落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

死ぬこたぁねぇやな~2019年11月11日 新宿末廣亭 夜の部~

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余談ですけど

 

今日はちゃんとやります

 

江戸会話教室

 

生きろ! 

 One Too Many

 『会いたいか、会いたくないか、それが距離を決めるのよ』と書いたのは森博嗣先生で、私はずっとこの言葉に従って生きている。

 今日はあの人に会いたい。今日はあの人の噺が聴きたい。気づけば走り出している。気づけば私は、私の足で、私の意志で、会いたい人に会いに行っている。それの何が悪いの?会いたい人に会って、ああ、素敵だなって思って、その気持ちを言葉にすることの何がいけないっていうの?全然、いけないことなんかじゃない。私には会いたい人の素敵な部分しか見えないから、素敵な部分を書きたいだけ。

 誰かは言う。「あいつは良いことしか言わない。それはどうかと思う。面白く無い」って。で?って私は思う。だから何?って。私は私が会った人が、全員、素敵じゃなきゃ気が済まない。素敵じゃない人に会っている自分を許せる自分がいない。だから、会いたいときに会う人は、いつだって100%以上に素敵で、最高で、輝いている。

 一つだけ忠告しておくよ。私と出会った人は全員、素晴らしいと私は思っている。どこの誰だか知らないけれど、「いやいや、君の褒めたその人には、こんなに駄目な点があるよ」なんて言葉に、耳を傾ける気はさらさらない。その人にしか無い輝きがあると思っているから。少なくとも私は、私と出会った人の良い点ならすぐにでも言える。すぐにでも書ける。それが良いとか悪いとかなんて、私には関係ない。私は私が出会った人全員を、地球上最も優れた才能を持つ存在だって言いたいの。その人自身も気が付かない良い点を、それこそ掘削機よりも、惑星探査機よりも、AIよりもGoogleよりも先に発見して、私なりに表現したいの。

 私が会いたい人には、生きててほしいの。呼吸しててほしいの。心臓バクバクさせていてほしいの。私が会ったときに、「ああ、やっぱりあなたは最高ね」って、「あなた、誰よりも最高よ」って言いたいの。それをどこの誰とも知らないやつに「ふん、褒めてばっかでつまんない」なんてさ。私の何が悪いんじゃい、私のどこに悪いところがあるんじゃい。「お前は盲目だ」なんて言葉、私には知ったこっちゃ無いの。

 私が言いたいのは、たった一つ。

 

 あなたは

 

 輝いているの!!!!!

 

 そんなことを思った。菊之丞師匠の『文七元結』に。

 

 古今亭菊之丞 文七元結

 黒紋付きに、びしっと整えられた髪。艶やかで品のある姿。少数精鋭の客席に向かって、静かに語り始めたのは、一人の左官の博打打ち、長兵衛の姿。

 しっかりとした腕があるのに、生まれ持っての欲のせいか、博打にのめり込む長兵衛。家に帰ってくれば娘が吉原に身を売ったと聞き、女房の服を無理やり剥がして吉原へ。

 なんて乱暴な男なんだろう。強欲で我儘で、自己中で無責任。菊之丞師匠の簡素な語りの中で、長兵衛は自分の欲を隠して体裁を取り繕うとする。事の重大さに気づかずに、その場しのぎに見栄を張って、嘘をついて、自分さえも誤魔化そうとする男。でもね、私にも覚えがあるよ。そういう思いを抱いたことがあるよ。傷つくのが怖くて、嘘をついて誤魔化して、他人も自分も誤魔化して逃げたことが何度もあるよ。その度に自分の小ささを知って立ち上がってきた。だから、博打に溺れても「おれは博打はしてねぇ」と言い張る長兵衛に、自分が重なって見える。

 長兵衛は、吉原の女将に叱責される。菊之丞師匠の描き出す女将さんの、優しくもありながら厳しくもある姿に、涙が零れそうになる。「あたしは鬼になりますよ」みたいなことを言う女将さんの、目、声、表情。菊之丞師匠の姿がふっと消えて、そこには佐野槌の女将としての誇りと責任を背負ってきた女の姿が立ち上がった。

 自ら身を売った娘『おはな』の姿と声が、キリキリと胸を締上げるほどに辛い。博打にのめり込んだ長兵衛が改心する様子が、痛いほど胸に迫ってくる。自分の子供という、一番大切な存在に気がつき、50両という金を手にして去っていく長兵衛。静かに、簡素に、物語の雰囲気を寄席の静かな雰囲気に合わせていく菊之丞師匠。本当に驚愕だったのは、菊之丞師匠の姿が消えて、登場人物の姿だけが見えてくることだった。

 浅ましい長兵衛の表情。長兵衛に呆れる女房の表情、夫妻のところにやってくる佐野槌の使いの表情、佐野槌の女将の表情、長兵衛夫妻の娘おはなの表情。全てが菊之丞師匠の語りによって、鮮明に浮き上がってきた。語りを耳にしているだけで、高座に座している菊之丞師匠とは別の、どこか言葉に出来ない空間で、映像が映し出されている感覚。凄まじいまでの情景描写力。これが、菊之丞師匠のトリの凄味なのかと、客席で震えた。

 やがて、吾妻橋で身投げする若い男に出会う長兵衛。身投げをしようとした若い男は文七だった。文七のなよなよっとした弱さと、若さゆえの身勝手さを描き出す菊之丞師匠の表情と声が凄かった。本物の文七を見た。弱くて、真面目で、自分の命を簡単に捨ててしまうような不安定さ。自暴自棄になって、全てのことに絶望した様子の文七が、菊之丞師匠の語りの中で生きて鼓動をしていた。50両を手にし、娘のために一所懸命に働こうと決意した長兵衛が出会い、50両を投げつける場面は、可笑しくもありながら、目からは涙が零れた。50両の金を受け取った文七の表情が忘れられない。はっとするほど真に迫ったというか、もはや文七としか言いようの無い姿に、ただただ脳内に移る映像に鳥肌が立った。

 長兵衛が文七に語り掛ける言葉のどれもが、温かくて、おかしいけれど、涙が止まらなかった。本当はやりたくねぇ!と言う長兵衛が、それでも目の前の文七に死なれたくないと思って投げつけた50両。人の命に値段は無い。長兵衛の心意気が、何よりも温かかった。思えば、私も色んな人に「生きろ!死ぬことはねぇぞ!」と言われて、生きてきたような気がする。

 今は思うよ。

 

 死ななくてよかった。

 

 それから、文七が再び長兵衛の元に訪れる場面。そして、おはなと再会する場面。いよいよ年末が来るんだなぁと思って、目から零れる涙を拭いて、寄席を出た。

 

 わからないことも、辛いことも

 なんだかよくないことも、

 なんだかよいことも、

 いろんなことがごちゃ混ぜになって、悔しい思いとか、馬鹿だな私って思う日も、

 そりゃ、生きているから、

 いっぱいあるんだけどさ。

 菊之丞師匠が『文七元結』で言ったみたいに、

 死ぬこたぁねぇやな。

 生きようよ。

 生きよう。

 この世界は、

 死ぬには幸福に満ち溢れていて、

 生きるには幸福に満ち溢れている。

 どっちにしたって、

 幸福な世界だ。

 冒頭にも書いたけど、この記事を読んでいるあなた。きっと、私に会ったことのある人も無い人もいるだろうけど。

 少なくとも、この記事を読んでくれたあなたに、

 私は言いたい。

 

 生きろ!!!

 

 死ぬこたぁねぇやな!!!

 

 あなたに素敵な出会いがありますように。

 あなたが毎日を笑って過ごせますように。

 そんなことを祈って、

 この記事を終わる。

 では、また。いずれどこかで。

いつまでも少年のままで~2019年11月10日 渋谷らくご 17時回~

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毎日を生きよ。

あなたの人生が始まった時のように。 ゲーテ

 将棋

 渋谷らくごの行われるユーロスペースへと続く道を歩いていると、『将棋の最善手』を選んでいる感覚に近いものを感じた。

 坂を下ると、色んな姿の若者達が群れている。クラブがあったり、ライブハウスがあったり、欲望のビルがあったり、匂いのキツイ店があったり。そういう、色んな選択肢を省いて、最善の一手が『ユーロスペース』なんじゃないだろうか。僕が選択せずに候補にもあげなかった選択肢が、あちこちにある。でも、僕が選んだ一手は間違いなく、僕にとって『最善手』であるような気がしたのだ。

 どうして急にそう思ったかは分からない。それでも、渋谷らくごへと続く道を歩いていると、僕は羽生善治先生のような心持ちになって、最善手を選んだ気持ちになるのだった。

 

 神田鯉栄 寛永宮本武蔵伝~狼退治~

 鯉栄先生の高座は、アドレナリンが放出するんじゃないかと思うほど、力強くて熱くて、とてもキュートだ。語りの緩急はまるでランボルギーニのように加速するし、軽やかな狼の所作が可愛らしい。

