落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

もっと幸福になれる

 怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。

 ニーチェ

  Weather Report

 付き合うか付き合わないか、瀬戸際の男女のような天気だった。

 降るか降らないか、女の方が決めかねているようだった。

 相変わらず降られっぱなしの私は、傘も持たずに家を出て、電車に乗って下北沢を目指した。下なのに北なのはどうしてなのかザワザワする下北沢。

 いっそ、下南か上北とかいう名前だったら心がざわつくこともないだろうに。下北沢と名付けた人物の顔が見てみたい。きっといやらしい顔をしているに決まっている。

 丁度、なんでも金で解決してしまうような、エゴイストみたいに。

 

 下北沢駅を降りて、一歩足を踏み出してみる。相も変わらず天気は鈍い。早く降るなら降れよ。と投げやりな気持ちになる。すれ違う人々は不安そうに互いの手を握っている。まるで猿みたいな距離で笑いあっている。So Saru Distance。なんて心の中で思って勝手にほくそ笑む。これが悪疫下の悪癖。

 

 Humberger Ice Coffe Potato And Happiness

 どうにも気持ちが収まらないときは、とりあえずハンバーガーを食べる。滅多に口にはしないけれど、時折、無性に食べたくなる。都合の良い男みたいな距離感。食べたいときに食べて、遊びたい時に遊ぶみたいな、そういう割り切りの関係が未だにハンバーガーと続いている。マクドナルド、フレッシュネスバーガーモスバーガーウェンディーズ、今週の週刊少年ジャンプチェンソーマン。至る所にハンバーガーは潜んでいて、無意識に「ハンバーガーを食べたい」、きっとそう思わされている。いつもそう。何かにそう思わされている。自分ではどうしようもない。それが積み重なって溢れる。ハンバーガーを食べる瞬間に、それまで私の中に蓄積されていた「ハンバーガーを食べたい」という気持ちが爆発する。とめどなく爆発する。レジでハンバーガーを注文して、いざ目の前に出された瞬間、「あ、やっぱハンバーガー食べるのやめよう」なんて絶対に思わない。食べずに、ゴミ箱に捨てることなんてできない。なにせ、お金を払ってしまっているし、私は意識無意識すら分からずに、ハンバーガーを食すことを選択してしまっている。なんてこったいイカの塩焼き。私はハンバーガーを食す。

 

 ああ、しまった。

 

 ハンバーガーを食べた後で、私を襲う罪悪感。それが格別の味をもたらす。気づけば、アイスコーヒーと、箱ポテまで一緒に食べている。ハンバーガーだけでなく、アイスコーヒーと、箱ポテである。組み合わせが良いか悪いかも分からない。少なくとも私は、ハンバーガーにアイスコーヒーと箱ポテのセットを選択する人間だ。世の中に、どれほどの数、ハンバーガーにアイスコーヒーと箱ポテをセットにする人間がいるかは分からない。それでも、私はきっと「ハンバーガーを食べたい」という気持ちに、「アイスコーヒーを飲みたい」という気持ちと、「箱ポテを食べたい」という気持ちを、まるで皿にこびりついた汚れのように、しつこく、べったりと、くっつけてしまっていたのかも知れない。

 

 ああ、しまった。

 

 そう思いながらも、ハンバーガーを一口。アイスコーヒーを一飲み。箱ポテから一切れの小さな角材のようなポテトを一口。むしゃむしゃ、むしゃむしゃ。人類生誕から何千億年という時を経て、進化した哺乳類である一人の男が、食事をしている。一人で。自分の意志とは無関係に、振り返ってみれば、なんであの時、あんなことをしてしまったのかと後悔するような、単なる時間潰しのために、どこかで休息しなければと思っていただけの筈なのに、気がつけば、ハンバーガーにアイスコーヒーと箱ポテをセットにして、ただただ孤独に食事をする男に成り果てている。

 

 もっと幸福になれる。

 

 そう思いながら、ゴミを片付けた。

 ゴミと一緒に、私は何か別の、汚いものを、捨てることができたように思った。

 

 Walk Alone

 純粋に生きようとして汚れていくような、余裕の無い人々だけが集うような場所がどこかにある。むしろ、そういう場所は拡がりつつある。殆どの人間は馬鹿になっていき、考える時間よりも人差し指を動かす時間の方が増える。かまぼこ板のような、小さなナンデモ鏡をスイスイと指で撫でながら、さも自分は何でも知っているかのような素振りで、ただただ無駄に時間を過ごす。時同じくして、老齢な人々によって構成された組織が、自分たちが生きている間だけは、せめて幸福で生きられるように社会を作り変えて、今を生きる若者たちから出来る限り搾取する。考える力も、何かに立ち向かう力も、エネルギーに満ちた意欲すらも、全部奪ってしまうような社会に作り替えられて、生まれてくる前から不幸を決定付けられた試験管ベイビーが登場する日も近い。

 そんな風に世界が見えた瞬間。私は思った。

 

 もっと幸福になれる。

 

 狭い所へ追いやられて、自分だけの楽しさを発見して、その楽しさに恍惚として、まるで蜜を求めて飛ぶ虫みたいに、ひたすらに蜜だけを吸い続けて老いていく。それで果たして良いのだろうか。もっともっと、踏み出すべき事柄は幾つもあるんじゃないだろうか。今を変える意欲すらも失ってしまったのか。そうなることを宿命づけられていたというのか。なんてこったい鶴の仕返し。

 幸福の中に漂うよりも、幸福を追い求めている方が遥かに幸福な気がして、ハンバーガーを食べ終えた私は、ぶらぶらと下北沢を歩いた。華やかな衣服に身を包んだ人々の波の中に、唐突に薄汚れた服と、虚無に染められた目を持つ老人が現れる。それが下北沢の音だ。嘘みたいに紛れ込んで、世界はギリギリで構築されている。いつ、だれが、その、世界の構築を壊すかは分からない。まるでピサの斜塔みたいに、倒れそうで倒れない。崩れそうで崩れないジェンガ。それが見える。

 どこか、ふつふつと、何かが音を立てて沸き起こっている。何かが変わりつつある。信用できない社会を、信用できる社会に変えるか。それとも、自分自身をもっと幸福にするか。世界を背負って立つことができるのか。

 たとえば、漏れている排水管があるとして、それを塞いだとする。ところがどっこい、今度は別のところから漏れ始める。塞げば、漏れる。塞いでも、塞いでも漏れる。それはまるで負債。夫妻の負債。或いは、人々の不才の負債。ああうるさい。なんて韻を踏んでいる場合でもなく、どんどんと社会は良くない方向に変わりつつある。誰も気がつかないうちに、水面は上がってる。気づいた時には死んでいる。まるで北斗の拳

 そんなことを、一人で歩いて、考えていた。

 

 本多劇場

 ぶらぶらして、本多劇場の前にやってきた。

 ああ、寒いな。

 そう思いながら階段を上った。アルコールで手が綺麗になった。

 もっと幸福になれる。或いは、もっと幸福になれたのに、

 そうしなかったのはなぜか。それとも、そうできなかったのか。

 今は何も考えるべきではないのか。それとも考えるべきなのか。

 答えはどこにある。或いは、どこにもないのか。

 答えは、自分で決めるしかなかった。

 どこまでも、一人で。

 決めるしかない。

 だから、前に進むのである。

 もっと幸福になれる。

 そう信じて、全てを笑い飛ばしてやる。