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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

Swing&民謡の素敵なクロスオーバー~2018年12月1日 渋谷クアトロ 民謡クルセイダーズ~

 

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ドンドンパンパン ドンパンパン

 

最後まで楽しもう

 

フレディ・マーキュリーが犬になって飼い主に向かって泣いた。

クイ~ン

 

いつまた会えるやら

文菊師匠の会を終えて、私は渋谷の街に降り立った。って天使かよ。というツッコミはさておき、今日は渋谷クアトロで民謡クルセイダーズのライブである。

とりあえず場所だけは見ておこうと思い、会場5時間前にクアトロの周辺をうろうろ。すると、『よしもと∞ホール』と書かれた建物の周辺にずらりっと行列がある。何かと思って探ってみると、どうやらM-1関連らしい。残念ながら家にテレビが無いので、テレビはテレビが備わっている飲食店でしか見ていない。昔はテレビっ子だったし、齧りついて歯を悪くするくらいテレビが好きだったのだが、今ではすっかり生の演芸に惚れ込んでしまって、財布の諭吉がどんどん逃げて行く始末。

クアトロでのライブまで時間を持て余していたので、近くを散策していると、『RECOfan』という、私にとって宝の山のような、中古CD・レコードショップを発見。絶対置いてないだろうと思っていたバブルガム・ミュージックの名盤が棚に陳列されていた。もちろん、お高いので諦めたのだがThe Foundationsのベスト盤を購入。本当はトニー・バロウズのベストを買おうとか、バブルガム・クラシックスVol.4を買おうと思ったのだが、5000円以上もしたので、だったらitunesで聞く方が安いと思い立ち、購入しなかった。

もしも大学時代にあんなCDショップを発見していたら、様々なミュージックに金を落としていて、大変なことになっていただろうな。と思いつつ、今は潰れてしまった思い出のディスクユニオンを懐かしく思った。

考えてみれば、私は中学時代に洋楽にハマって以来、Youtubeの影響もあってか、あらゆる音楽を聞いてきた。メタルだけはどうしても好きになることが出来ず、それ以外のラゲエ、じゃなくてレゲエやダブ・ステップやら、スカやらアフロやらにハマった時期もあったし、当然、ロック・パンクにもはまった。マニアック過ぎて誰とも会話できないバンドにたくさん出会ったし(例:Cock Sparrer)、日本のロックはチバユウスケさんと山口隆さんのおかげで色んなものを知れたし(今は民謡にどっぷりだけども)、様々なミュージシャンに出会うことで、そのルーツを探るだけの時間とお金があったのも事実である。

以前の記事でも書いたかも知れないが、そんなこともあって、日本の音楽に飽き始めていたのだが、久方ぶりに心躍らされたバンドが民謡クルセイダーズである。民謡×ラテンという極上のミックスを発掘し、現代で鳴らしたバンドである。

東京CAYでのリリース・パーティはもちろんのこと、記事にも書いた福生市民会館でのライブにも行った。どこにでもご常連の方はいるようで、柳家はん治師匠そっくりのお客さんがいることを私は知っている。

 

さて、そんなわけで、渋谷クアトロに到着である。

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噂には聴いていたが、人生で初めて渋谷クアトロにやってきた。

ざっと周囲を見渡すと、40代から50代とみられる方々が多い様子。若い頃はいろんな音楽を聞き、民謡やラテン音楽に惹かれてきた世代が多いように見える。年齢が若いバンドには若い客が多いように、年齢が高いバンドには年齢の高い客が多いようである。もちろん、これは私の体感である。夏の野外ライブ、サマーソニックでは付き物のモッシュやダイブ、前列への押し合いのような乱暴な雰囲気は皆無。むしろ、落ち着いてゆったりじっくりとライブを味わいたいという雰囲気が漂っていて、会場に入ってしばらく後からやってきた客が「あれ、椅子ないの!?」という驚きの声が聞こえてきて、どうやら落ち着いた雰囲気のライブになりそうだと思って安心した。音楽を聴くと体を動かさずにはいられない人間はどうやら少ないらしい。

開演時刻前になると、会場はびっしりと人で埋め尽くされる。それでも、満員電車のような窮屈感は一切ない。お互いに適当な距離を保って邪魔をせず、あくまでもじっくりと聞こうという暗黙のルールが布かれているかのようである。民謡という音楽がそうさせるのだろうか。ラテンほどのバリバリ体を動かして踊りあかそうという雰囲気はない。

定刻になって、まず登場してきたのは金管楽器の部隊、ついでドラムとベース、そしてピアノ。余談で思ったのだが、ライブ中にスマホで動画撮影をしている人が見受けられた。普段、寄席で禁じられている行為が許される会場であったとしても、ライブを楽しむ姿勢として、あまり私は良い印象を持たない。演芸は記録に残さず記憶に残すべきであり、記録に残したいのならば自分が芸に触れてどう思ったかを記録すれば良いと思う。演者だって、動画撮影されているとわかったら、あまり気分の良いものではないと思う。むしろ、気分を害すると思う。

しばらくのインストゥルメンタルの後で、吾妻光良さんが登場。ズート・スーツに身を纏い、派手なエレアコを持って登場。この人はどうやらピック(三味線で言えば撥)を持たないようで、指弾きでギターを弾く。丸くて太くて柔らかい音が出るので、温かみのあるサウンド。セットリストは他に任せるが、一曲目が『最後まで楽しもう』であったことだけは覚えている。

何よりも素晴らしいと思ったのはベースとドラムである。鬼神のような表情で迫力のドラムを叩く一方、ベースはまるで老舗のバーのバーテンダーのような、驚くべき落ち着きようで巧みなベースラインを弾いている。どんなバンドにも共通して言えることだが、リズム隊がしっかりしていると、メロディを奏でるブラスやボーカルなどは、思う存分暴れることが出来る。バンドにとってドラムとベースは、心臓、車で言えばエンジンそのものなのである。

吾妻光良さんについては、生粋の音楽ブログ、ODAさんのサイトで見て知っていた。ODAさんのブログはコアな音楽ファンにもオススメなので、こちらに紹介しておきたい。

WASTE OF POPS 80s-90s

 

ちらっと見聞きする程度のバンドだったが、実際に生で見ると迫力が違うし、歌詞もサラリーマンの悲哀のようなものが入り混じっていて面白かった。曲順は忘れたが『ですよね』という曲や『焼肉アンダーザムーンライト』なる曲をやっていた。年齢層は60代が平均の様子。60代特有のいい加減さもありながら、しっかりと演奏されていて面白い。ちょくちょく吾妻さんが出だしを忘れるというのも、なかなかスリルがあって面白かった。どうやら吾妻さん目当てで来ていたお客さんも多い様子。落語好きになってからすっかり演者との距離感が近いことに慣れてしまっている自分を自覚する。

中学生や高校生の頃は、ライブで見るバンドは殆ど会話することの出来ない神のような人たちだと思っていた。今でもそう思っていた名残りのようなものが私にはあって、なかなか演者さんにフランクに話しかけることが出来ない。大体意思表示は古臭くて、ガッツポーズで「今日、良かったです」とか、親指を立てて「最高でした」という意志表示を演者さんに伝えることしか出来ない。本当だったらフランクに話しかけて「今度一緒に飲みに行きましょう」とか「お昼一緒にどうですか」とか、連雀亭の若手さんを誘いたかったりする。いつ沸き起こるんだろう、その勇気(笑)

さて、話が逸れた。そんな長年のファンに支えられた吾妻光良&The SWINGING Boppersの後で、いよいよ民謡クルセイダーズの登場である。

 

まず笑ってしまったのは、最近何かと話題の『ボヘミアン・ラプソディ』という映画の影響もあってか、メンバーが『We will rock you』のリズムに合わせて登場してきたことである。考えてみればボーカルはフレディ塚本さんである。そのフレディ塚本さん、フレディ・マーキュリーの物真似をしながら登場。この様子を見て会場爆笑。

まさか「We will rock you」を歌うのか!?と思いきや、ネタはハゲの小噺。案外会場がスルーしていて面白かった。演芸ともなると、即座に反応できる小噺である。

その後は熱狂しすぎてあまり曲順は覚えていない。ただ最初にちょっと残念だなと思ったのは、ベースのイカツイ人ではなくて、違うバンドでベースをしているイシグロさんという方だったところ。今回初めて聞いたのだが、やはりどこかリズム感が違うように感じられて、残念。最初の二曲くらいはその悲しみであまり楽しむことが出来なかったのだけれど、途中からは諦めて楽しむことを決意。相変わらず「おてもやん」は色気たっぷりでムードたっぷりだし、新曲でまだCD化されていない「牛深ハイヤ節」も、早くCDで聴きたいと思うほどにノリノリの一曲である。

フレディ塚本さんは出たり引っ込んだりするのだが、民謡の歌声は抜群で、串本節やホーハイ節は相変わらずのお声で盛り上がっていた。民謡とラテンの素敵な融合。東京CAYでのライブから随分と逞しくなったように思うし、福生での東京キューバン・ボーイズとのライブで感じた物足りなさを感じさせない、素晴らしいライブだったと思う。唯一の心残りはベースが違ったことくらいだろうか(笑)

アンコールでは吾妻光良さんとThe Swinging Boppersから数名登場し、「会津磐梯山」を演奏。途中ハプニングもありつつ、素敵な両バンドの演奏を楽しむことが出来た。どのライブでも最後はゲストと共演する。これを見るのも楽しみの一つである。

フレディさんは伊勢丹の紙袋のような、相変わらずのお着物。同じくボーカルのMEGさんは赤くてお綺麗なお着物。ギターの方はルフィの麦わら帽子のようなものを被っていた。私としてはサックスとボンゴ?の方の演奏が好みである。

今年のライブ納めは民謡クルセイダーズになった。果たして来年はどんな素敵なバンドに出会えることやら。

それでは、皆さま、またの機会に。

人の心を浚う人~2018年12月2日 朝練講談会 田辺いちか 一龍斎貞弥~

落ちぶれて袖に涙の降りかかる 人の心の奥ぞ知らるる

 

随分と回り道をしてきました。

 

私の倅になってくれないか

 

行って参ります! 

