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大金の行く末~2019年1月5日 古今亭文菊独演会~

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そいはするりと 

 きみにしにのたまおうものなら

断崖絶壁から荒れ狂う波に飛び込もうというような、悲壮感の溢れる悲劇のヒロインは街のどこにもおらず、まして、そんなヒロインに「待て!飛び込んじゃ駄目だ!」なんて言葉をかける男もいなければ、つくねを投げて、「おいら、流れ板の〇〇ってんだ」と出しゃばる者もいない。

流れ流れて『流れのカッパ巻き』である私は、寒い中野の街をぼんやりと歩いていた。いつもとは反対の改札口で降りたのだが、期待したほど面白そうなものは無く、「なーんだ、こっち側はつまんねぇな」と口にすることもなく、静かにいつも通りの道へと歩みを進めた。

ブックファーストに立ち寄って、心にビビっと、体にベベッと、尻からブブッと来る本を探したのだが、ブックブクの本はなかなか私の涙腺まで沸き上がって来ない。ところが、ふいに目にした一冊に、心がビビッと、体がべべッとした。尻からブブッとはしなかったが、眉間辺りにググっと何かがやってきて、ズルズルッと瞼辺りまで降りてきて、そいつが私に「買え」と言ったような気がして、つい、買ってしまった。

本との出会いはブックリするほど突然である。ラブ・ストーリーより突然である。そもそもラブ・ストーリーは突然にはやってこない。じんわりじんわり、湯たんぽみたいなもんだと思っている。

さて、最近前置きが長いので、さくっと感想を。

 

柳家小はだ 道灌

漫才コンビ霜降り明星粗品さんと柳家小んぶさんを足して二で割ったような面構えの小はださん。あらゆる落語会で卒なく、真面目に高座返しに取り組んでいる姿を良く見かける。柳家独特の土着的な、偉大なる才能を感じさせるフラ。

ゆったりとした語りと、従来の筋のクスグリを絶妙な間で語る。以前、何度か道灌を見たことがあるのだが、それとは比べ物にならないほど面白くなっていた。

芸は磨けば伸びて行く。着実に自らの骨肉として、芸を磨いている姿が素晴らしい一席だった。

 

 古今亭文菊 悋気の独楽

てっきり『権助提灯』かなと思いきや、定吉が登場した辺りで「あれ?聞いたことないな」と思って歓喜。そのまま定吉の可愛らしさが溢れ出す演目へ。

文菊師匠は30分~1時間越えの大ネタも、寄席単位の10~15分のネタも、どちらにも魅力がある。その魅力は、シェフで言えば、コース料理も賄い飯も絶品であることには変わりないシェフと言えば良いだろうか。寄席では良く掛かるネタであっても、文菊師匠がやると、なぜか特別に響いてくるのは、私の心そのものが文菊師匠の放つ雰囲気に囚われているからだろうか。

お妾さんの艶やかさもさることながら、モテるだろうなぁと思わせる旦那の様子が良い。訳知らぬ顔で旦那の女性関係に突っ込んでいく定吉の可愛らしさがほのぼのする。誰でも人の恋路には興味があるということだろうか。その先に後悔が待っていようとも、船を漕いで追いたくなるのが人であろうか。と、問いばかり。

独楽を回し始めたあたりから、オチまで、文菊師匠の可愛らしさが光った一席だった。

 

 古今亭文菊 夢金

恐らくは宝くじに外れた観客を慰めるために(?)或いは、強欲な自らを肯定するために(?)、2020年も強欲に生きたいという意志の表れか、演目は夢金。

冒頭の印象的な言葉から、シリアスな展開へと進む物語の緩急が面白い。欲に溺れて道を踏み外しかねないところまで進んだ船頭が、あっぱれ悪事を潰す光景が爽快である。

冬の寒い大川を流れる船の静けさと、船頭のとぼけた陽気さ。文菊師匠には『隠れテーマ』みたいなものがある気がして、前半の演目では『妾と楽しむ旦那に嫉妬する妻』で笑いを誘いながら、後半の一席で「謎の侍と娘さんの関係に嫉妬する船頭』を見せて、シリアスながらも緻密な描写で語り切っている。すなわち、今回のテーマは『嫉妬』であろう。

前回の独演会では、『締め込み』、『井戸の茶碗』、そして前々回の独演会では『時そば』、『柳田格之進』を語っており、どちらも前半は『他人に対する嫉妬』、そして後半は『50両によって変わる人の人生』を描いている気がする。『時そば』も広い目で見たら嫉妬からの失敗である。(多少無理があるだろうか)

『柳田~』では主人公、柳田格之進の苦悩と情けを、そして『井戸の茶碗』では50両に振り回される屑屋を語り、『大金』を軸に回転していく人々が、見事に異なっているのである。

そして、今回もまた『夢金』という『大金』に纏わる話である。恐らくはここで、文菊師匠の『隠れテーマ三部作』は区切りでは無いだろうか。『夢金』では、大金も何もかも夢となって消えてしまうのである。

あくまでも想像だが、もしも文菊師匠が意図的に構成しているのだとしたら面白い。50両が産む悲しみ、喜び、そして夢。となれば、次は一体どんな『隠れテーマ』が潜んでいるのだろうか。そもそも、そんなことを推測するのは『邪推』というものであろうか。

これからも、機会があれば文菊師匠の高座を聞き続けたい。そう思った会だった。