落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

心臓の鼓動(2)~2019年9月14日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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親の心 子知らず

 

貸してたんだ

 

悪い奴です

 

いやさ お富ぃ~

 

サクサクノーサボタージュ

ユーロスペースに来ている。昨日の衝撃を引きずったまま、私はユーロスペース来ている。昨日見かけた人は殆どいない。誰が好き好んで貰うのかというポストカードの二枚目を、私は貰っている(失礼)。家の棚に馬石師匠が増える。次々に増殖する馬石師匠。浸食される棚。減っていくのは財布の中身だけである。

通し公演のうち一話でも聞いてしまったら、他を聞かないというのが私は耐えられない性分である。面白いと思ったら必ず頭から読むことにしている。どこを切り取っても楽しいことには間違いないのだが、やはり頭から読まねばスッキリしない。

だから、馬石師匠のポストカードが増え、財布の中身が減ろうとも知ったことではない。ポストカードは大切に棚にしまい、財布の中身はお仕事を頑張るだけのことである。

さて、今回はメンツも渋い。初心者向けと銘打ってはいるが、正直、通好みの回であることは否めない。それでも、全員の演者に落語の奥行きを感じさせる凄まじい力がある。パンケーキやタピオカミルクティーを飲んでいる場合ではないのだ。

 

 台所おさん 片棒

おさん師匠の醸し出す雰囲気の和やかさ、第一声の「おさんです」になぜか笑ってしまう。目の前で妊婦がお産を始めた想像をしてしまうからだろうか。妊婦のお産を見たおさん師匠が「おさんです」と言っている風景を想像してしまうからだろうか。たった一言なのだけれど、ばああっと風景が見えてしまうが故に笑ってしまうのか。自分でも何だか分からないのだけれど、笑ってしまうのである。

そんなおさん師匠は、師匠である柳家花緑師匠のことを語りながら不思議な関係性を語っていく。唯一無二のフラを持ち、温かくて親しみやすいおさん師匠の雰囲気に会場がグッと包み込まれていく。

自分の身代を譲ることを決めたケチベエが、三人の息子の誰に譲るかを判断するため、「自分が死んだらどんな弔いを出してくれる?」と聞くのだが、どれも満足な答えにはならない、という『片棒』の一席。

『弔い』という暗い印象の話題なのだが、三人の息子たちの陽気さと、それに翻弄されるケチベエの対比が面白い。おさん師匠の雰囲気が醸し出す、独特の貧乏感(褒めてる)が、本当にケチでケチで、切り詰めて切り詰めて身代を大きくしたんだなぁという雰囲気が伝わってくる。語りの中に貧乏でも強く生きる人の心意気を感じるのは、おさん師匠ならではだと思う。私が勝手に思っているだけかも知れないが、おさん師匠の語りには朴訥とした雰囲気、まるで冬に染まった森の中を歩いているような気分である。木には葉は無くとも、その力強さに胸打たれるのである。

金や銀の陽気さも、どこか貧しさの中で逞しく生きる健気さがあって、ドラマ『おしん』でも見ているかのような、母性本能(が私にあるか分からないが)をくすぐられてしまう。何とも言えない優しい雰囲気に包まれて、ゆったりと笑った一席。

 

柳家小里ん 不動坊

その見た目から放たれる名人の風格に、徐々に虜になってきた私がいる。粋だねぇ、乙だねぇ、と思う生き様を私は小里ん師匠から感じるのである。小里ん師匠、雲助師匠、一朝師匠の世代は、古典落語好きには堪らない素晴らしさを持っていて、古典落語の魅力にどっぷりとハマってしまったら、絶対に聞きたくなる噺家である。

最初は私も面白さが分からず、「なんかつまんないなー」と思っていたのだが、一年、二年と聴いて行くうちに、「と、どんでもねぇ!!!」と思うようになった。あれは一体どういう理屈でそうなるのか、私自身もさっぱり分からないのだが、齢を重ねたものだけが持つ、独特の雰囲気と言葉のセンスに痺れるのである。特に小満ん師匠なんかは素晴らしくて、隙あらば見に行きたい。

小里ん師匠の不動坊も、出てくる登場人物の間抜けっぷりが面白い。働き者の男の元に大家がやってきて、「嫁をもらう気はあるか?」と尋ねる。訳を聞くと、講談師の不動坊火焔が死に、未亡人となったお滝を妻に迎えないかという話。お滝は不動坊の借金を返さなければいけないのだが、誰かその借金を返せる人と縁を結びたいという。

普通だったら、借金のある女との縁談は断りそうなものだが、働き者の男は可笑しな理屈でお滝と結婚することを決める。その話を聞いて黙っていられない長屋連中が、不動坊の幽霊と偽って、破談にしてやろうと企むという話である。

あらすじだけでも、結構アクロバティックというか、現代では考えられないようなイタズラ企画なのだけれど、登場人物の全員がちょっとずつ可笑しな考えを持っているから面白い。

お滝との結婚に浮かれる働き者の男が、銭湯で妄想に耽る場面や、破談の企みを実行する長屋連中の失敗ぶりが見どころの面白い話である。

思い返せば、高校生の時分、私は夏祭りなどで同級生のカップルを見つけると、なんだか悔しくて邪魔をしてやりたいという気持ちがあった。あれが一体どこからやってくるのか自分でも分からない。僻み嫉み妬みは恐ろしいもので、色々と悪さをしてやろうという考えは巡ったのだが、結局、「〇〇と▽▽が祭りのときに一緒に歩いてたぜ」という噂を流すだけに留まった。後年、自分に彼女が出来たときは、あまりの浮かれっぷりに勉強も部活も手に付かなくなり、別れを切り出された時には全身の毛が抜けるような絶望感に苛まれたが、今、こうやって何とか孤独に生きることが出来ている。

さて、何の話だったか。そうそう不動坊の話。かなり派手な話ではあるのだが、人間のヤンチャさ、滑稽さが不思議に面白い話である。中学・高校のいたずらな恋を思い出す一席だった。

 

柳家小八 ねずみ

喜多八師匠との思い出を語る小八さん。忘れてくださいと言ったけれど、微笑ましすぎて忘れられない。いいなぁ、私も喜多八師匠を見たかったなぁという思いがふつふつと沸き起こってくる。小八師匠の中で生きている喜多八師匠の姿に思いを馳せながら、演目は『ねずみ』、ここまでどの演者も尺の長い噺で、気合の詰まった回である。

街を歩いていると一人の子供に「宿に泊まらない?」と誘われた男。行って見ると何やら訳ありの宿。訳を聞いて男はねずみを彫る。聞けば男は彫りの名人左甚五郎。甚五郎の彫ったねずみによって商売繁盛するのだが、商売仇は虎を彫ってねずみの動きを止めてしまう。再び宿を訪れた甚五郎がねずみに向かって一言申すと・・・というお話である。

滔々とした落ち着きのある声と、力の抜けた語りが魅力的な小八師匠。何とも言えない脱力感に包まれながらも、元気ハツラツオロナミンCな子供や、その子供を見つめる腰を痛めた父親の目線が優しい。気取る様子もなく、静かにねずみを彫って去っていく甚五郎や、甚五郎の作品を見た田舎者たちの姿など、声量の大小や表情の濃淡を繊細に描き分けて、物語の強弱を見事に表現している小八師匠。

特に、父親が語る貧乏な『ねずみ屋』を営むことになった噺は、しんみりとした雰囲気がある。甚五郎をどのように描くかもさることながら、父親の語りが特に見どころのお話であるように思う。

甚五郎の活躍が光る一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その二 〜玄治店の再会〜

昨晩の鬼気迫る迫真の表情を見ているだけに、穏やかに微笑えむ馬石師匠がちょっと怖い(笑)徐々に客が減っていく怖さを感じながら連続物に挑む馬石師匠。

さらっと前回の予習をしながら、演目に入る。

与三郎を殺そうとした源左衛門を止めたのはエドキンという髪結い床の男。与三郎を殺さずに金儲けをした方が良いと提案する。源左衛門は納得し、与三郎を簀巻きにして木更津の親類のもとに連れて行く。

それから三年の月日が経ち、体中に三十四個所の傷を受けた与三郎は、一目を憚って縁日に出かけるのだが、周りの人々から稀有の眼で見られる。『切られ与三』などと異名が付く。かつては見ただけで女が帯を解くほどの美男子だった与三郎も、三十四個所の傷を負って誰も見向きをしない。それどころか誰もが避けて行く。縁日で使う10両の金を貰ったが、一切使わずに帰る途中、植木鉢を抱えた女と擦れ違い、与三郎はかつてのお富ではないかと疑う。気になって後を追うと玄治店という店の主人多左衛門の妾になっていることを知る。

ゴロツキの蝙蝠安に連れられて金をねだりに妾の家に行く与三郎。お富さんであろうかと気になりながら、妾の家に行くと、そこにいたのは紛れもなく、あの日別れたお富の姿である。多左衛門の妾になったことを許せない気持ちを溢れさせ、「いやさ、これお富~」と鳴り物入りで名台詞を放つ。そこまでが今宵の一席だった。

昨晩の衝撃が凄すぎたのか、今回は至って平安な、切羽詰まるような場面は無いにしろ、命を取り留めて金儲けの出汁にされ、顔に三十四個所の傷を負って『切られ与三』とまで言われるようになった与三郎の転落っぷりが可哀想である。運命がそうさせるのか、お富と出会ったときも、またしても金持ちの妾になっていることが許せない与三郎。お富に惚れ、とことんまで翻弄される与三郎の気持ちが痛いほど分かる。別れた直後に彼氏を作るような女なんて、好きになっちゃ駄目!魔性の女なんだから!と思いつつも、与三郎は諦めきれずにお富に惚れ込んでいく。

お富もまた、誰かの妾になることは生きていくために仕方の無いことだったのだろうか。それでも、ちょっと不純すぎやしないか。男なら一度自分に惚れた女は、生涯自分に惚れ込み、他の男となんか付き合って欲しくないと思うのだが、それは淡い幻想であろうか。私が与三郎だったらお富を切って自分も死んでいるかも知れない。

生きていくことの数奇な運命に翻弄されながら、何と言ってもこの話の一番の見どころは、再びお富に出会った与三郎が放つ台詞であろう。お囃子と相まって、絶品の艶やかさ。言葉の意味は何となくでしか分からないけれど、粋で、色気のある与三郎の名調子が、馬石師匠の柔らかくて耳馴染みの良い声と相まって心地よく聞こえてくる。

第一話との雰囲気の差が段違いの、華やかな一席で、昨日の怖さは一体何だったのかと思うほどに明るい一席だった。ちょっと安心した。いつもの馬石師匠が戻ってきた気がした。

いよいよ明日、物語は中盤である。これからさらに、どのように物語が展開されていくのか。お客は増えていくのか。見どころ満載の『お富与三郎』である。

 

 総括 連続して見ずとも

『お富与三郎』をトリの演目に据えながら、脇を固める演者も演目も、凄まじく太くて渋い一夜だった。昨日のことがまだ脳内に残っているだけに、続きである今日の一席を聞くことが出来た意味はとても大きいような気がする。何せ、あんなに痛めつけられていた与三郎が、ぱっと粋にお富の前に現れて名調子・名セリフを言い放つのだから、陰と陽を見せつけられて心が中和される。

何よりも馬石師匠のマクラと演目とのギャップが凄まじい。軽くサイコパスを疑ってしまうほど、演目に入った途端に切り替わる眼と表情に驚く。底知れない馬石師匠の連続物の凄味。是非味わってほしいと思う。あと、ポストカードの写真に添えられる言葉が、微妙に合ってるんだか合って無いんだか分からないところが面白い。

たとえ連続して見なくとも、冒頭の馬石師匠の簡単な解説を聞いていれば、すっと頭の中にそれまでの情景が浮かんでくるだろう。連続して聴いている人は、よりはっきりと物語の筋を感じることが出来る。

残り三公演。一体どんな最後になるのか、楽しみでならない。

心臓の鼓動(1)~2019年9月13日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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おあとはとはとは

 

ごちそうさまでした

 

お酒様

 

横櫛 

  

神様のいたずら

「なぁ、これ何て読むの?」

ユーロライブの壁に貼られたシブラクのポスターを眺める青年二人。

金髪の男がツーブロックの男に向かってそう言った。

「くまたがわ、うまいしじゃね?」

「変な名前だな」

それは「すみだがわ、ばせき、だ!」と心の中で思いつつ、私はぼんやりと渋谷らくごのポスターを眺めていた。

9月13日~9月17日まで、隅田川馬石師匠がトリを取る五日間。落語に興味の無い人にとっては『くまたがわうまいし』が語る五日間である。

十代目金原亭馬生師匠から、五街道雲助師匠へと受け継がれ、そして隅田川馬石師匠へと、継承の系譜を辿る『お富与三郎』。男女の色恋の話と言われているが、内実はもっと複雑に絡み合っている。

