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教育勅語と落語の世界~気の長短における疑問から考える、人間の道徳性と笑い~

 

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早くおせぇろ!こりゃ事に寄らなくてもおせぇた方がいいんだ!馬鹿野郎!

 

それ見ねぇ、そんなに怒るじゃねぇか。だからおせぇねぇ方が良かった。

 

 

 【考えの発端~古書との出会い~】

 古書店でたまたま見かけた『文藝春秋デラックス 古典落語と古川柳 日本の笑い』に目を惹かれ購入。電車に乗って家までの帰路の途中、ペラペラとページを捲っていると、山田洋次監督が書かれた『あっぱれな親不孝 『山崎屋』』の文字。丁度、タイムリーな話題となっている『教育勅語』について書かれていたので、「なんとも、時代というのは回るものだぁ』と中島みゆきばりに感心しながら文章を読んだ。

 本書では、映画監督や慶應義塾大学の教授、哲学者や演劇評論家まで、様々な職業の方々が落語の演目を取り上げて、それぞれの愛する落語の読み方について述べていた。これが大変に面白く、そんな読み方、感じ方があったのか!と興奮した。落語というものは自らの環境や職種によって、種々様々な角度から読むことが出来るのだなと思い、その幅の広さに驚いた。

 では、私もそんなことを書いてみようではないかと思い立ち、それでは、私は『気の長短』という落語における登場人物二人の関係性を述べてみたいと思った。というのは、文菊師匠の長短が脳裏にこびりついて記憶を反芻していた際に、とある疑問が浮かんだからだ。その疑問を語る前に、まずは『気の長短』という落語のあらすじを記述してからにする。

 

 【気の長短】

 気の短い短七さんの家に、気の長い長さんがやってくる。短七さんは戸口で顔を出したり引っ込めたりする長さんに「中に入っておいで」と言う。ゆっくりのんびり中に入って挨拶をする気の長い長さん。

 短七さんが用を尋ねると、長さん、ゆっくりと「昨日小便に行こうと思って、雨戸を開けたら、その、あのー、早い話が」と言って短七さん「ちっとも早くねぇじゃねぇか」とご立腹。結局、昨日雨が降るかなと思ったら、今日とうとう雨が降った。ということを言う。短七さん「てめぇは昨日の小便からそんなことを言わなきゃならねぇのかい!」とさらにご立腹。けれども二人は昔からの幼馴染、短七さんは長さんの気の長い気性を心得ているからと言って落ち着く。

 丁度残り物の餅菓子があると言って短七さんが長さんに餅菓子を差し出す。長さん、再びゆっくりと餅菓子を取って二つに割る。まだ食べないうちから短七さん「どうだ、美味いか!」、長さんがにっこり笑って「まだ、食べてないよ」。ようやく長さんが割った片方の餅菓子を食べたかと思えば、くちゃくちゃもちゃもちゃ、なかなか感想を言わないので焦れた短七さん、「ちょっとよこして見ろ」と言って長さんから餅菓子を取ってパッと口に入れ、トンッと食べてしまう。「こうやって食っちまえばいいんだ」と言うと、長さん煙草を吸おうとしながら、「短七さんは気が短いから、あたしのような気の長いのがいるとまどろっこしくて仕方が無いだろう。短七さんは気が短い、あたしは気が長い。子供の頃から幼馴染で、これまで一度も喧嘩したことが無いってんだから、これでどっか気が合うんだね」と言って煙草を吸うが、短七さん、長さんが煙草を吸う仕草に焦れて「合りゃしないよ。そんなんじゃ火が付かねぇじゃねぇか。煙草ってのはこう吸うんだ!」と言って長さんの前で煙草の吸い方を教える。

 それに倣って長さんも煙草を吸うがやはり動作は遅い。ようやく火がついて煙草を吸うが、どうにも気に入らない短七さん。長さんがにこやかに「短七さんは気が短いから、人から何か教わるのは嫌いだろうね」と聞くと、短七さん「嫌いだ、大嫌いだ」。すると長さん「あたしから言われてもかい?」と聞く。短七さん「お前は別だよ。餓鬼の時分から友達じゃねぇか。なんだ、どうかしたのか?」と聞く。「言っても怒らねぇか?」とゆっくり聞く長さん。「ああ、怒らねぇよ」と返す短七さん。「本当に?本当に怒らない?」と長さん、「だから怒らないって言ってるじゃねぇか!」と焦れる短七さん。ようやく長さんが「煙草を吸って火玉を威勢よく叩いたやつが、煙草盆に入らずに袖口から入って、おや大丈夫かなと思っていると、煙が出てきて、おやおやおやと思って見ていると、今だいぶ煙が出てきた。ことによるとそれは消した方がいいんじゃ」と言うと、慌てて袖を叩きながら短七さん「こういうことはことによらなくても早くおせぇた方がいいんだ。馬鹿野郎!」と声を荒げる。長さん「ほら、やっぱり怒るじゃねぇか。だからおせぇねぇ方が良かった」

