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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

人生はデバッグできないプログラム(?)~2019年10月6日 夜の部 ていおん!!!! ナツノカモ低温劇団~

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これはバグだよ、バグ。

  Is your life a program?

自分の人生が神様にプログラミングされたアプリケーションだなんて考えたことがあるかい?

僕にはあるよ。ちょうど、プログラミング言語を学習していたときのことさ。

C言語とかアセンブリ言語とかあったけど、C++言語を学んだ時なんて、アルファベットのCが一人でプラプラ散歩でもしているのかなって思っちゃったけどね。

自分でプログラミングしたアプリケーションを実行すると、色々と問題が起こったりするんだけど、たとえば10秒に1回、犬の餌が放出される機械のプログラムを作ったとする。でも、ちょっとしたプログラムの書き間違いで、1秒に10回とか、100秒に1回とかの間隔で犬の餌を放出してしまった。おや、大変だと思ってプログラムを書き直すとする。この場合、プログラムの書き間違いは『バグ(bug)』と呼ばれ、書き間違いを修正することを『デバッグ(debug)』って言うんだ。

そうした作業をしていくうちに、自分の人生におけるバグってなんだ?ってことを考え始めたんだ。僕の過去はもう二度と書き換えられない。思い返せば、なんであんなことしたんだろう?って思うことは多々ある。僕の人生は神様にプログラミングされて実行されたアプリケーションなのか?なんて考え始めて、ちょっと怖くて眠れなくなったこともあるよ。

でも、考えて見たら僕の人生は現在進行形だし、常に書き換えられていくプログラムみたいなものだから、あらゆるところでバグは起こっているし、そのバグを修正しないままに生きてきたからこそ、今があると思っている。男女が結婚して子供を産むことだって、もしかしたら大きなバグかも知れないし、ずっと一人のまま死ぬこともバグかも知れない。数えきれないほど他人という名のプログラムに触れたことによって、考えられないほどのバグが起こっているのかも知れない。きっと、それらは神様にはデバッグできない。唯一、自分の人生のプログラムを書き換え、自分の進みたい方向に実行させることが出来るのは自分しかいない。その先に待っているバグを受け入れることしか、僕らには出来ない。人生は誰にもデバッグできない。バグをバグとして受け入れてきたから、今の君があるし僕がある。強制的にシャットダウンしないように気を付けてさえいれば、プログラムはEND命令が書かれるまで続くのだ。

ずっと、僕は他人とズレていると思っていたけれど、それは僕自身が持つ僕というプログラムのバグかもしれないと思った。この愛すべきバグを僕は受け入れている。あまりのショックにシャットダウンすることもなかった。僕はデータを保存し続けているし、それは常に新しいプログラムを書く助けになっている。

なんでそんなことを考えたかって?

それは、ナツノカモ低温劇団を見てしまったからさ。

ずっと僕が『ズレ』だと思っていたものは、ある視点から見れば『バグ』だった。そして、その『バグ』は『デバッグされないバグ』だったんだ。こんな面白いことって他に無いよね。おそらく、世界で働くプログラマーは極力バグを失くそうと努めてる。バグが無いようにデバッグし続けている。ゲームだって、発売前には人を雇ってバグを徹底的に洗いだそうとしてる。

でもね、ここには、そう、ナツノカモ低温劇団には、デバッグできないバグがあって、その輝きってとんでもないものなんだ。君にも僕にもバグは数えきれないほどあるけれど、それを認めることって凄く大事なことなんじゃないかなって思う。そりゃ、デバッグしたくなったら、いつでもデバッグしていいけれど、でも、そういう予期せぬ不具合であるバグを受け入れて生きたら、もっと人生は面白くなるんじゃないかなって思う。

とてもとても面白いナツノカモ低温劇団の第四回『ていおん!!!!』を見て、ぼくはそんなことを思ったんだ。

君の人生は誰かにプログラミングされたもの?君の人生はバグの無い完璧な人生?

そんなことを、あなたに問いながら、素晴らしいコントの一つ一つを見て行こう。

 

01 遮る

左におさむさん、中央にこば小林さん、右にやすさんの構図。

おさむさんとやすさんは互いに話を進めているのだけれど、途中で遮って全く話が前に進まない。痺れを切らした小林さんがツッコミを入れるのだが。。。

というお話で、僕は思わず心の中で唸った。

 

 これぞ!!!低温!!!

 

僕の思う低温感にピッタリと当てはまるコントだった。特別なことは何も起こってないのだけれど、人の話を遮るという単純な行為が飛躍して、『話を遮らないとまともに会話できない』という部分が最高に素晴らしい発想だった。これは立川吉笑さんが『ハメモノ落語neo』で実践していた、『腹話術だと名人の語りになるが、普通に喋るとド素人の語り』になるという状態と同じ面白さがあって、吉笑さんとの共通点が発見できて面白い部分だった。

他者との対話において、自分の発言がどのように相手の影響を受けているのかを考えさせられるコントだった。自分で考えている言葉も、実は相手の合いの手であったり、遮りによって誘発されているのではないかと考えると、相手の存在はとても重要だな、と思う。僕は日常で他人から質問されることが多々あるのだけれど、質問者の知性は質問の内容に出ると思っている。僕の発言に対して、どこまで先を見ているのか、また、どのように捉えているのかが質問に如実に出る。質問の質というものから、僕は相手が聡明であるか否かを判断している部分があって、それによって相手の理解度に合わせて発言している部分は確かにある。

一人で文字を書いて文章化しているときであっても、僕は僕自身に問いながら書いている。こう書けば伝わるだろうか、とか、こう書けば誤解が無いな、などと考えているうちに、やっぱり止そう、と思うこともある。列車で言えばレールに乗りながら分岐して走っている感覚がある。

『遮る』のコントでは、普通にレールの上を走っていた列車が、最初は分岐点で曲がりながら走るのだが、徐々に分岐点が増えて全然前に進まなくなり、さらには全く走らなくなり、走り出して再び分岐したかと思えばレールが無くて走れなくなり、再び走り出して分岐をしたら、同じ道を走っているというような感じがある。

真っすぐに進まない列車のうねりや脱線がとても面白いのである。人と人とのコミュニケーションにおいても、真っすぐに進まない列車であったり、人数が多すぎて遅い列車であったり、空中を飛んで新しいレールを走り始めるというように、ダイナミックなコミュニケーションが巻き起こる。

それらは人が意図して起こしているものもあれば、偶然に起こってしまうことだってある。普通に高速道路を走っていたら、煽られて車を止められ、降りてきた運転手に殴られてしまうことも起きる。そういうバグに出くわしたとき、人は困惑するし、どう対処して良いかわからない。どうすればよかったのかは後になって分かるけれど、デバッグできないから、どうしようもない。

『遮る』のコントには、そういうバグがなぜ起きるのかは説明されない。ただ現象としてそうなっているということを受け入れる気持ち良さがあって、見る人が見ればそれは不快にもなるかも知れない。「何この人たち、話が通じなくて気持ち悪い」と思うのは、おそらく、真っすぐ走る列車の美しさに強い思いがあるからではないだろうか。列車は真っすぐ走るものだという考えが強くあると、なかなかうねったり、脱線したりする列車は受け入れがたいのかな、とも思う。僕は全然気にならないけど。

高速道路の例は残念な事件だけれど、『遮る』というコントには、バグが起きて真っすぐ走れない列車の走行を見ている面白さがあった。その列車に、僕は喜んで乗っていたのだった。

めちゃくちゃ面白い内容で、一人で笑っていた気がする。このコントを冒頭に持ってくるセンスに脱帽。素晴らしいイントロダクションだと思った。

 

02  虹のこどもたち

虹の鮮やかさが想像の中で美しく七色に輝くコント。雨上がりの何とも言えない爽快感と相まって、素敵なコントである。

虹に登るという発想が好きだ。虹はいつか消えてしまうものだけれど、そこに登ろうする発想がとても素敵だと思った。旅行の時に、空間を隔てているかと思うほど立派な虹を見たことがあって、僕はその景色を思い出していた。

最初に虹に乗っているしまだだーよさんの不思議な説得力もさることながら、藤森のキャラの面白さと、虹の上で語られるノリコの話がとても面白かった。しまだだーよさんとやすさんの魅力で強烈な説得力の生まれているコントだと思う。

虹って、どうしてできるんだっけってことを考えたり、そもそも虹の存在理由ってなんだろうか、とか、虹って漢字は虫っぽいなと思ったりしたけれど、虹という言葉の由来は『空にかかる大蛇』なのだそうで、随分と色鮮やかな蛇だなと思う。

虹は世界各国で色の数が違う。日本では七色だが、アメリカでは六色、ドイツでは五色である。人によって見え方が違うということの象徴として虹があるのかな、と思いきや、台本を読んでビックリした。これを無意識でやっているナツノカモさん。海のはしごでも感じたけれど、日常の中に何の違和感もなく存在している象徴的なもの、梯子だったり虹だったり、何の意味があるんだろう?と思い思いに考える楽しさがあって、ナツノカモさん自身の好みと相まって、とても童話的な面白さを感じた。

コントの非日常的な場面と、日常的な会話のミスマッチ感がとても好きだ。こういう雰囲気で放たれる藤森の言葉って、なんて素敵なんだろうと思った。

 

03 月の裏側

もはやこれは『カオス版 笑点』と言って良いのではないかと思うほど最高のコントである。司会進行役を務めるサンキュータツオさん然り、座布団ではなく椅子に座る個性あふれるウサギ達が思い思いに議論(?)しあう様子を見ているのがめちゃくちゃ面白い。笑点だと上手いことを言うと座布団が貰えるのだが、このコントでは誰一人として上手いことを言うことも無ければ、たとえ正しいことを言ったとしても、それが浮いてしまう雰囲気があって何ももらえない。週一回で良いから金曜日の夜とかに見たいコントである。

