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心臓の鼓動(1)~2019年9月13日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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おあとはとはとは

 

ごちそうさまでした

 

お酒様

 

横櫛 

  

神様のいたずら

「なぁ、これ何て読むの?」

ユーロライブの壁に貼られたシブラクのポスターを眺める青年二人。

金髪の男がツーブロックの男に向かってそう言った。

「くまたがわ、うまいしじゃね?」

「変な名前だな」

それは「すみだがわ、ばせき、だ!」と心の中で思いつつ、私はぼんやりと渋谷らくごのポスターを眺めていた。

9月13日~9月17日まで、隅田川馬石師匠がトリを取る五日間。落語に興味の無い人にとっては『くまたがわうまいし』が語る五日間である。

十代目金原亭馬生師匠から、五街道雲助師匠へと受け継がれ、そして隅田川馬石師匠へと、継承の系譜を辿る『お富与三郎』。男女の色恋の話と言われているが、内実はもっと複雑に絡み合っている。

直前まで、行くか悩んでいたのだが、一話だけ見て、興味が無かったら止めようと思っていた。ところが、一話を聴いて、その凄まじさに身震いし、最終日に不安はありつつも、私は五日間、通しで隅田川馬石師匠の『お富与三郎』を聴くことに決めた。きっとこれは神様のいたずらであろう。

さて、今宵は隅田川馬石師匠をトリに据えた回である。一体『お富与三郎』とはどんな話であるのだろう。他の演者は一体何をやるのであろう。そんな期待感の中で、シブラク20時回が始まった。

 

 柳家小はぜ やかん泥

物凄く若く見えるのだが、37歳の小はぜさん。歳を取らない薬でも飲んだのかと思うほど、きらきらとした眼差しと笑った時の笑顔がマダムキラーな噺家さんである。

ふんわりとした柔らかくて優しい雰囲気があって、マシュマロとかマカロンが好きな人は小はぜさんが好きになるのではないか。一定のトーンと愛嬌のある間が可愛らしい。

間抜けな新米泥棒のオトボケっぷりが炸裂する『やかん泥』というお話。泥棒をするという犯罪のお話でありながら、リスが他のリスの家から胡桃を盗んでいるかのような、ほんわかとした空気が流れている。

人生、誰と出会うかは分からないが、何事にも向き不向きというものがあるらしい。たとえ、泥棒という道に足を突っ込んだとしても、小はぜさんの描き出す新米の泥棒だったら、きっといつかは立派な人間になるのではないか。どんな因果か泥棒になった新米泥棒の、温かな前途の見える一席だった。

 

玉川奈々福/沢村美舟 阿武松緑之助

渋谷らくご浪曲お姉さんである奈々福さんの登場。美舟さんは妖艶な佇まいに、左手薬指にはキラリと指輪が光っている。男だから、女の左手薬指は癖で見てしまう。話しかけることなど無いのに、美人を見るとつい「結婚してないかな・・・」と確認してしまうのは悪い癖である。私が与三郎だったら、手を出している(何を言っているやら)

三味線の音に導かれて、語られたのは『阿武松緑之助』。大飯食らいの力士が入門した相撲部屋を追い出され、死のうと思っていたところ、その飯の食い様を認められ、再び別の相撲部屋に入って稽古し、やがては自分が追い出された相撲部屋の親方と勝負をするという一席である。

人の才の向き不向きは誰にでもあるだろう。それをとことんまで突き詰めて行けば、必ず誰かが認めてくれる。その才が例え人より何十倍何百倍と飯を食うことであったとしても、人との差異は些細なもの。差があるか無いかなどどうってことではない。

浪曲の話となると、随所に派手な見せ場がある。特に大飯をモリモリに盛る女中の姿や、三升も食べつくした長吉が「ごちそうさま」と言う場面には驚いた。「阿武松って、ごちそうさまって言うんだ・・・」という驚きがあり、落語で聞いてきた『阿武松』では、ただの一度も長吉はごちそうさまとは言わなかった。そこが少し驚きだった。一人の名横綱の人間らしさがぐっと身近になる一言だった。

最後に武隈と戦う場面ではいつもうるっと来てしまう。特に勝利した長吉に向かって負けた武隈が言い放つ「強うなったなぁ~」という言葉を聞くと、うううっと胸が締め付けられて、感動する。

たとえ一度は捨てられた才能も、諦めずにいれば花開く。圭子の夢は夜開く。自らの才能とは何かを考えさせてくれる。温かい一席でインターバル。

 

 立川吉笑 親子酒

冒頭からガッツリホーム感の吉笑さん。マクラでは禁酒の話題から、未来の真打昇進パーティまでを詳細に語るという爆発ぶり。捲し立てるような語りで、想像を詳細に語り出す様は、『湯屋番』で番台に立つ若旦那よろしく、一人キ〇ガイになっていて、観客の想像の中で繰り広げられる吉笑さんの真打昇進披露パーティがとてつもなく面白く、全員がパーティに出席したいと思ったことだろう。

