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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

あらたまの心の奥の輝きの~2020年1月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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遠くにいけば、近くにあって

近くにいけば、遠くにあって

彷徨えば恋

留まれば愛

傷ついて恋

癒されて愛

 芽吹くまで

年明けの忙しなさに紛れて、私は巣鴨の街を歩いた。どれほどの長さがあるのか分からないが、羽子板の絵とともに『巣鴨地蔵通商店街』と名付けられた看板があり、通りの始まりから人がどっと列を成して奥まで連なっている。

路上には露天商というのか、包丁やら古道具、着物の帯から硝子細工の工芸品など、種々様々なものが並べられており、群がる客を相手に店主が一人で相手をしている。バーゲンセールなどで婦人方が押し寄せ、我一番にと安い品物を手にしてレジに向かうがごとく、何か良い品物は無いかとごそごそと探している。まるで河川に投げ込まれたコンビーフにボラが群がるかのような光景に、私は辟易しながらも、どうにも人が群がっていると何か良い物があるかも知れぬという考えがやってきて、ついつい遠巻きに眺めてしまう。私はコンビーフを食せぬボラである。

ぼんやりと歩いていると、一軒の眼鏡点を発見した。丁度、随分と掛けていなかった眼鏡を修理したいと思い鞄に入れていたところだったので、これ幸いと眼鏡店に入った。

眼鏡が棚に陳列されている光景は気持ちが良い。私は元来目が悪く、幼い頃のテレビ三昧とゲーム三昧が祟ったと思っていたのだが、高校生の頃に眼科でコンタクトレンズを作るための検査をしたところ、もともと水晶体のなんちゃらが歪んでいるのだそうで、目は悪いのだそうだ。肝心な理由を失念しているのだからいい加減である。

持っていた眼鏡を店主に渡す。眼鏡店の店員さんは皆さん良い眼鏡を掛けている。自らに似合う眼鏡を心得ている。老齢の、役者で言えば『でんでん』さんに似ている店主に眼鏡を渡すと、開口一番、こう言われた。

「こりゃひでぇな」

少し胸の奥が痛む。私の扱いが悪かったのであろうか。確かに随分と掛けていなかったし、手入れも怠っていた。掛けていた頃からどうにも掛け心地の良くない眼鏡ではあったのだが、それなりの価格であったので、直るのであればもう一度掛けたいという気持ちがあった。

私は胸の痛みを抑えながらも、

「はぁ、そうですか・・・直りますかね」

でんでんは、息子であろう人物に私の眼鏡を見せた。すると、息子さん

「うわっ、こりゃ酷いね。外に開いちゃってるよ」

表情には出さないが、私の心はかなり傷ついている。自らの無精を曝け出されたようで胸が痛む。

「直るか分からないけれど、ちょっとやってみましょう」

それで、しばらく待った。でんでんが私の眼鏡の修理に取り組んでくれた。数分後、でんでんが私の元へやってきて、

「真ん中のところは調整しました。ですが、フレームのところは専門店でやってもらってください。壊しちゃったら、うちじゃ弁償できないので」

そう言って渡された眼鏡を掛けてみる。幾分掛け心地は良くなったが、それでも不安定で、良く見えず、ぶれぶれである。

「あー、はい。ちょっと良くなりましたね」

「そうでしょ」

まぁ、こんなものか、と思って「おいくらになりますか」と私が尋ねると、でんでんは「500円頂戴します。すみませんね。うちで買って頂いた眼鏡ですと無料なんですが」と言うので、私は500円を払って店を出た。

なんだか悲しい気持ちにはなったのだが、500円を払うと気持ちが落ち着いた。『500円でも直らなかった眼鏡』を不憫に思ったが、私の無精が招いたことと思うと、仕方がないのかなという気持ちになった。

もっと私が短気であれば、店主に「こりゃひでぇな」と言われた段階で、「なんだと!俺の手入れが悪いって言うのか!ふざけんな!」と怒鳴ることが出来たであろうし、500円と言われても、直っていないのだから払わずに出て行くこともできた。それでも、私は特に苛々することもなく、ぼんやりと巣鴨の街を再び歩き始めた。

苛々しないのは、眼鏡店に対する皮肉な言葉が私に生まれたからである。それをここでひけらかしたところで、私は満足するかも知れないが眼鏡店の店主が傷つく。誰も傷つけたくは無いから書かずに私の心に留めておくことにする。

さて、ちょっとしたセンチメンタルの後で、私はスタジオフォーに向かった。そこで、寄席文字の鐵や猫の鐵、小鳥の鐵などを作っている展示があり、作者の方と色々とお話をさせて頂いた。作者の方は何十年も前から四の日寄席に参加されており、以前私が書いた記事のように、お客が殆どいなかった時代を知っておられる方だった。また、スタジオフォーの建物の装飾もされているようで、何度か来たことがあったのだが、全然気がつかず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

