落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

The Boy with the thorn in his side

  Left and Right

右を見ても左を見ても、燃えてばかりで収拾がつかない。仕方がないので真ん中を歩いてみるのだが、右と左の熱さにうなされて、とても歩ける状況ではない。いっそ、心頭滅却すべしと心に決めて、潔く歩いてみようかと思うのだが、素足ではどうにも上手く前に進めず、「あちち」と言いながら、転がるように前に進むのが常である。

転がる石には苔が生えぬという。怖がる意志には虚仮が必要だろうか。とんと分からぬご時世の中を泳ぐにあたって、頼るべき藁はいずこにあるというのか。考えれば考えるほど八方ふさがりになるのだが、考えなければ、ふさがって行く思考の圧力に耐える力も衰えるであろうから、結局考えて行き詰まる。そしてまた、力を蓄えて思考を押し戻し、拡張していくときに、僅かに伸びた思考の幅を、人は成長と呼ぶのかも知れない。

かくも儚き世を憂うよりも、勇ましき夢に情熱を燃やす方が、生き方としては些か逞しい。山を転げ落ちるよりも、今は山を登るべき時であろう。それがどんなに苦しく、耐え難く、逃げてしまいたいと思われるようなものであっても、今は、とかく今は、耐えて辛抱しなければならない時期である。石の上にも三年である。と言っても、三年も石の上に座していたら、苔も生えるであろう。むしろ、その苔を食して栄養に変えてしまうくらいの図々しさを持つべきであろう。

相変わらず世の中は窮屈で、いつ誰にどんな方法で後ろ指を指されるか分かったものではない。大抵の人というのは、陰湿で常に誰かを傷つけたいという欲求を持っている。それは人間として仕方の無い性質であって、性悪説とやらを支持するのだとすれば、生まれながらに人は、自分以外の存在の価値を貶めることによって、自らの価値を高めたいと望む生き物かも知れない。私は、それは殆ど愚かな行為であるとは思うのだが、生来、私は何かを否定することを嫌うので、安易に性悪な人々を嫌悪する気持ちはない。もしも、自分にとって残念な人間に出会ったら、静かに五感の全てを閉じて、完璧な芳一となって、遠ざかるだけである。嵐がくれば家が揺れる。だとすれば、嵐が去るまで待てばよいのである。弱火にうなされて、低温火傷をしようとも、かさぶたとなった皮膚が剥がれ落ち、また新しい肌になるまで待てばよいのである。

幸い、私の周りには鬱陶しいと思うような人はいない。もともと人付き合いが良い方ではなく、友人も平均以下の筈であるから、私を煩わせるものは一切ない。それを寂しいとか、退屈だという人もいるが、それは私の考えに反する。私は友達が少なくても一向に構わないし、人付き合いの悪さではトップを取れる自信がある。よく新聞や本を賑わせているトップ経営者は「人との関わりが一番重要です」などということを自慢げに語っているが、私からすれば、それは何とも受け入れがたい言葉である。言ってしまえば、私は自己中であって、他人への極度の鑑賞を嫌い、独り言ちで様々に考えている方が好きな性質なのであろう。

究極を言ってしまえば、いずれは自給自足できれば十分である。必要最低限の生活で事足りる。生活は質素、夢も希望も無く、亡者と呼ばれるような生き方をすることになっても、私は別に構わないのである。豊かになることを望む意志も無いわけではないが、結局は自分次第であって、自分というものは実に気まぐれで、雲のように掴みどころが無いから、その時々の風に吹かれて、揺蕩っている方が心地が良いのである。

