落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

The Boy with the thorn in his side

  Left and Right

右を見ても左を見ても、燃えてばかりで収拾がつかない。仕方がないので真ん中を歩いてみるのだが、右と左の熱さにうなされて、とても歩ける状況ではない。いっそ、心頭滅却すべしと心に決めて、潔く歩いてみようかと思うのだが、素足ではどうにも上手く前に進めず、「あちち」と言いながら、転がるように前に進むのが常である。

転がる石には苔が生えぬという。怖がる意志には虚仮が必要だろうか。とんと分からぬご時世の中を泳ぐにあたって、頼るべき藁はいずこにあるというのか。考えれば考えるほど八方ふさがりになるのだが、考えなければ、ふさがって行く思考の圧力に耐える力も衰えるであろうから、結局考えて行き詰まる。そしてまた、力を蓄えて思考を押し戻し、拡張していくときに、僅かに伸びた思考の幅を、人は成長と呼ぶのかも知れない。

かくも儚き世を憂うよりも、勇ましき夢に情熱を燃やす方が、生き方としては些か逞しい。山を転げ落ちるよりも、今は山を登るべき時であろう。それがどんなに苦しく、耐え難く、逃げてしまいたいと思われるようなものであっても、今は、とかく今は、耐えて辛抱しなければならない時期である。石の上にも三年である。と言っても、三年も石の上に座していたら、苔も生えるであろう。むしろ、その苔を食して栄養に変えてしまうくらいの図々しさを持つべきであろう。

相変わらず世の中は窮屈で、いつ誰にどんな方法で後ろ指を指されるか分かったものではない。大抵の人というのは、陰湿で常に誰かを傷つけたいという欲求を持っている。それは人間として仕方の無い性質であって、性悪説とやらを支持するのだとすれば、生まれながらに人は、自分以外の存在の価値を貶めることによって、自らの価値を高めたいと望む生き物かも知れない。私は、それは殆ど愚かな行為であるとは思うのだが、生来、私は何かを否定することを嫌うので、安易に性悪な人々を嫌悪する気持ちはない。もしも、自分にとって残念な人間に出会ったら、静かに五感の全てを閉じて、完璧な芳一となって、遠ざかるだけである。嵐がくれば家が揺れる。だとすれば、嵐が去るまで待てばよいのである。弱火にうなされて、低温火傷をしようとも、かさぶたとなった皮膚が剥がれ落ち、また新しい肌になるまで待てばよいのである。

幸い、私の周りには鬱陶しいと思うような人はいない。もともと人付き合いが良い方ではなく、友人も平均以下の筈であるから、私を煩わせるものは一切ない。それを寂しいとか、退屈だという人もいるが、それは私の考えに反する。私は友達が少なくても一向に構わないし、人付き合いの悪さではトップを取れる自信がある。よく新聞や本を賑わせているトップ経営者は「人との関わりが一番重要です」などということを自慢げに語っているが、私からすれば、それは何とも受け入れがたい言葉である。言ってしまえば、私は自己中であって、他人への極度の鑑賞を嫌い、独り言ちで様々に考えている方が好きな性質なのであろう。

究極を言ってしまえば、いずれは自給自足できれば十分である。必要最低限の生活で事足りる。生活は質素、夢も希望も無く、亡者と呼ばれるような生き方をすることになっても、私は別に構わないのである。豊かになることを望む意志も無いわけではないが、結局は自分次第であって、自分というものは実に気まぐれで、雲のように掴みどころが無いから、その時々の風に吹かれて、揺蕩っている方が心地が良いのである。

 

a break in the clouds

疫病によって抑制された人の欲求は、疫病が収まった後でどのように変化するのだろうか。私が気になっていることは「誰が最初にマスクを外した生活をするか」ということである。と言っても、老齢な人々はどこ吹く風という態度である。それはそれで正しく、私は特別に嫌な気持ちはしない。「死ぬときは死ぬさ」という開き直りが痛快で、向かうところ敵無しの心意気は惚れ惚れする。だからと言って、私のような若造がそれを真似すれば、途端、周囲の目は刺すように自らに降りかかってくる。疫病がもたらした「生き辛さ」はそのまま、マスクなどの出費という形で懐を刺激してくる。だが、最近はそれを逆手にとって、お洒落なマスク、スタイルに合わせたマスクが発売されているので、物は考えようである。私もすっかりお洒落マスクとやらに熱をあげてしまい、服の色合いに合わせてマスクを買い集めてしまった。マスクによって顔が覆われることによって、想像の余地が生まれる。その余白が好きで、街ですれ違う女性を見ると、ついつい美人を想像してしまい、無駄に浮足立ってしまう。マスクをずっと付けているというのも、悪くはない。

 

matador

秋の日は釣瓶落としと言う。あっという間に過ぎていく秋。飽きる間もない。同じように、女心と秋の空という言葉がある。ころころ感情が変わる様子が秋の空に似ているかららしい。思い当たる節が幾つもある。私が出会った女性というのは、辻褄が合わないことが常であって、非合理的であるが芯があって頑固である。それに戸惑うこと多々である。生涯、私を含めた男という生き物は、女性には敵わない。むしろ、立ち向かおうとしてはならない。表向きは亭主関白を装い、裏では尻に敷かれていた方が丁度良いのである。どれだけ男が努力し、汗を流し、ひたむきに尽くそうとも、女心は秋の空である。女性に限らず、人というものは我儘で、辻褄の合わぬ行動をすることが常であり、たとえ、どれだけ理に適っていないと思われる出来事に遭遇しても、決して理不尽だとは思わず、粛々と受け入れていくことが大切である。私のように霞を食って生きている放浪者は、闘牛士の如く、ひらりひらりと突進してくる猛牛を避けることしかできないのである。闘牛士は猛牛に敵わないのである。くれぐれも、立ち向かう意志など持ってはならないのである。

 

 wind of knowledge(fiction)

ジョアンナ・ルーシーがまだこの部屋で暮らしていたころ、僕は11ペンスしか持っていなかった。彼女は僕のことをシリングと呼んだ。僕の本当の名前はショーンだったけれど、僕が11ペンスしか持っていないことを皮肉って、彼女は僕をシリングと呼ぶことにしていた。彼女曰く、自分が僕にとっての1ペンスだと言う(僕にとってはプライスレスだったけれど)

ジョアンナは前の彼氏と別れたばかりで、僕で丁度6人目だった。

「ROKUって会社を知ってる?」

ジョアンナは物知りで、賢いことを僕は知っていた。僕はROKUについて知っていたけれど、知らないフリをした。

「創業者のアンソニー・ウッドが、6番目に作った会社だからROKU。ROKUって、日本語で6って意味」

「じゃあ、7番目に会社を作っていたら、NANAだったのかな」

「そうね。女の子みたいな名前でいいじゃない」

たわいもない話をするのが、ジョアンナの癖だった。彼女はデイヴ・シャペルとルイス・CKを好んでいて、彼らが街にやってきたときは、決まってチケットを僕の分も合わせて買っていた。僕はスタンダップコメディには詳しく無かったけれど、彼女が笑うと僕もつられて笑った。正直、意味が理解できないことも幾つかあったけれど、彼女と一緒に笑うのは心地が良かった。

いつだったか、ジョアンナが僕に笑い話を披露したことがあった。それはタランティーノパルプ・フィクションという映画に出てくる笑い話だった。確か、トマトの親子の話。僕はそれを初めて聴いたフリをして笑った。