直前まで、行くか悩んでいたのだが、一話だけ見て、興味が無かったら止めようと思っていた。ところが、一話を聴いて、その凄まじさに身震いし、最終日に不安はありつつも、私は五日間、通しで隅田川馬石師匠の『お富与三郎』を聴くことに決めた。きっとこれは神様のいたずらであろう。

さて、今宵は隅田川馬石師匠をトリに据えた回である。一体『お富与三郎』とはどんな話であるのだろう。他の演者は一体何をやるのであろう。そんな期待感の中で、シブラク20時回が始まった。

 

 柳家小はぜ やかん泥

物凄く若く見えるのだが、37歳の小はぜさん。歳を取らない薬でも飲んだのかと思うほど、きらきらとした眼差しと笑った時の笑顔がマダムキラーな噺家さんである。

ふんわりとした柔らかくて優しい雰囲気があって、マシュマロとかマカロンが好きな人は小はぜさんが好きになるのではないか。一定のトーンと愛嬌のある間が可愛らしい。

間抜けな新米泥棒のオトボケっぷりが炸裂する『やかん泥』というお話。泥棒をするという犯罪のお話でありながら、リスが他のリスの家から胡桃を盗んでいるかのような、ほんわかとした空気が流れている。

人生、誰と出会うかは分からないが、何事にも向き不向きというものがあるらしい。たとえ、泥棒という道に足を突っ込んだとしても、小はぜさんの描き出す新米の泥棒だったら、きっといつかは立派な人間になるのではないか。どんな因果か泥棒になった新米泥棒の、温かな前途の見える一席だった。

 

玉川奈々福/沢村美舟 阿武松緑之助

渋谷らくご浪曲お姉さんである奈々福さんの登場。美舟さんは妖艶な佇まいに、左手薬指にはキラリと指輪が光っている。男だから、女の左手薬指は癖で見てしまう。話しかけることなど無いのに、美人を見るとつい「結婚してないかな・・・」と確認してしまうのは悪い癖である。私が与三郎だったら、手を出している(何を言っているやら)

三味線の音に導かれて、語られたのは『阿武松緑之助』。大飯食らいの力士が入門した相撲部屋を追い出され、死のうと思っていたところ、その飯の食い様を認められ、再び別の相撲部屋に入って稽古し、やがては自分が追い出された相撲部屋の親方と勝負をするという一席である。

人の才の向き不向きは誰にでもあるだろう。それをとことんまで突き詰めて行けば、必ず誰かが認めてくれる。その才が例え人より何十倍何百倍と飯を食うことであったとしても、人との差異は些細なもの。差があるか無いかなどどうってことではない。

浪曲の話となると、随所に派手な見せ場がある。特に大飯をモリモリに盛る女中の姿や、三升も食べつくした長吉が「ごちそうさま」と言う場面には驚いた。「阿武松って、ごちそうさまって言うんだ・・・」という驚きがあり、落語で聞いてきた『阿武松』では、ただの一度も長吉はごちそうさまとは言わなかった。そこが少し驚きだった。一人の名横綱の人間らしさがぐっと身近になる一言だった。

最後に武隈と戦う場面ではいつもうるっと来てしまう。特に勝利した長吉に向かって負けた武隈が言い放つ「強うなったなぁ~」という言葉を聞くと、うううっと胸が締め付けられて、感動する。

たとえ一度は捨てられた才能も、諦めずにいれば花開く。圭子の夢は夜開く。自らの才能とは何かを考えさせてくれる。温かい一席でインターバル。

 

 立川吉笑 親子酒

冒頭からガッツリホーム感の吉笑さん。マクラでは禁酒の話題から、未来の真打昇進パーティまでを詳細に語るという爆発ぶり。捲し立てるような語りで、想像を詳細に語り出す様は、『湯屋番』で番台に立つ若旦那よろしく、一人キ〇ガイになっていて、観客の想像の中で繰り広げられる吉笑さんの真打昇進披露パーティがとてつもなく面白く、全員がパーティに出席したいと思ったことだろう。

ノリにノッた吉笑さんの禁酒解禁の妄想から、演目は『親子酒』である。「おおっ、まさかの古典かっ!」と驚いたが、そこは立川流である。オーソドックスな古典落語になる筈がない。

その予想を遥かに上回るほど、吉笑さんらしい仕掛けが爆発する話だった。

禁酒の約束をした親子。だが次第に耐えられず結局は飲んでしまう親。そこに帰ってきた息子も酔っぱらっていて、親子ともども約束を破って酔っぱらうという『親子酒』の一席。

特に、マクラの一人キチ〇イが『親子酒』の話の中でも効果を及ぼしていて、吉笑さんの巧みな構成力が、マクラと演目に階層と繋がりを感じさせた。この辺りは恐らく狙ってやっている気もするのだが、緻密に計算され、会場の温かい雰囲気と相まって熱狂の話になった。

汗だくになり、若干のトランス状態にあるかのような吉笑さんの語りが凄まじい。禁酒の約束を破った後の、女将さんの入れ知恵に僅かなしたたかさを感じてドキッとする。夫婦の禁断の関係まで感じさせるような男女の行動を、さらりと語る吉笑さんのスマートさが、古典落語を現代的な感覚で再構成しているように思えた。

普段の古典落語に飽きたり、ちょっと古典落語の雰囲気が肌に合わないなと思ったら、立川流をオススメしたい。特に談笑一門の噺家さんのオリジナリティは凄まじいものがある。また、落語芸術協会噺家さんも率先して古典落語を現代風なアレンジを入れてやっている方もいる。落語協会では新作派の噺家さんや鈴々舎馬るこさんが古典改作派の筆頭だろう。一度聞いたら二度とオーソドックスな古典落語が聴けなくなる危険性もあるが、楽しみ方は人それぞれである。

余談だが、私は目をパチパチしました。(隅田川馬石師匠の公演全部を聴くという人は、目をパチパチさせてくださいという吉笑さんの問いに対して)

素晴らしい熱気と、爆笑の渦に包まれた一席。立川吉笑さんは今後、ますます吉笑さんらしい落語を生み続けていくのだろう。そんな勢いと熱量を感じた素晴らしい一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その一~木更津の見初め~

さっぱりとした髪型と、餡子のような薄紫のお着物を着て登場の馬石師匠。丁寧なお辞儀の後、染み込むような優しい声と間で、今回の企画にお礼を述べて、普段の不思議な雰囲気を消して、語りの中でも自分を消していく馬石師匠。

驚くほど想像しやすい語りと磨き上げられた言葉。ゆったりとした語りのリズムに伴って情景が鮮やかに浮かび上がり、一瞬で世界はお富与三郎の世界へと変わっていく。

脈々と受け継がれた話であるだけに、馬石師匠の気合も並々ならぬものがある。全く落語を知らない人が聴いても、容易に情景を想像することができ、また、その語りの心地よさに心が惹き付けられることは間違いない。

『お富与三郎 その一 木更津の見初め』は、見ただけで女が帯を解くほどの美男子である与三郎と、博打打ちの赤間源左衛門に金を積まれ妾となった絶世の美女であるお富が出会い、互いに逢瀬を重ねて行くのだが、子分の告げ口によって事が露見し、怒り狂った源左衛門が二人の間に割って入り、お富は海へと身を投げ、与三郎は顔を刀で傷付けられるというところまでを語った噺である。

圧巻なのは、馬石師匠の語りである。今回、通し公演ということで5夜連続で回が行われているのだが、どこか一日でも良いから馬石師匠の語りを聴いて欲しい。きっと、それまで馬石師匠に抱いていたイメージをがらりと覆すような、真に迫った芸を見ることができる。

とにかく、情景が見えるのである。与三郎の目線になってお富が見える。お富の目線で源左衛門が見える。源左衛門の目線で与三郎とお富が見えるのである。その語りの凄まじさに恐れ慄いて欲しい。

美男である与三郎が江戸から木更津へとやってきて、お富を見つける場面の鮮やかな予感。お富と酒を酌み交わして良い仲になる与三郎。そんなことは露知らず、博打の旅から帰ってきた源左衛門が、子分と風呂場で交わす言葉。全てが鬼気迫っていて、子分が源左衛門の顔にぱっと泥をかける仕草をする場面には息が詰まった。

随所に見どころがあって、私は源左衛門に向かって子分が与三郎とお富の関係を暴露する場面が好きである。子分の忠義心と源左衛門の疑心がぶつかり合い、やがて源左衛門が納得するまでの、ひりつくような関係性に唸るほど痺れた。

この時、私は深い深い井戸の底で、月の光を浴びてトクンッ、トクンッと脈動する心臓の姿を見た。それは、紛れもなく渋谷らくごの心臓の鼓動だった。

自らの生業に精を出す源左衛門がいる一方で、お富の心が与三郎に惹かれていくのは仕方の無いことであろうか。私は女心というものがとんと分からないが、滅多に家にいない乱暴な亭主と、美男子でいつも傍にいてくれる男だったら、女は美男子を選ぶものなのだろうか。それは女としての本能であるのか、それともお富の心の間隙に吹きすさぶ風に、お富自身が耐えられなくなり、間隙を埋めるために与三郎を求めてしまったのか。それは、決して語られることはない。あるのは、お富と与三郎が良い仲になったという事実だけである。

亭主がありながら、別の男と良い仲になるお富を、どう見るべきか。非常に悩むところである。私が亭主側だったら許せないが、お富の立場を考えたら答えるのは難しい。まして、時代は今のように娯楽の多い世界ではない。人と人との会話が大きな楽しみとなっていた時代である。この辺りは、答えを出すことは出来ない。

いずれにせよ、怒った源左衛門によって与三郎は縄で縛られ、顔を傷つけられる。人は怒ると眼になると言ったのは峠三吉であるが、馬石師匠の怒りに満ち溢れた眼は、正にそれを体現していた。今まで見た事も無い、馬石師匠の怒りの眼。全身が一つの眼となって、与三郎を見つめている。これは私の言葉だが、人は悲しいと鼻になり、嬉しいと口になり、楽しいと耳になるのではないかと思う。

お富が海へと身投げしたという話を聞いても、悲嘆に暮れることなく、目の前の与三郎に怒りをぶちまける源左衛門の姿には、本当にお富を愛していたのだろうかという疑問が残る。女をファッションのように扱う成金を見かけることが多々あるが、源左衛門もそんな人間だったのではないかという疑問が沸き起こってくる。大事な装飾具を盗もうとした男に怒り狂う源左衛門の姿が恐ろしい。

真の愛とは、どこにあるのか。真の愛とは、一体何なのか。

与三郎にも良心というものがあれば、旦那のいるお富に手を出すことも無かったのではないか。想像するに、与三郎は自らが美男子であるということに、浸っていたのではないだろうか。自らの面を最高の道具として使っていたのではないだろうか。

これは私の話だが、もしも見ただけで女が惚れるような面構えをしていたら、その面を存分に利用する。私だったら絶対に利用する。

三浦翔平が、小林稔侍を旦那とする桐谷美玲に出会ったら、絶対に稔侍の留守中に美玲と良い仲になる筈である。最後は稔侍に見つかって刀でバッサリ切られて殺害され、「本身の刀だとは思わなかった・・・」という稔侍の供述の嘘を暴きに、古畑任三郎がやってくるだろう。(注:古畑任三郎Season1第七話『殺しのリハーサル』より)

余談はさておき、源左衛門が与三郎を切りつける場面の凄惨さに思わず身震いしてしまう。残忍な源左衛門の行為に死を覚悟する与三郎の心に、痛いほど胸が締め付けられる。男女の恋心とは何と罪深きものであるか。同時に、こんな焦がれるような恋がしてみたいと思ってしまうのも男の性というものか。

殺されるかに見えた与三郎は、何者かの仲裁によって命を助けられる。一体その人物とはだれなのか。それは、また明日の話。

 

 総括 見なきゃ損だよお前さん

お富与三郎』の終演後、全身を一気に駆け巡る疲れ。緊張でこわばった体が緩和し、力の抜けた腕で拍手をした。凄まじい一席である。連雀亭で見た松之丞さんの『甕割試合』と同じか、それ以上の力の抜けっぷりである。

