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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

『けんこう』に生きる力~2019年8月16日 人形町噺し問屋88 三遊亭兼好独演会~

 

今日が退院後、最初の兼好師匠なんです。

 

よぉ~、よぉ~い

 

健やかに、康らかに、あなたの好きを兼ねて笑おう

遠い故郷 離れてみれば

故郷を離れ、再び東京の住まいに戻ったとき、私の胸の中には、いつもとは違う何かがあった。それは、私自身に嬉しいことがあり、それを両親、親戚の祖母、地元の友人が祝ってくれたからこそ、生まれたものであろう。

人に褒められることに慣れていない私にとって、なかなか人から祝われるというのは、特別な体験であった。褒められることに慣れていないくせに、自らの嬉しかった体験を人に話すという矛盾もあるが、考えてみれば、私は幼い頃から、どこか自分の体験を人に伝えたいという癖があったようである。

そのために、私は言葉で文章を書き続けてきた。

自分が思ったことは、どうやら色んな人に伝わるのだと分かってきた頃から、今の大好きな仕事とは別に、このブログを続けようと思い始めた。

多くの人の支えがあり、また、読者のおかげもあって、こうして続けることが出来ている。その継続の中で、一つの夢が叶った。これは本当に記事を読んでくれる読者のおかげである。深く感謝を申し上げたい。

そんな私は、地元の励ましの後で、どんな会に行くのだろうか。自分でも興味があったので、ざっと演芸情報を調べていると、『三遊亭兼好独演会』の文字。

これだ。

私はすぐに身支度を整えて、家を出た。まだ間に合う。

当日券があるかは分からないが、ダメ元で行ってみよう。

勢い勇んで、会場へと向かった。

そして、私はとても幸福な空間、人達、そしてお話に出会うこととなるのだった。

 

地元のパチンコ屋の話

地元に帰った時の話であるが、友人がこんな話をしていた。

「いつも行くパチンコ屋に良く来る婆さんがいるんだけど、この前、顔を覆うような大きな包帯を巻いて、パチンコ屋にきたんだよ。おれが思うに、その婆さんは旦那に殴られたりしてるみたいなんだ。たまに夫婦で来たときなんか酷いぜ。旦那に怒鳴られてさ、自分の好きな台に座れないんだ。あれで何が楽しいのか、さっぱり分からないけど、それでも、パチンコ屋に来るんだぜ、なぁ、照、信じられるか?おれは、包帯巻いてみすぼらしい恰好をしてまで、パチンコ屋に行くほどパチンコ好きじゃねぇけどさ。ありゃ驚いたよ」

その話を聞いて、私はしばし考えた後、

「歳を取れば見た目なんて気にしなくなるほど、好きなことに熱中するのかも知れないよ。旦那に殴られて怪我しても、好きなものの前じゃあ、関係無くなってしまうんじゃないかな」と言った。

友人が考え込んだ様子で、「そういうもんなんだろうなぁ。周りなんて関係無くなるほど、熱中するのも考えものだなぁ」と言うので、「ある程度、常識の範囲で周囲を気にすることは大切だけど、何とも言えないね」と私は応えた。

本当に好きなものに熱中したら、人はどんな風に周りに見えるのだろう。傍から見れば、少しヘンに見えるのだろうか。ただ、私にはそのヘンを否定することが出来ない。なぜなら、私にも程度の差こそあれ、包帯のご婦人と同じように、熱中しているものがあるからである。たとえ、足の骨が折れてでも見たい演芸と見たい噺家がいるから困りものである。

そんなことを考えるような出来事が、詳細は言えないが兼好師匠の独演会、開演前にちらっと、あった。

ちょっと耳に挟んだだけなので、以下、敢えてボカして書く。

 

決断の理由

人は、自分にとって重大な決断をしなければならないとき、自分にとって最も重要な理由で無い限り、なかなか決断することのできない生き物である。

たとえば、両足にウイルスが侵入し、切断しなければならなくなったとする。自らの両足を切断しなければ、死に至る状況だったとする。それでも、なかなか両足を切るという決断が出来ない。周りから「両足切らないと、死んじゃうんだよ!?」と説得されても、意固地に「いやだ。切りたくない」の一点張り。単に「死にたくないから」という理由では、両足を切断する決心がつかなかったとする。「死にたくない」という気持ちが、自分にとって最も重要な理由では無かったとする。

どんなに死が傍に立っていようとも、人は自分にとって最も重要な理由で無い限り決断しない。では、最も重要な理由とは何か。

少し胸に手を当てて考えて欲しい。あなたは「死にたくない」という理由で両足を切断する決心がつかなかったとき、どんな言葉をかけてもらったら、両足を切れるだろうか。

様々に理由があるだろう。

独演会の会場で私が聞いたのは、こんな言葉だった。

「両足を切らないと、兼好師匠の落語が聴けなくなっちゃうんだよ?」

 

その言葉で、両足を切ることを決断した人がいる。

実際に、両足を切り、無事、生きることが出来るようになった人がいる。

これはたとえ話なので、実際には両足切断ではないが、

それに近い内容の、大きな決断をした人が、

兼好師匠の独演会の会場におられたのである。

「今日は両足を切断してから、最初の兼好師匠の独演会なんですよ。本当に楽しみで楽しみで」

そんな話を、笑顔で、嬉しそうに語るお客様の姿を見たとき、

私は言いようの無い感動に震えた。

そうか、生きる力を兼好師匠に頂いているんだな。

そんなことを思ったとき、三遊亭兼好師匠の、芸だけではなく、人間としての素晴らしさを垣間見たような気がした。

会が始まって、嬉しそうに笑う、その人を見ているだけで、不思議と心が温まった。思わず心の中で、「良かったですね。元気になられて」と呟いた。

その人は体を揺らしながら笑い、時折隣の人と微笑み合っていた。大きな決断の後で、待ちに待っていた兼好師匠の落語を聞くことができる幸福を噛み締めていた。想像することしか出来ないけれど、きっと最高の幸福をその人は味わっていたに違いない。

生きて行くことの支えに、重大な決断の理由の中心に、三遊亭兼好師匠の落語が存在していることの素晴らしさ。そして、そんな生きる力を観客に与える、三遊亭兼好師匠の素晴らしさ。

たとえ、『佃祭』と『大安売り』と『錦の袈裟』と『粗忽の使者』の四席しか聞いたことの無い私であっても、芸を見る前に三遊亭兼好師匠が大人物であることが、客席から分かる。優れた噺家の周りには、優れた観客がいることを忘れてはならない。

そんなエピソードを、私はどうしても紹介したかった。きっと、このエピソード一つだけでも、いかに三遊亭兼好師匠が優れた噺家であるかが、お分かりいただけると思う。また、余談だが、大きな決断をした人が嬉しそうに兼好師匠から頂いたサイン色紙を眺めていた。そのサイン色紙の言葉、絵から放たれる雰囲気たるや。筆舌に尽くし難し。是非一度、兼好師匠の独演会にお運び頂き、兼好師匠の素晴らしさに触れて頂きたいということを記して、演目に移りたいと思う。

 

 三遊亭兼好 あいさつ

トークの内容については触れないが、時事ネタから日常の出来事まで、兼好師匠独自の視点が物凄く面白かった。客席のご婦人方も思わず頷きながら聞いてしまうほど、知性に溢れた心地よく面白い内容と語り。スタンダップ・コメディもお手の物である。

人生を明るく楽しく過ごす兼好師匠の素敵な挨拶で幕開け。

 

三遊亭西村 浮世根問

45歳で前座、三遊亭好楽師匠の9番弟子ながら『好』の字も、『楽』の字も名前に無い西村さん。プログラムを見た時は、「んっ!?誰!?」となったが、シュッとした顔立ちで、場慣れした語り。流暢な語りとまっすぐな目が素敵な噺家さんである。

 

三遊亭兼好 町内の若い衆

『あいさつ』で会場を爆笑に巻き込み、温まった会場で披露されたのは『町内の若い衆』。女将さんの演じ方が肝な話だと個人的には思うし、それぞれの噺家さんで、どんな風に女将さんを演じられるのか聞き比べも楽しい一席である。内容はざっくり『良い女将さんの言葉遣いに感銘を受けた男が、自らの妻にも強要するのだが・・・』という話で、前半に登場する大工の親分の女将さんと、後半に登場する職人の女将さんとでは、色気から何から全く違っている。私はどことなく、どちらも品があって素敵な女将さんであることには間違いないのだが、家の清潔さや、育ってきた環境など、あらゆるものに格差がありながらも、冗談半分で逞しく生きる人の朗らかで、明るい流れが漂っているように感じられた。

