落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

金色の講談クロワッサン~2018年11月24日 貞橘会~

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 お先に勉強させていただきました。

 

ここがスラスラ言えると、もう終わってもいいようなもんで

 

私の内心(秀吉はなんてスケベジジイなんだ・・・)

 

ありがてぇ、ご利益だ

寒風吹き荒れて波は穏やかならざる朝の景色の中、身支度を整えて家を出立する一人の若侍。腰には大小の鞘を差してはおらず、鞄のみ。充電を忘れたスマホの電池残量が25%であることを確認すると、しまった!と思いつつも諦めてぱっぱっぱっぱと馬のような勇ましい足音を鳴らすことなく、ただとうとうと散歩に出かける。

最近はすっかり寒くなり、本格的な冬の到来を感じさせるのだが、未だ都会の風景は一面の銀世界とはいかない様子。薄灰色の雲がもくもく、どよどよと漂いながら空を覆う姿を見ていると憂鬱な気分になってくるが、一つの光を射すかの如き演芸を見るために、私はぱっぱっぱっぱっぱっぱっぱっぱと、馬のように走ることなく、たらたらと歩いて神田に到着する。

古書店をぶらぶらと巡りながら、めぼしい本を見つけることもなく時間を潰す。やはりらくごカフェに向かう前の、あの裏路地のエレベータの周囲にはカレー屋ボンディの行列。その数武田信玄も驚愕のおよそ3万の軍勢、皆一様に赤備えの甲冑をどうのうこうのうんぬんかんぬん。というわけもなく、カレーに飢え、カレーを欲し、カレーを食さんと必死になってカレッと目を見開いた若者たちが、スマホを見ながら皆一様に列を成している。私は槍の先を払ってえいやっ!と斬りかかる訳も無く、スッスッと列を横目にエレベータに乗り込み、5階へ行くボタンを押す。憎き蛮国の食べ物など見向きもしないぞと固く心に誓いつつ、結局新宿でゴーゴーカレーを食すことになるのだが、私はらくごカフェの門を開いた。

今度こそ騙されまいとして出し抜いたボンディの軍勢の後で、らくごカフェにちらほらと見えるご常連の一派。これすなわち豊臣秀吉子飼いの七人衆。というわけではないが、ちらほらとお客様。美味しい珈琲(一杯300円)を頂戴して着座。

外の寒風荒ら荒らしい様とは対照的に、ゆったりと穏やかな空気が流れる店内。素敵な佇まいである。芸人の言葉と人々の笑いが染みついた床。こんな場所で午後のひとときを過ごそうと考えるだけでも立派。実に立派だと思う。

考えてみればひと月が経つのは早いものだ。つい最近貞橘先生の『鼓ヶ滝』を聞いたかと思ったらもう11月である。時の経つのは早いものぞ、人の成長はだんだんと積み重なっていくものだ。

さてさて、前口上はこの辺で。開口一番は勇ましき目を持つ講談師。

 

田辺いちか『鳥居と成瀬 湯水の行水』

この人の出で立ち、佇まいは凛としていながら勇ましく清らか。目を見開いて口を開き、放たれる飾り気のない真っすぐな言葉を聞いていると、白い和紙にそっと筆を下ろし、一点の迷いもなくすっと縦線を引くような、そんな凛々しさを感じる。

見開かれた目に射す蛍光灯の光でさえも美しく、その眼前で進む物語に冒頭からぐっと引き込まれる。おじさんは涙腺が緩いからすぐ泣きそうになる。鳥居と成瀬の意地の張り合い。この応酬の可笑しくも胸に響く情と情。ただの意地比べと考えてはならない。そこには二人の間に相通ずる思いがあるのだということを、確かな言葉と、声と、リズムで描いていく、いちかさんの語り。もはや私は心を奪われている。前回の『隅田川乗っ切り』でも思ったが、今回の『湯水の行水』は筋はもちろん良い。そして何よりも田辺いちかさんの紡ぎだす言葉が、一つ一つ丁寧に情景を描写していて、それはそれは脳内にありありと景色が浮かんできて、もう雑な言葉で言えば『涙がちょちょぎれる』のである。

まさに言葉を冓んでいる人だと私はいちかさんに対して思った。一つ一つの言葉を重ねて、静かに火を灯す。特に成瀬が武田の軍勢へと勇ましく斬りかかっていく時の描写には、儚い人間の意志を感じて胸を打たれた。戦の中で互いに互いを認め合った鳥居と成瀬。家が隣同士ということで、言葉にはせずともお互いがお互いの心意気を知り、高め合う様子。丁寧に丁寧に言葉を折り重ねていくいちかさんの語りには、他には無い静かな凛とした清廉な空気が漂っている。

