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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

【Day 3】畔倉重四郎 連続読み~2020年1月 神田松之丞~

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青すぎる あの牧場に行くつもりだったけれど

この列車は そこまでは着かないんだって

チバユウスケ『人殺し』

Hide And Seek

目の前を飛ぶ鬱陶しい蚊を手で潰すことと、日常生活で自分の邪魔ばかりしてくる人間を殺すことに差はあるのだろうか。どちらも命を奪う行為であるのに、前者は罪に問われることなく、後者は法で裁かれることになる。

仮に、『絶対にバレない殺人ができる』としたら、読者は殺人という罪を犯すだろうか。「一度くらいはやってみたい」と思うだろうか。自分の胸に手を当てて正直に答えるとするなら、読者は何と答えるであろうか。

テレビゲームには、平気で人が人を殺すものがある。決してそれを否定する訳ではないが、ゲームで人を殺すことと、現実で人を殺すことの違いが分からない人間が少なからず存在する。時折、ニュースなどで「加害者は、人を殺すゲームを所持しており」などと、ゲームと殺人動機を関連付けて報道されることがある。そのようなニュースを目にすると、少なからず「ゲームは精神に良くない」とか「殺人を犯すかも知れない」と心配する人間が出てくるのは当然で、突き詰めて行けば「人を殺すゲームは禁止」ということになるだろう。最近のニュースでは「映画での自殺シーンは控えて」という文言が書かれたものもあり、社会が極力、そうしたものを遠ざけている様子が伺える。

令和という元号に変わり、節目ということもあって、何かと「それまでの悪しき習慣」を断ち切ろうという雰囲気があることは否めない。誰もが皆「変わりたがっている」というのは、決して悪いことではないが、変化の中で淘汰されるべきものと、淘汰されてはならないものは少なからずあって、果たして社会全体が正しく仕分けできているのかは不明な部分が多い。

人の良心がどこまで信用されているか、という部分が重要になってくるだろう。それは詳細を書き記すとするならば、『フィクションをフィクションとして楽しめるか否か』であったり、『冗談を冗談と正しく受け取れるか否か』であったり、『仮想世界を現実世界と区別して認識できるか否か』であったりする。

すなわち、自分以外の『モノ』との距離を正しく保てるか否かが重要である。私の感覚では、年を重ねるごとに社会全体の『人の良心に対する信頼度』は減っているような気がする。「殺人映像を見せたら、この人は殺人を犯す」と、強く思う人が増えた結果、その思いが突き進められて「殺人映像を見せなければ、この人は殺人を犯さない。だから、殺人映像は今後一切、撮ることも流すことも禁じなければならない」となっているように思える。

豊かな国は法が緩く、そうでない国は法が厳しい。

さて、そんなことを考えながらも聞く『畔倉重四郎』という悪人の物語。令和になって、『真の悪』が隠され、規制され、淘汰されつつある中で、悪人を描いた物語はどのようにして人々を熱狂させていくのか。

私の思いを述べよう。

人は誰でも誰かを殺したいという欲求を持っていて、理性がその欲求を強く求めないように押さえつけている。或いは厳重に鍵を掛けて暴走しないように管理している。

たまにニュースなどで、人を殺した犯罪者が現れると、それを見た人々は「人を殺すなんてありえない」と思いながらも、強い興味を抱く。連日連夜、殺人の状況を報道するニュース番組から目が離せないのは、自らの内に秘めた『殺しの欲求』が、理性に押さえつけられた部屋の扉の隙間から、じっと覗いているからである。『殺しの欲求』という名の獣は、いつでも飛び出したくて待ちきれないのだ。だから「見る」ことで少しでも疑似体験をしようと望む。殺しに限らず、犯罪紛い或いは犯罪の映像を「見る」ことで、自分には一生経験することの出来ないことを楽しむ。詳しくは述べないが、アダルト業界に溢れる映像も、どう考えても犯罪だろうという状況の映像が多い。

 

さて、講談師・神田松之丞が三夜目までに語ってきたのは、一人の男が殺人を犯し、仲の良き友を鬱陶しく思うまでの経緯である。途中差し挟まれたのは、実の父親が殺人犯に仕立て上げられた盲人の決意であった。

稀代の悪人と、正義の光を見つめる盲人は、今宵、どのようにぶつかり合うのか。

その対決の行く末やいかに。

 

第九話 三五郎殺し

どれだけ堅気の世界で生きようとも、過去の罪を覆い隠すことは出来ない。ライオンを薄い布で覆い隠したところで、すぐに布は引き裂かれて元の姿を表すこととなる。

九話目までに大勢の人間を殺した重四郎は、殺害に協力した三五郎を言葉巧みに騙し、大雨の中で殺害する。

重四郎が三五郎を殺そうとする場面での松之丞の語りには、重四郎に命を奪われる状況となった三五郎の戸惑い、焦り、怒りの感情と、重四郎の冷酷無比などこまでも深い無感情が強烈な対比になっているように思えた。まるで、温かい熱を求めた氷が周囲の冷たい氷に押し潰されて、欠けてなくなっていくかのようである。

大雨の中で、互いに名前を呼び合いながらの命の奪い合い。決して流され消えることの無い『殺しの炎』が燃えている。やがて真一文字に首を掻っ切られ、無残にも転がっていく三五郎の頭。そして、唯一の友に斬られた三五郎の悲痛とも、驚きとも言い表せない表情が見える。それを無表情で見つめ、「こいつも動かなくなっちまった」というような事を呟くように言う重四郎の姿が、恐ろしくも鮮やかに脳裏に浮かび上がってくる。と同時に、さらりと笑いを混ぜながら、今後へと繋がる大いなる伏線を仕込むところが、物語の策を感じて面白い。

重四郎には情が無い。むしろ、『殺し』に不必要な感情や倫理、ありとあらゆる理屈が抜け落ちている。それは、第六話において確実なものとなった『人殺しの快感』への強い欲望であろうか。表現が適切かは分からないが、もはや重四郎にとっては『人を殺すことが絶頂に達する手段』ということであろう。

かつて、ある殺人鬼が猫を殺し、やがて友人を殺した際に、その場で絶頂に達したという話を聞いたことがある。およそ理解できるものでは無いが、重四郎の場合には、表向きは感情の無い、静かに状況を見つめている様子ではあるのだが、その内では、暴れ狂う快感に身悶えし、身体がそれに追いついていないように思える。映画やアニメのように、人を殺したからと言って全員が感情を爆発させ、高笑いをあげる訳では無い。むしろ、自分の犯した行為すら自分ではどう反応して良いか分からず、茫然としている姿の方が、とても現実味があって、見ている方としては筋が通っているように思える。

圧倒的な闇が大雨を飲み込む。だが、その隙間に挟まれてしまった男の間抜けさが後に大きく闇を割く光となろうとは、この時はまだ誰も知らない。

 

第十話 おふみの告白

運命とは皮肉なものである。大雨の殺人の一席の後で、まるで快晴を予言するかのような光に溢れた一席。

重四郎が大黒屋重兵衛として切り盛りする宿へ、城富がやってくる。類稀なる才能を発揮する城富の姿を見ながら、巨大な闇の中に覆われている城富の姿が見える。人々が城富を褒めたたえ、笑みが起こるのだが、宿の主が、かつて城富の父親に罪を着せた重四郎であることを知っているのは、それを語る松之丞とそれを聞いている客だけである。まだ、すぐ近くに巨大な悪が潜んでいることを城富は知らないということの、もどかしさを晴らすかのように、三五郎を失ったおふみが城富と出会い、夫婦になる。

宇宙に星があるように、また、太陽があるように、どれだけの闇が世界を覆いつくそうと、『光』は消えないのだろう。影が光から逃れられないように、光もまた影から逃れられない。重四郎が闇を纏い、光を一つ一つ潰したところで、決して光は消えないのだということの真理がここにはある気がする。

おふみの思いが美しい。夫となった城富に全てを打ち明ける場面での、城富の戸惑いも何とも言えない。なぜ重四郎はおふみを殺さなかったのであろうか。バレないという確信があったのだろうか。或いは人殺しの快感に酔って麻痺していたのだろうか。何かしらおふみを殺すことにリスクがあったとしか思えない。宿におけるおふみの立ち位置がどのようであったのか気になるところではあるが、重四郎に殺されることなく、愛する夫に真実を告げる場面は、ついに重四郎が召し捕られるまでの大いなる一歩である。