 オオカミ同士の会話の場面も、客席を巻き込んで大盛り上がり。演者と観客が渾然一体となって一つの噺にのめり込んでいく。

 初めて一緒にいった友達は、「犬の場面が可愛かった」と言っていた。飼い犬の鳴き声を演目に入れ、グッと親しみやすい高座を作り上げる鯉栄先生。

 思わず犬の遠吠えを真似してみたくなる。

 

 入船亭扇里 三井の大黒

 高座はお初の扇里師匠。マクラ少なに甚五郎ものの演目へ。友達は「言葉がわからなくて、途中、良く分からないところもあったけど、後から聞くと、ああ!そういうことか!ってわかった」と言っていた。

 簡素でさっぱりとした語りの中に、骨太の芯を感じる語り口。派手さは無いが名工が彫刻で丹念に彫り上げるかのような語り口。色は無く、語りの強弱もさほど大きくはないが、耳馴染みが良くて、まるで精進料理のような一席。日頃、味の濃い一席を聞いているせいか、ふいに飾り気のない語りを聞くと、心が整う気持ちになる。

 まだ一席しか聞いたことは無いが、物語の筋の魅力を邪魔しない語り口。実に見事な一席だった。

 

 古今亭駒治 車内販売の女

 鉄道を知らなくても楽しめる鉄道落語をされる駒治師匠。知っていたら面白さは何十倍にも跳ね上がる鉄道落語。あらゆる面白さを秘めた、落語と鉄道の世界へと誘う魅力的な話をする噺家さんである。

 落語初体験の友達は「三番目の人が一番面白かった。こんな落語もあるんだね!」と言っていて、新作落語は初心者の方にも好評のようだ。

 僕も『車内販売の女』を聞いたのは初めてで、なんと言っても、最後のポーズ。最後のポーズがめちゃくちゃカッコイイ。思わず「うわ、あのポーズやりたい・・・」と思ってしまうほど、オチと同時のポーズがカッコ良かった。

 駒治師匠の語りのリズムは唯一無二の機関車リズムで、豪快に動く口と上半身が凄い。笑える話かと思いきや、どことなく泣ける部分もあって、「これ、もはやスター・ウォーズやん・・・」と思ってしまうほど、実に見事な一席だった。

 ダークサイドに落ちたマキさんを救おうとする、ジェダイの騎士、タカコ(?)の姿が印象深かった。ありえない肉体改造をするマキの執念にびっくり。

 

 入船亭扇遊 夢の酒

 実はほろ酔い気分で落語を聞いていた僕は、丁度駒治さん辺りで目が覚めてきて、トリの扇遊師匠で開眼して聴いた。

 初めての落語体験をした友達は「凄い新鮮で面白かった」と言っていた。

 この度紫綬褒章を受章したというおめでたいニュースもあった扇遊師匠。賞をとっても相変わらず最高の笑顔と語り口。これぞ、ベテラン世代の語り口とも呼ぶべき圧巻の語り。特に女将さんの声の高低差が素晴らしい。リアルで笑ってしまう。

 お酒好きの登場人物を出したら天下一品。極上の語り口に、ただただ笑うしかない。

 

 総括 酔った少年

 シブラク前にたらふく食べて、たらふく飲んでしまったせいか、あまり記憶が無い記事になった。でも、最高だったという感覚だけはあるので、それで良しである。初めて行った友達も満足してくれたので、文句は無い。

 他に言いたいこともたくさんあった気もするのだが、それはまた、別の機会に語ることにしよう。とにかく、駒治さんがめっちゃカッコ良かった。

 

生きて生きて~2019年11月9日 古今亭文菊独演会 なかの芸能小劇場~

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はて、「てんしき」とな?

 

忘れてきちゃった

 

いっそ殺してくれよ

  七つの穴

 中国の神話に不思議な話がある。宇宙の始めのまだ形の無い混沌に通ずる名を持つ渾沌に、形を与えようとしたがために渾沌が死んだというお話である。

 南海の帝『儵(しゅく)』と北海の帝『忽(こつ)』は、中央の帝『渾沌(こんとん)』の領地へ赴き、手厚いもてなしを受けた。渾沌の恩に報いようと、儵と忽は話し合い、「どんな人間にも七つの穴がある。見たり、聞いたり、食べたり、呼吸をしたりする穴だが、渾沌にはそれが無い。ならば我々で与えてやろう」と決め、毎日一つずつ穴を開け、七日かけて渾沌に七つの穴を拵えた。ところが、七つの穴が開くと渾沌は死んでしまったのだった。

 以来、形の無い渾沌は犬のような姿をしており、内臓が無く、見ることも聞くことも出来ない怪物となった。という話が『荘子』には記されている。

 人間の顔には七つの穴がある。目、鼻、口、耳。それぞれ視覚、嗅覚、味覚、聴覚が与えられている。先の中国神話を読むと、渾沌は七つの穴が開いたことによって死ぬが、人は生まれながらに七つの穴が開いているが死ぬことはない。当然のように『生まれながらに七つの穴が開いている』と書いたが、世の中には『七つの穴が開いていない人々』も存在している。

 感覚器官が備わっているがゆえに、人は様々な『混沌』に巻き込まれやすい。目にも耳にも捉えることのできない『混沌』に通じる穴を、人間は生まれながらに有している。口は災いの元、目は口程に物を言う、地獄耳、阿鼻叫喚などの言葉にもあるように、なまじ感覚を有しているが故に、苦労するということは常々である。

 考えてみれば、日本の伝統的な正月の遊びとして『福笑い』がある。目隠しした人間が感覚だけを頼りに、人の顔のパーツを思い思いに配置して形作る遊びである。今でも盛んに行われているかは分からないが、よく器量の悪い人を「失敗した福笑いみたいな面だ」と言って揶揄することもあった。人の顔を使って遊ぶおおらかさは、今の時代では些か奇妙なものとして映るだろうか。大学時代に海外の学生を招いて『福笑い』をやったことがあり、私は間抜け役で無様な『福笑い』を作り上げたが、作り上げる過程で大声を出して笑う海外の学生たちの声を聞いたとき、なんともいえない気持ちになったことを覚えている。

 人の容姿に関する作品で言えば、オスカー・ワイルド萩尾望都先生、つげ義春先生から水木しげるまで、様々な作品で言及されているが、それをいちいち記していてはキリが無い。これはまた別の機会に申し上げるとして、今朝は、『人に備わる感覚』について、ぼんやり思いを馳せた。

 落語という世界にあって、三遊亭圓朝という人が盲目の弟子の話を聞き、作り上げたという一席を聞いて、大きな脱力感と壮大なぼんやりの冒険に出ることになった私の思いを、記していくことにしよう。

 

 古今亭菊一 転失気

 開口一番は古今亭菊太楼師匠門下の菊一さん。ハーフのような甘いマスクと、やわらかい声のトーンが魅力的な噺家さんである。菊太楼師匠譲りの上半身のピョコピョコ感に、「ああー、菊太楼師匠のお弟子さんらしいなー」と感じる。客席も温かく、菊一さんの語りのリズムも調子が良い。

 これはのちに判明したことであるが、どうやらご親族の方も会場にいらしていた様子。子の成長というのは、いつ見ても嬉しいものであることに間違いはない。

 これから落語の世界でどんな風に魅力を備えて行くのか、とても楽しみである。

 

 古今亭文菊 出来心

 昨夜のシブラク『お直し』の興奮冷めやらぬまま、登場の文菊師匠。かくっと膝を落とし、若干右斜めの態勢から座布団へと着座する姿はいつ見ても美しい。

 マクラでは菊一さんに触れ、ご親族の厚い愛も放たれ、つるつるに幸福で満ちた会場で泥棒のお話。

 この話は簡単に言えば『新米泥棒のズッコケ奮闘記』というような話で、泥棒に成り立ての男が、親分に色々なことを教わるのだが、どうにも上手くいかないお話である。

 文菊師匠の描く新米泥棒は、無類の愛嬌がある。可愛くてたまらない。ついつい盗みに入りやすそうな家を教えたくなってしまうくらいだ。

 泥棒になったばかりで、右も左も分からない男は、親分の家の隣の家に入ったり、玄関先で中の様子を伺おうと声を出したら、返事をされて驚いて逃げたり、家の前で留守番をしている人に「留守になったら来ますねー」と訳の分からないことを口走る。

 新米泥棒に心惹かれるのは、私にも同じような思いがあるからだ。もちろん、泥棒をしたというわけではないが、社会に出て右も左も分からず、上司の助言を受けても的外れな行動をして、後々になって考えてみれば「なんであんなことしちゃったんだろう」というような、間抜けな失敗を繰り返したことが私にはあった。だから、新米泥棒は昔の自分を見ているようで微笑ましいのだ。もちろん、新米泥棒ほど間抜けではないと思っているが。

 後世に名を残す立派な人物も、始まりは失敗ばかり。こんな人が出世するのか?と思う人が思わぬ出世をしたりする。人間、いつどこでどうなるかなんてことは誰にもわからない。『出来心』の新米泥棒には、在りし日の自分と重ね合わせてしまう部分が多い。

 どんな失敗こそすれ、生きていればきっと誰かが見ていてくれる。最後に新米泥棒はドジをするけど、そんな小さなドジでさえ愛おしくて笑ってしまうのは、何よりも自分がそこに表現されているように思うからであろう。

 会場も爆笑に包まれて、微笑ましい空気で満ち満ちた。ぼんやりと閉まった幕を見つめながら、私は緩んだ頬の柔らかさを手で確かめた。餅のように柔らかくて、餡でも買って饅頭でも作ろうかと思った。(ジョーク)

 仲入りで、12月のスケジュールを確認。12月29日は休日である。圓菊一門会の演者と演目を見ると、なんと文菊師匠が昼トリで『お見立て』、菊之丞師匠が夜の仲トリで『抜け雀』とある。

 

 ぬ、ぬ、ぬ、抜け雀!!??

