落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

哀しいくらいに騙されても、なお~2019年6月2日 拝鈍亭 古今亭文菊~

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あの~、あれですよね。ははっ、ねぇ、大将?

 

言わせてもらいますよ、こっちゃぁ、金払ってんだから

 

 死んでも来ないよ、こんなところ!

 

済し崩し

信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい』と歌ったのは、海援隊であったと思う。幼い頃、歌詞が何となく気に入って、父に「良い歌詞だよね」と言ったら、父は「騙されないように用心する方がよっぽどいい」と言った。私は夢の無い父だな、情も何も無いな、と思って残念に思ったのだが、後で母から父が人を信じて裏切られたことがあると聞いて、それ以来、未だにどちらが良いか私にはとんと分からない。

幸いと呼ぶべきか、私は人に騙されたという経験があまりない。無論、恋愛に関しては常に騙されているし、時にはショックを受けすぎて何も信じられないという状態、『もう恋なんてしない状態』の後、『なんて言わないよ絶対状態』という幼虫槇原→蛹槇原という、変態を繰り返しているのだが、何度幼虫に戻れば成虫になれるか検討も付かない。が、そんなことはどうでも良い。

何度騙されても恋をしてしまうのは、そこにまだ見ぬ幸福を見出してしまうから。と書けば聞こえは良いかも知れないが、本当のところは良く分からない。イソップ童話の『キツネとブドウ』よろしく、仲良くなれなかった相手に対して思うのは、「きっとあの人は性格が悪い」という負け惜しみである。では、相手に愛されるために努力をしているのかと言えば、何とも言葉に窮する。果たして自分が人から好意を持たれる人物であるかどうかなど分からない。少ない人生経験から言えば、女性より男性から好かれることだけは確かである。特に年配の紳士にウケが良いことを体感しているので、私がその気だったら、そういうことになると思う(どういう気だよ・・・)

 

 拝鈍亭 再び

少し曇り空であったと思う。拝鈍亭に来るのは三三師匠の会で来て以来であるから、かなり前ではあるのだが、不思議とそんなに遠い気がしない。その場所に行けばその場所の思い出が蘇ってくるし、思い出との距離が短いと感じるから、さほど昔であったような感覚が無い。

音響面も良いし、何よりも『木戸銭:おこころざし』という言葉に、観客の『おこころざし』が問われている気がして、何とも高貴な気分になる。私ももちろん、『おこころざし』をお渡しして入場した。

拝鈍亭での会というのは、文菊師匠は年に一回だそうである。貴重な拝鈍亭での会、寄席の出番を断っての出演であるから、文菊師匠の気合が入っていることは間違いないだろう。

 

古今亭文菊 鰻の幇間

いだてん』のマクラから、演目は幇間の話。これぞ十八番とも言えるハリのある美声が冴え渡る素晴らしい一席であると思った。私は『鰻の幇間』を文菊師匠で聴くのは初めてである。以前に幇間腹の演目を聞いた時に、文菊師匠の幇間が大好きになった。と言うのも、物凄くリアリティがあると感じるからだ。

鰻の幇間という話は、簡単に言えば『幇間が騙される話』である。幇間腹は『幇間が旦那の実験台になって怪我をする話』である。幇間腹の肉体的ダメージに対して、鰻の幇間は金銭的なダメージを幇間である主人公、一八が負うことになる。

当時の幇間の状況もさらりと冒頭に語られ、いわゆる『野良』である幇間が、自らの勘を頼りに人を信じ、その人を信じ切ったが故に騙される話である。

誰にでも、一度は騙された経験というものがある。先述したが人に騙された経験の少ない私でも、様々な人から『こうして私は騙された!』という話を耳にする。

身近な例では『振り込め詐欺』などの話を聞く。ある日電話がかかってきて、「あなたは違法な動画を見ました」と電話主が言う。身に覚えのあった友人は電話主に言われるがまま、違法な動画を見たことの罰金と言われ、多額の金をコンビニ決済で支払ったのだという。

なぜそんなことに騙されるのか、と思う人もいるかも知れない。だが、人というのは案外、どこで騙されるか分からない。最近ではAmazonを名乗ったメールが届き、個人情報やクレジットカード情報を盗もうとする者もいれば、少額の時計を販売し、その販売によって得たカード情報等を元に金銭を盗むものまでいる。

これは全て、相手を信じてしまう手口が巧妙に形作られていることに起因するからであろう。自分にはまったく身に覚えの無いことであっても、知らぬ間に自分から「あれのことかな」、「もしかして、以前に見た、あの動画かな・・・」と勝手に理由付けをしていってしまうと、詐欺を働く相手の言うがままになってしまうと思う。

現に私の熱心な読者(そんなものがいるかどうかわからないが)だって、私が本当はどんな人物かということを、まるで知らないのである。読者は私の文章から勝手に私の像を想像し、きっとこんな人だという理想を描き始めているかも知れない。そうなったら、それは少し危険なことである、と敢えて忠告しておこう。人というのは、与えられた情報から自分に都合よく解釈してしまう生き物なのである。

で、上記したような、人を信じ人に騙される構造が『鰻の幇間』という演目には表れていると思うのである。前に書いた記事のように、人間は『貧すれば鈍する』、そのことに無自覚なまま自分の勘を信じて突き進む幇間の一八。案内された鰻屋で出される品物を自分に都合よく解釈していく場面は、面白いと同時に「あ、あぶないぞ~」と思ってしまう。

自分が騙されていたことに一八が気づく場面も面白い。特に一八は自分を騙した相手のことをあまり悪く言わない印象を受けた。むしろ、騙された自分に対するやりきれない思いが、言葉となって表現される。なんというか、笑ってしまうのだけれど、それは決して蔑みの笑いではない。一八さん、あなたの気持ちは痛いほどわかる、という笑いである。

相手のことが生涯許せないくらいの裏切りを受けた経験は、落語という演目の外にあって、人によっては体験としてあるだろうと思う。そんなときに、一八は相手ではなく自分に対して言葉を向けるのである。「こっちは金を払ってんだから、言いたいことを言わせてもらいますよ!」というようなことを言う。実は一八はとても配慮のある男で、まずは自分の立場が金を払っているということで、上だということを主張する。一八には一本、筋の通ったお金に対する考え方があるのだと、文菊師匠の言葉を聞いていると分かる。文菊師匠の素晴らしさは、本当に短い言葉の端々に、登場人物の芯の通った強い意志を感じるところである。

例えば、お礼の言葉一つとっても「ありがとう」と言う人と「サンキューね」と言う人と、「ありがとう存じます」と言う人では、心の距離とか人柄が違って感じられるように、文菊師匠は落語の登場人物の個性を、僅かな言葉の言い回し、表情、トーンに全て詰め込んでいる。だから、凄いっ。好きっ。って思う。

特に一八は作り込まれているというか、誰しもに共通する心があるような気がして、私はたまらなく、文菊師匠の一八が大好きなのである。

そして、最後のオチの時に、会場からは悲鳴のように大きな

 

 えええ~~~!!!!

 

という声が上がった。とてもお話にのめり込んでいたお客様がいて、私はとても嬉しくなったし、印象深い。私はその気持ち、随分前に、どこかに置いてきてしまっていたから。本当にいいお客様に囲まれた一席だったと思う。

『鰻の幇間』って、一八にとっては凄く可哀想な話である。後半に行くにしたがって、一八の『相手を信じた心の清らかさ』が否定されていく感じが、哀しいくらいに可哀想に思えてくる。それでも、私は一八は幇間を続けていくと思うのである。映画『男はつらいよ』で、何度も美人との恋が叶わない車寅次郎のように。

哀しいくらいに騙されても、なお幇間であり続ける一八。いや、幇間という仕事を止めてしまうだろうか。それは正直、ちょっと分からない。けれど、私の希望としては幇間を続けてほしい。そして、本当に素敵な旦那と出会って、その時はもう、びっくりするくらい奢られて欲しい。そんなことを夢見てしまう一席である。

ちなみに、騙す方と騙される方はどちらが悪いのであろう。この言葉だけでは、私には答えを言うことが出来ない。なぜなら、騙す方にも、騙される方にも、それぞれに正しい理由というものがあると思うからだ。鰻の幇間では、なぜ男は一八を騙したのかは語られることはなく、騙された一八がただただやり切れなさを発散させて物語は終わる。何の結論も出ない。出ないからこそ、様々に聞く者は想像することが出来るのだ。

あなたにも、騙された経験、もしくは人を騙した経験があるだろうか。その時に自分はどんな風に感じたのだろう。そんなことを考えるきっかけになる『鰻の幇間』。あははと笑った後には、意外に後を引く疑問が私の中には残り続ける。

 

古今亭文菊 質屋蔵

完全に強化月間だな、と思う文菊師匠の質屋蔵。微妙に言い回しが変わっている感じがしたのは、会場のせいだろうか。短いスパンで聴いているので、何となく言葉の変化を感じる。同時に、どこで絶叫するかも微妙に変えている気がして、それはそれで面白い。また、会場にとても素敵な反応をするご婦人がいたので、それも相まって、とても素敵な一席になった。さすがの一席、磨いてますねぇ。

 

 総括 奉還

文菊師匠の幇間はとにかく絶品であると同時に、物語そのものに色々と考えさせられる体験だった。鰻の幇間については、一切前情報を頭に入れないようにしていたので、初めて文菊師匠で聴くことが出来て、とても嬉しかった。同時に、文菊師匠の満面の笑みの「はっはーーーー!!!」「はっはっはーーー!!!」というハリのある幇間の笑い方は、一度聴いたら真似したくなるくらいに病みつきです。

本当に文菊師匠は、素晴らしいですよ。6月も最初の落語は文菊師匠でした。

笑顔の花を伝えて~2019年5月26日 芸協らくごまつり~

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せっかくですから、楽しんでいってくださいね

 

ゴジラだぁ! 

  

  上方から江戸へ

つい二日前の出来事がまるで夢だったかのように、私は東京で目を覚ます。目的があると、体は嫌でも目が覚める(嫌じゃないけど)

ぼーんと鳴る鐘のように起きて、パパっと服を着替えて、向かうは芸能花伝舎。3日間の演芸休みを締めくくるのは、落語芸術協会のお祭りである。

 

芸協まつりの会場へ

まず伸べえさんに会いたかった。(前情報は知っていたので、どこにいるかは知っていた)古書カフェでの最高の三席について伝えたかったのだが、まずは開会式である。松之丞さんと鯉津さんが自撮り写真を撮っていたり、歌春師匠がゴジラに驚いていたり、ゴジラと一緒に自撮りをする昇太師匠の笑顔がめちゃくちゃ可愛かった。

開会式を終えて、人の波を掻き分けて向かったのは、『古今亭今輔師匠によるクイズ大会』である。優勝は春風亭昇吉さんだった。鯉津さんと歌春師匠も接戦だったが、僅差で負けてしまった。

クイズ大会を終え、次に向かったのは『楽屋都市伝説』、三遊亭あんぱんさんの愛嬌が炸裂した面白い語り、神田紅先生の感動のお話、柳家蝠丸師匠の爆笑の実話。どれもとても面白かった。

 

食事

前回はホール寄席に集中していたため、今回は食事やその他のイベントに参加しようと思った。三笑亭夢花さん出演の『見世物小屋』、『ゴジラの鳴き真似』などを聞いた。ゴジラの鳴き真似は、色んな人がいて、とても面白かった。

食事は、焼きそばと唐揚げ、もつ煮込みを食べた。途中で芸協と言えば!のご常連さん達の姿もちらほら。

 

総括

だいぶ時間が経ってしまい、非常にあっさりとした記事になりました。時間が経った記事がいかに、鮮度が落ちるか。。。

記録としての記事です。

上方の神々方~2019年5月25日 天満天神繁昌亭 桂かい枝 受賞記念ウイーク~

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すごいいい時期に関西にお越しになられるとは!

 

全日程の全演者が本当にいい演者なのですよ!どの日かは是非とも!