放心状態の中、しばし物語の世界を反芻しながら、私はゆっくりと立ち上がってユーロスペースを後にした。

渋谷の街には、少しくらい小林稔侍に刀で顔を傷つけられた方が良い男も、いないではないのだが、そんなことを微塵も考えさせることのない鬼気迫る迫真の一席に、私はただただ茫然と、言葉も無くふらふらと歩いた。

まだ、後四回ある。絶対に見なければ損だ。

私も、与三郎のような美男に生まれたかった。冗談半分で友人から『ミャンマーに行けばモテモテじゃん?』と言われたことがあるが、ミャンマーに行ってまでモテようとは思わないし、そもそもミャンマーを何だと思っているんだ!という怒りが湧いてくる。

日本の地に生まれ、実話を元に生み出されたという『お富与三郎』。現代のようにインターネットの社会で繋がり合い、出会って結ばれる男女が多い世界において、偶然の出会い、まして夫のいる女と良い仲になるという禁断の恋愛。お富と与三郎が辿る運命とは、一体どのようなものであるのだろうか。

考えてみれば、小はぜさんの演目も数奇な運命によって泥棒になった新米の話であったのかも知れない。奈々福さんの話はとても数奇な運命によって大成した力士の話であった。吉笑さんの話は自らに科した規則を自ら破っていく人間の性を描いていた。

そして、馬石師匠の話は数奇な男女の出来事を語っていた。

何もかも、数奇な縁で結ばれているのかも知れない。その数奇な運命を、数奇にして模型。好きにしてもオッケーなのだろうか。

では、翻って私の数奇な恋の運命とはいかに。。。

さて、2話目もとても楽しみである。一体どんな話が、語られるのだろうか。

もう一度言う。

見なきゃ損だよお前さん。

ゆく川の流れの道理~ 2019年9月13日 渋谷らくご 18時回~

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前座

 

嘘でもいいから 

  

ガミガミ親父

渋谷にいる若者達はみんな、パンケーキとタピオカミルクティーを求めている。渋谷に来ると、いつも私は、パンケーキを食べたそうにしていて、タピオカミルクティーを飲みたそうにしている若者達の顔を見ることになる。いつか糖尿病になるぞ、と心の中では思うのだが、それを口に出して言うことは無い。言ったところで、好きなものをやめることなど人には出来ない。なぜなら私は、落語を聞きたそうな顔をしていて、落語を求めている人間をたくさん知っているから。

反抗期を終えて、太閤記を読み、抵抗器を弄りながら感動しアンノウンな未来を見つめていた若いころの私とは、生きてきた次元が違う若者達が街を闊歩している様子を脇目に、私はユーロライブへと歩いていた。

すれ違う若者は、虹色に光るブレスレットを付けていたり、黒地に白文字で『ARMY』と書かれた服を着ていたり、追剥にでもあったかのようなジーンズを履いていたりする。幾分涼しくなって、過ごしやすくなったからこそ、心は開放的になって、色んなことへの欲望が花開く。圭子の夢は夜開く。

ユーロライブへ行く道の途中、通りの壁に『新しい価値観が、未来を作る』と書かれたポスターがびっしりと貼られていた。目のやり場に困って道の花壇を眺めれば、片手にトリスハイボールの500ml缶を持ちながら、ニヤニヤと笑って嬉しそうに語り合う中年二人がいる。なぜか親近感が湧く。

月は煌々と輝いている筈なのだが、渋谷のビル群に遮られて何も見えない。ふつふつと私の胸に沸き起こってくるのは、月の輝きを遮るビルや雲のような、横やり、注意、邪魔な思考。頭の中で、幾重にも生まれてくる言葉。それら全てが、渋谷を歩く若者への小言なのだけれど、私にそれを言う資格はない。虹色のブレスレットをしていようが、ARMYを着ていようが、ボロボロのジーンズを履いていようが、全ては許容されている世界。ああ~のんきだねぇ。という気分だが、私は昔を思い出す。

かつて、私の故郷には何かと小言を言う爺さん、通称『ガミガミ親父』がいた。今、そのガミガミ親父が渋谷に来たら、一体どんなことを言うのだろうかと気になって仕方がない。

ガミガミ親父は、人の子だろうと何だろうと、自分にとって気にくわないことは何でも言った。挨拶はきちんとしろ、田んぼで遊ぶな、どこの屋号のもんだ、暗くなると危ねぇから早く帰れ、などなど、色んなことを言われたものである。

私は一度ガミガミ親父に出くわすと、なるべく怒られないように、静かにしている子供だった。絶えず人の眼ばかり気にしていたのがよくなかった。目も悪かったから、時々、父親に背格好の似ている人を自分の父親だと勘違いして、父親が見ているという緊張感で生きることがしばしばあった。

時代の流れは不思議なもので、怒鳴ったり、注意したりする人をあまり見かけなくなった。どこの誰とも分からない人にいきなり怒鳴られる、ということが殆ど無くなった。神社仏閣などに行って手水舎での作法を間違え、蔑むような眼で罵倒された経験が私にはあるが、それもレアなケースだと言えるだろう。

若い頃は、やたらと注意をしてくる煩い高齢者が大嫌いだった。頭でっかちで、頑固で、自分の常識を振りかざしてくる人間が、心の底から嫌いだった。過去の栄光に囚われて、「おれたちの若い頃は・・・」などと口癖のように言う高齢者が嫌でたまらなかった。そんなことよりも、新しいもの、新しい価値観、そして何よりも自分の信念こそが、新しい時代を切り開いて行くのだと私は思っていた。

だが、大人になってみると、次第にそういう大人が減っていることに気づいた。というか、煩い高齢者も煩い高齢者なりに、苦しんでいたのだということが分かった。自分達の積み上げてきたものを、簡単に淘汰されてたまるか!という誇り。何よりも時代の中で必死に働きながら、生きてきたという自負。それが、強固な思想を作り上げていることに気づいたとき、安直に反抗していた自分の愚かさが恥ずかしくなった。

実るほど頭を垂れる稲穂かな』という言葉のように、人は成長していくのだろうと思った。最初はぐんぐんと、重力に逆らって伸びる稲穂。これは人の若さに似ている。何ものにも屈しない力で、時の流れの中で成長し続けて行く。やがて、実りの秋となり稲穂が実ってくると、ゆっくりと風にたなびいて頭を垂れる。歳を重ねた人々も、経験故に若者の気持ちが分かってくる。そんな風景を、私は実社会の中で感じるのである。

無論、全てが全てとは言わない。中には不条理な者もいるし、ずっと実らない者もいる。一概に全てを言うことは出来ないのだが、少なくとも、私はそういうことを考えられるほどには、社会を見てきたように思う。若い頃のように、煩い高齢者を即決で否定できない自分を認めるのである。

今宵は、そんなことを考える一夜になった。

 

 入船亭扇辰 化け物使い

人使いが荒く、誰も近寄りたがらない隠居の元に一人の田舎者がやってきて奉公をするのだが、隠居の引っ越し先に化け物が出るという話を聞き、田舎者は化け物が大嫌いだと言って隠居の元を去っていく。奉公人を失った隠居は化け物に出会い、化け物をこきつかっていくのだが、最後は化け物も隠居のもとを去ってしまう。

そんな『化け物使い』という一席に、私は扇辰師匠の、小痴楽さんへの強いエールを感じた。

それは、扇辰師匠が『化け物使い』のような日々を越えてきたのではないかと、思ったことがきっかけである。

どんな場所に行っても、奉公をするからには奉公先の主の言うことを聞かなければならない。滅私奉公という言葉もあるように、誰かに仕えるということは自分を滅しなければならないこともある。自分を滅することの出来ない人は、奉公先を変えたり、別の仕事に付いたり、或いは自分で会社を起こしたりする。今は、時代の多様化に伴って、ありとあらゆる職業に就くことができる時代である。10年先には、新しい職業がたくさん出現しているという話も耳にする。生き方は自由だ。でも、会社に入って自分勝手に仕事をしていたら周りが迷惑をする。会社はチームで動いている。どんな社会も、自分で会社を起こさない限り、誰の指図も受けずに自分の裁量で動くということは容易には出来ないだろう。

これは想像だが、落語の世界も師弟の関係はそれと同じなのではないか。前座になると、とにかく寄席で皆の為に働かなければならない。自分勝手に生きていると、師匠から仕事を貰えない。周りと良い人間関係が築けない。前座の苦労は想像を絶するのであろうと思う。同じような経験を、人生でしたことのある人間だけが分かる苦しみであろう。

そんな時代を扇辰師匠は逃げずに乗り越えてきた。そんな風に私は思うのである。

『化け物使い』の中には、小言ばかり言う隠居と、化け物が嫌いな杢さんが登場する。私は扇辰師匠の眼差しは、両者の気持ちを兼ねているように思うのだ。

はたから見れば絶対に逃げ出したくなるような、文句ばかり言う隠居のもとで杢さんは黙々と働く。入船亭扇橋師匠に弟子入りした頃の、扇辰師匠の姿が見えてくる。どんなに周りが恐れるような苦労の中にあっても、自分の信じた道を突き進んで諦めず、自らの才能を磨き上げてきた扇辰師匠の姿が、そこにはある気がした。

同時に、扇辰師匠は隠居の目線でも杢さんや化け物について小言を言い放つ。時を経て歳を重ね、小言の一つや二つを言う立場になった扇辰師匠の気持ちが目に見える。口は悪くとも、心は広くて大きい隠居の言葉が、不思議と嫌味に聞こえない。むしろ、積み上げてきたものに絶対の自信があるからこその、常人には理解が難しい細部への気配り。要領が悪いと杢さんに言われようとも、自らのスタイルを変えない姿勢。それだけの頑固さと実行力があるからこそ、人を使う立場になったのだろうと思わせる説得力が語りから感じられた。

扇辰師匠の、隠居の言葉を借りた小言は、そのまま小痴楽さんに向けられていると私は思う。誰よりも相手のことを思っているからこそ、小言を言うのだ。相手が憎くって言っているのではなく、相手により良くなって欲しいと望んでいるからこそ小言を言うのだ。

思えば、私の出会ったガミガミ親父だって、きっと私のことを思っていたから注意をしたのだ。時々、これは絶対に間違っているだろうと思うようなこともあったけれど、それでも、本当に相手のことが嫌いだったら無関心で何も言わないだろう。これは私の感覚だが、他人に対して無関心な人が増えたように思う。

寂しいから、落語を聞こう。

 

 柳亭小痴楽 大工調べ

年寄りの小言を突っぱねるような男でないことは、既に周知の事実である小痴楽さん。一見、傍若無人で乱雑なように見えて、実は年配からの信頼が厚そうな小痴楽さん。もうまもなく真打昇進という時期を迎えて、小痴楽さんほど現代の若者らしくありながら、同時に古き良き伝統の流れを汲んでいる落語家はそうそういない。

小痴楽さんを何も知らない人が外見と言動だけで見たら、年寄りを足蹴にしそうな雰囲気(ごめんなさい)なのだが、実はそうではない。人は見た目によらない。きちんと、『何が正しいか』を理解している人だということが、『大工調べ』という一席、そしてそれに纏わるエピソードから伝わってくる。

詳細については広瀬和夫さんが以下の記事で書いている。

 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190814-00000016-pseven-ent&p=1

この記事を読む以前に、私は大阪の天満天神繁昌亭で小痴楽さんの『大工調べ』を聞いていた。特に、オチに捻りがあって、そのようなオチにした経緯が気になっていた。上記の記事を読んで、全てが腑に落ちたのである。

小痴楽さんは自分の筋というものをとても大切にしている。もしも、『大工調べ』のオチが当初のままだったとしたら、小痴楽さんという人間の奥行きが狭くなっていたと思う。それだけに、小痴楽さん自ら、小遊三師匠の言葉に突き動かされ、左談次師匠に筋を通してオチを変えたという話は非常に興味深い。

『大工調べ』という話は、店賃を溜めた与太郎が大家に大工道具を奪われ、それを取り返すために棟梁が力を貸したがために、大家と騒動になる話である。古今亭志ん朝師匠の録音を聴いてもらえば分かると思うが、オチがどうも道理に合わないのである。

思えば、私には『自分が間違っているけれど、押し通したいこと』が人生の中で多々あったし、もしかしたらこれからもあるかも知れない。自分ではっきりと「ああ、ヤバイ、今、俺は完全に間違ったことを言っている・・・」と自覚しつつも、引っ込みがつかなくて突っ走り、大恥をかいた経験がある。恥ずかしすぎて詳細なエピソードを書くことが出来ない。道理に合わないと分かっていながら、押し通してしまった自分を恥じた経験が私にはあった。