同時に、城富の運命を思う。城富にとっては願ってもいないほどの幸運であろう。同時に、重四郎にとっては何という不幸であろうか。もしもこの一席までに重四郎のファンになっている人間がいたら、おふみを心の底から憎むである。

大いなる闇を打ち砕くための、小さな光の集合を見た力強い一席だった。

 

 第十一話 城富奉行所乗り込み

おふみの言を受けて、すぐさま大岡越前守のいる奉行所へと乗り込む城富。そこで、ついに重四郎が実の父親に罪を着せ、穀屋平兵衛殺しの真犯人であることを告げる。

大岡越前の真実を見つめる姿勢と、戸惑いながらも三五郎の言葉を信じ、大黒屋重兵衛と名を変えて生きる畔倉重四郎の罪を語るおふみの姿が、いよいよ本格的に悪との対峙に向かって動き出す、次話への期待が大きく膨らむ一席である。

 

 第十二話 重四郎召し捕り

どのような策によって重四郎は召し捕られることとなったのか。大岡越前守の計略にまんまとかかった重四郎の姿が面白い一席である。決して『無様』という言葉が当てはまらないほど、勇ましい抵抗を見せる。

ニコニコとして誰からも慕われる大黒屋としての顔はどこにも無い。本性を現わし逃げる重四郎は、むしろカッコイイとさえ思えてしまうから不思議である。

なんと言っても、捕まってなるものか!と襲い掛かってくる相手の腕を切り落としながらも逃げる重四郎の姿の語りが凄まじかった。『安兵衛駆け付け』でも感じたのだが、1対大勢の殺し合いの場面における松之丞の語りは、うねるかの如くノンストップで勢いがある。あの現象に名前を付けるとすれば『松之丞大乱闘タイム』ということになるだろうか。数少ない『松之丞大乱闘タイム』を味わえる素晴らしい一席である。他に優れた現象名があれば、教えて頂きたい。

残り七話を残して捕まった重四郎。いよいよ白洲の場で名奉行、大岡越前守との対決である。おふみや城富の思いは重四郎の悪を裁くことが出来るのか。四夜目に向けて大いなる転換の一夜が幕を閉じた。

【Day 2】畔倉重四郎 連続読み~2020年1月 神田松之丞~

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明け方始発で この街を出て行くって

チバユウスケ『人殺し』

 サイコパス

自分の中に自分とは別の存在を作り上げる人間がいる。それはマトリョーシカのように、開けて行けば同じような形をした存在が現れ、どんどんと小さくなっていくというものではなく、むしろ、開けたらまるきり異なる存在が、どんどんと大きくなっていく感覚に近い。気がつけば、どちらが本物であるかという概念は消え失せ、全てが本物であるという結論に辿り着く。全てがマトリョーシカであることと同じように。

サイコパス、それは人の理解を越えた存在であるのか。

かつて、『ビリー・ミリガン』という 男は24の人格をその身に有していた。当時の精神医学者をして、24の人格全てが『演技ではない』と判断された人物である。読者の中にもご存知の方は多いと思うが、ビリー・ミリガンは三人の女性に対する強盗強姦事件で逮捕されている。

では、畔倉重四郎はどうであろうか。初日、重四郎は自らの恋路を嘲笑われ、阻まれた腹いせに殺害に及んだ。それは、重四郎そのものであったと私は思う。

ところが、今宵は重四郎の残忍な殺人の幅が拡がる。あまり気持ちの良い幅の拡がりではない。幅が拡がって嬉しいのは顔と家の庭くらいではなかろうか。

冗談はさておき、今宵の畔倉はさらなる悪の道へと突き進む。そして、ふとした偶然によって、一度、その悪がひっくり返り善となる。だが、その善では覆い隠せないほどの悪が、重四郎の心から沸き起こってくる。

私は考える。重四郎が悪に染まったのか、それとも悪が重四郎に魅せられ、染めたのか。

答えは、神田松之丞が物語っている。

 

 第五話 金兵衛殺し

三話、四話で、真犯人探しを決意した城富の語りは中断。再び五話目で博打に明け暮れる重四郎が姿を表す。仲間と共に博打に興じるのだが、運に見放されて一文無し。金を得るために、金兵衛なる人物を殺して大金を奪い取る。

ここまで、重四郎の殺人動機はあまりにも短絡的である。『恋が上手くいかなかった』という腹いせに恋心を抱いた女の父親を殺害。『金が無いから欲しい』という理由で、金兵衛を殺害。カミュの異邦人では無いが『太陽が眩しかったから』という理由で人を殺してしまうような、殺人への動機付けがあまりにも軽いのである。むしろ、『簡単に人を殺してしまおうと考える人間』が畔倉重四郎という人物なのかも知れない。

およそ普通の考えでは理解できないし、理解しようとも思わないのだが、不思議に魅せられるのは、現実社会にも、畔倉の殺しの動機のような、『動機としてはあまりにも軽い動機』によって人を殺す殺人犯が確かに存在しているからであろうか。

『軽い』というのは私の主観である。読者の中にはいないと思うが、中には『恋が上手くいかなかった』ということを、非常に『重い』ものとして捉える人間がいることも事実である。もしも読者の中に『重い』と感じる人物がいるとしたら、申し訳ないが私は『軽い』と思うので、『軽い』と記していくとお伝えしておく。

事実、好きな女性と付き合えないことがわかった男が、その女性を殺して自分も死のうとした事件もあった。当時は「なぜそんなことで人を殺してしまえるんだろう」と思ったのだが、松之丞さんの語りによって想像される畔倉重四郎とは、まさにそんな存在なのであろう。自分の理解の範疇を越えているからこそ、私は面白いと興味を抱く。この男が一体どんな方向へ進むのかと考えてしまうのだ。

さて、金兵衛を殺害し大金を奪った重四郎。ところが、金兵衛の子分にバレて逃げる事態になる。道の途中で発見した寺に入り、そこにいた和尚に頼んで身を隠す。

この後、和尚は死ぬことになるのだが、その場面もあまりに惨い。残忍で、理不尽で、冷酷で、暗い。およそ『人として』という言葉が通用しない。そんな言葉は単なる爪楊枝で、完璧な悪の万里の長城を崩そうとしても崩すことはできない。

完全に後戻りのできない段階へと足を踏み入れた重四郎。驚くほどに、殺しに対する罪悪の意識を感じさせない。むしろ、楽しんでいるようにさえ思えるのだ。一度人を殺してしまったが故に踏み入れた世界で、自らの欲を満たすために人を殺す重四郎。自らを助けてくれた善意ある和尚を殺害したとき、重四郎の目に宿る、否、松之丞を通して想像された重四郎の目に映る、深い漆黒の闇。その深淵を覗き込んだ私の胸が、ゾクリ、ゾクリと、まるで筒状の棒の中を氷水が勢いよく流れていくかのような寒気に襲われ、悪漢の常人離れした姿に息を飲んだ。

さて、この後、重四郎はさらなる悪へと歩みを進める。

 

第六話 栗橋の焼き場殺し

一話目・二話・五話・六話は悪漢・畔倉重四郎の誕生に費やされたと言って良いかも知れない。それほどに、重四郎という人間の悪に染まる行為を見事に描き切っている。また、枕も少なめに笑いどころも無く、淡々と静かに人を殺害する場面を語る松之丞さんの姿も良い。語りの緩急とも呼ぶべきか、一定のリズムとトーンを保ちながらも、徐々に人殺しの場面までに盛り上がって行く語りの調子。まるで普通の人間が、一瞬カッとして人殺しに及んでしまうような、そういう危うさを感じさせるトーンがある。集中力を欠けば、それは冗長な語りと思われてしまうかも知れないが、じっくりと語りに耳を澄ませていると、驚くほどに凄惨な場面に効果的な語りであることが分かる。

