らかな心を感じさせるもの、生命の逞しい勢いや、龍の如き勇ましさを感じさせるものまで、もはや語りつくせぬほどに素晴らしい滝が日本に数多くある。いずれ、滝についてもじっくり語りたいと思うのだが、そんな滝のように、心という名の山から染み出してきた、美しい水の如き言葉。滝に打たれて体が清められるように、短歌を詠むと心が清められる気がする。

 短歌を詠むということは、自分の感情の位相がズレるとともに、よりクリアに世界が見えてくることなのだと思う。出来ることならば、短歌について熱く語り合う会があっても良いのではないかと思う。でも、バーネット・ニューマンと絡めて語るのは私くらいかも知れないが。

 それでは、本日は短歌のお話でございました。演芸好きなら短歌は気に入って頂けると思うし、より短歌の世界に親しみやすい下地が出来ているのではないかと思います。

 

 

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