そんな経験のおかげか、扇辰師匠の『化け物使い』は、小痴楽さんの『大工調べ』を別の観点から考えさせてくれた一席になった。ガミガミ言うが筋の通っている隠居の一席の後で、威勢と勢いが良くて、ついつい肩を持ちたくなるが筋が違っている棟梁を、最後にバッサリと斬る大家の痛快な一言で終わる一席。

小痴楽さんが意識しているかは分からないが、見事に扇辰師匠の気持ちを受けとめていると私は思った。

これも想像であるが、扇辰師匠は一つの問いを小痴楽さんに投げかけたのだと思う。「小言ばかり言う隠居とその周辺に対して、お前はどう思う?」という問いに、小痴楽さんは「道理に合ってねぇことは、合ってねぇんだから仕方がねぇ」というような感じで、きちんと返している。自分に非があるときは、きちんと自分の非を詫びる姿勢。その潔さが、小痴楽さんの落語の爽快感に繋がっていると私は思う。

この美しい二席の中に、扇辰師匠のエールと、それを受けて真打に昇進する小痴楽さんの気概を私は見た。

二年前の9月、開演時刻をとっくに過ぎているのに、私の目の前を通り過ぎて行った小痴楽さんはもういない。今、しっかりとチケットを手売りし、道理を携えた一人の真打が、座布団の上で、無限に広がる落語の世界へと誘っていた。そして、あの日、圧巻の三井の大黒を見せた扇辰師匠は、渋く、ささやかに、ひっそりと、新真打に花を添えていたのである。多分、添えたのだと思う。いや、もしかしたら内心イライラしてるかも知れないけど。まぁ、洒落でしょう。

 

 総括 ゆく川の流れは絶えずして

同じように見える川の流れであっても、一つとして同じものはない。時代、時代で、人々の趣味趣向は移ろいゆくものである。こと、渋谷においては、明日にはパンケーキも、タピオカミルクティーも流行から外れて、豆大福と抹茶が女子高生の流行になるかも知れない。世の中の流行りも、正しいさも、その時々で変わるのかも知れない。

それでも、ここに、変わらないものがある。

渋谷の奥地にある、ユーロライブの、小さな会場の中で、落語は語られている。齢を重ねた噺家と、これから羽ばたこうとする噺家が、落語の世界を通じて語り合っている。それを、あなたは見過ごしてしまうのだろうか。

あなたにとってのガミガミ親父は、いつまでもガミガミ親父だろうか。道理には合わないことを無理に押し通すような、生き方もあるだろうし、道理の通りに生きる生き方もある。

相手のことを知らず、ただ嫌悪感のみで相手を真っ向から否定するのはよろしくないようである。若者だからと言って馬鹿だとは限らず、高齢者だからと言って頑固とは限らない。思い込みと単純化を捨て去って、相手のことを思いやってみたいと思ったのなら、落語を聞けば良い。そこにはあなたが必ず気づくことの出来る、川の流れの道理がある。

私はそっとゆく川の流れの道理を見つめ、ぼんやりと考えながら、次の回の開演を待つのだった。

心のこもったヨイショの先にあるもの~2019年9月8日 湯島天神 謝楽祭~

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落語好きなら一度はおいで

感謝 感謝の 謝楽祭

全てのことはメッセージ

楽しく笑って触れ合って

人と人との温かさ

嗚呼 今日という一日に

嬉しいあなたの心意気

『心を込めてヨイショ!』

開幕 

 

まえがき

落語好きの皆様、祭り好きの皆様、お待たせ致しました。森野照葉でございます(妙に仰々しい)。私、この度、謝楽祭記事に関しては若干、いつもと方針を変え、謝楽祭に行けなかった皆様のために、また、謝楽祭に参加した皆様のために、どちらにも楽しんで頂ける記事を書いて行こうと思います。

というわけで、私の体験を追体験する形で、私の一日の行動を詳細に記すことと致しましょう。

 

 目覚めの朝、湯島天神へ。

朝4時30分起床。謝楽祭です。そう、謝楽祭です。しぇからしか!ではございません。ご安心ください、謝楽祭です。身支度を整え、湯島天神へと向かいました。7時30分には列に並びました。早すぎました。ラダニアン・トムリンソン並みの速さでした。この段階では、まだ並ぶ人は一桁でしたが、読み通り8時30分頃から爆発的に人の列が増え、9時30分ごろには150人に達していたとのことでした。まさに謝楽祭の産業革命が8時30分には起こっていたのです。

さて、去年の私は調子の舟を自堕落な若旦那の如く漕いており、それこそ1時間前に列に並んだのですが、サートゥルナーリアよろしくの出遅れた感があったため、今回は思い切って早めに列に並びました。iPhone発売日かと思うほどの速さで並びました。そこで、私は新しい楽しみを発見したのです。

それは、『噺家さんの会場入りの様子を見ること』でした。正直、こんなに面白いのかと驚いたくらいです。自転車で入場する才賀師匠。タクシーで入る喬之助師匠、喬太郎師匠、正蔵師匠、その他、文楽師匠や市馬師匠のお弟子さん達など、様々な方が入場する様子を見ることが出来たのは、とても嬉しかったです。そして、一人一人が丁寧に挨拶をしてくれました。喬太郎師匠と目と目が合う。そこから恋が始まる、訳もなく、私はドキドキしながら開会の10時を待っていたのでした。忠犬ハチ公のように。

もう一つ発見もありました。それは8時に朝礼があることです。工事現場じゃないです。祭りの現場です。

実行委員長のたい平師匠が司会となり、落語協会所属の早々たる面々が輪になって朝礼を行っているのです。そこでは、最後の掛け声が素敵でした。

たい平師匠の「心をこめて~?」の後で、皆が一斉に、

 

「「「「「ヨイショー!!!!!」」」」」

 

と、声を合わせて叫んでいました。あの場面を見ることが出来たのも、早く並んだおかげだったと思います。文蔵師匠と菊之丞師匠の会場準備の様子も見ることができ、とても幸福でした。

 

福扇をGetしたら、即座に松島屋へ

如何に効率よく巡るか。これが私のテーマです。天駆ける馬、疾風の如し、です。福扇で白玉を見て景品を貰った直後、混雑状況を推測し、一路、エボエボBOSEのある店へと駆けました。人混みに一切左右されないルート、そう、『唐門~本殿通りの鳥居間ルート』こそ、エボエボBOSE攻略における最短ルートなのです。距離・混雑量を加味しても最速。誰の邪魔もなく目指せる最短のタッチダウンルート。世界中の優秀なランニングバックが、こぞって選択するルートを、私は駆けました。脱兎の如く。

しかし、見事なタッチダウンを決めた私でしたが、エボエボの混雑状況を見てスルー、ここでの時間ロスはいかんと、すぐに松島屋へ向かいました。

 

エボエボから松島屋へ

天駆ける馬は止まることを知りません。馬はマグロになりました。そう、マグロは止まると死ぬのです。眠る時さえ目を開けて眠るのです。鰯の群れ、失礼、人混みを掻き分けて、脳内に完全にインプットした屋台ゾーンの配置を、鷹の眼の如く遥か高みから自分を鳥瞰して見るのです。今自分が、図面のどの位置にいるのかハッキリと認識できるのです。サッカー選手だったらベルギーのデブライネと同じ俯瞰視点で私は自分を見ていたのです。鳥瞰ですよ。超感動しませんか。超考えてるんですよ。超簡単なことじゃないんですよ、長官。

冗談はさておき、私は一目散にも二目散にも龍角散にも、春風亭一門の『みそ田楽』が販売されている『松島屋』へ急行しました。見事な低空飛行で空を滑空し、受付にいた春風亭朝七さんからクリアファイルをゲット、写真もゲット。そこからみそ田楽を購入し、一朝一門の写真をゲット。笑顔の無いクールな㐂いちさんの写真をゲット。

ここまでの所要時間、僅か9分。最速ではないですか。福扇→松島屋までの目標達成時間、なんと僅か9分ですよ!!!と言っても、福扇で3時間近く並んでいるというオチ。。。

 

即刻、エボエボへリターン

手薄になった本殿の通りを駆け抜け、再びエボエボへ。狙い通りの薄い並び。即座にツイートしたのが10時12分。すなわち、松島屋→エボエボ間を3分で移動している。インスタントラーメン一個分である。その間にみそ田楽の食事はもちろん終えている。

列に並んだ私がたこ焼きを食すまでにかかった時間、僅か8分。どうですか。その間に、私は菊之丞師匠とのツーショットを決め、そこからたこ焼きのしょうゆ味を食したのです。この時短、これぞ謝楽祭に参加した者だけが見つけられる、最速のルートだと思いませんか。えっ、思わない!?がびーん。

時刻はなんと、まだ10時20分弱。たった20分の間に、福扇から超人気店の二つを制覇するという偉業を成し遂げたのです。といっても、何度も言いますが、3時間福扇に並んでいる私です。。。

とにかく、これぞ最短の奥義。宮本武蔵もびっくりの『謝楽祭の書』の効果でした。

格言としては、『福扇の並びを制する者は、謝楽祭を制する』です。

完全に調子の舟に乗って、爆漕ぎしておる。

 

持て余した解放感ゆえの時間ロス

自分でも衝撃的な速さで目標を達成してしまった私。競馬で言えばオッズが1.0倍のディープインパクトの気持ちでした。何を賭けても、賭けた分がそのまま帰ってくるという無意味の境地。

圧倒的な時短行動は完全に私を狂わせました。

一体、私は次にどこへ行けば良いというのか。そんな考えに支配されたのです。

船長を失ったクルーの如く、船内をあたふたと歩き回る私。

砂漠に放り出されたマグロ。

とりあえず物販コーナーに行くも、特に欲しいものが無く、目当てはまだピークが去ってから狙おうという、計画に準ずる性格が災いし、軽いパニックに陥る。例えるならば、子供が「パパー!お菓子買ってー!」と言った瞬間に口にお菓子を放り込まれるような感覚をずっと味わっていたのです。

唐突な願望の達成に混乱した子供は、お菓子を得た喜びを感じるのに時間がかかり、「えっ、お菓子・・・えっ!?」という、自分でも何を望んでいたのか分からなくなる状態。

これぞ、時短ゆえの空中浮遊。悪夢の無重力

何をトチ狂ったのか、見慣れた顔のサンキューさんと一平さんのいるアサダ二世さんのブースに行き、特に欲しくも無いが写真を撮る手前、買わなきゃ失礼だと思い、缶バッチ四種を買うという愚行に走った(いや、善行だけども)。

本来であれば、もっと遅い時間に回る筈だった物販ブースが、予想以上に早く回れてしまったが故のパニック。こうなった私はただ焦りながらも、『写真を撮ろう』と思い立ちます。

サインに応じる小猫さん。志ん生師匠のブースで古今亭一門のサインを見せる菊寿師匠。なぜか屋台ブースの混雑状況を写真に撮りながら、特に何も出来ずに11時を迎えたのでした。

考えてみれば、この時に『円山暴挙』に名前を書いておけば良かったのです。似顔絵を描いてもらえばよかったという後悔が残りました。自分の作戦が上手くいかないという予想は多くしても、自分の予想が上手くいった後のことは、まったくもって考えていなかったのです。なんと、寂しい思考力。次回に活かします。

 

のど自慢大会 開幕

11時になると、イベント『のど自慢大会』の開幕です。林家ぼたんさんと林家たけ平師匠の司会。

市馬師匠のアカペラ熱唱の後、扇兵衛さんの市馬師匠好みの渋い歌唱。はん治師匠の石原裕次郎、こみち師匠の偉大なる伴奏、小傳次師匠の土建屋と勘違いするかのような吉幾三、わん丈さんのアリーナ感炸裂のTUBE、あずみさんの色っぽい中島みゆき、きく麿師匠のクレイジー・プー、途中ワイロ、文生師匠の歌詞みまくりで天候悪化の歌唱、志ん吉さんのエロい金髪、かゑるさんのペーさん激似物真似、権太楼師匠と扇遊師匠の豪華すぎるデュエット、茶番も込みで笑えるおきゃんでぃーず、そしてトリは、座布団を被ったたい平師匠のヨイトマケでフィニッシュ。

何と言っても、きく麿師匠の衣装と歌は最高で、会場は大爆笑。あんなん笑うしかない!!!

わん丈さんは見事な歌声を披露して、見事に大賞でした。

噺家の新たな一面も見れる『のど自慢大会』、落語以外でもこんなに素敵な芸をお持ちの皆さん、めちゃくちゃ笑ったイベントでした!