 

 驚きながら、これは見るしかあるまいと、チケットを購入。なんと、担当の欄には文菊師匠の手書きで『文菊』とある。これは嬉しい。まだ一ヶ月以上も先であるが、楽しみでならない。

 ほくほくのお芋気分で席に戻り、開演を待った。

 

 古今亭文菊 心眼

 マクラを聞いただけで、「あっ!!!心眼だ!!!」と心が高鳴る。たっぷり四十分の『心眼』は、シブラクで聴いて以来であった。

 毎度、文菊師匠の所作には感嘆のため息を漏らしてしまう。特に、賽銭箱にお金を落とした後に、左耳できちんと小銭が落ちたかを確かめる所作。物凄く細かいので見過ごしがちなのだが、この所作だけで、いかに文菊師匠が目の不自由な人を観察しているかが分かる。

 この話は簡単に言えば『盲人の見る映像』のお話である。楽しみを奪わないために、敢えて『映像』とだけ記す。

 品川で実の弟である金に出会った後、家に帰ってきた按摩の盲人『梅喜(ばいき)』。帰宅した旦那に声をかける妻のおたけ。文菊師匠が鮮やかに描くのは、冒頭の二人の会話と表情である。痺れるほど見事なのだが、悔しさを抑え込みながらも、ふつふつと込み上げてくる怒りに耐え切れず、声を荒げる梅喜の姿。そして、旦那である梅喜の、妻以外の他人には分からない心の機微に、姿を見ただけで勘づくおたけの姿。言葉少なに表情で互いの心情を映し出す文菊師匠の、凄まじいまでの緻密さに声も出ない。

 私はおたけの心配りに目を開かされる思いである。梅喜に優しく声をかけながら、本心を語らせ、勇気づける言葉をかけるおたけ。言葉は人を作る。おたけの一言一言が、いかに梅喜を思い、梅喜の生活を支えているかと言うことが、詳細に語らずとも理解できるところに、文菊師匠の語りの素晴らしさが表れている。

 酔っぱらって眠りについた梅喜。お薬師さまへ日参をして、なんとか目が開かないかと拝み続ける梅喜。それを支える女房のおたけ。ようやく満願の日。梅喜は賽銭箱にいつものように銭を入れ、お薬師さまに願う。

 与えたら、与えた分だけの見返りを求めてしまうのも人の業か。満願を迎えても、自分の願いが満たされずに憤る梅喜の姿には、言いようの無い苦しさを覚える。憤慨し、自暴自棄になり、ヤケクソで、何もかもがゼロになってしまう気持ち。私にもある。毎度、書いても『どがちゃが』に載らないレビューとか。他にも天満宮に『受験に合格しますように』と祈っても不合格だったり、手書きの恋文で告白をしても相手にされなかったり、宝くじを大量に購入しても一つも当たらなかったり。世の中は常に『願ったり、叶ったり、叶わなかったり』の連続。

 もちろん、梅喜は自分のためだけに祈っているのではない。自分を支えてくれるおたけの思いを背負って祈っている。おたけの言葉を語る梅喜の姿に、私はどうしても涙を抑えられない。「着ている着物の縞の柄」に関する言葉を聞くと、一所懸命に梅喜を支えるおたけの笑顔が浮かび、それに頷く梅喜の姿が浮かび、胸を締め付けられて泣いてしまう。

 心のどこかで、目が見える日が来ないのではないか、という葛藤を抱えていたのではないか、と思ってしまうほど、梅喜の表情は怒りに溢れていた。声を荒げ、命も惜しくないと語る梅喜の姿が切ない。きっと、おたけに迷惑をかけたくないのだろうなぁ、とか、おたけの支えが嬉しくもあり、辛くもあるのかなとか、色んな思いが駆け巡って、それでもおたけの笑顔と温かい表情が脳裏を掠めて、ただただ目から熱い雫が零れた。

 上総屋の旦那とぶつかり、目が開いたことに気づく梅喜。ここからの梅喜の変わりようが実に見事で、つくづく物語の作者である圓朝師匠の驚愕の創作能力に痺れる。目が見えた途端、一気に開花していく梅喜の喜びように、見ている私も喜んでしまうのだが、次第に梅喜の心が、おたけを蔑ろにしていくのを見るのが、なんとも言えない、胸の辺りに靄のかかったような思いになる。

 最後に、おたけが梅喜にかける言葉と、その後に様々な思いをかき混ぜられたかのような表情をする梅喜の顔が忘れられない。冒頭に記した『混沌』が、梅喜の表情を様々に変化させているように思えたのだ。文菊師匠は、一体どんな思いで、梅喜の表情を表現しているんだろう。物凄く聴きたいけど、聴いたら野暮なところだから聞かない。

 徹頭徹尾、圧巻の一席である。数ある文菊師匠の至宝の一席において、『心眼』は随一の素晴らしさを誇ると思っている。もしも文菊師匠に出会ったら、一生に一度は見ておかなければ後悔する一席と言える。それほどに、圧倒的で、緻密で、微に入り細を穿つ見事な一席だ。

 先月に続き、朝から泣かされる一席である。先月とは異なる涙が、私の頬を伝った。正直に申し上げると、「おたけみたいな女房、どこにおんねん・・・」と思ってしまうほど、絶品の心配りを持った女性が登場するので、人は見た目が9割だと思っている人には、是非、見て欲しい演目である。見た目の美しさは心の美しさに比例するとだけ、言っておこう。幸い、私の見た目がどうかは分からないが、私の周りには眉目秀麗な美人が多いので、類は友を呼ぶのかもしれませんね(まとめ台無し)

 

 総括 生きて生きて

 冒頭の『七つの穴』ではないが、生きている限り、穴が開いているが故に苦労することは多い。目が見えるばっかりに「あいつは美人で、あいつはブサイクだ」などと判断出来たり、口があるがゆえに罵倒したり批判したりする。耳があるがゆえに「あいつの声は汚い」とか言ったり、鼻があるがゆえに「こいつ、臭いな・・・」と思ったりする。だが、そうした感覚器官が備わっているがゆえに、多くの危険から避けられたり、喜びを感じられることも多い。

 永井龍男先生の随筆集『カレンダーの余白』には、『味覚の無い人』に言及した個所がある。是非、どこかで見かけたら読んで欲しいのだが、永井先生は、『味覚の無い人』に会って話を聞きたいと記している。

 食べ物の味を感じることが出来ない人は、一体何を幸福として生きているのだろうか。想像が付かない。何を食べても味がしないということの絶望感は果てしないのではないか。私は断食をしたことがあるが、物を食べられないというのはとてつもない悲しみだった。およそ人生における喜びの大部分を失われたような思いだった。

 何かを失うことは、それだけの絶望を伴う。だが、考えてみれば、感覚が与えられていることは、当たり前ではないのだ。世の中には目の見えない人もいれば、味覚の無い人もいる。大切なことは、決してそういう人々を否定したり馬鹿にしないこと。金さんのように梅喜を馬鹿にしてはいけないと思う。そういう人々に出来ることは、おたけのように、支えてあげることだと私は思う。

 だから、どうか、何かを失って絶望している人がいるとしたら、支えてあげてほしい。生きて、生きて、その先に待っている色んなことを体験して欲しいと思う。

 でも、本当のところは私には分からない。生きることさえ辛い現実に打ちのめされて、死んでしまいたいと思う日が来るのかも知れない。

 生きて生きて、それでも死にたいと思う日が来るのだろうか。

 そんなときに、私は誰に支えられるんだろう。

 ぼんやり、ぼんやり、

 そんなことを考えながら、私はなかの小劇場を出ると、渋谷の改良湯で行われている『湯沸かし市』に行った。欲しいものは既に売り切れていた。仕方なく近くの蕎麦屋で蕎麦を食い、家に帰って、ぼーっとしながら、この記事を書いている。

 色んなことは、分からないままだけど、生きて生きて、それでも生きて、最後に「なんか全然、分かんなかったけど、楽しかったことだけは、間違いないな」と思って、死ぬことができたらいいな、と思う。

 そんなことを考えた朝になった。

 さて、明日はどんな素晴らしい演芸に出会うことが出来るやら。

 あなたが素敵な演芸に出会えることを祈って。

 それでは、また。どこかでお会いしましょう。

シブラクの未来、或いは男女の心の重畳~2019年11月8日 渋谷らくご 18時回~

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他の女の話はやめてっ!

