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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

『けんこう』に生きる力~2019年8月16日 人形町噺し問屋88 三遊亭兼好独演会~

 

今日が退院後、最初の兼好師匠なんです。

 

よぉ~、よぉ~い

 

健やかに、康らかに、あなたの好きを兼ねて笑おう

遠い故郷 離れてみれば

故郷を離れ、再び東京の住まいに戻ったとき、私の胸の中には、いつもとは違う何かがあった。それは、私自身に嬉しいことがあり、それを両親、親戚の祖母、地元の友人が祝ってくれたからこそ、生まれたものであろう。

人に褒められることに慣れていない私にとって、なかなか人から祝われるというのは、特別な体験であった。褒められることに慣れていないくせに、自らの嬉しかった体験を人に話すという矛盾もあるが、考えてみれば、私は幼い頃から、どこか自分の体験を人に伝えたいという癖があったようである。

そのために、私は言葉で文章を書き続けてきた。

自分が思ったことは、どうやら色んな人に伝わるのだと分かってきた頃から、今の大好きな仕事とは別に、このブログを続けようと思い始めた。

多くの人の支えがあり、また、読者のおかげもあって、こうして続けることが出来ている。その継続の中で、一つの夢が叶った。これは本当に記事を読んでくれる読者のおかげである。深く感謝を申し上げたい。

そんな私は、地元の励ましの後で、どんな会に行くのだろうか。自分でも興味があったので、ざっと演芸情報を調べていると、『三遊亭兼好独演会』の文字。

これだ。

私はすぐに身支度を整えて、家を出た。まだ間に合う。

当日券があるかは分からないが、ダメ元で行ってみよう。

勢い勇んで、会場へと向かった。

そして、私はとても幸福な空間、人達、そしてお話に出会うこととなるのだった。

 

地元のパチンコ屋の話

地元に帰った時の話であるが、友人がこんな話をしていた。

「いつも行くパチンコ屋に良く来る婆さんがいるんだけど、この前、顔を覆うような大きな包帯を巻いて、パチンコ屋にきたんだよ。おれが思うに、その婆さんは旦那に殴られたりしてるみたいなんだ。たまに夫婦で来たときなんか酷いぜ。旦那に怒鳴られてさ、自分の好きな台に座れないんだ。あれで何が楽しいのか、さっぱり分からないけど、それでも、パチンコ屋に来るんだぜ、なぁ、照、信じられるか?おれは、包帯巻いてみすぼらしい恰好をしてまで、パチンコ屋に行くほどパチンコ好きじゃねぇけどさ。ありゃ驚いたよ」

その話を聞いて、私はしばし考えた後、

「歳を取れば見た目なんて気にしなくなるほど、好きなことに熱中するのかも知れないよ。旦那に殴られて怪我しても、好きなものの前じゃあ、関係無くなってしまうんじゃないかな」と言った。

友人が考え込んだ様子で、「そういうもんなんだろうなぁ。周りなんて関係無くなるほど、熱中するのも考えものだなぁ」と言うので、「ある程度、常識の範囲で周囲を気にすることは大切だけど、何とも言えないね」と私は応えた。

本当に好きなものに熱中したら、人はどんな風に周りに見えるのだろう。傍から見れば、少しヘンに見えるのだろうか。ただ、私にはそのヘンを否定することが出来ない。なぜなら、私にも程度の差こそあれ、包帯のご婦人と同じように、熱中しているものがあるからである。たとえ、足の骨が折れてでも見たい演芸と見たい噺家がいるから困りものである。

そんなことを考えるような出来事が、詳細は言えないが兼好師匠の独演会、開演前にちらっと、あった。

ちょっと耳に挟んだだけなので、以下、敢えてボカして書く。

 

決断の理由

人は、自分にとって重大な決断をしなければならないとき、自分にとって最も重要な理由で無い限り、なかなか決断することのできない生き物である。

たとえば、両足にウイルスが侵入し、切断しなければならなくなったとする。自らの両足を切断しなければ、死に至る状況だったとする。それでも、なかなか両足を切るという決断が出来ない。周りから「両足切らないと、死んじゃうんだよ!?」と説得されても、意固地に「いやだ。切りたくない」の一点張り。単に「死にたくないから」という理由では、両足を切断する決心がつかなかったとする。「死にたくない」という気持ちが、自分にとって最も重要な理由では無かったとする。