 

 突然の大雨、そんなの吹き飛ばせ!

丁度、のど自慢大会の優勝発表辺りから大粒の雨がざあっと降りだしました。即座に脇に逃げ込む私。水も滴る良い男なので、水に濡れると良い男になりすぎるという懸念は一切しておりませんが、雨が過ぎるのを待ちました。

途中、和助さん、小もんさん、やなぎさんの曲芸・数字当ての茶番を眺めて時間を過ごし、その後再び物販ブースへ。

そこで、見覚えのある顔をアサダ二世先生のブースで発見。

そこにいたのは、

 

 えっ!!??

 おさむさんっ!!!???

 

思わず心拍数の上がる私。ナツノカモ低温劇団に所属し、昨日のカレーを温めてというお笑いコンビを組み、元オフィス北野で、『ノットヒーローインタビュー』という伝説的なコントで、大爆笑をかっさらった天才、みんなのおさむさんがそこにいたのです。思わず「おさむさんですか!?」と声をかけると、驚いた様子で「はいっ!」と答えるおさむさん。私はていおんで毎日見てることを伝え、「写真を撮ってもいいですか!?」と聞き、写真を一枚。なんて素敵な笑顔。

おさむさんは、天才です。天性の面白さを兼ね備えているのです。そんな人を私が見紛う筈も無いのです。嬉しくて握手をしてもらいました。きっとサンキューさんに誘われたのかも知れません。あの場にいた何人が気づいたか分からないけれど、おさむさんがいたのは衝撃的でした。

時刻は12時20分ほど。このタイミングであれば、立呑屋文蔵は手薄になっているだろうと考え、足早に向かいました。案の定、文蔵師匠のサインの列は長蛇でしたが、狙い目の塩モツ煮込みは手薄。チャンスとばかりに一杯購入。

受付に立っていた文吾さんにお願いして一枚パシャリ。偉大なる文蔵師匠の一番弟子にして、流麗なる語りを持ち、ひたすらに逞しく明るい文吾さん。今月のシブラクで見るのが待ち遠し二ツ目噺家さんです。

この辺りで、正気に戻ってきた私は、サイン帳を求めようと思いました。しかし、時すでに遅く完売でした。仕方なく、傍にあったソフトドリンクを購入。すると、パンフレットコーナーに台所おさん師匠がいらっしゃいました!!!

私は台所おさん師匠の醸し出す雰囲気が大好きです。噺の温度が大好きなのです。二度寝するときの布団の温度と、おさん師匠の噺の温度は同じような気がするのです。そのぬくもりの温かさに、安心して心が休まるのです。

だから、おそるおそる近づいておさん師匠にサインを頂きました。そしてお写真も。何と言えば良いのでしょう。私はおさん師匠の醸し出す落語家としての雰囲気が、たまらなく好きなのです。この人となら、学生時代にたくさん色んなことを楽しめたであろうという、そんな不思議な気の合う感じがするのです。

すっかりと晴れた空。狐も何度嫁入りすれば気が済むというのかと思いましたが、ようやく婚礼の儀も終わった様子。喜常に、なんて言葉を思いながら、私は物販ブースへと向かいました。

 

物販にて、計画通り

去年に比べ、予想以上に混んでいたのが寄席文字の店でした。去年は今年のような込み具合はしていなかったように思います。私も割とあっさり買えた印象がありました。

ところが、今回は随分と並んでいます。たまたま一人しか書く人がいなかったというのもあるかも知れません。結構待っていたためか、新真打&二ツ目のお話を遠くで聴きながら、私は『恕』という文字を書いてもらいました。そう、孔子が『恕かな』と言ったという一文字です。一瞬、寄席文字を書く人が「ん?これは、えっと・・・」と言って、戸惑わせてしまいましたが、私は「えっと、じょ、と言います」と言うと、「ああ、はい・・・」と不思議な様子で書いてくれました。

時刻はすっかり14時に近づいており、次のイベント、『三K辰文舎ライブ』です。

 

 三K辰文舎ライブ 開演!!!

去年のほたるさんによるライブを見ることは出来ませんでしたが、2017年に聞いた三K辰文舎ライブ以来のライブ。つまり二年越しのライブです。

文蔵師匠の歌に始まり、扇辰師匠の軽やかな歌、そして小せん師匠の甘くゆったりとした大人の歌。あっという間に過ぎていく30分。

途中、体調を崩された方の救護のため、たい平師匠が動いておりました。確かに温度が高く、熱中症になりかねない気候でした。ついつい聞き入ってしまうと、水分補給を忘れがちになるため、来年も気をつけなければなりません。

台風なんて一体なんだったのか、と思うほどの快晴のなか、美しい曲によってライブが終演。今は一人で撮った動画を聴きながら、うっとりとするという楽しみに浸っております。

 

文菊師匠を探す旅

時刻は14時30分を過ぎていました。私は文菊師匠の寄席スケジュールを眺めながら、「そろそろ鈴本の出番を終えて、こちらにいてもおかしくない」と、推理を始めました。驚異的な推理力です。まずは、昨年、目撃情報のあった場所をくまなく探しました。いません。どこにもいません。

だんだんと、山崎まさよしの『One more time, One more chance』の気持ちになって来ました。向かいの境内、湯島天神の影、そんなとこにいるはずもないのに。

そんなことを思いながら、ふらふらと歩いていると、ふいに、文菊師匠を見つけました。

私の脳内を過った一文字をご紹介致しましょう。

 

白!!!!!!!

 

突如として現れた純白。純白の文菊師匠。心拍数が上がり、ドキドキとRomanticが止まらなくなりました。脳内ではCCBの冒頭のイントロが流れ始めました。周囲の人間が見えなくなり、私の視界には文菊師匠の姿だけ。

周りのお客様には毎度おさわがせします』状態となり、板東英二と風呂に入るのはごめんだが、エッチな話は聞きたいという、自分でも何言ってるんだか訳の分からない状態に突入。でも私という板東英二にとっては、文菊師匠は夏木マリみたいなもんなんですよ(喩えが古すぎて誰も分からない)

惰性と交換という漢字を書いただけでも興奮する思春期少年と化した私は、列に並んで文菊師匠を待ちました。今、文菊師匠と書こうとして、思わず『びんぎく』師匠と書きそうになったんですけど、すいません、もう、赦してください。抗えません。

文菊師匠の前では、何もかも無力なんです。

サミュエル・ウルマンだって言ってます。「青春とはある一定の期間を言うのではなく、心の在り方を言うのだ」と。その通りです。私、否、あたいは、文菊師匠を見た途端に、青春に突入してしまう体質なのです。これまで何度も、あたいは、青春に突入させられました。大気圏を越え、ブラックホールを突き抜けて、第三世界のカラスを殺し、あたいは、タイムリープを繰り返して、夏の扉を開け続けてきたんだわいな(混沌を極めている)

盛り盛りのジョークはさておき、文菊師匠と夢のツーショット。魂が半分抜けた表情のツーショット。もう、このまま、棺桶に入ってもいい。由井正雪に騙された願人坊主になっても構わない。いや、坊主は文菊師匠だけど。

そう思いながら、お礼を言ったかどうかすらも忘れ、私は文菊師匠のもとを去りました。これで私も、文菊師匠の右に立った男になりました。文菊師匠も私に右に立たれた男になりました。だから何だって話なんですけどね。。。

放心状態のまま、私は次のイベント、『たい平の部屋』に向かいました。

 

 たい平の部屋での会話を、窓の外から聞く感覚

文菊師匠とのツーショットに魂を抜かれ、ウォーキング・デッドと化した私は、カメラを止め、空気を吸いながら、白目を剥き、たい平師匠の話を聞いていました。

林家木久蔵師匠と江戸家小猫さんが出ましたが、ゾウが出たんだが猫が出たんだか、さっぱり頭に入ってきません。私の脳を脳内メーカーで調べたら、文菊師匠の爽やかな笑顔で埋め尽くされていたことでしょう。まだ震えている手、高鳴っている鼓動。ツーショットを確認する度に失神しそうになる気力。

これは気温の暑さによる『熱中症』ではありません。文菊師匠の爽やかさによる『文菊熱中症』です。ニトリのNクールも敵わない文菊師匠の醸し出すクールさに、全身からは汗が吹き出し、眩暈、動悸、息切れ、発作を起こしていました。

あ、あかん。体が女性になってしまいそうだ・・・

デタッチャブル・ピーニスだ・・・

そんなことを思ったか思わなかったかは秘密ですが、とにかく、ぼんやりしているうちに、たい平の部屋が終わりました。

 

富くじ、当たらず

その後の富くじは、当たりませんでした。むしろ、運を使い果たしたのではないかと思うほど、幸福なことばかりでした。

素敵な芸人さん達の笑顔。そして、食事。そして、物販。全てが、台風を吹き飛ばしていました。心のこもったヨイショに、私の胸も、お腹も、いっぱいだったのです。最後の文菊師匠との出会いで病院送り寸前でしたが、何とか気を確かに持って、家路へと向かうことが出来たのでした。

そして、私は福扇の袋を開けました。そこには、謝楽祭の全てを総括するような、言葉が書かれていたのです。

 

総括 ヨイショの先に

誰が書いたのか判読できないのですが、そこには『人生のような落語、落語のような人生』と書かれてありました。その言葉を見た時に、全てが今日という日を表しているように私は思ったのです。

今日、9月8日。湯島天神に集まったお客様、演者。

皆が落語を愛しています。これは間違いの無いことだと思います。

誰もが、自分の『人生のような落語』に触れたり、『落語のような人生』を歩んでいたりする。今日という日は、そんな人達のために、普段、『人生のような落語』を見せてくれる芸人と、『落語のような人生』を歩んでいるかも知れないお客様との、一年に一度の大切なお祭りだったのではないでしょうか。

きっと、そんな気が私はするのです。

こんなに素敵なお祭りに出会える幸福。そして、きちんとやってくる『言葉』。私は、全てが腑に落ちました。

落語に笑い、落語に心惹かれ、落語が好きで、落語が人生の傍にある人達。その素晴らしさは計り知れません。こんなに素敵な輝きを、私は他に知りません。

今よりももっと、落語が好きになって、寄席が好きになって、日本の演芸が大好きになる。それが、謝楽祭というお祭りにはあります。

今年は、たい平師匠が実行委員長となり、『心をこめてヨイショ!』をテーマに、大勢の芸人さんが、訪れた観客に、心のこもったヨイショを送りました。

では、そんなヨイショを受けた私を含む多くのお客様は何を思うのでしょう。

これは私の一例ですが、きっと、自分を諦めないことだと思うのです。

自分にある才能や可能性や、ありとあらゆる未来に向かって進む自分を、諦めず、見捨てないことが、大切なのではないでしょうか。

笑顔で迎えてくれる芸人さんの姿。一所懸命に楽しませようとしてくれる芸人さんの姿。何時間もサインに応じる姿、汗をかきながら美味しい食べ物を作る姿。

全てが、お客様の心の奥底を持ち上げているような、ヨイショしているような、そんな心意気があって、その心意気によって、持ち上がった自分の心に、自分でもびっくりするくらい、喜んでいる自分がいることを私は認めました。

自分の可能性を潰しちゃ駄目だ。

自分を見捨てちゃ駄目だ。

自分の素晴らしさに気づいて。

謝楽祭には、そんな流れを私は感じました。

決してスピリチュアルな話ではありません。

自分の感情を左右するのも、

自分の可能性を潰すのも、

全ては自分次第なのだけれど、

自分という存在の偉大さを、

気づかせてくれるのは、

笑いという大きな力で、楽しませてくれる、芸人がいるからではないでしょうか。

自分一人じゃどうしようもできない、辛い状況にあるとき、寄席に行くと本当に心を救われる経験が私にはあります。あなたにもありませんか。

寄席の素晴らしさは、そんな静かで温かい日々が毎日続いていることにあると思うのです。そして、その芸に触れて、自分ではどうしようも出来なかった自分を笑い飛ばして、認めて、抱きしめて、肯定してあげるような芸を見せてくれるのが、芸人なのではないでしょうか。

今日は、そんな芸人とお客様が、垣根を越えて交流し、共に笑顔で笑い合い、認め合った一日なのではないでしょうか。

私は、そんな風に思ったのです。

そして私はこれからも、『人生のような落語』を聴き、『落語のような人生』を歩むのかも知れません。と言っても、私は与太郎にはなるべくならないように気を付けておりますが(笑)

でも、いいんです。与太郎になっても。きちんと、正しく、自分を認めようと思うのです。そりゃ、働いていれば心が擦り切れる日もあるけれども、『毎日を笑って過ごす』ということを、私は絶対に諦めません。

事実、私は落語に出会って、毎日、頬骨が筋肉痛になるくらいに笑って過ごしているのです。ちょっとや、そっとじゃ、凹みません。形状記憶合金です。

さて、最後に、あなたはどんなことを、ヨイショの先に思いましたか。出来ることなら、あなたの言葉で纏めて見て欲しいです。

そして、機会があったら、私に聞かせてはくれませんか。

きっとあなたとなら、もっと楽しい落語が聴けそうだと私は思うのです。

たくさんの落語好きが集まった落語会って、それはそれは楽しいのです。

今日は、そんな落語会と同じ雰囲気のお祭りだったのです。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

本当に楽しかったですね。

それでは、素敵な演芸との出会いを祈りながら。

また、どこかの寄席でお会いしましょう。

ヨイショ!の謝楽祭~森野的 楽しみ方~ 2019年9月4日

2019-1

 http://rakugo-kyokai.jp/activity/sharakusai2019/

 

https://www.youtube.com/channel/UCV1eJRbmHNPu0T7gR0SnQSA

 

心をこめてヨイショ!