出てくる登場人物も皆が明るくて、カラッとして生きている感じ。最後の女将さんの台詞も、本気とも冗談ともとれるような言い方が新鮮だった。演者によっては、本当に女将さんが「よってたかって」で拵えたと思う人もいるが、兼好師匠の場合は、少し茶目っ気を出して、オチの後で、「ふふふ、冗談よー」なんて言いそうな雰囲気だった。

さらりと流れるような語りのリズム、その心地よさたるや、清流の如し。まるで川を照らす日の光に目を奪われるかのような、最高の一席だった。

 

柳家小太郎 唖の釣り

完全アウェイな空気を、むしろウェルカムな空気に変換させて、畳み掛けるような独自の語りのリズムで、一気に会場を味方に付けて沸かせた小太郎さん。もはや十八番と言っても過言ではないネタである。唖の釣りの小太郎さんは最高である。今のところ、小太郎さんで唖の釣りを聞くことが多いので、断トツで小太郎さんの『唖の釣り』を聞くことをオススメしたい。

内容は、『二人の男が釣りをしにいくのだが・・・』という感じで、見どころは何と言っても、釣りを役人に咎められた男が、どんな風に対処するかという部分である。一人目の男も面白いのだが、二人目の男が緊張のあまり舌が突っ張り、上手く言葉を言えなくなる。そこからの怒涛の釣りの言い訳ボディランゲージが、小太郎さんの十八番とも呼べる部分であると私は思っている。

ドッカンドッカンと笑いを起こして、会場も爆笑の渦に巻き込まれた。可愛らしい愛嬌と、独自の明るさとリズム、小太郎節とも呼ぶべき軽快な語りの凄まじさ。いずれ、真打になったら、爆笑の古典派として名を馳せるかもしれない。そんな素晴らしい才能が、爆発した一席だった。ダブルピースはささやかにやりました。

 

三遊亭兼好 三十石 夢乃通路

様々に便利になった乗り物の話題から演目へ。暑い季節だから『船徳』かなと思いきや、「あんたがた」のフレーズで、演目が分かる。思わず、

 

 うおお!!!三十石だぁああ!!!

 

年末に紋四郎さんで聴いて以来の三十石。兼好師匠の「あんたがた」のフレーズには、三遊亭圓生師匠の魂を感じて震えた。ゾクッとしながらも、三十石舟へと乗り込む二人の旅人の姿が想像される。

この話は、簡単に言えば『京都からの帰りに二人の男が船に乗って大阪へ行く』という内容である。これだけ見れば、大した話では無いように思われるかも知れないが、様々な登場人物が話に登場し、そのどれもが個性的で、演じ分けもかなり難しいのではないかと思うほどに、とても難しい噺であると私は思っている。

三遊亭兼好師匠ならではの身体表現というか、言葉のニュアンス、強調するポイントがとても面白い。特に、登場人物の中では船頭が好きである。ぞんざいな言葉を使うが、とても心優しい船頭なのである。船に乗るお客様を何よりも大切にし、仕事仲間には厳しく、子供のお願いを快く引き受ける船頭。そんな素敵な船頭が唄う舟唄の素晴らしさたるや。鮮やかで清らかで、何とも言えない爽快な心地良さに痺れる。この舟唄を聞いているうちに、気が付けば私は舟に揺られ、ともに大阪へと向かっているのであった。

また、兼好師匠の用いる京言葉や上方の言葉遣い、トーンが素晴らしいのである。大阪の繁昌亭界隈、動物園前界隈に足を運んだ私は、そこで多くの関西弁を耳にした。恐らく私の脳内バイアスもかかっているのだろうけれど、江戸の落語家さんが用いる関西弁に近い関西弁があちこちから聞こえた。特に大阪のおばちゃんに顕著で、『スーパー玉出』などにいる人々の言葉は、まさに関西弁の真骨頂で、あのギラつくようなネオン管の光と相まって、強烈に印象に残っている。

わざとらしさの無い関西弁というのは、江戸の落語家さんにとってはかなり至難の技なのかも知れない。生粋の大阪出身者からすれば、「あんなもん、関西弁ちゃいますわ」なのかも知れないが、日常的に関西弁に触れることの少ない私を含む多くの関東の人には、本物との違いが分からないほど素晴らしい関西弁だった。そもそも、『関西弁』という言葉も大阪育ちの方から怒られないか心配であるが、そこはご容赦頂きたい。

もしかすると、真の関西弁は一生私には体得できないのかもしれない。生粋の大阪出身者でない限り、恐らくずっと脳内バイアスがかかって関西弁を聞くことになるのではないか。それはそれで諦めようと思うし、細かく言うつもりはない。ただ、兼好師匠の三十石に出てくる関西弁を用いる人々は、私にとって本物の関西弁を用いる人だったことには間違いない。物凄い研究というか、関西弁の習得に力を注がれたのではないかと思われるが、その努力を感じさせないほど滑らかな語りに驚愕する。派手さは無いけれど、細部で物凄い輝きを放ち、噺の説得力に磨きをかけている兼好師匠の凄まじさを感じて、さらに痺れた。

何と言っても聴きどころは、鳴り物入りの船頭の舟唄であるし、満員の舟で妄想に走る男の姿も面白い。色んな登場人物が、色々な表情と声色で登場する。その賑やかで、清らかで、何も起こらない日常の、永遠の温かい光の輝きが、そこにはある。

兼好師匠の美しい声と、温かい人と人との交流と笑み、全てが生きていることの美しさに溢れていて、絶品、絶品、

 

 絶品だよ!!!

 

終演後、興奮した隣のご婦人が「凄かったわねぇ!!!」と私に嬉しそうな表情で話しかけてきた。見ず知らずの人にも、思わず即座に共有したくなってしまうほどの、とんでもなく、素晴らしい、三十石だった。あんなに素晴らしく清々しい気持ちになれる三十石、是非、皆様にも聞いて頂きたい。そして、船頭の舟唄を聞きながら、舟にゆらり揺られて、人と人との交流の美しさに触れて頂きたいと思った。

私が語らずとも、もはや多くの人々を魅了している三遊亭兼好師匠。改めて、その素晴らしさを存分に体感し、発見した独演会だった。

 

 素晴らしい!!!兼好師匠!!!

 

総括 『けんこう』に生きる力

冒頭に記したように、兼好師匠の落語を見るために、大きな決断をする人がいる。ひょっとすると読者の中にも、「この人の落語を聞くためなら、どんな手術だって受ける!」という人もいるだろう。たとえ癌になったとしても、「文菊師匠の落語を、また聴けるんだったら、何だって治療を受ける!」と、私だったら言う。

そんな、生きる力を与えることの出来る兼好師匠の素晴らしさもさることながら、会場に集まったお客様の実に温かいこと。類は友を呼ぶとも言うように、素敵な人の周りには素敵な人が集まってくるのだ。そして、そんな人が一同に会して、一人の演者の話芸を楽しみ、大いに笑う。なんて素敵なことだろう。生きる力が湧いてくるではないか。

どんなことであっても、本当に好きなもの、熱中できるものに出会った人は、それを支えに生きているのだ。そう思えるものに出会った人の生きる力は凄まじい。

私にも、本当に好きなもの、熱中できるものが、たくさんある。ひょっとすると普通の人より多いかも知れない。誰よりも、色んなことに、貪欲な探求心があると自負している。そんな私の生きる力はきっと、凄まじいに違いない。

独演会に集まった人々は、『兼好』に生き、『健康』に生きる力を持っていた。

思い返しても、素敵な、素晴らしい会だった。また、行きたい。

いつの間にやら、兼好師匠の落語が聴きたくなっている。

また一人、追いたい噺家が出来た。

財布と相談しながら、極力、見に行くことにしよう。

さてさて、あなたは、どんなものに、生きる力を見出しているだろうか。

あなたが今日も明日も、健やかに生きられる支えに、

もしも私のブログがお役に立てているのだとしたら、これ以上の喜びはない。

重ねてお礼を申し上げます。読む人のおかげで、今があります。

本当にありがとうございます。それでは、また。

ミスター・チルドレンの爆発~2019年8月13日 プーク人形劇場 新作落語お盆寄席~

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もう大人だから、怒られないよ~

  

ミスマッチ・アダルト・チルドレン

彼女だったら付き合いづらいだろう、心変わりの多い天気のなか、私はプーク人形劇場へと向かっていた。電車の車内には、子供連れの家族や異国からの旅人が多い様子である。晴れたり降ったり曇ったり止んだり、どこかでは大雨が降っていても、どこかではカラッと晴れている、天気が読めなくて傘が欠かせぬ、そんな天気の心変わりに人々も惑わされているようだ。