 

人にやや遅れて歩む君の背の月光陽光決して霞まず

  

朝、7時に目を覚ます。昨日は久方ぶりの民謡クルセイダーズのライブで、頭の中が民謡でいっぱいだったし、ゲストの吾妻光良 & the swinging boppersも最高だったし、帰り際に立川志らべさんを発見したりと、色々と素敵な瞬間に立ち会うことが出来た。

今日は朝練講談会ということもあって、早めに身支度を整えて家を出る。まだ少し肌寒く雨が降りそうな陽気。傘を持っていこうかと思ったが止め、てくてくと散歩をして会場へと到着。

数日前に田辺一邑さんのツイートで、来年の3月に田辺いちかさんの二つ目が決定したという報告もあり、今日はどんな思いでいちかさんが高座に上がるのか、とても楽しみにしていた。恐らく私と同じように多くのお客様が楽しみにしていた様子である。開場前の時刻にはずらずらと列ができており、恐らくは4年間、田辺いちかさんを見守り続けてきたお客様もいるだろう。新参者ながら田辺いちかさんの醸し出す雰囲気に惹かれ、高座を拝見させて頂いている身としては、そんな先達に遅ればせながら綴っていきたいと思う。

着座して周囲をざっと見回すと、やはりご年配の、生粋の講談ファンの方々がいらっしゃるご様子。私のような眠い眼を擦り、体を無理やりに起こさなければ家を出れないような怠け者とは望む姿勢が違う。本気の講談好きの会、開幕である。

 

田辺いちか『生か死か』

登場したと同時に拍手が起こる。表情はとても嬉しそう。いちかさんはいつも、嬉しそうな表情で講談に臨んでいるように私には見える。

その大きな眼は今日も、光り輝いている。凛としてたおやか。素朴ながらも芯の通った声。一言一言が優しくて、温かくて、心地が良い。

前置きをした後で、二ツ目に昇進が決まったというご報告。Twitterで知っていたのだが、改めて本人の口で言葉を発せられると、きゅっと胸が締め付けられて、涙がこみ上げてくる。それからは涙が零れてしまって、断片的にしか覚えていないのだけれど、ネットで調べた情報通りのことを仰られていた。詳しくはこちら

 

 39歳女性講談師。只今、前座修業中。

http://kanto-seikyokai.jp/?p=8917

田辺いちかさんを初めて見たのは、10月21日の朝練講談会。貞橘先生の前に三方ヶ原軍記を抜き読みされていた。初めて見た時から、その眼と語り口、何よりも滲み出てくる優しさに惹かれた。今、これからが最も楽しみな講談師である。

それから私は、田辺いちかさんで『隅田川乗ッ切り』や『湯水の行水』で泣かされてばかりで、いちかさんの講談を聞き続けるとミイラになって干からびるんじゃないかと思うくらいである(おふざけは控えましょう)

どう言い表せば良いか悩んでいるのだが、清流と答えるのが適切な気がする。大原敬子先生のお言葉を借りるとすれば、河というのは、最初、天から雨が降って山に染み込み、いろいろなもので濾過され、初めて綺麗な水になる。いちかさんは、講談の世界に飛び込み、4年という前座修行をいよいよ終えて、来年の3月に二ツ目になる。山に染み込み、ようやく一つの清流になろうとしているのだ。

考えてみると、水というのは最初から綺麗な訳ではない。泥水だったり、不純物が混じっていたり、山登りをしていても、汚い河は幾らでもある。汚い河には汚い河なりの魅力はあるけれど、色々なもので濾過され、街に流れて知れ渡り、やがて一級河川となるまでには、長い年月がかかる。その最初の源流に、今日、朝練講談会にいらっしゃった方々は立ち会ったのである。

そして、田辺いちかさんの決意表明の後、初めて聞く田辺派に伝わるという由緒正しい演目というようなことを言って、『生か死か』というお話を始めた。これも違法かどうか分からないが、Youtubeに田辺凌鶴先生のものがある。是非、聞いて頂きたい。

物語のあらすじは、終戦後、家族を失った天涯孤独な男が、数奇な運命によって再起するというようなお話である。これがまた、怒涛の感動場面の連続で、いちかさんに見られていたら恥ずかしいくらい、目から涙が溢れてしまった。

いちかさんが二ツ目になるということの、強い決意のようなものを、私は演目から感じたのである。今までは先輩方の芸を袖で見て学んでいたが、今度は自分の芸でお客様を呼ばなければならないというようなことを仰られていて、内心私は(大丈夫、きっと皆、あなたの芸に惚れていますよ)と思った。それこそ、二つ目になるということに不安もあるだろう。時には濁流になったり、虫の死骸とか折れた枝が河に流れることだってある。それでも、諦めずに長い年月をかけて、講談の世界に流れ続ければ、必ず立派な利根川級の川になると私は信じている。そう信じている客が一人ここにいるのだ。

冒頭、主人公の男は死のうとするのだが、戦争で特攻隊に入り命を落とした息子、コウタロウにそっくりの青年と電車の中で出会う。この場面で私は泣いている。なんやねん、その最高の出会い、と胸の中で突っ込む。息子そっくりの青年に出会ったとき、男の胸にはどんな思いが沸き起こったのだろうかとか、その青年に銃を向けられた時の心持ちとか考えてしまい、自然と涙が溢れて止まらなかった。

ひょんなことから大金を手にする男だが、賭場で全部賭けて死のうとする。ところが、あれよあれよと金が増えていく。仕方なくその金を持って悩んでいるところに、再びあの、青年がやってくるのである。この辺りで既に私の涙腺ダムが決壊。青年を家に招き入れた後からは、黒部ダムの放流よろしく、温かい涙が流れっぱなし。もはや正常な評が出来るかどうかさえ怪しい。

それから青年が男の倅になるくだりや、その青年が男の息子の後輩だった場面も挟み込まれる。確かヤマセ?ついてこい!のくだりがあるのだが、もういちいち映像が浮かぶし、泣くし、泣くし、泣くしで、もうおじさん困っちゃう。(ふざけないと書いてて泣いちゃう)

最後、男が青年に向かって「おとっつぁんと呼んでくれないか」の言葉、それに答えて「おとっつぁん」と呼ぶ場面。実は青年も戦争で家族を失い、天涯孤独であることが分かる説明も挟み込まれて、私のような純粋無垢な人間(ツッコミどころ)は、もうひたすら「ええ話や、ええ話やでぇ」と泣くしかなかった。

天が命を救ったと言えば聞こえはいいかも知れない。人の縁が男を死なせなかったのだろうか。はたまた、戦争で死んでいった息子、家族たちが、残された天涯孤独の男を救ったのだろうか。物語中、語られることの無い部分に私は思いを馳せた。

天涯孤独の人生を歩むこととなった男と青年が出会い、再び生きていくことを決意する場面は、たとえどれだけ都合良く奇跡が起きたとしても、それらすべてに確かな理屈が存在しているのだということを、いちかさんの声、所作、そして眼、全てが説得力を持って表現されていた。

ふと我に返って考えてみれば、『生か死か』は予定調和のように奇跡が連続で起こる。映画で言えば『東京ゴッドファーザー』並みの奇跡の連続である。でも、そんな奇跡を信じて見たくなるような、そんな語り口と魅力を田辺いちかさんから私は感じた。

これから数多くのお客さんを魅了し、田辺いちかさんにしか出来ない、素敵な講談が生まれるだろうと思う。生きているうちに、可能な限りやりたいと思えた講談で、これからいちかさんが、どんな講談を見せてくれるのか、とても楽しみである。

同時に、講談を知ったばかりの方や、まだ講談に出会っていない方にも、是非一度聞いてもらいたい講談師である。

私の目から涙を零した、最初の講談師になった。

余談だが、笹井宏之という、26歳という若さで夭折した歌人がいる。私は彼の『ひとさらい』、『てんとろり』という短歌集が大好きで、短歌そのものが好きになるきっかけとなった人である。生きていれば、短歌界を代表する人物になったと思われる人がいる。この人が残した短歌の数々を見ていると、私は田辺いちかさんの語りに、笹井宏之さんの短歌のような、人の心を浚う力を持った人だと感じたのである。笹井氏については、詳しい記事があるので、こちらを参照して頂きたい。

 

世界への交信と祈り ―笹井宏之をめぐって― 岸原さや - さやかな岸辺

 

いちかさんはどうして美しく、凛としてたおやかな語りで講談が出来るのか、私は笹井氏の平易な言葉で生み出された短歌を見た時と同じような、どうやってその良さを伝えたら良いか迷ってしまう事態に陥るのである。もちろん、色んな芸人さんを見て、その印象から外れない位置で文章が書けているかは分からない。それでも、あの透き通るような眼差しと、可愛らしくも芯の通った誠実な姿勢を語るとき、私はどうしても言葉に困ってしまうのである。