 

 【とある疑問について】

 上記の気の短い短七と気の長い長さんの会話は、多少の誇張はあれど日常生活でも十分に起こりうる会話である。程度の差こそあれ、十人寄れば気は十色なんて言葉にもあるように、どうもこの人はせっかちだ、とか、どうもこの人はのんびりしている、と他者に対して、または自分に対して感じることが良くある。自らの性分と他者の性分を理解して、お互いに接している中で生まれてくる微妙な差に可笑しみが感じられるお話だ。特に観客は長さんのゆっくりさに短七さんと同じようにイライラするのか、逆に短七さんのせっかちさにイライラするのか、自分は今どちらに苛立つのかということを考えるのも楽しい。

 この落語において、私は長さんのゆっくりの間に笑うことが多い。この笑いを自分なりに分析すると「長さんの気の長さに僅かに苛立ちながらも、仕方の無い人だなぁ、お待ちいたしましょう」という心の安堵を保つための笑いだという気がする。なぜなら、本当に短七さんのように気が短かったら、全く笑えず「なんだこのノロマ野郎は!」とキレてしまうからだ。この僅かに苛立つという緊張の後で、まぁ仕方が無いから待とうという緩和が笑いを起こすのではないか、と思うのである。ちょっと粗相をした人に対して「仕方の無い人だねぇ」という笑いである。

 同時に、苛立つ短七さんに笑うのは「共感と許しの笑い」だと思う。「そう苛立つ気持ちも分かるよ。でもまぁ、許してやろうじゃないか」という感じ。同じように私も苛立ったという緊張と、でもまぁ許そうと落ち着く気持ちの緩和。これが短七さんにも笑える部分だと私は思っている。

 そうやって自己分析をしていると、とある疑問が浮かんだ。それは、『なぜ短七さんの袖口に火玉が入ったのに、長さんはすぐに教えなかったのか?』ということである。

 この疑問が考えても考えても、どうにも納得できない。というのは、昔ながらの幼馴染であるのだから、普通は友達の袖口に火玉が入ったら、すぐに「あ、火玉が入った!」と言うはずである。これは幼馴染というのはお互いに心を許しあい、助け合うという私の前提条件に基づくのだが、そう考えると、長さんが火玉をすぐに指摘せず、煙が出て穴が開くまで放置したことは、幼馴染という関係性からは逸脱した非道徳な行為なのではないか、と思うに至ったのである。日頃、そこまで真剣に考えていなかったのだが、考えてみると答えの見えない疑問だった。

 

 【一応の解釈、意地悪な長さん?】

 結局、長さんが短七さんの袖口に火玉が入っても、すぐに教えなかったのは『長さんの意地悪』だったのではないか、という一応の解釈に至った。家に入るなりパーパー短七さんに言われ、餅菓子も半分取られ、挙げ句は煙草の吸い方まで教えられ、長さんの中で苛立ちが募り、その仕返しに短七さんの袖口に火玉が入ってもすぐには教えず、心のどこかで「火傷でもしやがれ」という気持ちがあったのかも知れない。と私は思ったのである。だから、オチの長さんの「おせぇねぇ方が良かった」というのは強烈な皮肉になる。

 美しい二人の関係性で解釈できたら良かったし、その方が美談として気持ちがいいとは思ったのだが、どうにも長さんに良心がある解釈が出来なかった。長さんが教えなかったのは火玉だけれども、例えば、仲良しの夫婦の家に行って、その夫婦の子供が口に小さな玩具を入れたのを見たが、「怒るかも知れないけど…」なんて言って、「さっきそちらのお子さんが口に玩具を入れて飲み込んだのが見えたんですけど、どうなるかなぁと思って見てたら、今、なんか、苦しんでいるようで…」なんて言ったら、これは怒るだろうし、怒った後で「教えないほうが良かったですね」なんて言われたら、これはもう激高の類になるのではないか。そうなると、笑えない。なぜ笑えないのかというと、やはりそれは不道徳な気がするからだ。

 ただ矛盾があるのは、オチできっちり笑いが起こるところである。長さんの最後のセリフで感じる笑いは、一体何の笑いなのだろう。

 

 【人間の抱える矛盾、健全な道徳と不健全な道徳の混合による笑い】

 普通の生活をしていると、親を大事にし、兄弟仲良く、汝、隣人を愛せよ。勤勉に暮らせ、などなど。様々に自分の心を律することが求められる。規則正しく生きることが、人間の美徳であるという類のことが、最近話題の『教育勅語』に書かれている。現代語訳や口語訳は他に任せるとして、そういう『教育勅語』とは全く正反対な生き方をする者達が落語にはたくさん出てくる。泥棒をする者、親の金を使って遊び呆けるもの、変な物を売ろうとする道具屋などなど、清く正しく美しい人間は殆ど出て来ない。山田洋次監督は、冒頭に紹介した本の中で以下のように述べている。