ノリにノッた吉笑さんの禁酒解禁の妄想から、演目は『親子酒』である。「おおっ、まさかの古典かっ!」と驚いたが、そこは立川流である。オーソドックスな古典落語になる筈がない。

その予想を遥かに上回るほど、吉笑さんらしい仕掛けが爆発する話だった。

禁酒の約束をした親子。だが次第に耐えられず結局は飲んでしまう親。そこに帰ってきた息子も酔っぱらっていて、親子ともども約束を破って酔っぱらうという『親子酒』の一席。

特に、マクラの一人キチ〇イが『親子酒』の話の中でも効果を及ぼしていて、吉笑さんの巧みな構成力が、マクラと演目に階層と繋がりを感じさせた。この辺りは恐らく狙ってやっている気もするのだが、緻密に計算され、会場の温かい雰囲気と相まって熱狂の話になった。

汗だくになり、若干のトランス状態にあるかのような吉笑さんの語りが凄まじい。禁酒の約束を破った後の、女将さんの入れ知恵に僅かなしたたかさを感じてドキッとする。夫婦の禁断の関係まで感じさせるような男女の行動を、さらりと語る吉笑さんのスマートさが、古典落語を現代的な感覚で再構成しているように思えた。

普段の古典落語に飽きたり、ちょっと古典落語の雰囲気が肌に合わないなと思ったら、立川流をオススメしたい。特に談笑一門の噺家さんのオリジナリティは凄まじいものがある。また、落語芸術協会噺家さんも率先して古典落語を現代風なアレンジを入れてやっている方もいる。落語協会では新作派の噺家さんや鈴々舎馬るこさんが古典改作派の筆頭だろう。一度聞いたら二度とオーソドックスな古典落語が聴けなくなる危険性もあるが、楽しみ方は人それぞれである。

余談だが、私は目をパチパチしました。(隅田川馬石師匠の公演全部を聴くという人は、目をパチパチさせてくださいという吉笑さんの問いに対して)

素晴らしい熱気と、爆笑の渦に包まれた一席。立川吉笑さんは今後、ますます吉笑さんらしい落語を生み続けていくのだろう。そんな勢いと熱量を感じた素晴らしい一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その一~木更津の見初め~

さっぱりとした髪型と、餡子のような薄紫のお着物を着て登場の馬石師匠。丁寧なお辞儀の後、染み込むような優しい声と間で、今回の企画にお礼を述べて、普段の不思議な雰囲気を消して、語りの中でも自分を消していく馬石師匠。

驚くほど想像しやすい語りと磨き上げられた言葉。ゆったりとした語りのリズムに伴って情景が鮮やかに浮かび上がり、一瞬で世界はお富与三郎の世界へと変わっていく。

脈々と受け継がれた話であるだけに、馬石師匠の気合も並々ならぬものがある。全く落語を知らない人が聴いても、容易に情景を想像することができ、また、その語りの心地よさに心が惹き付けられることは間違いない。

『お富与三郎 その一 木更津の見初め』は、見ただけで女が帯を解くほどの美男子である与三郎と、博打打ちの赤間源左衛門に金を積まれ妾となった絶世の美女であるお富が出会い、互いに逢瀬を重ねて行くのだが、子分の告げ口によって事が露見し、怒り狂った源左衛門が二人の間に割って入り、お富は海へと身を投げ、与三郎は顔を刀で傷付けられるというところまでを語った噺である。

圧巻なのは、馬石師匠の語りである。今回、通し公演ということで5夜連続で回が行われているのだが、どこか一日でも良いから馬石師匠の語りを聴いて欲しい。きっと、それまで馬石師匠に抱いていたイメージをがらりと覆すような、真に迫った芸を見ることができる。

とにかく、情景が見えるのである。与三郎の目線になってお富が見える。お富の目線で源左衛門が見える。源左衛門の目線で与三郎とお富が見えるのである。その語りの凄まじさに恐れ慄いて欲しい。

美男である与三郎が江戸から木更津へとやってきて、お富を見つける場面の鮮やかな予感。お富と酒を酌み交わして良い仲になる与三郎。そんなことは露知らず、博打の旅から帰ってきた源左衛門が、子分と風呂場で交わす言葉。全てが鬼気迫っていて、子分が源左衛門の顔にぱっと泥をかける仕草をする場面には息が詰まった。

随所に見どころがあって、私は源左衛門に向かって子分が与三郎とお富の関係を暴露する場面が好きである。子分の忠義心と源左衛門の疑心がぶつかり合い、やがて源左衛門が納得するまでの、ひりつくような関係性に唸るほど痺れた。

この時、私は深い深い井戸の底で、月の光を浴びてトクンッ、トクンッと脈動する心臓の姿を見た。それは、紛れもなく渋谷らくごの心臓の鼓動だった。

自らの生業に精を出す源左衛門がいる一方で、お富の心が与三郎に惹かれていくのは仕方の無いことであろうか。私は女心というものがとんと分からないが、滅多に家にいない乱暴な亭主と、美男子でいつも傍にいてくれる男だったら、女は美男子を選ぶものなのだろうか。それは女としての本能であるのか、それともお富の心の間隙に吹きすさぶ風に、お富自身が耐えられなくなり、間隙を埋めるために与三郎を求めてしまったのか。それは、決して語られることはない。あるのは、お富と与三郎が良い仲になったという事実だけである。