一見無秩序に見えながらも、『問題を出し、それに解答する』という形式だけは保たれており、最後には固い結束へと繋がっていく。というか、その形式すら崩壊してしまったら、もうこれは全く意味不明な謎のコントになってしまうので、秩序がありながら混沌としていく様を見て行くのがとても面白い。さりげなく根底で秩序を保ったうえで、そこから生える枝の突飛な形状を見る面白さがある。

前述した列車の喩えにもあるように、ひかれたレールは正しく機能しながらも、時に脱線したり、全然違うレールを走り始めたりする様子を見るのが面白い。これは一言に『わけがわからない』とは言い切れない面白さがあって、それは数式におけるXが何の数字なのかを探すことに似ている気がする。X=2だったかと思えば3だったり、100だったり、27だったりする面白さがあって、なかなか正解に辿り着けない面白さもありながら、思わず正解に辿り着いた驚きもあるというようなコントだった。

改めて思うけれど、ナツノカモさんの数学的なコント・センスが凄まじく、一つのビッグ・シリーズになるんじゃないかと思うほど、素敵なコントである。テレビ番組でこんな番組があったら、絶対見ちゃう。

 

04 発明家の系譜

今回は「ここ、絶対アドリブだな」というのがわかるほど、インコさんのアドリブが強烈に炸裂したコント。無機質で寂しげな声色のしまだだーよさんの冷静なツッコミもさることながら、天才発明家であるインコさんの胡散臭くもありながら、ズ抜けたカリスマ性を醸し出す博士の対比がとても面白い。

どんなに天才と呼ばれる発明家であっても、完璧なものは作れないのだなと思いながら見た。偉大なる発明も全ては発明家の視点で生み出されている。その発明家が見過ごした些細な点が、実は小さな欠陥になったりするのだな、ということが感じられるコントだった。

面白い味付けになっているけれど、一つ一つのテーマはハッとするようなものだった。挨拶やお掃除ロボや痴漢や傘などの日常のテーマに対して、「言われてみれば確かに・・・」と思うような話題から、終盤になって衝撃的な事実が提示されるまで、インコさん演じる博士の怪しさもさることながら、それに負けないしまだだーよさんの雰囲気が光るコントだと思う。

僕が冒頭に書いたプログラムのバグとデバッグのように、誰かが作ったものには必ず何かしらの不具合が残っている。それは残ったまま一生世に出ることは無いかも知れないし、世に出た時には重大な欠陥として認知され、すぐさま修正されてしまうかもしれない。このコントには、発明家も気づかなかったバグがそのままにされ、日常に対する些細な疑問がデバッグされないまま残る。自分ではどうすることも出来ない運命に、肩を落とすしまだだーよさんの姿に、ぼくは森鴎外を思い出していた。

自分の望む本来の生き方とは、180°違う生き方をしなければならなかった森鴎外。そして、それは森鴎外自身にはどうすることも出来ない運命のせいだった。ということを、昨日の森鴎外記念館で平野啓一郎氏が言っていて、その言葉が『発明家の系譜』というコントに繋がった気がした。

自らが抗えないもの。それは挨拶であれば常識、ロボットであれば自らの機能、痴漢だったら性欲、傘だったら雨というように、それらに抗おうとして案を出せば、それらは非現実的で突拍子も無いものになる。インコさん演じる博士は突拍子も無いように見えて、意外と正しいことを言っているように思えた。その実現を諦めて妥協案というか、言葉を放つしまだだーよさんの説得力によって着地する会話が面白い。

結構、凄いコントだと思う。上手く言えないけど、凄く哲学的でもあるし、やっぱり森鴎外っぽさを感じるなぁ。『高瀬舟』で言えば、弟を殺さざるを得なかった罪人を思い出す。もしかしたら『最後の一句』のような作品をナツノカモさんが生み出すのかも?という期待はさておき、今後のとてつもない可能性が見えた素晴らしいコントだった。改めて思うけど、インコさんはめちゃくちゃ面白い。

 

 05 出番が来るまで

しまだだーよさん作のコント。タイトルの素敵さもさることながら、昨日のカレーを温めての二人の雰囲気が素晴らしいコントである。特別なことは何も起こらないのに、おさむさんの間とやすさんの強靭なメンタルが溢れ出したコントで大好きである。個人的にめちゃくちゃツボなおさむさんのツッコミが面白い。特にファミチキ・Lチキのくだりは最高に面白かった。なぜ面白いのか上手く説明できない。なんていうか、地元の友達が普通に会話しているだけで面白い感じに似ている。いやー、これは上手く説明できない。

台本を見て驚く。敢えて書かないけれど、なんていうか、野球選手に限らず、何か人の注目を浴びる舞台に立つ人たちって、きっとこういう馬鹿な話の延長線上にいるのかも知れない。普段は好きな趣味の話をしたり、最近あった面白い出来事を話し合ったりしながら、タイミングが来たらきっちりと仕事をする。それがどんなにつまらない仕事であっても、きっちりと仕事をする。その喜びを味わって次に進む職人の心意気のようなものが、このコントにはあるように思えるのだ。

しまだだーよさんの着眼点と、それをコントとして成立させる技術も素晴らしいと思った。再演ということで、前回はどんな感じであったのかわからないけれど、地味に味わい深いコントだった。

 

06 ロボットの未来

01~05に通底する流れを繋げた集大成のコントであると思う。前半に雫のように落とされた『バグ』という言葉が、ここで一気に開花する凄まじさに鳥肌が立った。

私は過去二回の記事で、『ズレ』という部分を書き記してきたが、今回ははっきりと『バグ』という言葉に書き換えられている。これは凄い更新だと思う。前進する更新である。

台本の最後のナツノカモさんの言葉を読んで、思わず「うおお、すげぇええ」と唸ったのだが、ナツノカモさんが『ズレ』を『バグ』に変換していた点が、僕自身も全く発想に無かった言葉で衝撃的だった。

と同時に「しまったー、その視点があったかー」と、ちょっと悔しさがある。くそう、私が先に気づきたかった(笑)

前半から感じていた『バグ』の蕾を、おさむさんという存在で開花させ、さらにはそれに誘発されたように次々とバグっていく周囲。戸惑いながらも楽しんでいる様子のナツノカモさんの笑顔が素敵だった。考えてみれば、前々回も前回も、殆ど『バグ』が起こっていて、その『バグ』の面白さに私は魅了されていたのだった。お気づきかもしれないが、私の人称もいつの間にか僕から私に変わっているではないか。これも『バグ』だ。

天国でもバグが起こるとか、ロボットが死ぬ装置という発想が素晴らしい。何もかもが不自由なく完璧な世界に見える天国の不完全さ、ロボットという永遠の存在に敢えて与えた欠陥など、世の中の不完全さを見事に面白さで表現していて、なんというか、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』という映画のラストシーンを見ているような陽気さがあった。まさしく、最後のオチの通り、あの世もこの世も大差が無い空気が充満していて、怒涛のバグっぷりが最高だった。

正にロボットをテーマにしたことの新境地というか、今まではぼんやりと『ズレ』だろうと思われていたものが、ここに来て『バグ』という一つの現象に書き換えられたことによって、我々が生きている人生そのものの不完全さを問うような作品に仕上がったのではないかと思う。

一体、ここで『ズレ』を『バグ』に書き換えたナツノカモさんが、次にどんな言葉に書き換えて行くのか。それとも試行錯誤しながら、また新しい展開を見せて行くのか。

物凄い楽しみな、可能性に満ち溢れた最後のコントだった。

 

 総括 404 not found その先の『遊び』

頬骨が凄まじい熱さで、終始面白くて笑いっぱなしの公演だった。驚嘆しているのに面白いという不思議な公演である。唐突にやってくる悲しい設定に感情が追い付けなくなることもあった前々回や前回だったけれど、鑑賞し続けた私にもどうやら慣れが生じてきたようで、ある程度『低温』という温度と校正(基準となる温度に対する差を知り、それを埋める補正値を導くこと)が取れてきたのかも知れない。

面影スケッチコメディを見たときのナツノカモさんは、全てが真っ白な衣装だった。対して、ナツノカモ低温劇団では全員が黒一色である。モノトーンの対比には何か理由があるんだろうか。なんとなく、白ではない気がするのはなぜだろう。もしかしたら、今後は突然、真っ白な衣装のキャラが出てきたりするのだろうか。

面影スケッチコメディを見たせいもあるのかも知れないが、『面影~』がナツノカモさんの『骨』の部分であるように思え、ナツノカモ低温劇団による『ていおん』は『肉や皮や神経』の部分であるように思えた。『面影~』には、ナツノカモさんの骨の、クールな温度があって、『ていおん』にはナツノカモさんのコントに、ナツノカモさん自身も制御できない劇団員の予測不能な行動があって、それがまるで、自分の意志とは無関係に秩序を持って動く内臓のように感じられたのだ。自分で望まずとも胃が胃液を出して物を消化するような人間の生命の動きが、『ていおん』にはあるように思えた。

相変わらずおさむさんは最高だし、インコさんの急激にボルテージの上がったアドリブであったり、やすさんの鋼のメンタルが全身から滲み出ていたり、こば小林さんの真面目にボケてる感じだったり、タツオさんのワイルド感だったり、しまだだーよさんの不思議な空洞感だったり、ナツノカモさんのプログラマー感だったり、改めて、ナツノカモ低温劇団の新しい可能性と方向性を見た公演だった。

最後のアフタートークでは、めちゃくちゃ『バグ』という言葉について質問したかった。「ナツノカモさんのコントには、デバッグされないバグがありますが、どの程度意識的に書いていますか」とか、「おさむさんのバグ感をどう捉えていますか」とか、気になったけど、台本に書かれた最後の言葉で、もしかしたら僕の記事を見てくれたのかな、なんてちょっぴり淡い期待をしてしまったりして、少しドキドキしてしまった。

とにもかくにも、凄い公演だった。僕の人生は誰にもプログラミングされたものじゃないし、デバッグもできないし、そもそもプログラムじゃないということだけは書いておこう。人が創作したものには、必ず何かしらの欠陥がある。それを排除するか、そのままにして楽しむかは自由である。

こと工学の世界では、創作物に対して『遊びを残す』なんて言葉がある。まさしく人生も同じでは無いだろうか。まだまだ私の生きる人生には『遊び』が残されていて、死んだ後にも『遊び』は残されているのかも知れない。意図してプログラマーが残した『遊び』を発見する喜びも、人生には無限にある。

見つからなかったら、また探せばいいのだ。あなたにも、ぼくにも、きっと無限の『遊び』が残されている筈である。

そんな『遊び』をたくさん発見した『ていおん!!!!』の公演。ナツノカモさんは『遊び』を残す素敵なコント作家であり、自身も『遊び』としてコントに参加する素敵な人である。

色んな『遊び』に魅了されて、遊び過ぎちゃってもいいんじゃないか。もちろん、本業も疎かにせずに、私はやっていきますけども。

本当に素晴らしい公演でした。見る度、凄さが増している!!!!

