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君の思い出に縋る雨の日~2019年5月24日 天満天神繁昌亭 乙夜寄席~

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 1000円札の肖像だけ、かなりの酔っ払い

 

電気を消して

 

虎ちゃんのためや

読みまちGuy

信じてもらえないかも知れないけれど、本当のことだから話す。『落語と講談』のチケットを買う時に、私はちらっと『乙夜寄席』のチラシを目にしていた。チケット売り場で買えると思い、中の人にチケットを求めようとしたが、うっかり『乙夜』という漢字の読み方を見過ごしていた。何となく横に『つや』という文字があったように思ったので、口ごもりながらも「あの、21時30分に開演の、おつやぁ、寄席・・・」と言ったところで恥ずかしくなり、扉に貼ってあるチラシを確認し、はっきりと『いつや』という読み方を見てとり、「ああ、あの、いつやよせのチケットって買えますか?」と尋ねると、係の人が「乙夜寄席でしたら、21時15分頃にチケットを販売いたしますよ」と教えてくれた。思いっきり読み間違えて『乙夜寄席』が『お通夜寄席』になるところであった。

だるま堂でうどんを食しているとき、ぼんやりと繁昌亭に集った人々の事を考えていた。随分と年配の人が多くいたので、若者にはあまり注目されていないのだろうかと思った。東京の深夜寄席のように、末廣亭の前を通り過ぎる人が「何ここ?歌舞伎でもやってんの?」とか「あれじゃね、漫才のやつっしょ」というような言葉も聞こえては来ない。

少し残念だなぁ、と思って天満天神繁昌亭の前に再び行くと、行列が出来ている。それも、若い女性や男性、仕事帰りであろうスーツを来た男性などが並んでおり、私の心配は嬉しいことに消え去った。そうか、深夜の方が若い人が集まりやすいのだな、と思った。初めて訪れたので、繁昌亭の界隈にどれだけのビルが建っていて、どれだけの人が勤めているのかは分からない。それでも、大勢の、少なくとも80人近い人々が、体感的に集まっていたように思える。そして、いずれも若い人たちで、随分と活気があるように感じられた。どの寄席にも、一定数の若い人は集まってくるようである。

再び繁昌亭の中へと入る。大学生らしき人々の会話から察するに、吉の丞という落語家さんが注目されているようだった。

 

笑福亭呂好 ¥の縁(くまざわあかね 作)

開口一番は写真とは違って、結構丸坊主の呂好さん。柔らかくも溌溂とした語り口で、フラフラっと語り始めたのはお札に纏わる話。この話は簡単に言えば『お札の肖像となった人達の飲み会』の物語で、音頭取りに福澤諭吉が登場し、歴代のお札の肖像となった人々が登場する。個人的に面白いと感じたのは、1000円札の肖像となった野口英世夏目漱石がやたらに酔漢であるところ。1000円札が1万円札に憧れている部分が非常に面白かったのと、夏目漱石の作品に纏わる細かいネタがふんだんに盛り込まれていて、夏目漱石好きならより一層楽しめる内容になっていた。

どんな飲み会でもそうだが、日ごろ、何かと不満を持っている人々が酔った勢いで愚痴を言うのを聴くのは、なかなか面白いものである。いわゆる『本音』と『建前』というやつで、これは笑福亭福笑師匠が現在進行形で表現されている、『本音の面白さ』の部分が演目にも共通している。福笑師匠の『憧れの甲子園』のように、酔っぱらった高校野球の監督が、理想と現実のギャップを本音を吐き出すことで、痛快に叩き切って行く部分が、呂好さんのお札の肖像達にも共通しているように思った。