 

a break in the clouds

疫病によって抑制された人の欲求は、疫病が収まった後でどのように変化するのだろうか。私が気になっていることは「誰が最初にマスクを外した生活をするか」ということである。と言っても、老齢な人々はどこ吹く風という態度である。それはそれで正しく、私は特別に嫌な気持ちはしない。「死ぬときは死ぬさ」という開き直りが痛快で、向かうところ敵無しの心意気は惚れ惚れする。だからと言って、私のような若造がそれを真似すれば、途端、周囲の目は刺すように自らに降りかかってくる。疫病がもたらした「生き辛さ」はそのまま、マスクなどの出費という形で懐を刺激してくる。だが、最近はそれを逆手にとって、お洒落なマスク、スタイルに合わせたマスクが発売されているので、物は考えようである。私もすっかりお洒落マスクとやらに熱をあげてしまい、服の色合いに合わせてマスクを買い集めてしまった。マスクによって顔が覆われることによって、想像の余地が生まれる。その余白が好きで、街ですれ違う女性を見ると、ついつい美人を想像してしまい、無駄に浮足立ってしまう。マスクをずっと付けているというのも、悪くはない。

 

matador

秋の日は釣瓶落としと言う。あっという間に過ぎていく秋。飽きる間もない。同じように、女心と秋の空という言葉がある。ころころ感情が変わる様子が秋の空に似ているかららしい。思い当たる節が幾つもある。私が出会った女性というのは、辻褄が合わないことが常であって、非合理的であるが芯があって頑固である。それに戸惑うこと多々である。生涯、私を含めた男という生き物は、女性には敵わない。むしろ、立ち向かおうとしてはならない。表向きは亭主関白を装い、裏では尻に敷かれていた方が丁度良いのである。どれだけ男が努力し、汗を流し、ひたむきに尽くそうとも、女心は秋の空である。女性に限らず、人というものは我儘で、辻褄の合わぬ行動をすることが常であり、たとえ、どれだけ理に適っていないと思われる出来事に遭遇しても、決して理不尽だとは思わず、粛々と受け入れていくことが大切である。私のように霞を食って生きている放浪者は、闘牛士の如く、ひらりひらりと突進してくる猛牛を避けることしかできないのである。闘牛士は猛牛に敵わないのである。くれぐれも、立ち向かう意志など持ってはならないのである。

 

 wind of knowledge(fiction)

ジョアンナ・ルーシーがまだこの部屋で暮らしていたころ、僕は11ペンスしか持っていなかった。彼女は僕のことをシリングと呼んだ。僕の本当の名前はショーンだったけれど、僕が11ペンスしか持っていないことを皮肉って、彼女は僕をシリングと呼ぶことにしていた。彼女曰く、自分が僕にとっての1ペンスだと言う(僕にとってはプライスレスだったけれど)

ジョアンナは前の彼氏と別れたばかりで、僕で丁度6人目だった。

「ROKUって会社を知ってる?」

ジョアンナは物知りで、賢いことを僕は知っていた。僕はROKUについて知っていたけれど、知らないフリをした。

「創業者のアンソニー・ウッドが、6番目に作った会社だからROKU。ROKUって、日本語で6って意味」

「じゃあ、7番目に会社を作っていたら、NANAだったのかな」

「そうね。女の子みたいな名前でいいじゃない」

たわいもない話をするのが、ジョアンナの癖だった。彼女はデイヴ・シャペルとルイス・CKを好んでいて、彼らが街にやってきたときは、決まってチケットを僕の分も合わせて買っていた。僕はスタンダップコメディには詳しく無かったけれど、彼女が笑うと僕もつられて笑った。正直、意味が理解できないことも幾つかあったけれど、彼女と一緒に笑うのは心地が良かった。

いつだったか、ジョアンナが僕に笑い話を披露したことがあった。それはタランティーノパルプ・フィクションという映画に出てくる笑い話だった。確か、トマトの親子の話。僕はそれを初めて聴いたフリをして笑った。

「ね、面白いでしょ。ケチャップとCatch UPをかけてるのよ」

ジョアンナはいつかスタンダップコメディアンになると語っていた。そのために、色んな人に出会って、色んな男に出会って、面白い話を蓄えるのだと言っていた。気になって、僕はジョアンナに聞いたことがあった。

「僕との恋愛で、何か面白いことはあった?」

ジョアンナはいじわるげに笑って、

「あなたのペンスはシリングだわ」

それが何を意味しているか、僕ははっきりと分かっていた。

でも、いつものように、僕は分からないふりをして、

「Oh,Kidding. I have only 11 Pence」