次回も、必ず行きます。

それでは、また。どこかでお会いいたしましょう。

バイビール~

上野探訪、秋を間近に~2019年9月28日 上野 不忍池界隈の散策~

 

私にはこんな風に世界が見えた

  

見たくなったら

「もうすぐ、九月も終わりか」

スマートフォンを片手に、私はドラクエウォークのログインボーナスを受け取り、布団から這い出ると、空いている方の手で握力を鍛えるグリッパーを握った。

7月に入ってから、本格的に体を鍛えようと思い(本当はモテたいから)、食事制限、筋トレ、サウナと徹底して体を絞ったおかげで、この二か月で体脂肪率がグンッと下がり、腹筋がうっすら割れているのが見えるようになってきた。

毎年、私は9月ごろになると自らの肉体の『怠慢』を矯正するために体を鍛え始める。今年は少し早い。(ちょっと女性関係でショックがあった)

24歳の頃には『毎日10km走る』と急に思い立ち、最初の三日間は3kmしか走れず、自分の体力と脚力の無さに絶望したが、4日目で5km、5日目でかなりの時間がかかって10kmを走破。その後、12月まで10kmをとにかく走った。が、年末に食べ過ぎて集中力を失い、以降はダブダブの身体になった。

一度体を鍛え始めると、それこそストイックに鍛えようという気持ちが沸き起こってくる。自分の肉体の緩みをネジの閉め込みのように一つ一つ直していく。思考がクリアになっていき、なんだかモテるような気がする(気のせい)

30分ほど、映画『ロッキー』のサウンドトラックを聞きながら筋トレをした後、ドラクウォークを『WALKモード』にして、街へと繰り出した。

自然が見たい、と急に思ったからだ。私には何でも『急に』という思いがやってくる。急に食事をしたくなったり、急にトイレに行きたくなったり、急に映画が見たくなったり、急にモテたくなったりする。

きゅうに十八では無いが、9月も終わりに近づいて、とても過ごしやすくなった。こういう過ごしやすい日ほど、街に繰り出すのが良い。自然に触れるのが良いだろうと思った。

とにかく自然を見ようと思い、近場の上野を散策することにした。都内の自然は上野が良いと思う。特に理由は無いが。

 

 不忍池を泳ぐ愛

 

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上野の不忍池は、落語や講談の舞台になっている。殺生禁断の不忍池で釣りをしようとする不届き者が登場する『唖の釣り』や、左甚五郎が登場する『水呑みの龍』が有名である。

そして、最初の駅伝におけるゴール地点でもあるのだという。

さらには、画家である西田あやめさんが作品として描いた場所でもある。

ぶらりぶらりと不忍池を眺めていると、とにかく蓮が多いなぁ。という印象である。小人が傘にしても余りあるほど蓮が天へと伸びている。蛙の世界に商人がいたら、今頃はゲコゲコ財閥でもできているかも知れない。

ぼんやり歩いていると、小さな少女が両親に手を引かれて、スワンボートの乗船口に入っていくのが見えた。良かった、乗れたんだね、と思う。

私は、スワンボートに乗れなかった幼い一人の画家を知っている。その画家が描いた絵を思い出して、胸が締め付けられた。西田あやめさんの描いたスワンボートに感じた『スワンボートに乗れなかった悲しみによるブレ』が、私の胸にとーんっとやってきたのだった。

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水面を泳ぐスワンボートには、若い男女が乗っていて、足を交互に動かしていた。バシャバシャとスワンボートのお尻にある歯車が水を掻いて回っている。

私も、スワンボートに乗れなかった男である。否、乗ろうと思えばいつでも乗れるのだ。けれど、どうしても、一人では乗りたくなかった。それは、幾らなんでも寂しすぎる。

水面を泳ぐ愛を眺めながら、近場にあったベンチに腰掛けた。ちょうど、私の隣には老夫婦がベンチに腰かけていた。

「少し歩く?」

旦那さんが奥さんに声をかけた。

「足が痛い」

奥さんの言葉に旦那さんは、

「こっちの足が痛い?」

そう言って、奥さんの右足に触れた。

奥さんは首を横に振った。

「じゃあ、こっちの足だね?」

奥さんは首を縦に振った。

「来週の土曜日には、病院の先生に診てもらおうね」

旦那さんの眼差しを受け止めている奥さんの眼差しを、

私は見てみたいと思った。

しばらく不忍池を眺めた後で、

「少し歩こう。立てるかい?」

旦那さんは奥さんの手を取ってベンチから立ち上がると、そのまま奥さんの歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。

私の周りでは最近、色々と身の回りで訃報を耳にすることが多いのだが、少しでもご夫婦には長生きしてほしいと心から思った。

不忍池では、愛がゆっくり

水面を泳ぐ。

 

 ビルの向こう側

ベンチから立つと、ビルが見えた。西田さんが作品にしたビルである。

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あれ、こんなにビルとビルの間隔、離れていたっけ?と思いながら、自分の書いたブログを読み返した。

https://blog.hatena.ne.jp/tomutomukun/engeidaisuki.hatenablog.com/edit?entry=17680117127211077255

どうやら角度が違うことに気づいた。ビルの下には何があるのだろうと思い、その周辺を歩いてみることにした。

丁度、忍岡小学校があり、そこで運動会が開かれていた。子供達の大歓声が沸き起こっており、物凄い熱気が伝わってくる。そうか、このビルの下に、今まさに芽吹こうとしている大きな可能性があったのか。自分もかつては通った道。その頃の私は、確か応援団をやっていた。応援団長になりたかったのだが、生まれ持っての貧弱さが仇となったのか、応援団には入れたのだが、団長にはなれなかったことを思い出す。

私はスワンボートに乗れなかったし、団長にもなれなかった。

キル・ビルのテーマソング『BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY』が流れていた。子供たちはきっと、この英語の意味を知らないと思うのだが、もしも運動会で、このテーマのように、『仁義なき戦い』が行われているのだとしたら、ちょっとどうかと思う。

余談だが、先日カラオケで別室から、とても下手なのだが、その下手さが実に胸に感動を起こさせる歌い方をする少年がいて、その歌を聞いたとき、なぜか私は泣きそうになった。その歌には、恥らいも羞恥心も無い。明らかに誰が聴いても下手なのだが、まっすぐに歌う少年の歌声が、不思議と泣けるのである。上手く歌おうとしている自分が恥ずかしくなって、とても虚しい気分に陥った。一人カラオケは良く無いと思ったし、時に少年の純真さは、大人になった自らの心を完膚なきまでに叩きのめすのだと思った。余談終わり。

 

横山大観記念館

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不思議な巡り合わせもあるもので、長生きだったくらいしか知らなかった横山大観の記念館が、西田さんの描いたビルの周囲にはあった。入場料の800円を支払うときに舌がもつれ、「お、おとな、いちまん、いちま、一枚」と言って、受付の女性に怪しまれたが、偶然にも絵のガイダンスが始まったとのことで、ガイダンスを聞くことが出来た。

横山大観は、下絵を描かないのだという。とにかくじっくりと絵の対象物を眺め、何度も何度も書いては燃やし、書いては燃やし、ようやく納得のいった作品にだけ落款を施すのだと言う。

私も書いては消し、書いては消しを繰り返している。これと言ってテーマも設けない。書いている内に方向が見えるので、その方向に沿って書き直すということはある。だからなんだ、という話だが、横山大観は自らの心の中に風景を取り込み、それを自らの手で絵に表現していた。神がかった思考だと思う。

習作と題された絵は、もともとは大観が「燃やせ」と言ったものを、保存していた作品だと言う。すなわち、落款に至るまでの過程の絵である。

それでも、その凄さは見る者を圧倒する。墨一色であるにも関わらず、様々な色が、見れば見るほど浮かび上がってきて、はっきりと見えるのである。

『墨は五彩を兼ねる』という言葉通りの表現を、横山大観は自らの絵で表現していたのである。そして、その最たるものが『漁火』と題された作品である。これは、ネットなどで画像を調べると出てくるが、そこには無い絵の、生の魅力を是非味わってほしいと思う。

見れば見るほど、まるで絵そのものが一つの灯火の如く、揺れて、絶えず変化しているのである。一時間でも二時間でも眺めていられるほどの果てしない魅力が、『漁火』という絵にあった。

記念館の売店で『大観の言葉』を購入した。家の作りも大観の趣向が凝らされている。敢えて詳しくは書かない。是非、その眼で体感してほしいからだ。

 

 心つるつるに満ちて

横山大観記念館を後にし、再び不忍池を歩いていると、西田さんが捉えたのは恐らくこの角度であろうという場所に辿り着いた。

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ビルとビルの間隔も寄り添っている。ビルの下は若干生い茂ってはいるが、この辺りだろうと思って、ぼんやりと見ていた。

絵で表現できるものと、言葉で表現できるものは異なる。絵には絵にしか表現できないものがあり、言葉には言葉にしか表現できないものがある。それは、スミレがスミレとして咲くように。