しばし電車に揺られていると、私のすぐ近くにいた、胸元にサングラスをひっかけた男性が、窓の向こうを眺めながら「うそ、雨降ってんの!?」と言った。その男性の子供らしき少年が、「傘、あるじゃん」と言うので、立ち聞きをしていた私は、ちらと男性を見たが傘はどこにも見当たらない。はてな、と思っていると、少年が「それ、傘にしようよ」と言って、男性のサングラスを指さした。その時に、私は「凄い発想だな」と驚いた。

傘と聞くと、「へ」の曲がり角に「し」の取っ手を突き刺した物を思い浮かべる。いつの間にやら私の中で、傘とは体が濡れないように全体を覆うものという意識があったが、少年の発想はもっと柔軟で、『雨を防ぐ』という大枠で物事を捉えているようであった。サングラスと傘を一緒にできる発想って、なかなか出来ないのではないだろうか。そもそも、雨から防げるのは目だけだ。

そんな、少しの驚きを胸に新宿駅を降りてプーク人形劇場まで歩いた。ナツノカモさんの公演以外で来たのは初めてである。会場の雰囲気に落語がどんな風にマッチするのか全く見当がつかない。むしろ、見当がつかないからこその面白さを私は感じていた。ミスマッチ感と呼ぼうか。たとえば、塩キャラメルのように甘いものと酸っぱいものの組み合わせのような、チョコ柿ピーのような甘いものと辛いものの組み合わせのような、一見するとミスマッチのように見えて、実は非常に癖があって美味しい食べ物の感じ。

プーク人形劇場のメルヘンチックな童心とも呼べる雰囲気の中で、含蓄ある大人の楽しみとも呼べる落語という伝統話芸が、新作落語という新しい伝統への挑戦となって、観客の前に披露される。すべてが渾然一体となった空間で、どんな化学反応が起こるのか。言わば大人と子供のボーダーラインを消し去るような、単語で言えば『Mr.Children』のような、不思議な空間がプーク人形劇場にあるように思えて、会場入りした私は楽しみでならなかった。

客層も、本当に不思議である。すっかり大人の年齢の人であっても、子供のような微笑みで待っている人がいる。ニコニコとして何か新しいことを待っているような、そんな、童心を顔に浮かべた人々が多いように思えた。ここには、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている人は一人もいない。ただただ、プーク人形劇場という、狭くて椅子がお尻にやさしくない会場で、落語家の話す新作落語を待っている。この場所に集まるお客様は温かいに決まっている。ほかのどの会場にも無い、プーク人形劇場だからこそ生まれる。ミスター・チルドレンな雰囲気。お分かりいただけるだろうか。大人だけれど、否、大人だからこそ、いつでも子供に戻れるような、いつでも童心を胸に携えて、今でも童心に返って思い切り人生を楽しむことができるような、そんな素晴らしい人々が一同に会した場所が、ここには確かにあった。

思い返すのは地元の友人達である。すっかり大人になって、もうすぐ30を迎えるというのに、未だに中学校の頃の話や、好きなアニメの話や、夏の恋の思い出や、好きな漫画の話をして、お互いに笑いあっている。いつでも、私は幼いころに抱いた思い出や記憶や感情を、地元の友人たちと共有することができる。その尊さは計り知れない。仕事では大人としてマナーやルール、社会的な行動を守って生きているが、一方で、いざ、遊びとなれば子供のようにはしゃいで、あらゆることに挑戦して楽しむことができる。大人でありながら童心を持ち続けていることの喜びを、私は会場で噛み締めていた。もしかすると、プーク人形劇場に集まった観客は同じような思いを抱いているのではないか。抱いているからこそ、ここにいるのではないか。

そんな人々の、素敵な楽しみ。いよいよ、開幕。

 

三遊亭ぐんま 銭湯最前線

お江戸日本橋亭での『新作打ち上げ花火』続いて二度目のネタ。それでも、その場に合わせてアドリブを入れ込み、また、会場を一つにする巧みな話芸と雰囲気に、もはや私は完全にノックアウトで、ぐんまさんが好きである。

覚えたものを、その場その場の雰囲気に合わせて、自らも楽しんでやっている様子が如実に伝わってくる。常連の方も多い中で、果敢に挑戦し続ける姿は見ていて気持ちがいい。

一気に会場を盛り上げて、一番弟子へとバトンタッチ。

 

三遊亭青森 愛を詰めかえて

二つ目に昇進して以来、お初の青森さん。普段は古典しか聞いていなかったので、新作はとても新鮮だった。私が思うに『強面』な青森さんだが、語りの雰囲気が優しくて、そのギャップにドキっとする。一体どんな話をするのかな、と思っていると、これがとんでもなく面白い発想のお話だった。

ざっくり話の内容を話すと、『男と女の物語』であるのだが、単純な男と女の物語では無いところが、この話の設定である。とあるものを擬人化して、擬人化された男女の間に起こる様々な出来事が語られるのだが、これがもう、面白くって仕方がない。

この話を一度聞いてしまうと、男と女の関係にされた、擬人化された物を見るだけで、青森さんの話を思い出してしまうという呪いにかかる。一体どんな発想をしたら、こんな話を思いつくことが出来るのか。本当に素晴らしい着眼点であると思う。

同時に、新作派の落語家としての青森さんを知ることが出来て良かった。古典もかなりのレパートリーがあるようで、定期的に勉強会も開かれているようである。自らの地盤を着々と築き上げて、面白い新作落語を作り上げていく姿勢は、師匠である白鳥師匠のスピリットを受け継いでいるように思える。また、後進の新作落語家にも道を示している。一体どんな新作を生み出してくれるのか。楽しみである。

 

三遊亭天歌 甲子園の土

連雀亭で見た時から、温かい人情の流れが落語のネタに流れているような、素敵な落語をされる天歌さん。枕では苦労されているなぁと感じるような話を語られており、人の痛みや苦しみを誰よりも知っているからこそ、それを跳ね除けて力強く生きていく人間の逞しさを描けているのかもしれないし、感じるのかもしれないと私は思った。日本全国の〇〇話のくだりとか、ちょっと涙出るくらい、笑っちゃうけど悲哀を感じる一言だった。

演目のざっくりした内容は『大人の事情で動く大人と大人の事情を意に介さない青年の話』という感じである。新作落語は内容を語るだけで楽しみを奪いそうなので、ざっくりした概要しか書けないし、私はざっくりした概要を書くことで、読者の皆様に興味を持っていただきたいと思っている。

この話は二度目なのだけれど、会場の雰囲気も相まってとても面白かった。前半の一笑いが起こるまで、結構ドキドキして聞いてしまうのだけれど(ウケるかな、という杞憂)、きっちりと大人と青年がぶつかり合う部分で笑いが起こる。なんというか、自分で高く投げた球を、再びキャッチするような、そんな感覚を冒頭部分に私は感じるのである。キャッチできると大成功で、キャッチできないと辛い時間が続くのではないか、と思ってしまうのだが、そこは今までキャッチ出来なかったことは無いので、私の杞憂である。

大人の事情に振り回される大人と、それを意に介さずまっすぐに正論を放つ青年の痛快な面白さがあって、これは是非体験していただきたい。丁度、甲子園も行われているため、ベストなネタだと思っている。

色々と書きたい部分はあるのだが、ネタバレは避けたいので、匂わせておくことしかできないのがもどかしい。

天歌さんの楽しそうな表情がとても素敵だった。なかなかタイミングが合わなくて見れないのだけれど、外れの無い素晴らしい落語家さんである。

 

古今亭志ん五 トイレの死神

新作も古典もやられる志ん五師匠。私はどちらかと言えば志ん五師匠は新作の方が好きである。そんな志ん五師匠の古典と新作をハイブリッドさせた一席。

もうね、声を大にして言いたい。

 

 頭おかしい!!!!!(褒め言葉)

 

古典の死神にとある尿素、おっと、要素を足した超絶面白い一席で、心の底から「くっだらねぇ~」と思いながら、ゲラゲラ笑ってしまうお話だった。古典の死神を知っていると、より楽しめると思うし、知らなくても十分に楽しめる一席。オチとか蝋燭とか、とんでもなく面白くなっているので、是非聞いてほしい話だ。

プーク人形劇場で落語という組み合わせのように、どことなくミスマッチな組み合わせが、とても面白い化学反応を起こしていた。一体なぜ、志ん五師匠は死神に、とある要素を付けようと思ったのか、組み合わせの妙が光る抱腹絶倒の一席だった。

いやぁ、本当に、聞いたあと、何にも残らないけど、とても笑える、くっだらない話だった。最高です。

 