落語のお祭り!

突然ですが、あなたは落語がお好きですか。

このブログを読んでいるくらいですから、お好きですよね。

お好きに決まっていますよね。

好きじゃなかったら、そもそもこのブログを読んだりしませんよね。

来たる、2019年9月8日の日曜日、午前10時より、御徒町駅より徒歩8分、湯島天神の境内にて、『謝楽祭』という、一年に一度、落語協会が主催するお祭りがあります。落語好きは勿論のこと、落語を知らない方でも十分に楽しめるお祭りがありますが、このブログを読んでいる皆さんは、もちろん、行きますよね。

行くに決まっていますよね。

っていうか、行かないのなら、そもそもこの記事を読んでませんよね。

というわけで、落語好きであり、謝楽祭に行くことを決めている方だけに、森野的な楽しみ方をご紹介したいと思います。落語は好きじゃないけど、祭りは好きだから謝楽祭に行くという方や、落語も祭りも好きじゃないけど謝楽祭に行くという方にも、お喜び頂ける内容になるかと存じます。

では、早速、8点記載致しましょう。

 

 1.福扇の列は、1時間30分前並びをオススメ!

去年の混雑状況から推測すると、福扇の列はかなり長蛇の列になります。特に午前9時頃には、『湯島天神入口』の信号近くにある、駐車場には朝早くから並ぶ落語ファンの方々が列を成します。体感的に100人近く並んでいました。お気に入りのお店がある方や開会式を近くで見たい方は、早めに列に並ぶことをオススメ致します。

目安としては1時間30分前に福扇販売会場入口(唐門付近)に並ぶのがベストです。列が出来ると、近くの駐車場に列が伸びます。

あまり気合が入り過ぎると終盤までの体力を失い、疲れ切ってしまうので、短期決戦で臨まれた方が良いです。ちょっと体力に自信の無い方は1時間~30分前絶対の自信がある方は何時間前でも大丈夫です。私の並ぶ時間は、、、内緒です。

残り物には福があると考えて、会場時間ギリギリになってから福扇を買う人は、あまり効率良くお店を回ることが出来ないという可能性を覚悟した方が良いと思います。

前回はおよそ12時から13時の間には、福扇は売り切れていたと思います。前年は柳家小三治師匠、最後の揮毫という振れ込みで、すぐに売り切れた印象がありました。

今年は林家正楽師匠デザインの福扇となっており、福扇の入った袋にはランダムで、落語協会に所属する方の内、誰か一人のサインが入っています。去年、福扇の受付にいらっしゃったのは、私は柳家小せん師匠でした。他にも落語家さんが受付をしております。

寄席の招待券が入っていることもあって、大変人気になることは間違いないです。謝楽祭に来たら、まずは『福扇を購入!』をオススメ致します。

 

 2.屋台飲食ゾーンは、優先順位を決めよう!

屋台飲食ゾーンは朝~昼にかけて激込みです。買えないことは無いと思いますが、猛暑の中、待つのが耐えられない!という方には、行きたいお店の優先順位を決めて行かれることをオススメ致します。

特に毎年、橘家文蔵師匠の『三代目立呑屋文蔵』や古今亭菊之丞師匠の『エボエボBOSE』、林家つる子さん、春風亭一花さん、林家あんこさんの『アイスキャンディーズ』は長蛇 OF 長蛇なので、この三件で長蛇の列に並び時間ロスするくらいなら、早めに抑えて、師匠方のサインと合わせて食事をした方が絶対良いです。

まして、今年は春風一刀さんが名前に上がっている『松島屋』が初出店です。味噌田楽を販売するとともに、春風亭一朝師匠のグッズも出るとあって、今回はここが物凄い列になると思われます。一朝師匠自身が動画でお店にいるとのことなので、春風亭一朝一門が大好きな方、一朝師匠の似顔絵入りTシャツ(販売とのうわさ)等が欲しい方は、絶対に、早めに、行った方が良いです。

もしも目当てのお店を早めに回ることが出来たら、その後はゆっくり他の出店店舗を見ながら、歩くのも良いかと思われます。まずは腹を満たして冷静に物販店舗を見る心を整えましょう!

 

 3.芸人屋台物販ゾーンは、よほどのことが無い限り行ける

落語協会の中でも、ベテラン勢が軒を連ねる『物販ゾーン』に関しては、余程のコアなファンでない限りは、それほど気合を入れて並ばなくても良いと思います。何としてでも手に入れたい物や、この落語家のサインが欲しい!という方で無い限りは、ゆったりのんびり見ても良いと思います。というのも、ベテラン勢が多いため、初心者にはなかなか興味が湧きにくい場所であると思われるからです。去年の様子を見ていても、どの屋台も確かに混雑はしていますが、マニアックなお店が多いため、少し間を開けて、時折眺めていれば、サッと入れるという印象です。

オススメとしては橘右樂さんの『寄席文字の店』です。こちらはお好きな文字、一文字を寄席文字で色紙に書いてくれるお店で、一枚1000円だったと思います。早めに書いてもらうと荷物になりますので、もしも寄席文字に興味があって、家に色紙を飾りたいという方は、様子を見て書いてもらうのが良いでしょう。

ちなみに私は今年は、『』という漢字を頂こうかなと思っています。意味は『思いやり』です。『怒』と似ていますが、全然意味の異なる漢字で、私の中のトレンドになっている言葉なので、これを今回は部屋に飾ろうと思っています。

他には、自分の似顔絵を三遊亭天どん師匠か春風亭正太郎さんが書いてくれる『円山暴挙』。落語家さんに顔を観察されるのが恥ずかしい方にはオススメしませんが、似顔絵ということもあって、オススメのお店です。

他にも、パンフレットを眺めながらお目当てのお店にのんびり訪れて見てはいかがでしょうか。

 

 4.富くじは本気なら十枚買い!?

15時30分より発表予定の富くじ。去年は末番の数字が合っている方はもれなく景品が貰えていた記憶があるので、たとえば富くじの番号の末番が2で始まれば、2,3,4,5,6,7,8,9,0,1で、10枚買えば末番の数字をコンプリート出来ます。これは1000円かかるので、どうしても富くじで景品が欲しいという方は、10枚買いをオススメします。ただ、今年も同様のルールかはわかりませんので、ご自分の判断でお買い求めいただくようお願いいたします。

 

5.お目当て落語家のサインを求めて時間ロスしないように!

大好きな落語家さんのサインを求めて、サイン帖や色紙をたくさん持参しようと考えている方は、時間ロスにご注意ください。

基本的に、屋台にいる落語家さんはサインを狙いやすいのですが、屋台を出店されていない方のサインを求めるのは至難の業です。どのタイミングで、どの場所に、どれくらい滞在するか、全く読めません。気づけば「あ、なんか行列が出来てるな・・・」と思っていると、人気のある落語家さんの列だったりします。毎年、春風亭一之輔師匠や林家たい平師匠、柳家喬太郎師匠は大変な人気があり、ポケモンで言えば伝説のポケモン並みに、ゲットするのに苦労するので、基本的には屋台に出店されている落語家さんのサインを貰い、大体の目的が達成されたら、ゆったりと時間に余裕を持って落語家さん探しをして、サインを貰うのが良いでしょう。

特に今年は江戸家小猫さんが人気でしょう。Twitterでは可愛らしい猫のサインとあって、女性人気は確実。狙い目は謝楽祭寄席終わりの社務所でしょうか。この辺りで13時くらいに待機していると、寄席を終えた小猫さんに会える確率が高いと思います。『ポケモンGO』のレアポケモン発生時のような、大勢の人が集まる状況になるかも知れません。

ちなみに私は前回、古今亭文菊師匠が見当たらず、後になってTwitterで情報を知るという悲しい出来事がありました。時間の関係もあって、サイン関係は捨てて臨みました。全てを手に入れるのは、なかなか難しいです。サイン一本集中という方であっても、手に入れることが出来るかは何とも言えないところです。大いなる時間ロスをしても、全然大丈夫だ!という人にはオススメです。

 

 6.寄席のチケットは、ご自由に!

謝楽祭寄席や梅香殿の二つ目寄席が開催されています。私は参加したことがありません。余程、場所への思い入れが無い限り、寄席のチケットは買わなくても良いのではないか、と思っております。参加したことが無いので何とも言えませんが、わざわざ謝楽祭で聞かなくても良いのではないか。と思います。

もちろん、あまり寄席に通えない方や、落語が初めてという方にはオススメできると思います。落語好きで、頻繁に寄席に通っている方には、それほどの魅力があるとは思えませんが、誰か謝楽祭の寄席に大変な魅力がある!と思っている方には、是非、その魅力を教えて頂きたいと思います。

 

7.特設舞台のイベントは時間をきっちり把握!

最前列でイベントを見たい方や、お目当てのイベントがある方は、パンフレットに記載のイベント開始時間を把握しておきましょう。湯島天神境内のほぼ中心で行われているため、どこにいても何となく鑑賞はできますのでご安心ください。ただ飲食ゾーンにいると難しいので、イベント開始時間に合わせて物販ゾーンを巡るのが良いかと思います。写真や動画が撮りやすいのは圧倒的に前列で、前列はコア・ファンがたくさんいる印象です。ゆったりと楽しめるように、時間に余裕を持って参加しましょう。

また、炎天下となりますと非常に暑いため、水分補給・日焼け止めクリームの塗布・日除けの帽子・汗を拭うタオルは持参しましょう。今回はトイレットペーパーも無くなる可能性があるとのことで、自信の無い方はトイレットペーパーを用意しましょう。私はタンクが大きいので、トイレに行ったことはありません。全部汗で出し切ります。

 

 8.なんだかんだ言ったけど、無理しない範囲で楽しもう!