詰まる所、何が正しいか正しくないかは分からない。それでも、言葉で書き留めておくことで、私は何かを考えてみたいのだと思う。それだけの魅力を持ち、演目を終えると不思議と心が穏やかで、何か不純物を取り除いてくれたような、素敵な講談をいちかさんはやっている。もしも何かに悩んでいる人がいたら、是非聞いて欲しいと切に願うばかりである。

 

一龍斎貞弥『赤穂義士本伝より殿中刃傷~内匠頭切腹

大変申し訳ないのだが、前半はいちかさんの演目に対する号泣を引きずっており、全く頭に入って来なかった。ただ気になったのは目線で、会場にいるお客さんの様子を端から端まで眺めつつ、空気を感じている様子が少しだけ印象に残った。

史実に近い演じ方ということで、東大教授の「忠臣蔵」講義(角川新書)にあるようなことに則った話だと思う。前半は全く覚えていないが、吉良のイジメ理由は上納金みたいなものを浅野が払っていなかったという場面は、史実でどうやらそういうことらしい。また吉良の様子はだいぶ誇張されていると思ったけれども、松の廊下で浅野が斬りかかる場面、それを必死で抑える梶川与惣兵衛という人もまた、数奇な運命を辿る訳である。つくづく思うのだが、忠臣蔵はいろんな演目を聞いてこそ詳しくなってきて、より一層楽しむことが出来る。そういう意味では、落語に比べると少し好きになってからの意志の強さが求められる演芸なのかも知れないと思った。

貞弥さんは声がとにかく良い。美しくて色気もあって声があるなんて、もう反則。次は泣く前に聴きたい素敵な講談師。

 

総括すると、朝から田辺いちかさんに泣かされた会でした。どうも今日は涙腺が緩い日だったようです。

昨日は文菊師匠の『高砂や』、そして民謡クルセイダーズの『アナログ盤リリース・パーティ』と、祝福ムードに包まれていた。その祝福の後で、待ち受けているさらなる試練、幸・不幸。これは人生のどんな瞬間にも言えること。人生に挫折は無い方が良いのかも知れないけれど、挫折した分だけ人間の心というものが分かってくる。

素晴らしい演芸の門出の後で、素晴らしい未来を予感させる講談師、そして先を走る講談師を見れたことにこの上ない感謝。

日本橋亭を出て浅草へと向かう道中、すれ違う人に不思議な目で見られる。ビルに反射した自分の姿を見ていると、まるで失恋して号泣した男みたいになっている。恥ずかしいけど、気持ちがいい。

雨はまだ降らない。私は一路、浅草の木馬亭を目指して歩を進めるのであった。

12月、演芸初めの門出を祝う~2018年12月1日 中野小劇場 古今亭文菊独演会~

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我以外、皆師なり 

 

11月の終わりを、講談で締めくくった翌朝、師走の朝は眠い。赤穂義士達は現代に存在しないが、現代に存在する私のような、おっと、小生のような小粋な人間は、だらだらっと気張ることもなく生きていくしかない。寒いと家から出るのは億劫だし、基本的に熊みたいな生活をしているので冬眠したいし、路上でハゲとハゲが喧嘩して、どちらもケガねぇし。とか冗談を言いつつ、さくっと着替える。

顔を洗って髭を剃って、お決まりのスタイルを整えて家を出る。講談の世界に浸っていた昨日とは打って変わって、平凡な日々。電車に乗れば退屈そうな顔をした紳士が不死身、じゃなくて、しがない様子で鞄を抱えてホームへと消えて行く。英雄達が残した夢の跡を辿って現実に舞い戻ってきたとき、私は何に、その物語を活かせば良いのか。主君や家来と言った身分もなく、忠義やら敵討ちの制度もなく、手をがたがた震わせるわけでもない私が、一体演芸の何を生活に付与していくのか。

既に答えは出ている。演芸は人の心を理解するための、ありとあらゆる人の心を理解するための芸だと私は思っている。人の心を知ることで、日常生活の中で、様々なことに演芸は応用できる。たとえば神崎与五郎の忍耐の精神。目的を達成するためには、恥を捨てプライドを捨て、全ては敵討ちのためにと、酷い仕打ちに耐える精神。一つ秀でた物があり、人情を持っていれば、周りに助けられるということの証明として、石川一夢という講談師の存在。雲田はるこ先生が仰られたように、落語の魅力は「すべての感情を網羅していること」。演芸は「人の心の全てを網羅している」と私は思う。嫌だなと思う人間から、見習いたいと思う人間まで、ありとあらゆる人間が登場する。だから私は常々こう思っていた。

 

真に誠実なる人は、出会った全ての人たちを生涯の恩師とすることのできる者である。

 

些か長い。だが、私はずっと前からそんなことを思っていた。だから、極力誰かを蔑むような発言は避けてきたつもりである。談志師匠には「お前のは、毒がねぇからつまらねぇ」と言われてしまいそうだが、それでも毒なく、書きたいのだ。

 

さて、そんなことを思いながら、文菊師匠の独演会。とある方にはバレたと思っていたのだが、どうやらバレていないらしい。私は結構、もう様々な方をTwitterで存じ上げている訳ですが、根がシャイなので、声かけが出来ませんし、声かけされても困るので、ほどよい距離感でいたい。

 

春風亭きいち『代脈』

春風亭一之輔師匠の一番弟子で、ちょっと調べるときいちさんのお父様のブログが出てきたりする。そんなちょっと変わり種な前座さん。寄席で見れば実力もあるし、声にも張りがある。昨日今日の前座に比べたら既に二つ目クラス。だけども、私はどうしても一之輔師匠の物真似であるように感じられてしまって、きいちさんがどういう人物なのかということが見えて来ない。多分、以前にも書いたような気がする。きっと真面目なのだが、一之輔師匠の間と言葉を受け継いでいるし、その後光でウケている感が見え隠れしてしまう。だったら一之輔師匠で聴きたいと私はどうしても思ってしまうのだ。守破離という言葉にもあるように、今は師匠の教えを忠実に守っている落語家さんだと思う。これからどう破っていくか。そのとき、どんな風に変わっていくのか。楽しみな落語家さんである。ご常連さんにもウケていました。

 

古今亭文菊高砂や』

12月の演芸初めは文菊師匠で始めたかった。たまたま朝早かったというのもあるし、やはり自分の演芸評の大きな指針として、文菊師匠は存在しているのだ。

ひたすらに古典落語を守り続けている文菊師匠。改編や現代の感覚を入れ込む落語家さん達が続々と現れる中で、金太郎飴のようにどこを切っても古典落語の文菊師匠。常に想像を超えた江戸の風と、江戸時代からタイムスリップしてきたんじゃないかという佇まい。煌びやかな目元、粋な張りのある声、緻密かつ落ち着いた言葉選びと間。全てが落語のハイ・スタンダード。私にとって文菊師匠は、落語から江戸の空気感を取り出すために、長い年月を掛けて挑んでいる凄まじい意志を持った落語家さんなのである。

マクラで『我以外、皆師なり』という言葉を聞いたとき、私は同じ思いを文菊師匠も持っていたんだと思った。どんな人間であっても、その人と同じ人生を歩むことは私には出来ない。私には私だけが歩むことが出来る人生があるように、他の人には他の人にしか歩むことの出来ない人生がある。だからこそ、私は私以外の人を師として、様々なことを受け取っていかなければならない。と、冒頭に記した『生涯の恩師とする者』という言葉と重なって、私はただ一人、感動していた。後で調べたところ、宮本武蔵を書いた吉川英治先生の言葉であるらしい。吉川英治先生と古今亭文菊師匠と同じ思いでいられたということが、私には幸福で仕方がない。

今日はありとあらゆることが、祝福されるべき日だったのだと思う。結果的に私はそう思った。なぜなら、12月最初の演目が『高砂や』だったのだから。

私は音源でしか文菊師匠の二つ目時代を知ることは出来ない。今日の一席『高砂や』は、二つ目時代の音源とは比べ物にならないほど、掛け合いをする二人に深みが現れている。特に隠居のトーンは落ち着いているし、何よりもリズムが緩やかである。白眉は隠居が『高砂や』を教える場面。私としては拍手を送りたかったのだが、会場はなぜかあまり沸き立っていない。仕方なく一人でぱちぱちと叩く。菊六時代の音声だと、まだ声質とリズムが覚えたてで、真に二人の性格が立ち上がって来なかった印象だったけれど、真打になって聴いた『高砂や』には、わざとらしさを一切感じなかった。ちょっとわざとやっていると感じられる菊六時代の八っつぁんの演じ方も、演歌を心得ているという演出が挟み込まれることで、それなりに歌は上手いのだけれど、祝言の謡となるとからっきしだという部分に説得力が増した。隠居の言葉にも単に否定だけではなく、懐の深さが現れていて、二つを聞き比べたらその違いがはっきりと分かるくらいに違う。今日の『高砂や』を聞いた後で菊六時代の『高砂や』を聞いて、私はそう感じた。

演芸の魅力の一つとして、好きな落語家の成長を一緒に楽しむということがある。既に真打になってしまった方でも、ネタ卸しの会に行けばそれを味わうことも出来る。その成長を感じた時、胸に迫ってくる感動は計り知れない。これは是非、味わってほしい。