西田さんの描き出した絵には、どこか淡い強さがあって、それは赤ん坊が差し出された母親の指をぎゅっと握りしめて離さない強さだ。改めて現実にある風景を見て、そこからあの絵を描き出した西田さんの、想像力と、絵として形作り上げた表現力に驚く。私には風景を見ても、それをどう絵にしていいかわからない。

でも、言葉にはできる。

曇り空の下で、物言わずにのんびりと葉を広げる蓮。無機質に見えるビルの中にも、住まい生活をする人々がいる。

私の見た風景には、飛び立っていく鳥の姿は無かった。生い茂る蓮が水面から伸び、けたたましい歓声の響く小学校の周囲に、ビルが建っている風景があった。

様々なものが、大地から生えるようにして立っていた。池には泳ぐ愛があった。池の周りには歩き連れ添う愛があった。一人孤独な男が歩き、考え、思いを馳せていた。

全てが、とてつもなく愛おしい。

生暖かい風に吹かれて、私は不忍池を後にした。

 

 寿湯へ

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散歩の疲れを癒すには、銭湯とサウナと相場が決まっている。旅行に行けば疲れを癒すのは風呂であり、山に行けば頂上の景色であり、海で言えばビキニのチャンネーであったりするように、散歩の疲れと言えば銭湯&サウナである。

寿湯は、サウナー(サウナ好きな人のこと)には有名で、塩サウナ、洞窟水風呂、大露天風呂がある。特に塩サウナと洞窟風呂の組み合わせは最高だった。

さらに、ラグビーW杯で、日本VSアイルランド戦が行われており、サウナ室は大盛り上がりであった。五彩に彩られた方から、異国の人々まで、夢中になってラグビーを見ていた。私も、そんな偶然に巻き込まれて、すっかりラグビーが好きになった。

思えば、不思議な巡り合わせばかりである。

西田あやめさんの絵を思い出した不忍池、そして横山大観の『見る度に変化する絵』と『墨は五彩を兼ねる』という言葉。そして銭湯では五彩で肌を彩った人と、『大番狂わせの一戦』を見る。これだけでもはや、十分すぎるほど刺激的である。

にも関わらず、私はこの後、新宿の深夜寄席に行くのである。

 

深夜寄席

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橋蔵さんは相変わらず橋蔵さんだったし、鯉白さんはさらに磨きのかかった変態だった。サイコパスと変態の後で、至って真面目なくま八さんの登場である。

くま八さんが、亡くなられた師匠を語る時に「うーん」とか「えーと、なんて言えばいいんでしょうねー」みたいなことを言っているときの、言葉が出て来なくて、必死に捻りだそうとしている感じが、凄く胸に響いた。

本当に大切な人との思い出を語るとき、言葉は見つからない。

それほど、くま八さんにとって金太郎師匠の存在が大きかったのだろう。エロと暴力の人だと言うけれど、それを語るくま八さんの語りには愛があって、それでいて、まだ全然実感の湧いていない感じが、リアルで、師弟の関係の凄味を改めて感じた。

色んなものを継いで、くま八さんは素敵な噺家さんになる。戸惑いながらも、もがきながらも、金太郎師匠の分というか、金太郎師匠と過ごした時間を思い返しながら、生きて行くんだろう。

くま八さんの『金太郎』と題された演目を見たとき、ハッとしてうるっときた。色々と苦しそうに、言葉を一つ一つ捻りだして語ってる全てが『金太郎』師匠そのものだったのだと思った。あの語りをしたくま八さん、そしてそれを聞いたお客さんの心の中に、金太郎師匠は生きている。

トリで上がった蝠よしさん。初めての噺家さんだったけれど、語りに蝠丸師匠のリズムとトーンが見えて、独特ののっぺりした感じが素敵な『引っ越しの夢』だった。

蝠丸師匠はお怪我をされて入院中だと言う。お体が一日でも早く健やかに治ることを祈るばかりである。

色んなものを継いで、魂と魂のリレーをしながら、芸は現代に生き続けている。きっと、落語を初めて話した人の魂や思いは、今もなお、形を変えながらも、その根底にははっきりと、確かに、生き続けているのだろう。

そんなことを考える一夜で、この日は締め括られた。

 

総括 秋はすぐそこ

秋の温度がやってきて、季節は穏やかに草木を染めて行く。紅葉の季節もやってきて、目にも彩な風景を見ることになるだろう。

ぶらぶらと歩いた記録を、随分と気の抜けた文章で書いてきたが、それもまた良しと思えるほど、穏やかで緩やかな一日だった。

考え過ぎても良くない。言葉を費やし過ぎても良くない。

秋はすぐそこにある。

秋を受け入れて、生きることに飽きないように、

毎日を楽しく過ごして生きたい。

そんな『散歩の秋』を思う。

記録。

ふと、ドラクエウォークを見ると、全員が瀕死の状態になっていた。

うーむ。

 

面影XYZ~2019年9月18日 ナツノカモ 面影スケッチコメディVol.1~

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書かされている

 

りんご

 

どうして一人で

 

どこへ行くかじゃない 

  過去と地続きの今

 高校生のときにアルバイト仲間の女子高生がおり、きっかけは忘れたのだが、その子は「わたしの人生は高校から始まった」みたいなことを言った。

 最初、私はその子の言葉の

 続きはこちら

 https://www.engeidaisuki.net/?p=174

ご報告と抱負も兼ねて 落語の加減乗除~2019年9月14日 17時回 渋谷らくご~

 

9月より、渋谷らくごにて記事を書かせていただくこととなりました。

森野照葉(もりの てるは)と申します。

とある素敵な女性に何から何までご助言を頂き、執筆者として選ばれることとなりました。

これまで支えてくださった、美人の皆様、野郎どもには感謝しても感謝しきれません。すべては私の実力と継続の結果であり、私に文才があり、私が持て余した才能の結果であり、私が誰よりも優れていたことの証左ですが(洒落です)、これに甘んじることなく、驕ることなく、より一層、落語を好きな方が増えることを望むとともに、落語好きな方に喜んで頂ける記事を書き続けていきたいとおもっております。

10月には、とある噺家さんの懇親会に参加することが決まっており、恐らく、私がどういう人間かバレてしまうと思いますし、「ああ、あの人だったのか・・・」とがっかりされるかも知れませんが、読者の皆様にも、また、演芸に携わり、演芸の世界でご活躍されている皆様とも、少しずつですが接していけたらいいな、と思っております。ま、ネットに顔出しは絶対にしませんが。

ご常連の中には、一体どうなっているのか分からないほど噺家の皆様と接点の多い方々もいらっしゃいます。そういう方々へのあこがれもあり、いつか自分もそうなりたいな、と思ってはいるのですが、根がシャイであり、なかなか人と接するのが難しい性格であるため、どうなるかはわかりません。

ひとまず、お読みいただければと存じます。

あなたのために、書きました。

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20190914-2/

本当はあなたと語りたいことが多いのですが、話すとなるとこぼしてしまう思いが多くなってしまいそうなので、こうして文章を書いている次第です。

酔うと、もうそれはそれは、舌が十枚あるんじゃないかというくらいに喋るのですけれどね。

簡単ではございますが、これにて、失礼。

心臓の鼓動(5)~2019年9月17日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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生きててよかったぁ。

 

心音

人には恋をしたときだけに鳴る心臓の音がある。それは一生のうち、何度鳴るかはわからない。悲しいかな、多くの男女はその音が鳴ったことに気づかないまま恋に落ちる。

恋に落ちたあとで、互いの心音を近くに感じるとき、お互いがお互いのリズムを確かめ合うことの弾けるような快さと、温度を伴って押し寄せてくる波が肌を撫でる安堵感に、人は心臓の鼓動を高鳴らせる。だが、一度でも互いの心音がかけ離れてしまえば、指揮者を失った楽団の演奏のように、互いの心音はリズムを失い、不快と不安の波に飲み込まれ、やがて恋は音もなく消えていく。

だからこそ、恋に落ちた男女が互いに求め合うのは必然のことであろう。互いに互いの心音がそばに無ければならないのだ。たとえ、それが世間にどう思われていようとも、互いの心音によって成り立つ幸福を知ってしまったら、心音のリズムを失うことなど人にはできない。

渋谷の街は、男女の崩されることのない心音で溢れている。残念ながら、その心音を私は知ることが出来ない。私には私にしか聞くことの出来ない心音があって、それはどうやらまだ、鳴る相手を互いに見つけていない。

かつて江戸の時代に、一人の男と一人の女、それも互いに美男美女。数奇な運命によって互いに惹かれ合い、心音を重ねあった男女がいた。

男の名を与三郎。女の名をお富。

男女の物語。語るは隅田川馬石。現代に生き、現代に語る、この一人の得体の知れない不思議な噺家は、遠い昔の物語を自ら編集し、毎夜高座に上がり、なぞるように、人の歩みの如く、一つ一つ確かめながら、今宵まで語ってきた。

そしていよいよ、最後の一席を語るために一人の噺家が高座に上がる。隅田川馬石。この男の計り知れない魅力を、一人、客席にいる男は見続けてきた。

客席にいる男は、自らを振り返る。

今年の初めにも同じようなことがあったな、と男は思い出す。

その時は、一人の講談師が語る、一人の男の人生を見たのだった、と男は思い出す。その時も五日間であった、と男は思い出す。

そして、その五日間を俺は語ったのだ、と男は思い出す。

俺は書き記したのだ、と男は思い出す。

今宵、一人の噺家が語る、男女の人生を見て、俺は何を語るのか。

そして、何を語って来たのか。

男は、自らの運命を思い出す。

男は、動き出した自らの運命に震える。

男は、語る場を得たことを確かめる。

かつての俺は、今の俺をどう捉えるだろう。

男は、じっと目を閉じた。

この場所で鳴る、多くの心音は今、一体どんな音を鳴らしているのか。

客席の男は、隅田川馬石という名の、一人の噺家の語る男女の物語を待ち望んでいる。この五日間、ずっと待ち続けていたのだ。

お富与三郎。

二人の運命やいかに。

 