どんなに死が傍に立っていようとも、人は自分にとって最も重要な理由で無い限り決断しない。では、最も重要な理由とは何か。

少し胸に手を当てて考えて欲しい。あなたは「死にたくない」という理由で両足を切断する決心がつかなかったとき、どんな言葉をかけてもらったら、両足を切れるだろうか。

様々に理由があるだろう。

独演会の会場で私が聞いたのは、こんな言葉だった。

「両足を切らないと、兼好師匠の落語が聴けなくなっちゃうんだよ?」

 

その言葉で、両足を切ることを決断した人がいる。

実際に、両足を切り、無事、生きることが出来るようになった人がいる。

これはたとえ話なので、実際には両足切断ではないが、

それに近い内容の、大きな決断をした人が、

兼好師匠の独演会の会場におられたのである。

「今日は両足を切断してから、最初の兼好師匠の独演会なんですよ。本当に楽しみで楽しみで」

そんな話を、笑顔で、嬉しそうに語るお客様の姿を見たとき、

私は言いようの無い感動に震えた。

そうか、生きる力を兼好師匠に頂いているんだな。

そんなことを思ったとき、三遊亭兼好師匠の、芸だけではなく、人間としての素晴らしさを垣間見たような気がした。

会が始まって、嬉しそうに笑う、その人を見ているだけで、不思議と心が温まった。思わず心の中で、「良かったですね。元気になられて」と呟いた。

その人は体を揺らしながら笑い、時折隣の人と微笑み合っていた。大きな決断の後で、待ちに待っていた兼好師匠の落語を聞くことができる幸福を噛み締めていた。想像することしか出来ないけれど、きっと最高の幸福をその人は味わっていたに違いない。

生きて行くことの支えに、重大な決断の理由の中心に、三遊亭兼好師匠の落語が存在していることの素晴らしさ。そして、そんな生きる力を観客に与える、三遊亭兼好師匠の素晴らしさ。

たとえ、『佃祭』と『大安売り』と『錦の袈裟』と『粗忽の使者』の四席しか聞いたことの無い私であっても、芸を見る前に三遊亭兼好師匠が大人物であることが、客席から分かる。優れた噺家の周りには、優れた観客がいることを忘れてはならない。

そんなエピソードを、私はどうしても紹介したかった。きっと、このエピソード一つだけでも、いかに三遊亭兼好師匠が優れた噺家であるかが、お分かりいただけると思う。また、余談だが、大きな決断をした人が嬉しそうに兼好師匠から頂いたサイン色紙を眺めていた。そのサイン色紙の言葉、絵から放たれる雰囲気たるや。筆舌に尽くし難し。是非一度、兼好師匠の独演会にお運び頂き、兼好師匠の素晴らしさに触れて頂きたいということを記して、演目に移りたいと思う。

 

 三遊亭兼好 あいさつ

トークの内容については触れないが、時事ネタから日常の出来事まで、兼好師匠独自の視点が物凄く面白かった。客席のご婦人方も思わず頷きながら聞いてしまうほど、知性に溢れた心地よく面白い内容と語り。スタンダップ・コメディもお手の物である。

人生を明るく楽しく過ごす兼好師匠の素敵な挨拶で幕開け。

 

三遊亭西村 浮世根問

45歳で前座、三遊亭好楽師匠の9番弟子ながら『好』の字も、『楽』の字も名前に無い西村さん。プログラムを見た時は、「んっ!?誰!?」となったが、シュッとした顔立ちで、場慣れした語り。流暢な語りとまっすぐな目が素敵な噺家さんである。

 

三遊亭兼好 町内の若い衆

『あいさつ』で会場を爆笑に巻き込み、温まった会場で披露されたのは『町内の若い衆』。女将さんの演じ方が肝な話だと個人的には思うし、それぞれの噺家さんで、どんな風に女将さんを演じられるのか聞き比べも楽しい一席である。内容はざっくり『良い女将さんの言葉遣いに感銘を受けた男が、自らの妻にも強要するのだが・・・』という話で、前半に登場する大工の親分の女将さんと、後半に登場する職人の女将さんとでは、色気から何から全く違っている。私はどことなく、どちらも品があって素敵な女将さんであることには間違いないのだが、家の清潔さや、育ってきた環境など、あらゆるものに格差がありながらも、冗談半分で逞しく生きる人の朗らかで、明るい流れが漂っているように感じられた。