ここ最近の文菊師匠の話には、どっしりとした重みが付加されてきたように思う。どこか軽さ、溌溂さが感じられた去年と比べると、また一つリズム、声、間。全てが一段階、緩やかに、低く、緻密になって来たように私は感じる。もちろん、一日一日、様々な要因で芸は変わってくるけれども、朝の10時の穏やかな、少しぼやっとした空気の中で、気持ち良く響く文菊師匠のお声は、祝言を謡いながらもどこか失敗してしまう可愛らしさと相まって、素敵にほっこり温かい一席になったところで仲入り。

 

古今亭文菊『火焔太鼓』

道具屋のマクラ、目で語る姿が面白い。売る者と買う者の駆け引きを語りつつ、演目は『火焔太鼓』。以前、渋谷らくごのトリで見た時に比べると、時間帯もあってかリズムは緩やかに感じられた。会場も常連さんばかりだから温かい空気。何と言っても文菊師匠の突出した女将さんの演じ方、これに尽きるだろうと思う。夫婦の関係性がはっきりしてくるなかで、終始周りの人たちに翻弄されっぱなしの甚兵衛さん。人が良い甚兵衛さんに火焔太鼓を売った道具屋が、私は粋な人間だなぁと思う。真っすぐで正直だけども抜けていて、女将さんに頭の上がらない甚兵衛さんが、道具屋の心意気に救われながらも、様々なことに巻き込まれ、最後はハッピーエンドの物語。

表情で風景を見せて行く演出も素晴らしいし、何よりもあまり奥さんに信頼されていない甚兵衛さんの可哀そうな境遇に共感する。正直者が馬鹿を見ない、良い話なのである。人間の心の機微が見事に現れているのが、私は『火焔太鼓』だと思っている。

また、『火焔太鼓』は古今亭を語る上で欠かせない演目である。元は小噺であったものを三遊亭遊三が膨らませ、それを聞き覚えた5代目古今亭志ん生が練り上げた一席である。

文菊師匠の甚兵衛さんには、奥さんに頭の上がらないことを自覚している部分がある。志ん生師匠の時代だと、恐らくは男尊女卑の名残りがまだ微かにあって、どちらかと言えば甚兵衛さんが奥さんに腹を立てている部分が回収されないままなのだが、文菊師匠は甚兵衛さんが女房に腹立つのだが、結局女房には敵わないのだと自覚する部分がある。特に太鼓を持って家を出る場面。志ん生師匠は「叩きだしてやる、あのアマ!」でお屋敷へと到着するが、文菊師匠は「なんだちくしょう、カカアの野郎。言ってやるんだ、こんちくしょう、てめぇこの野郎って言ってやる!そんでもって、最後にはすいませんって言ってやる!」というようなことを追加していて、細かい部分なんだけども、時代の変化に見事に対応した一言だと私は思っている。

今はYoutubeで不正なのか不正じゃないか分からないが、文菊師匠と志ん生師匠で『火焔太鼓』の聞き比べが出来る。どちらが好みか、是非聞き比べてほしい。

何度か同じ高座を見ないと、その微妙な言葉の選び方の違いを感じることは出来ないと思う。何分、朝となるとそこまで真剣には聴いていないというのも本音である。けれども、しっかりと微修正というか、自分の中でベストの言葉を探してきている文菊師匠の意志を少し感じることが出来た。

志ん生師匠とも志ん朝師匠とも違う、文菊師匠独自の『火焔太鼓』。特に奥さんの演じ方が他の追随を許さない出来。そして目線で風景を語る所作。決してCDには映って来ない部分にも、文菊師匠の魅力が詰まっている。これは是非、刮目して頂きたい。

 

総括すると、12月の演芸初め。とても有意義な会だった。文菊師匠の高座を拝見することが、様々な落語家さんを見て行く中で、一つの指針になっていることは間違いない。古典落語の中心に文菊師匠を据えると、柳家小三治師匠からごはんつぶさんまで、色んな人の芸の違いをはっきりと感じることが出来る。私にとって文菊師匠は江戸落語の標準である。その文菊師匠とトレーサビリティを取っているのが、春風亭朝七さんだと私は思っている。今、この二人を見ることが落語そのものの標準を作る上で、初心者の方にも一番の手助けになってくれるはずである。さらには、朝七さんはまだ前座さんなので、これから御贔屓にすれば、ますます落語の世界の理解は膨らんでいくだろう。ベテランの方にも、初心者の方にも、この二人、是非見て感じて頂きたい。

 

そんなわけで、本日はここまで。

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兵どもの夢の跡、後~2018年11月30日 新宿末廣亭 夜席~

いいんです!話芸ですから!

 

6席目になるとね

 

松之丞さまさま

 

皆様に「待ってました!」と言われる。これは非常に嬉しいことです。

私の『生きがい』ですな 

 

手っ取り早く飯を食って末広亭。昼席から聞き続けて体力と集中力を失ったご高齢の方々が帰るのを見計らって入場。相変わらず寿輔師匠は派手な着物で、人情噺。浅草演芸ホールに出た時とか、やたら客席をいじる芸に定評がある。人情味のある人は何をやっても上手いな。と途中から聞きつつ着座。

着座して耳を傾けていると、Twitter界隈でお知り合いになった方同士の交流がある様子。よし、私はまだバレていないぞ、と思いつつ高座を待つ。大入り満員で会場は温かい空気。凄いな、去年では考えられなかった熱気である。

全員を評していると膨大になるので、今回は私的ダイジェストで。

 

神田松麿呂『井伊直人

坊主頭で目元がキリリ。眉はびしっと。声質はまだ出来上がっていない感じ。初めて見たが、物凄い良い。活き活きとしているし、勢いがあって伸び伸びとしていて、見るからに気持ちがいい印象。張り扇の威勢、表情の機微も、まるで役者のような振る舞い。語りを聴かせるというよりも、今はまだ勢いで勝負している感じ。でも、全然悪くない。むしろ良い。ちょっと語りは巻き舌っぽいところはあったし、どちらかと言えば『勢いのある落語感』はあったけれど、まだまだこれから。可能性に満ち溢れた一席。これからどんな講談師になっていくのか、めちゃくちゃ楽しみ。

 

桂伸べえ『熊の皮』

安心安定の伸べえさん。でも、寄席になるとやっぱり緊張しているんだなぁ。というのが伝わってくる。おそらくちょっとアクシデントはあったけれど、そこは天性の語り口で爆笑を誘っていたから良し。

そうそう、松麿呂さんの演目中、「そういえば、この後、伸べえさんが出るのかぁ」とちょっと緊張。この元気溌剌、勢いマシマシの後で、どんな風に空気を変えるんだろうと思っていたのだが、そこはもう抜群の間と声のトーン、一瞬で会場を引き込む。普通にやってもあれだけウケる滑稽話が出来るのだから、唯一無二の才能を持っていると私は思う。会場、大爆笑だったし。

 

神田鯉栄『任侠流山動物園』

舞台袖からちらっと見えたのだが、鯉栄先生が松麿呂さんにそっと触れ「開口良かったよ!」と声を掛けていて、凄く嬉しそうな表情をした松麿呂さんの姿が見えた。多分に私の想像補正もあるかも知れないが、そんな場面を見た時に物凄く嬉しいというか、気持ちが高ぶった。そうだ、講談界も若き担い手たちを鼓舞しているのだ。というのが、舞台袖から見えた。見えたということは、私はそのくらいの位置に座っていたのだが、あそこはやっぱり良い席だと思う。舞台袖の様子が見える位置って、見えない位置よりは得じゃないかな。

さて、そんな鯉栄先生。もう怒涛の勢いで会場を爆笑の渦に巻き込む。新山真理さんの漫談の後で、畳み掛けるような三遊亭白鳥師匠作・『任侠流山動物園』の一席。疾風怒濤という言葉がぴったりの、勢いと確かな技術に支えられた、ランボルギーニに乗ってルート66を爆走するような、熱くてスピード感のある高座。あと何分、あと何分と随所で残り時間を言うのは、海外ドラマ『24』ばりの緊張感。物語が最高潮に高まったところで「お時間が来たようです!」との鮮やかな幕引き。

阿久鯉先生とはまた違った、高級車のスピード感。つくづく恐ろしい神田松鯉一門。阿久鯉先生は戦車、鯉栄先生はランボルギーニ、松之丞さんはハーレー・ダビッドソン。松鯉先生はインパラ、と勝手に車に例える訳だが、物凄い一席。笑いをむしり取っていくかのような迫力の一席を堪能。

 

仲入りに入って、ぞろぞろとお客席も埋まる。二階席もびっしり。松之丞さんの登場を前に、期待感と緊張感で高まっていく客席。

 

神田松之丞『和田平助 鉄砲斬り』

舞台袖でぐっと飲み物を飲む松之丞さん。気合い入ったなぁ。と思いながら見ていた。

登場と同時に、4人以上からの「待ってました!」はあったんじゃないかと思う。聴き慣れた松之嬢様の「待ってました!」も、もちろんございました。

ところがどっこい、いろいろとペースが乱れる客席のハプニングもありつつ、松之丞さんは一列目を味方に付け、話題は故・国本武春先生と沢村豊子師匠。7人のインド人から演目は『和田平助』。テレビではお馴染みの演目だが、今回は鉄砲斬りまで、とレアな一席。途中、客席の合いの手はあったが、まぁ、目を瞑ってあげましょう。ということで、若干、この後が心配になったけれども、圧巻の汗の量で熱演。