 春風亭昇々 妄想カントリー

昇々さんに関しては、駄目な詐欺師の心持ちである。

カモを見つけても、騙ることが無い。

 

玉川太福/みね子 佐渡に行ってきました物語

かなり久しぶりになってしまった太福さん。私の浪曲熱の再燃があるかどうかは別にして、新作はやっぱり面白い。

でも、この五日間ですっかり馬石師匠の真剣味のある芸にハマってしまったから、太福さんでは任侠物を聞ける機会があることを望むばかり。

 

三遊亭兼好 天災

スピーディな語りと、随所に挟まれる可愛らしくて印象に残るボディランゲージ。なんて可愛らしいんだろうと思う。オリジナルで挟み込まれる小ネタも面白く、自信が漲っている感じが素晴らしい。お声がとにかく最高だし、ウサギがぴょんぴょん跳ねているのを見ているような可愛らしさがある。さらっと淀みなく立て板に水の語りができるほど、身に芸を落とし込んでいるんだろうなぁ、と思う。

個人的には相合傘と、殴ることによって何かしら忘れさせようとする短気な男が好きである。

大安売りや三十石など、ボディとお声を存分に活かした素敵で面白い噺の多い兼好師匠。これは暇さえあれば見に行きたい。が、私は面白いものは面白い人で、ある程度好みが出来てきたし、真剣なものは真剣な人で、この人で見たい!というのがはっきりしつつあるので、全ては気分と時間次第。

でも、安定して会場を味方に付けて、バッチリ笑わせる技量は凄い。なんて芸達者なんだろう。お人柄の良さが滲み出る高座だった。悪口も洒落っ気があって憎めない。

 

隅田川馬石 お富与三郎 その五~与三郎の死~

袖から馬石師匠が現れたとき、私は言いようのない感慨に打たれた。今日という日まで、お富与三郎という男女の物語を語ってきた馬石師匠。毎回、丁寧に扇子と手拭いを置き、簡潔なあらすじを述べながら一席ずつ語り終えて四日が過ぎ、ついに五日目、最後のお話を語ることの感慨。

今夜で終わってしまうのかという悲しみもあれば、また新たな馬石師匠を知ることができたという喜びもあり、また、落語というものの幅の広さを改めて実感してきた四日間であっただけに、最後もこの場に居ることができた運命に感謝する心持ちであった。

今業平と呼ばれた与三郎が木更津でお富と出会ったことに端を発し、全身に三十四個所の傷を受ける無残な仕打ちののち、一目を憚って江戸で暮らしていたところ、玄治店でお富と運命の再会を果たす。喜びも束の間、あらぬ嘘を吹聴した目玉のトミを殺害した二人。蝙蝠安に殺しの場を目撃され、強請られることに耐えられなくなった二人は玄治店を明け渡すが出刃を振り回しての騒動は絶えない。やがて奉行の無宿狩りにあって、与三郎は佐渡島流し、お富は無期懲役となって互いに離れ離れ。

島で死ぬのは嫌だと、与三郎はお富に会うため元後家人の後家鉄と坊主の松とともに、島を抜け出す。道中鉄は海に飲み込まれ姿を消すが、二人は何とか地蔵ヶ鼻に辿り着き、そこで漁師の弁慶なる人物に助けられる。江戸を目指す二人。泊まった宿屋で周囲に正体がバレた二人は、互いに二手に分かれて逃げ出すのだが、坊主の松は捕まり命を落とし、逃げた与三郎は自分に傷をつけた源左衛門と対面する。

一人では敵わないと思った与三郎は、仲間の助けを借りて赤間源左衛門を刺し殺す。その後、両国の横山町に戻ると叔父から両親が死んだことを知らされる与三郎。天涯孤独の身となりながら、叔父の助言を受けて品川で怯えながら生きる与三郎。

ある晩、与三郎は追っ手に怯えて飛び込んだ宿屋で島流しにあっていた時に親しくなった観音小僧の久次と再会する。久次は妻に挨拶をさせようと、与三郎に紹介をするのだが、久次の妻とはお富だった。

数奇な出会いに戸惑うお富と与三郎。空気を察したのか久次はお富に与三郎を手厚く労うように告げ、その場を去る。

再会に戸惑いながらも、与三郎はお富と酒を酌み交わす。いつしか酔っぱらった与三郎はお富の膝の上で眠りにつく。眠りについた与三郎を眺めていたお富は、与三郎の持っている脇差が、赤間源左衛門のものであることに気づき、与三郎が源左衛門を殺めたことを知る。

奉行の前に出たところで、罪からは逃れられないと悟ったお富は与三郎を刺し殺す。続いて自分も死のうとするのだが、そこに久次の使いがやってきて、与三郎と一緒に逃げるための金を渡す。与三郎を殺した返り血を浴びたお富を見て、ただならぬ雰囲気を感じた使いは去っていく。

お富は久次からもらった十両と与三郎の髷を持って、霊巌島で弔いをすることを決意する。

翌朝、一番舟で霊巌島へと漕ぎ出た舟だが、寸前のところで呼び止められる。お富は観音小僧久次の証言によって召し取られ、磔の刑にされ命を落とす。

唯一残された叔父の藍屋吉右衛門は、与三郎によって大勢の人々が命を落としたことを知り、弔いを行ったという。

やがてお富と与三郎の一件は芝居や歌舞伎などによって広まり、大勢の人々がこの二人の数奇な運命を知ることとなった。

 

「読み切り」という言葉を聞き終えたとき、私の胸に残った思いは様々であった。走馬燈のように、五日間の記憶がよみがえってきた。

もしも木更津の海で出会ったお富と与三郎が、源左衛門に見つかることなく愛し合う関係を続けていたとしたら、運命はどのように変化したのだろう。いつまでも源左衛門を騙しとおせるだけの心の切り分けが、お富には出来たのだろうか。

私が五日間を通して感じたことは、お富がわからないのである。

一席目の『木更津の見初め』の時は、間違いなく互いに死ぬ覚悟を持ち、死を選んでいた。ところが、『玄治店の再会』以降、お富は与三郎を裏切り続けるが、与三郎は生涯お富を追い続ける。続く『稲荷掘の殺し』では、与三郎はお富を愛するあまり人殺しに手を染めるのだが、その事実を知ったお富の胸中が計り知れない。一体どんな気持ちで目玉のトミを殺したのだろう。与三郎に対して繕っていたのだろうか。私の予想では、海へ飛び込んだが助かったところから、お富の心は大きく変わり始めていたのではないだろうか。それは、お富自身も無意識のうちに。

四日目の『佐渡の島抜け』でも、与三郎はお富を追い続けている。捕まれば死ぬという状況であっても、決して諦めることなく島抜けをする与三郎。なんと逞しい愛の力を持った男であろうか。

一方お富。無宿狩りに合い、佐渡へと与三郎が流されることになったとき、目玉のトミ殺害の一件が明るみに出なかったことによって、お富はどこか悪戯な運命を受け入れたのではないか。最初に与三郎と出会った頃のお富はいない。どんな胸中で無期懲役を受け入れ、お富が暮らしていたのか知りたい。

時が経ち、再び目の前に現れた与三郎を見たお富の胸中とはいかなるものなのか。考えても考えても及び知れぬところである。及び知れぬところであるからこそ、お富という人間の奥深さ、魅力が増していくのであろう。

お富と与三郎が最後の再会を果たし、酒を酌み交わす場面の、与三郎の人間らしい振る舞いに共感する。それほど人を好きになるという与三郎の気持ちと同じような思いが、私にもあると感じるからであろう。体に傷を受け、一目を憚って生きることになり、佐渡へと流され、命がけの脱走をし、日々あらゆる事柄に怯え暮らしながらも、最後、お富の膝元で「生きててよかったぁ」と言える与三郎の心。

これを、お富はどう見るのだろう。

誰か教えてくれないだろうか。こんな与三郎をどう女性は見るんだろうか。

もしも私が悪い女だったら、「馬鹿だなぁ」と思うだろう。心の底から与三郎に対して「馬鹿だなぁ」と思うだろう。たとえ与三郎で無くとも、自分の周りに自分を愛してくれる男が腐るほどいたと思われるお富である。そんなことを考えても不思議ではない。現に与三郎と離れてからは、色んな男の妾や妻となっている。最後には与三郎と仲の良かった観音小僧の久次である。信じられない豪胆な心である。

安直に悲恋の物語として語るには、あまりにもお富がわからない私である。お富にとって男とはどういう存在なのだろう。与三郎と他の男とでは、一体何が違うというのか。考えても考えてもわからず、あるのは結果だけである。

普通だったら、自分を愛してくれた男を殺せるだろうか。野暮だと承知だが、お富が与三郎を殺し、自分も死のうとするのだが結局死なず、最後まで生きようとする行為が、私にはズルく思えるのである。なんてズルい女だ、と思ってしまうのである。

「それは森野、お前が女を知らないからだ!」と言われればそれまでだが、どうにもお富という女が、悪い女にしか見えなくなってしまう。だが、そうせざるを得ない状況に、お富も陥っていたのではないかと考えると、お富の行動は理解できる。

自分を愛してくれた与三郎の愛に応えるためには、お富の行動はお富にとって精一杯の行動だったのではないだろうか。源左衛門に関係が発覚したときは、間違いなく死こそが互いの愛の保存方法として、最も適切な方法だったのだ。だが、お富も予想しなかった運命によって生き永らえたことにより、お富は自分でもどう生きて良いか分からなくなった。結局、生まれ持っての美しさを頼りに生きる他無かったのだ。

そして、与三郎と再会した時には、お富はその生き方以外に生きていくことが出来なくなっていた。かつては死を選ぶほどの思いを抱き、与三郎を愛していたお富は、その頃と同じように与三郎を愛せなくなっていたのだ。だから藤八と食事をしたり、誘惑されることも厭わなかった。与三郎は他の男と何の差も無い男に、お富にとってならざるを得なかったのだ。

