落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

夢の国でゆらゆらと~2020年1月13日 シブラクレビュー あとがき~

経緯

今回のシブラクレビューがこちら

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20200113-1/

 

ご承知の通り、全編にわたってディズニーランドのアトラクションで喩えたレビューになっております。

きっかけは、春蝶師匠の『死神』を見た時でした。「え、なにこれ、やばくない!?」というゾクゾクするような興奮が沸き起こったのです。というのも、前半二人、緑太さんと扇里師匠はガッツリ朴訥した染み渡るような古典だっただけに、春蝶師匠の狂気に満ちた死神を見て度肝を抜かれてしまったのです。

その瞬間に、今までは畳敷きの和室にいたのに、急にゴスロリチックと言いますか、宝塚に来たと言いますか、ディズニーで言えば『ホーンテッドマンション』に来た感覚に近いものを感じまして、その後の百栄師匠を見た時に、「こりゃ、ホーンテッドマンションの後にプーさんのハニーハントに来たようなもんだな」と思って、その考えに沿って、レビューを書きました。

とにかく、春蝶師匠が凄まじかった。お弟子の紋四郎さんは良く見ていますし、春蝶師匠の高座は何度か拝見しているのですが、あんなに恐怖と狂気に満ちたゾクゾクするような死神は見た事がありませんでした。このまま行くと年間ベストになるかも知れません。

それほどの衝撃を受けて、殆ど春蝶師匠を軸に足していった感じでした。春蝶師匠と百栄師匠のアトラクションはすぐに決まったのですが、悩んだのは緑太さんと扇里師匠のアトラクションでした。

 

タイトルもろもろ

冒頭の書き出しは子年ということで、ちょっとおふざけを入れつつ書いてます。そうそう、今回のタイトルは『ウチらランドで永遠のラフウェイ』となっておりまして、これはkemioさんの著書『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』をオマージュさせて頂きました。最初は『家の中で迷子』とか『寄席の中で迷子』で行こうかなと思ったのですが、ディズニーでの自分の迷子体験が想像以上に長くなったので割愛しました。

丁度、成人式だったので、十代~二十代が行く場所と言えば『ディズニーランド』だろうと思いましたし、今年は子年だと思いましたし、「ウチら」っていう自分たちを指す言葉とかも、まぁ、なんとなく、当てはまるだろうと思って書き始めました。

よくある年頭挨拶に関しては不要だなと思ったので書かず、ざっくり昔の思い出を思い返しながら書いていたのです。

 

 高校時代の最後に

確か高校生の終わりだったと思うのですが、野郎どもでディズニーランドに行く機会がありました。「ネズミ野郎の根城をぶっ壊す」とか思っていた気がします。正直、男同士で行くディズニーランドは1mmも面白くない。夢の国で夢が見れない。トキメキも無ければ、ラブロマンスも無い。或るのは男にまみれた汗臭さだけでした。

時折、別の学科の女子生徒の集団を見つけても、心が湧きたつということもありませんでした。当時は私もすれっからしでしたから、自分の中に確かな美人基準を設け、その基準に当てはまらない存在を認めないという考えを持っていました。だから、顔にニキビを蓄え、ヤニで黄ばんだ歯と、妙にソワソワした態度でディズニーショップへと入っていく友人達とディズニーランドを巡らなければなりませんでした。

そのようなこともあって、私はあまり鼠が好きでは無いし、ディズニーランドが好きではありません。子供の頃は殆ど迷子になるためにディズニーランドに行っているようなものでしたし、悪党連中に紛れて嫌々回ったディズニーがどうしても好きになれないのです。

ですが、春蝶師匠を見て『ホーンテッドマンション』を想像してしまったからには、この路線で書くしかあるまいと思ったのです。

結果的に、ディズニーのアトラクションで喩えるまでは良かったかも知れませんが、ディズニーへの思い入れの無さゆえに、薄い記事になってしまったかな、と思うのです。

特に緑太さんの部分は、もう少し何か良い表現があったかも知れないと思いました。後にアドヴァイスを頂いて、「落語もディズニーも、キャストと観客が楽しもうという心構えがある」という言葉を受けて、自分の浅さを認識しました。