三遊亭天どん 熱中症対策本部

天どん師匠もとことんくっだらない一席で、それがものすごい面白さを生み出している。

この話は『ふざけ続ける二人の大人が暴れまくる』という内容で、本来はしっかりしていそうな役職の二人が、自らの役職の根底を揺るがすような事態の中で、思い切りふざけまくって、暴れまくるところが、面白くてたまらなかった。夏にぴったりのお話かどうかは分からないが、面白くて腹を抱えて笑ってしまった。

天どん師匠の登場人物は、真面目な職業に就いているのだけれど、微妙にそれが面白い方向にズレていて、そのズレがどんどんエスカレートしていく面白さがあって、普通に考えたら絶対におかしいことでも、妙に納得してしまうというか、フィクションだからこそ笑える部分がある。細かいことを気にしていたり、「アンパンマンのアンパンチは暴力を助長している!」と言うような人には、一生理解できないかもしれない面白さがある。そんなギリギリのアブノーマルな面白さがクセになる。天どん師匠らしい素晴らしい一席だった。

 

林家きく麿 ニコ上の先輩

シブラクに続いてのきく麿師匠、二回目のネタ。この話はざっくり言えば『怪談(?)話』である。

会場の温かさがMAXに達していて、きく麿師匠もめちゃくちゃ楽しそうに語っている様子が伝わってくる。シブラクの時も凄かったが、プークに集まったお客様は精鋭が多いのか、めちゃくちゃ笑ってウケていた。何度聞いてもトカゲのくだりと、こんにゃくのくだりが面白すぎる。登場人物の語りのボルテージが上がっていくところの、怒ってるんだけど笑っちゃう面白さがあって、それがドッカンドッカンとウケるので、きく麿師匠はとても嬉しかったに違いない。最後も畳みかけるように物凄い爆笑の連続で、何度聞いても面白いお話である。twitterを見ると、徐々に仕上がっている様子で、どんな完成形になるのか楽しみである。今や、売れに売れている、令和の爆笑王。これからも快進撃は続く。

 

三遊亭白鳥 砂漠のバー止まり木

トリは白鳥師匠。絶対にありえない設定を、丁寧に語ることによって成立させる話芸、長尺のネタであってもダレさせない面白い話のオンパレード、そして観客の想像力に極限まで頼り、疑問の余地を与えない巧みな構成。全てが物凄いレベルで成立している素晴らしい落語家さんで、新作落語の父を三遊亭円丈師匠とするならば、三遊亭白鳥師匠は、落語界の神童と呼んでも過言ではないと思う(もう結構良いお歳だけれども)

この話はざっくり言えば『会社員二人が砂漠のバーに行く』話である。なんじゃそりゃ、という話なのだが、これが聞いてみると一大スペクタクルというか、想像すると結構スケールが大きく感じられる話である。

二人の会社員が語ることのくだらなさと、砂漠のスケールの大きさ、そして砂漠の中にあるミスマッチな空間、そしてバー。まるで一遍のシュールな映画を見ているような、刺激的でくだらない、面白い世界を体験することができる。

なによりも白鳥師匠が話の世界に浸りながら、観客と一体となって楽しんでいる様子が素晴らしい。できることならば、白鳥師匠の魅力をファンの方々に伺ってみたい。コアなファンが多数存在するという白鳥師匠。その創作能力の素晴らしさは落語好きであれば、誰もが認めるであろう。

ご常連さんも数多く、毎回、爆笑の渦で会場を包むで白鳥師匠。

素晴らしい大団円の一席だった。

 

総括 いつでも大人で子供でいよう

本当に不思議な空間だと思った。『イッツ・ア・スモール・ワールド』のような、なんとも言えない雰囲気の中で、着物を着た人が、座布団に座って語り始める。新宿末廣亭鈴本演芸場には無い、不思議な伝統を感じさせる空間が、見る者に与える不思議な感覚。ふと、周りを見れば、お尻を痛そうにさすったり、立ち上がって屈伸運動をする人までいる。体はどんどん大人になって、ある時を境に衰えていく。それでも、心は老いない。心だけは、いつまでも子供のままなんじゃないか。大人になるって何なんだろうか。そんなことを考えてしまうような、素敵な時間がそこにはあった。

常識だとか、ルールだとか、いろんな規制を取っ払って、空っぽになって、まだ何も世界について、社会について知らなかった、純粋な子供に戻って、落語家の話に耳を傾けて、笑って、笑って、頬骨とお腹が痛くなるまで笑う。ミスター・チルドレンの爆発があって、その幸福な爆発の輝きが、プーク人形劇場を照らしていた。あの時、あの空間で、全員で味わった一席は、特別な意味を持って私の記憶に残った。お尻の痛みも、今は全く気にならないけれど、いずれ私のお尻筋が衰えてきたら、耐えられなくなってしまうのだろうか。

「いつまでも若く」、そう歌ったのはボブ・ディランだ。心の底からそう思う。たとえどんなに時間が過ぎようとも、ヨボヨボのじいさんになろうとも、心はいつまでも、若く、潤っていたい。「昔はよかった・・・」なんて思い出に浸るようなジジイにだけはなりたくない。

プーク人形劇場に集まったお客様の表情は、そんな私が理想とする、素敵な笑顔で満ち満ちていた。素敵な空間で、素敵な人達に囲まれて、素敵な落語を聞くことが出来て良かった。

風に吹かれて、私は新宿の街へと消えていく。まるで子供から大人になっていくみたいに、さっきまで子供のように笑っていたことを思い出しながら。いつまでも大人であり、子供でもある、そんな存在でいよう。そんなこと言ったら、怒られちゃうかな。

でも、本当に子どもって凄いんだぜ。子供は大人になれないけど、大人は子供になれる。だって、大人は子供を経験しているからね。忘れない限り、私はいつでも子供になるだろう。

さすがに、バブーとは言わないけどね。

毎日を笑って過ごす、日々の朝に~2019年8月10日 古今亭文菊 独演会~

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お酒かい?

 

ハチゴロウってんですよ 

 

  思い立ったら

爺臭い話になるが、私は僅かな睡眠時間でも体調がすこぶる良い体質である。大体、4~5時間ほど眠ると、バッチリ快調ということが、ここ2~3年の間で確立されており、毎朝大体4時半か5時に目が覚める。絶好調の時など、0時に寝て3時半に目が覚める。それで、特に体が重いとか、気持ちが怠いということが無いから不思議だ。

思えば、良く笑った日の翌朝などは特に睡眠時間が短い。誰か詳しい研究をしていないだろうか。自分でもなぜこれほどまでに短い睡眠時間で、体調も気持ちも快いのか見当が付かない。心当たりがあると言えば、日中でも短い睡眠を何度か繰り返しているから、それがトータルとして7~8時間になるのだろうと思う。寄席にいるときなど、演者さんに申し訳ないが、眠る時はある。良く眠れるときなど1時間は寝ている。

そんなこともあって、私はどちらかと言えば朝型の人間であるらしい。目が覚めると温かいこんぶ茶に梅干しを入れて飲むということを最近の日課にしている。それからnoteで2000文字以内で文章を書いてから読書をする。ここ2週間は継続することが出来ている。特に習慣化しようという気はない。たまたま続いているから、続けているだけである。

早起きは三文の得というから、私もそれを信じている。様々に本を読み、色々なことを吸収する朝にしている。萩尾望都先生の『ポーの一族 ユニコーン』であったり、東海林さだお先生の『ショージ君の青春記』、『ベスト・エッセイ』など、週刊誌を読むが如く、それぞれをちょっとずつ読むのがマイルールとなっている。これは大学生の時に決めたルールで、週刊少年ジャンプのように、たくさんの連載作品が載っている週刊誌を、自ら選んだ本で、自分が編集者になって『行動で組み立てる』ということを行っていた。私の大学生の頃の『行動週刊誌』は豪華で、毎日、森博嗣先生やトーマス・マンヘルマン・ヘッセ北杜夫先生、有栖川有栖先生、多和田葉子先生、古川日出夫先生等が連載していた。連載が終わるときなど、悲しかったものである。むろん、それは私が読む時間をその作品に多く費やしていただけである。ページ数を決めるのも私なので、マンと古川先生の場合はページ数が多く、割と早めに連載が終了した。

考えてみれば、寄席のように入れ代わり立ち代わり演者が出て来る興行が、私の肌には合っていたようである。映画館のように一つの作品に何時間も没頭するのも良いが、どうにも疲れたり飽きが来る。その点、15分で演者も内容も変わる寄席は飽きない。つまらないな、と思えば眠れば良いだけだから。自分の判断で楽しむことができる。

結局は、まず自分が大切なのではないかと思う。重要なのは他人がどう思うかではなく、まず、自分がどう思うかではないだろうか。それを教えてくれたのは、先に挙げた連載陣の先生方の影響が大きい。