何とか与三郎に対して前と同じように愛そうとしたお富。与三郎が殺し損ねた目玉のトミにトドメを刺して見るも、変わらない自分の心をお富は自覚できなかった。やがて無宿狩りで与三郎が島流しにあった時も、お富は死を選ばなかった。

男に愛されることに縋ったお富は、観音小僧の久次の妻になってもまだ、天が与えた美しさに甘え続けた。だから、与三郎と二度目の再会を果たしたときは、心底うんざりしたのかもしれない。また同じように愛し合う関係を取り繕って見せたが、お富にとっては限界だった。すべてに疲れ果てたお富は、事の発端となった源左衛門、すなわち最初に自分を愛し、妾とした男の刀で、死を決意するほどに愛し合った与三郎の胸を突き、自分も死ぬことで終わらせようとしたのだろう。

だが、お富は死ななかった。もう自分ではどうすることも出来ないほどに、お富自身も制御不可能の本能に従い、生きたのだ。最後に召し捕られたときには、内心、お富は安堵したのではないだろうか。

と、ここまで書いてきたが、結局のところはわからない。与三郎に対しても、私は自分の願望を押し付けているだけで、結局のところはわからない。最後の最後、お富と逃げようとしなかった与三郎は、お富と同じように、すべてに疲れ果ててしまったのかもしれない。だから、最後にお富に刺されるとき、にっこりと微笑むような表情を浮かべたのではないか。命がけでお富を愛した自分が、最後の最後に諦めてしまったことに対する、どうしようもない、言いようのない思いが与三郎の中に込み上げてきて、その底知れなさに、微笑むしかなかったのではないだろうか。

五日間。様々なことを考えさせられるほどに、毎度、ドラマチックな展開を見せたお富与三郎。隅田川馬石師匠の編集のセンス、そして、普段はあんなに不思議な天然っぽさを感じさせる高座なのに、初日から楽日まで一切気を抜かない圧倒的な集中力。骨の髄まで痺れるほどの迫真の語り。何よりも声と眼。全てが普段とは全く異なる、鬼神宿りし迫真の高座だった。奇人宿りし白痴の高座が早く見たい。

 

総括 お富与三郎 通し公演を終えて

改めて、隅田川馬石師匠で『お富与三郎』を通しで聴くことが出来て本当に良かった。私にとって『お富与三郎』は、どんな物語であったか。一言で言えば、『男女の心の合わせ鏡』であろうか。

数奇な運命によって、互いに向き合うこととなったお富と与三郎の鏡。無限の像を互いに映しながらも、徐々に、徐々に、鏡の傾きが変わってゆく。そして、互いに映し出していた無限の像は、傾きの変化によってさまざまに変化し、やがてどちらも落ちて割れてしまう。

その欠片を拾い集めて、私は語っただけに過ぎない。元は美しい一つの鏡であった筈のお富と与三郎の心を、自分なりに再構築して私は書いた。私には、隅田川馬石師匠が語る『お富与三郎』が、これまで書いた記事のように、思えたのである。

 

だが、これも私の鏡の変化によって変わっていくだろう。時間が経てば「なんであのとき、あんなことを思っていたんだろう」と思うときが来るかもしれない。その時のための記録でもある。

 

渋谷らくごの『心臓』である隅田川馬石師匠。その『心臓の鼓動』を私なりに書き記してきた最後の記事となる。この五日間、全身全霊で『お富与三郎』を聞いていたため、他の演者も非常に魅力的なのだが、短い文章になってしまったことをお詫び申し上げたい。

 

渋谷らくごにとって、また、初めて落語を聞く人にとって、新しい試みである五日間であったと思う。隅田川馬石師匠という人の、時代のニュートラルさ、初めて落語を聞く人に対して与える、境界線の無い雰囲気。いつでも気軽に飛び込めて、すんなりと想像出来てしまう、馬石師匠の語り、表情、声、間。

 

全てが極上の演芸体験であったことは間違いない。

 

お富与三郎の通し公演は、どの日を聞いても、冒頭から簡潔な説明があるためわかりやすいのだが、ボーっとして一つでも聞き逃したり、上手く想像をすることが出来ないと、なかなかすぐに本題の理解をすることは難しいということも、初めて連続物を聞くという人にはあるだろう。しっかりとした会では、パンフレットなどで一話一話に簡単なあらすじを記載している場合もある。とても要領よく物語を語られていた馬石師匠であったが、それでも聞き逃してしまう人のために、この記事が役に立っていたとしたら幸いである。それに、最終日は大入り満員であったと聞く。僅かでもこの記事で足を運んだという方がいたら、これ以上の喜びは無い。

また、より多くの人々に隅田川馬石師匠の語る『お富与三郎』が、どのようなものであったか。そして、一人の名も無き演芸好きがどのように感じたのか、伝われば幸いである。

そして最後に、隅田川馬石師匠。本当に素晴らしい通し公演をありがとうございました。

また、ここまで読んでくれた熱心な読者の皆様、あなたのおかげで私は記事を書き続けることができます。本当にいつもありがとうございます。

それでは、再び、素敵な演芸に出会えることを願って、

これにて、渋谷らくご 隅田川馬石 お富与三郎 五日間の通し公演、心臓の鼓動と題した五つの記事。

書き終わりでございます。

心臓の鼓動(4)~2019年9月16日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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 ウワバミよ!

 

時次郎の眼

 

ノーコンプライアンス

 

今日も迫真

なぜ若い女性は派手な食べ物を好むのか

渋谷のセンター街を歩くことにする。毎度、ユーロスペースに行くための『安全通路』を通ることに慣れきっている私は、たまにはごちゃごちゃしたところを通ってみたいと思い立ち、自ら『危険地帯』であるセンター街をふらふらと歩いた。

ポテトモッツァレラハットグ』なる食べ物をムシャムシャと食す若者たちの姿を見つける。タピオカにしろ、ハットグにしろ、なぜあんなブツブツの気持ち悪いものを食すことができるのか、私にはまったくわからない。

タピオカミルクティーやハットグやらは見ただけで鳥肌が立つ。大体、私にとってハットグと言ったら、田原俊彦である。ハッとしてGoodである。

なぜあんな脂っこいものを食べることができるのか、教えて欲しいくらいである。歳のせいか、体を絞っているせいか、キュウリやモヤシなどのサッパリしたものしか食べたくない気持ちが強い。

きっと、渋谷でハットグを食べている人たちの気持ちがわからないように、私が落語を好きであることとか、落語をなぜ好きであるかがわからない人たちもたくさんいるのだろうと思う。何が良くて何が悪いというわけではないけれど、やっぱり私は落語を愛する人愛する人間なのだと思う。

世の中には、落語を知っている人と知らない人がいる。私は少しでも、落語に色んな人が興味を持ってくれたら幸いである。そんな思いでブログを書いている。

一番の落語の醍醐味は、連続物を聞くことにもあるかも知れない。毎度、登場人物がどんな風になっていってしまうのか。ハラハラ、ドキドキ、緊張感のある展開に目が離せない。

隅田川馬石師匠の連続物、『お富与三郎』の通し公演が、多くの人に届くことを願って、それでは、心臓の鼓動の4度目の記録を記して行こう。

 

立川こしら 田能久

とてもアクロバティックな噺家さんだと思う。久しぶりに見て、しかもお初の噺だったため、なんと申し上げて良いか、言葉に窮する。恐らく、田能久というネタを一度どこかで聴いていたら、もっと違う角度から楽しめたと思う。

改めて古典で田能久を聞いた後での感想となるが、こしら師匠の大胆なアレンジが随所に光った田能久だった。オチに向けたスーパーアクロバティックも含めて、どうやらまだ私には語る言葉が無いようである。

 

 柳亭市童 明烏

こしら師匠の後に出ると、物凄いキッチリして見える市童さん。時次郎の眼がめちゃくちゃ可愛いなぁ。と思った。源兵衛と太助が出てきた辺りから、睡魔に襲われてしまった。本当に申し訳ない。なんと失礼なことであろうか。

 

橘家圓太郎 あくび指南

ザ・ノーコンプライアンス

あくび指南の演出は好みが分かれるところである。

何と申し上げて良いか分からない。

 

隅田川馬石 お富与三郎 その四~佐渡の島抜け~

お待ちかねの馬石師匠。正直、馬石師匠のお富与三郎が楽しみすぎて、前半の三人に対して、大変申し訳ないがあまり頭に入って来なかった節がある。

目玉のトミを殺した場を見ていたのは蝙蝠安だった。お富と与三郎は目玉のトミの兄貴分である蝙蝠安に強請られ、たびたび金を持っていかれる。困り果てたお富と与三郎は玄治店の家を売り払い、住まいを移すのだが、そこでも出刃を振り回しての大騒動。

当時の奉行は無宿狩りをやっていて、無宿人を捕まえては佐渡へと流していた。佐渡は金山があるため、そこで捕まえた者たちに労働をさせて資金を集めていた。無宿人である与三郎は捕まり、佐渡へと島流しにあってしまう。

お富と引き離され、たった一人佐渡で働くことになった与三郎。このままでは一生お富に会えないまま、佐渡で暮らさなければならないことを悟った与三郎は、ひとめお富に逢いたいと思うようになる。

やがて与三郎は、坊主の松と鉄の島抜けの作戦を聞くことになる。潮の加減で死体や海のゴミが集まる個所があり、一本の松が生えている場所が目印だと言う。そこに丸太が流れ着いており、その丸太を縄で縛って船にし、島を抜けるという作戦である。

雨の強い夜、与三郎は震えながらも松と鉄についていく。岸壁までやってきて、荒れ狂う波を見つめながら、三人は丸太があることを信じて、鉄、松、与三郎の順に岸壁から飛び降りる。

荒れ狂う海から顔を出した与三郎。鉄と松の名を呼ぶと応答する声がある。何とか三人はゴミが集まる個所に辿り着き、そこで丸太を発見。縄で縛って船を作り荒波の海へと航海に出る。