 

二人で一つ 

  恋に師匠なし

 私の友人で、中学生の頃に付き合い始め、そのまま成人して結婚した夫婦がいる。中学生の頃から美男美女のカップルとして有名で、男連中はみな「あいつがあの子と付き合ってるなら、諦めようぜ」と口にしていたし、女連中のほうも「あの子が彼と付き合ってるなら、手出しは無用ね」という感じで、昔からお似合いのカップルだった。

 誰も知りたくないと思うので私のことは書かないが、当時、そんな二人の関係を私は羨望の眼差しで見ていた。清らかであり、穢れが無く、運命という言葉がふさわしいと思って見ていた。なぜなら、私の父も、母との出会いは運命のようなものだったから。

 両親の出会い話は別の機会に語るとして、『男女が互いに少ない恋愛経験で夫婦になる』ということは、中学時代、私を含む多くの男女にとって、『純粋』なものと考えられていた。様々な女性と付き合うことは、『不純』で『汚れ』ていて、美しくなかった。テレビなどでは、しきりに『不倫事件』が取り上げられていたし、火野正平は嫌われていたし、中尾彰は好かれていた。

 もはや呪縛と言っても良い。森野少年の理想は、白いワンピースと大きな麦わら帽子に黒髪ロングヘアの、『清純』で『自分以外との恋愛経験ゼロ』の女性と、夏休みに偶然迷い込んだ山で出会うことだった。「虫を取りに行く」と両親に嘘を付いて、虫取り網と、一生かかる筈の無い『運命の女』を捕えるべく、山へ繰り出していた。

 結局、虫すらも捕まえられないまま、時は過ぎて大人になった。長い間、いるはずもない女性の呪縛に囚われ、山崎まさよしの『one more time,one more chance』も無いまま、いるはずもないのに当ても無く探し続け、大人になって一人ぼっち。

 『恋に師匠なし』ということわざがあり、恋とは自然に学ぶものだと言われても、このままでは一生履修しないまま、単位を取ることなく人生を卒業するのではないかと思うと、師匠じゃなくても、誰か教えてくれないかと思うこともしばしばである。

 ふと周りを見て見れば、中学時代から付き合っていた男女の結婚話があるかと思えば、様々な女性と付き合って一人に決めた男もいれば、様々な男性を味見したが、未だに一人という女性もいる。

 なんとウブな男であったかと今更自らを振り返ったところで、過ぎた道を後戻りすることなどできない。出会うときは出会い、それが運命なのだと受け入れるしか無いのだ。

 ささやかな人生経験の中で、恋愛に対する色んな思いが駆け巡った。一途な男に憧れたかと思えば、プレイボーイに憧れた。プレイボーイを憎み、一途な男の種の保存の非合理性を思ったこともあった。

 何が正しくて、何が間違っているかなんて、結局のところ分からない。

 色んな男と付き合う女性もいれば、たった一人の人と生涯を過ごす女性もいる。逆もまた然り。

 男と女という性が、この世界にあるということの、不思議を思ったのは、渋谷らくごで、この二人を見たからだ。

 

 瀧川鯉八 長崎

 『厭と頭を縦に振る』ということわざがある。口では「厭だ」と言いながらも、頷いてしまう(承諾の所作)をしてしまうことを現わした言葉である。

 頬を打たれて「痛い、酷い」と思っても、抱きしめられたら「ああ、この人は私がいないと駄目なんだわ」と思ってしまうDVの手法を聞くと、つくづく人の心は良く分からないと思う。

 他にも『厭よ厭よも好きのうち』だとか、『好いた同士は泣いても連れる』とか、そういうことわざが、鯉八さんの落語を聞いていると浮かんでくる。

 『長崎』というお話は、簡単に言えば『亡くなった旦那との思い出を語る奥さんのお話を聞く』という内容である。

 奥さんの語りは優しくて、遠くに思いを馳せていて、懐かしんでいる。詳細に語られるのは、プレイボーイだった旦那さんの姿と、そんな旦那さんに振り回されながらも、一緒に連れ立って歩く奥さんの姿である。

 私が思い描いていた純粋な恋愛は一ミリも無く、旦那さんは色んな女性と長崎を巡っていたことを、事あるごとに暴露する。奥さんはそんな旦那さんにブチ切れながら各所を巡る。最後は旦那さんの「これは初めてだから」にキュンと来る奥さん。だが、そんな奥さんも・・・

 鯉八さんの落語には、そんな現代の男女の恋愛観というか、恋愛の現実が表現されている気がする。

 今はネットの普及によって、男女が大勢の人達と繋がりやすい関係になった。

 交通機関も発達しておらず、娯楽も少ない時代に、プレイボーイという概念は、男女が大勢住まう地域限定のものだったのかも知れない。古典落語にも『紙入れ』などの不倫や間男の噺があるくらいだから、江戸時代は盛んだったのだろうと考える。

 だが、今や時代は移り変わり、交通機関は発達、娯楽は溢れ、あっという間に世界と繋がることが出来る。爆発的に男女の出会う機会は増加した。それに伴って、プレイボーイもプレイガールも増え、一途な恋愛像に縛られた人々は極少数になったのかも知れない。

 統計を取ったわけではないから分からない。男女が互いに、誰と結婚するかという選択肢が増え過ぎた結果、結局選べられなくなり、人口は減少を始めたのかも知れない。とまれ、鯉八さんの落語を聞いて、そんなことまで考えた。

 私は、プレイボーイな旦那さんに憧れない。未だに、『運命の女』、ニコ&ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドでニコが『ファム・ファタール』を歌うように、そういう人を待っているからだと思う。いずれ出会うだろうと思うのだが、それがいつかは分からない。よりにもよって、最近は仕事でもプライベートでも美人に会う機会が多すぎるから、自分にとって誰が『運命の女』かもさっぱり分からなくなった(完全なる余談)

 鯉八さんが担うシブラクの未来は、新作落語であり、現代の男女の恋愛関係のように、永遠普遍で、多様化していくものなのかもしれない。

 単純に長崎情報に詳しくなれるのも、この演目の素晴らしいところ。

 

 古今亭文菊 お直し

 文菊師匠のお姿を見ると『恋は思案の外』だなと思う。思案しなくても、文菊師匠が好きな自分を認める。一言一言が、自分の考えていることとぴたりと合う。色んな落語があって良い。色んな噺家がいて良い。多様性を認めることが、人と人との関係で大事なことであり、また、その多様性を認めないという意志も、それはそれで良いのだ。

 鯉八さんが見せた現代の男女の恋愛関係に対して、文菊師匠は古典落語、かつての男女の恋愛関係の話を物語る。

 何度か記事にしている『お直し』という演目であるが、今宵の『お直し』も、今までに負けず劣らずの素晴らしい一席だった。どこか、私の心は『お直し』のような男女の関係に、共鳴するものがあるのかも知れない。

 この話は、簡単に言えば『花魁として全盛を誇った女が、落ちぶれた頃に出会った男と夫婦になるが、再び落ちて、因果な商売に手を付けながらも、夫婦の愛を確かめ合う』という内容である。

 何とも言えない味わい深さと、男女の、どうしようもない姿が、何度見ても胸に迫る。語られない部分を思えば思うほど、ケコロという商売を始めた男女の姿が、哀れで、狂おしいほどに、美しく輝いて見える。

 かつて、花魁として様々な男を魅了した女と、そんな女のために一所懸命に客引きをしていた男が結ばれる。だが、男は花魁と結ばれたことに胡坐をかいて博打に手を染め、あっという間に生活に行き詰まり、再び花魁の色気に頼って商売を始めるが、今度は他の男に色目を使う花魁に嫉妬し、遂には仕事を辞めようと提案する。そこで、花魁に一喝され、男は初めて自分の愚かさに気づく。

 おそらく、今、こんな恋愛は殆ど無い。キャストとボーイの恋愛はご法度であるし、店主がいわゆる商品(語弊があるかも知れない)に手を出すのは厳禁である。だが、時代背景を考えたり、その当時の人々の思いを考えると、言いようの無い純粋さを私は感じる。