何度聞いても目に涙が浮かぶだろう。なぜあんな語りが出来るのか不思議でならない。貞橘先生の前にこんなに胸打たれて、目に涙を浮かべてしまうのだが、本当にいちかさんの今後が楽しみでならない。一席を終えて舞台袖に下がり『お先に勉強させていただきました』という丁寧さ。講談という話芸の世界に身を浸し、全身全霊で講談に取り組む田辺いちかさん。是非、講談ファンじゃなくても見て頂きたい、素晴らしい講談師である。

 

一龍斎貞橘『天保六花撰 河内山宗俊と直侍』

髪を切って坊主風の貞橘先生。キリリとした眼と鉄壁の語り口。これよ、これこれ!な貞橘節で紡ぎだされたのは河内山宗俊の話。流れるような天保六花撰の面々の名と、六歌仙の面々の名を言う辺りは耳に心地よく気持ちがいい。六歌仙に準えたという悪人の中から、河内山宗俊のお噂。頭が良くて賢く将来を期待されながら、血筋の無い者は上に立つ人間になれぬとやさぐれる宗俊。この辺りは中村仲蔵のような、血の無い役者であってもめげずに努力して名題になった人物とは対照的である。どれだけの才能に恵まれようとも、血統が物を言った時代に生まれた悪人。これは悪人にならざるを得ない環境であったのだろうということが察せられ、宗俊の境遇を憂いつつも、まだそれほど悪人には成っていない宗俊が直侍と出会う話である。

冒頭で両国橋にて宗俊が書物を読むシーンがある。その書物を仮で『三方ヶ原軍記』として貞橘先生は読んだ。これがもう白眉も白眉。流麗なる口跡に思わず笑みが零れてしまって、ああ、もっと続け続けと思っているところで一区切り。貞橘先生の語り口で読まれる『三方ヶ原軍記』は凄まじい余韻と口跡である。私が最初に聴いた時から感じた黄金色の語りが緩やかな波となってやってくるような感覚がある。もはやスーツを仕立てる職人さんですか、と思うほどの折り目正しい語り口。

何層にも何層にも重ねられた言葉の数々で積み上がる宗俊の物語。松鯉先生の『卵の強請り』で感じたような、何ともずる賢い奴だ!という憎たらしさはなく、そこはやはり人の情が通った男だったのだなぁ、最初の頃は。という印象を抱かせるくらいに泥臭くて人間味のある宗俊に感じられた。グレずに全うな道を歩んでいたら、きっと立派な人間になったであろう才知を、大名などに発揮して煙たがられていく。そして、直侍である片岡直次郎との出会いの場面。ここにも懐の深い宗俊の、まだ悪にどっぷりと身を浸していない、情のある人間の様が描き出されていた。何よりも悪の道へと宗俊を引き込んだのは、直次郎なのではないかという予感をさらりと語って、幕を閉じる。

天保六花撰がどのような連続物として存在しているのか、私は良く分かっていない。断片的に神田派の講談師で聞いたことはあるが、第何話から何話まであるかは分かっていない。それでも、貞橘先生で『宗俊と直次郎の出会い』を知ることが出来てとても良かった。これを聞くと、宗俊に対するイメージが変わった。どんな悪人も最初から悪人だった訳では無く、様々な環境、周囲の人間に巻き込まれることで、結果的に悪人にならざるを得ない状況になったのだということが、何となく察せられたのである。悪人にも悪人の道理がある。この辺りを全て網羅するのにどれだけの時間がかかるか分からないが、ますます講談の魅力にハマっていく一つの要因となった。この後で、宗俊はどうして悪人になっていったのだろう。そして、どんな裁きが下るのだろう。そんな想像が巡ってきて、講談にヤミツキである。

 

神田織音『お江』

美しき年輪を重ねたお方というような、織音先生。お話は織田信長の妹、お市が産んだ三人の娘のうち、末娘のお江の話。運命に翻弄されっぱなしで、胸が痛む話である。特にスケベジジイとして嫌な笑みを浮かべる秀吉に嫉妬する。また、いちかさんと織音先生に挟まれる貞橘先生にも嫉妬する。女にモテる男に私は嫉妬する(笑)

お江の娘、完子の姿にはやや感情移入しづらい部分もあったが、織音先生のとつとつとした語り口で、自らの運命を受け入れる女の心が何とも言えないもどかしさを感じさせた。目の動きと首の動きが特徴的で、織音先生が見てきたスケベジジイの感じと、物言わず目と所作で語る女性の姿が感じられて興味深い。それほど歴史に詳しくない私であっても、お江が置かれた境遇や人生を考えて行くと、やはり何とも言えない理不尽さがあって、可哀そうになってくる。