 

親には孝行しなければいけない、夫婦は仲良くしなければならないというきまり事は、本来民衆が持っている健康な道徳意識である。それでいながら、時としてその道徳からひたすらはみ出して生きたいという願望を同時に民衆はかかえているのである。 

  親孝行は子の勤め、夫婦円満は男女の掟。聞こえは良いし、そうしなければならないという道徳的観念はあるのだが、落語の登場人物達は殆どが親不孝だし、しょっちゅう夫婦喧嘩をして助けを求める。この理想通りにいかない矛盾。頭では理想が分かっていても、心が理想通りにいかない。なんてことは日常茶飯事である。つまりこの矛盾を抱えた状態を、それでも大丈夫だ!それで良いんだ!というのが、落語だと私は思う。立川談志の言葉にもあるように『落語とは人間の業の肯定』とは、まさしくこの相反する矛盾、すなわち業を肯定するところにあるのだと思う。

 だから、長さんと短七さんの二人の関係性には、そういう人間の心の矛盾があるのだと思う。怒らないと言っても怒る短七さん、教えた方がいいと思いつつも意地悪で言うのを躊躇ってしまう長さん。今書いていて思ったのだが、意地悪ではなく、長さんは長さんの性分がそうさせたのか、教えたくても教えられなかったのではないかと思って、また一つ解釈を発見した。だが今はそっと温めて、落語を聞いて検証していきたい。

 私としては、最後の長さんのセリフで起こる笑いは「おいおい、のんびり屋さんだなぁ」という感じである。早く教えてあげなよ!という苛立ちの緊張から、なんだそりゃ、教えてあげなきゃ駄目だよ、という諭すことの緩和。これが笑いを生んでいるのではないかと思った。

 何というか、一線を超えた快感というのだろうか。火玉が入ったら教えるのが当たり前という健全な道徳性と、教えなかった挙げ句、教えなかったことを肯定する長さんの不道徳性が聞く者の中でぶつかる。普通は教えるものだけど、という健全な道徳性が不道徳性に立ち入る瞬間、心の中で長さんの最後のセリフに心が誘導されるのである。

 さんざん怒らないと言ったのに怒ったのだから、教えないほうが良かった。これは長さんの正しい理屈である。一方で火玉によって服に穴が開いた短七さんの「ことによらなくても早く教えるんだ!」というのも正しい理屈である。この長さんの不健全な道徳と、短七さんの健全な道徳の混じり合いに笑いがあるのだと思う。

 『気の長短』における私の笑いに、一応の決着があったように思う。

 

 教育勅語VS落語?】

  山田洋次監督は、冒頭の本の中で、さらに次のように述べている。

 

教育勅語は大変良いものであるから復活してはどうかという考えをもっておられるそうだが、こういう考え方をする人は民衆というものを良く理解していないだけでなく、民衆を心から信頼していないのではないかと思う。もしどうしてもそのようなものを復活するなら(中略)落語などという反道徳的芸術、およびその他一切の笑いの芸術を日本から追放せねばならないだろう。

  この意見に対する私の考えは、政治的な意味を一切排除して聞いて頂きたい。私は自分に色が付くのを嫌うし、左だ右だなどとは一切思わず、あらゆる余計な考えを持ち込まずに聞いて頂きたい。そもそもこんなブログにそういう考えの人が来るかは分からないが(笑)

 以上を踏まえて、では、述べる。

 私は教育勅語も落語も一緒に存在して良いと思うし、お互いにぶつかり合うのではなく、認め合ってほしいと思う。どちらか片一方に心酔しても良いと思う。だが、どちらか一方だけを信じ、本当に徹頭徹尾『教育勅語が歩いている人間』、反対に『落語が歩いているような人間』がいるのだろうか。きっと『ある時は教育勅語的、ある時は落語的な人間』の方が圧倒的に多いような気がする。

 『気の長短』という落語から、まさか『教育勅語』まで考えるとは私自身も思わなかったのだが、たまたま買った古書に載っていた山田洋次監督の言葉が、あまりにも現代にタイムリーだったのだ。因みに『文藝春秋デラックス 古典落語と古川柳 日本の笑い』の発刊は昭和49年11月1日である。44年前に既に、今日と変わらない状況と、それに対する意見があったというのも、奇妙な偶然。つくづく時代は回っているのだなぁと思った。

 

 電車を降りて、家に帰りひと眠りする。落語鑑賞の無い日でも落語について考えていると、また落語が好きな方の意見を聞いていると、新しい発見がある。嬉しい限りである。さて、明日はどんなことを私は考えるのだろう。

 忌憚のないご意見、頂戴致しますと泣いて喜びます。松之丞さんやオーストラ・マコンドーさんの記事が大変たくさん読まれているのですが、お言葉を頂戴できなくて少し寂しいです(笑)なんでもいいからイイネと言葉をください(涙)

 それでは皆様、良い一日を。

 

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