 

繁昌亭の至近距離にある「ワーズカフェ」さんは、美味しいお食事や飲み物をいただけますよ〜

 

これから、開始やぁ!

上方の神様

朝、目を覚ますと枕元に神様が立っていて、大阪弁で「お前は本当に演芸が好きな人だな」と言った。僕は寝呆けた目をこすりながら、「好きだから、ここにいる」と返事をした。神様はにっこりと笑うと、「良く来たな。楽しんでお行き」と言って去って行った。どこか後ろ姿が桂枝雀師匠に見えた。

 

起床と天神さん

目を覚ますと、色々な物事が綺麗に整理されたような感覚があった。それまで乱雑に並べられていた本の一つ一つが、きちんとあるべき場所に収まっている感覚。全てはあるべき場所にある。だから、僕はここにいる。

じっと天井の壁を眺めていると、昨夜の夢のような『だんじり』の光景が浮かんできた。今の上方落語の確かな未来を見たような一席。それは、決して美化されたものなんかじゃない。本当に美しいものが、目に見えることを越えた風景が、ここにしかないどこかに確かに存在しているのだ。

寝ぐせが酷いのは常なので、シャワーを浴びて髪を整える。心という名の箪笥の前で、引き出しをぐっと引いて、丁寧にしまい込んだ思い出を見つめながら、僕は服を着替える。あの時見た風景は、その時は分からなくても、後になって分かるという時が来ることを僕は知っている。一日を迎える度に、僕は言葉で思い出を形にするから、何度でもその時の僕の思いを思い出せる。僕は僕だけの言葉の捉え方で、思い出を形作っている。虹に手を伸ばして、ぐっと手を握ると、そのときそのときで、手のひらに収まる色が違うみたいな感覚。演芸に触れた時、そのときそのときによって、掴むものは異なるみたいに。

ホテルを出ると、うだるような猛暑である。まだ時刻は9時を少し過ぎたところだったが、こんなに暑くなるとは想像もしていなかった。取り合えず、幾つか行きたい場所の候補がある。時間に余裕があったので、僕はTwitterでオススメされた『ワーズカフェ』に行く前に、大阪天満宮にお詣りした。早朝にも関わらずかなりの列が出来ていて、御朱印を頂くのに少し時間がかかった。大阪天満宮は『天満の天神さん』と呼ばれ、大阪の人に親しまれている。最近は文菊師匠の『質屋蔵』で何かと縁のある菅原道真が参詣した場所である。黄金週間の時に九州を一周して以降、不思議な運命に導かれて、僕は生きているような気がする。出会うもの全てに、運命を感じるのだ。

まだまだ時間があったので、『川端康成生誕之地』や『露天神社』へ行った。『初天神』と聞くと、落語の『初天神』を思い出す。僕にも小生意気な男の子と出会い、一緒に天神様へお詣りに行く運命があるのだろうか。そんな日が来たら、僕はどれほど幸福な思いに満たされるのだろう。分からない。分からないけど、楽しみだ。

露天神社』は近松門左衛門曽根崎心中』ゆかりの地で、落語では『お初徳兵衛』で知られている。ここにも一つ、落語と出会ったことで開けた世界があった。

美しい御朱印を頂き、僕は来た道を戻って『ワーズカフェ』へと入った。素人ではあるが、言葉を生業とする身の私にとって、ワーズカフェ、すなわち『言葉たちの店』に入ることは、何か特別な意味があるように思えてならない。僕の頭の中では、The Chi-Litesの『A Lonely Man』が流れ始め、それはやがてピッチが上がって、Shagの『Every Day』へと変わっていった。同じメロウな曲であっても、胸の高鳴りとともに、淡い気持ちが盛り上がっていくみたいに。

店内に入って、気に入った席を見つける。名物のカツサンドとアイスコーヒーを頼み、壁に目を向ける。壁にはたくさんの有名人のサインがある。文字通り、そこかしこに『言葉』がある。その壁に僕はまだ、自分の名を、言葉を残すことは出来ない。いつか、有名になれたら、その時はまた、そこに言葉を残しに来たい。

素敵な店主と美人によって運営されているカフェ、ワーズカフェ。運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲むと、チョコレートのような甘い味に心を奪われる。普段、マクドナルドやスターバックスで飲むアイスコーヒーは、酸味と苦みが強く、どちらかと言えばスッキリとした苦みのある味わいであるが、ワーズカフェさんのアイスコーヒーに苦みは無く、やわらかい飲み口で、体感的にカカオ75%と同等の甘さである。ブラックしか飲まない私にとって、スイーツのように甘く、とても美味しいコーヒーだった。酸味の強いコーヒーを勝手に想像していたので、かなり衝撃の美味しさだった。見た目の黒さに反して、スイートな味、野暮と承知で演芸に例えるならば『三遊亭円楽コーヒー』と言って良いと思う。

名物のカツサンドは、パンのしっとりとした甘みの後で、ぴりっとした塩気のあるカツが、じゅわっと肉汁を溢れさせて口の中に広がって行く。ブラックペッパーとオニオンのスパイシーな味が、パンをクッションにして口の中で跳ねる。甘く長い口づけのような、ワイルドで食欲を誘う味わいに、心が満たされる。私は思った。

 

ああ!幸福だ!

 

そう思った時には、コーヒーもカツサンドも無くなっていた。繁昌亭の昼席を迎える前に、私は至福の午前を過ごした。うだるような、ピーカンの天気だったけれど、爽やかに体を冷やしてくれたコーヒーの甘みが心地よかった。

 

おおきに、繁昌亭

開場前になると、整理番号順に列と並ぶ位置が分けられる。この辺りの入場整理は徹底していて、見ていてとても気持ちが良い。年配の方々も「〇〇さんは~~番だから、この辺に並んで」と的確に指示されている。整理番号にする最大限の効果が発揮されているように思った。また、事前の入場者数を知る目的であろう、前売り券で管理されているのも上方の寄席ならではの、効率の良いシステムであろうと思った。

客層はやはり高齢の方々が多い。うだるような猛暑の中でも、大阪の人々の会話力は凄まじい勢いである。東京の人の4倍は喋っているのではないかと思うほど、様々なことを語り合っている。とにかく寄席の会場が活き活きとしていて、聞き耳を立てているだけでも楽しい。

開演が近づくと、係員の人が大きな声で携帯電話の電源を切ることを会場にアナウンスする。これもとても念入りに注意喚起されており、演芸鑑賞の姿勢がとても素晴らしいと思う。時代の流れに順応して、観客全員の集中力を削がないように配慮された、安心安全の注意喚起。松之丞さんの連続読み『慶安太平記』以来の注意だったので、良いな、鑑賞する姿勢がとてもいいな、と思った。唯一残念だったのは、『オチを先に言っちゃう人』が紛れ込んでいたことだが、まぁ、それは、しゃあないやろということで、許す。

再び繁昌亭の中で、提灯の灯を見つめながら、僕は胸の高鳴りを押さえることが出来なかった。

なぜなら、開口一番は、僕が落語好きになった桂枝雀師匠の実の息子さんなのだから。

 

桂りょうば 子ほめ

運命の一席というものを、僕は信じる。桂りょうばさんが高座に出てきて、言葉を発したとき、僕の胸には言いようの無い感情が込み上げてきた。7年前、Youtubeで見た枝雀師匠、その枝雀師匠の姿が、りょうばさんの言葉の端々に現れているように思った。もちろん、枝雀師匠の『子ほめ』を僕は動画で見ている。まるで、枝雀師匠の姿が透けて見えるかのように、桂りょうばさんの中で、確かに枝雀師匠が生きている。僕はそんな風に思った。

同じことは、親子の関係だけでなく、師弟の中にもある。

柳家小八師匠の中に生きる、柳家喜多八師匠。

立川談吉さんの中に生きる、談志師匠と左談次師匠。

目には見えないけれど、確かに感ぜられる先人の魂に震え、目頭が熱くなった。

僕は言いたい。りょうばさん、落語をしてくれてありがとう。あなたのお父さんに僕は、何度も笑わせてもらいました。あなたのお父さんが、僕に落語の面白さを教えてくれました。生きるための知性を教えてくれました。

本当にありがとう。ありがとう。

 

ありがとう!!

 

 笑福亭喬介 犬の目

twitterで何度か情報を目にしていた喬介さん。袖から出てきて、頭を下げるときの仕草が面白い。私の見間違いかも知れないが、頭をボトリッと落とすかのようなお辞儀の仕草。きっと東京で生まれたら鯉昇一門だな、と思いつつ、語り始めるとファンタジックなリズム。

東京に哲学派のゆるふわフィロソフィーで人々を魅了する瀧川鯉八さんがいれば、上方にはゆるふわキラーで人々を魅了する笑福亭喬介さんがいるように思った。まだ初見だが、犬の目という少しファンタジックな話を、さらりと笑いで語って見せるキラー感。底の知れない笑いのゆるふわキラーの感じを抱いた。犬の目という演目は、簡単に言えば『目玉を洗って戻す』話である。筋だけを聞くと「何それ・・・」という感じではあるが、結構笑いに持っていくのは難しい噺である。そもそもナンセンスな話なので、嘘っぽさが出ると面白くないと私は思っている。その点、喬介さんの場合は『マジで何回かやってる感』があって、そこがゾクゾクするほど面白い。

他の演目もどんな風にやっているのか、もっと見てみたいと思った。

 

桂三金 新党結成

見た目の太さもさることながら、着物が豪華で煌びやかな印象。勇ましく雄弁に自らの肉体を肯定する新作落語は圧巻。調べたところ、デブサミットにも出演経験があるとのこと。

あれだけの熱演と饒舌な語りをしても、一切汗をかいていない清潔感のある高座。私の二倍の体重があるというのだから、驚きである。すがすがしく勇ましい一席だった。

 

ラッキー舞 太神楽

太神楽に関してはよほどの新技で無い限りは驚かないぞ、と見る度に思うのだが、やはり会場の雰囲気、そして何よりもラッキー舞さんの一所懸命な姿に思わず「が、がんばれっ!!!」と思ってしまう。包丁二本での皿回しに行く前に、ふうっと息を吐く舞さんに、客席から「頑張れ!!!舞!!!」の掛け声が飛ぶ。そんなん、泣くやん。思わず胸がうるっとしながら見ていると、ラッキー舞さんは嬉しそうに「あっ、ありがとうございますっ!!!」と応える。うわー、こういうの僕弱いわぁ。涙腺が緩むわぁ。と思いながら、舞さんの挑戦。成功の瞬間、会場は割れんばかりの拍手。結局、何回見ても、太神楽って最高なんです。

 

笑福亭銀瓶 短命

出演者の衣装が段々派手になっていく仕掛けでもあるのか、銀瓶さんも派手な着物に身を包み登場。桂歌春師匠や笑福亭たまさんや桂三四郎さんのような、あっさりとした塩顔のイケメン。イケメンの短命は最高ですよ、奥さん。短命という話はざっくり言うと『美人妻の噂を聞いた男が、自分の妻を見て思うこと』というような内容で、観客である私が女だったら、「こっちが短命じゃい!」と思ってしまうほど、面構えの良い人の短命は絶品である。春蝶師匠の短命なんか聞いたら、ゾクゾクして聴いている最中に卒倒するんじゃないかと思う。僕も短命は得意ですよ(いらない情報)

マクラの途中でひょっこり顔を出した文福師匠が可愛かった。森を彷徨う熊さんみたいだった。

そうそう、柳家権太楼師匠の短命も最高ですね。あれは、目と鼻が遭難して、心が密林のような奥さんが登場するので、機会があったら聞いてみてください。

さて、美人によって短命になる理由を語り合う男と男の場面。これが何度、誰で聞いても面白い。ちょっとニヒルな男の感じがたまりませんよ、奥さん。ねぇ、奥さん。ちょっと、聞いてます?奥さん?ねぇ、ちょっと、いや、ちょっと~~~

マフィアタイプの鮮やかな一閃で笑いを起こして去って行く銀瓶さん。形が良かったぁ。。。

 

 桂文福 民謡温泉

立川談之助師匠、古今亭寿輔師匠と並ぶ、上方のド派手な落語家、桂文福師匠。もう出てきた時のインパクトが強すぎて、以下は褒め言葉であるが、

 

ガマガエルの神様やぁ!!!