思えば、連雀亭の『甕割試合』の時も、とにかく一高座、一高座で尋常じゃない汗を流して熱演。会場もグイグイと引き込まれ、張り扇もパンパンっと鳴り、ド迫力の一席だった。最後はお決まりの「お時間でございます」というところで幕引き。

19時台からは客席の集中力と協調性が問われる会だなあ。と思いつつも、お次はこの方。

 

桂幸丸『漫談』

客席から「待ってました!」の声。ちょっと驚いた様子の幸丸師匠。うっかり隙を見せてお客から話しかけられたところで拍手。あの拍手にはどんな意味があったのだろうか。会場全体が幸丸師匠を歓迎するムード。前回見た時よりも気迫を感じた。もうすっかり幸丸師匠が好きになっている。鮮やかな松之丞フィーバーの後で、安定して空気を保ちながら、別の方向へと繋げる幸丸師匠。ブログも素晴らしいので、是非見て頂きたい。

 

桂歌春師匠、うめ吉さんの後で、いよいよ大トリ。

 

神田松鯉『荒川十太夫

登場してくるなり、万感の拍手。そして「待ってました!」の声。会場全体が松之丞の師匠であるということを知っている。講談師として、一人の人間として、言葉を噛み締めるように「生きがい」という言葉を口にされたとき、私は松鯉先生の心に込み上げる喜びのようなもの感じた。笑顔を零さずにはいられない様子。自らの弟子である鯉栄先生に触れながら、話題は赤穂義士。丁寧にご説明をされて、赤穂義士外伝・荒川十太夫へ。

前半は少しミステリー仕立て。後半は哀切極まる。特に白眉なのは堀部安兵衛が十太夫に名と役職を尋ねる場面と、そこで嘘をついてしまう十太夫の心。切腹介錯を務める十太夫の、英雄たちを慮ってついてしまった嘘。その嘘に苛まれながら、衣類を拵え身分を偽り泉岳寺へと行く十太夫。英雄の最後を見た者の哀切が心に染みる。

また、堀部安兵衛は十太夫のことをどう思っていたのだろうか。私は安兵衛は十太夫の言葉を信じたと思う。

というのは、死の間際、それを確かめる術は安兵衛には無い。けれど、安兵衛がそれを聞くということは、安兵衛にも何か考えがあったのだと思う。私が思うに、少しでも誇りを持ちたかったのではないか。真偽など関係なく、ただ高名な者に介錯をされたのだということを、言葉だけでも聞きたかったのではないだろうか。それが武士の最後の誇りの証明として、また黄泉での語り草として、手土産代わりの誇りとして。十太夫を信じ、自害したのではないだろうか。

無粋だとは思いながら、そんなことを書かせて頂く。本当に大事なことは語られないのが、講談の余白の魅力だと私は思うので、一つの意見としてお読み頂けると幸いです。

 

これまでの9日間。費やされてきた赤穂義士の面々への講談。まさしく兵(つわもの)どもの夢の跡を追ってきた講談の後、それから先に待っていた物語が千秋楽に来るということの運命。この時、この瞬間、この場所にしか存在しない奇跡を私ははっきりと見た。

神田松鯉先生の、一語一語を岩に刻み込むかのような語り口。そして、真剣そのものである眼。幾多の兵どもの夢の跡である物語を語り続け、忠義に厚い義士の面々を後世へと語り継いで来た者が見る今とは、一体どんなものなのであろうか。講談の未来を担う若手を後ろに見て、長きに渡って語り続けてきた赤穂義士の面々の生き様を語りながら、どのような思いが松鯉先生の胸に沸き起こっているのだろうか。そして、どんな光景が松鯉先生の先に広がっているのだろうか。

赤穂義士の面々が忠義の下、自害した後で、その後に残された者達が受け継いできたものは計り知れない。それほどに吉良邸への討ち入り。主君の忠義を果たすための仇討ちというのは、大儀だったのだろうと思う。

阿久鯉先生の気迫、鯉栄先生の気迫、松之丞さんの気迫、その源流に当たる神田松鯉先生の気迫。決して派手ではないが、静かに静かに染み渡るような口跡。最後の100日の謹慎の後、物頭役に取り立てられると聞かされ、涙を流して頭を垂れる荒川十太夫の姿。そして源左衛門の心意気に胸が締め付けられる。人の誇りと人情。その全てが見事に渾然一体となった素敵な一席。満面の笑みで高座を終えた松鯉先生に万感の拍手。10日間。本当に素晴らしい高座をありがとうございました。

 

さて、11月下旬の忠臣蔵ウィークも終わり、いよいよ12月。

私の12月初めの演芸はどうなることやら。

皆様の素敵な演芸との出会いを願って、私もより一層、良い記事を書けるように。

祈りながら、祈りながら。

それではまた次回。

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百花繚乱の花便り~2018年11月30日 新鋭女流花便り寄席~

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携帯の電源は切った?

 

私の出番が終わりますと、皆様晴れて無罪放免でございます。

  

11月30日。朝8時30分。我家にいて、私は『東京かわら版』を手に、悩んでいた。午前11時30分に連雀亭で玉川太福さん、午前12時よりお江戸上野広小路亭にて『新鋭女流花便り寄席』で一龍斎貞寿先生と神田阿久鯉先生。かたや500円、かたや2000円である。ううむ、ここは眉目麗しき女性に目が無い男児として、太福さんには申し訳ないが、広小路亭に行こうと決意。明日の太福さんの独演会にも行けぬので、二重で『太福ロス』な訳だが、講談の、特に貞寿先生と阿久鯉先生の二大巨頭には男として敵わない。行くしかないと決意し、ぶらぶらと散歩をしながら行く。

会場に到着すると、平日の昼間だというのに大行列。そして年齢層が高い!私のような新参者は浮くわ浮くわ。列に並んだだけでじろじろと見られる始末。若い人達が平日の昼間から寄席を楽しめる、そんな幸せな社会が来ないかな、と切に願うばかりである。

そうそう。落語・講談・浪曲のような日本の演芸は、お金と時間を持て余した老紳士、ご婦人の嗜む物だと思われている。事実、多くの20代~30代は働き盛りで、お金はあっても時間が無い人が殆どであるというのが、私の体感である。だから、たまの平日に休みを頂いて、普段行く機会の無かった寄席に行くと、客席の年齢層が高いというのは当たり前のことなのである。サラリーマン生活を引退し、老後は悠々自適に暮らそうではないかというご高齢な方々が、そういえば今、落語や講談が面白いらしいぞ、ということで昼席に集まってくる。反対に、忙しい合間を縫って時間を作る演芸好きな若い世代は、夜席、特に19時以降にどっと押し寄せてくる。というのが、私の今のところの体感としてある。

仮に真に演芸を第一とする人間は、22時~翌朝5時まで7時間働き、7時間睡眠の後、午前12時~21時まで9時間、仮眠を取りつつ演芸を楽しみ、1時間小休止するというような、そんな生活リズムになるだろうか。

例えば水曜日が休みになれば、もっと演芸を楽しむことの出来る人も増えるのではないかと思う。あくまでも理想だが、月火働き、水休み、木金働き、土日休むというのが、素敵な生活のリズムではないだろうか。もちろん、全部休みというのもアリだが、収入と支出のバランスは大切にしたいものである。

 

さて、話を寄席に戻そう。会場に入ると圧倒的に60代~70代の層で埋め尽くされた会場。お喋り祭りと携帯のなる空気がプンプンしながらも着座。こういう時は「別の時代に来たのだ」と思って諦めることにしている。定刻になって開口一番が登場。

全部語ると切りがないので、貞寿先生と阿久鯉先生以外は申し訳ないがさらりと。

 

三遊亭遊七『初天神

能面のような切れ長の目とお顔立ち。知的な感じのする前座さん。子供の小噺から演目は『初天神』。前座さんらしいテンポ。言葉数少なく、とんとんと進んでいく。二つ目さんや真打さんの『初天神』では、登場人物の心の機微。特に、息子が父親に初天神へ連れていけという気持ちと、息子を連れて行きたくない父親の気持ちと、息子を夫に連れていかせたい妻の気持ち。この三者三様の気持ちのぶつかりあいが重要だったのだということに気づかされる。案外、さらりとそこを流すというか、言葉が費やされていない印象を受けたので、より自分が何を面白いと思っていたかがはっきりした一席。

 

田辺凌天『塙 団右衛門 加藤左馬之助との出会い』

きりりとしたお顔立ちと風格。ふくふくと語られる様は勇ましい。塙 団右衛門の意固地さが面白かった。

 

神田こなぎ『寛永宮本武蔵伝より吉岡治太夫

朝練講談会の神田紅純さんで聞いて以来の話。紅純さんではコミカルさが押し出されていたように感じられたが、こなぎさんの語りはしみじみと。他流試合を禁止されていたが、賑わっている道場を見ているうちに、その道場の門弟たちと他流試合をすることになり、圧勝していく吉岡治太夫の唯一の弟子、清十郎。とうとう道場の師匠、卜部藤蔵が出てきて試合をし、「参った!」と言っても傷つけられて血を流す清十郎。その清十郎の元へやってきた吉岡治太夫が、敵討ちを決意する場面。この辺りの表現の仕方が、私はこなぎさんの方が好みである。師弟の絆、弟子がやられて放っておけない吉岡治太夫の心意気を感じつつ、吉岡治太夫は卜部藤蔵を打ち負かす。どうにも私は『敵討ちモノ』に弱いようである。『弱きを助け強きを挫く』というテンプレートに心がうるうるしてしまう質であるらしい。こなぎさんは『鉢かづき』もしっとりとした語り口で、この穏やかでしっとりとした語り口がこなぎさんの持ち味なのかも知れないな、と思った。最後の良い場面で客席からのハプニングはあったけれど、どっしりと動じない姿は素晴らしかった。