私が「今じゃ想像つきませんよ。このメンバーでガラガラなんて」と言うと、作者の方はとても嬉しそうに「そうよねー!想像付かないわよねー!」と言った。

作者のサイトはこちら

http://www.ops.dti.ne.jp/~sanroku/index.html

どんな人でも、いつかは春を迎えるのだ。向き合い続けていれば、高座に上がり続けていれば、見ている人は見ているのだから。中村仲蔵だって、誰だって、高座に上がって「待ってました!」と声をかけられる存在になるのだ。

さて、私はいつ、そんな存在になれるのだろうか。ひたむきに、ひたむきに、書き続けること。

そうすることでしか見えて来ないものがあると信じて進む。

 

古今亭駒治 ガールトーク

開口一番は駒治さん。2020年1月下席昼の部で10日間、初めてのトリを務めることが決定している。落語好きが集まる秘密クラブ的な場所で、一体どんな新作落語を聞くことができるのか今から楽しみである。

そんな駒治さんの新作は、毒舌全開の一席。詳しい内容は避けるが、日々どこかで繰り広げられているのではないかという、情報戦争とでも呼べばいいのか、様々な情報が行き交う面白い一席である。

 

 初音家左橋 禁酒番屋

続いてはお久しぶりの左橋師匠。お弟子さんの左吉さんが古今亭ぎん志になり、真打昇進の披露興行も落ち着いたのだろうか。相変わらずのカッコイイ佇まいと美しい声。齢64歳ということで、後三十年はご活躍されるだろうと思う。

そんな左橋師匠ではお初の禁酒番屋。古典の筋に沿って、左橋師匠らしい愛くるしさが抜群に映える。何となく可愛らしさというか、カッコ良さの中に愛嬌があって好きである。

水カステラを飲む仕草で、思わず客席から「美味そうだなぁ~」と声が漏れるほど美味しそうな呑みっぷり。後半のある物を仕込んで番小屋のものに差し出してから、オチまでのノンストップな畳み掛けが面白い。声の張りや勢いがカッコイイ、素敵な一席だった。

 

 桂やまと 幾代餅

仲入り前は、こちらもお久しぶりなやまと師匠。というか、殆ど四の日寄席でしか聞いていない。

とても丁寧な語りの後で、布団に籠り弱弱しい清蔵が出てくる。清蔵を心配する女将さんの様子や、清蔵を奮い立たせようとする旦那の様子も面白い。清蔵が寝込んだ錦絵の花魁『幾代』に出会うまでの物語である。

吉原の花魁が当時、どんな過酷な状況の中で働いていたか。やまとさんの細部を描き出す語りには、幾代太夫と清蔵が出会う場面に効果的に響いていた。

『紺屋高尾』と並んで、花魁と町の働き者が出会う物語である『幾代餅』。きっと当時の人達は、『俺も城を傾けるくらいの美人と付き合いてぇなぁ』と思っていた筈。まして、遊郭のある時代であるから、当時の花魁の心というものを、より一層思って恋をしていたに違いない。遊郭の復活はあるのだろうか。男達はいつまでもキャバクラで遊びの恋に金を落としていくのだろうか。否、キャバクラは遊びが本気になる場なんだよ、と言われても、ウブなわたしにゃわかりません。

 

 隅田川馬石 粗忽の釘

みんな大好き馬石師匠。馬石師匠の語る粗忽者は『生来の粗忽』という感じがして面白い。可愛らしいし、おっちょこちょいだし、間抜けで憎めない。粗忽っぷりが振り切れているけれど、嘘っぽい振り切れじゃない。わざと粗忽を演じている感が無くて、本物の粗忽っぷりがあるから面白い。

同時に、これはちょっと新発見なのだけど、馬石師匠の粗忽の釘は、女将さんも粗忽である。なんか、そこが妙に辻褄が合う気がして好きだ。

女性がどう思うか分からないが、『なんでこんな粗忽な人と一緒になるんだろう!?』と思ってしまうほど、粗忽の釘に出てくる男は粗忽である。しかしながら、街を見れば美女と野獣カップルもいたりして、世の中全てが合理的とまでは行かないが、性格の不一致で付き合っているカップルは珍しいだろうと思っていた。

馬石師匠の語る女将さんには、しっかり者というイメージは僅かにありながらも、元来の粗忽さが、見事に旦那の粗忽さと重なっているような気がしたのである。そして、だんだんと旦那の影響を受けて、粗忽さを増していったのかな、と想像させるような女将さんの姿が面白かった。