「ね、面白いでしょ。ケチャップとCatch UPをかけてるのよ」

ジョアンナはいつかスタンダップコメディアンになると語っていた。そのために、色んな人に出会って、色んな男に出会って、面白い話を蓄えるのだと言っていた。気になって、僕はジョアンナに聞いたことがあった。

「僕との恋愛で、何か面白いことはあった?」

ジョアンナはいじわるげに笑って、

「あなたのペンスはシリングだわ」

それが何を意味しているか、僕ははっきりと分かっていた。

でも、いつものように、僕は分からないふりをして、

「Oh,Kidding. I have only 11 Pence」

Don’t Stop Believin’

Shine The Light

太陽が昇れば月が沈んで行くように、月が昇れば太陽が沈んで行くように、人生には幾度も光と闇が訪れる。陽光と月光を何度も浴びながら、我々は長大な時間を生きている。長い年月をかけて積もる雪も、夏になればすっかり溶けて透明な水になるように、或いは、春に勢い良く葉を宿した木々が、冬になればすっかり枯れてしまうように、月日はまるで行き場所を求めて歩み続ける旅人のように忙しなく、気がつけば色合いは変わり、一所に留まることがない。

毎朝、目を覚ます度に、自分の心が幸福を受け入れる準備を始める。まるで小さな器を作るように、ゆっくりと体を動かして、心を動かして、パソコンの前に立ち、心を形作る。日によって、大きくなったり、小さくなったりする。それは自分ではコントロールすることができない。何となく、「今日は良い日になるぞ」と呟いてみて、そこに実感があるかどうかを確認する。予感はいつもあって、それはきっと日々の生活の中で確信に変わっているのだけれど、どのタイミングでそれが起こったかということを見逃してしまうことの方が多い。まるで、小さなメダカを両手で掬ってみたものの、指の隙間からするりと逃げていってしまうように、知らず知らずのうちに、掴み損ねた予感があって、それはほんの僅かな温度を残して去って行ってしまう。

少しずつ、自分が変わり始めた。今年になってから、かれこれ11ヶ月も経って、去年とはまるで異なる趣向を持つ自分を自覚する。東京に来てからの3年間は、それこそ落語に夢中の毎日で、それ以外のことは殆ど興味を示して来なかった。ところが、2019年の年末に酷い病に苛まれ、2週間ほど激しい頭痛と原因不明の熱にうなされ、病院で診察を受けたところ軽い肺炎とまで診断されたとき、いよいよもって自分の人生が淵にあるのではないかと思い始めた。崖の淵で眼前に広がるのは、途方もない拡がりを持った海が、荒れ狂い渦巻いている光景であった。もはやこれまでかと思い、情けないとは思いながらも家族を頼った。家族の助けもあって、細々と生き永らえた気分で、2020年を迎えては見たものの、新年早々、身内に不幸があった。

それは、あまりにも突然のことであった。

ほんの2日前まで、笑顔と明るさに包まれていた人が、息つく暇も無くこの世から去ってしまうという事実が、私には信じられなかった。永遠に続くであろうと思える時間が、幻想であるということを突き付けられたように思い、その日から私は、自分の死について考えることが多くなった。

今、死んだとして、十分に幸福であると言えるだろうか。その問いを自らに向けたとき、否、という答えだけが帰ってきた。そして、それはほんの少し前の私にとっては矛盾する答えだった。

自分さえ幸福であれば良いとか、自分は十分に幸福であるという考えが、ほんの少し前の私にはあった。落語を聞き、銭湯に行き、様々な芸術に触れ、言葉を紡ぐ。それ以上に何を望むというのか。それがほんの少し前の私の考えだった。

だが、今は、それまで目を背けていたと言っても過言ではない社会に目が向いた。投資を始めたことによって、大きく自分の趣向が変化するのを感じた。

自分だけではなく、全体の幸福を望む心が私の中で強く熱を持って沸き起こった。それまでは、静かに息を潜めていた炎が、急にぶわっと強くなったように感じられた。それは不思議なことだった。よりよい社会にするために、そして、よりよく社会を生きるためにはどうすれば良いか。私はそんなことを考えるようになっていた。

健全なる精神が健全なる肉体に宿ってくれたらいい。そう思った私は、4月から今日まで、一度も欠かすことなく毎朝のストレッチを開始した。筋力トレーニングを始め、8月にはジムに入会して更なるトレーニングをした。みるみるうちに肉体と心に変化が表れ始めた。自分でもどうすることも出来ないレベルにまで、私の心は登り始めた。まるで、漕ぎだした船が風の力を得て前進するかのように、私はいつの間にか、様々なことを学ぶために進み始めたのである。

自らの欠点を補いたいと、FPの勉強を始めて資格を取得。次なる資格のために今も勉強をしている。学びは本当に楽しい。それまで考えもしなかった自分に出会うことができるからだ。

投資に関しても、成功体験がより私の好奇心を刺激した。一生続けることの一つに投資が加わったことで、社会の見方を一つ手にしたように思った。私は殆どギャンブルというものはやらない。だからこそ、自らが優れていると思ったヒト・モノ・コトに関しては徹底的に調べ、自らの直感を信じる。そして、その成果が結果として結びついた。これほど幸運なことは無いと思うが、コロナ後の上昇相場に乗った体験、そして、大統領選挙、日本の首相の交代など、様々なイベントに立ち会って投資を勉強することができたのは、何ものにも代えがたい最高の経験であると考えている。

毎度、同じことの繰り返しになるかもしれない。それでも、私は何度でも2020年の体験を思い返したい。なぜなら、それほどに私の体験は強烈だったからだ。2020年ほど、多くの人にとって変化の起こった年は無いのではないだろうか。少なくとも、私にとっては今後何十年と生きる人生において、一つの分岐点になったことは間違いない。

30までの間に何ができるか。残り2年となって、ようやく目標が見つかった。

今は、その目標に向かって、ただひたすらに進み続けるのみである。

そして、信じ続ける。自分の可能性を。自分の力を。自分の全てを。

うさぎの声に耳をすませて~2020年3月1日 ナツノカモ低温劇団『月の裏側』~

しめこの兎

動物同士のアテレコをしたことがある。

北海道の旭川動物園に行ったときの話だ。

もちろん僕一人で、それも、ほんの気まぐれで。

まぁ、深くは尋ねないでおくれよ。

ちょうど、クジャク舎の前を通りかかったとき、そこでは美しい二羽のクジャクが互いに見つめ合って止まり木に止まっていた。あまりにも美しかったので写真に収めたのだが、今はどこにあるのか分からないので写真は無い。

思わず見とれてしまうほど、美しいハート型を思わせるような間合いで見つめ合うクジャクに、僕は心の中で言葉を当てていた。

それは、僕の願望であるとか、欲望であるとか、愛とは、愛し合うとは、愛するとは、とか、そういった類のものであったし、およそ僕が異性に対して気軽に語り掛けるような言葉ではなかった。心の奥の奥に秘めた、自分の人生で最後の最後に愛する人に出会ったときだけに言うような、秘めた思いの言葉だった。

僕は陶酔していた。自分の言葉に酔っていた。次第に、二羽のクジャクが官能さを増し、今にも接吻をするのではないかと思えてきた。あの鋭い嘴で、互いに口先を触れ合わせることに、人間の接吻以上の官能があると僕は本気で思った。