 今まで以上に、文菊師匠の演じる花魁の言葉が染みた。「そんなことやりたくないよ」というような言葉や、「お前さんが酷いことを言うから」みたいな言葉が、ズシッと胸にきた。そんな言葉を言わせてしまうほど、どうしようもない男の姿を見て、自分もそんな言葉を言わせてしまうような、愚かさを秘めているのではないか。そんな考えに胸を刺されるような気持ちで聞いていた。

 『お直し』は、至る所で胸を刺され、痛みにも似た苦さを感じる場面が多い。特に、落ちぶれた花魁が化粧をする場面は、何度見てもゾッとするほど美しく悲哀がある。

 花魁が客に見せる表情と声、愛した男に見せる表情と声、そのギャップにも胸が締め付けられる。女性の心の裏表の鮮やかな転換を、文菊師匠は表情と声で見事に表現されていて、今日は震えるほどの変わりようだった。

 そして、最後に男が花魁に向かって「辞める」と言った後の、花魁の静かな炎のような苛立ちが、思い返す度に首を締上げられるような苦しさを覚える。女の覚悟を見過ごした男の愚かさと、一人の男を愛した女の激しいまでの愛情。女の炎に目を覚ました男がはたと気づき、詫びを入れる場面は、何度見ても痛みと苦さが伴って感じられる。最後はさらっとオチだが、何とも言えない男女の関係に痺れる。

 何が良いとか、何が悪いかは人それぞれだが、私は古典落語に見られる男女の関係に、心を惹かれる。そこには、磨き上げられた深みがあるように思うからだ。つくづく、私は古典落語が好きな人間だと改めて思った。

 素晴らしい余韻のまま、私は渋谷らくごを出た。

 

 総括 惚れて通えば千里も一里

 相変わらず『どがちゃが』にはレビューは載らなかったし、『どがちゃが』を開きたくない気持ちも強かったけれど、私は渋谷らくごが好きだ。

 静かだし、落ち着いているし、客席も凄く集中している。この場所にしか無い雰囲気というものが確かにあって、それは他の会もそうなのだけれど、その場所でしか味わうことのできない雰囲気だ。

 五周年を迎え、初期のメンバーも真打になり、これからゆっくりと渋谷らくごは変わっていくのだろうか。

 遅ればせながら、そんな渋谷らくごの歴史の一部に、自分の思いを形にした記事が残るのはとても嬉しい。だからこそ、気を抜かずに、自分らしく書いて行きたいと思った。

 シブラクの見どころは読んだ人のお楽しみ。文菊師匠がどう思うか分からないけど、私は文菊師匠の才能も、鯉八さんの才能も、とても素晴らしいと感じている。悔しいのは、私にその思いを広めるだけの力がまだ無いことだ。

 まだまだ頑張らなくちゃいけない。気を引き締め直す。素晴らしい一夜だった。

上方の風に吹かれて浪に乗る~2019年11月4日 神田連雀亭 桂紋四郎の上方落語・浪曲最前線~

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上方落語の仕掛け人!?

 

勢いで押す!!

 

よぉ~ 

  上方の風と浪

 桂華紋さんがNHK新人落語大賞を取った。2018年は桂三度さんが取り、2017年は三遊亭歌太郎さん、2016年は桂雀太さん、2015年は桂佐ん吉さんと、この五年間で上方落語家が4人も賞を受賞している。

 私は落語初体験が桂枝雀師匠の『代書』ということもあって、上方落語には思い入れが強い。江戸の落語を聞くよりも先に上方落語に心酔した私にとって、落語の本場と言えば上方という思いがどうしても強いのだ。

 特に桂米朝師匠や笑福亭松鶴師匠に代表されるような、上方の最高峰とも呼ぶべき流麗な語りの調べを聴いているだけで心が穏やかになる。枝雀師匠の落語にも受け継がれた『知性の清流と人情の紫翠』を最初に体験できたことは、私にとっても思い出深い経験である。

 さて、東京にいても上方落語を聞く機会はある。仮に『上方落語ってどんなものなの?』と疑問を持ち、まだ上方落語に触れたことの無い方がいるとしたら、最初にオススメしたい素晴らしい噺家がいる。

 それは、三代目桂春蝶師匠門下の桂紋四郎さんである。

 紋四郎さんは『上方落語仕掛人』と言っても過言ではないと思う。彼は今年の5月より、上方落語の素晴らしい噺家さん達と二人会を行っている。毎月第一月曜日に神田連雀亭で行われる会で、私は数多くの素晴らしい上方落語家さんたちに出会った。

 また、桂紋四郎さんは茶道×能楽×落語×浪曲×文楽×講談の上方伝統文化発信集団である『霜乃会(そうのかい)』に所属されている。今、まさに上方演芸の未来を担い、自らも上方落語の未来を背負って立つ芸を持った噺家さんだ。

 桂紋四郎さんを初めて見たのは、神田連雀亭で行われた年末カウントダウン興行。『三十石』を見た。美しい声と色気のある語り口。見事としか言いようの無い端正な所作。しばらく頭の片隅に残っていた私は、5月にようやく紋四郎さんの会に参加し、そこから行ける限り、『上方落語最前線』と題された会に参加した。

 以下は、その時に撮った写真である。

 

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 今までの記事は、常日頃、上方落語に触れていない私にはまだ書くだけの意志が無く、感想を書くことは出来なかった。だが、どれも間違いなく素晴らしい会だった。華紋さんの二席、三幸さんの客席参加型のぶっとび二席(私も参加できた)、佐ん吉さんの端正な二席、雀太さんの豪快な二席、南龍先生の紫焔のような燃える二席。どれも思い出深い。なかなかゲストの噺家さんを見る機会が少なく、初見で書くのもどうかと思っていたが、実に素晴らしい会だった。残念ながら10月の会に行けなかったことがとても悔しい。呂好さんは繁昌亭で『¥の縁』を見たことがあっただけに、見たかったという思いが強い。

 

 満を持して

 初参加の五月から、十一月の落語と浪曲の会に参加し、満を持して記事にすることを決意した。個人的にも、再び紋四郎さんの『三十石』を聞けたということもあって、タイミングが良いだろうと思った。今回のゲストである真山隼人さんと沢村さくらさんの『円山応挙の幽霊図』も、聴くのは二度目である。真山隼人さんで初めて聞いた演目も『円山応挙の幽霊図』であったために、この記事を書くことには何か運命のようなものを感じる。

 上方落語仕掛人にして、牽引役でもある桂紋四郎さん。そして、上方浪曲界の至宝とも呼ぶべき真山隼人さん、そして沢村豊子師匠の一番弟子にして、浪曲師の魂と節を極上の世界へと導く音色を放ち続ける曲師、沢村さくらさん。

 この三人が出演する会。たとえどこかで名人が芸を披露していようとも、見逃すわけにはいかない。この三人の現在と、そして未来に私はとてつもない興味があった。

 

 トーク

 まず紋四郎さんと隼人さんが登場された。前半は新人落語大賞の裏話。内容は書かないが、紋四郎さんの思い、華紋さんの思い、そして会場の空気など、紋四郎さんから聞くことができてとても嬉しかった。また、後半は隼人さんのお話。上方落語ブームが正に来ている。神田連雀亭で、巻き起こる上方の嵐。とても熱いお話を、タイムリーに聞くことが出来て、とても良かった。

 

 桂紋四郎 浮世根問

 シュッとした出で立ちと、美しい光を眺めているかのような声の響き、一瞬で見事に人物の表情が変わり、浮き上がってくる人物の性格。上方落語の品格と知性を存分に感じさせる桂紋四郎さんの落語。私は大好きである。上方落語のハイ・スタンダードと言うべきか。これほど流麗で気持ちの良いリズムと、高低と色彩豊かな声。語りの抑揚と表情のどれもが一級品の輝きを放っている。これは決して褒め過ぎではない。それほどに素晴らしいのだ。

 上方演芸を広めようとする気概に、芸が伴っている。私が言うのもおこがましいが、非の打ちどころがないほど、高座で落語をするだけで美しさと情熱を感じるのである。古典の演目ながら、滑らかなリズムと間で放たれる言葉の一つ一つが、実に美しい。

 先達の名人を挙げるとするならば、五代目桂文枝師匠に近い気がする。ハイトーンの声の切れ味の鋭さは、まるで清流に石を投げたときに、石が水面を跳ねて飛んでいくような様を見ているかのように爽やかな気持ちになる。

 何とも言えない知性を感じるのは、整理された言葉が淀みなく放たれるからであろうか。とてもカッコイイのである。もはや絶賛以外の何ものでもない。

 間違いなく、今後、上方落語の未来を背負って立つ噺家になることは間違いない。2010年代の大勢の猛者の中で、ひと際異才を放ち、滲み出る知性と精密な美しい落語が、これからどんな風に変化していくのか。