女性というのは、最初は「馬鹿だな~、この人」とか言いながら、自分の心の奥にある『粗忽さ』に気づいて、「あら、あたしも、あの馬鹿と一緒だ」と思い始め、その馬鹿が一所懸命に働いていたりすると、「あいつ、馬鹿なのに可愛いところあるじゃん」と考えを改め、その馬鹿が「おいらと、くっついちゃいなよ。おいらにはあんたしかいないよ」なんて言ってきたら、「はい」と頷いてしまう生き物でもあるんじゃなかろうか。口では何と言ったって、本当のところは好きっていうのが、女性なんじゃなかろうか。(何を妄想しているんだ俺は)一概には言えないな。

 

 古今亭文菊 茶の湯

スタジオフォーならではの枕の後で、演目へ。ここまで客席からちらほらと、演者がネタに入った段階、或いは枕の段階で『ネタ予想』が始まっており、それが懇切丁寧に口に出して行われるものだから、私も「大丈夫、わかりますよ」と心の中で呟きながら聞いていた。演目に気がつくと言いたくなっちゃう気持ち、私も分からないでもない。好きな人が隣にいたら、思わず「やったね!鯉白さん、あげぱんだよ!」って言ってしまうかも知れない。いや、そもそも連れていかないかも知れない(だから何を妄想しているんだ俺は)

さて、文菊師匠の顔芸と、定吉の可愛らしさ、隠居さんの風格が見事に絡まりあう一席。甘さと渋さの激突とも呼ぶべきか。とことんまで意地っ張りというか、他人に指図されたり、間違いを正されることが嫌な隠居さんが、定吉を味方にどんどんと勘違いしていく様が面白い。隠居さんから茶会に誘われた長屋の三人が、茶会に参加せずに引っ越しを選択する場面も最高に面白い。

ここ最近、改めて思うのだが、文菊師匠がとても柔らかくなっている気がする。初めて見た頃は、もうガッチガチに固くて落語の真髄の探究者みたいな、神々しさがあったのだけれど、今はもっともっと、聞く人に寄り添ってきたと言うべきか、肩の力が抜けたというか、筆で言えば、卸したての固さから、使い慣れて柔らかくなってきたというか、そう感じさせる雰囲気がある。もちろんそれは、会場の歴史であったり空気であったりするのかも知れないが、かつて見たときの固さは取れているような気がする。

それでもやはり芯にはブレない軸があって、その芯の太さが増している気がする。私はその芯を感じながら、外観の柔らかさを見ているだけに過ぎないのかも知れない。いずれにしても、不味い茶を飲んだり、不味い饅頭を食べたりするときの仕草が、何とも言えず面白くて、何か自分が無意識に人に与えてしまう緊張感というのか、先入観というものを、味方に付けて落語の世界を語っている感じが、たまらなく素敵なのである。

久しぶりに文菊師匠で茶の湯を見たが、とんでもなく面白くなっていた。ともすれば冗長になりがちな話を、表情と語りのリズム、そして見事なトーンで彩っていて、最高に面白い一席だった。

 

 総括 行ける日には行きたい寄席

鐵で様々なものを作り上げる方とお話したときも、「なかなか4日ってお休みじゃないですよねー」なんて話をしていたが、来れる日には来たい寄席である。何よりも、そこにはご常連が集まっており、そのご常連の殆どが、客席に誰もいなかった時代を知っているのである。そんな黎明期というか、出演者の若かりし頃のお話を伺えるだけでも、とても貴重な寄席である。

どんなことでもそうだけれど、『どこで誰といつ出会うか』というのは誰にもわからない。だが、私が思うに『出会わなければ良かったと思うような出会い』は無いのではないだろうか。少なくとも「あいつとは会わなきゃ良かったなぁ」と思うことが私は無い。というのも、たとえ自分が嫌だなと思う人に会ったとしても、その人のおかげで考えもしなかったことを考えることができるのだから、それはやはり貴重なことであって、尊いものだと私は思う。

それに、当ブログでも何度か書いているが『出会っちまったら仕方がない。出会う前には二度と戻れない』のだ。だったら、その出会いを『出会わなければ良かった』なんて言葉で飾ってしまうのは、些か出会いに対して失礼になってしまうのではないだろうか。寄席で自分とは合わない噺家さんが出たら、そっと目を閉じて語る言葉を失くし、他の事を考える時間だと思って考えれば、有意義に過ごせるのではなかろうか。

2020年、あらたまの心の奥の輝きの強さを信じて、今年も翳らせることの無いように、一期一会を大切にしていきたい。

考えてみれば、私は良い人にしか出会っていないと思う。過度にヤバそうな人との接触は避けているし、遠ざかっているが、それでも、やはり私の周りには素敵な人達が多い。それは仕事に関してもプライベートに関してもである(ま、もともと友達が少ないので何とも言えないが)

『我以外皆師也』。そんな心持ちで、私はスタジオフォーの後、ぼんやり銭湯に行き、最高のサウナで心も身体も整えた。裏切りませんね、銭湯は。