 

と思った。浜乃一舟師匠の感じた『E.T』レベルの失礼さかも知れないが、初めて見たインパクトが強すぎる。『長州力Lv.Max』とか『木村清さんを赤井英和さんで塗った感じ』とか、『どこかの相撲部屋の親方』とか、色々例えてしまいたくなるほど、強烈な風貌。そして、その美しい声で響き渡る言葉。「ええ声やろ、な、ええ声やろ」と確かめる仕草が可愛い。僕は心の中で「めっちゃええ声ですよ」と呟く。

正直、7割くらい何言ってるか分からなかったけれど、それでも面白くて笑えたし、会場も大盛り上がりだった。文福師匠の後で仲入りだったのだが、僕の後ろのお客さんが「何ゆうてるか分からんけど、おもろいよなぁ」と隣の席の方と話をされていて、なるほど、ネイティヴオオサカンでも聞き取れないんだ、と思った(誰がネイティヴオオサカンやねん)

民謡温泉という話は、簡単に言えば『民謡のオンパレード』な話で、7割聞き取れなかったので筋は全然わからないのだが、マクラで相撲甚句が出たり、河内音頭の節が出たりして、めちゃくちゃ面白かった。こちとら、民謡クルセイダーズで民謡についてはバッチリ勉強しているので、出来れば『串本節』や『牛深アイヤ節』、『おてもやん』から『炭坑節』も聞きたかった。高座姿は『落語界の三橋美智也』と言っても良いかも知れない。相撲漫談の一矢さんとの共演も見てみたい。

ただそこに座って喋っているだけで、あんなに面白くてパワーのある落語家さんは、中々いないのではないだろうか。上方落語協会の理事で、東京では林家彦いちさんの出囃子でお馴染みの『鞠と殿様』を出囃子にしている。東京で言えば最高顧問の鈴々舎馬風師匠並みの風格で、なんだか分からないけど面白い人だ。

一度見たら忘れられない落語家さんである。そんな桂文福師匠の満面の笑みで仲入り。最期のオチもなんだったか覚えていないけれど、面白いという感情だけが残った。

 

 記念口上 笑福亭銀瓶 桂かい枝 桂文福

仲入り後の記念口上は壮観である。幕が開いて、

僕は思った。

 

神主さんに、

ビリケンさんに、

なんかご利益ありそうな神様

 

神様勢ぞろいやーん!!!

やーん!!!

             やーん!!!

やーん!!!

 

真ん中に座したビリケンさん似の落語家、桂かい枝さん。見ているだけで功徳積んでるんじゃないか、と思えるほどに神々しいお三方が並ぶ。

まず初めに口上を語ったのは桂文福師匠。最初はどうなるかと思ったけれど、色々と温かいお話に、最後は「かいしやぁ!」と言っていた。正直、最後の「かいしやぁ!」しか覚えてないけど、それも合ってるかよくわからないけど、雰囲気が面白かった。

銀瓶さんはさらりとかい枝師匠のハードルを上げる質問を客席に投げかけ、戸惑うかい枝さんの姿が可愛らしかった。かい枝さんも決意を述べながら、伸び伸びと高座をやるぞ!という思いが感じられた。

どんなトリを見せてくれるんだろう。そんなことを思いながら、素敵な口上が終わった。

 

桂梅団治 荒大名の茶の湯

現・林家正蔵師匠にビリケンさんを足して2で割ったような風貌の梅団治師匠。東京では『荒茶』で知られる話。内容は『茶の作法を知らない侍がお茶の席でしくじる』という感じ。じっくりとした語りの中に、侍の名前が丁寧に盛り込まれていて面白い。現代風に言えば、『ATSUSHIの歌い方を真似をして、TAKAHIROと清木場俊介とSHOKICHIが無理して歌う』みたいな内容である。もっと言えば『少女時代がAKB48を真似して、ちょっと無理がある』という内容である(どんな内容やねん)

もう少し過激、志茂田景樹な例えをすると、『甘利さんがSNSを頑張る』みたいな話です。語弊だらけだと思っております。勘弁してください。許してギャアアアア。

茶の作法を知らない侍(豊臣七人衆)、特に加藤清正のしくじりっぷりが面白い。茶の会に誘った相手の侍(本多佐渡守正信)の呆れる姿が目に見えるようだった。歴史上の人物が出る話だから、当時はどんな風に庶民に受け入れられたのか興味がある。調べると、元は講談で『関ヶ原合戦記・福島正則茶の湯』から来ているのだそうだ。確かに、講談で聞いてみるのも面白いかも知れない。

じっくりとした素敵な語り口の一席だった。

 

桂枝女太 狸賽

柳家小はぜさんが年を取ったらこんな感じなのではないか、と思えるような風貌の枝女太さん。これで『しめた』と読むそうである。ふんわりと優しいソフトクリームのような語り口で演目へ。タヌキの変身シリーズには『狸鯉』、『狸札』、『狸の釜』などがあるが、『狸賽』は初。内容は『狸がサイコロに化けて博打でしくじる』話である。タヌキの可愛らしさが博打の場を面白くしている。化ける合図も面白い。

もしかすると、『ドラえもん』は狸の出てくる落語をヒントにしているのかも知れないと思った。タヌキは自らが化けることによって、ちょっと助けが必要な人のために力を貸す。一方、ドラえもんは自らが化けるのではなく、道具という形でのび太、すなわち、ちょっと助けが必要な人のために力(道具)を貸す。

考えてみたら、『ドラえもん』が好きな人は、もしかしたら狸の出てくる話はとっつきやすいかも知れない。読者に『ドラえもん好き』がいるかは分からないが、もしもドラえもんが好きならば、狸の話に出会って見て欲しい。

狸の話をやる人は、私の性格も似ている部分があるかも知れないが、オススメは台所おさん師匠、桂伸べえさん、立川談吉さんである。ちょっと自分にのび太感を抱いている人は、きっと好きになる筈だ。

ふんわりと、優しくて、それでいてちょっとズル賢いけれど、最期はつるっとしたオチ。なんだか福禄寿のような縦に長いお顔の枝女太さんが袖に去って行く。

ここまで、たくさんの神様を、僕は見たんだなぁ、と思った。

 

桂かい枝 青菜

最後に出てきたのはビリケンさん、じゃなくて、桂かい枝師匠。

実は客席の前方には、開口一番から海外からのお客さまが座っていて、隣の通訳さんであろうか、親しい友人の方であろうか、博識で知的な紳士が座っていて、一席終わるごとに「さきほどの話は分かりましたか?」と親切に話しかけていた。特に文福師匠が終わった後に、民謡のことを上手い具合に英語に翻訳されて説明していたのだが、失念してしまった。海外のお客様も日本語が堪能で「分かりました。面白かったです」と言っていた。荒大名の英語による説明もめちゃくちゃ興味深かったのだが、残念ながら失念してしまった。(上手い翻訳するなぁ、すげぇなぁ・・・)と思ったことだけは、心に残っている。

桂かい枝師匠を繁昌亭で見るのは初めてで、英語の落語もされているということは知っていた。機会があれば、英語の落語も聴いてみたい。

どんな話をするべきかマクラで探りながら、日本語で行くか英語で行くか悩みつつ、英語の小噺。私が勝手に『マダム・ミラー』と呼んでいる小噺で会場は割れんばかりの爆笑。これは英語落語が聞けるか!と思ったが、渾身の決意でかい枝師匠が「日本語でやります!」みたいなことを仰った姿が印象に残っている。

落語イントロ・ドン!があったら、落語好きの誰もが一秒で押せる落語の演目がある。それが『青菜』である。冒頭の名フレーズ『植木屋さん、ご精が出ますな』は『青菜』には欠かせないフレーズである。

うだるような猛暑に最適の演目。私は思った。

 

うおお!!!青菜だぁああ!!

 

東京の寄席で猛暑の日には、必ずと言って良いほど『青菜』が高座にかけられる。この日も、最高気温は30℃を越えるかというほどの猛暑。そこに来て、涼しい風と冷たい酒で一杯飲み、風鈴の音を聞きながら語り合う植木屋と旦那の会話を聞くのは、なんと心地の良いことであろう。僕はもう、それだけで嬉しくなってしまった。

かい枝師匠の語りも素晴らしい。爽やかで伸び伸びと軽やかなリズム。明るくて優しくて、活き活きとした姿に笑顔が零れる。会場にいた誰もが、涼やかな風を感じ、粋な夫婦の隠し言葉に痺れる。私も植木屋さんと同じように、とてつもなく真似したい気分になる。二人だけの隠し言葉を持って、暑い夏の夜に、粋なマウストゥマウスを・・・

さて、妄想は置いておこう。久しぶりに聞いた『青菜』は、東京での演じられ方とさほど大きな差は無い。粋な旦那の隠し言葉を聞いて、真似して失敗する植木屋さんの姿が可愛らしい。濃くやらない感じが爽やかで、とても面白かった。

うわー、終わらないでー。終わらないでーと思っていても、落語には必ずオチが来てしまうもの。落ち着いて最後のオチを聞き終えると、なんだかぶわっと色んな思いが込み上げてきて、しばらく僕は拍手をすることを忘れ、いいなぁ、いいなぁ、という気持ちに満たされた。

繁昌亭に来れて良かった。生きててよかったー。深夜高速。

 

 総括 あなたの手と、僕の手と、そして未来と

幸せな気分で、楽しさと喜びに包まれながら、席を立った。今日で、ひとまず、上方遠征はお終いだ。嫌だなぁ、帰りたくないなぁ。と思いながら、ぞろぞろと出て行く人の後ろを歩いていく。繁昌亭の係の人の満面の笑み、そして「ありがとうございました!」という声を聞くと、なんだか、泣きそうになる。

出口では、さきほどまで高座にいたかい枝師匠が、一人一人のお客様に挨拶をしながら、満面の笑みで握手をしている。なんて言えばいいか分からないけれど、それはとても輝いているように僕には見えた。そこには幸福な、眩いまでの光を湛えた、何か一つの流れのようなものがあって、僕を含め繁昌亭にいた大勢のお客様は、その流れの中を笑顔で泳ぐ魚のようだった。ぐっとかい枝師匠の温かい手に触れて握手をしたとき、僕はこの手のぬくもりを一生忘れないだろうと思った。

そして、その奥には、桂りょうばさんがいた。

思わず、僕の手が出た。

りょうばさんは驚いたように、「あっ、ありがとうございますっ!」

と言って、僕の手を握った。

涙がこぼれそう。

僕は、ずっと、ずっと、この瞬間のために生きていたのかも知れない。

色んな競争をしながら、色んな傷をいっぱい付けながら

転んだりして、くじけたりして、情けない思いに、いっぱい泣いて

丸め込まれて、どうにも立ち行かなくなって、

つまんねーな、が口癖になって、

なんか面白いことないかなーと、Youtubeを見ていたら

僕は桂枝雀師匠の『代書屋』に出会って、

そこから、世界が変わった。

こんな面白い世界が、こんな面白い人がいるんだ。

会ってみたい。

この人に、

会ってみたい。

この人は、今、どこにいるんだろう。

どこで、何をしているんだろう。

インターネットで調べて、名前を見つけて、そして、

もうこの世界にはいないことを知った。

そんな・・・

こんなに面白い人が、もうこの世界にいないなんて、

だったら、他に面白い人はいないかな。

柳家喬太郎師匠、柳家三三師匠か。

二人の落語を聞いた。確かに面白かった。

でも、そこに桂枝雀師匠はいなかった。

僕は、枝雀師匠。あなたにお礼が言いたい。

あなたの落語がどれほど素晴らしいか、お話がしたい。

僕は、あなたの落語を生で見たかったと思う、何千・何万・何億という

あなたのファンのうちの、一人です。

あなたに救われた人間の中の一人です。

ちっぽけな僕に、落語という生きる知恵を教えてくれたのは、

あなたなんですよ、枝雀師匠。

あなたが残したりょうばさんという一人の落語家の一席に、

僕は今日、腹の底から笑いました。

あなたは生きていたんだと、そう思いました。

ずっとずっと、あなたの姿を追い求めてきて、

今日初めて、あなたの高座を見たような気がしました。

こんなことを思うなんて、失礼なことかもしれません。

でも、りょうばさんと手を握ったとき、僕はりょうばさんに出会い、

そしてあなたと出会った。そう思いましたよ、枝雀師匠。

 