翼を広げて、自らの強さを誇示するような力強さも無ければ、官能的な容姿を持っているわけでもない。まして、互いに言葉も無く見つめ合うことなど僕にできるはずもない。だが、目の前で、言葉を交わすことなく見つめ合う二羽のクジャクの間には、確かに愛の言葉があって、それは膜のように薄く放たれていて、互いに気がつかないままに、互いに影響を及ぼすような、そんな言葉なのではないかと思った。

少なくとも、それだけの言葉を僕に想像させるだけの力があったことに間違いはない。クジャク同士の性別が雄雌きちんと分かれていたかということも関係が無い。その間合いと、視線と、目。すべてが僕に言葉を想像させたのだった。

 

そして、舞台はプーク人形劇場へと移る。

 

『月の裏側』と題された、兎達の物語。

僕が全ての公演を見終えて思い出したのは、旭川動物園で見た二羽のクジャクの姿だった。

言葉を持たない動物が、言葉を持って語り始めたときに生まれる、動物たちの言葉の秩序。それは、人間の言語、日本語という基礎に立ちながら、どこか不思議な感覚を聞く者に抱かせる。

初めはナツノカモさんが兎にアテレコしている感じなのかと思っていた。けれど、それは台本までであり、舞台になってからは、ナツノカモさんのアテレコではなくなって、それぞれの兎達が、それぞれに言葉を持って発している。暴走も始めている。

その、手離れした生き物の躍動感と言えばよいのか。ふと、想像をしてみると、

ああ、そっか。

僕がアテレコしていた二羽のクジャクが、

ふいに僕の方を向いて

「「愛し合ってるかい?」」

って言いだす感覚。

僕の想像を超えて、クジャクが喋り出す。そういう不思議な面白さがあった。

あと、もう一個。これはとある方の言葉から、

『クシャクシャになった紙のストローの袋に、水を垂らしたら、ウネウネとイモムシみたいに袋が動く様子を眺めているときに感じる気持ち』

これが近い。どっちも、僕の想像を超えて、想像相手が動き出す感じ。

わかるかな、わからないかな、わからなくてもいいや。とにかく、そういう感じ。

 

[前編]コントをすることになった

二公演前くらいから、その面白さでついに通しで公演されることになった『月の裏側』。詳細は今までのレポに頼るとして、今回も凄まじいほど面白かった。

まぁ、これも、個人的意見なんですが、

開口一番、思わず笑いそうになったことがあった。

声を大にして言いたい。

 

 やすさんの顔!!!!

 やすさんの顔!!!!

 やすさんの顔ぉおおおおお!!!!!

 

最初にうさぎ達が椅子に座っているのだが、今回、初めて最初に座ることになったやすさんの顔が面白すぎた。まだ一言も発していないのに、顔が面白すぎて凝視できなかった。何と言えば良いのか、後々に分かることではあるのだけれど、やすさんの演じるうさの進そのままの表情というか、よく道で宗教系の団体をアピールされている方達がいるのだが、その人達の穏やかな表情そっくりであり、かつ妙に腹立たしいというか、落ち着きっぷりに妙なストレスを感じる面白い表情だった(褒めてます)

そんなライトアップ後の妙に腹立たしくて面白いやすさんの表情がツボに入り、出だしが全然頭に入って来なかった。やすさんの顔を見ちゃいけないという思いで聞いていたのだが、どうしてもやすさんの表情に目が行った途端、「ぷふふっ」と笑いが込み上げてしまい、やすさんの顔が本当に面白くて腹立たしかった。妙に悟ったような表情がストレスの原因だと思う(褒めてます)なんていうか、パグを見てる感覚に近い。ブサイクと可愛いの中間を行くパグの感じがやすさんの顔にあって、言葉にしたいんだけど、これは実際に見てもらうしかないと思う。あの表情は本当に面白かった。

割と序盤でやすさんの表情に心奪われてしまい、他のウサギが何か発言した後、やすさんの表情を逐一確認してしまった。特にしまだだーよさんの圧強めの発言をするときのやすさんの顔が面白くて面白くてたまらなかった。やすさんを見ているだけでも僕は十分に楽しめた。

そして、もう一つ。

これも声を大にして言いたい。

 

 タツオさんが

 可愛すぎる!!!!!!

 

うさの助の謎の発言に対して挙動するうさ太郎。コントかどうか悩むうさ太郎。コントに加われないうさ太郎。うさ吉に思わず言ってしまううさ太郎。全部が可愛い。なんかよくわかんないんだけど、可愛かった。できることなら、もっとうさ太郎が可愛いところを見たい。可愛くキレるところを見てみたい。タツオさん演じるうさ太郎なら、我を忘れて可愛くキレる場面ができるんじゃなかろうかと思った。「ちがう!」だけじゃないキレ方を見たいと思った。

イカれてるけど真面目なうさの助、天然ボケのうさ吉、リーダーっぽくて可愛いうさ太郎、悟りの境地に達したような顔が憎たらしいうさの進、激情型のうさの丈、冷静に見つめるうさ子。一番ニュートラルにいるうさ子も、実はファンシーさがあって、どことなく現実社会の秩序がありそうなんだけど、実は月の裏側に住むうさぎたちだからこその秩序がある感じがあって面白い。

それまでは、『ズレ』であるとか『バグ』であったものが、月の裏側のウサギ達という形をとることで、地球とは別の秩序で動くからこそ生まれる、地球の秩序との差異と、それによって起こる様々な問題、衝突が面白かった。アフタートークでインコさんが言っていたように、「箱庭に住んでいる動物たち」を見ている感覚があった。

割とそれまでの流れを知っている僕としては、「うさ子大人しいな」とか「うさの丈、めっちゃ喋るな」とか、「相変わらずうさ吉は面白いな」と思った。それでも、今回はやっぱりやすさんのうさの進の顔と、タツオさんのうさ太郎の可愛らしさがとても良かった。

後半への流れとして、「なぜコントをやることになったのか」という部分で、急にうさ太郎が泣き出すところも、ちょっと笑った。タツオさんの泣き方が可愛いのである。あの部分はどう捉えたら良いのかわからなかったけれど、タツオさんの可愛い泣き方が面白くて、内容の深刻さとは裏腹にくすっとした。

深刻そうな内容も、その後の面白さで包み隠される。どこまで本気で、どこまで冗談なのかは分からないけれど、それぞれのウサギが、思い思いに様々な方向へと進みながらも、その底には「コントをやる理由」に対する真剣な思いがあって、それがなんだか温かくて面白かった。

一体これからウサギ達がどんな風に「コントをやる理由」について考えていくのか。それが後編では語られていく。

 

[後編]うさ吉の場合 コンビニ

後編最初のコントはおさむさん演じるうさ吉と、しまだだーよさん演じるうさの丈の二人(二匹?)によるコント。

このコントにおけるうさ吉はとにかくカッコイイ。天然ボケかと思いきや、うさの丈の圧強めの反応にも一切怯むことが無い。ピュアな心と真っ直ぐな行動が、おさむさんの不思議な言葉のリズムとともに胸に迫ってきて笑える。

誰よりも真正直に「コントをやる理由」に向き合っているうさ吉。その向き合い方が面白いし、うさの丈に対しても真っ直ぐで、ぶっきらぼうなうさの丈が子供に思えてしまうくらいに、うさ吉の大人なカッコ良さが静かに光っていた。