出てくる登場人物も皆が明るくて、カラッとして生きている感じ。最後の女将さんの台詞も、本気とも冗談ともとれるような言い方が新鮮だった。演者によっては、本当に女将さんが「よってたかって」で拵えたと思う人もいるが、兼好師匠の場合は、少し茶目っ気を出して、オチの後で、「ふふふ、冗談よー」なんて言いそうな雰囲気だった。

さらりと流れるような語りのリズム、その心地よさたるや、清流の如し。まるで川を照らす日の光に目を奪われるかのような、最高の一席だった。

 

柳家小太郎 唖の釣り

完全アウェイな空気を、むしろウェルカムな空気に変換させて、畳み掛けるような独自の語りのリズムで、一気に会場を味方に付けて沸かせた小太郎さん。もはや十八番と言っても過言ではないネタである。唖の釣りの小太郎さんは最高である。今のところ、小太郎さんで唖の釣りを聞くことが多いので、断トツで小太郎さんの『唖の釣り』を聞くことをオススメしたい。

内容は、『二人の男が釣りをしにいくのだが・・・』という感じで、見どころは何と言っても、釣りを役人に咎められた男が、どんな風に対処するかという部分である。一人目の男も面白いのだが、二人目の男が緊張のあまり舌が突っ張り、上手く言葉を言えなくなる。そこからの怒涛の釣りの言い訳ボディランゲージが、小太郎さんの十八番とも呼べる部分であると私は思っている。

ドッカンドッカンと笑いを起こして、会場も爆笑の渦に巻き込まれた。可愛らしい愛嬌と、独自の明るさとリズム、小太郎節とも呼ぶべき軽快な語りの凄まじさ。いずれ、真打になったら、爆笑の古典派として名を馳せるかもしれない。そんな素晴らしい才能が、爆発した一席だった。ダブルピースはささやかにやりました。

 

三遊亭兼好 三十石 夢乃通路

様々に便利になった乗り物の話題から演目へ。暑い季節だから『船徳』かなと思いきや、「あんたがた」のフレーズで、演目が分かる。思わず、

 

 うおお!!!三十石だぁああ!!!

 

年末に紋四郎さんで聴いて以来の三十石。兼好師匠の「あんたがた」のフレーズには、三遊亭圓生師匠の魂を感じて震えた。ゾクッとしながらも、三十石舟へと乗り込む二人の旅人の姿が想像される。

この話は、簡単に言えば『京都からの帰りに二人の男が船に乗って大阪へ行く』という内容である。これだけ見れば、大した話では無いように思われるかも知れないが、様々な登場人物が話に登場し、そのどれもが個性的で、演じ分けもかなり難しいのではないかと思うほどに、とても難しい噺であると私は思っている。

三遊亭兼好師匠ならではの身体表現というか、言葉のニュアンス、強調するポイントがとても面白い。特に、登場人物の中では船頭が好きである。ぞんざいな言葉を使うが、とても心優しい船頭なのである。船に乗るお客様を何よりも大切にし、仕事仲間には厳しく、子供のお願いを快く引き受ける船頭。そんな素敵な船頭が唄う舟唄の素晴らしさたるや。鮮やかで清らかで、何とも言えない爽快な心地良さに痺れる。この舟唄を聞いているうちに、気が付けば私は舟に揺られ、ともに大阪へと向かっているのであった。

また、兼好師匠の用いる京言葉や上方の言葉遣い、トーンが素晴らしいのである。大阪の繁昌亭界隈、動物園前界隈に足を運んだ私は、そこで多くの関西弁を耳にした。恐らく私の脳内バイアスもかかっているのだろうけれど、江戸の落語家さんが用いる関西弁に近い関西弁があちこちから聞こえた。特に大阪のおばちゃんに顕著で、『スーパー玉出』などにいる人々の言葉は、まさに関西弁の真骨頂で、あのギラつくようなネオン管の光と相まって、強烈に印象に残っている。