胸に込み上げてきた思いが、言いようのない感情が、僕の心を震わせた。長い長い人生の中で、僕はりょうばさんの手を握った。その出会いに、僕は勝手に意味を付随させているだけなのかも知れない。無粋なのかも知れない。それでも、僕にとって、あの握手ほど、運命の一瞬は無かったと思う。そして、これからも僕は桂りょうばさんの高座が見たい。そう強く思った。

そして、文福師匠とも握手をした。なんだかよく分からないのに、そのおおらかさ、包み込むようなエネルギーに僕は「面白かったです」と泣きそうになりながら言った。暑い太陽の光が、なんだか全てを照らしているみたいで、僕の心の花を咲かせるために、一所懸命に光っているみたいで、まるで夢みたいな時間が過ぎた。

朝、目が覚めてみた光景は何だったのだろうか。夢だったのだろうか。いずれにせよ、僕は上方の神様に出会い、神々方に出会った。オチを無理に付けるとすれば、そんな上方の神々方が、噛み噛みガタガタにならないことだけを祈りたい。そんな心配は不要ですね。

今回の上方遠征、そして天満天神繁昌亭での落語会。

僕は思う。

 

 最高の、体験だった。

 

エピローグ 繁昌亭、のち。

繁昌亭のあと、時間が空いたので、とある方から頂いた情報を頼りに、動楽亭に行って、その裏にある『たつ屋』さんに行ってみることにした。残念ながら『たつ屋』さんは休業だった。ぶらぶらと新世界の串焼き屋とカラオケバーばっかりが並ぶディープな世界を観光し、東京へと戻ることにした。

僕は再び、大阪の地に来る。その時は、きっと、また繁昌亭で素敵な出会いに巡り合うと思う。調べたら笑福亭福笑師匠が出演される会が7月にある様子。今度はガッツリ寄席狙いで土日を満喫しようと思う。

そう、僕は土曜日の夜に大阪に泊まることは無かった。なぜなら、日曜日にビッグイベントが控えていたからである。

それは次の記事で語ることにしよう。ご存知、『芸協らくごまつり』のことを。

君の思い出に縋る雨の日~2019年5月24日 天満天神繁昌亭 乙夜寄席~

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 1000円札の肖像だけ、かなりの酔っ払い

 

電気を消して

 

虎ちゃんのためや

読みまちGuy

信じてもらえないかも知れないけれど、本当のことだから話す。『落語と講談』のチケットを買う時に、私はちらっと『乙夜寄席』のチラシを目にしていた。チケット売り場で買えると思い、中の人にチケットを求めようとしたが、うっかり『乙夜』という漢字の読み方を見過ごしていた。何となく横に『つや』という文字があったように思ったので、口ごもりながらも「あの、21時30分に開演の、おつやぁ、寄席・・・」と言ったところで恥ずかしくなり、扉に貼ってあるチラシを確認し、はっきりと『いつや』という読み方を見てとり、「ああ、あの、いつやよせのチケットって買えますか?」と尋ねると、係の人が「乙夜寄席でしたら、21時15分頃にチケットを販売いたしますよ」と教えてくれた。思いっきり読み間違えて『乙夜寄席』が『お通夜寄席』になるところであった。

だるま堂でうどんを食しているとき、ぼんやりと繁昌亭に集った人々の事を考えていた。随分と年配の人が多くいたので、若者にはあまり注目されていないのだろうかと思った。東京の深夜寄席のように、末廣亭の前を通り過ぎる人が「何ここ?歌舞伎でもやってんの?」とか「あれじゃね、漫才のやつっしょ」というような言葉も聞こえては来ない。

少し残念だなぁ、と思って天満天神繁昌亭の前に再び行くと、行列が出来ている。それも、若い女性や男性、仕事帰りであろうスーツを来た男性などが並んでおり、私の心配は嬉しいことに消え去った。そうか、深夜の方が若い人が集まりやすいのだな、と思った。初めて訪れたので、繁昌亭の界隈にどれだけのビルが建っていて、どれだけの人が勤めているのかは分からない。それでも、大勢の、少なくとも80人近い人々が、体感的に集まっていたように思える。そして、いずれも若い人たちで、随分と活気があるように感じられた。どの寄席にも、一定数の若い人は集まってくるようである。

再び繁昌亭の中へと入る。大学生らしき人々の会話から察するに、吉の丞という落語家さんが注目されているようだった。

 

笑福亭呂好 ¥の縁(くまざわあかね 作)

開口一番は写真とは違って、結構丸坊主の呂好さん。柔らかくも溌溂とした語り口で、フラフラっと語り始めたのはお札に纏わる話。この話は簡単に言えば『お札の肖像となった人達の飲み会』の物語で、音頭取りに福澤諭吉が登場し、歴代のお札の肖像となった人々が登場する。個人的に面白いと感じたのは、1000円札の肖像となった野口英世夏目漱石がやたらに酔漢であるところ。1000円札が1万円札に憧れている部分が非常に面白かったのと、夏目漱石の作品に纏わる細かいネタがふんだんに盛り込まれていて、夏目漱石好きならより一層楽しめる内容になっていた。

どんな飲み会でもそうだが、日ごろ、何かと不満を持っている人々が酔った勢いで愚痴を言うのを聴くのは、なかなか面白いものである。いわゆる『本音』と『建前』というやつで、これは笑福亭福笑師匠が現在進行形で表現されている、『本音の面白さ』の部分が演目にも共通している。福笑師匠の『憧れの甲子園』のように、酔っぱらった高校野球の監督が、理想と現実のギャップを本音を吐き出すことで、痛快に叩き切って行く部分が、呂好さんのお札の肖像達にも共通しているように思った。

私自身もそうだが、情けないというか、人間の業というか、お酒の力に頼らねば吐き出せないことは幾らでもある。酔った時の心地よさに任せて、自分の心に溜まった濁りのようなものを、一気にぶちまけるのは『心の不純物』を取り払う良い行為だと思う。誰しもが良い人間であり、理想に生き、人の優しさの純粋性を貫く尊い考えも勿論、あって然るべきであるし、正しく生きること、人間の性善説を尊ぶ一方で、その理想に真っ向から懐疑の念を抱き、自らの本性に忠実に生きて、理想を打ち砕くような毒気をぶちまける行為もまた、一つ、側面として存在して良いと私は思っている。何も分け隔てることなく、あるがままを受け入れることが、落語を楽しむ手っ取り早い方法なのかも知れない。善悪の二元論から、善悪も無く、全ては無為自然であるという考えへの移行。それがマイナに転じるか、プラに転じるかは分からない。けれど、私は『¥の縁』を聞いて、人の持つコンプレックスが、絶対に抗えない札としての階級分けが、人に影響を強く及ぼすのだろうと思った。実社会において、1万円札になるか、1000円札になるか、なんてことは分からないけれど、令和になるのだから、その辺りを考えないと、どうにも平静を保っていられない。

 

桂しん吉 茶漬間男

異様に顔が怖く、さらしを巻いてドスを懐に忍ばせていそうな顔つきのしん吉さん。『しん』と名の付く人で、詐欺師のような表情(褒め言葉)をしている林家しん平さん然り、怖い顔の人には面白い人が多い(個人比)

普段は鉄道落語を主としているらしいのだが、今回は呂好さんのトリッキーな新作を受けて、古典落語をやることを決意されたらしく、話題は間男の噺。お馴染みの『冷蔵庫殺人事件』と私が勝手に呼ぶマクラから、これはひょっとして『紙入れ』かなと思いきや、もっと内容的にエロスな『茶漬間男』へ。

この話も、何でこんな話があるのかと不思議に思ってしまうくらい面白い不倫の話で、時代のおおらかさを感じるのだが、内容は『茶漬けを食う旦那。その旦那の奥さんと不倫する男』の物語である。なぜ茶漬けなのかは分からないが、江戸の『紙入れ』は奥さんにそそのかされた貸本屋の男が、奥さんとの情事の寸前に旦那が家に帰ってくる。ところが、『茶漬間男』は、旦那が茶漬けを食べている二階で、間男が旦那の奥さんと事に及び、そのまま気づかれずに去って行くのである。旦那の間抜けさも去ることながら、私の頭の中では「わざわざそんなことするっ!?」と思ってしまうほど、大胆に二階で事に及ぶ男女の姿が想像され、茶漬けを食いながら、「お盛んやなぁ」みたいなことを言う旦那の間抜けっぷりがとても面白い。

何かと昨今は芸能人の不倫やら、浮気がニュースとして取り上げられているようであるし、世間一般的にも『不倫はダメ、絶対』という風潮でおおよそ統一されているようである。もちろん、物語として、自分の生活に影響のない範囲で不倫の話を聞くのは面白い。だが、もしも私が茶漬間男に出てくる旦那のように、自分の奥さんを他の男に寝取られていたとしたら、どんな風に思うであろう。多分、というか、結構、嫌である。

それでも、物語を純粋に楽しむことが出来るのは、それが物語であるからであろうし、自分に全くマイナにならないからであろう。だから、不快にも思わないし、むしろ、心の底から楽しめる。どんなことでも、物語を楽しむには、フィクションなのだという自覚と、フィクションとの距離を保つことが必要なのかも知れない。もちろん、フィクションを限りなくノンフィクションと捉えて、物語そのものを毛嫌いしてしまうこともあるだろう。そういう人は、そういう人であるから、私は特に気にはしない。

上方ならではの、ちょっと卑猥な間男話を聞けて嬉しかった。

 

 桂吉の丞 だんじり狸(小佐田定雄・作)

演芸界の方程式の一つになりそうな事の一つに、『~丞に外れなし』というものを作っても良いのではないだろうか。ご存知、古今亭菊之丞師匠、神田松之丞さん。私の知る限りでは、丞が最後に付く人は総じて凄い芸を持っている。そしてまた一人、桂吉の丞さんという一人の上方落語家が加わった。

溌溂とした語り口と、品のある佇まい。強面でありながらも、高座で見せる満面の笑みが可愛い吉の丞さん。ハリのある声と大阪弁が耳に心地よく、桂九ノ一さんに感じた溢れんばかりの太い気迫とは異なる、弾けるような鋭い気迫を感じる姿に、私は思わず、

 

 とんでもない人おるやん!!!

