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孤独の間隙~2019年4月23日 浅草演芸ホール 夜席~

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Laugh and the world laughs with you,

weep and you weep alone.

―――Ella Wheeler Wilcox 『Solitude』

 

Solitude Man

大勢の人々がいる空間が苦手だ、人混みなどを見るとゾッとする、と、あなたが一度でも思ったことのある人ならば、きっと私はあなたと友達になれる気がする。

同じような服を着て、同じような髪型をして、同じような鞄と、同じような靴と、同じような受け答えを強要されたことのある私にとって、それはとても大きな苦痛だった。なぜ人と同じことをしなければならないのか、我慢が出来なかったし、それを私に強制する社会を恨んだし、人と同じことをする人間を馬鹿にしていた。

多少、昔よりは気持ちは和らいだが、未だに人と同じことをするのを私は嫌っている。特に、同世代の人間が体験することの殆どのことを、私は体験したくないと思ってきたし、事実、体験していない。それは意図的に私がそう望むからである。つまらぬことだが私は『君の名は』も見た事が無ければ、『ボヘミアン・ラプソディー』も見た事が無い。『TikTok』や『SNOW』も存在は知っているがやったことは無い。だからどうした、と言われればそれまでだが、私はそうしたちっぽけなところから、人と同じことをしたくないという気持ちを持って生活をしている。

必然と言うべきか、私は大勢の人が夢中になっているものを見ると、その対象から遠ざかってしまう性格である。私のささやかな人生経験の何がそう思わせるのかは分からない。だが、考えられる原因は幾つもある。

まず、大勢の人間が熱中しているものは、競争率が高い。故に、私が熱中したとしても、私以上に熱中している人間に出会う可能性が高くなる。ゲームなどを例にとってみても、対戦ゲームであれば、私以上に強い人間に出会うと気持ちが萎えてしまう。何とも根性不足であるが、私は対戦ゲームなどもトレーニングモードで、一人でひたすらに技を磨くことに面白さを見出している。他人と争うことは念頭に無い。ただ自分が満足できるまで技を極められたら、それで良いと思う性格である。

また、大勢の人間が集まる場所には『同調圧力』があると私は思っている。無言の圧力と言っても良いかも知れない。多数の人間の意見に流され、仮に反対意見を持っていたとしても、「NO」とは言えないような空気が大勢の人間が集まる場所にはある。

1億人が涙した映画があるとして、仮に私がその映画を見たとする。私は涙せず、むしろ面白くなかったという感想を抱いたとする。そんな私が映画に涙した1億人の中に放り込まれて『お前が涙しなかった理由、面白くなかったと思う理由を、涙した連中に納得させてみろ』と言われたら、正直骨が折れる。その労力を考えたら、あっさりと嘘をついて「すみません。感動しました。号泣しました」とその場では言うだろう。後で一人でもんもんと文章を書いて、『正直、あれは面白く無かった』と書くような人間である。口では納得させられるとは思わないが、文章でならば納得させられるという自負はある。その自負が無ければ、そもそもブログで記事など書かない。

どうにも社会は競争だの、勝負だのにこだわっている感じがある。私は平成になろうが令和になろうが、他人と争う気は毛頭無い。ただ自分が好きな人と、好きな時間を、好きなだけ味わっていられれば、それだけで良いのだ。

さて、大勢の人々が集まる空間や人混みが嫌いな私は、孤独であろうか。孤独であると言えるだろう。兎角、世間では孤独とはマイナスなイメージを抱かれがちである。だが、私は孤独をマイナスだとは思っていない。むしろ、とてもプラスだと考えている。何かを好きになっても、孤独であることほど状態として良いことは無い。

それは、私の心の中に、『自分だけが愛しているものがある』という誇りがあるからだと思う。たとえ一人であっても、『これは私しか知らないぞ』とか、『これは私だけが愛しているものだ』というものがあると、幸せに生きることが出来る。自分が熱中しているものや、好きなものは、その対象に対して興味を持っている人が少なければ少ないほど、幸福度が増すと私は考えている。

演芸の記事を書いていても、『これはまだ、私しか言葉にしていないぞ』と思うと、勇気が湧いてくる。まだ誰も気づいていない芸人の素晴らしさを言葉で表現するとき、そこには物凄い喜びがある。自分だけが知っているものを掘り起こして、それを読者に読んでもらう。どんな風に思って頂けるかは多少気にはするが、書き終えた時の喜びというものはとても大きい。同時に、こんな風に自分は思っていたんだ、ということがはっきりしてくるから、それはそれで気持ちが良い。