私の、ここ最近の行動目標は、『毎日を笑って過ごす』である。2019年の行動指針は、三遊亭天歌さんの『Who』のように、様々な人と出会って、色々な肩書きであったり、考えに出会ったりすることである。

そんな、行動目標・行動指針にぴったりと合う会がある。それがオフィス10さんが開かれている、なかの芸能小劇場での『古今亭文菊 独演会』である。

思い立ったが吉日。私は身支度を整えて家を出た。まだそれほど暑さはなかったが、やがては暑くなるであろうポテンシャルを秘めた朝に飛び込んで、私は一路、会のある場所へと向かったのだった。

 

林家木はち 寿限無

林家木久扇師匠の11番目の弟子で、見た目が若干『若い宮迫博之』に似ていて、ホクロの位置も、とてもぼんやりであるが大体あの辺にあったんじゃないか、と思うくらい、最近話題の闇営業の芸人にそっくりだった。声はそれほど似ていないが、笑った顔が完全に闇営業の顔である(超失礼)

どこか変貌しそうな、風変わりな雰囲気のある寿限無だった。どこまでがネタなのかは分からないが、寿限無のくだりを小さくブツブツ言う場面が印象的だった。

木久扇師匠のお弟子さんは個性派ぞろいの凄腕集団で、今まさに顔も名前も売れている林家きく麿師匠を筆頭に、面白くて頭のおかしい人達(褒めてます)がうじゃうじゃといるので、木はちさんもその枠に入っていくのだろうと思った。

 

古今亭文菊 ちりとてちん

ネタ卸しの時に見た『ちりとてちん』とは、比較にならないほど細部に魂の宿っている文菊師匠の登場人物。見どころは、何と言ってもイケメンの顔面が崩壊し、白目剥きまくりの表情ではないだろうか。私は言葉遣いであったり、言葉のトーンが好きで、文菊師匠の演じ方には、夏の暑い最中に、涼やかな風が吹き抜けて行くような清らかさがある。大家さんのドSっぷりも健在で、会場も大爆笑。抱腹絶倒の一席だった。

 

古今亭文菊 妾馬

ようやく巡り合うことの出来た一席。文菊師匠で聴くのはお初。もうね、徹頭徹尾最高過ぎる。詳細は特に書かないけれど、文菊師匠の八五郎が大好き。妹を思う気持ちも素敵でした。もう語るに及ばずの名演。

 

 総括 いつもの朝から

どうやら、年内で朝10時の独演会は終了するそうである。時間は少し遅くなって15時からとなるようである。なかなか朝に起きられないという方には、朗報であろうと思う。

それにしても、文菊師匠のパワーアップの凄まじさたるや。ジャックと豆の木くらいの成長速度である(早いのか遅いのか分からない)

毎日を笑って過ごす朝に、文菊師匠の落語を聞いて始められる一日。この幸福たるや。もはや筆舌に尽くし難し。

素敵な連休初日。19日まで、さて、何して遊ぼうか。どうやって、毎日笑って過ごそうか。

カイダン・カイ?/ダンダン・カイダン・ダイ~2019年8月9日 渋谷らくご 18時回~

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怖い話を聞かせろよ

 

役者 

 ムリヤリ・ヤスミ

暑い日は仕事をしたくない。ならば、しなければよい。自分がしたいことを、したいと思ったときに、する。これが精神衛生上、最も効果がある。何も、無理をして仕事なぞしなくても、自分の人生が一度きりであることと、宇宙の寿命と太陽の寿命とを比較すれば、仕事をする時間よりも優先すべき時間の使い方というものが、見えてくるのではないだろうか。

なので、無理やり休んだ。暴挙に出たのではない。人間として、当然の『自由』の獲得のために、休んだのである。無論、やるべきことは終わらせているので、誰に文句を言われる筋合いも無い。文句を言えるのは、私だけである。

早々に渋谷に着くと、見慣れたラブホテルの門前で高齢なオバチャン清掃員が談笑している。若い人達が繰り広げた夜のスポーツの後始末は、優しい眼差しを持ったオバチャン清掃員によって行われているのだと考えると、『高齢者を支える社会』という言葉に対して、若干の疑問を抱かざるを得ない。とかく、高齢者と呼ばれる年齢層の人々は元気である。落語を見ていると特にそう思う。私もそんな元気なジジイになりたい。スーパーなジジイになりたいと思っている。

さて、渋谷らくごの会場があるユーロライブに到着すると、普段は見れないような大行列である。よくぞこの蒸し暑いなか、これほどの人が並べるな、と思うくらいの長蛇の列である。並ぶ人々も一様に「ここは当日券に並ばれてますか?」というようなことを言って、列に並んでいる。凄まじい列である。

なんとかチケットを購入したが、ロビーには溢れんばかりの人、人、人。黒山の人だかりとは正にこのことで、いつ『粗忽長屋』が始まってもおかしくない状態である。

入場時刻となって、吸い込まれるように人々が会場へと入って行く。ダイソンも敵わない吸引力。生粋の蕎麦喰いも敵わない吸引力。是非、見習って頂きたいと思うほどに、ぞろぞろと人が入って行く。私は豚汁にされる山芋の気分を味わいながら、会場に入り、席に着いた。

 

 林家きく麿 二つ上の先輩

出てきて、第一声を発しただけで謎の笑いが起こるきく麿師匠。令和の爆笑王。冒頭のマクラから、どういう流れで演目に入ったか忘れてしまったが、三人の男が登場する訳の分からない話が始まる。

この『訳の分からない』感じが最高に面白いのである。段々と日常の中におかしな部分が混じり込んできて、最終的におかしくなって終わるという、きく麿師匠の注入したおかしみが、どんどん体に広がっていって、元の体に戻れなくなる感覚。これがたまらなく面白いのだ。

例えば、美味しいお菓子があったとする。最初は「食べると太っちゃうな」と思いつつ食べるのだが、食べているうちに「やべっ、止まらないぞ」と思って、どんどん食べて続けてしまう。そのうち、胃が破裂するまで食べてしまうという、そんな『恐怖のかっぱえびせん』みたいな落語をするのが、林家きく麿師匠だと思っている。

やめられない、止まらない笑いの連続。なんであんなに面白いのか、自分でもさっぱり分からないのだが、きく麿師匠の物語の登場人物の狂気に触れる感じが面白いのかも知れない。詳細は書かないけれど、様々な部分で『?』が浮かんでくるのだが、その『?』を受け入れて、納得してしまうほどの感情の爆発があって、その強引さが最高に面白かった。最後はまさに、止まらなくなってしまったかっぱえびせんを頬張り続けて行くような、笑いの畳み掛けがあって、会場はじゃぶじゃぶと笑って、とても心地の良い一席だった。怪談話かい?と問われると、何とも言えないが、恐らく会場に集まった観客の思いを感じ取った一席だったのではないか、と思う。

みんな、怪談話を聞きに来てる感は確かにあった。

納涼の夏。怪談の夏ですものね。

 

 神田松之丞 小幡小平次

1月のシブラクで見た『鉄誠道人』以来であるから、実に7か月ぶりの松之丞さんである。もはや客席も含めてお馴染みとも呼ぶべき方々から、猫背の松之丞さん登場まで、全てが何だか懐かしい。私は特に『松之丞さんの追っかけ』的なファンではなく、今年の連続公演で十分に味わったので、ポイントを絞って見れたら良いかな、くらいの立場であるが、やはりその人気と実力は凄まじいものがある。

まず驚いたのは、物凄く痩せているように見えたことである。この7か月で色々と越えて来たものを感じさせる風格と佇まい。着物の色合いも相まって、実に渋くなっているように見えた。

そんな松之丞さんは、大きく感情を高ぶらせて話すことはなく、淡々としみじみと枕を語りながら、演目に入って行く。

Twitterでも多くの人が感想を述べているように、『おちか』という女性の、悪知恵の働く妖艶な声色、間、表情にゾクゾクとした。私のような美人好きには、一度は騙されたいと思ってしまうほどの魅力的な女性の姿が想像された。悪い女って、ああいう喋り方をするよねって、無意識に思ってしまうほどの、色気と艶。松之丞さんのトーンの合わせ方が気持ち良い。

後半に従っていくにつれて、話は盛り上がっていき、それに合わせて松之丞さんの語りは高まって行く。しっとりと、静かに、ひたひたと満ちて行く水が、満たされる直前で一気に溢れでていくような、緩急の語り。特に後半の場面は、恐らくいずれ、寄席のトリで怪談話をされるときには、完全に真っ暗となった照明の中で、伯山の顔が浮かび上がることになるのであろう。そういう意味では、とても貴重な場面を見ていることには違いない。一体いつになるかは分からない。今は寄席で神田松鯉先生が怪談話をされているが、神田伯山先生が怪談話をやるとき、私は今日という日を思い出すだろう。