さて、重四郎は前話で殺した金兵衛の子分を仲間の三五郎と助け合って殺害する。ここからの流れが、見どころであり、松之丞さんの語りも凄まじいものがあった。

特に、子分の三人を焼く場面の後の重四郎の言葉。そして、その後に焼き場の主人を殺す場面で吐かれる言葉。もはや痺れるほどの悪がここにある。

まさに、悪の結晶化。それが第六話であろう。もはや殺人に動機が存在しなくなった。自己保身とか、バレるのが怖いという感情の問題ではなくなり、それは言葉では発せられるが本質的な動機にはなってはいない。重四郎はこの第六話で、『殺しにハマった』と言っても良いのではないだろうか。

それは、まるで何か習い事に熱中するかのような軽さである。泳いでみたいからスイミングスクールへ。泳いでみたら楽しいから水泳選手になりたい。と、子供が純粋に夢を追いかけるみたいに、あまりにも単純明快なのだ。人に腹が立ったから殺害、殺して見たら楽しい。楽しいからもっと殺そう。純粋無垢な悪の結晶を染めるのは、斬殺した相手から飛ぶ鮮血。その生温かい血の温度に快感を抱いたかのように、ぼそり、ぼそりと呟く姿が印象に残った。『人殺しの快感』に陶酔し、恍惚としているかのような重四郎の姿が印象的であった。

動機ある殺人から、「誰でもいいから殺したい」という快楽殺人への移行。完全なる悪と化した重四郎は、仲間の三五郎と分かれて旅に出ることになる。

一体、この悪はどこへ行くのか。仲入りでぼんやりと、重四郎の血に染まった生々しい姿を思い浮かべていた。

 

 第七話 大黒屋婿入り

五話、六話の流れから一転、第七話での重四郎はあまりにも幸運である。悪の結晶と化した重四郎が、さらなる殺人を犯すかと思いきや、旅先で偶然出会った女と良い仲になり、その女が旅館の後家であることを知り、言葉巧みに誘惑して女と夫婦になる。とんとん拍子で重四郎は旅館の主人となり、名前を改め、大黒屋重兵衛となる。

物語の簡単なあらすじについては、神田松之丞さんが纏められた『講談入門』を参照頂くとして、立派な堅気の人間になった重四郎を悪が逃す筈も無い。一度悪へ踏み入れてしまうと、否が応でも悪が追ってくる。全身を悪に染めた重四郎のもとへ、手負いの侍が現れ、大金を盗んだ強盗犯であることを知る。重四郎は侍に逃がすと嘘を付いて殺害。大金を手に入れ、自宅で返り血を洗い流そうとするのだが、女中に血を洗い流している場面を発見される。上手く誤魔化すのだが、女中の胸にはしこりとなって残る。

第七話は、サイコパスとしての重四郎の姿が垣間見える。美男として生まれついた重四郎の生まれながらの才知が発揮されたのであろうか。父から譲り受けた剣術の道場では真剣に取り組まなかった重四郎が、旅館の主となった途端に才能を開花させる。働きぶりの詳細については語られないが、周りからの信頼を集める好人物であるというところが、重四郎の力量を表現している気がする。

また、松之丞さんの表情が素晴らしい。表向きは堅気の人間として働く者達や愛する妻の信頼に笑顔を向けながら、かたや殺人に至り、その証拠を隠滅する際に見せる形相は、一人の人間とは思えないほど異なっている。一つの身体にこれほどの善と悪を抱えながら生きることが可能である人間という存在そのものの恐ろしさが伝わってくる。

悪に染まった重四郎が意外な展開を見せる第七話。だが、これは八話、そして九話への大きな伏線であろう。

 

 第八話 三五郎の再会

悪は重四郎から離れない。平凡で安定した堅気の暮らしが、唐突な再会によって一気に崩れ去る。語られる物語の時間は短いが、重四郎は殺人の仲間である三五郎と出会い、腹違いの兄弟と偽って旅館で暮らすことになる。こういう場合は大体、匿われた人間が、匿った人間を困らせると相場が決まっているし、困らせたやつは大体死ぬというのが、時代劇、もしくはその他のお決まりである。

偶然の出会いにしがみつく三五郎。重四郎が着物の血を洗っている場面に出くわしていた女中と夫婦になり、重四郎の忠告を無視して重四郎を強請る三五郎。気持ちは分かるのだが、そんなことしたら殺されるにきまってるじゃん。という気持ちはあるのだが、そこは物語。次話できっちり殺されるらしいのだが、それはまた次回ということでお開き。

連続読み二日目にして、大勢の人間を殺害した畔倉重四郎。まさに物語にのめり込むかのめり込まないか、リトマス試験紙のような第五話、第六話を終えて、おそらく会場の答えは一つ。言わずもがなであろう。

さて、三日目は一体どうなっていくのだろうか。悪の結晶はどう化学反応を起こし、どんな物体になっていくのか。楽しみでならない。

【Day 1】畔倉重四郎 連続読み~2020年1月 神田松之丞~

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二人は恋人 名前を知らない

チバユウスケ『人殺し』 

人を殺す夢を見たことがある。一度や二度ではない。記憶しているだけで三度ある。いずれも完全犯罪で、親しい友人、名の知れぬ人物、気に入らぬ人物、一人を殺害する。はっきりと「俺は人を殺したのだ」という自覚があり、言いようの無い恐怖がやってくる。完全である筈の犯罪が暴かれ、露見し、警察に追われ、果ては死刑になるのではないかという恐怖に苛まれて目が覚める。そこで初めて「良かった。俺は人殺しじゃないんだ」と安堵するのだが、胸には逃げきったという達成感があるから不思議だ。

想像の世界では、人を殺しても罪には問われない。目の前で腹立たしい行為をする人間の脳天を想像の銃弾が撃ち抜いても、それは私の頭の中だけで行われて処理されるだけで、現実には何も表出しない。想像の世界では、人を殺し放題であるし、もしかしたら私は誰かに何度か殺されているかも知れない。

それほど残忍な想像を常にしているわけではないが、『自分の世界から相手を消す』ということを私は良くやる。「この人とは一生関わりたくない」とか「この人は危険そうだから会うのは止そう」とか思うと、私はその人物を『この世界に存在しないもの』として扱う。変に嫌ったり、攻撃するのは時間の無駄であるし疲れるから、サッと自分の世界から消すのである。まるで砂に書いた文字を波が消していくように、何度相手が浮かび上がってこようが、即座に消すのである。

 

さて、私は再び『あうるすぽっと』へとやってきた。去年は慶安太平記の連続読みで5日間通った場所である。連続読みの面白さにハマった去年は、結局慶安太平記とお富与三郎の連続読みくらいしか聞けなかった。

今年は、昨年よりはもっと肩の力を抜いて書くべきか、それともガチッと書くべきか悩んだのだが、昨年は『想像の風景』と称して書いたので、「今回はいいかな・・・」というテンションなので、さらりと書いて行こうと思う。以下、全て松之丞さんのネタなので、演目のみの表記とする。

 

 第一話 悪事の馴れ初め

A日程で全てを語り終えたためか、若干の余裕を見せる松之丞さん。肩の力の抜けたリラックスした語りで、畔倉重四郎を描き出す。

父を亡くした重四郎の性格を、淡々と静かなリズムで松之丞さんは語る。穏やかな語りではありながら、客席の様子を伺っている気がする。

一話目はそれほど物語に大きな起伏は無いのだが、確実に『聞かせる語り』であるように思える。

特に、重四郎が父を亡くした後、博打と女にのめり込んでいく様が、静かに、されど細かに描き出されていて、去年と比べると格段に『語りの水準』というのか、派手さは薄れ、むしろ骨太かつシンプルな語りが強調されている気がした。

また、父が正義感の強い存在であるのにも関わらず、その父を亡くした重四郎が面倒くさがりという性格の対比が面白い。若いからこその欲望の放射性というのか、四方八方へと伸びる興味が、一つのことへ集中する力を奪っていたのだろうか。その隙を突いてやってくる博徒。まんまと金に目が眩んで場所を貸す重四郎。みるみるうちに博打に魅せられ、やがては女に魅せられていく。

親を亡くした子の顛末は、現代にも通じる部分があるであろう。芸能人の誰とは言わないが、二世タレントと呼ばれた人物の落ちっぷりを見れば明らかである。完全に一致するとは言わないが、重四郎もどこか父という存在を失い、箍の外れた欲望への道と悪への道へと、踏み出すことになる。