 

と、心の中で唸った。肌の白さもさることながら、まっつぐに光る眼と、中音の効いた声が良い。私の好みなのだが、声に張りがあって中音が響く落語家さんは良い。古今亭文菊師匠がその筆頭であるが、桂吉の丞さんもまた、蒼天の青空を飛んでいく鷲を想起させるような、素晴らしい声を持っている。出来ることならば、もっと他の演目を聞いてみたい。

演目の『だんじり狸』は初めて聞く新作落語である。作者は亡くなられているのかな、と勝手に思い込んでいたのだが、存命の落語作家さんである小佐田定雄さん。実は会場にいたそうなのだが、どなたかは分からなかった。

だんじり』と聞いて、ここでも勘ちGuyを発揮してしまったのだが、『男尻』を思い浮かべてしまい、白い褌一丁で、ぷりっぷりの尻で神輿を担ぐ男に化けた狸を想起したのだが、全く違っていた。

だんじり』とは『だんじり囃子』、すなわち『鳴り物』を指す言葉である。決して私の勘違いである『男尻』のように、ぷりっぷりの尻をぶつけ合い、ぺちぺちと音を鳴らす男達が密集した祭りの意味ではなく、太鼓や笛や摺鉦を用いた祭囃子である。

冒頭は思いっきり勘違いをし、「だんじりを打ってくれ~」という言葉の意味を理解しかねていたのだが、後半になって鳴り物が鳴って、「そ、そういうことだったのか~、男尻の祭りじゃなくて、鳴り物だったのねぇ~」と思った。ひょっとすると冒頭に説明があったのかも知れないが、吉の丞さんの容姿に集中していて、私が聞き漏らした可能性がある。

さて、この『だんじり』という演目。これがまた実にええ話なのである。もうええ話過ぎて、後半は「うわ~終わらないで~」と思ってしまうほど、ええ話なのである。

聞く楽しみを奪わぬために簡潔に言えば、『嘘から出たまこと』のような話である。登場人物が多く、演者である吉の丞さんも若干混乱していた様子ではあるが、一つの嘘をきっかけに、色んな人々を巻き込んで物語は進んでいく。『だんじり』が一つのキーワードとなっているし、狸の存在も不思議で幻想的な雰囲気を醸し出していて、後半にだんじりが鳴り始めた場面の、映画的なカット割りが実に見事で、それだけで胸がハッとする。そして、最後の一言でふわっと心に押し寄せてくる感動があり、新作落語でありながら、古典の雰囲気を十分に湛えた名作であると思う。出来ることならば、何度も聴きたい演目である。

吉の丞さんの語りのテンポ、勢いもすさまじく、また物語に流れる人の情に胸が熱くなり、最後のだんじりで夢のような空間に誘われたまま、物語は幕を閉じる。

 

総括 思い出に縋りながら生きる

天満天神繁昌亭に来て、最初の一日に、この物語で終えることの出来る喜び。言いようの無い感動に包まれて、終演後、しばらく席を立つことが出来なかった。

誰か愛しき人との思い出が、今の自分に大きな影響を及ぼし続けるということが、私にはある。それは、今は亡き人々との思い出であったり、遠く離れることになった友人でもあり、別れた恋人でもある。一度出会ってしまったら、出会う前の自分に戻ることは出来ないように、出会った人の言葉や、考えや行動に、知らず知らず影響を受けている自分を自覚するとき、自分を形作ってくれた人々に対する感謝の気持ちと、その思いを受け継いで生きて行こうとする意志が私の中に起こる。どんなに悲しい雨の日であっても、あなたとの思い出に縋って私は生きて行くのだ。たとえどん底にいて、深い傷を負ったとしても、私はあなたとの幸福な思い出に縋って、再び底から抜け出すために、這い上がろうと思うのだ。現に、私はそうやって何度も這い上がってきた。ジャズの世界で言えば、スコット・ラファロを失った後のビル・エヴァンスみたいに。

そんなことを思う、人と人との情の流れる、素敵な一席だった。考えてみたら、吉の丞さんに情の話であるから、丞と情で気分は・・・

止そう、だんじりが聞こえてきた。このだんじりの打ち方は・・・きっと

御披楽喜までの笑みと絵と美と~2019年5月24日 天満天神繁昌亭 落語と講談~

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 南森町駅で降りてっと

 

ほああ~、繁華街だなぁ。

 

おっ!天満天神繁昌亭だぁっ!

 

来たよ

上方遠征

暑さは我慢できても、上方落語への熱さは我慢できない。

東京では桂春蝶師匠や桂紋四郎さん、桂三四郎さんなどが活躍されているが、上方にはまだまだ私の知らない素敵な落語家さん達がいる。だから、どうしても見たい。繁昌亭の寄席で、素敵な上方の芸人さんを見たい。そんな思いが日に日に増していき、ようやく実現する機会に恵まれた。

京都の街を後にして、南森町までの電車の道中、私はずっとこれまで自分が見てきた演芸のことを思い出していた。

桂枝雀師匠の『代書屋』に出会ってから、私は浴びるように枝雀師匠の落語を聞いた。上方訛りの強い枝雀師匠の語りに魅了され、自分でも「すびばせんねぇ~」などと言って真似をしながら、枝雀師匠の言葉に時折顔を出す、生きるための処方箋のような知性に惹かれた。だから、私が落語好きになる発端は『上方落語』にあった。

近くのホテルに宿を借りていたが、そこへ寄る前に一度天満天神繁昌亭を見ておきたかった。南森町駅を降りてすぐに繁華街がある。赤い提灯には『大阪天満宮 参詣道』と書かれており、人が多く道を行き交っている。『めん家だるま堂』にぶつかったところで左に曲がると、そこに『天満天神繁昌亭』がある。

何度も夢に見た場所である。大阪に住む人々のツイートを見ていると、とても楽しそうで、誰もが笑顔で帰って行く。そんな温かい景色が繁昌亭には会った。すぐ近くまで来ると、どうやら夜席のチケットを販売しているようだった。表には『落語と講談』と書かれている。出演者のどちらも芸を見たことは無かったので、中でチケットを売っている人に声をかけてみた。

どうやら全席指定のようで、幸いにも一階の席に一つだけ空き席があった。チケットを売っている人が「お客さん、ラッキーですね。一階はこれが最後の一枚です」と言ったので、私は空き席に対して「あ、奇跡」と思いつつ、『空き席の奇跡』に喜びながら、当日券のチケットを買った。

さらに、繁昌亭の扉には『乙夜寄席』なる寄席が開催されるという張り紙がある。21時45分の開演で、東京で言えば『深夜寄席』と同じようなものだろうと思っていた。こちらに関しては、別記事にて詳細を記す。

『落語と講談』の開演時刻まではまだ余裕があった。私は一度近くのホテルにチェックインし、身軽になってから周辺を歩くことにした。

国道1号線沿いにはぽつぽつと店が並んでいるが、『天神橋2』と看板の掲げられた通りの賑やかさに比べれば僅かに劣るであろう。一銭焼きと言って、一枚が120円の鉄板焼きを食すことが出来る店や、天麩羅やうどん等、大阪の人々の小腹から大腹まで満たしてくれる店が立ち並ぶ。東京の定席に似ているのは新宿末廣亭が一番感覚的に近いであろうか。建物というよりも寄席の周りの雰囲気が、何となく新宿末廣亭に似ているように私には思えた。

何度通っても、賑やかな参詣道からひょっと脇道に逸れた場所に、静かで清楚な佇まいで建つ天満天神繁昌亭がある。すぐ隣に大阪天満宮もあるせいか、どこか品のある風格を漂わせている。特に提灯の灯が絶妙に良いと私は思った。日本人としてのDNAのどこかに、提灯に対して美しいと感じる感覚が備わっているのであろうか。そう思ってしまうほどに、建物にズラリと並んだ提灯と、その下に掲げられた『天満天神繁昌亭』の文字を見ると、美しいなぁという思いが沸き起こってくる。そして、その中で多くの人々が笑い、楽しそうに喜びを抱えて寄席を出て行くのである。

 

いざ、天満天神繁昌亭の中へ

チケットを切ってもらい、繁昌亭の中へと入る。中は鈴本演芸場のような格式高いカッチリとした雰囲気で、椅子も高級なのであろう、とてもフカフカで座り心地が良かった。何と言っても驚くのは、天井にびっしりと並べられた提灯である。繁昌亭の建設に出資した人達の名前が書かれた提灯がびっしりと、静かに温かい光を湛えながら天井に並べられているのを見て、思わず心の中で「おおお~」と驚いてしまった。これほどの数の提灯を見るのは、祭りのときくらいではないだろうか。

しばらく会場の様子を伺っていると、50代~60代の年配の方々が次から次へとぞろぞろ入場される。恐らく常連であろうお客様が「ああ、〇〇さん。何番ですか?」とチケットの座席番号を確認して誘導されている。どこの寄席に行っても、常連は前方の席に座ることを好むらしい。ちらっと聞こえたのは「わしはかぶりつき席やで」という嬉しそうな紳士の声だった。「わしの席は、何番やったかなぁ」とチケットと座席を見比べながら、自分の座る位置を探す人達。楽しそうに落語会の話をする人達。面白い婦人がいて、かかってきた電話に対して「これ、絶対間違い電話やわぁ」と言いながら、一度スルーし、しばらくして掛け直したときに「あんた、私に電話してきたの間違いやろ?そうやろ?」と言って電話を切り、隣の友人であろう婦人に向かって「やっぱり間違い電話やったわぁ。あの人、良く間違えるねん。抜けてんねん」と笑いながら話す。知り合いに会えば「まいど、まいど」、席を教えてもらったら「おおきに」と言葉を交わす。そんな言葉を聞いているだけで、私は今、大阪にいるのだなぁという気持ちになってくる。

旅をすると、長野に行けば長野県の名が記されたナンバープレートを良く目にするように、その土地に行けばその土地の名が記されたナンバープレートを良く目にすることで、その土地に来たという実感が湧く。同じように、大阪に行けば大阪弁を良く耳にするように、その土地に行けばその土地の方言を良く耳にすることで、その土地に来たという実感が湧く。その時に私の胸に沸き起こってくるのは、異国に来たのだという喜びと、同時に、自分の故郷の言語が自分に染みついているという事実である。

繁昌亭に入り、自分以外の殆どの人々が大阪弁で言葉を交わすのを耳にしながら、私はこの土地に深く根付く、上方の芸に心惹かれた。ゆっくりと目を閉じて耳を澄ませば、そこには温かい常連の人々の言葉がある。

これは推測であるが、旭堂南照師匠のファンの方が大勢いらしている様子である。また、講談そのものに魅了された人々が多い様子だった。

いよいよ、初めての繁昌亭で、落語と講談の会が始まった。

 

露の棗 つる

開口一番で出てきたのは露の棗さん。めくりを見ても『棗』という字が読めなかったのだが、棗さん本人が「これでナツメと読むんですよ」と言うと、会場からは「へぇー」とか「ああ~」という声が上がる。なかなかに反応が良い。

風貌は講談師の神田こなぎさんと林家やまびこさんを足して二で割った感じで、ベレー帽を被ったらジャイ子に似ていなくもない。ご飯をたくさん食べそうな優しく逞しい姿で演目を語る姿が朗らかである。どっしりとした芯の太い声で、大阪弁の語りでつるを聞く。冒頭は即座につるとは分からなかったが、髪結い床に行く場面からつるの演目であることが分かった。どこか陽気で、想像のつるも逞しく飛んでいる。初見のため、詳細な判断は出来ないが、これからの成長に期待。

 

 旭堂南照 おぼろの便り

万雷の拍手に迎えられて登場した南照さん。男心をくすぐる可愛らしい風貌の奥に、得体の知れない色気を漂わせている。『タッチ』に登場する浅倉南のような、純朴な乙女を思わせる風貌に心を奪われる。上杉達也と和也が心を奪われるのと同じように、南照さんの素敵な笑顔に完全にノックアウトされた青年が一名。思わず心の中で「貴美江師匠、すみません・・・」と謝りながら、じっと南照さんを見る。ゆっくりとした語り口と、柔らかく耳馴染みの良い声。まるで母親から子守唄でも聞かされているのではないかと錯覚するほどの心地よい声とリズム。時折ぺろりと口の周りを舌が動き、頬がぷくっと膨らむ様に、もう青年はドキドキが止まらなかった(どこ見てんねん)

柔らかい色気というのは南照さんの持つ独自の雰囲気であろう。聞く者が童心に帰って母の腕に抱かれ眠るかのような想像のまま、南照さんは4代目旭堂南陵師匠が創作されたという『おぼろの便り』を語り始めた。

冒頭から実に見事で、子守唄から物語が始まるのである。この唄の不思議なタイムスリップ感。久しく子守唄を聞いたことの無い私は、かつて母が私に歌ってくれた歌を思い出しながら、目を閉じた。客席では、懐かしむように南照さんの声に合わせて、心に染み込んだ子守唄を歌う人々の声も聞こえる。その声に耳を澄ませていると、あっという間に話の中へと入り込んでいく。

