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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

なにもなくてもしあわせ~2021年11月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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幸福なる生活は、心の平和において成り立つ。

キケロ

Ask too much

 晴れているのに涼しい秋の日の朝が、私はたまらなく愛しい。夏と違って、晴れていれば晴れているだけ暑いというわけではなく、晴れていても、場合によってはジャケットを一枚羽織らなければ寒いという秋の、そのなんとも言えない切なさが、私はたまらなく愛しい。

 たまたま4日に休みを取った。特に何かを考えていたわけではなかった。ただなんとなく休みたいと思って休んだら、それが4日だった。4日を迎えてふいに、「ああ、そういえば四の日寄席があるな」と思い、普段なかなか行く機会が無いので行ってみようと思い立ち、スタジオフォーを訪れた。

 

 季節はゆっくりと変わるのに、人の思考はめまぐるしく変わる。そんなことないよ、という人もいるかもしれないが、私にはそうは思えない。つい数年前までは「死ぬこと以外かすり傷」だとか、「革命のファンファーレ」というような、いわば『タフな成長を望む考え』が声高に騒がれていた。だが現在は「1%の努力」、「脱成長主義」という言葉が目立ち、成長する人できない人、成長したい人したくない人と、幅広く声をあげている。それほどに思考の変化は激しい。

 翻って自分はどうか。正直、もうなんでもいいのである。自分が楽しいと思うことを、楽しいと思うがままに、楽しくやれれば。ほかに何を望むというのか。私は働かないために働いているのであり、お金を稼ぐためにお金を使っているのである。結局は食うに困らない金さえあれば、後は野となれ山となれといった感じで、好きなようにやるだけである。

 ところが、そうなってくると世間には「金があるなら金の無い人に与えろ」とか、「君の考えは不幸せだ」と言ってくる人がいる(実際に言われたことはないが)仮にそんなことを言ってくるような人がいたら、私の言うことは決まっている。

 「お気遣いありがとうございます」

 以上だ。

 自分が何を求めているか、そして何を求めていないかがはっきりしていれば、後はそれに沿って行動をするだけだ。

 スタジオフォーに入って、ぼんやりと周囲を見回すと見知った顔の人もいれば、知らない顔の人もいる。自分とは無関係な人々が、高座に上がる落語家を見るために場を共有する。本当に不思議な空間だと思う。名も知らず、年齢もバラバラな老若男女が一つの場に集まって、落語家の語りを聞いて笑う。どうしてこんな空間が成り立つのだろうか。それはさまざまに理由があるだろう。一つだけ言えることは、そのような空間のことを人は平和と呼ぶ。

 

 古今亭文菊 やかん

 最初に高座に上がったのは文菊師匠だった。前日は温泉旅館での落語会があったらしく、そこから帰ってきたばかりだと言う。世間のおこぼれに預かるという落語家の立場を語りながら、落語イントロドンで上位に食い込むであろう「愚者、愚者」のワードから、演目はやかん。

 これが実にくだらない話なのだが、そのくだらなさに客席が物凄いウケていた。私も久しぶりの落語であり、やかんというくだらなさのオンパレードなネタを文菊師匠で体験することになるとは思っておらず、会場の雰囲気に混じって笑っていた。すると、ある場面で文菊師匠も心の底から「くだらないなぁ」と思ったのか、思わず笑って、会場にいた人たちと同じように落語を楽しまれている様子だった。

 それがなんだか強く印象に残った。なんとも言えない嬉しい気持ちになったのだ。舞台で演技をしている人が笑うというのは、なんとも言えない嬉しい気持ちになる。それは聴く側も演じる側も、双方に楽しんでいるということがはっきりと感じられるからであろうか。あるいは、何か互いに共通のものを共有したという喜びであろうか。

 とにかく、文菊師匠の思わぬ笑みが私の記憶に強く残ったことは間違いない。このような偶然の出会いも、落語を体験するうえで貴重な思い出である。

 やかんという落語は本当にくだらないのである。一ミリも役に立たないし、覚えたことを人に話したところで、「だから何?」で終わってしまうような、他愛もない話である。だが、そのような話であるがゆえに、それを笑えるということの、人間のどうしようもなく懐の深い、優しさみたいなものを感じるのである。