ついに島を抜け出した三人であったが、途中で大きな波が襲い、鉄が飲み込まれる。松と与三郎は波に飲み込まれた鉄に向かって叫びながら、航海を続ける。

二人は波に飲み込まれ、辿り着いたのは地蔵ヶ原(?)と呼ばれる土地。そこで色の黒い漁師に命を救われ、宿屋に泊まるのだが、厠へ立った与三郎は自分たちの案内された部屋とは別の場所で、自分たちが罪人であることに気づき、捕えようとしている人物の会話を聞き、即座に松に告げ、逃げることを決意する。

二人一辺に捕まっては不味いと、松と与三郎は二手に分かれて宿屋を出る。運悪く松は捕まり命を落とす。悪運が強いのか与三郎は何とか逃げ出すことが出来た。

逃げた与三郎が出会ったのは、火にあたっている乞食。寒さを凌ぐために火にあたらせてもらった与三郎は、乞食に顔に傷があることを知られる。火で暖をとらせてくれたお礼にと、与三郎は傷をつけられた偽りの理由を乞食に話す。話し終えると、乞食の仲間らしき男がやってきて、乞食に金を渡して去っていく。与三郎は男が気になり乞食に尋ねると、「あれは赤間源左衛門の親分で、自分はその一番の子分の松だ」と聞かされる。

驚いた与三郎はその場を離れ、急いで源左衛門のところへ行き、源左衛門を呼び止める。そこで、自らの正体を明かした与三郎。源左衛門も与三郎を見て驚く。

因縁の二人が遂に対面した。一体、この後、どうなってしまうのかは、最終日に分かる。

 

今回も、見どころ満載。緊迫感溢れる場面の連続で、震える。震える。震える。特に、与三郎が佐渡から逃げるために岸壁から飛び降りる場面。そこから丸太を見つけ船を作って島抜けするまでの一連の場面は、物凄い緊迫感である。馬石師匠の情景描写力もさることながら、鉄や松を声のトーンを微妙に変えて表現したり、波に飲み込まれた鉄に向かって放つ言葉など、実際に荒波に飲み込まれているかのような緊張感があって、胸の鼓動が早くなった。

見事、島抜けを果たした松と与三郎。漁師の肌が黒かったことから、ちょっとした小ボケもあったが、その後、松と与三郎が宿屋に泊まる場面も凄い。自分たちが島を抜けてきた罪人であることが、宿屋の者にバレていたと与三郎が気づいてから、宿屋を逃げ出す場面の緊張感。ハラハラしながらも、松が捕まって命を落とす場面には思わず心の中で「ああ~~~!!!」という思いでいっぱいだった(伝わるのか?)

松之丞さんの『慶安太平記』で、由井正雪一派が捕まる場面でも同じようなことを思ったことを思い出した。

さて、運良く逃げた与三郎が乞食と出会う場面。単なる乞食かと思っていたら、なんと与三郎とお富の関係をバラしたミルクイの松だった!!!これはかなり衝撃的で、赤間源左衛門まで現れて、与三郎が源左衛門を呼び止め、遂に三十四個所の身体を傷つけられた恨みを晴らす場面まで、怒涛の展開に痺れた。

 

 うわーーーー!!!!!!!

 一体、

 どうなっちゃうのーーーーー!!!!????

 

と、心の中で絶叫しながらも、結末は最終日である。もうチケットは速攻で買った。絶対に行って、この目で確かめなければ一生後悔するであろう。

この記事を読んでいる読者も、ここまで読んだら、もう、後は、行ってほしい。というか、来てください。渋谷らくごユーロスペース。安全通路でも危険地帯でも、どっちを通って来てもいいから、是非、来てください。で、一緒に語りましょう(嘘)

 

 総括 明日はどっちだ

いやー、とんでもないっす。今回の『お富与三郎』の通し公演。四回目まで見て、もう、なんなのさ。いやさ、なんなのさ!!!!という、もう、なんとも、最後まで見ないと、何とも言えない。

馬石師匠の言う通り、どこを見ても最高潮の盛り上がりを見せる『お富与三郎』

マジで、どんな結末が最後に待っているというのか。

ぐっすり眠れるか分からないけれど、じっくり待ちましょう。

最終日は、昇々さん、太福さん、兼好師匠、そして馬石師匠という最強のラインナップ。

もう、見るしかないよね。

心臓の鼓動(3)~2019年9月15日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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ぼっちゃん

 

冗談だよ~

 

子連れ

ママとマンマ

 

腕をあげたねぇ

焦がれ死ぬような男女の恋

祭囃子が鳴り響く道玄坂をとつとつと歩きながら、つるつると心は満ちて穏やかである。朝目がさめて悲しい知らせに胸を痛めども、なにせ根が起き上がり小法師、そう簡単に臥せって泣いているわけにも行かず、あらゆる意欲をかきあつめて服を着替え家を出て、ここまでやってきた。

粋な恋路のひとつやふたつ、男と女と生まれたからには、歩みたいと望んでしまうのが人の性か。恋に感けて疎かになる些事が火元ととなって全身を焦がす大事に至るまでは、まだ些かの時を要するようである。

何を因果に惹かれ合うのか。また、何を持って関係は丈夫になるのか。添田唖蝉坊の曲のような心持ちである。

「ああわからない、わからない」

すっかり心は『あきらめ節』で、ユーロスペースに辿り着き壁に貼られた文字を眺めながら、とんと分からぬ女心に振り回されて、男とは何と情けない生き物であろうかと思う。いっそ、何もかも捨て去って与三郎のように、体も心も切られれば踏ん切りでも付くというのか。否、たとえ身も心も傷を負ったとしても、男には焦がれ死ぬような女がいて、また女には、自分にはどうすることも出来ない罪を作ってまで愛するほどの、男がいるのである。これを粋な恋とせずして、何とするというのか。

与三郎に憧れさえ抱きながら、今宵も隅田川馬石師匠の『お富与三郎』を聞く。なんと贅沢な時間であろう。だんだん歌舞伎でも見て見たくなってきた。たとえ、世間様から鼻で笑われるような恋であろうとも、その禁断の味は、当人にとっては常人の理解を越えた蜜の味なのではないだろうか。

現代にはただ一人、その狂おしいまでのお富と与三郎の関係に、憧れる一人の男がいるだけに過ぎない。

「ああわからない、わからない」

 

春風亭昇羊 吉原の祖

途中まで「ぼっちゃん」という単語が聞こえていたのだが、昨夜、随分と記事を書いて時間を過ごしてしまったためか、急に襲ってきた眠気にやられ、殆ど筋を覚えていない。無念。

 

橘家文蔵 試し酒

文蔵師匠のお酒噺は最高である。なんだかんだ言っても、洒落でも、お酒が出てくる噺を文蔵師匠で聴くことのできる喜びは大きい。酔っぱらって色々と口をついて出てくる言葉を聞いていると、その愛嬌たっぷりの可愛らしさに、何もかも許してしまうような力がある。

五升の酒を下男の久蔵が飲み干すことが出来るかどうか、久蔵を従える近江屋と尾張屋で賭けをするお話である『試し酒』の一席。

圧巻なのは、何と言っても五升の酒を飲むことに挑戦する久蔵の姿である。私の知人でも大酒飲みの人間はいるが、それでも五升飲めるほどの人間はまずいない。というか、そんな人が世の中にいるかどうかも分からない。だが、酒を飲めば多くの人間がそうなるように、段々と酔っぱらっていく久蔵の姿が面白い。

目をひん剥いて酒を飲みながら、主人の近江屋をからかったり、賭けの本質を突いたり、お酒に纏わる話を語ったりする久蔵が可愛らしい。飲み終えた後の「注いでくだせー」の異様な力強さ。一緒にお酒を飲みたくはないが、賭けはしてみたいと思うほどの粋な久蔵。でも、きっと長生きはしないだろうなと思う。

現代だと、久蔵が了解しない限り完全にパワハラになるだろうと思う。きっと気難しい人だと、「この賭けに久蔵は本当に納得しているのか!」とか、「久蔵は常日頃、こんな身体に悪い賭けの道具にされているんじゃないか?」と言い出しかねないと思うが、そこは洒落の世界。洒落と現実を混同させてはならない。というか、そういう野暮なことを言っては、落語を楽しむことはできない。洒落を楽しめなくちゃ、落語は楽しめない。

そうそう、文蔵師匠が冒頭でお話されていた酒飲みの医者の小噺。あれは、酒好きの本質を突いている気がする。酒好きにとどまらず、煙草好きにも通ずるのだが、体に悪いとされているものを得て、結果的に体が悪くなったとしても、悪いのは酒であり、煙草であって、自分ではないとする考え。そういう考えの人は私の周りにもいる。どれだけ煙草を吸おうが、「みんな吸ってるけど、長生きしてる。煙草をどれだけ吸おうが、関係ない」と言われると、もはや気遣っても何をしても、その人が良ければ良いかな、と思って、それ以上は何も言わない。

私もお酒はほどほどに楽しむ方だが、今朝、悲しいことがあったので、久しぶりに飲もうかなと思った。心が傷ついたら酒を飲む。なんと単純な思考であろうか。いかんいかんと思いつつ、ハイネケンを飲もうと決意した一席だった。

 

三遊亭粋歌 働き方改革 わんわーん

企業で主催される落語会があったとしたら、引っ張りだこなのではないか、と思えるほど現代社会の未解決な問題を新作落語としてやっている粋歌さん。『影の人事課』という超名作を作っていたりするなど、実際に会社勤めをされた経験が存分に活かされた落語がとても魅力的で、面白くて考えさせられる唯一無二の噺家さんである。

まず『働き方改革』の一席は、出産後の子連れ出勤を拡張して、様々なものを連れてきたら、一体職場がどのように変化していくのかという噺である。実際にあらゆるものを連れて出勤することが可能な世の中になったら、この落語のように様々な問題が起こるだろう。世の中には、職場に連れていきたいと思うほど大事なことが人それぞれある。私は特に職場に連れていくものは無いけれど、たとえば保育園が受け入れてくれなかったり、病院が受け入れてくれなくなったら、子供や両親を連れて職場に出勤せざるを得ない状況になってしまうかも知れない。