特別笑いを欲しがっているわけでもないのに、行動が面白さに繋がって行くのは、一つ一つの行動に対するうさの丈のツッコミも勿論のこと、ブレない信念をうさ吉が感じさせるからであろう。台本を読んでも、うさ吉の発言は「言わなくていいことまで、正直に話す」感じがって、その誠実さが面白いのだ。言ってしまえば、うさ吉らしいということであり、それはそのままおさむさんらしい雰囲気と言える。

おさむさん自身が持っている真正直さ、ピュアさが見事にうさ吉という存在に魅力を持たせている。いつになくおさむさんが大人しいなぁと思っていたけれど、改めて台本を読み返すと、おさむさんの魅力が遺憾なく発揮される台詞であるように思う。他の人でうさ吉の台詞を言っても、おさむさんほどのピュアさを込めて言うことは難しいだろうと思うし、面白さに繋げるのは難しいだろうと思う。しまだだーよさんの得体の知れない圧強めの、シャイニングのジャック・ニコルソンばりの狂気に目が行きがちだが、僕はおさむさんだからこそできる素晴らしいうさ吉に、このコントの面白さがあるように思った。カッコイイぜ、おさむさん。

 

うさの進の場合 信心

このコントも最高だった。今回、僕の中ではやすさんのうさの進がMVPなほどの活躍。良いキャラしてるわ~と思いながらコントを見た。

うさの進は信心深いキャラなのだが、やすさんが醸し出す憎たらしい感じが絶妙に面白いのである。そこにきて、真面目なのだけど完全にイカれた常識で動くこば小林さんのうさの助が組み合わさるのが面白かった。

言葉で上手く説明することは出来ないのだが、喩えるならば、漫画『愛しのアニマリア』に登場する主人公で、オランウータンの女の子、オラミの雰囲気がうさの進にはある。語弊があると申し訳ないのだが、物凄くピュアな気持ちを持っているんだけど、それが絶妙にしっくりいかない感じと言えば良いのか。これはちょっと言葉に困る。

なんというか、ソフトな野性爆弾のコント感がある。ロッシーという天然ボケだけど物凄いピュアな存在に対して、くっきーという異次元の狂気が混ざり合う感じに似ている感じがした。うさの進のピュアなんだけど憎たらしい感じと、うさの助の真面目なんだけど他人への接し方が狂ってる二人の感じがたまらなく好きである。

特に最後の、うさの助が持ってくるもの。あれはめちゃくちゃ面白かった。野性爆弾のくっきーさんが、フリスクを食べているときに、後輩から「くっきーさん、何食べてるんですか?」と尋ねられて、「ああ、これな、母の遺骨。母の遺骨食ってんねん」と言うくらいの、突拍子も無い飛躍と同じようなものを感じて、それがとてつもなく面白かった。あの面白さって、本当、自分でもよくわからないけど笑ってしまう。

 

うさの助の場合 遊戯

三つ目のコントは、妄想少女(?)うさ子と、狂った常識を持つうさの助によるコント。ファンシー炸裂なうさ子の、「例の件予想」からの、うさの助による「狂った一人遊びシリーズ」の披露。

この二人の組み合わせが、一番低温感がある。というのも、このコントには演出的な派手さは無い。あくまでも言葉の面白さ、想像の面白さがあって、一番落語的だと思った。次へと繋がるコントのためか、オチは無いのだが、随所にナツノカモさんのセンスが光るワードが幾つもあって、これは台本を読んだ人だけのお楽しみとしておこう。

割とこば小林さんとナツノカモさんのコンビは、これまでの公演を通して見た感じでは、温度が近い感じがした。似ている部分もあるというか、なんというか、しまだだーよさんとこば小林さんを足して二で割ったのがナツノカモさんという印象である。合ってる合ってないという話ではなく、僕の感覚ではそんな感じがしている。

そして、ここから『うさの丈の恋』までは繋がりを感じさせるコントだった。

 

 外科医 うさ・J

続いて登場したのは、インコさん演じる外科医うさ・J。そしてうさ子とうさの助が登場し、三人の会話が始まる。

うさ・Jのカリスマ感と、妙な説得力。そして「第一スピアー」という謎の専門用語。どこかで聞いたことがあるような気がしないでもないワードに籠る妙なリアリティ。『セピア』と『第三セクター』なら聞いたことがあるが、『スピアー』はポケモンの名前でしか聞いたことがない。それなのに、病気の進行度合いを現わす言葉として『第四スピアー』とまで言われてしまうと、よほど深刻な病気であろうと想像してしまうから不思議である。

コントに限らず演劇を鑑賞するうえで、「すぐに検索できない」状態はとても良いと思う。「え、なんだよスピアーって、そんなの聞いたことないぞ」と思って、すぐに検索してしまうと、「あ、うそかー」となって、コントそのものが楽しめない。落語だって「ちはやふる」を聞いている最中に「ちはやふる」を検索してしまっては、何も面白くない。と、余計なことを書いておく。

第一スピアーから第四スピアーまでの過程が、徐々にエスカレートしていく様子と相まってとても面白い。インコさんの言葉のインパクトもさることながら、訳の分からないワードと訳のわからない症状があって、その訳の分からなさが面白いのである。どんなに調べても、この分からなさを分かることはできない。わからないことを、わからないまま受け入れることの面白さ。これもまだ上手く説明できないのだけど、わからないんだけど、微妙に分かりかける感じがあって、N極とN極の磁石がくっつかないことは分かるんだけど、くっつけようとして、くいっと曲がっちゃう面白さと言えばいいんだろうか(これも分かってもらえるかはわからない)

とにかく面白さが発散していくコントだった。

 

うさの丈の恋

今回の公演の中で、このコントが一番面白かった。特にしまだだーよさん演じるうさの丈。こいつがもう、面白くて面白くて、

ここも声を大にして言いたい。

 

うさの丈!!!!!

 最高!!!!!

 

もうね、なんていうかさ。分かるのよ。凄く。凄い純粋な気持ちがこのコントにはある。それってもう、「好き」って気持ちなんですわ(急に文体が変わる)

「好き」って気持ちが引き起こす、ありえないほどの感情の爆発。そして自分でも制御しきれない謎の行動。うさの丈が「好き」という気持ちに染めつくされたときの、爆発的な面白さ。僕の体感では、会場の笑いが最高点に達したのはこのコントだったように思う。

うさの丈の抑えきれない「好き」という気持ちに翻弄されるうさの進とうさ吉。もはや「好き」という気持ちに支配されたうさの丈は誰にも止められない。

台本も面白いのだが、しまだだーよさん演じるうさの丈の激情型の性格が熱くて、振り切れていて、まるで初めて恋に目覚めた男子のような危うさと情熱があって、それがたまらなく面白かった。

そして、最後の最後で、うさの進の手刀からのオチまで、怒涛の勢いで面白い。上手く説明することはできないのだが、とにかく面白い。台本もそうだが、今一度、コントを見て、その面白さを体感してほしい面白さである。

後編のラストを飾るにふさわしい、最高に面白いコントだった。

 

エピローグ みんなで考えたい

うさぎたちがそれぞれに考えて、再び元の位置に戻ってきたとき、最初の風景から何一つ変わっていない(うさ・Jさんが増えたくらい)のだが、確実に物事が前に進んでいて、それでも相変わらずうさぎたちはうさぎたちで、それぞれ思い思いに意見を出し合っている感じがあって面白かった。この公演の前日に文菊師匠の『長屋の花見』を見ていたせいもあってか、どことなく『長屋の花見』感があって、『月の裏側』では、正にうさぎたちがワイワイと、何かを考えながら生活しているように思えた。