人間の心の交差、男が女を求め、女が男を翻弄する。そして、一人の男はその間で死に、亡霊となって復讐する。暗い話ではあるが、そこに人間の本性を垣間見たような気がして、背筋がしっとりと汗ばむ。凄まじい一席だった。

 

 総括 ユメノマタユメ

会場を出ると、次の会の行列であろうか、大勢の人々がロビーに集まっている。チケットを求める列も長蛇であり、どうやら二公演とも大入りであったようである。

私は、どがちゃがを見つめながら、「載りたい」と思った。いつか、そんな日が来るのだろうか。それとも、永遠に来ないのだろうか。

答えはいずれ出る。

その日まで、待ち続けよう。

そんなことを思いながら、私は家へと急いだ。

粋な東男に~2019年8月4日 浅草演芸ホール 夜席 三遊亭笑遊トリ ~

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粋な東男を、京女に見せてやろうぜ

とことん

落語が好きだ。死ぬまで好きだ。これだけは間違いの無いことだ。『脚が狼を養う』という諺があるが、『落語が私を養う』と言っても過言ではないくらいに、休日や平日のぽっかり休みに、私は落語を求めて歩き、落語に生かされている。

どんな落語に出会いたいかと問われても、難しい話である。最近では、ネタ出し(予め落語家が演じる演目が公表されている)の会も多いが、私はむしろネタ出しされていない、偶然によって出会うネタに強い魅力を感じている。その場の空気感であったり、その時の気持ちであったりが、自然と、演じられたネタに集約されていくような感覚を味わうことが出来るからだ。

例えば、どこか料理店などに行って、コースを頼んだとする。予めメニューに記載された料理が出てくるのを待つよりは、『シェフの気まぐれコース』などと書いてある方が、「一体何が出てくるんだろう!」というワクワク感があって、楽しめる。メニューが分かり切ったコースだと、ある程度想像してしまうし、自分の心がメニューの一品一品に対して準備をしてしまうのだ。きっと、これはこんな味かななどと考えてしまうと、もはやワクワク感は失われ、業務的な食事になってしまう。

コース料理には、『ペアリング』といって、料理に合う飲み物(ワイン、ビール等)が提供される。これも、一品一品シェフによる説明が入ったりすると、その理論や考え方を知ることができ、また、料理が飲み物によって引き立つことを実感できたりするので、二重にコース料理を楽しむことが出来る。もちろん、自分が飲みたいものを飲みたい時に頼むのも良いが、せっかくであれば、シェフの至高の思考に触れてみたいとは思わないだろうか。

残念ながら、浅草演芸ホールでは落語家に合う飲み物は提供されない。「今、この落語家は『青菜』という演目を始めましたので、柳陰をお飲みください」なんてことは、誠に残念ながら、無い。「きく麿師匠が『だし昆布』を演じ始めたので、こんぶ茶をどうぞ」なんて、親切で配慮のあるスタッフは誰一人としていないのが現状である。もちろん、そんな場もあるにはあるのかも知れないし、もし存在するとしたら尋常ならざる興味があるが、果たして笑うことができるか心配である。きく麿師匠の『だし昆布』を聞きながら、こんぶ茶を噴かない自信が私には無い。

現状は、飲食可能な寄席に限って言えば、飲み物は自分で選ぶしかない。そのセンスは観客に委ねられている。私は大抵、水かお茶であるが、中にはアルコールの類を飲む者もいる。落語とアルコールの関係性について詳細に研究をしたわけではないが、私自身の体感からすれば、『お酒を飲んで聞いた落語は、その時はめちゃくちゃ面白いと感じるが、酔いが覚めた後に何もかも忘れている』という状態になるので、もともと記憶力の無い方や、落語家が演目に入った途端に演目をメモする癖のある人にはオススメである。

アルコールを摂取すると、人は陽気になる。摂取量に比例して陽気になると思われる。酔って陽気になることは誠に結構なことである。私自身は何度も陽気になって、しくじった経験があるので、今は美味い酒だけ一~二杯飲むようにしているが、中には安酒で、度数の高いものをガブガブと飲んで、酒に酔って酔狂なことをしでかす輩もいるのである。

それは、まさに、コース料理が出てきたとしても、お構いなしだ。

とりわけ、浅草演芸ホールのような場所には、そんな『アルコールによって陽気になった人々』が蠢いている。まるでゾンビかと思う。今しがた地中から這い出てきて、訳も分からず「ウオオー」や「イエアーイ」などと言いながら、千鳥足で彷徨い、両手をだらりと垂らし、目は虚空を見つめ、口からは涎を垂らし、ボロッボロのキャップと、薄汚いサンダルと、秩序を失ったワカメのような髭を蓄えた、愛すべき『アルコール・ゾンビーズ』達がうじゃうじゃと闊歩する街が、浅草演芸ホールである。

アルコール・ゾンビーズは『驚安』や『ペンギン』や『PANDORA』という文字に過剰反応する習性を持ち、血走った眼と不揃いな歯をギラつかせながら歩いている。噛まれたら大変である。即座に血清を打たねばならないので、もしも噛まれた人は『浅草ロック座』に逃げ込むことをオススメする。そこには、海底に行っても見つからない鮑が見れるので、それを拝見するだけでゾンビ化を防げる。が、間違ってもアルコールを摂取し、鮑に触れようなどと考えてはならない。もしも触れようとしてしまったら、それこそ一生クリミナルである。

さて、どういうわけか結構な頻度で、浅草演芸ホールにアルコール・ゾンビーズが紛れ込むことがある。浅草演芸ホールの一つの特徴と言っても良いのだが、夜席には大変多くのアルコール・ゾンビが侵入してくるのである。私も噛まれないように気をつけてはいるのだが、遠くから見ていると、なかなかに迫力があって面白いのである。

この日は、夫婦揃ってアルコール・ゾンビという大変珍しいことが起こった。メーカーは分からないが金色のビール(恐らく750mlの缶ビール)を両手に持ったゾンビが、桂小南師匠が登場された辺りから、突然、騒ぎだしたのである。

ああ、ヤバイ、噛まれるぞ。というスリルを味わいながらも、桂小南師匠は冷静に対処していく。ゾンビ夫婦を相手にしている最中、地震が起こったにも関わらず、桂小南師匠は動じない。動かざること山の如しの落ち着きようで、圧巻の『紙入れ』を披露して去っていった。

桂歌春師匠は優しく注意したのだが、それでもゾンビ夫婦は怯まない。どうやら、人間の言葉を理解していないようであった。

最も驚いたのは、三遊亭遊三師匠が『青菜』を演じられた際に、酔っぱらった旦那ゾンビが立ち上がり、数回スクワットをした後、他の客に絡もうとし始めたのである。やたらと遊三師匠の眼が客席に向かうので、何かと思ったら、夫ゾンビが観客に噛みつこうとしていたのである。これは浅草ロック座の鮑だろうか、とヒヤヒヤしていると、係員が止めに入って、そのまま退出させられた。そんなことも露知らず、妻ゾンビは眠りこけている。後に笑遊師匠のトリを前にして退出させられた妻ゾンビであるが、何とも幸福なゾンビ夫婦の姿に、私は涙が出そうだった。人間らしさを失い、屍になっても、酔って騒がなければならない運命が可哀想でならなかった。出来ることならば、素面で、缶ビールなぞ持参せずに演芸を楽しんで頂けたら幸いである。コント青年団さんとか、『ゾンビ・チャチャ』に屈せずに芸を披露されていて、超カッコ良かった。どうか皆様も、アルコール・ゾンビに出くわしたら、寛大なる慈悲の心で、塩をぶっかけて心のロザリオで突き刺して浄化させてあげてください。

 

というわけで、トリのお話。

 

三遊亭笑遊 祇園祭

袖から登場したとき、私は思わず叫んだ。

 

 待ってしました!!!

 

これをここで言わずして、

何が男か。

何が落語好きか。

何が演芸好きか。

そんな思いが、私の中で爆発した。というのも、笑遊師匠の登場までの間に、暴れ放題に暴れたゾンビーズ達が、全て浄化されたという心晴れやかな気持ちがあったからである。本当だったら、コント青年団さんだって、桂小南師匠だって、桂歌春師匠だって、素っ頓狂な奇声とゾンビ・チャチャに邪魔されることなく聴きたかった。

私にしては珍しく、怒っていた。

(くっそう。こっちは笑遊師匠を含めて高座に上がる人達の言葉を待ってるんだぞ!ぼくは非力だけど、誰とも比べ物にならない、落語愛だけはあるんだ!きっと楽屋だって、「なんか酔っぱらっているお客さんがいるから、気を付けてくださいね」みたいな言葉が交わされているかも知れないんだ!そんな風な空気で上がってくる笑遊師匠が、どんな気持ちでいるか分かっているのか!けしからんぞ!ゾンビーズめっ!)