あれやこれやと思索するスケベ秀吉、運命を受け入れつつも賢く生きる淀殿。全てを把握できた訳ではないが、お江とその周辺を取り巻く環境というものが感じられた。少し私には縁の無い話のように思われたし、それほどどろどろとしたものにあまり興味を持つことが出来なかった。それでも、完子の純朴さを認める中で、運命を受け止めようとするお江の決意のようなものが、私には切なく感じられた。

 

一龍斎貞橘『赤穂義士銘々伝より~岡野金右衛門

冬は義士ということで、一席は赤穂義士のお話。お初に聴く岡野金右衛門の話だったが、これがまた面白いのなんの。吉良邸の設計に携わった大工の棟梁、その娘のお艶が大石内蔵助一派の岡野金右衛門に惚れ、その恋心を利用して吉良邸の絵図面を手に入れようという噺。007もミスターアンドミセススミスもびっくりの『恋の大作戦』ばりのMr Saxo Beatが流れるわけである。

初心な金右衛門の姿も笑ってしまうのだが、その金右衛門に惚れるお艶の純粋さも面白い。好きな男のために健気な奮闘をするお艶。奮闘虚しく好きな男の夢を叶えられず、男からそっぽを向かれるお艶。この彼女の決意を想像してしまって、良い時代だなぁと思う。今どき、好きな男のためにちょっとした悪さをする女性っているんでしょうかね。特に語られることは無いが、父親の留守に抽斗から吉良邸の絵図面を盗み出すお艶の表情を想像してしまった。なぜか桧山うめ吉さんで想像された。うめ吉さんから絵図面を入手した金右衛門の姿も想像してしまって、私は「お艶、恐ろしい子!」と月影千草ばりの表情で聞き入ってしまった。何よりも、貞橘先生の描き方が実に絶妙で、鉄板の貞橘節もさることながら、微妙にすっとぼけた金右衛門の姿や、完全にすっとぼけた大工の棟梁の姿など、実に面白い。途中、お艶に惚れられた金右衛門が番頭の神崎与五郎に助言を求める場面がある。そこで神崎与五郎が「成らぬ堪忍、するが堪忍』と助言する。「そなたはそう言うと思った」と返す場面は、私の行動の壮大な伏線になっているのだが、この辺りは神崎与五郎に纏わるお話を聞いていると、より一層楽しめるだろう。このように、登場人物が交差するのも講談は面白い。また、金右衛門とお艶の出会いのシーンも、聞いているこっちまでドキドキする少女漫画みたいな淡い風景。絵図面を持ってこれないと知った金右衛門がへそを曲げるシーン、そしてそれにショックを受けるお艶の表情。磨き上げられた所作と、無駄の省かれた言葉の選択によって、淡々と進んでいく物語。何と言っても私の想像の中で、もっとも良いシーンは、抽斗から絵図面を盗み、金右衛門の元へと走るお艶の姿。そのまんまうめ吉先生なのだが、この辺りは勝手に脳内で言葉が付されていて、「金右衛門様、私、やりましたよ!あなたのために、絵図面を手に入れましたわよぉおおお!」というような言葉が浮かんできて、私が男だったらこれほどうれしいことは無いと思う。私が金右衛門だったら間違いなくその晩は、おっと、これ以上は止そう。

絵図面を手に入れた大石一派は討ち入りをするわけだが、その前の晩に金右衛門がお艶の元へ行き、「いいかい、明日は吉良邸に近寄っちゃいけないよ」というようなことをいう場面。もうこの辺りなんて、どこかで見たことのある映画みたいな美しさがある。死亡フラグを立てた金右衛門と、何も知らずに「金右衛門さんがそう仰るのなら・・・」というような感じで受け入れるお艶。なんだこのダイヤモンドばりの純粋さは。輝きが強すぎて何にも見えないわ。と思いつつ、後半はどうやら演者によって結末が分かれるようである。敢えて貞橘先生がどう終わったかは記さない。読者が体験したときのお楽しみとする。

赤穂義士銘々伝は『赤垣源蔵』、『神崎の詫び証文』を良く聞いている。特に『神崎の詫び証文』が断トツで聞いている。今日の『岡野金右衛門』のような、現代の恋愛×スパイのようなお話があるとは思わなかった。互いに惚れ合い、ちょっとした悪さに手を染めながらも、愛には敵わないなぁ。と思う一席で、仲入り。

 