地球の生活とは違うのだけれど、月の裏側にはうさぎ達の生活があって、時間が流れている。それはひょっとすると、江戸時代の人達の生活に現代に生きる人が憧れる気持ちと似ているのだろうか。少なくとも、私は江戸時代の人達の生活に憧れているのだが。

色んな生活の悩みであったりとか、諸所の問題を、昔はインターネットが無いから、近所の人達と意見を出し合って解決しあったのだろうと思う。いまや、インターネットがあるから、近所の人と会話をしなくても、ネットに大体の問題の答えは記されている。と、書いてしまうのは早計で、実は世の中にはまだまだ、ネットには載っていない、様々な問題があって、答えの出ないものがたくさんある。

ググれば一発解決。そんな時代が目の前にあるようで、実は目の前には無い。あるような気になっているだけで、ひょっとすると何も無いのかもしれない。と、なぜか書いておきたくなったので書いた。

今回の公演も『月の裏側』と題して、一応「コントをする理由」は明確にされ、コントをしたらどうなったか、ということも明示された。でも、まだまだ解決しないことばかり。一生かかっても解決しない問題に向き合って、物語はフェードアウトしていく。なんだか、最後に照明が消えていくとき、ゆっくりと月が回転していくような風景が浮かんだ。またいつか、月の裏側を見ることができる日が楽しみである。

改めて、今回、ウサギ達の物語に絞ってコントを作られたナツノカモさんの決断は素晴らしいと思った。一つの物語の奥行きが拡がっていくとともに、またさらに様々なことを考えるきっかけになって、コントの奥深さと、これほどまでに色んな可能性に溢れているのかと驚いた。コントって、本当に凄い。

あとがきを読んで、僕は芸人ということには意識が及ばなかった。それよりも、演者それぞれの人間としての魅力。どうしても滲み出てきてしまう人間性が面白くて、それはきっと理屈では説明できない部分であり、かつ答えもなくて、聞き手がそれぞれに感じる印象みたいなものだと思うから、何とも言えないのだけれど、少なくとも、僕は演者とウサギのマッチ感が凄く良かった。

今後、うさ子を含め、うさ太郎やうさ吉、僕の中では大活躍のうさの進、そして後編のトリで圧巻の突き抜けを見せたうさの丈。誰もが魅力に溢れていて、凄まじかった。ずっとゲラゲラ笑っているというわけではないのだけれど、確実に貫いてくるような面白さがあって、それがとても心地よかった。

さてさて、長々と書いてしまったが、一言で言えば「面白い」という言葉に尽きる。だが、そんな一言で僕は語りを終えることはできなかった。奇しくも、旭川動物園での一人アテレコを思い出すくらいに、素晴らしい公演だったのである(その思い出を思い出すことが、どれだけ重要なのかは知らないが)

それでは、またどこかでお会いしましょう。(この文章面白いな~、と書くのは、『一人ブログ』であろうか)

夢の国でゆらゆらと~2020年1月13日 シブラクレビュー あとがき~

経緯

今回のシブラクレビューがこちら

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20200113-1/

 

ご承知の通り、全編にわたってディズニーランドのアトラクションで喩えたレビューになっております。

きっかけは、春蝶師匠の『死神』を見た時でした。「え、なにこれ、やばくない!?」というゾクゾクするような興奮が沸き起こったのです。というのも、前半二人、緑太さんと扇里師匠はガッツリ朴訥した染み渡るような古典だっただけに、春蝶師匠の狂気に満ちた死神を見て度肝を抜かれてしまったのです。

その瞬間に、今までは畳敷きの和室にいたのに、急にゴスロリチックと言いますか、宝塚に来たと言いますか、ディズニーで言えば『ホーンテッドマンション』に来た感覚に近いものを感じまして、その後の百栄師匠を見た時に、「こりゃ、ホーンテッドマンションの後にプーさんのハニーハントに来たようなもんだな」と思って、その考えに沿って、レビューを書きました。

とにかく、春蝶師匠が凄まじかった。お弟子の紋四郎さんは良く見ていますし、春蝶師匠の高座は何度か拝見しているのですが、あんなに恐怖と狂気に満ちたゾクゾクするような死神は見た事がありませんでした。このまま行くと年間ベストになるかも知れません。

それほどの衝撃を受けて、殆ど春蝶師匠を軸に足していった感じでした。春蝶師匠と百栄師匠のアトラクションはすぐに決まったのですが、悩んだのは緑太さんと扇里師匠のアトラクションでした。

 

タイトルもろもろ

冒頭の書き出しは子年ということで、ちょっとおふざけを入れつつ書いてます。そうそう、今回のタイトルは『ウチらランドで永遠のラフウェイ』となっておりまして、これはkemioさんの著書『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』をオマージュさせて頂きました。最初は『家の中で迷子』とか『寄席の中で迷子』で行こうかなと思ったのですが、ディズニーでの自分の迷子体験が想像以上に長くなったので割愛しました。

丁度、成人式だったので、十代~二十代が行く場所と言えば『ディズニーランド』だろうと思いましたし、今年は子年だと思いましたし、「ウチら」っていう自分たちを指す言葉とかも、まぁ、なんとなく、当てはまるだろうと思って書き始めました。

よくある年頭挨拶に関しては不要だなと思ったので書かず、ざっくり昔の思い出を思い返しながら書いていたのです。

 

 高校時代の最後に

確か高校生の終わりだったと思うのですが、野郎どもでディズニーランドに行く機会がありました。「ネズミ野郎の根城をぶっ壊す」とか思っていた気がします。正直、男同士で行くディズニーランドは1mmも面白くない。夢の国で夢が見れない。トキメキも無ければ、ラブロマンスも無い。或るのは男にまみれた汗臭さだけでした。

時折、別の学科の女子生徒の集団を見つけても、心が湧きたつということもありませんでした。当時は私もすれっからしでしたから、自分の中に確かな美人基準を設け、その基準に当てはまらない存在を認めないという考えを持っていました。だから、顔にニキビを蓄え、ヤニで黄ばんだ歯と、妙にソワソワした態度でディズニーショップへと入っていく友人達とディズニーランドを巡らなければなりませんでした。

そのようなこともあって、私はあまり鼠が好きでは無いし、ディズニーランドが好きではありません。子供の頃は殆ど迷子になるためにディズニーランドに行っているようなものでしたし、悪党連中に紛れて嫌々回ったディズニーがどうしても好きになれないのです。

ですが、春蝶師匠を見て『ホーンテッドマンション』を想像してしまったからには、この路線で書くしかあるまいと思ったのです。

結果的に、ディズニーのアトラクションで喩えるまでは良かったかも知れませんが、ディズニーへの思い入れの無さゆえに、薄い記事になってしまったかな、と思うのです。

特に緑太さんの部分は、もう少し何か良い表現があったかも知れないと思いました。後にアドヴァイスを頂いて、「落語もディズニーも、キャストと観客が楽しもうという心構えがある」という言葉を受けて、自分の浅さを認識しました。

