落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

フィボナッチしようよ

  METAL

とにかく世間は、めまぐるしく変わる世間とやらは、家に帰れば石鹸で手を洗い、下手をすれば折檻なんてことにもなりかねない状況の中で、我慢の3連休の初日を迎えた。全く、どうしようもなく人と接触することが嫌になり、しつこい飲みの誘いも「会社から止められてるんで」と言って断る。或いは「親から外出するなって言われてるの」と断られる。あらゆることをシャットアウトして、ひたすらに自己研鑽に励むのだから、僕も周りからはつまらない奴だと思われていることであろう。

もちろん、外に出て遊びたいという気持ちはもちろんある。だが、海へ行くのに山登りの恰好で行くことが無いように、コロナ感染が叫ばれている最中、素知らぬ顔で街を闊歩するということは、僕にはできない。というか、そんなことをするくらいだったら、もっと有意義なことに時間を使いたい。

まるで、フィボナッチ数列みたいに、一昨日と昨日の自分を足すと今日の自分になっている。それが、はっきりと感じられる。着実に、着実に何かが増えて行く感覚があって、僕はそれを楽しんでいる。

美しい数学の式のように、規則性の中に輝きを見出すことができたら、それはとても幸福なことではないだろうか。日に日に成長する子供を見ているような心持ちにさえなってくる。一周回って、また元の位置に戻って来ても、見えている景色が少しだけ異なっているなんてことが、人生には起こりうるのである。

だからこそ、僕は今年、あまり落語を見ていない。エンタメを見ていない。話芸に触れていない。ブログもそれほど多く書いていないし、交流も殆どない。それは、別に悲しいことではなく、自然の流れとしてそうなっていることだから、何も悲観していない。来る時が来れば、そのときになって、書きたいという気持ちが沸き起こってくる。丁度、今こうして僕が文字を書いていることと同じだ。

元来が無責任な男で、気まぐれだから、書きたい時もあれば、書きたくないときもある。去年に比べれば、明らかに書きたい気持ちは減った。反対に、書かない時間こそ蓄えの時期であって、田植えで言えば苗を植えている時期であって、そういうときはジタバタせずに、稲穂になるまで待つしかないのである。

僕自身の趣向が、がらりと変わってしまったことは、もう何度も前から書いている。金融・英語のスキルを身に付けようと、せっせと、体たらくな自分に鞭打っている。日進月歩とは良く言ったもので、亀の歩みのように遅い自分ではあるが、着実にフィボナッチしているのである。

フィボナッチしながら、オイラーは学んでエルデシュ

文章の美しさは、数学の美しさと等しい気がする。

文章の美しさとは何か。それは、短歌や詩のような、短いながらも奥行きのあるものを意味する。もちろん、短歌や詩を文章と言って良いかは分からないが。

五十音から広がって行く日本語の、あまりにも繊細で不確かな言語感覚を、僕は他のどの言語よりも好んでいる。正直、日本語で思考できて良かったとさえ思っているくらいである。日本人は、どこまでも曖昧で、はっきりとせず、ぼんやりしたものを好む。言語が思考に与える曖昧さは、そのまま悩みに直結するかも知れないし、もしくはこの上ない幸せを呼ぶかもしれない。ただ、僕が感じるのは、どのような言葉を用いるかによって、その人の品性であるとか、生き方のようなものが、ある程度分かってしまうということだ。たまに語彙の少ない人たちを目にすると、少し心配になってしまう。

何を見ても「ヤバイ」、何を食べても「ヤバイ」、何か聞いても「ヤバイ」

そのうち「ヤ」とか、[y]みたいに、どんどん短くなっていくのではないかと思う。数百年後には、ヤ、マヤ、マーヤ(ヤバイ、マジヤバイ、マージでヤマイ)みたいな文章が出てきてしまうかも知れない。そうなったら、それはそれで凄いと思うけど。

ヤバイは、シソーラスではどこに属するんだろう。とても美味しいという意味はヤバイに集約されるだろうし、お腹が空いたらヤバペコとか言うんだろうか。素晴らしい音楽を聴いて、感想がヤバイだったら、なんかよく分からなくてヤバイ。

とりとめのないことを、つらつらと書いておしまい。