 もしや、読者の中に見逃す人などいるまい。

 早く、紋四郎さんを見て、上方落語の次世代の魂を感じて欲しい。

 

 真山隼人/沢村さくら 円山応挙の幽霊図

 去年の12月2日に見て以来の隼人さん。一度だけ一心寺でお手伝いをされている様子は見た。なんと数奇な運命もあるもので、久しぶりの隼人/さくらコンビの演目は、私が初めて聞いた『円山応挙の幽霊図』だった。思わず「うおおお!!!凄い巡り合わせだ!!!」と思って歓喜した。

 木馬亭で見た時よりも、会場のおかげでより身近に感じられた。本当に素晴らしい噺だと思う。twitterの方からの情報によれば、松浦四郎若師匠から受け継がれた演目だという。隼人さんは澤孝子師匠から『徂徠豆腐』も受け継いでる。来年の一月にネタ出しで会があり、一体どんな風に『徂徠豆腐』をやるのか楽しみだ。

 間違いなく、上方浪曲の未来を担う最高峰の浪曲師である。浪曲を愛し、浪曲に愛された肉体と声。その全てを存分に活かす曲師の沢村さくらさん。この二人のコンビは、無敵である。ゲームで言ったら、マリオカートでずっとスターを取り続けながら走っている状況と言っても過言ではない。リングに上がれば秒速で相手を倒す山本KID徳郁など、無敵を表現するありとあらゆる言葉が、『隼人/さくら』には当てはまるだろう。

 私はそれほど浪曲に詳しいわけではないけれど、とにかく隼人さんとさくらさんの浪曲は『凄い』のだ。言葉にするのは難しい。以前、『浪曲の情』として『浪情』なる言葉を発案し、『浪情が掻き立てられる』と書いたが、正に、その感覚があるのである。

 味覚、触覚など人間には五感が備わっている。その全てを刺激した先にある『浪情』を誰よりも揺さぶり、高めてくれるのが隼人さんとさくらさんだ。生で見る迫力の凄さ。隼人さんの表情、さくらさんの表情、つまびかれる音色は、まるで感情という名の水が入った壺に、手を入れられてグルグルとかき回されるような感じである。

 凄すぎて、言葉が出ない。

 私にとっても思い出深い一席であるだけに、実に見事だった。

 上手いとか下手だとかは私には分からない。

 とにかく、感情の間欠泉が勢いよく吹き上がったことは間違いない。

 圧巻の一席だった。

 

 真山隼人/沢村さくら 朝一番

 本来の演目のタイトルは、平仮名三文字で、最初が『う』で、終わりが『こ』である演目であるらしい。

 もはやなんといって良いか分からないほど、超最高だった。

 徹頭徹尾、勢いに押し切られ、腹が捩れ全身が『シライ・スリー』を越えるほど捻る。捻る。捻る。面白すぎて何がなんだか分からず、感情をぐちゃぐちゃにされて、ただただ笑うしか無かった。

 丁度、キング・オブ・コントでどぶろっくが下ネタで優勝したが、正にあれと同じような雰囲気を、隼人さんの新作から感じた。

 ひー、思い出すだけでも面白い。

 絶対に見て欲しい。

 隼人さんとさくらさんの、うPeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee

 

 桂紋四郎 三十石夢乃通路

 前の演目を見事に一言で評価し、爆笑をかっさらった紋四郎さん。会場に浪曲好きなお客様が多いと感じられたのか、自らも舟唄の美声を響かせる『三十石』へと入った。

 これも実に、約1年ぶりに聞く演目である。初めて紋四郎さんを見たときに見た『三十石』よりも、さらに凄くなっている気がした。

 ごちゃごちゃと人が入り組んだりする場面や、色々な妄想に耽る男。勇ましい船頭の姿など、活き活きとしていて素晴らしい。一度でいいから、こんな風景のある船に乗ってみたい。

 時代も海の流れも、穏やかに流れていた時代に思いを馳せるような、素晴らしい舟唄。鳴り物入りでいつか聴ける日が来るだろうか。

 浮世は夢だと誰かが言った。人生は船旅に似ているのかも知れない。誰が船頭かもわからぬままに、舟は進み、それぞれが思い思いの場所で降りる。

 束の間の浮世のひと時に、同じ場所で同じ時間を過ごし笑いあっている奇跡。

 ああー、のんびりと。

 ああー、のんびりと。

 私も人生を過ごそうではないか。

 そんな風に思える。素晴らしく、思い出深い一席だった。

 

 総括 終わりの無い上方落語ブーム

 上方落語好きが昂じて、天満天神繁昌亭まで行き、どっぷりと上方落語に浸かった日々を思い出す。紋四郎さんのおかげでたくさんの素晴らしい上方落語家を知り、繁昌亭では運命に導かれるかのように、様々な噺家さんに出会った。思い出深いのは露の都師匠や、桂九ノ一さん、森乃福郎師匠や笑福亭福笑師匠。

 貞橘先生の会でゲスト出演された南湖先生や、紋四郎さんの会に出演された南龍先生など、上方講談界も熱い。上方浪曲界には真山隼人さんや、京山雪乃さん、京山幸枝若師匠や三原佐知子師匠など、名人と呼ばれる人々も数多く存在している。

 上方落語には、江戸落語とは異なるものが数多くある。Twitterを見れば桂米紫さんがご活躍されている。個人的に注目は桂吉の丞さんや桂吉坊さんで、いつか東京で独演会をやってくれないかと待ち望んでいる。吉の丞さんの語り、めちゃくちゃすっきやねん(急な関西弁)

 若手からベテランまで、熱い情熱と知性を軸にそれぞれの個性を磨き上げて行く上方落語。もちろん、江戸落語だって等しく素晴らしいのだけれど、『隣の芝は青い』ということわざにもあるように、大阪に住まわれている方々が羨ましくて仕方がない。きっと、東西で同じ思いを抱いているのかも知れない。

 一つ期待するとすれば、私のように趣味で演芸のブログを書く人が、上方にも存在してくれたらいいな、という思いである。そうすれば、その人を通して、上方落語がどのようなものか、なんとなく知ることができる。

 もしも、既にそんな方がいるのならば、会って話がしてみたい。東西で趣味で演芸ブログを書く者同士、積もる話もあるだろうと思う。

 さて、話しをまとめよう。

 まだまだ上方落語の風は吹き止むことなく、浪は大波となって人々の感情を揺さぶっている。講談の張り扇の音が、東京に響くとき、上方も江戸も渾然一体となって、日本の演芸の未来を活気づけて行くのではないだろうか。

 はぁ~、なんと楽しみであることか。

 なんと、

 なんと、

 

 なんと楽しみだろう!!!!

 

 今まさに、その未来の途上にいる自分の運命が嬉しい。

 私も私なりに、素晴らしい芸人さん達に言葉を費やしていきたい。

 それでは、読者が素敵な演芸に出会えることを祈って。

 いずれ、どこかでお会いしましょう。

 ほな、さいなら~

NHK新人落語大賞を存分に楽しむ~ニーヌさん主催会 2019年11月4日~

 おおー、すごーい

 

カードゲーム『真打』

 

権太楼師匠、こええええ

 

華紋さん、おめでとう!!!!!

  延期の縁

 本来であれば、10月26日に放送されるはずだった『NHK新人落語大賞』。ところが、ラグビーの放送により延期となり、11月4日に放送されることとなった。

 縁とは本当に不思議なもので、ニーヌさんが『NHK新人落語大賞』をみんなでライブビューイングする会を企画された。私も、スケジュールが空いており、行くことに決めた。

 そして今日。そのライブビューイングが行われた。集まったのは総勢7人。貸スペースで行われた会は、とても、とても、とても楽しかった。どう言葉で表現して良いか分からないが、世の中の落語好きが、同じ時間、同じ場所で、同じ演者に笑ったりして過ごすことが出来たのは、殆ど奇跡だ。

 そして、改めて会を企画してくれたニーヌさん、そしてお手伝いのHさん。集まった方々にお礼を申し上げる。素晴らしく楽しい会だった。機会があればまた参加したい。

 さて、ではそんな楽しい会のレポをお届けしよう。今回は『NHK新人落語大賞』もさることながら、参加されたゆっとれいさんがお持ちくださった、カードゲーム『真打』についても触れたい。これは落語好きにはマタタビのような代物で、落語好きには堪らないカードゲームになっている。私は結構欲張りだから、もっともっと『真打』のゲーム性の幅が広がれば良いと思うほど、のめり込んだ。カードゲーム『真打』の開発者の方、もしこの記事を読まれておりましたら、一緒に共同開発しませんか(笑)

 ではでは。

 