 

 第二話 穀屋平兵衛殺害の事

どんなことでもそうだけれど、自分と相手だけの秘密にしたい事柄が他人に知られてしまうというのは、気持ちの良いものではないし、鬱陶しくて腹立たしい。

二話では、女に恋をした重四郎が散々な目に遭う。重四郎からすれば大きな理不尽であろう。理由としては単純であるが、男とはそういう生き物だ、と言われれば、そうなのかも知れない。と思ってしまうような殺害理由である。

笑いを織り交ぜながらも、核の部分にいる重四郎の存在がブレない。一話のテンションがさらに上がって、平兵衛殺害の場面には松之丞さんと言えば、これぞ!な迫真の殺害場面がある。その冷酷さと重四郎の苛立ちに目を奪われる。

そうは言っても、私自身が『講談の殺し』に慣れてしまった感があった。「あ、これは死ぬやつだよね」と思って見ていると、見事にやられる奴がやられるし、殺す奴が殺す。それでも、松之丞さんは殺しの描き方、魅せ方が素晴らしい。これは好みの問題かも知れないが、殺しの場面の語りにはダイナミック派とシンプル派の二つに分かれると思う。どこに重きを置くかは人それぞれだが、私はどちらも尊重したい。

平兵衛殺害後の重四郎の行動。どことなく陳腐であると感じるのは、昨年に由井正雪の巧みな知恵に魅せられたからであろうか。重四郎はこの殺害以降、10人を殺すのだが、そこまで人を殺してしまうほどの悪は見えない。叶わぬ恋に苛立った男の突発的な行動のように思えるのだが、果たしてこれからどう悪へと染まっていくのだろうか。

 

第三話 城富嘆訴

完全にボルテージの上がった松之丞さんもさることながら、観客が温かい。これは良い会だな、と思わせてくれるほどに観客が温かいのである。特に前列から三列目くらいまでは、物凄くアットホームな雰囲気があって、それだけでも「この会に参加して良かったな」と思うことが出来た。

そんな客席の力が影響を及ぼしたのか、二話、三話と語りに熱が籠っている気がした。特に、重四郎が平兵衛殺しの罪を着せた男の息子、城富の語りは真に迫っている。前半二話で悪の主人公、畔倉重四郎の誕生を描いた後で、今度は盲目の男、城富を登場させる。物語に登場する人物の対比が美しい。目が見えずとも、本当の正しさを求めて行動する城富。真っすぐに父の潔白を信じる城富が、名奉行である大岡越前守を信じるのだが、見事に裏切られる場面での、言葉にならない怒りが松之丞さんの声に籠る。正しさを正しさとして認めさせるために行動する城富。その嘆きの訴状は大岡に届くのか。

 

 第四話 越前の首

父の無実を信じて奉行所へとやってきた城富。とにかく城富の雰囲気が素晴らしい。松之丞さんも完全にスイッチが入ったのか、語りに熱が籠る。

この話での一番の見どころは、なんと言っても大岡越前守と城富の火花散るような、ヒリヒリする会話の応酬であろうか。大岡の下した裁きに憤る城富。そして、頓智頓才に優れた大岡が静かに城富の言葉を受け止める姿。二人の会話のリズムを聞いているだけでも、ドキドキする。そして、最後に城富が自らの正しさを示すために放った一言、そしてそれを受け入れる大岡の言葉。この二言を聞くだけで、ゾクゾクするような思いが込み上げてくる。互いに『真犯人』を追い求めていることには間違いは無い。それでも、城富の父を思う気持ちと、それを巧みに利用しようという大岡の策略が渦巻いているような気がして、「うおおー、おもしれぇー」と思いながら聞いた。

果たして、城富と大岡の見つめる先に待っているのは、重四郎であるのだろうか。善と悪、光と闇。盲目の城富が闇の中で見つめる光の先に、父は果たして存在しているのだろうか。

息もつかせぬ静かな展開。明日は一体、どうなってしまうのだろうか。

君の高座は10000ボルト~2020年1月12日 梶原いろは亭 桂紋四郎 『伊勢参宮神乃賑』に挑戦~

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君の高座は10000ボルト

地上に降りた最高の噺

ベーヤン

読者になら分かって頂けると思うのだが、客席にいて噺家の一言に痺れる瞬間がある。川平慈英ばりの『くうう~~』が飛び出すほど、痺れるような言葉を聞く瞬間があって、それが止められなくて落語を聞きに行ってしまうことが多々ある。

自分が電気クラゲかと勘違いするほど痺れる高座は、生涯忘れることは出来ないであろう。今回は、何よりも熱く、分厚く、大迫力の高座を見せてくれる、今、上方落語界では、この噺家の成長が最も望まれているのではないかと思うほどの逸材がいる。

それが、桂九ノ一さんである。

もう、この人が高座に上がると、私は一席が終わるまで川平慈英なのである。ずっと『くうう』、きみと『くうう』、I will give you all my coooなのである。

さて、そんなわけで、初めて訪れた『梶原いろは亭』。実に趣のある場所であった。さらりと最高の会の記録を。

 

 桂九ノ一 東の旅 発端

桂米朝師匠の弟子の桂枝雀師匠の弟子の桂九雀師匠の弟子の、桂九ノ一さん。開口一番、米朝門下の前座が最初に習うという由緒正しい一席を披露。

これが、

これがまた、

これがもう、

 

 すげぇの!!!!

 なんの!!!!

ミナトノ

 ヨーコ

 ヤベェノ

 ヨコスカ!!!!

 

恐らくは、東京の落語ファンの皆様方の多くが、桂九ノ一さんを未体験だとは思われるのだが、東に春風亭朝七さんがいれば、西には桂九ノ一さんがいる。これぞ、次世代を担う青と赤のコントラスト。

もうね、たまらんのですよ。

内容がどうのこうのとか、関係無いの。

気迫と熱量。これだけで、もうとんでもなく最高なんですわ。

もはや、言葉はいらないですわ。

きっと高座を見た人は口を揃えて言うでしょう。

「凄まじいね、桂九ノ一さん!!!」

圧巻でした。もう、ずっと痺れっぱなしでしたわ。

本当に、紋四郎さん。九ノ一さんを呼んでくれてありがとうございます。

最高の一席。未来へと突き抜けた圧巻の高座。頼む!江戸に移住してくれ!!!(笑)

 

 桂紋四郎 軽業

上方落語の真髄の芸に挑む紋四郎さん。東京の落語ファンを唸らせる芸もさることながら、東京にお呼びする上方の噺家さんのセンスも抜群だと思う。「そうよ!こういう人が見たいのよ!」という東京落語ファンのニーズにバチッとハマってくる人選。

昨年、5月と7月に大阪遠征と題して私の琴線に触れる噺家さんを調査した結果、笑福亭鉄瓶さん、笑福亭呂好さん、桂佐ん吉さん、桂二乗さん、桂しん吉さん、桂吉の丞さん、桂文五郎さん等々、若手かつ東京でも十分に活躍できそうな、というか、なかなか東京にもいないであろう才能を持った噺家さんがたくさんいた。

さらに上の世代では、桂米紫師匠や桂かい枝師匠など、何となく米朝一門と文枝一門が私の好みであるような気がする。その魂を受け継いだ噺家さんたちが、今、大勢上方にいらっしゃるのかと思うと、どうにか江戸に移住してくれないかと望むばかりである。

さて、そんな上方落語界において、これは何度も重複するが火つけ役であり、先陣を切って自らの芸を磨いていく紋四郎さん。師匠譲りの色気のある間と、温かいサービス精神。聞いているだけで安心して笑うことのできる安定感。

奇しくも、同日に桂米團治師匠が同じ『軽業』を高座で披露されている。12日は各所で上方落語の良い会があって、出来ることならば体が幾つか欲しいほどであった。

私は初めて『軽業』という演目を聞いたのだが、これが物凄い賑やかで面白いのである。特に綱渡りでの所作は最高である。宴会があったら絶対に真似をしようと思った。

賑やかな往路。鳴り物も入って大変に賑やかである。

上方落語の特徴と言えば、この鳴り物も一つの特徴であると言えよう。江戸の落語会では殆ど鳴り物が鳴らされることは無いが、上方落語では積極的に鳴り者がなる。『七段目』や『紙屑屋』の演目でも鳴り物がなるのだから、とても賑やかである。