私自身もそうだが、情けないというか、人間の業というか、お酒の力に頼らねば吐き出せないことは幾らでもある。酔った時の心地よさに任せて、自分の心に溜まった濁りのようなものを、一気にぶちまけるのは『心の不純物』を取り払う良い行為だと思う。誰しもが良い人間であり、理想に生き、人の優しさの純粋性を貫く尊い考えも勿論、あって然るべきであるし、正しく生きること、人間の性善説を尊ぶ一方で、その理想に真っ向から懐疑の念を抱き、自らの本性に忠実に生きて、理想を打ち砕くような毒気をぶちまける行為もまた、一つ、側面として存在して良いと私は思っている。何も分け隔てることなく、あるがままを受け入れることが、落語を楽しむ手っ取り早い方法なのかも知れない。善悪の二元論から、善悪も無く、全ては無為自然であるという考えへの移行。それがマイナに転じるか、プラに転じるかは分からない。けれど、私は『¥の縁』を聞いて、人の持つコンプレックスが、絶対に抗えない札としての階級分けが、人に影響を強く及ぼすのだろうと思った。実社会において、1万円札になるか、1000円札になるか、なんてことは分からないけれど、令和になるのだから、その辺りを考えないと、どうにも平静を保っていられない。

 

桂しん吉 茶漬間男

異様に顔が怖く、さらしを巻いてドスを懐に忍ばせていそうな顔つきのしん吉さん。『しん』と名の付く人で、詐欺師のような表情(褒め言葉)をしている林家しん平さん然り、怖い顔の人には面白い人が多い(個人比)

普段は鉄道落語を主としているらしいのだが、今回は呂好さんのトリッキーな新作を受けて、古典落語をやることを決意されたらしく、話題は間男の噺。お馴染みの『冷蔵庫殺人事件』と私が勝手に呼ぶマクラから、これはひょっとして『紙入れ』かなと思いきや、もっと内容的にエロスな『茶漬間男』へ。

この話も、何でこんな話があるのかと不思議に思ってしまうくらい面白い不倫の話で、時代のおおらかさを感じるのだが、内容は『茶漬けを食う旦那。その旦那の奥さんと不倫する男』の物語である。なぜ茶漬けなのかは分からないが、江戸の『紙入れ』は奥さんにそそのかされた貸本屋の男が、奥さんとの情事の寸前に旦那が家に帰ってくる。ところが、『茶漬間男』は、旦那が茶漬けを食べている二階で、間男が旦那の奥さんと事に及び、そのまま気づかれずに去って行くのである。旦那の間抜けさも去ることながら、私の頭の中では「わざわざそんなことするっ!?」と思ってしまうほど、大胆に二階で事に及ぶ男女の姿が想像され、茶漬けを食いながら、「お盛んやなぁ」みたいなことを言う旦那の間抜けっぷりがとても面白い。

何かと昨今は芸能人の不倫やら、浮気がニュースとして取り上げられているようであるし、世間一般的にも『不倫はダメ、絶対』という風潮でおおよそ統一されているようである。もちろん、物語として、自分の生活に影響のない範囲で不倫の話を聞くのは面白い。だが、もしも私が茶漬間男に出てくる旦那のように、自分の奥さんを他の男に寝取られていたとしたら、どんな風に思うであろう。多分、というか、結構、嫌である。

それでも、物語を純粋に楽しむことが出来るのは、それが物語であるからであろうし、自分に全くマイナにならないからであろう。だから、不快にも思わないし、むしろ、心の底から楽しめる。どんなことでも、物語を楽しむには、フィクションなのだという自覚と、フィクションとの距離を保つことが必要なのかも知れない。もちろん、フィクションを限りなくノンフィクションと捉えて、物語そのものを毛嫌いしてしまうこともあるだろう。そういう人は、そういう人であるから、私は特に気にはしない。

上方ならではの、ちょっと卑猥な間男話を聞けて嬉しかった。

 

 桂吉の丞 だんじり狸(小佐田定雄・作)

演芸界の方程式の一つになりそうな事の一つに、『~丞に外れなし』というものを作っても良いのではないだろうか。ご存知、古今亭菊之丞師匠、神田松之丞さん。私の知る限りでは、丞が最後に付く人は総じて凄い芸を持っている。そしてまた一人、桂吉の丞さんという一人の上方落語家が加わった。

溌溂とした語り口と、品のある佇まい。強面でありながらも、高座で見せる満面の笑みが可愛い吉の丞さん。ハリのある声と大阪弁が耳に心地よく、桂九ノ一さんに感じた溢れんばかりの太い気迫とは異なる、弾けるような鋭い気迫を感じる姿に、私は思わず、

 

 とんでもない人おるやん!!!