詳細は聴く者の楽しみを奪わぬために簡潔に記す。この物語は昆布講談とも呼ばれ、『昆布職人の親子の物語』である。一つの昆布を軸に、親と子の数奇な運命が語られる人情噺である。

開口一番の直後に人情噺を聞くと、少し感情に戸惑いがあった。人情話は基本的に最後に聴くというリズムに慣れていたためか、冒頭からの人情噺に驚き、妙にしんみりと話に聞き入ってしまった。南照師匠の声と語りの素晴らしさもあって、過去と現在が映画のように何度もカットバックし、親と子の姿が目に浮かんでくる。また、おぼろという言葉の響きも良い。

人間、誰しも過ちはある。それでも、その過ちをしっかりと受け止めながら、自分の腕を磨くことが、人が生きるということではないだろうか。そんなことを思わせてくれる、素敵な話だった。

 

林家市楼 お好み焼

いきなりの人情噺とは打って変わって、陽気でさらりとした風貌の市楼さん。思わず柳亭と亭号を書きそうになってしまうが、四代目林家染語楼師匠の実の息子さんである。私は「そめ~」と聞くと太神楽の海老一染之助・染太郎を思い出すが、全く関係は無い。

名前の通り「イチロー」に関係したマクラから、四代目林家染語楼師匠の創作『お好み焼き』を語り始めた。この話は簡単に言えば『お好み焼きの店主になった元・噺家の店で起こる珍事』という内容である。色んなお好み焼きがあって、課長焼きや部長焼き、テレビ焼きなど、元・噺家の店長が趣向を凝らした面白いお好み焼きが次々に登場するお話である。お好み焼きを軸にしたギャグの連発する話と言っても良い。

話が終わったかと思いきや、客席から市楼師匠がお題を取ることになった。印象深かったので覚えているのだが、『ショーケン』や『ジュリー』、『皇室』などのお題が出され、それに即興でギャグのお好み焼きを返す市楼さん。頭の回転の速さもさることながら、ギャグもなかなかの完成度で、客席は大盛り上がりだった。話のオチも華麗に決まって、爽やかな風の吹く面白い一席で仲入り。

 

旭堂南照 那須の余一

着物も新たに登場の旭堂南照さん。サクラ大戦に登場する帝国華撃団花組に、最後に入隊した真宮寺さくらを思わせる風貌で、語り始めたのは東京で言えば『扇の的』とも呼ばれる『那須の余一』。言葉の響きの凛とした雰囲気はそのままに、丁寧な解説を踏まえて源氏と平氏の思惑が交差する様が語られる。また、余一の境遇も丁寧に語られ、扇の的を射抜くことが出来なければ、そのまま海に飛び込んで死ぬという余一の覚悟。そして真っすぐな瞳と声が胸に響いてくる。

キリキリと弓を引き、扇に向かって矢を放つ那須の余一の姿の勇ましさ。矢を射抜く場面よりもむしろ、矢を射抜くまでの人々の思惑が交差する様に重点を置かれて語られており、よりくっきりと扇の的を撃つまでの背景が浮かびあがってきて、とても素晴らしい一席だった。

私はまだ、扇の的神田松鯉先生でしか聞いたことが無い。私にとってはなかなか巡り合う機会の無い噺である。南照さんの語りによって、それまで知ることの無かった余一の境遇を想像することが出来たことは、とても幸せである。

とても素敵な笑顔を見せた最初の一席から、真剣な眼差しで矢を射抜くまでを語る南照さんの眼。全てに凛とした力強さ、柔らかい色気が漂う語りであった。

いずれ再び聴く機会に巡り合えたら、その時もまた、私は心惹かれてしまうだろう。

 

 林家市楼 ねずみ

真っすぐに胸を貫くような南照師匠の演目の後で、市楼師匠はさらりと演目に入った。落語の世界では、スーパーヒーローである左甚五郎という彫刻職人が登場するお話で、水戸黄門長谷川平蔵中村主水等々、この人が出てきたらもう安心!と思えるほどの人物である。

この演目は簡単に言えば『左甚五郎が親子を救う物語』である。ふとしたきっかけで汚い宿屋に泊まることになった左甚五郎。そこで出会った宿屋の主人の話を聞き、木片に鼠を彫る。そこから物語が目まぐるしく動き出していく。

宿屋の店主が汚い宿屋に住まうことになった顛末を語る姿は、ほろりと涙を誘う。それを聞いた甚五郎が鼠を彫る心意気。店主のために一所懸命に仕事をする幼い小僧の姿など、随所に温かい心が流れている。

元は浪曲の演目で、二代目広沢菊春師匠が得意とされているネタである。菊春師匠と言えば『徂徠豆腐』や『甚五郎の蟹』など、人情噺が凄まじい。現代では澤孝子師匠へと受け継がれ、浅草木馬亭澤孝子師匠/佐藤貴美江師匠で聴く甚五郎の話は絶品である。

どこかファンタジーな雰囲気もありながら、甚五郎が彫り物に魂を宿す様に不思議な説得力がある。オチは軽やかな笑いに包まれて、穏やかな気持ちで終演。

 

総括 御披楽喜

繁昌亭を出ると、すっかり外は暗くなっていた。それでも、建物に掲げられた提灯の灯が温かく建物を照らしている。帰る人々を見ていると、私と同年代の若い人はいなかったのではないだろうか。誰もが口々に「ええ話やったねぇ」とか「やっぱりおもろいなぁ」と語る声が聞こえる。あまり東京では口を出して人々の感想を耳にすることは無いが、大阪の人々は言葉で感想を述べあうことを常としているようだった。人と人との意思の疎通に、言葉という力強い手段が今も強く根付いている。『語らない優しさよりも、語る優しさ』を優先するのが、大阪に住む人々の思いなのかも知れない。

近くの『だるま堂』でうどんを食しながら、私は胸のぬくもりを感じた。ところ変われば品変わる。場所が変われば、そこに息づく人々の思いもまた異なる。素敵な場所に立つ、素敵な笑顔に溢れた天満天神繁昌亭。時計を確認しながら、上方への熱の冷めない私は、次なる会、乙夜寄席までの間に、うどんを啜るのであった。楽しさと喜びで心を包みながら。

イッパチ/怒りの投擲~2019年5月19日 三遊亭笑遊独演会~

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上がった 上がった 上がったぁ ◎◎が上がったぁ~

 

 地獄はあいつにとって故郷です

 

奴は大金を得られるなら地獄にだって行きますよ、武器も持たずにね

-Apache- Incredible Bongo Band

大佐から手紙が届いた。大佐の命令は絶対である。否、命令などでは決して無いし、強制参加でも無ければ、むしろ自由参加の会だが、私は大佐からの手紙を見た時、即座に「行きまっさー」と心に決めた。ここからの記事は上記の中タイトルの楽曲を聞きながら読むことをオススメする。

大佐のコードネームは”SHOW YOU"、日本では笑って遊ぶと書いて"笑遊"である。寄席にロケットランチャーと拡声器を持ち込むことなく、大爆笑のロケットを放ち、大音量で叫び声をあげ、寄席の客席を一瞬にして笑いの焼け野原と化す男。人呼んで『落語界のマッドマックス』であるが、この度、私は新たなる呼び名を考えた。

それは『落語芸術協会のジョン・ランボー』である。

ただ飯を食うためだけに店に入ったにも関わらず、偏見の塊のような警察官にケチを付けられ、警察署へと連行されたジョン・ランボーは、保安官が向けた髭剃りを見てかつての戦争体験を思い返し、保安官を次々と殴り倒して山へと逃げ込む。

ただ寄席で爆笑を巻き起こすために高座に上がったにも関わらず、客席の静まり具合に納得が行かずにマイクを握り、自らの両足をバシバシと叩きあげながら、「盛り上がってるかぁああ!!!お前らぁああ!!!」とばかりに絶叫の雄たけびを上げ、落語の演目をその都度思い返し、観客を次々と笑わせた後で袖に消えて行く。

二人は同じである。ジョン・ランボー三遊亭笑遊と言っても過言ではない。

ランボーは「この山では俺が法律」と言っているが、笑遊師匠は「この会では俺が法律」と言っていないが、殆どそんな空気なのである。

そんなアパッチ(ならず者)な笑遊師匠から独演会の手紙が届き、上方から名人候補の桂福丸さんまで出演されるというのだから、行かない訳が無い。ランボー、すなわち笑遊師匠がどんな怒りの脱出を決め、怒りの阿保銃(アホガン)をぶっ放し、爆笑の戦場で、誰が最初の血を流すのか、必見である。

 

 三遊亭あんぱん 英会話

開口一番は急遽、四番弟子になったあんぱんさん。詳細は書かないが、とりあえず笑遊大佐の四番弟子で、戦場だったら鉄砲玉の位置だが、奇跡的な幸運の連続で生き延びそうな風体。前回の独演会で見た時は、『戦場に出たら真っ先にお陀仏』だろうと思っていたのだが、凄まじい進化を遂げ、二等兵並みの実力を身に付けていた。その裏にはコードネーム"Z S"、日本では寿に車甫と書いて”寿輔"の存在があり、寿輔大佐の入れ知恵もあって、会場は大盛り上がりの大爆笑に包まれた。照れくさそうに微笑みながら勝利を噛み締めるあんぱんさんの、何とも言えない嬉しそうな表情を見ていると、『表情は鏡』という言葉通り、こちらまで笑顔になる素敵な高座だった。あんぱんさんもランボー予備軍で、ただ道を歩いているだけで保安官にケチを付けられそうではあるが、そんな保安官を蹴散らすほどの爆笑の一席を見せつけた。これはひょっとすると、ひょっとするかも知れない。笑遊大佐と寿輔大佐のエロスと情熱を受け継いで、戦場にピンクの大砲をぶっ放す日が、いつか来るかも知れない。その時は心して打たれて欲しい。あんぱんだけに、安心して欲しい。(・・・)

 

三遊亭金かん 道具屋

三遊亭金遊師匠の二番弟子で、歌舞伎俳優のような端正な顔立ちと、痺れるくらいに落ち着きのある声の金かんさん。こちらはランボーとは打って変わって、スマートな顔立ちは正にライアン・ゴズリング並みのルックス。『きみに読む物語』の意味が変わって来てしまうほどの、落語の語りによってお風呂場で頭をごしごしされているかのような、心地の良い語り口。きっと女性だったら思わず『シャンプーされたい。頭ごしごしされたい!』と思ってしまうこと間違いなし。

そんなライアン・金かんさんは『正義を売った日』ではなく、『道具を売った日』を演じられる。一度落語の世界に入ると、表情は正に『ドライヴ』のライアン・ゴズリング。思わず頬杖を付いてしまうほどの色っぽい間抜けさ。

一体この道具屋の『幸せの行方・・・』はどうなってしまうのか。笑遊大佐の下でどんな変化を遂げるのか、見果てぬ『ラ・ラ・ランドへの道へ。乞うご期待。

 

三遊亭笑遊『たがや』

正直、ネタ出しを確認していなかったので、『たがや』をやると笑遊大佐が言った時は血が滾った。落語好きにはお馴染みだが、そうでない方のためにご説明すると、この話は簡単に言えば『たがやが侍三人の首を刎ねる』という話である。これは下剋上のような物語であって、花火に掛けて首を刎ね上げる最後の場面が秀逸である。私は最後の首を刎ねるシーンに辿り着くと、どうしても第一作『キングスマン』のある場面を思い出してしまうのだが、そんなファンタジックで爽快な場面の連続する話である。

