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あとがき~渋谷らくごレビュー 2019年12月15日~

レモンエロウ

今回のシブラクレビューはこちら

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20191215-2/

6時間ほどの効果しか無い薬を飲み、ダルい体を押して臨んだ渋谷らくご。正直、気持ち的には「やべーな」くらいでした。

見ている時はそれほど苦痛でも無いし、四人の演者さんも凄い面白くて、こりゃ良い会に参加出来たなぁと思っていたのです。

で、玉川太福さんを見終え、インターバル中、物凄いぼんやりが襲ってきまして、薬の効果はまだ切れるには早かったんですが、物凄いぼんやりしちゃいまして。

そのぼんやりの中で、ぽーんっと、「浪曲って二人で一つだよなぁ」なんて考えがやってきまして、「なんか二つで一つのものって、あったっけ?」と思いながら、『イヤホン』とか『孫悟天とトランクス』とか『夫婦』とか『夫婦茶碗』とか、色々考えたんですけど「なんか違うな」と思っていたら、目の前で蝋燭がぽっと灯って、その灯の上に紙がスッと入って、上から檸檬が絞られる映像を見て、「ああ、これか・・・」と思い、今回の記事に採用されました。

こういう発想って、自分でもどこからやってくるのか分からないんですが、考えていると出てくる。というか、考えないと出て来ない。もっと言えば、『考えた人間にしか与えられない』ものだと思っております。だから考えるのは楽しい。自分でも考えもしなかったところにいけるから。

これなら小学生でも落語を見る気になるかも知れない。そう思って、四人の演者に照らし合わせたら、見事に四人とも檸檬の絞り方が違っていて面白かった。

他の噺家さんでも、いっぱい考えられるんですね、檸檬の絞り方。あくまでも私の想像ですが、たとえば、柳家小三治師匠の場合は、じっと檸檬を眺めながら語りつつ、檸檬から汁が出たら、それを掬いとって紙に書いて、あぶりだす感じ。林家彦いち師匠の場合は、檸檬を正拳突きして紙に押し潰し、そこから自分で火を噴いてあぶりだす感じ。古今亭志ん生師匠の場合は、檸檬を齧ってペッと吐き出した部分にマッチ当ててあぶりだす感じ。と、まぁ、こんな感じで。

病み上がりだったので、特に入れ事を入れられなかった。ワン・アイディアの一本勝負。何せ頭痛が酷くて、16日は全く書けなかった。頭の中で組み立てた文章を書くだけだったんだけど、身体的に苦しくて17日まで全く書けず、「しまったな・・・」という思いを抱きながら、なんとか書きました。

あくまでも自分のレビューに対してなんですけど、これまで書いてきた方針がさらに強化された感はありまして、何度も書いているかも知れないけど、一つ目の『落語の加減乗除』はかなりアカデミックで、固い。大学生くらいなら読んで楽しめるかなくらいの記事。二つ目の『辛抱する木に花が咲く』は、短歌スタイルで文字を削ぎ落したおかげか、読みやすさは増して、入れた比喩も重たくて50代が喜びそうな記事。三つ目の『流されることなく流れをつくる』は、扇辰師匠の圧巻の『二番煎じ』を起点に、永井先生ボブ・ディランという謎の融合で書いて、同世代或いは40代~60代くらいまでには接近できた感じ。そこに来て、四つ目の『檸檬と炎』で、小学生から比喩好きな人々まで、届くかな、とは思いました。

正直、この『あぶりだし絵』の比喩。思いついた時は、自分では物凄い腑に落ちて理解できたんですが、他人に伝えるとなると「伝わるのか?」という怖さがありました。比喩を用いるときって、ある程度、読者がどこまで理解できるのかっていう問いがあるわけです。多分、私のブログを見てくれている人なら「絶対に分かってもらえるな」という思いはあったんですが、『あぶりだし絵』の比喩が分からないと、「は?こいつ何言ってんの。落語は落語じゃん」っていうスカンを食らいかねない。

でも、結局、頭も痛かったし、最悪、自分で納得してればいいか。わかんない人はわかんないでいいや。っていう気持ちがありました。で、書いたら、予想外に『あぶりだし絵』の比喩が伝わったみたいで、望外の喜び。こういう比喩が分かってくれる人と、私はお話ししたいんだなぁ。と思った次第。

さて、次は一体何が飛び出すやら、自分でも楽しみ。

ではでは、またどこかでお会いしましょう。アドゥー。