 桂華紋 ふぐ鍋

 開口一番は桂文華師匠門下の華紋さん。兄は漫才コンビ『おせつときょうた』のおせつさん。どちらもお笑いの世界に入っている。華紋さんは、以前、紋四郎さんの会で『粗忽長屋』と『打飼盗人』の二席を見た。めちゃくちゃ芯のある良い声と、とても気持ちの良い間が持ち味の噺家さんだと思う。

 審査員の方も仰られていた気がするけれど、とにかく『間』が素晴らしい。それは『ふぐ鍋』という演目でも存分に活かされていて、登場人物の考える『間』に、客席で聴いている人々が考える『間』が見事にフィットしている感覚があって、それが良い声と相まって何倍も面白くなっている。

 『ふぐ鍋』という演目の簡単な内容は『毒があるかも知れないフグを食べるか否かの駆け引き』を楽しむ話である。

 自分で拵えた河豚鍋を、何とかして毒味させようとする男と幇間の駆け引きが面白い。考えてみれば生きるか死ぬかの鍔迫り合いなのだが、シリアスな緊張感が無くて、ひたすら間抜けな空気が流れる。

 華紋さんの絶妙の間と、お互いに河豚を先に食べさせようとする登場人物の表情が面白い。覚悟を決めて食した後で、思わぬところに着地するオチも見事だ。

 これは、この後の紋四郎さんの会で知ることになったのだが、華紋さんの男気に痺れた。カッコいい。最高である。紋四郎さんのエピソードを聞いただけで、華紋さんが如何に義理に厚く、カッコイイ男であるかが分かる。なんと、1月6日に桂紋四郎さんと桂華紋さんで二人会があるそうだ。

 上方落語ブームが来ている。文句なしの一席だった。

 

 笑福亭笑利 看板のピン

 二番手は笑福亭鶴笑師匠門下の笑利さん。生の高座を見たことは無い。前半の玄人博打人が登場する場面が、江戸に比べると詳細に語られている気がした。

 この話の簡単な内容は『看板が役に立つときと、役に立たないときがある』というお話で、前半のフリから後半の回収が鮮やかな一席である。

 審査員にベテランの文珍師匠や権太楼師匠がいるなかで、看板のピンを掛ける心意気に拍手を送りたい。権太楼師匠がマイクを握った時のふてぶてしさ、芸の厳しさを諭すような姿が印象に残った。

 

 露の紫 あいかぎの変

 露の都師匠門下の露の紫さん。都師匠は繁昌亭で『星野屋』を見た。キレのある動きと語り。とにかく女性の描き方が素晴らしい。都師匠譲りの語りのリズムとトーン、そして後半、怒涛の勢いで登場する人物達。一人だけ新作落語だったが、文句なしに面白かった。

 特に嫁と姑の関係性や、旦那のだらしなさに憤慨する嫁の姿など、随所に面白い部分があって、ライブビューイングで見ていた会場も沸きに沸いていた。酒も進む進む。ツマミも進む進む。東京にいながら、上方の風、三連続にすっかり心を奪われてしまった。

 会場はNHK大阪ホール。そして上方の噺家が三連続である。そのホールにいなくとも、感じられるのは、上方の風で満ち満ちた空気。その全てを作り上げたのは、トップバッターの華紋さんであり、三番手の露の紫さんで完成したのかもしれないと思った。

 私はその場にいなかったから分からないけれど、これがもしも上方と江戸の落語家が交互で出演していたら、また会場の雰囲気も違ったのかも知れない。これも紋四郎さんの会で知ったことだが、空気は大きく上方に傾いていたのだった。

 

 立川こはる 黄金の大黒

 四番手は立川談春師匠門下のこはるさん。登場の順番というのは難しいもので、立て続けに上方の落語家を三人見た後で、残り三人、江戸の噺家が続くとなると、客席で見ている人たちの雰囲気はどう変わっていくのだろうか。と、そんなことを考えた。

 寄席に限らず多くの落語会には、目には見えない空気の『流れ』があって、それをどう切り替えていくかを試されたのが、後半の三人だったと思う。

 この話の簡単な内容は『黄金の大黒を掘り当てたお家にお祝いに行くのだが』というお話である。

 私はまだこはるさんを生で見たことは無いが、流暢な江戸前の雰囲気を存分に発揮した落語をされていた。途中、尿意を催し席を立ったが、気風の良い語りと表情は素晴らしかった。テレビからは伝わって来ないけれど、多分、こはるさんはやりにくかったのではなかろうか。寄席でもなかなか、上方落語家が三人出てきた後で、江戸の落語家が三人続くということは、皆無と言っても良いくらいに無い。会場の雰囲気もどのようであったか分からないのが無念だが、テレビで見る限りは、丁寧で気持ちの良い落語だった。

 

 古今亭志ん吉 親子酒

 古今亭志ん橋師匠門下の志ん吉さん。都内の寄席では、住吉踊りをこなしたり、シャキッとした気持ちの良い落語をする噺家さんだ。謝楽祭では圧巻の女装を披露したりと芸達者で、見た目からも気配りが出来そうな雰囲気を感じる。高座姿も美しく、スッと伸びた背と、笑った時に見せる歯の美しさ、ハリのある声と気持ちの良いリズム。兄弟子たちに囲まれながらも、スッとした威勢の良い雰囲気を醸し出す志ん吉さん。

 この話の簡単な内容は『親子の破られる約束』というような話である。

 それまでの流れを受けてフグを出してみたりなど、志ん吉さんとしても、会場の雰囲気を何かしら感じていたのかも知れない。テレビで見る限り、いつもの寄席でみる志ん吉さんらしい、酔っ払い具合とリズムだった。別段、緊張した様子もなく、酔っ払いの姿は実に素晴らしかった。

 奇しくも紫綬褒章を受章された扇遊師匠が良く寄席でも掛けられている演目である。笑顔が素敵な扇遊師匠から教わったどうかは分からないが、ハチャメチャに酔う親子の姿は、実に見事だった。

 

 柳亭市弥 湯屋

 トリを飾ったのは柳亭市馬師匠門下の市弥さん。演目を見て「紙入れじゃないんだ・・・」と私は驚いた。確か『NEXT名人寄席』で聴いたのだが、最後のオチを捻っていた市弥さん。思わず「ひえええっ」と声が上がってしまうほどの工夫に驚いた。今回は湯屋番である。

 この話の簡単な内容は『若旦那が慣れないお湯屋の番頭を務める』というお話である。

 寄席でも割と掛かるネタである。市弥さんの若旦那感がピタリとハマっている感があって、素晴らしい一席だった。

 一体、これをどう権太楼師匠が評価するのか、そればっかりが気になって仕方が無かった。落語協会の重鎮の言葉は、実に素晴らしい評価だった。たとえ優勝できなくても、権太楼師匠にあんな素敵な言葉を言ってもらえたら、嬉しくて堪らないだろうと思う。実に見事な湯屋番だった。

 

 優勝者決め

 一通りの演者を見終えて、私は『華紋さんか、志ん吉さん』のどちらかで迷った。華紋さんは実に見事な間だった。志ん吉さんは圧巻の酔いっぷりが面白かった。さて、結果はどうなるやら。権太楼師匠はどんな点数を付けるやら、と見ていたら、なんと!華紋さんの優勝!!!

 

 華紋さん!!!

  おめでとうございます!

 

 盛り上がったNHK新人落語大賞。自分が見たことのある噺家で、凄いと思っていた噺家さんが優勝したのは嬉しい。また、紋四郎さんとの二人会で絶対に見ようと思う。今からそれが楽しみでならない。

 そして、NHK新人落語大賞を終え、満を持して『落語好きにとってのマタタビ』となる究極のカードゲーム『真打』が披露された。

 これが、もうね、凄い、面白いのよ。

 落語好きとやるとね、

 面白さが、

 面白さが、

 

 

 面白さが!!!!