だったら、である。

だったら、私が、

最後に、

これを言って、

全てを丸く収めよう。

というか、これを言わなくちゃ、

何もかもが、終わっちゃう。

残念なままに、終わっちゃう。

そんなのは、

 

 嫌だ!!!

 

だから、ありったけの思いを込めて、私は、

 

待ってました!!!

 

と叫んだのである。

その後のことは、詳細には書かない。ただ、私は笑遊師匠の、最高にカッコ良くて、痺れるくらいに熱い、素晴らしい高座を見た。ただただ震えて、それまでの何もかもが、熱く、熱く、情熱に満ちていて、きっと、笑遊師匠の中にも、何か込み上げてくるものがあったのかも知れない。

粋な東男を、京女に見せてやろうぜ

かっけぇな、かっけぇ。もうね、三遊亭笑遊師匠は、

 

 最高にカッコイイ!!!!!

 

二年前の夏。私は同じ場所で『祇園祭』を聞いた。客席の入りは寂しかった。興味本位で入ったサラリーマンを、笑わせよう、楽しませようとする笑遊師匠の姿が、めちゃくちゃカッコ良かったことを、今でも覚えている。あの瞬間に、私は三遊亭笑遊師匠に惚れたのである。そこには、確かな熱い魂があって、それはとても、カッコ良かったのである。

そして、二年が経って、あの時よりも客席は僅かだけど増えていて、私は「待ってました!」を言うことが出来て、そして、笑遊師匠の『祇園祭』はさらに進化を遂げていた。何もかもが、素晴らしいじゃないか。

最後のオチを言い終えて、笑遊師匠と目が合ったとき、これは私の勝手な思い込みだが、「ありがとね」と言っているような、優しい瞳をしていた。私がもっと若くて、今よりももっと好きなことを見つけていなかったら、弟子入り志願していたかも知れない。

そんなことを思いながら、私は両手が痛くなるほどの拍手を笑遊師匠に送った。

 

総括 粋な東男に、俺はなるっ!

浅草演芸ホールを出て、家に帰る道すがら、擦れ違うアルコール・ゾンビーズ達が目をトロンとさせて、永遠の眠りにつこうとする様を横で見ながら、私は三遊亭笑遊師匠の高座を何度も思い返していた。私も、二年前とは違って、色々な落語家の芸に触れてきた。言葉にしてきた。それでも、日々、進化していく落語家さん達の芸に、毎日、毎度、見る度に、驚かされているし、感動しているし、痺れている。

かつて私は『落語界のマッドマックス』だと三遊亭笑遊師匠のことを書いた。なぜか道楽亭さんがそれを微妙に変えてチラシにしていたりもした。

今、思うのは、三遊亭笑遊師匠は『落語界の宝』であると同時に、『落語界の粋な東男』でもあるということだ。あんなに熱くて、人情味に溢れた東男の高座は他に無い。どれだけ客の入りが寂しくても、たった数十人のためであったとしても、笑遊師匠の、本気の高座には、特別な輝きがある。

私は、これからもずっと三遊亭笑遊師匠の高座に触れていたい。独演会は最高である。出来ることならお近づきになりたいが、まだそこまでの勇気はない。でも、お手紙を頂く度に、独演会に足を運んでいる。そして、三遊亭小笑さんや三遊亭あんぱんさんのような、特別な個性を持ったお弟子さんも力をつけている。小笑さんに関しては未だに苦手だけれども(申し訳ない)

私も、粋な東男になりたい。人の気持ちを温めて、自らも温かく、熱く、人情に厚い、カラッとした男になれるだろうか。

果たして、私は粋な東男になれるだろうか。

いやいや、そうじゃない。

私は粋な東男になるのだ。

だって、私は三遊亭笑遊師匠の『祇園祭』を見て、

粋な東男とは何か、この目ではっきりと、

学んだのだから。

名人、古今亭文菊~2019年8月2日 鈴本演芸場 夜席~

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届く

 

今しかない今日

行く。朝に、そう決めた。今日は、パパっと仕事を終わらせたら、行く。どこへなんて、決まっている。鈴本演芸場、夜席、古今亭文菊師匠がトリを務める、8月上席である。

すぐにでも行きたい気持ちを抑えて、集中するべきときに集中し、それが終われば後は、脱力した蛙のごとく、ゲーコ、ゲーコと口からベロを出しながら、電車に乗って向かった。

うだるように暑いのだが、そんな暑さすらも凌駕するほどの熱が、私の中にはあった。10日間のうち、今日だけ、行こうと思っていたからである。それには幾つか理由があり、他にもたくさん行きたい場所、見たい場所などがあった。また、来週から10日間の休みで、旅行を計画しているため、今日という日は逃せない、と思っていたのだ。

だから、私は暑さを水でしのぎながら、鈴本演芸場の入り口前に出来た列に並び、開演を待っていた。

開場して、中に入ると、外の暑さが嘘のように涼しい。簡易冷蔵庫か、と思いながらも、私は足早に、お気に入りの席へと移動した。

そして、いよいよ開幕である。

全員を紹介すると、長くなるため、注目部分以外はダイジェストでお送りする。

 

前座は春風亭与いちさん。どことなく俳優に似た顔立ちで、抜群に上手い。一之輔師匠の物真似っぽくないところが、私は好きである。続いて、春風亭ぴっかりさんの可愛らしい新作から、やたらと指を舐めるマギー隆司さん、柔らかくて高い声で、若干スリルもあった古今亭菊生師匠、圓太郎師匠は会場のお子さんを見て、温かい桃太郎が染み入るような絶品の語り。ペペ桜井先生は相変わらずで、百栄師匠も肩の力が抜けまくったコンビニ強盗、菊太楼師匠の立て板に水の語りで仲入り。

仲入り後は、畳み掛けるようなリズムと語りで攻める笑組さん、先代の三遊亭圓歌師匠のエピソードが最高に面白い三遊亭圓歌師匠。

紙切りでは、花火、筋肉マン、紅葉の木を切り上げた林家楽一さん。

そして、古今亭文菊師匠のトリである。

 

古今亭文菊 井戸の茶碗

文菊師匠が袖からお姿を表された。

この時の気持ちを、私は以下に記載している。

とどく|「わたし」はなにもかんがえずにいきたかった。|note(ノート) https://note.mu/namonakimonokaki/n/n478c44bf3bf1

合わせてお読みいただければ、幸いであるが、文菊師匠が袖からやってくるまでに、色々と考えていたことがあった。

まずは準備段階で、楽一さんの時に『ブンギクシショー』と言って、文菊師匠を切ってもらおうと思ったのだが、『花火』や『筋肉マン』の前に敗れ、敢えなく撃沈。次はもっと人が少ない時を狙って、文菊師匠を切ってもらおうと思う。

紙切りのタイミングで、声を鳴らした後、文菊師匠が登場。拍手が鳴って、私は叫んだ。

 

「待ってました!!!」

 

色んな思いが込み上げており、イントネーションも正しかったのかも分からない。それでも、文菊師匠に届いた、ということが確かめられて、良かった。

本当に、良かった。

それからのことは、もはや、詳細を語ったところで意味が無いと思えるくらいに、素晴らしかった。

前にシブラクで見た『井戸の茶碗』とは、比較にならないほど、たっぷりと、くっきりと、丹念に、丁寧に演じられていた。一切の淀みの無い、清らかな流れの如き語り口。

何よりも、私が「待ってました!」と言った影響かどうかは分からないが、いつにも増して、文菊師匠が嬉しそうに、楽しそうに、満ちて、演じられているように感じられたのである。一つ一つの言葉に実感が籠っていて、私は登場人物の心の機微に、胸を締め付けられ、息を飲むような思いがした。

そのとき、はたと気がついた。

見る側の姿勢は、思わず口をついて出てしまうような「待ってました!」によって、整うのではないだろうか。すなわち、演者と観客の芸は、たった一言を発するだけで、特別な物に変わるのだと、私は思ったのである。

今までずっと、「待ってました!」と言えない自分がいた。周りの人たちが、「待ってました!」と言うのを、羨ましく思っていた。だが、今日は私が「待ってました!」を言う側に立った。これは、とても、大きな一歩だと思った。同時に、それまでの演芸を楽しむ気持ちが、より一層、強く、強固なものになったように思った。