昨年は、雲助師匠の『替り目』で終盤に鳴り物が入ったり、文菊師匠の『稽古屋』で鳴り物が鳴ったくらいで、それ以外に鳴り物入りの演目を東京で聞かなかった。

賑やかな旅が想像され、東京にいながら各地を旅するような心持ちになる、素晴らしい一席だった。

 

 桂文三 堪忍袋

「待ってましたぁ!」の声と共に、にっこりと笑って登場の文三師匠。お初の噺家さんだったが、驚くほど聞きやすい。ところどころで短く差し挟まれる一言一言が実に面白くて、くすぐられているような心持ちになる。五代目の桂文枝師匠を彷彿とされるハイトーンボイス。これは以前、桂坊枝師匠を聞いた時にも思ったのだが、五代目から受け継がれたリズムとトーンが見事に落語に活きていて、品があってとても気持ちが良い。

演目は夫婦喧嘩の話であるが、声色を変幻自在に操って笑いを誘うというよりも、間で笑ってしまう。心地の良いトーンに耳を澄ませていると、急にスピードが増したり、そうかと思うとピタリと止まったり、夫婦が互いに感情を爆発させる場面や、お互いの言い分を言い合う場面は、最高に面白くてくだらない。真剣なくだらなさが最高に面白かった。

そして、柳家喬太郎師匠の手拭いを使いながら、堪忍袋を拵える場面も勢いが凄まじい。主に遊雀師匠で良く聞く『堪忍袋』であるが、上方バージョンはそれほど大きな違いは無くとも、文三師匠の人柄と生き様が垣間見れる抱腹絶倒の一席だった。

 

 桂紋四郎 七度狐

お賑やかな軽業の後で、往路の最後は狐に化かされるお話。

こちらも鳴り物が入って賑やかに、人間に酷い目にあった狐の仕返しが見事に活きた面白いお話である。

どことなく、狐や狸が出てくるお話には、昔ながらのファンタジー感と言えば良いだろうか、民族的な、童話的な印象を抱く。私は犬が人間になる『元犬』や、狐が嫁入りする『安兵衛狐』、狸がサイコロになる『狸賽』など、化ける動物が出てくるお話が好きである。どこか可愛らしくて、『化ける』という行為そのものが何だか面白い。

七度狐に出てくる狐も、川に化けたり、人を騙すために幻想を見せたりと、様々な手で人を騙す。騙される人間の滑稽さもさることながら、「ああー、それは狐の仕業だね」と、狐が化けて人を騙すことを知っている人物が出てくるのも面白い。物語の構造として、とても良く出来ていると思うのだ。話として聞くと、狐が化けるということに違和感が無いから不思議である。「嘘だよ~、狸は化けないよ~」という感覚が不思議とやってこないのだから、私のDNAのどこかに、それを納得する何かがあるのだろう。

紋四郎さんの語りも、鳴り物の勢いに乗って絶好調である。特に棺桶から老婆が出てくる場面は圧巻で、師匠譲りとも呼ぶべき『憑依』した雰囲気を感じて面白い。

これからさらに東京で、江戸で、どのように舞を見せてくれるのか。

上方落語界の花咲き爺さん。否、花咲き噺家と呼ぶべきか。桂紋四郎さんの活躍に目が離せない。

なぜ東京の落語ファンは上方落語が大好きなのか~2020年1月6日 桂紋四郎 上方二つ目最前線~

 

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東も西も分け隔てなく

北も南も分け隔てなく

 

全ての演芸好きたちが

 

ありとあらゆる場所にある

 

笑顔の集まる場所にある

 

素敵な芸に

 

出会えますように

 

上方落語が止まらない 2019年は初めて天満天神繁昌亭に行ったり、一心寺に行ったりと、『生の上方演芸お初イヤー』ではあったのだが、肝心の演目数はそれほど多くなかった。

 それでも、上方落語に息づく情熱の息吹、熱量の芽吹きとも呼ぶべき素晴らしい噺家さんに出会うことができ、改めて落語の素晴らしさ、幅広さ、多様性を感じた一年だった。  

 

一度、上方落語に魅せられてしまうと、隣の芝生は青く見えるではないが、無性に上方落語が恋しくなってしまうのである。読者に経験があるかは分からないが、地方で出会う美人さんとのお話は、異様に記憶に残るのである。一人寂しく入ったバーで、「あら、初めて?」なんて言われて、オススメのお酒を飲み、「どうかしら?」と言われて、「美味しい」と頷く瞬間、酒とともに落ちていく意識。気が付けば財布の中身を全て盗まれ、腹には切り傷。気づけば臓器まで盗まれているという事態。オーマイゴッド!!!

と、まぁ、そこまでの衝撃があるくらい、上方落語はすさまじく魅力的なのである。江戸と上方と区分けするのはどうなのか、と読者は思うかも知れないが、これは区別でも差別でも無い。やはり言語のリズムや雰囲気は如実に異なっているから、それぞれ言葉として独立し、尊重されてしかるべきであるという観点から、江戸と上方と分けている。決してどちらが劣るとか優れているという話ではない。

さて、東京にいながら上方の落語が聞ける。これは何ものにも代えがたい幸せである。わざわざ新幹線のチケットを買ったり、ホテルを予約せずとも見ることが出来る。演者が生身の人間である以上、『生』を体験するには、演者が自らの近くにいなければならず、また観客も演者の近くにいなければならない。どれだけ交通が発達しようとも、東京で仕事を終えて大阪の夜席に行き、終演後にまた東京に戻るというのは、些か無理がある。実際に実行している人もいるのかも知れないが、私の知る限り、そのような人に出会ったことはない。

それらのことを鑑みても、やはり東京都内に上方の演者がやってきて、どこかしらで会を開催してくれるというのは、この上ない幸福である。Thanks Godである。

これはいわば、コンビニで言えば地方の食材が陳列されている感覚に近い。北海道でしか食べられないものが、沖縄で簡単に食べることが出来たらどうだろうか。「あれ、ファミマにニポポ売ってんじゃん」とか「うっそ、セブンにゴーヤチャンプルーあんだけどー!?」みたいな状況に近いのである。今ではコンビニで当たり前のように中華料理やらイタリアン・スパゲッティやらが食べられるが、その恩恵とほぼ同じ感覚を、東京で上方落語を聞く落語ファンは抱いていると思う。(少なくとも私はそう)

 

さて、くどくなりそうなのでこの辺に留めるが、東京において今、上方落語の火付け役になっているのは、間違いなく桂紋四郎さんではないだろうか。自らの芸もさることながら、東京の落語ファンを唸らせる上方落語の最前線を、毎月の第一月曜日に連雀亭で見せてくれる。私は、紋四郎さんを含めて、紋四郎さんのおかげで知ることのできた上方の噺家、講談師、浪曲師が大好きなのである。もっともっと、東西の交流が盛んになって、江戸と上方で思う存分に落語を楽しめる人々が増えたら良いなと思う。また、地方においても、誰もが気軽に落語を楽しめる世の中が来たら、それはそれは幸福な世界になるのではないか。有権者の皆様、私は『落語を全国に』をテーマに『落語全国党』を立ち上げ、『日本落語憲法』を制定しようではありませんか!是非、笑いの一票を!

と、妄想はこの辺にして、上方落語ブームの仕掛人、桂紋四郎さんの素敵な会の記録を、さらりと。

 

 トーク

サービス精神満載の華紋さんと、NHKの裏話を語る紋四郎さん。二人の相性の良さというか、楽しそうな雰囲気。最高です!