一龍斎貞橘『左甚五郎 水呑みの龍』

最後の演目は『左甚五郎もの』。私にとっては彫り物の名人として、彫った物に魂を与える名人のお話。ここで交差してくる人物と言えば、大久保彦左衛門である。もはや名脇役として、随所で人を助け、人の才能と力を見抜く才人。前回の『隅田川乗っ切り』でも阿部善四郎を助け導いている。私の中で講談の中に大久保彦左衛門が出てきたら、もはや良い話確定なのである。

そんな大久保彦左衛門が左甚五郎を龍を彫る物として抜擢する。ところが、肝心の龍を甚五郎は見たことが無い。上野、不忍池の弁天堂に願掛けに行く甚五郎が、池の傍に立つ娘を見るシーン。若干恐怖映像のような怖さを感じながら、そこから龍が天に昇っていく様がありありと浮かんできた。貞橘先生はこの辺りの情景描写を派手にはやらない。大音量でやると迫力はあるかも知れないが、むしろ想像の邪魔になると思っている私にとっては、最高の語り口。甚五郎の描き方も実に素晴らしい。天衣無縫の天才と思われがちだが、意外と人間臭い。龍を見たことが無いから彫れないという正直に言う辺り、甚五郎の性格が表れていて良いと思った。ふと思ったが、義士伝では『惚れた話』、甚五郎では『彫れた話』になった。ま、どうでもよいが。

前回のトリネタは『鼓ヶ滝』で、この幻想的な描写が実に緻密な語り口で描かれていて、この辺りに貞橘先生の語り口が乗ってくると、とても心地が良い。龍が天に昇っていくのは夢だと自覚しながらも、その夢からヒントを得て龍を彫る甚五郎。彫った龍に魂が宿り、水呑みを始める場面も実に見事に描き出している。これはもはや百聞は一見にしかずなのだが、貞橘先生の語りには現実世界から幻想世界へと移動するときの、微妙なズレみたいなものが無くて、あたかも幻想が現実に存在しているかのように錯覚する語りとリズムがある。これは是非、聞いて体験して頂きたい。

水を飲まないように楔を打ち込むと描写して、龍を彫った建物の顛末を語って幕を閉じた。

 

総括すると、貞橘先生の語りが素晴らしすぎて、物語の筋を追っているだけでも惹き込まれてしまう。紡がれる言葉とトーンとリズムに一度ぴたっとハマってしまうと、もうそこからずるずると物語の世界に引きずり込まれてしまうのだ。私が思うに幾重にも幾重にも積み重なった言葉が、こんがりと焼きあげられて口の中に放り込まれるような感じ。私が感じる黄金色の語り口と相まって、まさに金色の講談クロワッサンを食したような、そんな気分になったのである。前菜としてほろりと爽やかな涙を誘った田辺いちかさんの講談クロワッサン。人々の心の機微を繊細に描き出した織音先生の、その名の通り織り目の細やかな講談クロワッサン。そして、笑いと真剣の塩と砂糖で味付けされた貞橘先生の金色の講談クロワッサン。私のお腹は既にパン・パンである。

さて、勝手にお後がよろしいようで、と申し上げさせていただいて、本記事は閉幕。この後は、末廣亭に行き、松之丞さんと松鯉先生を見に行きました。

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本が開いてくれるもの 2018年11月23日

本は無限だ。

文字が読めて、内容が理解できれば、誰でも新しい知恵や考え方に出会うことが出来て、それまで考えもしなかったことを考えるようになる。それは、毒にも薬にもなる。自分にとって何が毒で、何が薬かは読む人が決める。本を開いて、物語の世界を楽しんで、最後の一行を読み終えた時に、あなたは何を是とし、何を否としているのか。それを自覚するかしないかはその人次第。ただ一つ言えることは、あなたが選んだ本は、あなたが読んだ世界は、確実にあなたの心に影響を及ぼすのだということ。

人の性格は何が決めているのだろう。環境?周囲の人間関係?触れてきた芸術?。理由は様々あれど、私はそれまでに費やされた『言葉』だと思う。何を自らの言葉として発し、何を言葉で考え、何を言葉として言われてきたか。それが個人の性格を形作っていると私は思っている。もちろん、様々な理由は考えられるけれど、言葉は最も強い影響を性格に与えていると思う。