さて、ここまで書いてきましたが、結局は自分が好きなように楽しむのが一番です。ここに記載したのは、あくまでも私が去年の体験から感じたことに過ぎません。参考にしてもしなくても、どちらでも構いません。楽しんだもん勝ちです。

今年は実行委員長が林家たい平師匠です。キャッチフレーズは『心をこめてヨイショ!』。年に一度の落語協会のサービス精神溢れるお祭りです。

遠方からお越しの方も、普段寄席に通いなれている方も、笑点くらいなら知っている方も、落語を全く知らない方も、色んな方々が楽しめるお祭り、それが『謝楽祭』です。

飲食に徹するも良し、サインに徹するも良し、寄席に徹するも良し。それぞれの思う楽しみ方で、お祭りを楽しんで頂けたら、落語好きとして嬉しいです。

今よりももっと落語が好きになるでしょう。お目当ての落語家さんのことが、もっと好きになるでしょう。どんどん落語が身近になって、落語にハマっていくでしょう。

私も、謝楽祭は今年で3回目の参加になります。毎年、楽しくて楽しくてついつい、時間を忘れてしまうほどです。ようやく、どう効率良く回れば良いかが、分かってきたような、分かっていないような、感じです(笑)

もちろん、私も行きます。「あ、あの人かな?」と思っても、軽く無視して頂けると幸いです。ご常連さんもたくさんいらっしゃるので、「あっ!あの人見たことある!!」と、寄席常連あるあるはあるかも知れませんが、お知り合いの方ならご一緒に、単独参加ならマイペースに、楽しむのが一番かと思います。

いずれにせよ、体調管理は万全に。小銭の準備もしっかりと。そうそう、小銭は大事ですね。芸人さんにご面倒をおかけしないように、なるべくぴったりの金額でお支払いする心のゆとり、思いやりを持って参加して頂ければと思います。

長々と書きましたが、私は謝楽祭の運営には一切関与しておりません(笑)

単なる一ファンとして、演芸に興味のある方、演芸がお好きな方の、少しでもご参考になればと思い、この記事を書きました。

ヨイショ!と言えば古今亭志ん駒師匠が思い浮かびます。高座は見たことはありませんが、伝え聞くと『ヨイショの志ん駒』と呼ばれていたそうです。芸人もお客も、一体となって生み出されるのが芸ですから、お互いに楽しむお祭りになるといいですね。

きっと、素敵なお祭りになるでしょう。

そんなことを祈りながら、この記事を終わりたいと思います。

お読み頂き、ありがとうございました。

 

心に出来た『こぶ』~2019年8月29日 深川江戸資料館 笑福亭たま独演会~

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タテカワキッショー

 

ボンヤ

 

オヤカタシュー

 

ベンケイー

 

カンコー

 

イメージと現実

 

Tickle Toe

ふいに空き時間が出来たときは、まず落語会を探す。あまり事前に予定を立てて行動するということが少ないため、落語会は『当日ふらっと派』である。その時、その時で、自分の感覚に合った落語会に行きたいと思うし、その方がお得感もあるのである。もちろん、会によっては料金が500円アップするけれども、「今日はこの会に参加できる運命にあったのだな」と思うと、得した気分になるのである。

そんなこともあって、久しぶりに笑福亭たまさんの独演会に参加することが出来た。恐らく『遊雀スペシャル』以来の深川江戸資料館では無いかと思う。

会場に入ると、笑福亭羽光さんが会場に来たお客様の様子を伺っていた。会場の雰囲気を掴むために、熱心な噺家さんである。その姿勢が素晴らしいなぁ、と思いながらぼんやり見ていた。

受付には、前回同様、あんぱんさんとどっと鯉さんがいて、チケットを切ったり当日券を売ったりしていた。ご常連さんが多い会である。皆さん、笑福亭たまさんをお目当てに来られている雰囲気が満ちていた。

以下、ざっくりとした感想を、

 

 瀧川あまぐ鯉 長短

てっきり瀧川鯉昇師匠のお弟子さんかと思っていたのだが、鯉朝師匠のお弟子さんだったあまぐ鯉さん。時間調整もあってか僅かにテンポが早い気がする長短。新作系の雰囲気を感じる前座さんなので、今後、どのような演目が見れるか楽しみ。

 

 笑福亭羽光 ペラペラ王国

会場の雰囲気を読んで、『TPOをわきまえた落語』を宣言していた羽光さん。そんな羽光さんが選んだのは『ペラペラ王国』の一席。渋谷らくごポッドキャストで一度聞いたことはあったけれど、生で聞くと面白さが増している気がする。会場のお客様も、どうやら羽光さんを初めて聞く方が多かった様子で、どっかんどっかんと受けていた。『マトリョーシカ構造』のお話の気持ち良さが素敵である。確か、深夜寄席で聞いたことがあったと思う。複雑な構造でありながら、意外と理解しやすい噺の構造。そして、最後の最後まで明かされない謎。全てがミステリアスで、何も解決しないのだけれど、その解決しないままに終わる面白さが素晴らしい一席だ。

 

 笑福亭たま 茶漬間男

お待ちかねの笑福亭たまさん。枕に関しては「書けないっ!」のだが、難解な話を見事に分かりやすく伝える様子が、改めて見ても、物凄く頭の良い方だなと思う。実にクレーバーで知的で賢さに溢れている。めちゃくちゃ好きだけど、プライベートで関わるとドキドキしそうな噺家さんである。何と言うか、上方落語界の『永世中立国』的な立場の人である気がする。一言で言えば『中庸』であろうか。常にきちんとした指針というか、軸があって、どちらか一方に偏ることなく、どちらの立場でも合理的に思考して考えを受け入れている噺家さんであるように見える。もちろん、許せない出来事に対しても、冷静に合理的に論理立てて説明できる人だから、そのクレーバーさが魅力的に私には映った。

そんなたまさんが不倫の噺をする。そこに違和感が無い。むしろ、常識人であるからこそ、ちょっとした偏りが面白く感じられるのだろう。不倫という行為自体を、許す許さないという次元での語りではなく、むしろ現象としてのみ捉える感じと言えば良いだろうか。良い悪いを抜きにして、噺の中で起こった不倫という現象のおかしみを抽出しているような、そんな雰囲気を感じた面白い一席だった。

以前、繁昌亭の乙夜寄席で桂しん吉さんの『茶漬間男』を聞いて以来の演目である。茶漬けを食べる仕草であったり、二階でごちゃごちゃが起こったり、丁寧な盆屋の説明であったりと、想像しやすく、滑稽なお話だった。

 

 笑福亭福笑 大真夜中

こちらもお目当ての福笑師匠。この噺家さんは絶対に見逃しちゃいけない落語家のうちの一人。会場も物凄い温かい雰囲気で、拍手喝采。抜群のウェルカム・ムードに気分を良くしたのか、彦八まつりで披露するというQueenの『We Will Rock You』をアカペラで披露。古希を迎えてもなお、より一層の逞しさを見せる福笑師匠に拍手喝采

演目は、どういえば良いのか、お楽しみを残すためにも、ざっくり言えば『大安売り』という演目の形を借りた一席である。

これがもう、抱腹絶倒の一席だった。福笑師匠に外れ無しである。面白くて殆ど詳細は覚えていないのだが、『大安売り』という噺の形式を模した語りの面白さ。随所に光る福笑師匠の笑いのセンス。全てが会場を巻き込んで爆笑を起こしていた。

凄い。本当に凄い落語家さんである。

 

 笑福亭たま こぶ弁慶

お初に聞くお話で、昔の人達の想像力が爆発した面白い一席である。今でいえば『寄生獣』とか、『南くんの恋人』とか、伊藤潤二先生だったらホラーテイストで描きそうな一席で、「そんな設定があるんかいっ!!!」と思わず膝を打つような、面白いお話である。簡単に言えば、『壁土食べたら、こぶが出来て・・・』という噺で、物凄い発想だなぁ、と驚愕の物語である。作者は笑福亭吾竹という人で、一体どうやったらそんな発想が出来るのか、ご本人に伺ってみたいくらいである。

不思議な噺ではあるのだが、こぶが出来てからの痛快さが面白い。これは是非生で聞いて頂きたい演目で、初見であるため詳細を語ることは止しておく。

 

笑福亭たま ショート落語&ベトナム

ショート落語と言う名の短い小噺の後、新作の『ベトナム』。いやー、これは、

度肝を抜かれるほどの面白さでありながら、様々なことを考えさせられる新作である。ざっくりこの噺の内容を書くとすれば、『想像と現実は・・・』ということを考えさせられる一席である。

とにかく、自分の思い込みであったり、固定観念であったり、無意識の『決めつけ』が、翻って行く様を見ているような心地よさ。同時に、自分自身が無意識に持っているそうした『当たり前』に対する違和感を見つめ直すような一席である。

言われてみればそうだよね、という発見もありながら、たまさんの思考実験の結晶のような噺で、ここまで切り込んで様々な例をあげながら、一つのテーマを突き詰めて行きつつ、同時にそれが面白いという、簡単なようで、物凄くアクロバティックな難解さを秘めているような内容だった。最初の羽光さんの一席にも通ずるのだけれど、何かが解決しないままの感じ。というか、解決しないということが一つの解決であるというようなことを感じる一席だった(ちょっと書いててよくわかんないけど)

いずれにせよ、改めて笑福亭たまさんの知の泉に触れた一夜となった。

 

総括 Tama's Oregano

Twitterのみならず、高座の外・内の姿を見ると、笑福亭たまさんの気配りであったり、配慮であったり、お客様へのサービス精神であったりが、如実に感じられた。決して知的だからとっつき難いとか、難しそうということは無い。むしろ、普遍的な哲学、中庸の精神を、笑いをまぶしながら、とても分かりやすく発信されている噺家さんであると私は思った。近頃は、某上方落語評論家がトヤカク色々と言っているが、私はそんなことを言う人間になったら、お終いシウマイだと思っている。

どんな瞬間であっても、客として落語家の素晴らしさ、演芸の素晴らしさを説いていくのが、落語好きの落語好きたる在り方ではないか。本当に嫌いな落語家がいるのならば、私だったら語らない。少なくとも、ネット上では絶対に語らない。そもそも、私には落語の世界で活躍されている噺家さんに文句を言えるほどの立場では無いと思っているし、芸の世界には、否定はいらないと思う。なぜなら、その人には、その人にしか出来ない落語があると思うからだ。それが正しいとか、正しくないと言うのはお門違いであると思う。どんなときであっても、後世に落語に出会った人々が、「この落語家さんには、こんな素晴らしいところがあるんだ!」という喜びと発見に満ちた情報を伝えていくのが、演芸好きの使命なのではないか。

私は、恐らく存在する評論家や趣味でブログを書いている人間とは、その辺りの考えが決定的に違うように思う。私は人の美点しか見ないし、書かない。それじゃ面白くないよ、と言われても一向にかまわない。それが、私の在り方なのである。

そして、ずっとそれを続けていると、色々と良いことが起きてくるようである。別にスピリチュアルな話をするわけでは無いが、どうやら現実はそのように、変わってくるようである。

良い点は語り、悪い点は語らない。それが私の心に出来た『こぶ』かも知れない。もしかしたら、否定ばっかりする人には、何か『こぶ』が心に出来ているのかも知れない。そんな『こぶ』がいずれ私の身体を乗っ取って、動くのだろうか。

はてさて、どうなることやら。

おしまいの無い永遠の旅路へ~2019年8月24日 新宿末廣亭 深夜寄席~

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さーちゃーん!!!

 

「せいねんがっぴー」でお馴染み

 

死ぬんですぅ!ぼくはしぬんですう!

 

ここからが面白いところ 

I'm praise man

人の悪いところを見つけるよりも、人の良いところを見つける。そして、それを多くの人に知ってもらう。私にとって、それがブログを書き続けるための大きな指針となっている。

思えば、160記事を越えて多くの記事を書いてきた。その全てが誰かを賞賛している。というか、賞賛しかしていない。今では、すっかり人の良い点しか見えなくなった。というか、良い点を見れば見ようとするほど、自分が幸福になっていくことに気づき、記事を書くことを止められなくなった。

一体なぜ、自分でもこんなに幸福なことがずっと続くのかさっぱり分からない。ただ、なぜだか人を褒めたり、人の良い点を表す言葉を探していると、実生活を含めあらゆることが幸福になっていくのである。実におかしなことであると思う。

元来、私は臆病な人間である。人前で話すことは苦手であるし、何か自分のことを言葉で伝えようとしても、なんだか上手く伝えられる自信が無い。また、人から褒められることにも慣れていない。褒められても「自分はまだまだ・・・」という気持ちになって、一向に満足するということがない。常に人の良い点をちゃんと言葉で表現できているのか不安でいる。誰かに認められても、まだまだ、全然、未熟であるという思いが強く、書いても書いても、満足するということがない。むしろ、マンネリ化していないか、とか、適切な言葉だっただろうか、と不安になることもある。それでも、一応の目途が立って記事をアップする。色んな人が見てくれて、評価をしてくれる。嬉しい。確かに嬉しいのだが、その嬉しさに甘えていられない自分がいるのである。

これはきっと、おしまいの無い永遠の旅なのであろう。なまじ文章を書くことが、幼い頃から出来てしまったがために、こうやって文章を書いて誰かに伝えたいという思いを抱くことになったのだ。そして、そこからずっと今でも『誰かに自分の思いを伝えたい』という、その思いに突き動かされて、言葉を探し、私は記事を書くのだ。

どんなことでも、人にはそれぞれに楽しみ方というものがある。短い言葉で思い出を表現する人もいれば、何も言葉にせず胸に秘めている人もいる。私がただ、ブログを開設して記事を書いて、演芸を楽しみたいと思っている人間だというだけの話だ。

それでも、きっと私の思いは、色んな人に共有できるのではないか。私が考えて紡いだ文章は誰かに届くのではないか。追体験とまでは行かなくても、私の思ったことが書かれた記事を読んだ人が、私の考えに新たな発見をするのではないか。そんなことを思ったら、書いてみる価値もあるだろうと思った。

既に演芸関連の記事を書く人のブログを幾つか読んだ。批判している者、枕を詳細に書く者、端的に自分の思ったことを書く者、幾つかのブログを読んで、私はどんなブログ方針で書くべきかが分かってきた。まだ、他の誰もやっていないブログを、まだ他の誰も気づいていない記事を、書こうと思った。