そこだった、と思ったのです。私はカバや謎の民族を『作り物』だと認識していました。それは、『楽しもうという心構え』が出来ていなかったのだと気づかされたのです。

考えてみれば、ディズニーランドに行きたくて行きたくて、毎日眠れずにワクワクする子供たち、大人たちがいるのです。そこに、私は気が付かなかった。というよりも、用いた比喩であるディズニーランドに、私自身が何の思い入れも無いことが良くなかった。

反省ばかりの記事になってしまうのですが、ディズニーランドは高校生活の最後に行ったきり、一度も行っておりません。その時までの記憶を頼りに、『ジャングルクルーズ』であったり、『モンスターズ・インク』であったり、『ホーンテッドマンション』、『プーさんのハニーハント』を書きました。つまりは、私の記憶はそこで止まっており、かつ、その記憶は決して良いものでは無かったのです。

両親に連れられて行っても、すぐに迷子になり、一人ぼっちで永遠とも思える時間を過ごしたり、食べたかったアイスクリームを零してしまったり、弟と喧嘩して乗りたかったアトラクションに乗れなかったり、高校生になって、むさくるしい男達とアトラクションに乗ったり、ショップに行っても欲しいものも無ければ、金も無かったり、別れた彼女と来たかったなと感傷に浸ったり、すれ違うイケイケの男女を恨めしく思ったり、ジャージ姿でディズニーに行ったら友人からからかわれたり。

思い出すだけで溢れるほど嫌な思い出しか無い。

 

 それでも

そういう嫌な思い出を消して、当時の私が感じていたことに喜びを見出そうと思いました。特に扇里師匠の『提灯屋』が物凄く哀しいのに笑えてしまって、それがマイク・ワゾウスキと重なりました。本来望んだ結果を得られずとも、別の道で成功したマイクのように、提灯屋が進んでくれないかな、という思いがありました。

扇里師匠のマクラは、じんわりと伝わってきたのです。演目の最中は笑っていたのですが、後になって段々と哀しくなってくる。あれ、あれれと思っているうちに、なんだか心がモヤモヤっとしたのです。その時に初めて、扇里師匠の素晴らしさであるとか、その奥にある扇橋師匠の『落語って悲しいね』という言葉に通じてくるものを感じたのです。でも、そのまま書くのはディズニーランドの比喩から外れると思って抜きました。

結局、喜びが見いだせたかは分からないのです。確実に、マイク・ワゾウスキの表現が正しかったかもわからない。でも、モンスターであり、人を驚かせることを生業としており、その世界でトップに立とうと思ったマイクが、全く才能が無くて、むしろ「人を笑わせること」に才能があったという運命が、悲しくもあり、逞しくもあって、そういう上手く言えないことを、扇里師匠の『提灯屋』は表現していたような気がするのです。

春蝶師匠の死神は、それまでの春蝶師匠に対するイメージをがらりと覆すものでしたし、その後で出てきた百栄師匠の『ゆるキャラ感』がまさしくプーさんで、演目について詳しく語ることを避け、プーさん一本で書いて行きました。

やはり、全体を通して、自分の思い入れの無さが目立つ文章になってしまった気がします。前回の『檸檬と炎』の時は、もっと心底驚きがありましたし、シンプルだったなと思うのですが、今回は、ちょっとあれこれ書き過ぎてしまったかな、と思います。

それでも、反省はしますが後悔はしません。書いて出した以上は責任を持っております。むしろ、今回の記事でより一層、比喩を用いる時の心得を認識しました。安易に比喩を用いてはならず、むしろその奥にあるものにもっと目を向けなければならない、と感じました。

今度、もしも夢の国に行く機会があったら、その時は全力で『楽しもう』という気持ちで行きたいと思います。『落語』を聞きに行くときだって、『楽しもう』という気持ちは大切ですから。

それでは、シブラクレビューの雑感を終わりたいと思います。

あとがき~渋谷らくごレビュー 2019年12月15日~

レモンエロウ

今回のシブラクレビューはこちら

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20191215-2/

6時間ほどの効果しか無い薬を飲み、ダルい体を押して臨んだ渋谷らくご。正直、気持ち的には「やべーな」くらいでした。

見ている時はそれほど苦痛でも無いし、四人の演者さんも凄い面白くて、こりゃ良い会に参加出来たなぁと思っていたのです。

で、玉川太福さんを見終え、インターバル中、物凄いぼんやりが襲ってきまして、薬の効果はまだ切れるには早かったんですが、物凄いぼんやりしちゃいまして。

そのぼんやりの中で、ぽーんっと、「浪曲って二人で一つだよなぁ」なんて考えがやってきまして、「なんか二つで一つのものって、あったっけ?」と思いながら、『イヤホン』とか『孫悟天とトランクス』とか『夫婦』とか『夫婦茶碗』とか、色々考えたんですけど「なんか違うな」と思っていたら、目の前で蝋燭がぽっと灯って、その灯の上に紙がスッと入って、上から檸檬が絞られる映像を見て、「ああ、これか・・・」と思い、今回の記事に採用されました。

こういう発想って、自分でもどこからやってくるのか分からないんですが、考えていると出てくる。というか、考えないと出て来ない。もっと言えば、『考えた人間にしか与えられない』ものだと思っております。だから考えるのは楽しい。自分でも考えもしなかったところにいけるから。

これなら小学生でも落語を見る気になるかも知れない。そう思って、四人の演者に照らし合わせたら、見事に四人とも檸檬の絞り方が違っていて面白かった。

他の噺家さんでも、いっぱい考えられるんですね、檸檬の絞り方。あくまでも私の想像ですが、たとえば、柳家小三治師匠の場合は、じっと檸檬を眺めながら語りつつ、檸檬から汁が出たら、それを掬いとって紙に書いて、あぶりだす感じ。林家彦いち師匠の場合は、檸檬を正拳突きして紙に押し潰し、そこから自分で火を噴いてあぶりだす感じ。古今亭志ん生師匠の場合は、檸檬を齧ってペッと吐き出した部分にマッチ当ててあぶりだす感じ。と、まぁ、こんな感じで。

病み上がりだったので、特に入れ事を入れられなかった。ワン・アイディアの一本勝負。何せ頭痛が酷くて、16日は全く書けなかった。頭の中で組み立てた文章を書くだけだったんだけど、身体的に苦しくて17日まで全く書けず、「しまったな・・・」という思いを抱きながら、なんとか書きました。

あくまでも自分のレビューに対してなんですけど、これまで書いてきた方針がさらに強化された感はありまして、何度も書いているかも知れないけど、一つ目の『落語の加減乗除』はかなりアカデミックで、固い。大学生くらいなら読んで楽しめるかなくらいの記事。二つ目の『辛抱する木に花が咲く』は、短歌スタイルで文字を削ぎ落したおかげか、読みやすさは増して、入れた比喩も重たくて50代が喜びそうな記事。三つ目の『流されることなく流れをつくる』は、扇辰師匠の圧巻の『二番煎じ』を起点に、永井先生ボブ・ディランという謎の融合で書いて、同世代或いは40代~60代くらいまでには接近できた感じ。そこに来て、四つ目の『檸檬と炎』で、小学生から比喩好きな人々まで、届くかな、とは思いました。

正直、この『あぶりだし絵』の比喩。思いついた時は、自分では物凄い腑に落ちて理解できたんですが、他人に伝えるとなると「伝わるのか?」という怖さがありました。比喩を用いるときって、ある程度、読者がどこまで理解できるのかっていう問いがあるわけです。多分、私のブログを見てくれている人なら「絶対に分かってもらえるな」という思いはあったんですが、『あぶりだし絵』の比喩が分からないと、「は?こいつ何言ってんの。落語は落語じゃん」っていうスカンを食らいかねない。