もしも容易に『たがや』を想像したい場合、それに近い場面と言えば第一作キングスマンの教会でハリー・ハートが暴れまくる場面を見れば良い。

私の頭の中には、はっきりとたがや無双の場面が染みついていたので、笑遊大佐のネタ卸しでも、痛快な気分を味わうことが出来た。むしろ、素晴らしいのは、あれだけの齢を重ねてもネタ卸しに挑戦する意気込みである。まだ未完成ではあるけれど、今後口馴染み、あの爽快なぶった切りの場面が流暢な語りで再現されたら、そう思うと、ゾクゾクが止まらないのである。どうか長生きして欲しいし、一度でいいから笑遊大佐の本域の『たがや』を見てみたいと思う。

笑遊大佐の素晴らしさは、ネタ卸しの完成度など抜きにして、独演会という場における観客全員の熱気で演目が作り上げられるところである。観客にとってみれば、ネタの完成度などもはやどうでも良くて、笑遊大佐が一所懸命に覚えた話を、何とかして苦労しながらも語る姿に心惹かれ、魅せられているのである。それは、決して観客からの押しつけがましい『凄いもん見せてくれるんだろう?』という気持ちではない。それとはまったく異なる位置で、そこに立っているだけで士気が高まる、そんな雰囲気を持っているのである。

どんなに劣勢の状況にあっても、その人がいるだけで状況が盛り返すということが戦場では多々ある(行ったことないけど)。ガンダムで言えばヘルベルト・フォン・カスペンであり、もちろんナポレオン・ボナパルトでもあるのだ。たとえ島流しにあっても、その偉大なる功績と佇まいは観客の心をくすぐり、笑いを巻き起こすのである。嘘だと思うならば一度出会って見ると良い。独演会に行けば、その偉大さが分かる筈である。

杖を付きながらも、必死になって高野山を登り、周りの大勢の人々に支えながら頂上に到達するかのような一席だった。

 

 桂福丸 寝床

お初の落語家さん。風貌はいかにも秀才と思えるが、どこかほんわりと、柔らかな語り口。それでも、端正に積み重ねていく言葉と間。客席からの声にも怯むことなく、自らのリズムを崩さない芯の太さ。そこから演目へと流れる。

割とあっさり目の語り口ながら、爆笑をかっさらっていくスタイルは、笑福亭たまさんに雰囲気が近い感じがする。だが、まだ初見であるため詳しい判断は付かない。いずれにせよ、個性が滲み出る『寝床』の演目は、笑遊師匠のお客様にも見事に受け入れられていたように感じられた。

笑遊師匠曰く次の名人候補とされる福丸さん。もっと他の演目を見ないと何とも言えないが、淀みの無い語り口と、カッと見開かれた眼が素敵な落語家さんだと思った。最期はお決まりのオチで仲入り

 

 鏡味 味千代 太神楽

長らく私は太神楽を大神楽と誤って記載しており、正直、物書きとして大変申し訳ないと思った。同時に、同じような体験をしたことが一度だけある。

皆さんもご存知かも知れないが、May J.という人がいる。私は今までずっとMay Jだと思っていたのだが、どうやらMay J.であるらしく、それを教えられた時は、鳥肌が立つほど驚愕し、なぜ今まで見えていなかったのか、愕然とした。

お分かりで無い方のために、敢えて大文字で書くが、

 

 ×  May J

 〇 May J.

 

お分かりいただけるであろうか。この小さな『.』これが付くと付かないとでは大違いなのである。May J.ファンに「May J」と書こうものならば、顰蹙を買ってしまいかねないので、May J.をお使いになる方は注意して欲しい。

さて、反省はこの辺にして、お馴染みの太神楽である。もう幾千回も見たので、よほどの新技が出なければ興奮しない体になったが、今回は客席の美人の「おおおお!!!!」とか「え、どうやんの、どうやんの」とか「うっそぉおお、無理だよ~」みたいな掛け声もあって、ミラー効果とでも言おうか、別の意味で興奮した(キモッ)

自分一人では興奮しなくても、他人によって興奮することは多々ある。素晴らしい新技の披露で、胸も高鳴る素晴らしい太神楽であった。

 

 三遊亭笑遊 愛宕山

再び戦地に舞い戻ったランボー・笑遊大佐。まだ聞いたことの無い人の楽しみを奪いたくないので誇張して書くが、笑遊大佐の『愛宕山』は、『ランボーmeetsフォレスト・ガンプ』な内容である。はっきり言って読者は怪訝な表情をされているかと思う。だが、あまりにも多くの描写があるため、それを丁寧に解説していたら完全ネタバレになるので、徹頭徹尾、誇張して書くことにする。

まずは、物語には金持ちの旦那、幇間の一八、シゲゾウが登場する。金持ちの道楽に付き合わされ、山登りをするシーンは、哀れみと感動が同時に押し寄せてくる名場面である。また、この時は客席の話へののめり込みっぷりも凄まじく、旦那の後を追う一八が険しい山を登る場面で手拍子が起こった。一八は『奴さん』を歌いながら山を苦しそうに登る。客席からは「頑張れー!もう少しだー!」という掛け声がある。

この一体感。独演会でしか味わえない熱狂ぶりに私は感動してしまった。芸は演者と観客が作るというが、まさにその一つの到達点を、私は笑遊大佐の山登りの場面で感じたのである。

私の脳内には、赤いキャップを被り、シャツをズボンにインしたガンプの走り出す場面が浮かび上がっていた。ちょっと横振り気味に両腕を振り、ただひたすらに走り続けるガンプ。ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』 が流れ始め、走る姿を見た者の誰もが魅了される。心の中で私は叫んでいた。

 

Run!!! 笑遊!!!  Run!!!

 

人はなぜ走るのだろうか。

人はなぜ山を登るのだろうか。そこに理由は無いのかも知れない。

ただ走る姿を見るだけで、ただ山を登っている姿を見るだけで、涙が零れてしまいそうになるのは、そこに言葉にならない何かがあるからだろう。

いじめられっ子のフォレストが、同級生の乗った車に追いかけられる場面が『フォレスト・ガンプ』という映画にはある。その場面もフラッシュバックしてきた。なぜだかは分からないけれど、人が一所懸命に走る姿に感動したことのある人ならば、きっと笑遊大佐の『愛宕山』の一八の山登り場面は印象に残るだろう。

一八とシゲゾウが頂上に辿り着いたとき、会場は万雷の拍手に包まれた。こんな独演会、見た事ない。ここまで話に入り込ませてしまう笑遊大佐の人柄。これは話芸だとか技術云々の話ではない。この場に集まった誰もが笑遊大佐の話に夢中になっているからこそ起こる、一つの奇跡だと私は思った。これだから独演会は止められない。自分と同じように、一人の落語家に心を奪われた人間が何十人といる空間。

私は思う。

 

こんな幸せな空間は、世界中どこを探しても、今、この瞬間にしか無い。

 

頂上へと辿り着くまで、完全に『フォレスト・ガンプ』を見せられていた私は、次に『愛宕山』と言えば、名場面の『かわらけ投げ』の場面である。

この辺りのやり取りで、徐々にヒートアップしてくる旦那が面白い。最後に強烈な場面も描写されて、私はそこが一番好きなのだが、敢えて書かない。

やがて銭を投げ始めた旦那を見て、一八は金に目が眩む。このどうしようもなく愛すべき存在、一八。金を得るために愛宕山の山頂から傘一本で飛び込もうとするがビビる姿が面白い。なんて哀れなんだろう。この愛すべき哀れみに涙が零れそうになりながら、愛宕山の頂上から落ちて行く一八。目当ての金に思考が奪われ、帰還することを一切考えない無鉄砲さ。それでも逞しく縄を作る場面になってようやく、ランボー・一八の登場である。幇間という稀有な商売に付きながら、心くじけることなく金に貪欲な一八。誰が言ったか忘れたが『どん底から見上げた空は青い』。たとえ気の合わない相手であっても、時間を割いて自らの私腹を肥やす幇間の心持ち。その雑草のような力強さに、私も時代が違えば幇間として身を終えたかったと切に思う。人に合わせ、人に尽くすことで生き残る姿には、哀れみの中で力強く生きる者の光がある。

オオカミの恐怖に怯え、旦那とシゲゾウへの怒りに燃えた一八の怒りの投擲によって、撓る竹。そして勢いよく愛宕山の頂上へと飛んでいく一八。落語の中でこれほどダイナミックでおかしみのある場面が他にあるだろうか。

そんな怒りの大跳躍の後で、まさかまさかの哀しみのオチ。近頃、「落語は哀しい」という有名な落語家の言葉を目にしたが、その哀しみが笑いへと昇華される瞬間の、何ものにも代えがたい幸福を味わいながら、大笑いによって熱くなった頬と、腹と、胸と心を感じ、私は笑遊大佐の一時間にも及ぶ大熱演を見終え、思った。

 

最高だ。笑遊師匠!!!!

 

お江戸上野広小路亭の階段を下りて行くとき、誰もが口をそろえて「とても面白かったです」と言っていた。私も同じ言葉を笑遊師匠に言った。

最高だった。あんなに素晴らしく、ド派手で、爆音の『愛宕山』は初めて聞いた。私にとっては、三遊亭笑遊師匠は名人です。令和になっても、長生きしてください。

熱狂の『愛宕山』を聞き終えて、私は京都の愛宕山を登ってみたいと思った。かわらけ投げもしてみたいと思ったが、調べたところ、京都の愛宕山ではかわらけ投げは出来ないらしい。ならば銭でも投げようかな(ジョーク)

熱く、燃えるような三遊亭笑遊師匠の独演会。何度来ても、爆笑に包まれる会場。

次は一体どんな落語を見せてくれるのだろう。楽しみでならない一夜だった。

カエスガエス・ヒンスドンス~2019年5月14日 隅田川馬石・古今亭文菊 二人会 古典でござる~

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返す返すも貧す鈍す

 

扇子巻子が好かん酔漢

 

 萬子筒子に索子信ず

 

金糸銀糸に近視禁止

タレソカレソノタソガレガシー

綻びたとて傷にもならぬ、そんな約束を破られて一人。ぽつりぽつりと街角に、隠れるように歩きながら、何から身を隠そうとしているのかも知らずに、伊賀も甲賀も分け隔てなく、心は破られた約束に対する腹立たしさを耐え忍びながら、歩を進めよと身体に告げている。

小手先三寸で待ち望んでいた約束を相手に破られると、どうにも相手に対して自分が軽んじられていると思う。相手のために取った時間も、相手と会おうという思いも、相手と会ってどんな話をしようかという夢想も、全てが軽く扱われているような気がしてくる。そんな生半可な思いで、私は相手のことを思ってなどいないし、約束はしていないのだ。叶わぬ約束ならば、最初からしない方がマシなのである。振らない竹刀は持たない方が良いのである。

折角、朝から私が未発見だった世界の扉を、幾つも幾つも開かせる情報を教えてくれる素敵な方からとても嬉しい情報を頂き、何とか手を伸ばして掴んだ芽を、咲くかどうかも分からないが、咲くことを待ち望み、ただ信じたいと願う幸福な気持ちであったのに、前々から約束していた素敵な芽を踏みにじられると、もう何とも言えない憤怒の念に駆られ、激しい憎悪とともに憤懣遣る方ない気持ちになり、どうにか解消して霧散させたいという衝動のまま、演芸会に行きたくなる。どうにも、一人では消し切ることの出来ない怒りの炎は、優しくて温かい演芸のぬくもりが、ゆっくりとゆっくりと、火力を弱めてくれる。そして最終的には弱火でコトコト、黒豆茶を煮ることになるのである(何の話ぞ)

素敵な二人会があって、今日はこれに行こうと決めていた。

隅田川馬石師匠は、私にとって『まっつぐに外れて行く人』という印象がある。少々矛盾した言葉かも知れないが、詳細に語るとしよう。

本人は至ってまっつぐに、誰よりもキラキラとした瞳を輝かせながら、まっつぐにまっつぐに進んでいるのだけれど、それが客席から見ていると、徐々に徐々に曲がっていくような感じ。アハ体験のように、気づかないうちに景色が変わっているまっつぐさと言えば良いだろうか。野球で言えば、最初は直線なのだけれど、キャッチャーのミットに辿り着くまでに、殆どミットに収まるまで気が付かない角度で曲がって行っている感じ。その僅かな曲がり具合に、客席はどっと沸いているように思える。でも、まだ馬石師匠の言葉を上手く表現できているかは分からない。それでも、私のささやかな馬石師匠の落語体験から言わせてもらうと、そんな感じである。