 

わがし『腹話術漫談』

お初の方。腹話術と言いながら、めちゃくちゃ唇動いてるやんけ!と心の中でツッコミつつ聞く。右手にはカラスのキラちゃん。わがしさんの左手が隠れると瞬きをするらしい。とてもふわふわしたカラスで日本語を喋る。わがしさんに声が似ている。わがしさん自作の指人形「わがし」も、わがしさんにそっくりの声で喋る。昔使っていた想像力を抽斗から出して使ったというような一席。え?キラちゃんが人形ですって?そんなバカなぁ。

 

一龍斎貞寿『石川一夢」

やってきました貞寿先生。出てくるなりお綺麗だし、美しいし、広辞苑に載っているありとあらゆる美しさを表す単語を、全部当てはめても足りないくらいのお姿で、颯爽と着座。お声も琴?ハープ?川のせせらぎ?と思うような、これまた可愛さが余り過ぎて憎さを圧し潰し、ただ「あ、好き・・・」という感情にさせてしまう魅惑の講談師。そんな貞寿先生が語り始めると、私のような好男子(?)はあれよあれよと引きずり込まれる。夏木マリの誘惑の指使いばりの語りに惹き込まれる。途中、ハプニングがあったが、若人が助けたご様子。貞寿先生、何もあなたの講談を邪魔するものはありませんよ!と心の中で叫びつつ、心中のマクラから演目は『石川一夢』。

 これがまた、良いんだぁ!!!

と、思わず大文字にしてお伝えしたいくらいに、素晴らしい一席。

まず、何より噺の筋が素晴らしい。実在した世話好きな講釈師、石川一夢が、川へ身を投げて心中する男女を助ける。助けた男は一夢が嫌がらせを受けていた笹川五岳という同じく講談師の先輩の男の倅。心中の理由を聞くと酒と博打に溺れて借金をし、遂には店の10両に手を出して返すことが出来ないからとのこと。困った一夢。だがここで一夢。「私が立派な講釈師に成れたのも五岳先生がいたからこそ」と思い、恩師への恩返しのため、倅に10両を工面する。なんと、一夢は自身の十八番の演目『佐倉義民伝』の本を質に出すのだ。この辺りの覚悟、一夢の心意気に胸を打たれる。良い人だぁ。立派な人だぁ。と、命の為に自らの十八番の演目を捨てるという覚悟にあっぱれ感涙。

十八番の『佐倉義民伝』の講釈本を質に入れた一夢。当然のように講釈場に行っても本が無ければ演目が出来ない。遂には客席から「一夢先生よう。『佐倉義民伝』が聞きたいんだ!」と言われる。そこで一夢は『佐倉義民伝』の講釈本を質に入れたことを観客に言う。すると、「なんだよ、そんなことなら早く言ってくれよ!」とばかりに、客席から小銭が集まって、あっというまに10両が貯まり、客席から「これで『佐倉義民伝』を買い戻して来い!」と言われ、買い戻す一夢。その話が評判になって、ますます人気を高め、名人と呼ばれて後世に語り継がれるようになった石川一夢。

このあらすじだけで、感動せずにはいられないのだが、講釈本を売った一夢の姿や、佐倉義民伝を買い戻して来いという客の心意気。その全てが貞寿先生のお優しく美しい声。そして美しい川の流れのような口跡によって、訥々と温かく胸に響いてきて、もう目頭2:50分は熱くなり、黒タイツは拳で突き上がってしまった(この表現は駄文)

感じたのは石川一夢先生に対する貞寿先生の愛である。いつ如何なる時も、人情を持ち、優れた芸を持つ者は、温かい観客の支えによって成り立っている。まさに『人情は人を救い、芸は身を助ける』の一席。これが聞けただけでも、今日一日の感動はあったなと思ったのだが、この後に阿久鯉先生が控えている。貞寿先生が鮮やかで華やかで、その美しさに感嘆する芸だとすれば、阿久鯉先生は、私が最初に見た時から勇ましく、重厚な芸の講談師。物凄い後半への期待が高まりつつ、仲入り。

もう一回だけ、太文字で表現させてください。

 貞寿先生、最高です!!!

 

仲入り中の出来事を記そうかと思ったけど、止めておきましょう。

 

玉川ぶん福『瓜生岩子物語』

仲入り後は浪曲。ここで三扇達成。日本のナイチンゲールと呼ばれた瓜生岩子のお話。特に身なりが汚いから賞を断る場面での節が染みた。関東節にはお馴染み玉川太福さんがいるが、その師匠、故・二代目玉川福太郎のお弟子さん。表に出ていた写真と実物を比べると、あの、その、パネマジ感はありましたが、お見事な一席。でも、ちょっと物語が私にはわかりづらかった。

 

ナッキィ『大阪漫談』

登場と同時に音楽に合わせて奇声を発する。おっと、キワモノ系の方かなと思いきや、音楽が終わると正統派な大阪関連の漫談。高齢層にバカ受け。奇抜な恰好だったけど、きっと演芸以外の時は質素な服を着ているんじゃないかなと思う。寄席にいたハプニングに最後は話題を奪われつつ、見事な切り替えしで去っていく。

 

神田阿久鯉天保六花撰より河内山と上州屋~松江候玄関先』

はい、再び太字の大文字で書かせてください。

 阿久鯉先生、カックイイ!!!!

登場と同時に大迫力の声。まるで巨剣で会場をバッサリ斬ったかのような勇ましい声と音量。登場から気迫で会場を一気に圧し潰し、平日の昼間で集中力が切れつつある、ぼけっとした会場に一気に集中力と緊張が満ちる。あ、これは凄い芸になるぞ、という予感のまま、話題は待ってました『天保六花撰』。先週の貞橘会で貞橘先生の『河内山と直侍の出会い』を聞いていたので、めちゃくちゃ嬉しい。おまけに全26話のうち、1話と2話をやるというので、もう心の中は『歓喜エレクトリカルパレード』。

もう一言一言が痺れるリズム、そして気迫のトーン。ボディブローのような言葉の連続。そして何よりもリズムが物凄い良い。ああ、ヤバイ。恰好良すぎる。と終始痺れっぱなしで、もはやノリにノッた溢れ出る気迫の講談。これが文字で伝えられるかどうか分からないが、目の前で極太で長い角材を畳み掛けるように、どすんっ、どすんっと積み上げて行く感じと言えば良いのだろうか。それが最後、一気に燃え上がるのだから、キャンプファイヤーをやっていたら、地球全域を照らしていたというような、さながらアースファイヤー、いやいや、アース・ウインド・アンド・ファイヤーである(意味不明)

あらすじとしては、博打で金を使い果たしたお数寄屋坊主の河内山宗俊。50両の金を借りるために上州屋という質屋に、自分の家の表札を出す。番頭に断られるが、言葉と悪知恵を働かせて50両の大金を頂こうとしたところで、主が引き留める。話を聞くと、娘が松江家の妾を断って幽閉されているとのこと。ここで悪党の河内山宗俊、『手付に100両、救い出せば100両。しめて200両を頂こう』という訳で、娘を助け出すことを約束する。この辺り、悪党でありながら憎めない感じ。貞橘先生の第三話を聞いていたせいか、悪党でありながら、情に厚い河内山宗俊像が出来上がっていたため、この辺りの語り口も憎めない。むしろ、情に厚い悪党として肩を持ちたくなる。今なら片岡直次郎の気持ちも分からないでもない。

ここまでが『河内山と上州屋』。すなわち天保六花撰の第一話である。もうこれだけで、阿久鯉先生の重厚かつ気迫の芸に吹っ飛ばされているわけであるが、さらに白眉はお次の第二話『松江候玄関先』である。

娘を救い出すため、上野寛永寺の高僧、道海として松江家にやってきた河内山宗俊。大胆不敵でありながら、その策略にまんまと引っかかる松江出雲守。この辺りのやりとり、松江出雲守の間抜けさも、阿久鯉先生の語り口で是非聴いて欲しい。脂が乗っていて、もはや向かうところ敵なしの重厚な戦車に乗っているかのような心持ち。

見事、娘を救い出した河内山。意気揚々と帰ろうと、松江候の玄関先から出ようとしたところで、遅れて河内山であることに気づいた北村大善が槍を持って出会う場面。緊張感たっぷり。もう唾を飲み込むことさえ忘れてしまうほど。ここでの大善と河内山の迫力の言い合い。特に河内山の啖呵。もうね、本日四度目。

 カックいいぜ!河内山宗俊!!!

これは是非聞いて頂きたい。語りのテンポ、啖呵の威勢、阿久鯉先生のドスの効いた声とトーン。もう全てが天保六花撰を語るために費やされている。松鯉先生の天保六花撰も渋くていいのだが、今、気迫と、重厚さで効くものをガツンっと痺れさせてくれるのは、阿久鯉先生だろう。もはや十八番と言って良いのではないだろうか。

貞橘先生にも、松鯉先生にも、松之丞さんにも無い。唯一無二の阿久鯉先生の『天保六花撰』。こりゃお弟子が二人いるのも納得の実力。

もう後に残った感想は、阿久鯉先生がカッコ良過ぎて惚れるという一言に尽きる。それくらいに凄い。マイク・タイソンのパンチばりの破壊力。もうボクシングで言ったら超ヘビー級の講談。凄まじかった。あまりにも凄まじかったので、Twitterでちょっと乱れた。

 

何はともあれ、総括すると、貞寿先生の流麗さ、阿久鯉先生の重厚さのダブルパンチで講談にノックアウトされた寄席でございました。

平日の昼間にやっているにしては、とんでもない気迫。終演後に誰もが口をそろえて「阿久鯉先生、名人芸だねぇ」と言う事態。凄いよ、本当に凄いよ。

そんな思いに打ちのめされながらも、貪欲にも新宿末廣亭に向かう私であった。

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落語版 炎の鉄人~2018年11月25日 拝鈍亭 柳家三三~

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落語は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!