私のような孤独な人間は、自分だけの楽しみを多く持っている人間であると言える。それは犬や猫の動物でも構わないし、漫画や映画でも良い。自分だけが知っているもの、自分だけが気づいているものを、多く持っている人は、たとえ一人ぼっちであっても、幸福な孤独の状態にある。同時に、自分だけが気づいているもの、自分だけが好いていることを、他の誰かが知ってくれて、興味を持ってくれたりすると、それはそれで嬉しくもあり、喜びでもある。矛盾しているかも知れないが、自分が愛していたものを、誰かが愛してくれたら、こんなに嬉しいことは無いのだ。

だからこそ、大勢の人が愛しているもの、熱中しているものには、私はあまり興味を抱かない。それはきっと私以外の誰かが発見したものであるからだ。

例を挙げるとすれば、神田松之丞さんだってそうだと思う。まだ人気が爆発する前の、2017年の年末頃以前に松之丞さんに興味を持っていた人達は、2018年以降、物凄い幸福を味わったのではないだろうか。今、仮に私が初めて松之丞さんを見たとしたら、2017年に見た時ほどの興奮を抱かなかったであろうと思う。それは、大勢の人が愛する講談師に、松之丞さんが成ったからである。

もっと考えを延長すれば、恋人も同じである。自分だけがこの人のことを一番知っている。自分だけが誰よりもこの人を愛している。同時に、相手も同じようなことを自分に対して思っていてくれたとしたら、これ以上の幸福がどこにあるだろう。孤独の価値は、人数が少なければ少ないほど良い。という気がする。

さて、前置きが長くなったが、私はそんなことを浅草演芸ホールの帰り道に思ったのである。

 

 浅草演芸ホール 桂伸治師匠のトリ

たまたま時間が空き、私は18時から浅草演芸ホールに入った。新宿末廣亭では喬太郎師匠がトリを取っていたが、前述したようなこともあって、私は行こうとは思わなかった。これは決して新宿末廣亭に行った人を否定する訳ではない。私は大勢の人が行くような寄席をあまり好まない。同時に、喬太郎師匠がトリであると、喬太郎師匠だけが目当てになってしまい、それ以外を楽しむことが出来ないという心を持っている。だから私は、出演者全員を楽しむことが出来ると思う寄席を選んだ。それが、浅草演芸ホールであったのだ。穿った考えかもしれないが、喬太郎師匠のトリの会には行っても、代演となるとパタリと行かなくなる人も大勢いるだろうというのが、私の考えである。

さて、そんな穿った考えを披露したところで何の得にもならない。ただ、なぜか人の少ない、まるで軽井沢の別荘のような風の吹く浅草演芸ホールの方が、私には特別に素晴らしいものに思えたのだ。上手く言えないと呟いたし、正直、上手く言おうとすると反感を買いかねないのだが、大多数が好んでいるから正義だとか、良いという考えが、私には無いのだということに気づいた。冒頭にも書いたように、他人がどう思っていようとも、「これはまだ私だけが知っている面白さだ」と思いながら見ていると、些か不純ではあるかも知れないが、物凄く楽しめる。同調圧力ゼロの空間が、そこには存在していた。そのフリーな気持ち良さに目覚めてしまったら、大勢の人がいる寄席に行けなくなってしまうかも知れない。

余談だが、その点、文菊師匠はかなりベストな知名度、人気であると思う。まだそれほど認知されていないが、落語好きの中では唸るほどの抜群の実力と知名度を誇っており、普段寄席で見る常連さん方もそれほど見かけることも無い。かなり丁度いい具合である。無論、その丁度良いは『私にとって』という意味であるが。松之丞さんほどの知名度を文菊師匠が得てしまったら、それはとても寂しいし、いやだ。私だけのものになってほしい。嘘です。でも、ちょっと悲しいと思ってしまう心はある。

さて、話しを戻そう。とても良い雰囲気で始まった浅草演芸ホールだ。

 

伸乃介師匠の落ち着きのある語り口で、静かに繰り返される『高砂や』の優しい幸福感、蝠丸師匠の気遣いながらもオチにアレンジの光る『湯屋番』、ぴろき師匠の確かめるような脱力の『漫談』。ぴろき師匠まで素敵な笑い方をするご婦人がいたのだけれど、桃太郎師匠の時にいなくなってしまったのが少し残念だった。

仲入り前の桃太郎師匠も、とても面白かった。ティッシュも頂き、とても嬉しかった。桃太郎師匠のなんとも言えない語り口、間、とてもとても面白くて、桃太郎師匠が作り出す独特の雰囲気が私は大好きな『お見合い中』だった。ちょっとハプニングもあったけど、それも含めて素敵な時間だった。

 