わざとらしさの無い関西弁というのは、江戸の落語家さんにとってはかなり至難の技なのかも知れない。生粋の大阪出身者からすれば、「あんなもん、関西弁ちゃいますわ」なのかも知れないが、日常的に関西弁に触れることの少ない私を含む多くの関東の人には、本物との違いが分からないほど素晴らしい関西弁だった。そもそも、『関西弁』という言葉も大阪育ちの方から怒られないか心配であるが、そこはご容赦頂きたい。

もしかすると、真の関西弁は一生私には体得できないのかもしれない。生粋の大阪出身者でない限り、恐らくずっと脳内バイアスがかかって関西弁を聞くことになるのではないか。それはそれで諦めようと思うし、細かく言うつもりはない。ただ、兼好師匠の三十石に出てくる関西弁を用いる人々は、私にとって本物の関西弁を用いる人だったことには間違いない。物凄い研究というか、関西弁の習得に力を注がれたのではないかと思われるが、その努力を感じさせないほど滑らかな語りに驚愕する。派手さは無いけれど、細部で物凄い輝きを放ち、噺の説得力に磨きをかけている兼好師匠の凄まじさを感じて、さらに痺れた。

何と言っても聴きどころは、鳴り物入りの船頭の舟唄であるし、満員の舟で妄想に走る男の姿も面白い。色んな登場人物が、色々な表情と声色で登場する。その賑やかで、清らかで、何も起こらない日常の、永遠の温かい光の輝きが、そこにはある。

兼好師匠の美しい声と、温かい人と人との交流と笑み、全てが生きていることの美しさに溢れていて、絶品、絶品、

 

 絶品だよ!!!

 

終演後、興奮した隣のご婦人が「凄かったわねぇ!!!」と私に嬉しそうな表情で話しかけてきた。見ず知らずの人にも、思わず即座に共有したくなってしまうほどの、とんでもなく、素晴らしい、三十石だった。あんなに素晴らしく清々しい気持ちになれる三十石、是非、皆様にも聞いて頂きたい。そして、船頭の舟唄を聞きながら、舟にゆらり揺られて、人と人との交流の美しさに触れて頂きたいと思った。

私が語らずとも、もはや多くの人々を魅了している三遊亭兼好師匠。改めて、その素晴らしさを存分に体感し、発見した独演会だった。

 

 素晴らしい!!!兼好師匠!!!

 

総括 『けんこう』に生きる力

冒頭に記したように、兼好師匠の落語を見るために、大きな決断をする人がいる。ひょっとすると読者の中にも、「この人の落語を聞くためなら、どんな手術だって受ける!」という人もいるだろう。たとえ癌になったとしても、「文菊師匠の落語を、また聴けるんだったら、何だって治療を受ける!」と、私だったら言う。

そんな、生きる力を与えることの出来る兼好師匠の素晴らしさもさることながら、会場に集まったお客様の実に温かいこと。類は友を呼ぶとも言うように、素敵な人の周りには素敵な人が集まってくるのだ。そして、そんな人が一同に会して、一人の演者の話芸を楽しみ、大いに笑う。なんて素敵なことだろう。生きる力が湧いてくるではないか。

どんなことであっても、本当に好きなもの、熱中できるものに出会った人は、それを支えに生きているのだ。そう思えるものに出会った人の生きる力は凄まじい。

私にも、本当に好きなもの、熱中できるものが、たくさんある。ひょっとすると普通の人より多いかも知れない。誰よりも、色んなことに、貪欲な探求心があると自負している。そんな私の生きる力はきっと、凄まじいに違いない。

独演会に集まった人々は、『兼好』に生き、『健康』に生きる力を持っていた。

思い返しても、素敵な、素晴らしい会だった。また、行きたい。

いつの間にやら、兼好師匠の落語が聴きたくなっている。

また一人、追いたい噺家が出来た。

財布と相談しながら、極力、見に行くことにしよう。

さてさて、あなたは、どんなものに、生きる力を見出しているだろうか。

あなたが今日も明日も、健やかに生きられる支えに、

もしも私のブログがお役に立てているのだとしたら、これ以上の喜びはない。

重ねてお礼を申し上げます。読む人のおかげで、今があります。

本当にありがとうございます。それでは、また。