 

桂紋四郎 つる

艶やかなる美声と、並々ならぬ野心があるのかなと勝手に思いつつも、それを感じさせない品と知性に溢れた高座。常連さんも多い中で、米朝師匠が良く高座に掛けられていたという『つる』という演目へ。不思議と、らく兵さんの時は談志師匠が良く掛けていたという『勘定板』、米朝師匠が良く掛けていたという『つる』など、年の初めにかつての大名人の軽くて短い噺を聞くことが出来ている。これは何かの予兆であろうか。

さっぱりと軽やかに上方落語の世界に導いてくれる紋四郎さん。声の滑らかな切れ味は、スッと心の豆腐を切るかのよう。水を掬って手のぬくもりで温めてくれるかのような、優しいリズムと語り口。絶品の一席。

 

 桂華紋 茶の湯

NHK新人落語大賞を受賞し、上方落語ビッグウェーブに先陣を切って波乗りジョニーな華紋さん。東京でもかけられる『茶の湯』の一席。

これが爆笑必死。華紋さんの唯一無二の『間』と『声』がとにかく最高なのだが、恐らくは華紋さん独自のアイデアと思える個所が幾つかあって、それが斬新かつめちゃくちゃ面白い。江戸バージョンが頭に入っているせいか、華紋さんのバージョンで聞くと『そう来たか!うっはっはっはっはー』というような感じで、とにかく面白いのである。

私は落語友達とNHK新人落語大賞をテレビ観戦したのだが、その時に華紋さんが掛けた『ふぐ鍋』は、テレビからでもその素晴らしさが伝わってきた。やはり誰もが口をそろえて言うと思うのだが、『間』が絶妙なのである。言葉と言葉の間と、声の高低に思わず心がくすぐられる。さらには『表情』まで加わって、全身で語りに魂を注いでいる感じが、たまらなく面白いのである。

江戸と上方で聴き比べも楽しい素晴らしい一席だった。

 

桂華紋 たいこ腹

お次は幇間太鼓持ちが登場するお話。これも上方、華紋さんのアイデアが光る面白い一席だった。とにかくリズムが良いので、とんとんと聞くことができる。一度そのリズムに乗ってしまうと、小刻みに揺れる心地よい船に乗っているかのように、随所で笑ってしまうのである。

太鼓持ちの可愛らしさもさることながら、若旦那の傍若無人っぷりも面白い。江戸だとどことなく若旦那は冷徹なイメージがあるが、上方だともっとウェットというか、温かみがあるように感じられる。華紋さんの語りには、温かみがある気がする。

何よりも、高座に上がるまでの笑顔。これも体感だが、上方の噺家さんの多くは笑顔で高座に上がられている。江戸だと、ニヤニヤしている人はそれほどいないというのが、私個人の体感である。

何というか、「一緒に面白いこと、楽しみましょう」という雰囲気があるのである。どの噺家さんもそうかも知れないのだが、上方の噺家さんにはそれを強く感じる瞬間が良くあるのである。ああー、楽しいなーと思うのも、きっとそのおかげかも知れない。

オチもさらりと、素敵な一席だった。

 

 桂紋四郎 崇徳院

トリネタは『崇徳院』。声が艶やかな人は品があって、登場人物も皆さん端正なお顔立ちだから、紋四郎さんを含む『声の良い噺家さん』はとても得だと思う。羨ましささへ感じるくらいである。色気があって、声色を七色に操って、変幻自在に人物を描き分けてみたい、という思いも無きにしも非ず。

恋患いの男と、その病を治すために奮闘する男の姿が面白い。声で元気さを表現していて、段々とやつれていく男の姿を見ているだけで面白い。

いつの時代も、男女の色恋に口を挟むとろくなことがないことは重々承知はしているのだが、返って口を挟まずにいると、それはそれで面白いことが起こらないからどうしようもない。男女の間に挟まれた男の悲しくも可笑しい物語。綺麗にオチて終演。

 

総括 上方落語Uber Eats

先日実家に帰った時に「ウーバーイーツ」の話題になったのだが、母親から「そんなの田舎に無い」と言われた。ウーバーイーツとは、自宅にいながらお店の料理が食べられるという宅配サービスである。ピザや寿司だけでなく、マクドナルドから中華料理まで、ウーバーイーツと提携しているお店の料理ならば、何でも注文して食べることができる。

まだまだ都内だけに特化したサービスであるのかも知れず、地方進出はどうなるのかは分からない。改めて思うのだが、都内には様々なサービスが集中していて、地方には地方のサービスが生まれている気がする。受けたいサービスが必ずしも全国で受けられるかと言うと、そうではないという現状がある。島根県でホーミーを習おうとしても、すぐにモンゴル人が教えにやってきてはくれない。青森で闘牛士を目指しても、すぐにスペインのマタドールはやってきてはくれないのだ。一人の寂しさを紛らわそうとして、秋葉原に行けば、いや、止そう。

そうした状況は読者も認識していると思う。読者には地方在住の方もいれば、都内在住の方もいる。そんな読者のために、このブログが少しでもお役に立てれば良いと思う。

今回、改めて上方落語の次世代を担う噺家さんの力強さを感じた。同時に、上方落語の最前線を東京にお届けしてくれる。まさに上方落語Uber Eatsと言っても過言ではない紋四郎さんに感謝したい。あなたのおかげで、私は『今』を生きる上方の噺家さんに、とてつもない魅力を感じているのです。そして、上方落語の情報を頂ける読者の皆様にも、とても感謝しています。

これからも、東京の一落語ファンとして、大好きな上方落語を追うでしょう。いや、追います。今年はもっともっと上方落語を聞く!そんな年に絶対する!!

なぜなら!上方落語ブームが!東京で吹き荒れているのだから!

大金の行く末~2019年1月5日 古今亭文菊独演会~

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そいはするりと 

 きみにしにのたまおうものなら

断崖絶壁から荒れ狂う波に飛び込もうというような、悲壮感の溢れる悲劇のヒロインは街のどこにもおらず、まして、そんなヒロインに「待て!飛び込んじゃ駄目だ!」なんて言葉をかける男もいなければ、つくねを投げて、「おいら、流れ板の〇〇ってんだ」と出しゃばる者もいない。

流れ流れて『流れのカッパ巻き』である私は、寒い中野の街をぼんやりと歩いていた。いつもとは反対の改札口で降りたのだが、期待したほど面白そうなものは無く、「なーんだ、こっち側はつまんねぇな」と口にすることもなく、静かにいつも通りの道へと歩みを進めた。

ブックファーストに立ち寄って、心にビビっと、体にベベッと、尻からブブッと来る本を探したのだが、ブックブクの本はなかなか私の涙腺まで沸き上がって来ない。ところが、ふいに目にした一冊に、心がビビッと、体がべべッとした。尻からブブッとはしなかったが、眉間辺りにググっと何かがやってきて、ズルズルッと瞼辺りまで降りてきて、そいつが私に「買え」と言ったような気がして、つい、買ってしまった。

本との出会いはブックリするほど突然である。ラブ・ストーリーより突然である。そもそもラブ・ストーリーは突然にはやってこない。じんわりじんわり、湯たんぽみたいなもんだと思っている。

さて、最近前置きが長いので、さくっと感想を。

 

柳家小はだ 道灌

漫才コンビ霜降り明星粗品さんと柳家小んぶさんを足して二で割ったような面構えの小はださん。あらゆる落語会で卒なく、真面目に高座返しに取り組んでいる姿を良く見かける。柳家独特の土着的な、偉大なる才能を感じさせるフラ。

ゆったりとした語りと、従来の筋のクスグリを絶妙な間で語る。以前、何度か道灌を見たことがあるのだが、それとは比べ物にならないほど面白くなっていた。

芸は磨けば伸びて行く。着実に自らの骨肉として、芸を磨いている姿が素晴らしい一席だった。

 

 古今亭文菊 悋気の独楽

てっきり『権助提灯』かなと思いきや、定吉が登場した辺りで「あれ?聞いたことないな」と思って歓喜。そのまま定吉の可愛らしさが溢れ出す演目へ。

文菊師匠は30分~1時間越えの大ネタも、寄席単位の10~15分のネタも、どちらにも魅力がある。その魅力は、シェフで言えば、コース料理も賄い飯も絶品であることには変わりないシェフと言えば良いだろうか。寄席では良く掛かるネタであっても、文菊師匠がやると、なぜか特別に響いてくるのは、私の心そのものが文菊師匠の放つ雰囲気に囚われているからだろうか。

お妾さんの艶やかさもさることながら、モテるだろうなぁと思わせる旦那の様子が良い。訳知らぬ顔で旦那の女性関係に突っ込んでいく定吉の可愛らしさがほのぼのする。誰でも人の恋路には興味があるということだろうか。その先に後悔が待っていようとも、船を漕いで追いたくなるのが人であろうか。と、問いばかり。