本は人生を豊かにしてくれる、ということが時々定型文として言われている。聞こえは良いし、何だか本の有難みがあって素敵な言葉だと思う。反面、私は本が人生を豊かにしてくれるとは思わない。私は本を読んだ人自身が本から何かを見出し、それによって結果的にその人の人生が豊かになることがある、と言い換える。本を読んだ人の人生が全て豊かになるかと言えば、必ずしもそうとは限らない。『不思議の国のアリス』が大好きだとしても、現実には喋る猫も歩くトランプもいない。現実と幻想の世界には隔たりがあって、それを認識することなく、現実の世界で幻想の世界に生きる人々もいる。どうやら本との『正しい付き合い方』というものがあるのかも知れないと思うのだが、詰まる所、本を読んだ人が何を考えるようになるかということは、私にはさっぱり分からない。本がどこまで読んだ人間に影響を及ぼすのかも、私にははっきりと認識できない。

私の周りの人間を例に考えてみると、本は読まないという人が多く、読んだとしても『話題の本』や『映像化された本』ばかりで、あまり本でしか形になっていないものは読まれていないようである。

日々の雑事に忙しく、携帯ゲームに興じたり、賭け事に勤しんだり、酒と肴に囲まれて生きている人たちが多い。娯楽が多くなり、文字だけの本は、地味で暗くて忍耐が必要な、あまり外交的ではないものとされているようである。せかせかと時間に追われている人たちにとってみれば、長い物語ほど時間がかかるし、読むのが面倒で、結局何を伝えたかったのか分からないらしい。実に勿体ないことだと私は思う。せっかちで時短が求められる社会だからこそ、じっくりと腰を据えて没入することの出来る本は貴重なのだ。

では、そんな腰を据えて没入するほど面白い本があるのか?と問われれば、それはその人次第だから何とも言えない。私は本好きとして最も愚かな行為だと思っていることが一つだけある。それは、『自分が面白いと思った本を相手に渡す』という行為である。自分にとって面白いと思った本が、相手にとっても面白いとは限らない。むしろ、相手にとって面白くないことの方が圧倒的に多い。なぜなら、相手は望んで本を手にしていないからである。本との出会いというのは、他人から強要されてはならないと私は思っている。本に限らずあらゆる芸術は、強要されてはならない。芸術は能動的に出会わなければ、その人にとって良い物にならない。長い時間をかけて物語の世界に強制的に入り込ませるような行為こそ、相手に自分の面白いと思った本を渡す行為なのである。だからせめて、最初の入り口だけは、相手に選ばせるようにしなければならない。それが本の書評であり、本に限らず全ての芸術に対する評論だと私は思っている。

書評を見た人が面白そうだと思って本を手に取る。その確率は分からない。それでも、一人の人間がその本の世界に没入し、言葉でその世界に対する考えを述べたという事実を目にして、人は興味を抱くか抱かないかという二択を迫られる。大して書評から購買意欲が湧かなければ読まないのも良し。実際に手に取って読んでみて、書評に書かれたことを思わなくても良し。大事なことは、本をなぜ自分が手に取ろうと思ったのか、そしてその本を読み終えて自分が何を感じたかを、はっきりと自覚することだと私は思っている。

もしも今、本を読んだことが一度でもあって、自分の本棚というものがあるという人がいるならば、今一度本棚に並べられた本を眺めながら考えてみてほしい。なぜ自分はその本を選んだのだろう。その本から自分は何を得たのだろう。あ、読み終えてない本もいっぱいあるな。なんでも良い、一度考えてみれば、自分の性格がどう形作られてきたのか分かるだろう。それに対して私が言えることは、「あなたが選んだ本があると同時に、あなたを選んだ本があるのだ」ということである。そんな見えない運命を信じてみたい。もしも自分が選んだ本が、実は本も自分を選んでいたのだとしたら、こんな素敵な出会いは無いと思う。そんなことを教えてくれたのが、冒頭の写真に紹介したミランダ・ジュライ著『あなたを選んでくれるもの』だ。

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お時間がいっぱいいっぱい

日本の演芸に触れていると、自然と興味が湧いてくる時代がある。それはまだ娯楽が少なく、テレビもスマートフォンも無い時代、江戸時代。その時代の言葉や風俗に興味を持ち、それに関連した本を読むことで様々な角度から日本の演芸を楽しむことが出来る。記録として残されたものから、我々はその時代を知ることが出来るのだ。もしも記録が無く、その時代を知る手がかりさえ無かったら、我々は今ほどの発展は遂げて来なかっただろう。ありとあらゆる物事は記録され、何度でも振り返ることが出来るようになったからこそ、どれだけ時代を経ようとも変わらない物を見つけることが出来るようになったのだと私は思う。