伸三さんは多分立川流仕込みの『権兵衛狸』、終わった後にちょっと肩を落としている感じだったけれど、真面目な語り口は絶品。小文治師匠はハイトーンと表情が素敵で、乙な紫の風が吹くような『粗忽の釘』、小文治師匠の色気のある艶やかな語り口を久々に聞いてうっとり。コントD51さんはお馴染みのおばあちゃんのコント。目の前で見ると迫力が凄くて怖かった(笑)。幸丸師匠はスタンダップコメディも行けそうな素晴らしい漫談、序盤でちょっとハプニングがあったけれど、皮肉を効かせたナイスリターンは手塚ゾーンならぬ、幸丸ゾーンに入っていた。

夢太朗師匠は、粋なリズムと優しい表情。『寝床』と言えば鉄板のキラーフレーズ『誰ががんもどきの製造法を聞いているんだ!』も見事に決まり、次から次へと繰り出される欠席理由が気持ちいい。他の演目を聞いてみたいと思った。

南玉師匠の緊張感ある曲独楽から、いよいよ伸治師匠のトリ。何とも言えない素敵な雰囲気がある。

伸治師匠の素晴らしさというのは、気迫を見せないようなところであると思う。もちろん、気迫のある圧巻の高座をする落語家さんも素晴らしいけれど、伸治師匠のような、ふわっとした感じで、水面を泳いで行くような、やわらかく心に染み入るような雰囲気と語りが、何とも言えない心地よさがある。それは、お弟子さん達にも共通して流れているものである気がするのだ。どことなく、近所の知り合いというような、そんな親近感がある。肩の力を抜いて、客席に寄り添うような伸治師匠の優しい包容力みたいなものを、私は客席から感じる。伸治師匠の弟子になったら、自分の好きなように伸び伸びと、自分のありのままに楽しめるんだろうなぁ、と凄く思う。これはあくまでも感覚だが、きっと落語協会噺家さんの弟子になったら、かなり厳しい修行をするような気がする。そこに挑戦したいという強い気概のある人も、きっとたくさんいるとは思う。

伸治師匠の色気マクラから、演目は『崇徳院』。男が女に惚れ、女が男に惚れ、その間を取り持つ人の心意気。温かい空気が流れ、結末はどうなるのか分からないけれど、素敵で面白い噺である。伸治師匠が楽しそうに語られている姿を見ると、こちらまで楽しくなってしまう。

これも個人的な意見だが、喬太郎師匠を見る時は『面白いものを見せてくれるんだろう?』という、挑戦的な気持ちを自分に対して認める。ネームバリューというか、喬太郎師匠に対する期待が物凄くある。もちろん、喬太郎師匠はその期待に見事に応えている。でも、どこかで、そんな期待を振り払いたい気持ちがあるんじゃないだろうか。いつも舞台に立てば大勢の観客が自分に期待している空間というのは、それはそれでかなりの重圧であると私は思う。これも私の単なる推測に過ぎないが、そういう自分に対する期待を調整するために、喬太郎師匠はトリの初日には『夢の酒』をやるのではないだろうか。これも詳しく語ることは止めておくが、私はそんな気がする。

何とも不思議であるが、冒頭に記したように、私は人が少なければ少ないほど、様々なことを楽しめる性質であるから、伸治師匠の『崇徳院』が素晴らしかったと思うと同時に、とても素敵な空間で落語を楽しんだ、という気持ちが強く胸に残った。これは何度か体験したことがある。特に笑遊師匠や伸べえさんの時に、それを強く感じた。

最高の気分で浅草演芸ホールを後にし、私はぼんやりと、自分にとって素晴らしい寄席とは何だろう、と考えた。恐らく、愛する人と二人だけで見る寄席であろう、と思った。演者と私と愛する人。その三人だけの寄席というものを想像して、私は少し見てみたいな、という気持ちを抱いた。

 

 孤独の間隙

孤独であることを悩むことなど無いな、と私は思う。むしろ、孤独であることはとても幸福であると思う。話せば長くなるし、趣旨とずれるし、前述したことと重複しそうであるから、止める。

孤独であると、自分にとって想定外のことが減って行くから、意識的に自分を想定外の場所に連れて行く必要がある。ここで言う想定外とは、まだ自分が想像もしていない世界に出会うことを意味する。いつも同じリズム、いつも同じパターンの繰り返しでは飽きてしまう。自分を飽きさせないためにも、様々なことに挑戦すること、色んな物事に取り組むことは、とても重要なことであると思う。

心の筋肉、と言うと些かポエマーのようであるが、心にも筋肉があるとするならば、それは教養によって磨かれるのではないだろうか。教養を強要する訳では無いが、私の一つのオススメとしては、『自分しか知らないものを見つけること』である。この喜びを一度味わってしまうと、なかなかやめられるものではない。

そんなことを最後に記す。どんなに齢を重ねても、『自分しか知らないものを見つける」と、素敵に心が若返る気になると思う。もしも時間があれば、それを言葉にしてみると、さらに自分の考えが明確になるように思う。

あなたの素敵な言葉で、演芸が彩られることを願いながら。

それでは、また。