落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

待てば甘露の日和あり~2021年5月15日 古今亭文菊独演会~


過去のことなど考えない。
重要なのは永遠につづく現在。
それのみだ

Waiting is the hardest part of life
今が永遠に続くと信じているから、私は惰性で生きてしまうのだろうか。
来る日も来る日も、無駄に飯を食べて惰眠を貪って時間を無為に過ごす。
それが嫌になって、旅に出れば気分も紛れて新しい思い出が積み重なっていく。

 

思い出。それ自体はちっぽけな言葉だが、拡がりは無限である。

たった一匙でも味わってしまえば、舌上に忘れられない感動を残す料理のように、

思い返す度に、「ああ、もう一度味わいたい」と切望して止まないもの。

それが、私の記憶の中に残る思い出の感覚だ。
今は、誰もが「あの味をもう一度味わいたい」と願っている。
一日でも早く、思い出の味を舌先で感じたいと強く願っている。

だからこそ、心は急いて、苛立ちの中で硬化していく。

水で溶いた片栗粉のように、叩けば固くなる。

叩かれるたびに、固く、反発し、柔らかい本来の姿を保つことができない。

まろやかに、穏やかに生きることの意味を忘れそうになる。

待ち続ける時間の長さに比例して、心が小さく、狭くなっていく。

待つことの大変さは、誰もが知っている。

病院で長く待たされて、いざ医師に診断を受けてみると数分で終わる。

幸福とは短く、苦難とは長きものであろうか。

永遠につづく現在の繰り返しの中で、どれだけの幸福を私は手にするのだろう。

私にとっての幸福。それすなわち良き思い出。だとすれば、やることは一つ。

死ぬまで、幸福な思い出を作り続けること。

ただ、それのみだ。

 

古今亭菊一 子ほめ

記憶の中の菊一さんは、まだたどたどしい語りのリズムと、どこかシャイな一面を持つハンサムな青年だった。ところが、久しぶりに見た菊一さんの姿は、語りのリズムが心地よく、たとえ舌先が上手く動かなくとも、見事にリズムをキープして落語をしていた。張りのある声には、古今亭のDNAが見事に流れていて、師匠である菊太楼師匠の明るさと、カラッとした優しい雰囲気が随所に現れている。

前座という身分で個性などと言うと、途端に腹を立てる人も中にはいるかもしれないが、私はそうは思わない。むしろ、この困難な状況の中にあって、研鑽を続け、落語の世界に留まっているという事実の方が、私は何倍も優れた個性であると考えている。

並みの一般人には出来ることではない。自らのキャリアアップのために転職をしたり、自由を求めて転職をしたりと、中にはコロコロと職を変える者がいる。

それ自体は、確かに決断が難しいことであるし、容易に出来ることではない。だが、それと同じくらい、今の時代の中で一所に留まる、さらには落語界の前座という立場でとどまっているということは、私は賞賛に値すると考えている。

若く、可能性に溢れ、ハンサムで愛嬌もある。落語家でなくともある程度の地位に立つように思われる菊一さんが、それでも落語界に生きている。私はそれを不思議に思うと同時に、それほど落語界が魅力なのであろうと考えている。どれだけの災禍に襲われようと、どれだけ愚鈍な政治に苛まれようとも、落語は一点、存在し続ける。

その事実の中で、めげることなく、静かに座布団の上に立ち、高座に上がり、拙くとも落語の世界を表現する落語家を、誰が馬鹿にできると言うのか。

落語の風は常に、入れ替わり立ち代わり、若き魂によって吹き続けているのだ。

 

古今亭文菊 金明竹

どれだけの時間が過ぎても、どれだけの苦難があろうとも、高座に立てば変わらずに、常に私の記憶の中の文菊を更新してくれる。
それが、永遠につづく現在に生きている古今亭文菊師匠である。

文菊師匠と同時代を生きていることの幸せは計り知れない。この時代、この瞬間に、古今亭文菊と同じ空間にいる。それだけで、何か、とんでもない奇跡を手にしている気になる。もしも、後世に私の名前が残るのだとすれば、それは私自身の功績などではなく、古今亭文菊師匠の功績によって名が残るだろうとさえ思える。何百、何千年も未来に、古今亭文菊に関する私の記事を読んだ誰かが、唇噛んで血を流すほど悔しがるだろうことが私には分かる。未来を生きるあなたよ。あなたは古今亭文菊に出会わなかった。それは、大変な不幸であると断言しよう。

さて、そんなことを未来の人に行っても意味がない。現在を楽しむ私にとって、文菊師匠の落語の体験こそが、何ものにも代えがたい極上の思い出になることなど、このブログの読者であれば言わずもがなの事実である。

いつの時代も、抜けた人間とはいるものである。私なんぞ、常に抜けているから、それを隠すので必死である。偉そうに長文を書いて、ありとあらゆる人から「お前のブログは長すぎる」とお叱りを頂くが、そもそも私は私自身に向かって書いているのだから関係が無い。さらに言えば、わざわざ「文才ないよ」などと匿名でメッセージを送ってくるものまで現れる始末。知ったことではない。私には文才は無いが、文字を書いて発表する意志はあるのだ。読もうが読まなかろうが、そちらの勝手である。