今、長い間陽の目を見ることがなく、かつては大きな隆盛を誇ったが下火になっていた演芸がある。それは講談である。テレビの普及により強烈な煽りを受けた日本の演芸、落語、講談、浪曲。名人と呼ばれた人々が地道に積み上げてきた演芸にさらなる光をもたらす芸人がたくさん現代に存在している。落語では春風亭一之輔師匠、浪曲では玉川太福さん、そして講談には神田松之丞さん。何度かブームと呼ばれているが、そんな一過性のものではない演芸だと私は思っている。その中心地は間違いなく東京であって、根強い常連と日々全国から訪れる新規の客によって、日本の演芸はとてつもない賑わいである。テレビを持たない世代が今後増え続けて行くと私は勝手に想像しているのだが、テレビに飽き、ネットにも飽きた人々が最終的に行きつく先は、生身の人間の芸だと私は考えている。生身の人間の芸をさらに楽しみたいと思ったとき、本は力を貸してくれる。

落語、講談、浪曲。これらは何も昨日今日出来た演芸ではない。本を探せば最も古い情報を知ることが出来る。一体どんな名人がいて、名人の周りにはどんな人物がいたのか。古本屋で少しでも演芸関連の本を探せば、それらの情報は簡単に見つかる。唯一悔しいと思われることは、故人の芸は生身では体験できないということ。生に叶う体験は無い。あらゆる演芸は、その瞬間に存在していることで何物にも代えがたい輝きを放つ。と私は勝手に思っている。

例えば、ゴッホムンクの絵を見ても、我々は絵に感動しても、それを直接ゴッホムンクに伝えることは出来ない。また、ゴッホムンクがどんな性格で、何を好んでいて、何を好んでいないかを知ることは出来ない。本当であれば、ゴッホムンクと直接話をして、絵の生まれた過程や、どんな気持ちでこの絵を描いたのかを私は聞いてみたい。それが叶わないというもどかしさに苛まれながら、我々はただ残された芸術を享受し、それに対して感動する自分を自覚することしか出来ない。それは一方通行の愛。返球の無い球を幻に投げるような行為に等しい。

翻って、今を生きる人には感動を直接伝えることが出来る。私は渋谷らくごや芸協らくご祭り、謝楽祭のような落語家さんと触れ合うことの出来る場で、直接自らの感動を伝えている。それは私の自己満足かも知れない。それでも、同じ時代を生き、同じ場所に存在し、同じ体験を共有することの、目には見えないがとてつもない輝きを放つ瞬間に、私は感動する。だからこそ伝えたくなるのだ。あなたの芸は素晴らしいと。あなたの芸に惚れているのだと。私のブログ記事は、おおよそそういう思いによって突き動かされている。自分で言葉にすることで、伝えた気になるのだから幸福なものである。それでも、自分が何を考え何を思ったかはとても重要なことだと思っている。なぜなら、後で振り返った時に、はっきりと確かな熱を持って自分の心に沸き起こってくるのだ。芸を体験した時に感じた強い感動が、まるでマグマのように。

本を読むことで、言葉を知って、その時代の空気に身を浸す。くっきりと自分の頭の中に映像が浮かんでくる。どういう理屈で映像が見えるかは分からない。だが、私は確実に映像を見ている。落語家の語り、講談師の語り、浪曲師の唸り、それらを聞いて、私が見る映像は私だけのもの。その映像に登場する人々の表情、空気感、周囲の風景。全てが私の脳内で映像化される。一度も見たことが無い筈の景色なのに、言葉から映像が立ち上がってくる不思議。芸は観客の頭の中でこそ完成するものだとつくづく思う。その映像をより鮮明にするために、やはり本を読んで文字から映像を想像することも必要なのだと思う。

私は演芸を見終えるとレポを書くが、殆どは自分の脳内に残る映像を頼りに書いている。比較的記憶力が良いと言われているし、なぜそんなに覚えているのかと驚かれることもあるが、私は『映像を見ているから』としか答えようがない。文字を書いている時も映像を見ながら書く癖があるので、文字を書かないと映像が立ち上がらない方とは明らかに異なる書き方になっていることは間違いない。本を読んでいても映像が見えてくるし、逆に映像が見えて来なくて良く分からない本を読んだこともある。つくづく不思議である。一体どういう理屈なのか誰か脳に詳しい人に教えてもらいたいものだ。説明されたところで、どうという話では無いけれど。

講談を聞いている時は、言葉が分からなくて上手く想像できないことがある。なんとなく派手とか、なんとなく荒れ狂っているということだけは分かる。自分の中で勝手に派手な甲冑を纏ったり、派手に舞う雪を想像したりする。講談師は丁寧にその様子を説明してくれたりもする。私はそれがとても嬉しい。より想像しやすくなることによって、よりその世界を『見る』ことが出来るからだ。演目を例とすれば、『隅田川乗っ切り』や『名月若松城』、『安兵衛駆け付け』など、はっきりと『見えて』感動することがある。自分にとって最も良い形で映像を見ることが出来るのだから、感動するのは当然だと思う。