独楽を回し始めたあたりから、オチまで、文菊師匠の可愛らしさが光った一席だった。

 

 古今亭文菊 夢金

恐らくは宝くじに外れた観客を慰めるために(?)或いは、強欲な自らを肯定するために(?)、2020年も強欲に生きたいという意志の表れか、演目は夢金。

冒頭の印象的な言葉から、シリアスな展開へと進む物語の緩急が面白い。欲に溺れて道を踏み外しかねないところまで進んだ船頭が、あっぱれ悪事を潰す光景が爽快である。

冬の寒い大川を流れる船の静けさと、船頭のとぼけた陽気さ。文菊師匠には『隠れテーマ』みたいなものがある気がして、前半の演目では『妾と楽しむ旦那に嫉妬する妻』で笑いを誘いながら、後半の一席で「謎の侍と娘さんの関係に嫉妬する船頭』を見せて、シリアスながらも緻密な描写で語り切っている。すなわち、今回のテーマは『嫉妬』であろう。

前回の独演会では、『締め込み』、『井戸の茶碗』、そして前々回の独演会では『時そば』、『柳田格之進』を語っており、どちらも前半は『他人に対する嫉妬』、そして後半は『50両によって変わる人の人生』を描いている気がする。『時そば』も広い目で見たら嫉妬からの失敗である。(多少無理があるだろうか)

『柳田~』では主人公、柳田格之進の苦悩と情けを、そして『井戸の茶碗』では50両に振り回される屑屋を語り、『大金』を軸に回転していく人々が、見事に異なっているのである。

そして、今回もまた『夢金』という『大金』に纏わる話である。恐らくはここで、文菊師匠の『隠れテーマ三部作』は区切りでは無いだろうか。『夢金』では、大金も何もかも夢となって消えてしまうのである。

あくまでも想像だが、もしも文菊師匠が意図的に構成しているのだとしたら面白い。50両が産む悲しみ、喜び、そして夢。となれば、次は一体どんな『隠れテーマ』が潜んでいるのだろうか。そもそも、そんなことを推測するのは『邪推』というものであろうか。

これからも、機会があれば文菊師匠の高座を聞き続けたい。そう思った会だった。

あらたまの心の奥の輝きの~2020年1月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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遠くにいけば、近くにあって

近くにいけば、遠くにあって

彷徨えば恋

留まれば愛

傷ついて恋

癒されて愛

 芽吹くまで

年明けの忙しなさに紛れて、私は巣鴨の街を歩いた。どれほどの長さがあるのか分からないが、羽子板の絵とともに『巣鴨地蔵通商店街』と名付けられた看板があり、通りの始まりから人がどっと列を成して奥まで連なっている。

路上には露天商というのか、包丁やら古道具、着物の帯から硝子細工の工芸品など、種々様々なものが並べられており、群がる客を相手に店主が一人で相手をしている。バーゲンセールなどで婦人方が押し寄せ、我一番にと安い品物を手にしてレジに向かうがごとく、何か良い品物は無いかとごそごそと探している。まるで河川に投げ込まれたコンビーフにボラが群がるかのような光景に、私は辟易しながらも、どうにも人が群がっていると何か良い物があるかも知れぬという考えがやってきて、ついつい遠巻きに眺めてしまう。私はコンビーフを食せぬボラである。

ぼんやりと歩いていると、一軒の眼鏡点を発見した。丁度、随分と掛けていなかった眼鏡を修理したいと思い鞄に入れていたところだったので、これ幸いと眼鏡店に入った。

眼鏡が棚に陳列されている光景は気持ちが良い。私は元来目が悪く、幼い頃のテレビ三昧とゲーム三昧が祟ったと思っていたのだが、高校生の頃に眼科でコンタクトレンズを作るための検査をしたところ、もともと水晶体のなんちゃらが歪んでいるのだそうで、目は悪いのだそうだ。肝心な理由を失念しているのだからいい加減である。

持っていた眼鏡を店主に渡す。眼鏡店の店員さんは皆さん良い眼鏡を掛けている。自らに似合う眼鏡を心得ている。老齢の、役者で言えば『でんでん』さんに似ている店主に眼鏡を渡すと、開口一番、こう言われた。

「こりゃひでぇな」

少し胸の奥が痛む。私の扱いが悪かったのであろうか。確かに随分と掛けていなかったし、手入れも怠っていた。掛けていた頃からどうにも掛け心地の良くない眼鏡ではあったのだが、それなりの価格であったので、直るのであればもう一度掛けたいという気持ちがあった。

私は胸の痛みを抑えながらも、

「はぁ、そうですか・・・直りますかね」

でんでんは、息子であろう人物に私の眼鏡を見せた。すると、息子さん

「うわっ、こりゃ酷いね。外に開いちゃってるよ」

表情には出さないが、私の心はかなり傷ついている。自らの無精を曝け出されたようで胸が痛む。

「直るか分からないけれど、ちょっとやってみましょう」

それで、しばらく待った。でんでんが私の眼鏡の修理に取り組んでくれた。数分後、でんでんが私の元へやってきて、

「真ん中のところは調整しました。ですが、フレームのところは専門店でやってもらってください。壊しちゃったら、うちじゃ弁償できないので」

そう言って渡された眼鏡を掛けてみる。幾分掛け心地は良くなったが、それでも不安定で、良く見えず、ぶれぶれである。

「あー、はい。ちょっと良くなりましたね」

「そうでしょ」

まぁ、こんなものか、と思って「おいくらになりますか」と私が尋ねると、でんでんは「500円頂戴します。すみませんね。うちで買って頂いた眼鏡ですと無料なんですが」と言うので、私は500円を払って店を出た。

なんだか悲しい気持ちにはなったのだが、500円を払うと気持ちが落ち着いた。『500円でも直らなかった眼鏡』を不憫に思ったが、私の無精が招いたことと思うと、仕方がないのかなという気持ちになった。

もっと私が短気であれば、店主に「こりゃひでぇな」と言われた段階で、「なんだと!俺の手入れが悪いって言うのか!ふざけんな!」と怒鳴ることが出来たであろうし、500円と言われても、直っていないのだから払わずに出て行くこともできた。それでも、私は特に苛々することもなく、ぼんやりと巣鴨の街を再び歩き始めた。

苛々しないのは、眼鏡店に対する皮肉な言葉が私に生まれたからである。それをここでひけらかしたところで、私は満足するかも知れないが眼鏡店の店主が傷つく。誰も傷つけたくは無いから書かずに私の心に留めておくことにする。

さて、ちょっとしたセンチメンタルの後で、私はスタジオフォーに向かった。そこで、寄席文字の鐵や猫の鐵、小鳥の鐵などを作っている展示があり、作者の方と色々とお話をさせて頂いた。作者の方は何十年も前から四の日寄席に参加されており、以前私が書いた記事のように、お客が殆どいなかった時代を知っておられる方だった。また、スタジオフォーの建物の装飾もされているようで、何度か来たことがあったのだが、全然気がつかず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

私が「今じゃ想像つきませんよ。このメンバーでガラガラなんて」と言うと、作者の方はとても嬉しそうに「そうよねー!想像付かないわよねー!」と言った。

作者のサイトはこちら

http://www.ops.dti.ne.jp/~sanroku/index.html

どんな人でも、いつかは春を迎えるのだ。向き合い続けていれば、高座に上がり続けていれば、見ている人は見ているのだから。中村仲蔵だって、誰だって、高座に上がって「待ってました!」と声をかけられる存在になるのだ。

さて、私はいつ、そんな存在になれるのだろうか。ひたむきに、ひたむきに、書き続けること。

そうすることでしか見えて来ないものがあると信じて進む。

 

古今亭駒治 ガールトーク

開口一番は駒治さん。2020年1月下席昼の部で10日間、初めてのトリを務めることが決定している。落語好きが集まる秘密クラブ的な場所で、一体どんな新作落語を聞くことができるのか今から楽しみである。

そんな駒治さんの新作は、毒舌全開の一席。詳しい内容は避けるが、日々どこかで繰り広げられているのではないかという、情報戦争とでも呼べばいいのか、様々な情報が行き交う面白い一席である。

 