 

ねぇ、凄く気が散ってるでしょ

 

茶菓子がひゅー

 

何!?義太夫!? 

 

三度寝による朝練講談会見逃しを悔やみながら、午後はたらたらと飯を食ったり、本を読んだり、絵の練習をしたり、寝たりしながら過ごす。今、末廣亭は空前の松之丞フィーバーが起こっている。Twitterを見ていても大勢のお客様が押しかけている様子。もはや半狂乱の事態、というわけでもなく、そこは寄席だから落ち着いている。どこに行こうかなと考えつつ、ぺらぺらと『東京かわら版」を捲る。貞橘先生と東家一太郎さんの会とか行ってみたいな、あ、黒門亭は百栄師匠がトリか、などと見ていると、拝鈍亭に柳家三三師匠の文字。今日はこれに決めた!と思い立ち、定刻までぶらぶらと過ごす。

拝鈍亭には以前、文菊師匠がご出演される時に行ったことがある。その時は『死神』と『宿屋の仇討ち』だった。厳かな雰囲気で、特に屏風が素晴らしい。見晴らしの良い山の上で落語を聞いているかのような、爽快な絵が描かれている。柱にはハイドンに似た絵が掛かっている。音楽会や浪曲をここでやったら良いんじゃないかと思うほど、とても素敵な会場である。縁があれば是非、講談と浪曲の夕べも聞かせて頂きたい。

会場に入ると、圧倒的なご婦人方の数。八割ほどが50代~60代の女性。83人ほどのキャパがこれでもかっ!とびっしり入って、壇上の端に三名ほどお客様が座る事態。人生、二度目の『壇上に客があがる』状況を目にすることが出来た。

常連の姿もちらほらと見える。全体的に客層に漂う三三師匠を待ちわびている空気が半端ではない。定刻の17時になると、割れんばかりの拍手に迎えられて、柳家三三師匠が登場。

 

柳家三三茶の湯

出てくるなり早速壇上脇のお客様に挨拶。これで会場爆笑。松之丞さんの時は「横にいるとね、修羅場とかで人を斬った時に、目が合っちゃうでしょ」みたいなことを仰られていて、三三師匠は何て言うのかと思っていると、「私ね、横顔に自信があるんですよ」、「特にね、ちょっと後頭部の辺りから見るとね、最高ですよ」と横にいるお客様に対するお言葉で笑いを誘う。横顔に自信があると言われると、ちょっと見て見たくなる。素敵なフォローで会場の様子を探りながらマクラを進める。

青いジャンパーを着たお子様の咳を拾って「お子さんの風邪も心配でね」と言いながら、ぐっとお客さんとの距離を縮めてくる辺りに、寄席IQの高さを感じさせる。初めての会場で、どういう場かも分からない場所で、登場からものの数分で会場全体をぐっと引き寄せて、笑いを起こす三三師匠。マクラの感じから私は会場の空気感が、温かくて笑いが起こりやすい環境だと思った。ご婦人方が多いせいか、笑いも大きくて持続する。後列には紳士もいたが、何よりもご婦人方の笑いの質が高い。こういう会場は爆笑必死だ、真剣なネタより笑いの多いネタが来るかな、と思っているところで『茶の湯』に入った。下手をすればダレがちな大ネタを、ぐいぐいと引き込んでいく三三師匠の語り口。情熱大陸で見た時はそれほど感じなかったのだが、低音が効いていて口跡が良い。柳家直系の泥臭さの中に温かみのある語りとテンポ。一瞬にして長屋のある世界へと連れて行く話芸。江戸の庶民の風をじんわりと吹かせながら、茶法のさの字も知らない隠居と、それに付き合わされる定吉の姿が面白可笑しい。随所に言葉の説明を挟んだり、時事ネタを挟みながら、会場の客の集中力を落とさずに話を進めて行く。『茶の湯』のようなネタになると、お客さんの集中力も試される。隠居と定吉の会話から、長屋のみんなに『茶の湯の会』の手紙を出すくだりがあって、今度は豆腐屋と鳶頭、手習いの先生へと話が繋がっていく。この辺りも同じ内容が繰り替えされて凡庸になりがちなところを、登場人物の声色と風景描写で見事に描き切っていく。この辺りのテンポ、そして間、声のトーン。どこかコミカルに描かれていながら、きちっ、きちっと話が展開していく感じが、表立って分かりやすい形での凄みではなく、静かに目立たない凄みがあって、会場の熱気をぐっぐっと上げて行く感じが三三師匠の凄さだと感じた。

決して気取った口調でもなければ、筋を追うだけの話をするわけでもない。マクラから連綿と続く、その場その場で適切な言葉と間を選択して、即興性のある雰囲気を醸し出す辺りが、また格別な力だと私は思った。同じ話をやっても、どこかに嘘くささや、覚えているものをやっている感が感じられる芸人もいるが、三三師匠にはそれが無い。テレビで最初に見た時は、妙に生真面目で知性が邪魔になる噺家さんかと思っていたけれど、寄席やホールで見ると全くそんなことはない。むしろ客と一緒に芸を作っていくために、客席の端から端まで神経を張り巡らせているような、実に繊細で大胆な落語家さんである。特に約80名ほどの会場であっても、一人一人のニーズをどこまでも探って、会場にいる全員で落語を作っていくような、とてつもないことに挑んでいるんじゃないかと思うほど、最初のマクラから話の終わりまで、徹頭徹尾、集中して演じられていた。あの集中力、本人は「気が散ってるでしょ」というようなことを言ったけれど、それだけ客席を見ているし、感じている人なのだ。凄まじすぎる。

いよいよ長屋の三人が茶会に行き、そこで茶を飲むのだが、これも冒頭の隠居と定吉の中でもあった光景なのに、見事に面白くて爆笑が起こる。三人が茶を飲むまでの経緯で盛り上げ、オチで酷い茶を飲むシーンまで、物語のテンポと口調が気持ち良くて面白い。言葉を排してお茶を飲むシーンも抜群の所作。酷いお茶に付き合わされた長屋の方々の可哀そうな様子が目に浮かんだ。

そこから、茶菓子を自前で作り隠居の知人を呼んで茶会。再び茶を飲むシーンで笑いを誘って、最後は映像的にも見事な茶菓子の飛んでいくシーンから、オチ。

会場の客席の集中力を途切れさせることなく、見事な大熱演で幕を閉じた『茶の湯』。マクラも実に面白かったけれど、内容は敢えて詳しくは書かないが、時事ネタだったり、師匠のことだったり、会場の空気であったりした。

 

柳家三三『転宅』

大熱演の後で、さらりとお膝の話と、とある病院の話、そして客席の様子から演目は『転宅』へ。間抜けな泥棒のお話。

先ほどの『茶の湯』でもそうだが、それほど大きな展開があるわけではない話を、語りと間とトーンの全てで話に惹き込む技が凄い。気が付けばぐいぐい引き込まれて行くし、登場人物の感情やら心の機微、ちょっと可笑しいけど妙に納得してしまうような言葉の数々。この辺りに物凄い配慮と研鑽があるのだろうなと思うのだが、それを全く感じさせない流麗な語り口。飄々としていながらも、どこかすっとぼけつつ、見事にオチまで繋げる。『転宅』に出てくるお菊の姿も色気と度胸があるし、お菊を嫁にして喜ぶ泥棒の姿も真面目だけど抜けていて面白い。お菊を信じて有頂天になった泥棒が騙されていたことに気づく場面も、かなり怒っているというよりも、情けなくなってきて怒る気にもならないという感じが出ていて面白い。いつの時代も女性の方が一枚上手なんだなぁ。と思いつつ終演。

 

総括すると、柳家三三師匠の語りっていうのは、本当に感動した!とか痺れた!というよりも、あの面白さは一体何だったんだろうか。というような、それほど後には残らない感じの面白さがある。その瞬間は最高に面白いのだけど、後を引かない感じ。さらっと流れていながら、じんわりと思い出される感じと言えば良いのだろうか。

柳家の落語家さんを聞いた時に感じるような、あの何とも言えないさらりとした感じと言えば良いのだろうか。家の中で炬燵に入りながら、おじいちゃんやおばあちゃんと話をしているかのような安堵さ、そんな感じなのである。

あれをどう言葉で表現していいか分からないし、言葉で表現できるものかどうかも分からない。それでも、五代目柳家小さん師匠から連綿と続く柳家の芸を、また一つ新たな形で開花させているのが三三師匠だと思う。特別な雰囲気だとか熱意みたいなものは無くても、地道に地道に修行をしているからこそ培われた話芸。いずれ、本域に達した時にどんな芸を見ることが出来るのか。とても楽しみである。

 