もしも講談を聞いても上手く想像することが出来ないと思ったり、言葉を聞いても難しいと思ったら、写真に挙げた『講談入門』や『江戸ものしり用語辞典』を読んで頂きたい。想像の補助になってくれる。本には想像を手助けしてくれる側面もあるのだ。

 

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最近、並みじゃなくたつ 

何を面白いと感じるかは人それぞれだ。ユーモアや粋な言葉に彩られた物語に出会うと、日常生活でも使ってみたいと思う。それを使うことの意味は結局自己満足でしかない。面白い言葉を発見したと同時に、面白い言葉だと感じた自分を発見する。本とは発見と出会いだ。そして、発見と出会いは本に出会えば出会うほど増えて行く。だからこそ、本は無限だ。100人が読んでも100人全員が同じ感想を抱くとは限らない。人それぞれに感動した部分や気に入らない部分があって良い。本は、人の性格を計る定規にもなる。本棚には、その人の心が現れる。どんな本を選択する人なのか。同時に、どんな本に選択された人なのか。

それは、自分でも予期しないことかも知れない。まるで突然ノックの音がして、いきなり開かれた扉から、それまでの自分を一から変えてしまうような、そんな出会いがやってくるかも知れない。それを幸福と呼ぶか、不幸と呼ぶかは体験した後になってみなければ分からない。いずれにせよ、自分にとって幸か不幸かも分からない出来事がやってくることもあれば、自らそれを掴むこともある。気が付くと、自分がどんな人間に形作られているのか、気づく人もいるだろう。

Twitterなどを見ていても、私は「嫌だな」と思った発言はミュートしてしまう。なぜ「嫌だな」と思ったかははっきりと説明が出来る。自分はどんな信念で言葉を発言しているのか、そんなことを考えたりして、そのぼんやりとした信念からズレない範囲で文章を書くようにしている。それは、本を読んで何となく私が定めたものであって、これがまるきり正しいとは限らない。詰まる所、私は何も正しいことを言っていないのかも知れない。

色んなことを考え、色んなことを記していると、自分がどんな言葉を知っていて、どんな言い回しをする人間で、どんなことを好むかということがなんとなく分かってくる。基本的には好きなことしか書きたくないし、余計なことは言いたくない。何を言うべきで、何を言わざるべきか。それらの判断は全て本が教えてくれる。本当に大事なことは行間を読むことかも知れないと思う。書き続けても、書き続けても、全くすっきりしないどころか、どんどん行き詰まっていくような気がする。それでも、岩と岩の隙間から染み出る水のように言葉を出しながら、私は記事を書いていくつもりである。

 

本が開いてくれるものは、あなたが選んだ本の数だけ生まれる。なるべくなら、自分にとって良い薬となるような本に出会いたい。大丈夫、あなたが読むべきときに、本があなたを選んでくれる。私にはそんな感覚を抱いたことが何度もあった。全ては出会うべくして出会っている。本との出会いは本物だ。なんて、くだらない冗談を言って幕を閉じたいと思う。明日もあなたが素敵な芸に出会えますように。祈りながら記事を終えよう。

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寄席の醍醐味、亭号に思うこと~2018年11月18日 新宿末廣亭 中席~

朝、目を覚まして『東京かわら版』を読む。目ぼしい会が無いので、ざっとスケジュール帳を眺める。このところ寄席には行かず、殆ど独演会やらに通っていて、なんと気づいたら10月14日の文蔵師匠の鈴本演芸場『鼠穴』以来、寄席に行っていないことが分かった。これはさすがに寄席離れが過ぎるぞと思ったが、考えてみれば10月14日以降、どの寄席を見ても私の「行きたい!」という気持ちを起こす番組は無かった。ここに来て、久方ぶりに四大寄席のホームページを眺め、これぞ!という番組を発見した。新宿末廣亭、昼夜入れ替えなし、昼トリ柳家権太楼師匠、夜トリ桃月庵白酒師匠。これだ、これに行くしかない!