 

と、心の中で唸った。肌の白さもさることながら、まっつぐに光る眼と、中音の効いた声が良い。私の好みなのだが、声に張りがあって中音が響く落語家さんは良い。古今亭文菊師匠がその筆頭であるが、桂吉の丞さんもまた、蒼天の青空を飛んでいく鷲を想起させるような、素晴らしい声を持っている。出来ることならば、もっと他の演目を聞いてみたい。

演目の『だんじり狸』は初めて聞く新作落語である。作者は亡くなられているのかな、と勝手に思い込んでいたのだが、存命の落語作家さんである小佐田定雄さん。実は会場にいたそうなのだが、どなたかは分からなかった。

だんじり』と聞いて、ここでも勘ちGuyを発揮してしまったのだが、『男尻』を思い浮かべてしまい、白い褌一丁で、ぷりっぷりの尻で神輿を担ぐ男に化けた狸を想起したのだが、全く違っていた。

だんじり』とは『だんじり囃子』、すなわち『鳴り物』を指す言葉である。決して私の勘違いである『男尻』のように、ぷりっぷりの尻をぶつけ合い、ぺちぺちと音を鳴らす男達が密集した祭りの意味ではなく、太鼓や笛や摺鉦を用いた祭囃子である。

冒頭は思いっきり勘違いをし、「だんじりを打ってくれ~」という言葉の意味を理解しかねていたのだが、後半になって鳴り物が鳴って、「そ、そういうことだったのか~、男尻の祭りじゃなくて、鳴り物だったのねぇ~」と思った。ひょっとすると冒頭に説明があったのかも知れないが、吉の丞さんの容姿に集中していて、私が聞き漏らした可能性がある。

さて、この『だんじり』という演目。これがまた実にええ話なのである。もうええ話過ぎて、後半は「うわ~終わらないで~」と思ってしまうほど、ええ話なのである。

聞く楽しみを奪わぬために簡潔に言えば、『嘘から出たまこと』のような話である。登場人物が多く、演者である吉の丞さんも若干混乱していた様子ではあるが、一つの嘘をきっかけに、色んな人々を巻き込んで物語は進んでいく。『だんじり』が一つのキーワードとなっているし、狸の存在も不思議で幻想的な雰囲気を醸し出していて、後半にだんじりが鳴り始めた場面の、映画的なカット割りが実に見事で、それだけで胸がハッとする。そして、最後の一言でふわっと心に押し寄せてくる感動があり、新作落語でありながら、古典の雰囲気を十分に湛えた名作であると思う。出来ることならば、何度も聴きたい演目である。

吉の丞さんの語りのテンポ、勢いもすさまじく、また物語に流れる人の情に胸が熱くなり、最後のだんじりで夢のような空間に誘われたまま、物語は幕を閉じる。

 

総括 思い出に縋りながら生きる

天満天神繁昌亭に来て、最初の一日に、この物語で終えることの出来る喜び。言いようの無い感動に包まれて、終演後、しばらく席を立つことが出来なかった。

誰か愛しき人との思い出が、今の自分に大きな影響を及ぼし続けるということが、私にはある。それは、今は亡き人々との思い出であったり、遠く離れることになった友人でもあり、別れた恋人でもある。一度出会ってしまったら、出会う前の自分に戻ることは出来ないように、出会った人の言葉や、考えや行動に、知らず知らず影響を受けている自分を自覚するとき、自分を形作ってくれた人々に対する感謝の気持ちと、その思いを受け継いで生きて行こうとする意志が私の中に起こる。どんなに悲しい雨の日であっても、あなたとの思い出に縋って私は生きて行くのだ。たとえどん底にいて、深い傷を負ったとしても、私はあなたとの幸福な思い出に縋って、再び底から抜け出すために、這い上がろうと思うのだ。現に、私はそうやって何度も這い上がってきた。ジャズの世界で言えば、スコット・ラファロを失った後のビル・エヴァンスみたいに。

そんなことを思う、人と人との情の流れる、素敵な一席だった。考えてみたら、吉の丞さんに情の話であるから、丞と情で気分は・・・

止そう、だんじりが聞こえてきた。このだんじりの打ち方は・・・きっと