でも、結局、頭も痛かったし、最悪、自分で納得してればいいか。わかんない人はわかんないでいいや。っていう気持ちがありました。で、書いたら、予想外に『あぶりだし絵』の比喩が伝わったみたいで、望外の喜び。こういう比喩が分かってくれる人と、私はお話ししたいんだなぁ。と思った次第。

さて、次は一体何が飛び出すやら、自分でも楽しみ。

ではでは、またどこかでお会いしましょう。アドゥー。

森野照葉 自己紹介

出会いは億千万の

 2017年4月某日。私は疲れ果てていた。急な辞令、急な転勤、急な引っ越し、急な職場。何もかもが急すぎて窮していた。

 窮地の窮ちゃんだった。

 アツアツのご飯に乗るどころか、アツアツの鉄板に乗せられて土下座する利根川幸雄だった。利根の川風が袂に入らず、全身を凍えさせ、そのまま利根川に流されてドザエモンになるかと思った。結局流されたのはプライドくらいのものだったが、とにかく私は疲れ果てていた。

 そんな私がこの後、自分の人生を変える場所に辿り着くのだが、しばし待たれよ。

 疲れ果てていて、転居先を見ずに決めてしまった。ノールックだった。ノールック投法で転居先に体がストライク、心はボールだった。暴投も良いところだった。住まいから敬遠されたのだ。松井秀喜を越える歴史的敬遠だった。

 転居先にルック・ルックこんにちわを決めた。愕然とした。狭いし、煩いし、寒いし、狭い。とにかく狭かった。猫の額ほども無かった。蚤の心臓ほどのスペースしか無かった。ま、蚤の心臓を持つ私には丁度良かったのかも知れないが。

 「こんなことで、おれはやっていけるんだべか」

 反対から読むと罰が当たりそうな県を飛び出し、魔都・東京にやってきた一人の田舎者は、さっそく都会の洗礼を浴びた。

 当時、私には着る服がジャージしか無かった。それも全部アディダス。しかもセットアップではなく、スポーツショップで安く売られた上下の組み合わせを考えていないやつ。朝はパンツ一丁、昼は着慣れないスーツ、夜はジャージ。一日で自衛隊と会社員と中学生になっていた。

 都会をジャージで歩くと、周囲の目が物凄く刺さってきた。黒ひげ危機一髪の黒ひげ状態で、ジャージという樽に入った黒ひげの私は、周囲の奇異の目というナイフに刺され、いつ飛び出すとも分からないまま数か月を過ごした。

 さすがにヤバイと気づき始めた。心のサイレンが壊れるほど鳴っていた。服を買うためにユニクロに行こうと思い立ち、御徒町のデカイユニクロに行った。

 御徒町の観光ついでに、上野の美術館にでも行こうと思った矢先、とある看板を見つけた。

 そこには、こう書かれてあった。

 『鈴本演芸場

 「あ、落語だ・・・」

 思えば、東京には寄席がある。365日、毎日落語をやっている場所、それが寄席だった。今でも覚えている。2017年4月。上席は昼の部で柳家喬太郎師匠がトリを取られていた。

 そして、このとき、私は夜の部の主任を見ていなかった。柳家喬太郎師匠の名前だけは知っていたから、思わず知らず寄席に入っていた。

 後に、私が出会うことになる名人の名が、その時、鈴本演芸場の表に、幟となってはためいていた。夜の部の主任を務めた噺家、それは

 『古今亭文菊

 この時、私はまだ自分の運命がどうなっていくのか。知る由も無かった。

 ジャージから、ユニクロ・ブランドに身を包んだ私は、それから貪るように寄席に通った。毎週土日は寄席、寄席、寄席。朝から晩まで落語を堪能した。

 いつの間にか、一週間の疲れが癒されていることに気づいた。ぽっとでの田舎者は、どんどんと都会の魅力にハマっていた。

 「東京ってすげぇ!」

 今でも、この感動に突き動かされている。見るもの全てが新しく、光り輝いているのだった。

 やがて、浅草演芸ホールで、私は運命の噺家と出会う。それが先に挙げた古今亭文菊師匠だった。確か5月だったと思うのだが、文菊師匠が高座でやった『長短』が今でも忘れられない。あの『長短』に痺れて以来、私は文菊師匠のファンになった。

 後、深夜寄席で桂伸べえさんを知る。天才だと思った。まごうことなきフラの天才がそこにいたのだった。

 そして、2018年の5月。私はついに演芸ブログを書こうと決意した。というのも、2017年から丸一年、寄席に通い続けていく中で、知らない落語家さんにたくさん触れることが多かった。そんな時に、ネットで落語家さんの名前を検索し、どんな評判なのかと調べる機会が多々あった。

 これは非常に残念なことだが、素人のブログに書かれている記事は、その殆どが批判的だった。好意的なものは見当たらず、プロの方々だけが的を射た、的確な好評文を書かれていた。様々にブログを読んだが「どの目線で言ってるんだろう・・・」と疑問に思ってしまうほど、的を射た文章が一つも無かった。

 自分の大好きな噺家に酷く手厳しく書かれた文章を読んだ時など、酷くがっかりとした。まるでチクりであったり、さも録音行為をしているかのような文章に辟易した。こんな文章が世に出て良いのか?と疑問に思った。

 ならば、自分で書けば良い。そう思った。

 答えは単純だった。ネットに溢れる『悪口雑言』に埋め尽くされた演芸評論とは真逆の、『賞賛』一点絞りの記事を書くこと。そこを自分が担おうと思った。

 当時も今も、『賞賛』だけに絞って書いている人は少ない。まして、『ブログ』には良い印象を持っていない方が多い。やたらと『批判』などがネットに溢れているため、無理も無いだろう。

 地方に住み、なかなか芸に触れることのできない人々が、噺家が会で何を言ったかが分かるという利点がある一方で、その言葉に対する書き手の批判的文章が生み出した功罪は大きい。

 当ブログは、そんな『演芸ブログ』に世間が抱くイメージを刷新する。

  幾つか、このブログ特有のルールがあるので列記しよう。

 ・批判・罵詈雑言・否定・悪い点など、芸人批判の文章は一切書かない。

 ・噺家の喋った内容(マクラ)については、匂わせるだけに留め、詳細に書かない。

 ・良い点・優れた点を記載する。

 ・私の感動した部分を書く。

 ・色んなものに喩える。

 おおよそ、上記五点。私が記事を書く上で守っていることである。

 もしも、これから演芸の記事を書きたいという方は、一つの参考にしてほしいと思う。

 私は記者ではない。何か事件があって、それを発表するスポークスマンではない。だから、あくまでも個人的な話の詳細には触れることはない。

 そして、このブログの明確な行動指針というか、原点を記載しよう。

 ・世に溢れた『芸人批判的な記事』の真逆を行く、『賞賛のみのブログ』であること。

 ・このブログを読んだ人が、明日の朝には数千円を握りしめて寄席に行くようになっていること。

 ・少しでも演芸に興味を持ち、寄席に足を運び、お気に入りの芸人を見つけ、日本の演芸に狂ってもらう読者を作ること。

 以上、三点を私のブログの原点の言葉とする。

 それでは、長々と書くのは止して、この辺りで自己紹介を終わりたいと思う。

 あなたが明日、素敵な演芸に出会えることを祈って、

 装い新たに、このブログを始めたいと思う。

 どうか御贔屓に。

 それではまた、どこかでお会いしましょう。

WLUCK LIVE Vol.2 感想

そういう目で見よう

 

 髪切りたくて

 

2000円

 

みんなが思う

 

タイミング

 

いーやっ!