そこだった、と思ったのです。私はカバや謎の民族を『作り物』だと認識していました。それは、『楽しもうという心構え』が出来ていなかったのだと気づかされたのです。

考えてみれば、ディズニーランドに行きたくて行きたくて、毎日眠れずにワクワクする子供たち、大人たちがいるのです。そこに、私は気が付かなかった。というよりも、用いた比喩であるディズニーランドに、私自身が何の思い入れも無いことが良くなかった。

反省ばかりの記事になってしまうのですが、ディズニーランドは高校生活の最後に行ったきり、一度も行っておりません。その時までの記憶を頼りに、『ジャングルクルーズ』であったり、『モンスターズ・インク』であったり、『ホーンテッドマンション』、『プーさんのハニーハント』を書きました。つまりは、私の記憶はそこで止まっており、かつ、その記憶は決して良いものでは無かったのです。

両親に連れられて行っても、すぐに迷子になり、一人ぼっちで永遠とも思える時間を過ごしたり、食べたかったアイスクリームを零してしまったり、弟と喧嘩して乗りたかったアトラクションに乗れなかったり、高校生になって、むさくるしい男達とアトラクションに乗ったり、ショップに行っても欲しいものも無ければ、金も無かったり、別れた彼女と来たかったなと感傷に浸ったり、すれ違うイケイケの男女を恨めしく思ったり、ジャージ姿でディズニーに行ったら友人からからかわれたり。

思い出すだけで溢れるほど嫌な思い出しか無い。

 

 それでも

そういう嫌な思い出を消して、当時の私が感じていたことに喜びを見出そうと思いました。特に扇里師匠の『提灯屋』が物凄く哀しいのに笑えてしまって、それがマイク・ワゾウスキと重なりました。本来望んだ結果を得られずとも、別の道で成功したマイクのように、提灯屋が進んでくれないかな、という思いがありました。

扇里師匠のマクラは、じんわりと伝わってきたのです。演目の最中は笑っていたのですが、後になって段々と哀しくなってくる。あれ、あれれと思っているうちに、なんだか心がモヤモヤっとしたのです。その時に初めて、扇里師匠の素晴らしさであるとか、その奥にある扇橋師匠の『落語って悲しいね』という言葉に通じてくるものを感じたのです。でも、そのまま書くのはディズニーランドの比喩から外れると思って抜きました。

結局、喜びが見いだせたかは分からないのです。確実に、マイク・ワゾウスキの表現が正しかったかもわからない。でも、モンスターであり、人を驚かせることを生業としており、その世界でトップに立とうと思ったマイクが、全く才能が無くて、むしろ「人を笑わせること」に才能があったという運命が、悲しくもあり、逞しくもあって、そういう上手く言えないことを、扇里師匠の『提灯屋』は表現していたような気がするのです。

春蝶師匠の死神は、それまでの春蝶師匠に対するイメージをがらりと覆すものでしたし、その後で出てきた百栄師匠の『ゆるキャラ感』がまさしくプーさんで、演目について詳しく語ることを避け、プーさん一本で書いて行きました。

やはり、全体を通して、自分の思い入れの無さが目立つ文章になってしまった気がします。前回の『檸檬と炎』の時は、もっと心底驚きがありましたし、シンプルだったなと思うのですが、今回は、ちょっとあれこれ書き過ぎてしまったかな、と思います。

それでも、反省はしますが後悔はしません。書いて出した以上は責任を持っております。むしろ、今回の記事でより一層、比喩を用いる時の心得を認識しました。安易に比喩を用いてはならず、むしろその奥にあるものにもっと目を向けなければならない、と感じました。

今度、もしも夢の国に行く機会があったら、その時は全力で『楽しもう』という気持ちで行きたいと思います。『落語』を聞きに行くときだって、『楽しもう』という気持ちは大切ですから。

それでは、シブラクレビューの雑感を終わりたいと思います。