 それを、品のある文菊師匠が語るということのおかしみ。上手く言えないが、くだらなすぎて破裂音がするのである。きゅうきゅうに押し込まれて、パンッと破裂する感じと言えばいいだろうか。「本当にくっだらねぇなぁ~」と思うときに弾ける何かがある。それが面白い。真にくだらないこと、どうしようもないことに出会ったり、そのような状況に陥ると、人は理由なく笑うのだろう。それは真理だと思う。そして、私はそれがとても美しいものだと考えている。

 記憶に残るくだらない話だった。

 

 桂やまと 禁酒番屋

 普段あまり会う機会の少ないやまと師匠。愛されオーラ全開で語られた禁酒番屋も、これまたくだらない話である。私は久しく酒を飲んでいないが、飲みたいという気持ちはある。しかし、飲むと人がダメになるから飲まずにいる。それでも、飲みたいという気持ちは多少ある。ダメになるとわかっていても、飲みたいと思うのだから、酒は避けては通れない。

 門番が次第に酔っていく様子が細かく表現されていて面白かった。

 

 古今亭駒治 野球少年の作文・令和狂騒曲

 久しぶりに体験する落語家さんばかりで、改めて感慨深い気持ちになりながら、相変わらずの耳心地の良い語りをする駒治師匠。時事ネタ全開の野球ネタから、これまた時事ネタ全開のネタ。師匠との心温まる(?)エピソードも含めて、怒涛の勢いで語る駒治師匠。会場が笑いに包まれた。

 私はあまり野球に詳しくはないが、ヤクルトスワローズのファンであればたまらなく面白い落語だと思った。

 

 古今亭菊志ん 締め込み

 菊志ん師匠ならではの勢いのある語りが面白かった。女性の演じ方を見ると、その落語家さんがどんな女性像を描いているかが知れるので、色んな人の女性の演じ方を見るのは面白い。

 

 初音家左橋 夢金

 最後は穏やかな表情でまったりと語る左橋師匠。欲にまみれた主人公が登場する夢金という話を丁寧に語られていた。世間がどのような状況になっても、欲の皮が突っ張った人というのは存在する。決してそれが悪いことだとは思わない。人それぞれ、何かを求めていて、それが金であるだけだと思う。

 どんな結果になろうとも、自分の欲に忠実に生きることもまた人なのだと思う。

 

 総括 なにもなくても

 何かを求めて歩むことも、何も求めずぼんやりと歩むことも、結局は歩んでいるから変わりない。周りの人々は「成長だ!成長こそ豊かさだ!」と言う人もいるし、「今の日本は十分豊かだから、成長なんて不要だ」と言う人もいる。そのような意見を聞いて、自分がどう思うかの方がはるかに重要である。そして、それに対して後悔しないことだ。後になって後悔するようでは、まだまだ詰めが甘い。どうせ年を取れば体が言うことをきかなくなって、嫌でも行動範囲は狭められる。それまで、好きなだけやりたい放題パケ放題やるのか、それとも、今のうちから「これぞ我が道」と決めて行動するのか、それは全て個人に委ねられている。

 とやかく世間は、奇抜な発想だとか、やれ技術力だ、やれ成長だ、やれ分配だなどと言うが、それを聞いて行動するのは結局個人である。個人の働きが、個人、そしてその個人の周辺にいる人々を豊かにするのである。言葉であれば、全世界の個人と繋がれるので、その点を私はオススメしたい。

 なにもなくても、言葉さえあれば、どうやら私は生きていけるらしいということが最近になって分かった。日本語だけでは物足りず、この半年英語で文章を書いたり話したりということも増えた。着実に身になっている気がする。

 本当に何もなくなったら、最後には語りがある。落語がある。だから安心して、色んなものを求めて、手にして、そして捨てて、その繰り返しに飽きたら、ただぼんやりと落語家の語りを聞いていればいい。今はそんな風に思う。

 皆さんが素敵な演芸に出会えることを祈って。

 それではまた、いずれどこかで。