職場で働くための、正しい働き方改革とは何か。とても面白くて、真面目に考えたいお話である。

二席目の『わんわーん』も、女性ならではの生き辛さがひしひしと感じられる一席である。避けては通れない嫌な人との関わり合いにおいて、なんとか相手を傷つけずに奮闘するも、心がめげてしまう主人公の姿が可哀想であると同時に共感する。

私は直接出会ったことは無いが、世の中のご婦人の中には、自分の夫の地位を誇ったり、自分の優雅な生活を周囲に誇示したいご婦人がいるようである。私は特に何とも思わないが、そういったご婦人と付き合わざるを得ない女性達たちは、日々ストレスに苛まれているらしい。一体自分の立場をどう考えているのか分からないご婦人は、やたらと攻撃的な言葉で周囲の女性たちを圧迫したり、傷つけたり、嫌な思いをさせているようである。悲しいかな、そういうご婦人に限って、自分自身に対しては甘く、自分こそ絶対だと思っている節もある。と、書いているが、出会ったことが無いので、殆どドラマなどで見たりする時に抱いた印象だけで書いているので、参考にはしないでほしい。

男は割と、そういう嫌な人間に対する対処は意外なほど冷静にできる。と、一括りに言っても私の場合であるが、嫌な人間とはそもそも一切会話をしない。自分の世界に入れない。だが、女性はなかなかそうもいかないようである。下手に行動したり発言をすれば、女性たちの輪から外されたり、嫌な仕事を押し付けられたりと、様々あるようである。おそらく、この辺りの捉え方の違いによって、男と女は喧嘩になる。「そんなこと、ほうっておけばいいじゃないか」なんて男が言おうものなら、女は「放っておけないのよ!無理なのよ!」と激高するだろう。男はどうにも、女性の言葉や理論理屈には敵わない生き物であるということを、私も含めて理解した方が良い。

お偉いマダムの飼っている犬が、人語を話すことを発端に、その人語の聴き分けに苦しむ主人公の姿が可哀想でならない。私だったら何とかしてあげたいと思うが、内容が内容だけに、どうすることも出来ない。「まぁ、さらっと流しておけばいいじゃない」なんて言ってしまいかねないが、女性というのは『さらっと流す』ということが出来ないのかも知れない。目の前のことに常に一所懸命で、真っすぐに向き合うからこそ、女性は苦労が多いのかも知れない。私などは、目の前に嫌なことがあると、避けて通るか、無理して嫌なことの上を通るようにしている。ま、殆ど想像だけれども。

主人公の女性が旦那に弱音を吐きながらも、マダムの犬の鳴き声の聴き分けを、録音してまで熱心に勉強するというのが素晴らしい。旦那の出世のためにも努力する主人公。こんな女性に出会ったら男だったらとても嬉しいと思う。

いつの時代も、女性には苦労が絶えない。そう考えると、男とは何と呑気な生き物であろうか。と、こう書いていると「誰が金を稼いでいると思ってるんだ!」という男性には反感を食らってしまいかねない。

「ああわからない、わからない」

 

隅田川馬石 お富与三郎 その三 〜稲荷堀の殺し〜

長い長いお富与三郎の話を簡潔に纏め、年々変化していると語る馬石師匠。聞けば、なんと十五~六年前、二ツ目の時に雲助師匠から教わったとのことで、随分と歴史のある噺である。全9席をみっちり聞く日が訪れるかは分からないが、馬石師匠の簡潔にまとめられたお富与三郎を聞くだけでも、十分にその全容が分かるからありがたい。

さて、ふとした出会いから良い仲になったお富と与三郎。源左衛門に見つかり体に三十四個所の傷を受け、木更津の地で人目をはばかり生きることとなった『切られ与三』は、三年の月日の後、数奇な運命によって再びお富と出会うこととなる。というのが、前回までのざっくりとしたお話であった。

お富と再び出会った与三郎。お富は多左衛門という男の妾になっていたが、お富と与三郎の事情を知った多左衛門は二人の邪魔になってはいけないからと、金をやってどこかへ行ってしまう。ようやく玄治店に二人きりで暮らすこととなったお富と与三郎。ところが喜びも束の間、二人で食べて暮らしていけなくなったお富と与三郎。そこへ蝙蝠安と目玉のトミがやってきて、玄治店の一部を賭場にして博打で食ったらどうだと提案する。その案に乗った二人。その賭場にやってきたのが奥州屋の藤八。藤八はお富に惚れ込み、隙あらば自分の女にしようと企む。藤八は、お富を誘って食事に行ったり、金を渡すようになる。そうなると、お富は藤八との関係を与三郎に黙っている訳にはいかず、相談をする。金持ちの一人や二人に嫉妬するような俺じゃない、とばかりに与三郎は藤八とお富の関係を認める。

ある日、お湯屋に出かけたお富を見送った与三郎。その後でやってきたのは奥州屋藤八。ばったり出くわすのはきまりが悪いと、戸棚へ隠れる与三郎。藤八はお富の姿が見えず、仕方なく家に上がってお富を待つことにした。そこへやってきたのは目玉のトミ。トミは藤八の考えを知っていて、お富を嫁にするなんて考えない方が良いと言う。疑問に思った藤八はトミの言い分を聞き、三両の金をトミに渡す。トミはお富と与三郎の関係を、嘘が七割、真が三割と、存分に尾ひれを付けて藤八に話す。それを聞いて怒りに悶える藤八。トミが帰った後、やってきたお富に我慢ならない様子で、二度と来ないと告げて家を飛び出していく。

全てを聞いていた与三郎は戸棚から現れ、出刃包丁を持って家を出て行く。稲荷掘(とうかぼり)で目玉のトミを突き、家へと帰ってくる与三郎。心配したお富に事の顛末を話すと、お富は「トドメはさしたのかい?」と聞いて、トドメをささず、出刃も刺しっぱなしだと答える与三郎。

雨の降りしきるなか、二人は相合傘で稲荷掘に向かい、そこで苦しんでいる目玉のトミを、お富は刺し殺す。トミが持っていた三両を奪って二人は逃げようとするのだが、それを見ていた何者かに止められる。そいつは・・・

というところまでが、今回のお話であった。

今回も見どころが幾つもある。藤八に尾ひれを付けて語る目玉のトミ。怒り狂った与三郎がトミを刺す場面。事の顛末を語る与三郎に対して言葉を放つお富。そして、クライマックスでお富がトミにトドメをさす場面。

痺れに痺れる怒涛の人間模様に、唸る、唸る、唸る。特にトミに出刃を刺した与三郎が「お前があんまり人を馬鹿にするからっ!」みたいな言葉や、トミを刺したと話す与三郎に向かってお富が「腕を上げたねぇ」という場面や、お富がトミにトドメをさす時に吐く名調子とお囃子。初日とも二日目とも違い、遂に人殺しという越えてはいけない一線をお富と与三郎が越えた場面であった。

もしも、トミを刺した与三郎にお富が「お前さん、なんて馬鹿なことを!」と言っていたら、この噺はお終いである。ここでお富は「腕をあげたねぇ」とか、「トドメは刺したんだろうね」というようなことを言うからこそ、お富の人間の深みというか、お富という女の魔性の力に、見る者は痺れるのだと思う。それほどの事を一瞬のうちに、与三郎に言えるお富。

 

どんだけ与三郎に惚れてんねん!!!

 

と、思わず叫びたくなるほどである。心底与三郎が羨ましくてならない。

私はもう、お富の表情と言葉に身震いするほど痺れた。いいなぁ、言われてぇ。そんな風に思われてぇ。と思ったが、洒落の世界である。殺人もご法度であることは重々承知である。

与三郎も与三郎で、目玉のトミを刺した後の動揺っぷりが良い。また、その言い訳に「お前があんまり人を馬鹿にするからっ!!!」である。この一言を私は聞き逃さなかった。この言い訳の言葉が、与三郎という人間の本質を現わしていると思う。人殺しの理由が「馬鹿にされたから」という。この感じが何とも言えない素晴らしさである。なんといえば良いのか、「えっ、そんなことなの?」という感じではない。人間の尊厳が傷つけられるということの、一つの答えとして「馬鹿にされたから殺す」というのは、なんだか、良いなぁ。と私は思う。

相合傘で殺しのトドメをさしに行くという風景も素晴らしいし、トドメをさすお富の台詞も良い。物凄く良い。初めての夫婦の共同作業が、自分たちを馬鹿にした男を殺めるということの、何とも言えない素晴らしさ。常人では理解できない二人の、愛とも恋とも呼べない関係性。お互いのどす黒い血を混ぜ合わせ、お互いの肉体で巨大な薔薇を描こうとしているような感じと言えば良いのか。どこからが境目かも分からぬほど溶け合い、互いが互いの一部であり、一つの液体であるかのようなお富と与三郎の関係性。ついに禁断の殺しに手を染めた二人の未来には、一体何が待っていると言うのか。

 

総括 魅せられっぱなし

いよいよ、明日は四日目である。こうなったら、無理してでも最終日は行く。こんな話を聞かされたら、行かないのは一生の後悔である。

それにしても、馬石師匠の語りの素晴らしさ。それまで落語の滑稽話しか聞いて来なかったが、こんなにも痺れる話を五日間通しでやるというのは、尋常ではない精神と技術だと思う。今回の通し公演で、すっかり馬石師匠の魅力にハマってしまった。それまではちょっと不思議な人くらいにしか思っていなかったのだが(失礼)、今回でその印象を改めた。凄い。凄すぎる。っていうか、馬石師匠も含めて、雲助一門、精鋭揃いというか、後の名人が揃っていると思う。

なんちゅー企画を渋谷らくごは打ち立てたんだろう。こんなに凄い企画、次もあるか分からない。出来れば毎年恒例にして欲しいし、他の人でもお富与三郎を聞いてみたいと思う。

狂おしいまでのお富と与三郎の関係性。興奮して眠れない。