古今亭文菊師匠は、『まっつぐが輝いている人』という印象がある。もう何度も見ているので、様々に言い表す言葉が見つかってはいるのだが、敢えて馬石師匠の印象に近い言葉から文菊師匠を表すと、そんな言葉が生まれてくる。

本人の意識無意識に関わらず、まっつぐをただまっつぐ歩いているだけで、客席は魅了されてしまう。それは持って生まれた品格もそうかも知れないが、何よりもその品格に胡坐をかくことなく、一切淀みの無い語り口で物語を語る様こそが、文菊師匠のまっつぐが輝く大きな要因になっていると思う。

アハ体験というよりも、ライブ・ペインティングでどんどん絵が荘厳になっていく様を見ているような感じ。野球で言えば投球フォームからキャッチャーのミットにボールが収まるまでの弾道の全てが、金色の輝きを放ち、十回に七回はキャッチャーを球場の外まで吹っ飛ばしてしまうような、そんな素晴らしい落語をされる。

そんな二人のコントラストが楽しめる会なのだから、楽しくない訳ないじゃない。

 

柳家小はだ たらちね

前座さんの中では結構会う確率が多い小はださん。色んな会で重宝されているのか、漫画に出てきそうな素朴な佇まいと、飾り気のない独特の雰囲気を持つ前座さん。鉄板の『妻の旅行』で寄席の爆笑をかっさらう柳家はん治師匠門下の二番弟子。一番弟子はふんわりとした雰囲気が妖精のような柳家小はぜさん。柳家のどっしりとした土着的な雰囲気はそのまま、目の前のことに一所懸命な小はださんの姿が好印象。

前座さんのお話で会場の雰囲気が良く分かるのだが、比較的良くお笑いになるお客様が多い様子。客席の反応が良いとわかりやすく調子の良くなる小はださん。芸は演者と客席が作るものだと思いながらも、その素朴で真面目そうな雰囲気が落語に合っている小はださんの語り口。これは合う合わないの話だけれど、春風亭朝七さんという稀代のスーパー前座の陰に隠れてはいるが、確実に二つ目としての実力を備えつつある小はださん。これは予想だが、いずれ『柳家小はだ・春風亭朝七 二人会』が開催されてもおかしくない。もちろん、その時には名前も変わっているだろうと思う。

前座さんの話題が続くが、女性では目を引くほどの美しさを持つ金原亭乃々香さんは、恐らく春風亭一花さんと同じような『親父殺し路線』を走るだろうと思われるし、林家やまびこさんや林家きよひこさんや三遊亭ごはんつぶさんは新作派でドカドカ行くだろうし、春風亭朝七さんと柳家小はださんは古典好きな太客に愛されるだろうし、春風亭枝次さんや春風亭一猿さんは独自の路線を突き進むだろうと勝手に予測している。

いずれにせよ、今の前座界にも類稀なる未来の名人が潜んでいることには間違いない。一体、どこで化けるのか。とても楽しみである。

 

古今亭文菊 千早ふる

とっても温かい会場に登場の文菊師匠。客席を探りながらも、安心した様子で馬石師匠のことを語りながら、客席との距離をグッと縮めて演目へ。

浪曲が差し挟まれる場面は絶品で、江戸資料館のホールのおかげもあり、心地よく胸に響いてくる文菊師匠の声。300人ほどの小劇場全体に、これでもかと艶やかなハリのある声が響くと、一瞬「オペラ?」と勘違いしてしまう。心奪われてしまう美しい声と、眩いばかりに輝く高座。落語じゃなくて歌と踊りでも十分満足できるほどの美声で会場の美しいご婦人方をうっとりさせ、最後は可愛らしくオチ。

たとえ知ったかぶりをしていても、隠居の可愛らしさと八五郎の真面目さがとても面白い。段々と知ったかぶりの状況を勢いで抑え込もうとする隠居の調子が上がってくるところも素晴らしい。「いよーっ」とか、「千早ふるぅ」の言い方、声の強弱が会場に見事に合致しているように思えた。声の響きは会場によってもまるで違うのだな、と思った。

同時に、お客様がとにかく笑う。これでもか、これでもか、というくらいに笑うので、久しぶりに良い会だなぁと思った。耳を立てていると初めてのお客様も多い様子である。

素敵な美声に酔いしれた一席だった。

 

隅田川馬石 品川心中

ゆったりと登場して高座に座り、カッと目を見開いて客席を見る馬石師匠。たとえ遠くから見ていてもはっきりと分かる眼の開き。前列には馬石師匠と言えば!のご常連さんも座しており、馬石師匠の心境や如何に。

マクラの内容は詳しくは書きませんが、文菊師匠のこと、義太夫のお話。おっと、寝床かな?と思いきや、吉原の話になって、まさか文菊師匠が『お直し』をリクエストか!?と思いきや、演目へ。

さらりと場面説明を語りながら、スッと女郎のお染に焦点が当たる。落ちぶれて心中を企てるお染の姿が、まるで『夢見る少女』のような純粋さである。グッと客席が話に入り込んでいたのだが、思わぬところで携帯が鳴ってしまった。一気に会場の空気感が現実に戻ったのが如実に分かる。うーん、大事なところだったのだがぁ。と思うのだが、特に触れることなく話を続ける馬石師匠。携帯の電源をお切りくださいますよう、お願い申し上げます。

夢見る少女の純粋さで心中を決意したお染さん。金蔵が心中を決意する場面は驚くほどあっさりとしている。「はい、言ったね。言いましたねー」というような、金魚掬いでもするかのように、鮮やかに金蔵の言葉を拾ったお染さんの、ヤバイ女感が漂い始める。どうにか雰囲気も持ち返して、カミソリを互いの首に当てるシーンは緊張と緩和があって面白い。本気とも冗談とも付かないお染の行動に振り回され、川へと突き落とされる金蔵の哀れさ。そして、お染の心変わりの速さが面白い。当人でないからこそ笑えるのだが、金蔵の立場だったら大変である。

太宰治の言葉であったか、『貧すれば鈍す』という言葉にもあるように、落ちぶれた女郎が心中を考えるに至る過程には、盛りを過ぎた女の『貧』があるように思う。くしくも『貧』は『品』とも音が合う。貧すれば品を失する。鈍した思考は愚にも付かない男を心中相手にしようと思い至る。そこに悲壮感はない。以前に小満ん師匠で聴いて以来久しぶりの『品川心中』であり、実に七か月ぶりであるが、通底するのは死すらも粋と見做す人々の意志である。

当時の人々にとって心中とは『粋で色っぽい』ことであったのかも知れない。愛し合った二人が冥途で添い遂げる。その行為自体を美徳化していた時代もあったのではないだろうか。だからこそ、心中という悲愴さを感じさせる言葉であっても、どこか羨望の眼差しで見てしまう明るさが、『品川心中』には表れているのではないか。

故に、あっさりと心中を止めてしまうお染の冷酷さが私は少し怖い。女心は秋の空とでも言おうか、心変わりの速さは面白いのだが、現実世界でやられたら困るな、と思う。同時に、この会に参加する前に約束を破られた私も、きっと秋の空の変わりように心を乱されただけなのかも知れないと思った。

繰り返される貧によって鈍した金蔵の愚行。金蔵はお染に振り回され、お染は時の流れに振り回され、お染に振り回された金蔵は親方を振り回す。親方の周りにいた若い衆は金蔵に振り回される。色んな人々が、色んな貧を体験し、それぞれに鈍していく。その様の繰り返しの中に、人間の言いようの無いおかしみが籠っているように感じられる。たとえ貧して鈍したとしても、ほんの少しのおかしみで全ては乗り切っていけるのではないか。そう単純なことではないけれど、そんなことを感じた一席で仲入り。

 

隅田川馬石 反対俥

何が馬石師匠を駆り立てたのか、寄席で十八番の『反対俥』。この話も考えたら久しぶりに馬石師匠で聴く。馬石師匠の寄席話と言えば『元犬』と『反対俥』は是非見てほしい一席である。どちらも馬石師匠らしさ全開である。

会場のセットも横断幕も舞台も全てマラソンの舞台そのもので、目の前には箱根の山が見えており、沿道に集まった人々の誰もがマラソンなのだろうな、と思っていたところ、肝心の走者が開始の合図と共に猛ダッシュで100mを走り切り、沿道に集まった聴衆に向かって「実は短距離走でした!」といって、そのまま「ですから!短距離走だったんで!100m走だったんで!」とひたすらに言い張るような反対俥だった。

時間さえ許せば、マラソンの反対俥も見たかったのだが、恐らく時間も押していたのだろう。あっという間の反対俥だったが、そこは馬石師匠らしさで見事にカバーしていたし、ちゃんとドラム缶も飛んだし、上野の駅は通り過ぎたので安心の一席(何が安心なのだろうか)

 

古今亭文菊 質屋蔵

何よりも面白かったのは、馬石師匠の高座を見終えた文菊師匠の一言。これは敢えて書かないが、文菊師匠の一言に私も「確かに」と笑いながら頷いてしまった。爆笑に呑まれ温かい雰囲気はそのまま、菅原道真公の話から演目へ。

シブラクで見た時よりも、会場の雰囲気もあってか僅かにテンポが早い気がした。時刻も21時の15分前だったので、恐らく時間も押していたのだろう。それでも、テンポの速さは淀みの無い語り口に支えられ、またホールに響き渡る心地の良い声とともに、何度聞いても面白い場面の応酬で、最期まで全く飽きることなく聴くことが出来る。

これで文菊師匠の質屋蔵は三回目。もしかしたら質屋蔵の強化週間?なのだろうか。相変わらず幽霊にビビる番頭さんが話す『質屋に溜まる怨念話』は面白いし、ずる賢い定吉は冴えているし、勘違いする熊さんは憎めないし、自分の策にビビる番頭さんも情けないけど、まっつぐで面白い。

質屋蔵の一席は面白い噺の短編集のようだと思う。オー・ヘンリーとか志賀直哉辺りが書きそうな、どこでお時間が来てもスパッと切れる一席だが、前半に仕込んだマクラが最後に効いてくるという趣向もあって、かなり練られた話だと思う。

文菊師匠の絶叫も、広いホールだと美しく響く。静かで、どこかファンタジックで面白い一席で終演。

 

 古い時代に記された物語の、新しい二つの語り口

馬石師匠のお餅のようにもちっとした柔らかい雰囲気と、文菊師匠の刀剣のようにスパッとした鋭い雰囲気が混じった不思議な会を堪能した。

千早ふるの一席でスパッと胸を切られた後は、品川心中でがっつり柔らかくて太く弾力性のあるものを飲み込み、反対俥できび団子をスッと茶で飲み干した後、爽快にバッサリと質屋蔵で切られる。そんな『刀剣茶屋』みたいな異種?な雰囲気が心地よかった。どこか馬石師匠は甘味、文菊師匠は塩味のような感覚があるんですが、読者の皆様はどうなのでしょうか。

たとえどんなに時代を経ても、色褪せることのない遠い過去の時代に作られた物語を、今、現代に生きる二人の、とびきり個性的な二人の落語家が語る。二人会の素晴らしさは、それぞれの微妙な差を感じられるところかも知れない。どちらが優れているとか劣っているということは一切ない。それぞれに、それぞれの持ち味を表現しているから、素晴らしいのだと思う。

そんな二人会で、今大注目なのは『春風亭百栄師匠と柳家はん治師匠』の二人会なのだけれど、うーん、どうすっかなーーー。

化学反応と言えば化学反応で、二人会によっては『混ぜるな危険!』も有り得ると言えば、有り得るのだけれどもね。

二人会の楽しみにも目覚めてしまいそうな、そんな一夜だった。