 凄い!!!!(語彙力)

 

 思わず語彙力を失ってしまうほどの面白さだった。

 詳細はこちら

 

  こんな悪魔のゲームがあって良いのか!???と思うほど盛り上がった。

 詳しいルールはすっかり忘れてしまったが、カードゲームを持ってきて頂いた『ゆっとれい』さんのおかげで、非常に分かりやすくゲームを行うことができた。

 これ、四人で対戦するゲームなんですが、落語好きが入ればいるほど盛り上がるゲームです。

 簡単なルールは、季節と四大寄席(上野・鈴本・浅草・池袋)があり、それぞれのターンで、何の演目をやるかというゲーム(超ざっくり

 プレイヤーは噺家になった気持ちで、どんな演目を高座で掛けるか選ばなければならない。その駆け引きが面白い。

 ざっくり『死神』や『百年目』や『芝浜』や『時蕎麦』などがあって、「時蕎麦と言えば小さん師匠だよねー」とか「死神と言えば圓生師匠」みたいに、かなりざっくりした説明になってしまうが、めちゃくちゃ盛り上がれるのである。

 これ、寄席で売ったらバカ売れするんじゃないだろうか。そう思うほど、面白かった。

 だが、私は欲張りなので、冒頭にも書いたが、このカードゲームの発案者と共同開発したいと思っている。もっとネタ数を増やしたり、新作落語や講談、落語協会落語芸術協会との分け方など、現実に即してカードゲームが多様化すれば、落語好きにはたまらないカードゲームになると思う。

 まさか、こんな素晴らしいカードゲームが世の中に存在しているとは思わなかった。全部で三回ゲームを行ったのだが、尽きることの無い面白さがあった。

 是非、また、誰か落語好きを集めてやる会に参加したい。全国の落語好きが夢中になるカードゲーム『真打』。いやー、こんな新しい発見があったなんて、感動ものである。

 

 最後は小三治師匠の『青菜』を聞き、古今亭志ん朝師匠の『そろばん節』を聞いてお開き。本当に素晴らしい会でした。 

 

 総括 我逢人

 喬太郎師匠に影響を受けたのか、私も色々な人に会い始めている。落語が好きな人は、皆さんとても優しくて、本当にびっくりするくらい、楽しい人達ばかりで驚いている。私は殆ど一人で情報収集をしたり、記事を書いたりすることで、あくまでも主観で記事を書いてきたが、色んな人の落語愛を聞くと、それだけでゾクゾクするような興奮が沸き起こってくる。

 ああ、人生はなんと素晴らしきかな。

 最高の三連休の締め括り。と言っても、まだまだ年末に向けて楽しいことは盛りだくさん!!!!

 遊ぶために仕事して、仕事するために遊ぶ。

 素敵な出会いに感謝して、この記事を終わる。

 改めて、ニーヌさん、Hさん、ゆっとれいさん、mariさん、水月さん、与太郎さん。

 本当に、

 本当に、

 

 ありがとうございました!!!

 

有益デストラクション&ファイヤー~黒門亭二部 2019年11月3日~

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ピョコピョコ感

 

じんわり感

 

さらさら感

 

ぽつぽつ感

 

バリバリ感

  目が覚めてOh No

 自分に関する残念なニュースを見ると、テンションがダダ下がりして、ウルトラ怪獣ダダになることが、しばしばである。この前は私の書いたレビューの誤用コメントを見てダダに変身。今朝は唐突な別れを知りダダに変身。昨晩飲み過ぎて体がダルい自分に嫌気がさしてダダに変身。

 鏡を見て「ダ・・ダ・・・」と呟きながら、ダダをこねることも出来ず、ただただ茫然とする。いっそ、ダダをこねて饅頭にして店を開き、木下優樹菜に脅されて、その脅迫文を出版社に売り込んだ金で幸せになれたらいいのに。

 現実は、そんなに甘くない。事実が放った矢は確実に私の的を射抜く。那須与一も望月重隆もびっくりの命中率。気分は墜落していく。

 食べているラーメンを急に取り上げられて、五郎さんが「子供がまだ食ってる途中でしょうが!!!」みたいなことは、恋愛に関しては全く起こらないということを知る。恋愛の始まりに途中は無い。気が付けばラーメンという名の恋は取り上げられているのである。「まだ私が恋してる途中でしょうが!!!」なんて台詞は、一生吐くことはできない。

 そんなことを知った朝だった。北の国からあ~あ~あ~あ~

 

 Dog Show Kind

 かろうじて人間の身体に戻った私は、まるで萩尾望都先生の『半神』のように、綺麗だった姉の栄養を全部吸って、それまでの醜い姿から一変して綺麗な体になり、姉の分も精一杯生きようという心持ちで鏡の前に立った。私はエドガーでも無ければアランでも無かったし、トーマでも無ければユーリでも無かった。誰かを救うために死ぬことが出来るほど強い意志も無ければ、見ず知らずの他人を吸血鬼一族の仲間に取り込むほどの覚悟も無かった。私は私でしか無かった。

 お決まりの服に着替えて家を出た。少し寒かったが耐えた。敢えて寒さに身を晒すことで、自らに罰を与えようとしていた。否、大丈夫だと思って外へ出たのだ。結果、全く大丈夫ではなかった。寒かった。寒すぎてくしゃみが出た。

 自分ではどうすることもできないアンテナが察知して、とても知的な人々が集まる読書会に参加した。皆、経済やら経営やら、今後の未来やらに対して、とても強いビジョンを持っていた。自分のつま先の爪の長さすらわからないような私には、とても恐れ多い会だった。私の脳みそはマックシェイクだから、攪拌が止まると凝固する。興味の無いことには一切興味が無いという性格が災いし、何も言えなくて夏19'が流れ始めそうだった。

 有益な時間なんて、無い方が良いのだ。1mmも有益ではない時間を過ごすことが、どれだけ楽しいことか。有益なんてぶっ壊してしまえばいいと思う。何かと人々は「利益、利益」だの「老後、老後」と言っているが、私にとっては利益より秀樹、老後より省吾である。傷だらけのローラと悲しみは雪のように、である。もっと言えば、有益より湯川秀樹。無益より無人駅である(最後はちょっと違う気がする)ロオオウラァアアアア、ウォオオオオオオーである。

 有益をぶっ壊して、心に火を点けたら、The Doorsよろしく、カモン・ベイビー・ライト・マイ・ファイヤーな気持ちで、イントロの「デーデッデデ、デーデッデッデ」のメロディに合わせてスキップする。

 悲しくなったら、何もかもぶっ壊したくなったら、

 落語を聞こうよ。落ち着くよ。オチ付くよ。

 

 Cool Mond Stay Hey

  今日は三遊亭天歌さんがどうしても見たかった。割と『甲子園の土』に当たる確率が多くて、今回はネタ出しで『死神王のまね』だったので、ネタ被りも無く見れると思い、黒門亭に入った。

 若い女性が多く、目を奪われるほどの美人揃いの客席。思わず秀樹・感激な気分になりながらも、着座。

 イケメン揃いの『光る二つ目の会』が始まった。

 

 古今亭菊一 子ほめ

 古今亭菊太楼師匠のお弟子さんの菊一さん。さすが菊太楼師匠のお弟子さんだけあって、上半身のピョコピョコ動く感じが、どことなく菊太楼師匠を彷彿とさせる。

 「あー、似てるなー、すげぇなー」

 くらいに見ていた。ハーフ?かと思うような端正な顔立ち。はっきりくっきりとした表情。ハリのある声と師匠譲りの所作。

 今後、どんな風に自分の色を出していくのか楽しみな前座さんだ。

 

 三遊亭天歌 死神王のまね

 お目当ての天歌さん。飛び交う蠅?も何のその、寛大な心で演目に入る。天歌さんの登場人物は人間味があって好きだ。特におじいちゃんの雰囲気が素晴らしい。

 この演目の簡単な内容は『死神という古典落語の謎を話し合う』という話。おじいちゃんが孫の質問を誤魔化すときの強引さが堪らなく面白い。古典落語の『死神』を知らなくても、聞くだけで大体の内容を知ることができる。

 何とも言えないおじいちゃんの空気感と、想像のシュールさの対比が面白い。自分でも「うーん、どういう意味なんだろうなー」と考えることもなく、ただただお爺ちゃんの想像に付き合っている楽しさがある。オチも軽く「おおっ!」となる感じだった。

 私が言うのもおかしいけれど、日常に起こるおかしみにふっと、温かい幸せを足すような落語が、天歌さんは得意なのかも知れない。

 滲み出る優しさと、宮崎への愛も詰まった素敵な一席だった。

 

 春風一刀 粗忽長屋

 春風亭一朝師匠門下の一刀。不思議な雰囲気の方だなぁ、と思う。どこかふらふらっとしている雰囲気もありながら、どっしりとした芯の強さもある感じで、何となく掴めない。声のトーンには志ん朝師匠と同じ音の雰囲気を感じる。目を閉じて聞くとスッと気持ち良く眠れる感じがある。リズムは落ち着いている。

 まだまだ色んな話を聞かなければ、言葉が見つかってこない噺家さんだった。

 

 柳亭市江 天狗裁き

 言葉が見つからなかった。

 

 春風亭㐂いち 不動坊

 ド迫力の大声で勢いは竹の如く、さらっと男前で気風が良い。リズムも心地が良いし、何より声の威勢が良い。明るくて元気が良い雰囲気が素敵だった。

 

 総括 STRONG 

 ほくほくとした気持ちで帰宅。途中で明日の買い物を済ませた。ぼんやり眠って、ぼんやり本を読む。三連休もあっという間に過ぎていく。

 筋トレをして、食事をする。身体も精神も鍛えていかなければならない。

 色んなことが起こる世の中だけど、傷ついたら落語を聞けば良い。

 温まりたかったら、銭湯に行けば良い。

 吾、唯、足ることを知る。

 そんな風にぼんやり生きるのが、私の性に合っているのかも。