勇気を振り絞って声を出した一夜は、特別な一夜になった。

オチを言い終えた後の、文菊師匠の優しいお辞儀が忘れられない。

全てが、特別な一夜になったのだ。

 

 総括 名人 古今亭文菊

終演後、私の頭にはずっと、『名人だ』という言葉が溢れ続けていた。幕が下がった後も、思わず、「いやぁ~、名人だぁ」と言うほどである。それほどに、名人だった。文菊師匠は今も、そしてこれからも、名人であり続けると思う。名人である。もう、終演後に居酒屋に行ったら、酔っぱらった私は、「名人ですね、名人。もう名人だよ、名人。名人、名人名人名人」と、ウザいくらいに名人を繰り返す迷(?)人になっていただろうと思った。

現に、帰り道もずっと、頭の中でくりかえされる『名人』という言葉が、気持ちいいくらいに響いた。本物の名人である。文菊師匠は、間違いなく名人である。

また、井戸の茶碗は私にとって特別な一席である。その理由はここには記さない。

本当に素晴らしい一夜になった。私自身は、これからも、「待ってました!」を言い続けたいと思った。

今日言えたのだから、次も必ず言える。

ますます、落語を見るのが楽しみになった。

そんなことを噛み締めながら、家に着いた。

幸福な一日。

毎日を笑って過ごせる。

そんな一日が、少しでも多くなるように。

祈りながら、この記事を終える。

ハード・パンチな熱量に燃えて~2019年7月30日 王子落語会~

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へぇー、こんな会があったんだー

 知らない扉はすぐ開ける

きっかけはTwitterである。

とある方から『桂米紫さんを見てほしい』というようなメッセージを頂いた。早速、これはチェックせねば、と思っていた矢先に、たまたま『王子落語会』なるものが開かていることを知り、米紫さんが出演されている。他に鯉昇師匠もいることから、間違いないだろうと思い、行くことを決めた。

昔から好奇心は旺盛であるし、あらゆる穴という穴に顔を突っ込み、顔中傷だらけになるなんてことは日常茶飯事小三治であるから、ワクワクする気持ちが勝っていた。

いつだってそうだが、初めての人を見るのはワクワクする。モハと書かれた電車に乗って向かったが、気持ちはウハ、ウハウハである(東海林さだお先生オマージュ)

知らない扉、まだ入ったことの無い部屋には、割とすぐに入ってしまう性質があり、そのおかげで随分と見識も傷も増えたが、それはそれで良いだろうと思うのである。若いせいもあるが、立ち直りが早い。起こり上がり小法師よりも早い。

王子という街には、伸べえさんの独演会でしか来たことが無かった。駅前が何となく亀戸に近い雰囲気を感じる。ちょっとゴミゴミしているけれど、ぽつぽつと整理されている感じ。

だらだらっと歩いて会場へ向かうと、「えっ!?ここっ!?」みたいな場所で、会が開かれていることに驚いた。

まず入って驚いたのは、スタッフがとても親切で優しいこと。そして、地下の階段に降りて行く途中で、上から舞台が眺められる窓があること。まるで、プーク人形劇場を彷彿とさせるような、こぢんまりとした会場ながら、確かな歴史と雰囲気を醸し出す佇まい。おまけに、殆ど他の会で見たことのないお客様も多く、地域密着型の会なのだろうな、という感じ。

聞けば、年二回の開催だそうで、貴重な会に参加することが出来て良かった。

中に入って開演を待つ。スタッフさんの素晴らしい呼び掛けに、心が和む。良い会場だなぁと思っていると、お客様もゾロゾロと入ってきて、あっという間に満席になった。

さらに驚いたのは、開演前のお囃子。二番太鼓がめちゃくちゃ上手い。笛も太鼓も物凄く上手で、それを聞いただけでも「うわぁ~、良い会だなぁ~」という感じになる。残念ながら笛を吹いていた方と、太鼓を叩いていた方を見ることが出来なかった。結構、心残りである。それにしても上手な演奏だった。

そんな上手な演奏の後で、開口一番は、この方である。

 

三遊亭金かん 狸札

様々な会でお目にする確率が多い金かんさん。独特のスタイリッシュな風貌と語り口、そして何より、三遊亭金遊師匠の魂を受け継ぐ、正統派の落語家だ。下手に奇を衒うこともなく、シュッとした佇まいと、シンプルな語りが耳に心地いい。これからどんな風に金かんさんの色が突いてゆくのだろう。三遊亭笑遊師匠の門下に移っても、そのスタイリッシュさは失わずに、笑遊師匠の熱量を受け継いで、落語を演じ続けて欲しいなぁ。と思う。

素晴らしく爽やかな一席だった。

 

瀧川鯉昇 鰻屋

出囃子が鳴り、座布団に座るまでの所作から、全てが『鯉昇ワールド』に包まれていた。マクラの扇風機の噺から、会場のこと、徹頭徹尾、面白い。語りの間、そして紡がれる言葉。何も特別なことはないのに、日常のほんの些細な『ズレ』を思いっきり見せつけて、爆笑を巻き起こす。何も考えずに聞くことができるけれど、終わった後で、色々と考えたくなる性分なので、こうやって書いている次第である。

鯉昇師匠の、肩の力が抜けているのに、決して真剣には見えないのに、笑ってしまう不思議な魅力。一体自分でも、なんで笑ってしまうのか分からないくらいに、とにかく面白いのである。気がついたら笑っているのである。

何よりも、情景描写が的確で、物凄く想像しやすい。きっと緻密に言葉を調べれば謎が解けるのかも知れないが、不思議と聞き終えた後は、殆ど何も覚えていないのである。何か心をくすぐるような、面白い言葉があったと思うのだが、それが記憶に残るほど定着しないまま、霧の中へと消えて行き、面白かったという気持ちしか、聞く者に残さない。

あの凄まじさは、まだまだ見なければ分からない部分だろうと思う。

それにしても、素晴らしい鰻屋だった。ちょうど旬な話だった。

 

 桂米紫 法華坊主

お初の米紫師匠、そして今回のお目当て。舞台袖から登場した時は、思わず「サッカー選手!?ボクサー!?エグザイルの人!?」と思うくらいに、シュッとしているように見えた。Twitterで画像を見た印象では、もっとお坊ちゃま系の『ぼくちゃん、ぼくちゃん」とした不思議な雰囲気を醸し出す人かと思っていたのだが、まるっきり、その予想を180℃反転させた、激しく強そうな雰囲気。

第一声を聞いて、そのハスキーボイスに驚く。おお、結構ハスキー系なのね、と思っていたら、どうやら舞台で声を出して喉を傷めてしまったそうだ。

それでも、目には炎が灯っている。ああ、どこかに同じような熱量を持った落語家がいたことを、私は思い出した。

そう、そうだ。桂九ノ一さんとはまた異なる、激しい熱量。右へ左へ、デンプシー・ロールでもするかのように、畳み掛けられる言葉。そして何よりも、眼の眩しさ。

 

うおお!!!熱ちぃいいい!!!

 

と、思わず心が滾った。京都からはるばる王子まで来るほどの熱量である。熱くないわけが無いではないか。どこからどうみても減量中のボクサーのような雰囲気でありながら、しっかりと笑いをかっさらっていく。まさにマイク・タイソン並みのハードーパンチャーだと思った。

喉を傷めていても、珍しい噺ということで、三つの小噺からなる『法華坊主』を演じられた。面白い話で、私も宴会などで使おうと思うのだが、オチしか覚えていない。

次は、喉が完全に回復したときに、一席聞いてみたい。

Twitterでの情報で知ることが出来て良かった。熱い熱い落語家さんというのが、私の今の印象である。

会場もドッカンドッカンと受けて、素晴らしい熱量の一席だった。

 

 神田京子 番町皿屋敷

 書く言葉が見つからないので、書かない。

 

 総括 熱量に燃える

結果、素晴らしい会であったことには間違いない。金かんさんのシュッとした佇まい、鯉昇師匠の安定の爆笑スタイル。そして、お初の米紫さんの熱量に惚れた。

本当に、上方落語を見ることが出来る人達が羨ましいと思うのは、一つ、この熱量にあると私は思っている。今回は彦八まつりにも行こうと思っているから、上方の落語ファンの皆様が、どんな思いで落語家さんに接しているか、どんな笑顔がそこにあるのか、この目で見たいと思っている。

本当に素晴らしい、心燃える会だった。次もまた、米紫さんを聞く機会があったら、見に行きたい。そうそう、米朝師匠の一門のお弟子さん達は、品があって、力強くて、芯があって、素敵だなあと思う。心惜しいのは、米朝師匠の高座を見ることが出来なかったことであろう。

それもまた一つ運命。肉体は消えども、魂は繋がれている。私はそう思うのである。

では、またの機会に。