亭主がありながら、別の男と良い仲になるお富を、どう見るべきか。非常に悩むところである。私が亭主側だったら許せないが、お富の立場を考えたら答えるのは難しい。まして、時代は今のように娯楽の多い世界ではない。人と人との会話が大きな楽しみとなっていた時代である。この辺りは、答えを出すことは出来ない。

いずれにせよ、怒った源左衛門によって与三郎は縄で縛られ、顔を傷つけられる。人は怒ると眼になると言ったのは峠三吉であるが、馬石師匠の怒りに満ち溢れた眼は、正にそれを体現していた。今まで見た事も無い、馬石師匠の怒りの眼。全身が一つの眼となって、与三郎を見つめている。これは私の言葉だが、人は悲しいと鼻になり、嬉しいと口になり、楽しいと耳になるのではないかと思う。

お富が海へと身投げしたという話を聞いても、悲嘆に暮れることなく、目の前の与三郎に怒りをぶちまける源左衛門の姿には、本当にお富を愛していたのだろうかという疑問が残る。女をファッションのように扱う成金を見かけることが多々あるが、源左衛門もそんな人間だったのではないかという疑問が沸き起こってくる。大事な装飾具を盗もうとした男に怒り狂う源左衛門の姿が恐ろしい。

真の愛とは、どこにあるのか。真の愛とは、一体何なのか。

与三郎にも良心というものがあれば、旦那のいるお富に手を出すことも無かったのではないか。想像するに、与三郎は自らが美男子であるということに、浸っていたのではないだろうか。自らの面を最高の道具として使っていたのではないだろうか。

これは私の話だが、もしも見ただけで女が惚れるような面構えをしていたら、その面を存分に利用する。私だったら絶対に利用する。

三浦翔平が、小林稔侍を旦那とする桐谷美玲に出会ったら、絶対に稔侍の留守中に美玲と良い仲になる筈である。最後は稔侍に見つかって刀でバッサリ切られて殺害され、「本身の刀だとは思わなかった・・・」という稔侍の供述の嘘を暴きに、古畑任三郎がやってくるだろう。(注:古畑任三郎Season1第七話『殺しのリハーサル』より)

余談はさておき、源左衛門が与三郎を切りつける場面の凄惨さに思わず身震いしてしまう。残忍な源左衛門の行為に死を覚悟する与三郎の心に、痛いほど胸が締め付けられる。男女の恋心とは何と罪深きものであるか。同時に、こんな焦がれるような恋がしてみたいと思ってしまうのも男の性というものか。

殺されるかに見えた与三郎は、何者かの仲裁によって命を助けられる。一体その人物とはだれなのか。それは、また明日の話。

 

 総括 見なきゃ損だよお前さん

お富与三郎』の終演後、全身を一気に駆け巡る疲れ。緊張でこわばった体が緩和し、力の抜けた腕で拍手をした。凄まじい一席である。連雀亭で見た松之丞さんの『甕割試合』と同じか、それ以上の力の抜けっぷりである。

放心状態の中、しばし物語の世界を反芻しながら、私はゆっくりと立ち上がってユーロスペースを後にした。

渋谷の街には、少しくらい小林稔侍に刀で顔を傷つけられた方が良い男も、いないではないのだが、そんなことを微塵も考えさせることのない鬼気迫る迫真の一席に、私はただただ茫然と、言葉も無くふらふらと歩いた。

まだ、後四回ある。絶対に見なければ損だ。

私も、与三郎のような美男に生まれたかった。冗談半分で友人から『ミャンマーに行けばモテモテじゃん?』と言われたことがあるが、ミャンマーに行ってまでモテようとは思わないし、そもそもミャンマーを何だと思っているんだ!という怒りが湧いてくる。

日本の地に生まれ、実話を元に生み出されたという『お富与三郎』。現代のようにインターネットの社会で繋がり合い、出会って結ばれる男女が多い世界において、偶然の出会い、まして夫のいる女と良い仲になるという禁断の恋愛。お富と与三郎が辿る運命とは、一体どのようなものであるのだろうか。

考えてみれば、小はぜさんの演目も数奇な運命によって泥棒になった新米の話であったのかも知れない。奈々福さんの話はとても数奇な運命によって大成した力士の話であった。吉笑さんの話は自らに科した規則を自ら破っていく人間の性を描いていた。

そして、馬石師匠の話は数奇な男女の出来事を語っていた。

何もかも、数奇な縁で結ばれているのかも知れない。その数奇な運命を、数奇にして模型。好きにしてもオッケーなのだろうか。

では、翻って私の数奇な恋の運命とはいかに。。。

さて、2話目もとても楽しみである。一体どんな話が、語られるのだろうか。

もう一度言う。

見なきゃ損だよお前さん。