と、文句をつらつら書いても仕方がない。

思い返すのは、いつも良い思い出である。文菊師匠の高座も、お姿も、ありとあらゆる思い出を、私は記録しているし、私自身、読み返す度に思う。「ああ、また文菊師匠の落語が見たい」。

その思い出だけが、私を突き動かしている。

今日は、目が覚めて嫌なものを見てしまって、それが酷く下品に感じられたものであったから、なんとかしてバランスを保ちたいと思い、品のある人を見たくなった。それで、わざわざ電車に乗って独演会にまでやってきたのだった。

そして、文菊師匠の語る間抜けな与太郎は、滑稽で、面白かった。

もう、それに尽きる。どれだけの言葉を重ねようと、今は、ただただ面白かったとだけ言えば良い気がする。

当たり前の日常に、ほんの少しの重圧がかけられたところで、私の心は怯まない。

現在を、ただただ間抜けに、しかし底抜けに明るく生きるだけなのだ。

どれだけの失敗をしようと、話を聞き漏らそうと知ったことではない。

誰もが、何かしら抜けていながらに生きている。

それで良いのだ。

 

古今亭文菊 笠碁

文菊師匠の演目には、必ず『裏メッセージ』があると私は考えている。

演目の裏に、直接言葉にせずとも、今の現代を生きていくためのヒントをくれる。

それが、文菊師匠の凄さであり、時代の空気感を抜群に読んでいる師匠だからこそ成せる技だ。どうにも、私は生粋の文菊好きであるから、言葉にされない文菊師匠の『裏メッセージ』も併せて、楽しんでしまうのである。そして、それには正解不正解などない。それぞれが、それぞれに落語の演目に触れて感じれば良いのだ。私のブログなぞは、その一例に過ぎない。何度も語ってきたことだが、これは私自身の楽しみであり、私自身の考えの発露であり、誰に何かを強制するものでもないのだ。

『笠碁』という演目を久しぶりに文菊師匠で聞いた。二人の大人が喧嘩して仲直りする。それだけの話なのに、なぜこんなにも胸を打つのだろうか。

待つということの尊さを、私はひしひしと感じるのである。

冒頭で述べたように、待てば待つほど心が急いてしまうのだ。

特に、周りで同級生が結婚した話なぞを聞くと、ついつい気持ちが急いて、「俺も早く結婚しなきゃ!」などと焦る人も中にはいるのではなかろうか。

人間は、いつだって自分の手にしたいものを即座に手にしたい生き物なのだ。もっと言えば、手にした速度が早ければ早いほど、飽きやすい生き物でもある。

だからこそ、待って、待って、待ち続けて、本当に来るかどうかさえも分からないところで、ようやっとやってきたという段階になって、初めて喜びを感じ、感動を覚え、そして忘れていくのである。

何度も、その繰り返しである。良い思い出は一瞬であり、それはまるで切り取られた写真のように鮮明に残り続ける。だが、それに至るまでの過程は苦難に満ちており、大概の場合は忘れ去られる。どんな苦難も、たった一瞬の幸福のためにあるのだと考えれば乗り越えられるはずである。心が硬化し、他に文句を言いたくなるのは、その苦難に耐えられなくなった心が出す屁のようなものなのだ。

豪雨が続く海も、いずれ晴れて海路が見える。待てば海路の日和あり。

どれほど辛酸を舐めようと、じっと耐えて、自分にとっての幸福とは何かを見失わなければ、必ずや甘い露を味わうことができる。

待てば甘露の日和あり。

 

総括 輝きのある思い出を作り続ける
もうどれだけ久しぶりであるかも忘れてしまったのだが、

久しぶりに文菊師匠を見ても、やはり文菊師匠は素晴らしかった。

文菊師匠が素晴らしくなかった時など、これまで一度も無かった。

私の、数少ない友人と同じように、文菊師匠は常に素晴らしかった。

それで良かった。それだけで良かった。

去年一年間のドタバタの中で、私は自分でも知らないうちに心を擦り減らしていたのかもしれない。それがどういう理由かも私には分からない。

それでも、改めて文菊師匠の高座に触れ、そこで『笠碁』を聞くことのできる喜び。

笠碁という演目が私は大好きである。誰で聞いても良い。

未だに春風亭一之輔師匠の『笠碁』は私の中でベストで有り続けているが、

それでも、しみじみと待つことの尊さを確かめるのだ。

これは、学びであろうか。否、それはもともと私の中にあるものなのだ。

誰かを待っているときほど、幸せな時間は無い。

待って、待って、そして、ようやく会える。

その喜びを噛み締めて、今日も眠りにつくのだ。

そして、明日も私は喜びを噛み締めて生きて行くだろう。

輝きのある思い出を日々、作り上げていく。

それが、私の生き方なのだ。

あなたが、素敵な演芸に出会いますように。

それでは、また。どこかでお会いしましょう。