 初音家左橋 禁酒番屋

続いてはお久しぶりの左橋師匠。お弟子さんの左吉さんが古今亭ぎん志になり、真打昇進の披露興行も落ち着いたのだろうか。相変わらずのカッコイイ佇まいと美しい声。齢64歳ということで、後三十年はご活躍されるだろうと思う。

そんな左橋師匠ではお初の禁酒番屋。古典の筋に沿って、左橋師匠らしい愛くるしさが抜群に映える。何となく可愛らしさというか、カッコ良さの中に愛嬌があって好きである。

水カステラを飲む仕草で、思わず客席から「美味そうだなぁ~」と声が漏れるほど美味しそうな呑みっぷり。後半のある物を仕込んで番小屋のものに差し出してから、オチまでのノンストップな畳み掛けが面白い。声の張りや勢いがカッコイイ、素敵な一席だった。

 

 桂やまと 幾代餅

仲入り前は、こちらもお久しぶりなやまと師匠。というか、殆ど四の日寄席でしか聞いていない。

とても丁寧な語りの後で、布団に籠り弱弱しい清蔵が出てくる。清蔵を心配する女将さんの様子や、清蔵を奮い立たせようとする旦那の様子も面白い。清蔵が寝込んだ錦絵の花魁『幾代』に出会うまでの物語である。

吉原の花魁が当時、どんな過酷な状況の中で働いていたか。やまとさんの細部を描き出す語りには、幾代太夫と清蔵が出会う場面に効果的に響いていた。

『紺屋高尾』と並んで、花魁と町の働き者が出会う物語である『幾代餅』。きっと当時の人達は、『俺も城を傾けるくらいの美人と付き合いてぇなぁ』と思っていた筈。まして、遊郭のある時代であるから、当時の花魁の心というものを、より一層思って恋をしていたに違いない。遊郭の復活はあるのだろうか。男達はいつまでもキャバクラで遊びの恋に金を落としていくのだろうか。否、キャバクラは遊びが本気になる場なんだよ、と言われても、ウブなわたしにゃわかりません。

 

 隅田川馬石 粗忽の釘

みんな大好き馬石師匠。馬石師匠の語る粗忽者は『生来の粗忽』という感じがして面白い。可愛らしいし、おっちょこちょいだし、間抜けで憎めない。粗忽っぷりが振り切れているけれど、嘘っぽい振り切れじゃない。わざと粗忽を演じている感が無くて、本物の粗忽っぷりがあるから面白い。

同時に、これはちょっと新発見なのだけど、馬石師匠の粗忽の釘は、女将さんも粗忽である。なんか、そこが妙に辻褄が合う気がして好きだ。

女性がどう思うか分からないが、『なんでこんな粗忽な人と一緒になるんだろう!?』と思ってしまうほど、粗忽の釘に出てくる男は粗忽である。しかしながら、街を見れば美女と野獣カップルもいたりして、世の中全てが合理的とまでは行かないが、性格の不一致で付き合っているカップルは珍しいだろうと思っていた。

馬石師匠の語る女将さんには、しっかり者というイメージは僅かにありながらも、元来の粗忽さが、見事に旦那の粗忽さと重なっているような気がしたのである。そして、だんだんと旦那の影響を受けて、粗忽さを増していったのかな、と想像させるような女将さんの姿が面白かった。

女性というのは、最初は「馬鹿だな~、この人」とか言いながら、自分の心の奥にある『粗忽さ』に気づいて、「あら、あたしも、あの馬鹿と一緒だ」と思い始め、その馬鹿が一所懸命に働いていたりすると、「あいつ、馬鹿なのに可愛いところあるじゃん」と考えを改め、その馬鹿が「おいらと、くっついちゃいなよ。おいらにはあんたしかいないよ」なんて言ってきたら、「はい」と頷いてしまう生き物でもあるんじゃなかろうか。口では何と言ったって、本当のところは好きっていうのが、女性なんじゃなかろうか。(何を妄想しているんだ俺は)一概には言えないな。

 

 古今亭文菊 茶の湯

スタジオフォーならではの枕の後で、演目へ。ここまで客席からちらほらと、演者がネタに入った段階、或いは枕の段階で『ネタ予想』が始まっており、それが懇切丁寧に口に出して行われるものだから、私も「大丈夫、わかりますよ」と心の中で呟きながら聞いていた。演目に気がつくと言いたくなっちゃう気持ち、私も分からないでもない。好きな人が隣にいたら、思わず「やったね!鯉白さん、あげぱんだよ!」って言ってしまうかも知れない。いや、そもそも連れていかないかも知れない(だから何を妄想しているんだ俺は)

さて、文菊師匠の顔芸と、定吉の可愛らしさ、隠居さんの風格が見事に絡まりあう一席。甘さと渋さの激突とも呼ぶべきか。とことんまで意地っ張りというか、他人に指図されたり、間違いを正されることが嫌な隠居さんが、定吉を味方にどんどんと勘違いしていく様が面白い。隠居さんから茶会に誘われた長屋の三人が、茶会に参加せずに引っ越しを選択する場面も最高に面白い。

ここ最近、改めて思うのだが、文菊師匠がとても柔らかくなっている気がする。初めて見た頃は、もうガッチガチに固くて落語の真髄の探究者みたいな、神々しさがあったのだけれど、今はもっともっと、聞く人に寄り添ってきたと言うべきか、肩の力が抜けたというか、筆で言えば、卸したての固さから、使い慣れて柔らかくなってきたというか、そう感じさせる雰囲気がある。もちろんそれは、会場の歴史であったり空気であったりするのかも知れないが、かつて見たときの固さは取れているような気がする。

それでもやはり芯にはブレない軸があって、その芯の太さが増している気がする。私はその芯を感じながら、外観の柔らかさを見ているだけに過ぎないのかも知れない。いずれにしても、不味い茶を飲んだり、不味い饅頭を食べたりするときの仕草が、何とも言えず面白くて、何か自分が無意識に人に与えてしまう緊張感というのか、先入観というものを、味方に付けて落語の世界を語っている感じが、たまらなく素敵なのである。

久しぶりに文菊師匠で茶の湯を見たが、とんでもなく面白くなっていた。ともすれば冗長になりがちな話を、表情と語りのリズム、そして見事なトーンで彩っていて、最高に面白い一席だった。

 

 総括 行ける日には行きたい寄席

鐵で様々なものを作り上げる方とお話したときも、「なかなか4日ってお休みじゃないですよねー」なんて話をしていたが、来れる日には来たい寄席である。何よりも、そこにはご常連が集まっており、そのご常連の殆どが、客席に誰もいなかった時代を知っているのである。そんな黎明期というか、出演者の若かりし頃のお話を伺えるだけでも、とても貴重な寄席である。

どんなことでもそうだけれど、『どこで誰といつ出会うか』というのは誰にもわからない。だが、私が思うに『出会わなければ良かったと思うような出会い』は無いのではないだろうか。少なくとも「あいつとは会わなきゃ良かったなぁ」と思うことが私は無い。というのも、たとえ自分が嫌だなと思う人に会ったとしても、その人のおかげで考えもしなかったことを考えることができるのだから、それはやはり貴重なことであって、尊いものだと私は思う。

それに、当ブログでも何度か書いているが『出会っちまったら仕方がない。出会う前には二度と戻れない』のだ。だったら、その出会いを『出会わなければ良かった』なんて言葉で飾ってしまうのは、些か出会いに対して失礼になってしまうのではないだろうか。寄席で自分とは合わない噺家さんが出たら、そっと目を閉じて語る言葉を失くし、他の事を考える時間だと思って考えれば、有意義に過ごせるのではなかろうか。

2020年、あらたまの心の奥の輝きの強さを信じて、今年も翳らせることの無いように、一期一会を大切にしていきたい。

考えてみれば、私は良い人にしか出会っていないと思う。過度にヤバそうな人との接触は避けているし、遠ざかっているが、それでも、やはり私の周りには素敵な人達が多い。それは仕事に関してもプライベートに関してもである(ま、もともと友達が少ないので何とも言えないが)

『我以外皆師也』。そんな心持ちで、私はスタジオフォーの後、ぼんやり銭湯に行き、最高のサウナで心も身体も整えた。裏切りませんね、銭湯は。