考えてみれば、今週は伸べえさんに始まり、貞橘先生、松之丞さん、松鯉先生、そして三三師匠と、豪華な三連休だった。

また来週も素敵な演芸との出会いがありますように。祈りつつ、それでは、またの機会に。

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その名に富士を抱く男、松之丞の名札~2018年11月24日 新宿末廣亭~

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 きんとぅーん

 

えべりゃっばうううべ

 

枯れた人、二人目です。

 

ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ

 

貞橘会を終え、末廣亭へ行く。黒山の人だかり。マリモ製造工場。ここで一つ、先に大発見を記しておく。勝手に大発見と思っているのだが。

新宿末廣亭には演者の名札がある。その日の出演者の名がずらりと並んでいるのだが、その中で『松之丞』の看板を見ていて気が付いた。画像を見て頂けるとお分かりになるだろうか。『之』という字と、『丞』という字の間に。『Λ』の折り目がある。これ、何かに酷似していないだろうか。私が想像するに、この『Λ』は、『富士山』である。何と、松之丞さんの名札には、『富士の山』が描かれているのである。念のため、他の演者の名札を見たが、文字と文字の間には『=』みたいな折り目しかない。さすがは講談界を背負って立つ男である。その名に富士を抱く男、神田松之丞。ここで私は二度目の月影千草を発揮し、「恐ろしい子!」と思った。

さて、そんな松之丞さん。万感の拍手ともう聞き慣れた松之嬢様の『待ってました!』でご登場。

 

神田松之丞『違袖の音吉』

まず座って気づくのは体格の良さ。そして落ち着き払った風貌。ある種のふてぶてしさを感じさせながらも、絶対の自信と最高潮にまで高まったボルテージで、仲入り後の会場を一気に惹きつける。この風格、もはや矢沢の永吉ばり。つくづく思うのだが、松之丞さんの人気はもう申し分ないし、実力はそんじょそこらの二つ目より群を抜いて真打クラスだし、寄席の会場の空気を読んで掴むIQは200越えで即MENSA入りだし、声色を変えて人物を描く様なんて、もはや落語と講談を融合させたハイブリッド芸人なので、あの、ね、もう皆さんはご承知ですよね。

一度乗ったら振り落とさないようにガッチリロックを掛けて、縦横無尽に客を物語の世界に連れて行くのが松之丞さんの講談だと私は思っている。アトラクションならば富士Qもびっくりのドドンパ級のジェットコースター。あしたのジョーだったらホセ・メンドーサばりの『キングス・オブ・キングス』、『コンピュータ付きのファイティング講談師』である。子供でありながらも賢くて真っすぐな音吉。小さい頃から才気煥発。ギザギザハートの子守唄よろしくな怒涛の勢いで爆笑をかっさらっていく。まるでラジオのワンシーンを見ているかのような爺さんと婆さんの遺書のシーンで、デンプシーロールのような笑いのパンチを繰り出していく。周囲の大人も微妙に子供にやさしいのが面白いし、音吉の子供らしい可愛らしさに包まれて、会場がなんだかほっこりしている。何よりも声色がとにかく凄くて、あれだけの声色を自在に使い分けできる芸人を私は見たことが無い。落語の世界でも、あれだけはっきりと人物の声色を変えることの出来る人物はいないのではないだろうか。

ここでも、先に書いた記事の『河内山宗俊』に繋がってくる。どんな悪党も最初から極悪非道だったわけではないという説が繋がってきた。何とも不思議な縁が繋がった話である。

会場の客層は、常連一割。男性が七割、女性が二割と言った感じである。割と初めてのお客さんが多い様子。見事に空気を掴む辺り、さすが松之丞さんである。

根強い常連の方と、新規の方を巻き込んで、極上の笑いを生み出していたし、その緊張と緩和がくっきりと表れていて、その場その場で芸を生み出す講談師の、巧みな技術を垣間見た。もはや真打と言っても過言ではないだろう。さらなる理由付けとしては、松之丞さんの登場前と登場後で、みんな態度変えすぎだし、帰る人多すぎという点である。生粋の寄席マニアからすると、やれやれという感じだけれども。そういう楽しみ方も良し。

 

桂幸丸『漫談』

松之丞さんの後に上がった幸丸師匠。内容は書けないし、書かない。これはもはや今の寄席の番組でしか起こらない奇跡だと思っている。これは見なければならないだろうし、この位置で登場した幸丸さんがどうやって爆笑を起こし、会場の空気をまた違った面白い方向に変えたか。この辺りの歳を重ねた芸人にこそできる、強烈な話芸。これはね、体感した方が早いので、詳しく書きません。一つ言えることは、体験したら、幸丸師匠の凄さに驚愕するってことだけです。寄席というシステムの中で、松之丞さんの後に幸丸師匠が来る、この絶好の立ち位置。とくと感じて震えてきてください。

 

桂伸治『あくび指南』

歌春師匠の代演ということで、正直、これは俺得だと思ったので末廣亭に行ったと言っても過言ではない。伸治師匠が舞台袖から出てくると、「待ってました!」の声が上がる。これですよ、寄席は。もう興奮してしまっているので、あれなんですけど、伸治師匠に「待ってました!」と声をかけるファンがいること。これが何とも言えないすばらしさだと私は思う。松之丞さんから伸治師匠までの流れの中には、普段の寄席で活躍する芸人達の、目に見えない確かなリレーがあったし、それを待ち望んでいるファンの姿があった。人気者に声がかかる一方で、それほど認知されていない落語家にも声がかかる。この両端が一つの場で起こるからこそ、寄席の素晴らしさがあると私は思う。人気者だけが偉いんじゃない。人気者だけが面白いんじゃない。確かな年月と、積み重ねてきた芸と、あたたかな心を持ちながら、それほど陽の目を浴びることはなかったが、それでも多くのファンに支えられてきた芸人がいるのである。まさに生き様の集大成。その全てを発揮しているのが桂伸治師匠だ。残念ながら私の隣の客人は爆睡だったが、伸治師匠らしい『あくび指南』だった。あの瞬間をどう言葉にしたら良いか分からないが、松之丞さんが出てきた時の『待ってました!』と伸治師匠が出てきた時の『待ってました!』では、私は全く違う印象を抱いたのである。伸治師匠が出てきたとき、客席の多くの方々は「誰だろう?この人」だった。松之丞さんの時は、常連の声は別として「お、噂の奴が出てきたぞ!」と食い気味の表情だった。これはあくまでも私の主観である。松之丞さんへは期待を込めた『待ってました!』に感じられるのだ。でも、伸治師匠への「待ってました!」には、「ずっとあなたのことを知っていますよ。あなたが頑張っている姿も、あなたが面白いことも、あなたが何よりも一所懸命に落語をやられていることも」というような、そんな思いが込められているように私には感じられたのだ。正直に言えば、私は伸治師匠への「待ってました!」の方が好きである。

これは否定でも批判でもなんでもない。ただ寄席に生きる芸人の生き様、その周囲の人々の温かさを感じて、何とも言い難い思いになったことは間違いない。100人いれば100人がスポットライトを浴びるわけではない世界で、ただ自らを信じて芸の世界に身を置いてきた芸人。もちろん私は松之丞さんも大好きだけれど、それと同じくらい伸治師匠も好きなのだ。一門会には行けないけど。

そんな伸治師匠。私が激推しする桂伸べえさんの師匠である。是非、色んな場所でお目にかかって頂きたい、素晴らしいお師匠さんである。

 

神田松鯉『神崎詫証文』

やってきましたトリは松鯉先生。深夜寄席の紹介をしてから演目へ。この話は松之丞さんで二度、松鯉先生で一度聞いている。前回聞いた時よりも、丑五郎の演じ方が真に迫っている感じに聞こえた。何よりもまず声とリズムが良い。ぐっと低音でありながらも張りがあってダイナミック。松之丞さんが荒々しく猛々しい大波だとすれば、松鯉先生は分厚い層のような、均整のある巨大な波のような語り口。縦横無尽に客を揺らすのが松之丞さんだとすれば、ずっしりずっしりと上から圧を掛けて物語に沈めこんでいくのが松鯉先生のように私には感じられた。何より、変なところで笑いが起こらない客層の佇まいも素敵である。無駄な言葉を省き、声色では聴かせずに、語りのリズムと声の調子、そして講談の語りに寄り添った形で物語を紡いでいく様は圧巻。ともすれば地味に感じられがちであるけれども、貞橘先生にも感じた鉄板の語り口を持つ松鯉先生の口跡は、実に鮮やかで心地が良い。

老齢なれど芸に劣りが見られないのは、松之丞さんの影響も確実にあって、より一層芸に磨きをかけているのではないかと思われる。多くの弟子を抱え、その身と芸で持って後進へと見せる姿は、伝統芸能に長く関わり、その芸を唯一無二とした一人の講談師の輝かしい姿そのものだと私は感じている。丑五郎が改心する様や、オチは見事としか言いようがない。講談そのものの神髄を見せた素晴らしい一席だったと思う。残念ながら私の隣の客人はトンビのような寝息を立てていたが、講談の未来は明るい。そう感じさせる一席だった。

 

総括すると、11月24日は講談デイになった。貞橘先生から松鯉先生まで。講談の流派の違いはあれど、その未来は龍が天に昇るが如く。

様々な人が講談と出会い、講談に魅せられ、講談の世界をより一層広めてくれることを祈るばかりである。芸は身を助ける。これからも是非、多くの講談に触れてほしいと願うばかりだ。そして、良き講談との出会いを私自身も望んでいる。

今日はこの辺で。それでは、あなたの素敵な演芸への出会いを願って。

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