 

好感が持てる

 

だめだ

 

トマト

 

ビーフ

  

 銀兵衛『検索履歴』

 一聴しただけでは意味が良くわからない理論を、高らかに、大真面目に、訴えるように叫ぶことによって、圧倒的な説得力を持って観客を笑わせにかかる二人組、銀兵衛。グレイモヤで、衝撃の『イチゴのショートケーキ』で会場を揺らすほどの爆笑を起こした若手漫才コンビだ。漫才の形式として、他に見たことのない革新的なスタイル。

 それが今の銀兵衛の持ち味だと私は考えている。

 誰もが真似をしたくなるような、小松さんの熱弁と、恐らくは観客と同じように傍観しながら聞いているあゆむさんの姿は、銀兵衛というコンビの一つの特徴である。

 小松さんの熱弁が巻き起こす理論が面白い。言われてみれば、何となくそうだと思えるような事柄を、絶妙な理論で繋ぎ合わせる。その細くとも強靭な理論に一度心を捉われてしまったら、後はもう銀兵衛の手の中で踊らされるだけである。最初に放たれる『そういう目で見よう』という言葉から全ては始まっている。

 どんなにめちゃくちゃな理論であっても、『そういう目で見る』というマインドセットが出来上がってしまうと、どんなことでも脳が勝手に理論の欠落部分を補ってしまう。たとえ、探偵のバイトをしたいと思ったことがなくても、「ああ、そうか。なんとなく、探偵のバイトをやろうとしてたかも」と、ネタに自分を合わせにいく。すると、火の付いた木をさらに燃やそうと、小松さんは捲し立てる。状況を熱く語りながらも、決して破綻することのない、力強くも整然とした理論に打ちのめされて、見る者はただただ笑うしかない。

 この魅力は銀兵衛だけが持っている。最強の漫才スタイルを持っている。それだけで、銀兵衛の未来は明るい。

 

 元祖いちごちゃん『鹿せんべい

 鹿の生まれ変わりかと思うような男が鹿に与えるせんべいを食べようとする。ただそれだけのコントなのに、とてつもなく面白い。それは、鹿の生まれ変わりかと思うような男の風貌が持つ説得力にあるように思う。何かしら不幸な状況に追いやられ、鹿のせんべいを食べるしかなくなった男。鹿せんべいを食べた瞬間、絶妙なタイミングで流れるサンサーラ。思い当たる節があるとすれば、バンビーノのネタ形式であるが、元祖いちごちゃんの場合は、悲壮感が漂う。むしゃむしゃと鹿せんべいを食べる男の、言いようのない奇妙さが面白い。なぜ鹿せんべいなのか。そして、なぜ鹿せんべいを食べなければならないのか。何一つ説明されないがゆえに面白さがある。

 

 ブリキカラス『美容院』

 坊主と髪の長い男のコンビ。美容院に行きたいという他愛もない話から繰り広げられる不可思議な話。なぜ、そこまで髪を伸ばしていたのか。髪を切ることに抵抗は無いのか。様々な疑問は残るのだが、髪を切りたいという男の奇妙さが、ソフトに見る者の心をくすぐる。私だったら、あそこまで髪が伸びる前に切る。

 

 サスペンダーズ『ペイチャンネル

 もはや無敵のサスペンダーズ。グレイモヤでも見せた、私的に最強のネタだと思っている『ペイチャンネル』。古川さんの登場からして面白い。ペイチャンネルでカードを買う者の心理を見事に切り取った場面から、まさかのハプニングが巻き起こる。そこからは、まるでカイジの『沼』を見ているかのような、ペイチャンネルとの攻防が繰り広げられる。物凄く面白いネタなので詳細は避けるのだが、古川さんの個性が爆発している。

 せっかく、ペイチャンネルを楽しむ環境に置かれたにも関わらず、その幸運を謳歌する過程で起こる災難。ペイチャンネルが見たいという欲望に駆られて、よくわからない理論をぶちあげて、一世一代の大勝負に出る場面は、得体の知れないカイジ感があって、何か良く分からない解放感がある。言葉では説明できない面白さ。もっと長尺で見たいと思った。出来る限り、サスペンダーズが作り上げるコントの世界に浸っていたい。早く、サスペンダーズの単独ライブが開かれないものか。

 

 キュウ『好きな色』

 違いを認め合い、その違いを指摘して起こる奇妙さが面白いネタだった。淡々とした語りの中に、見事にズレがあって、そのズレが面白い。

 

 5GAP『バッティングセンター』

 古き良き伝統の時代を感じさせる面白さだった。一周回って面白いというのか、やっぱりみんな、こういうコントも好きだよね、というような、ベタなクスグリが多いコントで、それはそれで面白くて好きだ。何も考えずに身を任せて笑える。

 

 東京ホテイソン『謎かけ』

 テレビで見たネタは『回文』だった。最初に作り上げたルールから見事に脱線していく男の発言を、寸分の狂いもなく指摘することによって、面白さと凄さが同時に押し寄せる不思議な漫才である。一度癖になってしまうと、次はどんな感じなのだろう?とワクワクする。どことなく歌舞伎役者のような言い回しをする男の姿が面白い。アンミカの知名度が気になるネタだった。

 

 ファイヤーサンダー『占い』

 優しいコントだ、と思った。ことごとく、最初の予測と離れた占い師の姿に、徐々に占われる方が心動かされていく過程が面白い。占い師の自信満々な様子が、後半に行くにつれて形を変えて行く。真っすぐな占い師と、真っすぐさを評価する占われる男。優しさに満ち溢れた、誰も傷つかないコントが素敵だ。

 

 蛙亭『ソフレ』

 テレビで見たネタは『教室で爆弾を出す』というようなコントだった。WLUCKでは漫才形式で、なぜか男の方が女役をやり、女の方が男役をやる。女の方がやる男が見事なチャラ男っぷりで、こんな人が本当にいるのか!?と疑ってしまうのだが、会場の笑いを聞くと、意外とあるあるなのかも知れない。

 

 オズワルド『イライラした話』

 グレイモヤで見たとき以来のオズワルド。普通の話題かと思いきや、冒頭から色々と脱線し、後半に行くにしたがって絶妙のスピード感で訳が分からなくなっていく面白さが気持ちいい。メガネをかけた男性の強烈なツッコミに対して、気にする素振りもなくムチャクチャな言葉を放つ背の高い男性の姿が面白かった。

 

 ななまがり『わさビーフ

 ラストはMCを務めたななまがり。水曜日のダウンタウンで令和を当てたコンビという認識だった。コントは、まさにわさビーフに絡むネタ。繰り返される『わさビーフ』という言葉だけでも面白いのだが、『わさビーフ』に纏わる人間模様を詳細に描き出す面白さは、まるで半沢直樹を見ているかのよう。

 時事に絡めた話もあって、勢いと合わさってとても面白かった。そういえば、わさビーフ全然食べてないなぁ。と思いながら聞いた。