それが、このブログとなった。

私は『賞賛者』の立場になることに決めたのだった。どんな演者からでも、良い点を見つけ出し、言葉にする。そう決めた日から、今日まで、何度か挫折しそうになったり、不適切な言葉を書いてきたかも知れないが、読者に支えられて、なんとか今日まで来た。

まだまだである。私はまだまだなのである。スタートにも立っていないのである。しかしながら、書き続けてきたことで、私は今、他の誰よりも人の良い点、日本演芸に携わる人々の良い点を、見つけ出し、言葉にしてきた人になっているのではないか。

そう思ったところで、どうという話ではない。これからも、私は書き続けるのだ。そして、いつか現代の噺家の、良い点だけが集まった本が出せたら本望である。どうやって出すかは分からないけど、目の前のことを一歩一歩続けて行こうと思う。

さて、今宵、四人の二つ目が深夜寄席の高座に上がり、二つ目として最後の深夜寄席を行う。9月下席から始まる真打昇進披露興行に向けて、準備で大忙しのなか、互いに切磋琢磨した噺家の今の姿を見ることが出来るとあって、大勢の人が押しかけていた。

そうだ。誰もが何かに向かって突き進んでいる。どんなに足取りが遅くとも、歩み続けている限り、前に進むのだ。そんなことを思いながら、受付にいた柳家わさびさんに「おめでとうございます」と言って入場。

 

 初音家左吉(9月下席より 古今亭ぎん志) 無精床

トップバッターは初音家左橋師匠の一番弟子、愛称は『さーちゃん』でお馴染みの初音家左吉さんである。真打昇進とともに、愛称である『さーちゃん』を呼ぶことが出来なくなってしまうのは、何だか寂しいけれど、新しい名前の『ぎん志』もカッコイイ。というか、左吉さんは見た目もカッコイイ。ロックンロールが好きな感じが伝わってくるし、何より、左橋師匠に弟子入りするというセンスが最高だと思う。金糸雀の如く、歌うような鉄板ネタを幾つも持ち、ぎらりと光った丸い目と、整った顔立ちで女性人気の高そうな左橋師匠の弟子になるということが、左吉さんの何よりのセンスというか、ぴったりな選択だと私は思ったのである。

左橋師匠の男前ぶりを左吉さん流に継承している感じが、見ていて清々しい。古典ネタにも独自のヒネリを効かせて、滑らかに歌うようなトーンで流れて行く語り口。この演目は、簡単に言えば『無精な店主のいる床屋で起こる騒動』という感じなのだが、絶妙な軽さと、クールな佇まいが最高である。

真打になって、どんな演目を見せてくれるのか。新作もやったりするのだろうか。どんな風に左吉さんが落語の世界を切り開いて行くのか、楽しみだ。

 

柳家ほたる(9月下席より 柳家権之助) 居酒屋

お初の噺家さんで、師匠は寄席の爆笑派、柳家権太楼師匠である。深夜寄席開演前の段階から面白く、行列に対して「壁際に寄ってください。沢田研二でお願い致します」と言ったり、列が動き始めると「皆様、クラウチングスタートでお願い致します」と言ったり、「おっ、面白そうな人だ」と思う発言が、寄席の開演前から既に始まっていた。

落語が始まる前も、落語が始まってからも面白い柳家ほたるさん。権太楼師匠譲りのゴン太な感じもありながら、独自のセンスが光る一席だった。

随所に権太楼師匠の影響を感じる間やトーンがあったり、権太楼師匠の物真似がめちゃくちゃ上手かったりするなど、多才な噺家さんである。真打の興行ではどんな演目をトリに演じるのか、今まで見て来なかったことを後悔するくらい、面白そうな落語家さんである。

演目の簡単な内容は、『居酒屋で酔った客がくだらないことを言う』感じで、この絶妙にくだらない感じ、何のためにもならない感じが面白かった。

 

柳家わさび ダメな人間

柳家さん生師匠の弟子であるわさびさん。真打になっても名前はそのままである。

まず思うのは、

 

 いやー!!!

 すげぇわ!!!

 

である。

もはやわさびさん唯一無二と言っても良いフラ(雰囲気)。わさびさんにしか出来ない話し方のトーンであったり、醸し出す雰囲気が物凄い爆笑を巻き起こしていた。

なんというか、『点滴の最中にこっそり病院を抜け出して落語をやっている人』と言えば良いだろうか。そんな風貌のわさびさん。その瀕死の雰囲気から繰り出される、全てが振り切れた全力の落語が、めちゃくちゃに面白いのである。恐らくはとてもクレーバーな人で、自分という存在がどう見られているかを気にしている一方で、新作落語の先駆者達の背中を見ながら、自分にしか出来ない落語を追及している噺家であると私は思った。

そんなわさびさんの魅力が、全開にまで溢れ出していると感じたのが『ダメな人間』という一席である。凄い新作である。こんな新作を生み出すまでに、どれだけの試行錯誤があったのか分からないし、どんな思いでネタを書いていたのか、想像が付かない。それでも、この一席を作り上げたわさびさんの新作落語家としての未来は、決して『ダメ』ではなく、『良い』筈である。

たとえば、大勢のいる教室で一人だけ誰とも交わらずに、こっそりと自分の世界を作り上げながらも、スクールカーストの上位に位置する人々に一瞥をくれるだけで、ひたすらに自分自身を磨き上げて行くタイプのように思えた。自分の信じていたり、憧れている噺家に対して、熱狂的なまでの情熱を捧げる一方で、自らはそんな存在と同じことは出来ないのだと悟り、ならば自分にしか出来ないもので、多くの人々を熱狂させようと、自らの道を切り開いていくような噺家だと私は思った。

万人受けするかは分からないけれど、おそらく、生まれつき病弱で、なかなか学校に行けなくて、病院に入院している人達と仲の良い人であったり、クラスの生徒達の輪に入れず、自分の存在意義を見失っている人には、絶対にオススメの噺家さんである。恐らく、全ての噺家の中で、わさびさんだけが救うことの出来る人達というか、わさびさんだけが笑わせることの出来る人が存在するのではないか。そんなことを思ってしまうほどに、わさびさんの魅力が溢れ出した一席だったのである。

それまで、私はわさびさんは春風亭百栄師匠作『露出さん』くらいしか聞いて来なかったけれど、改めて聞いてみて、こんなに凄い人だったとはと衝撃を受けた。

なんていうか、色んな人の話を聞く感じでは、『可愛がられる後輩』という感じがわさびさんにはあるように思えるのだ。春風亭一之輔師匠だったり、柳家喬太郎師匠だったり、柳家わさびさんが憧れる先輩達は、同時に柳家わさびさんを愛しているのではないか。そんな雰囲気が何となく感じられて、凄く、良いのである。

『ダメな人間』という演目も、敢えて内容は語らないけれど、絶望を笑いで何とか希望へと逆転させていく、光のような人情がそこにあるように思えた。最後の瞬間にハッとするような一言があって、それだけでも柳家わさびさんの創作能力の高さ、視点、着眼点の素晴らしさが分かる。

くそう、もっとシブラクで聴いておけばよかった。と、今更後悔しても遅いのだが、今後は、柳家わさびさんにしか出来ない新作が続々と生まれてくるような気がする。そして、それは多くの人に笑いをもたらし、多くの人を救うのではないかと思う。

 

笑いって、救いだね。

 

そんなことを感じた、素晴らしい一席だった。

 

柳家喬の字(9月下席より 柳家小志ん) のっぺらぼう

深夜寄席のトリを飾るのは、柳家さん喬師匠門下の8番弟子、喬の字さん。高座姿から性格が見えないミステリアスな噺家さんだと私は思っている。普段の私生活とかどんな感じなのだろうか。何とも言い表せない不思議な噺家さんである。

柳家小太郎さんであったり、柳家やなぎさんだったり、高座から何となく人柄が想像できる噺家さんもいるのだが、喬の字さんに限っては不思議と、どんな人柄なのか言い表す言葉が見つからない。何とも、言えないのである。むしろ、それが喬の字さんの魅力なのかも知れない。

トリの演目選びは完璧だと思った。この演目は『のっぺらぼうの繰り返し』というような内容で、正に真打としての在り方を問うような一席だと私は思った。

なんというか、『おしまいのない旅路』を、この『のっぺらぼう』という演目から感じ、喬の字さんの隠れたメッセージがあるように思ったのだ。噺の中に何度も登場する『のっぺらぼう』。そして、どこまで行っても続くのっぺらぼうの無限ループ。これは、噺家が高座に上がり続けることを暗示しているのではないか。

いつもまっさらな、のっぺらぼうの顔のような気持ちで、高座に上がる。のっぺらぼうからは、どんな表情かも、どんな人間かも感じることが出来ない。目と鼻と口などがあって、初めて「なんとなく、この人はこんな感じの人かな」ということが推測できる。イケメンだったら性格が良いだろうとか言える。いかにも悪そうな顔の人だな、とか、無意識のうちに、何の根拠も無く決めつけてしまうことができる。だが、『のっぺらぼう』だけは、そんな風に言葉で言い表すことができない。

これも私の想像だが、恐らく、喬の字さんは、そんな『のっぺらぼう』に自分を投影していたのではないか。冒頭に記したように、喬の字さんから感じられない人柄であったり、何となくの雰囲気、それがのっぺらぼうに近いのではないかと思ったのだ。

前座の醸し出す雰囲気とは違うのである。前座の場合はまだ入り立てで、噺が肚に入っていないまっさらさがあるけれど、真打になる喬の字さんの醸し出す雰囲気は、何と言えば良いのか、私も上手く言葉が見つからないのである。

もっと、高座を見たり、普段の姿を見れば分かるのだろうか。真打になって何年かしたら、何かが分かるのだろうか。ミステリアスに包まれながらも、素敵な決意の一席だと私は思った。

 

 総括 おしまいの無い人生

死ぬまではおしまいの無い人生の門出に立った四人の噺家を見て、私は改めて様々なことを思った。前座時代を過ごし、二つ目時代を過ごし、そして真打になった人に最後に待っているのはご臨終である。その間に様々な賞を取るかも知れないが、待っているのは死である。

死を考えるとき、ぼくは自分が幸福に死にたいと思っている。出来るだけ安らかに、家族に見守られながら、「良い人生だった。何も分からなかったけど」と、そんなことを言って死ねたら、良いなと思う。

そうだ。人は何も分からないのだと思う。分かった気になって死ぬことは出来るけれど、潔く、考えて考えて、生きて生きて生きてきたけど、結局、何も分かんなかったなー、でも、良い人生だったことは確かだな。と、言えたらいいな、と思う。

耄碌して、自分は全知全能の神だとか、ボケて、俺は落語家だ。とか言わないようにしたい。近所を徘徊して誰かに迷惑をかけることなく死にたい。

何も分からないからこそ、自分が好きなことを突き詰めていきたいのだ。もちろん、生きていくために金銭を稼いでいきつつ、自分の好きなことに没頭する。それが、何よりも、良い生き方なのではないか。

毎日笑って過ごせたら、それだけで幸福である。金が無くたって、何も望まなければいいのだし、何も望まなくても、幸福でいるためには、笑いの多い場所にいるのが、一番ではないか。

そう、笑いの多い場所にいればいいのである。どんなに苦しい状況であっても、笑いの多い場所にいたら、それだけで幸福だろうと思う。

誰がどんな生き方をしようと、人生を決めることが出来るのは自分自身である。「お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!」なんて言葉を吐く人は、自分で自分の人生をめちゃくちゃにしていることに気づいていないのではないか。最終的には全て、自分の心と行動が、全てを決めるのだと私は思う。

今宵、深夜寄席の卒業公演を行った四人にも、これから様々な困難であったり、苦しいことがあるかも知れない。それは主に金銭的なものであるかも知れない。でも、それさえクリア出来たら、否、そんなものをクリアしなくても、落語を含む多くの演芸の世界は、それが続く限り、幸福なのではないかと思う。

どんなどん底からも、這い上がれるだけの力は全て、落語にある。講談にある。浪曲にある。

そう、全ては

 

 演芸にあるのだ。

 

そんな力を感じた深夜寄席だった。

そして、私自身も、落語の魅力、講談の魅力、浪曲の魅力。演芸の魅力を発信し続けて行きたい。私だけの言葉で、私だけの表現で、日本演芸の素晴らしさが伝わるように。

あなたが素敵な演芸と出会えますように。

そして、少しでも、

あなたの人生が豊かになることを祈って。

それでは、また。