早速いつものスタイルに着替えて寄席に行く。久しぶりに寄席に行くので気分は高まっていた。常々、寄席というのは『落語家にとって名刺代わりの場』だと思っていたが、どうにもそれでは味気ないような気がしていた。一か月以上寄席から離れていたので、より客観的に何かを感じれるかもしれない、と微塵も思わず、ただただふわふわっと身を委ねようと思っていたのである。

私を例とすれば、独演会や渋谷らくごのような会は、超真剣に聴く心持ちで望んでいる。何より、独演会は好きな人しか出ない会である。だから、ふわふわっと聞くことが私は出来ない。それはもはや大好きな人の前で鼻をほじって屁をこいてゲップするくらいの、そういう失礼さを感じてしまうからである。好きな人の前ではシュッとしていたいし、全力で好きな人を感じたいのだ(何を言ってるんでしょうかね・・・)

一言一句、一挙手一動でも記憶に刻み付けようという無駄な乞食根性で独演会には参加している。それに、その空間には自分と同じように演者が好きなお客様がいるのだ。そこには暗黙の協調性があって、言葉に出さずとも漂っている連帯感みたいなものがあると私は勝手に思っている。

その点、寄席は気楽も気楽に聴ける。たとえ隣の人がカサカサ、モグモグ、ペチャクチャやろうとも、そういう場なのだから、ということで諦めることにしている。初めてのお客様の新鮮な驚きを隣の席に座って味わうというのも乙なものである。特に太神楽などの時に、となりの客が「おおっー!」とか「すごい!」とか言うのを聞いていると、懐かしい気持ちになるくらいに常連になっている。私も初めて見た時はそうだったなーとか、この人実はワザと間違えてるんだよなーとか、この人殆ど同じネタしかやらないんだよなーというのは、寄席に行き過ぎると起こる弊害である。これは寄席の常連になると起こる症状なので、一か月ほど寄席から離れるというのは、良い経験だったと思う。

寄席というのは本当に全国津々浦々、様々な場所から人がやってくる。考えてみれば、こんな奇跡は無いのだ。

どんな環境に生まれて、どんな性格で、どんな人生を過ごしてきたか。そんなことを客同士が感じることは無い。中には声をかけあって「どちらから?」なんて話をし始める人もいる。寄席には、決して言葉では交わされることのない、目には見えない奇跡の繋がりのようなものがあると私は思っている。それを話と笑いで繋いでいるのが、演者の皆さんだと私は思っている。

拍手一つを考えてみてもそうだ。素晴らしいと思ったら拍手をする。それが会場全体に伝わって大きな拍手になるなんてこともある。私もしばしば『拍手指揮者』的な拍手で、会場の拍手を支配するという思いを抱いたこともある。それほどに寄席という場には無言の連帯感、協調性があって、それはとても面白いのだ。木馬亭のような浪曲の寄席にも生粋の『拍手指揮者』が存在していて、私のようなアマチュア浪曲ファンでもわかりやすく拍手をしてくれる方々もいる。その目に見えない拍手だけの『拍手指揮者』の影響によって、私自身も拍手のタイミング、長さが分かったりする。ただ現在、唯一無念なのは、浪曲における『拍手指揮者』となる精神力が私に備わっていないことである。「あ、これ絶対拍手のタイミングだ!」と浪曲の節が一調子上がっても、浪曲を知らないお客様が多すぎて物怖じしてしまうという体験が何度かある。そこは強い精神力を持ちたいと常々思っている。

さて、寄席の話に戻そう。約300席ほどの会場にずらっとびっしりのお客様。休日の昼席は特に人が多い。夜席はよほどの実力者でない限り二階席まで埋まるということはない。昼席のトリは柳家権太楼師匠。それよりも私のお目当ては仲入り前の小満ん師匠だ。

 

柳家小満ん時そば

全体の演目リストは他の方に任せるとして、何よりも小満ん師匠をまず聞くために寄席に行ったようなものである。いぶし銀の声とリズム。何回聞いても痺れるほどのダンディズム。そばを啜るシーンでは客席のご婦人から『上手だねぇ』という溜息にも似た言葉が漏れる。寄席の小満ん師匠は最高ですよ。唐突に現れた江戸の風を纏った粋な落語家、柳家小満ん師匠。蕎麦を啜ったり、酷い蕎麦を食べたりするシーンはもはや名人芸。物凄い脂の乗りっぷりで、今小満ん師匠の芸を見逃すのは非常に勿体ないと思えるほどの素晴らしい芸だった。

 

寄席の良いところは、面白くない人も出るということである。これは決して落語家を否定しているわけではない。これは自分にとって面白くない人ということだ。そういう人に出会うことで、『自分は何を面白いと感じるのか?」ということが反面教師的に分かってくるのだ。やたらと眠っている観客を起こそうとする野暮な落語家もいれば、ちっとも面白く無くて眠くなる落語家も出てくる。そういう時はじっと椅子に腰かけて目を閉じて眠るに限るのだ。

一か月ぶりの寄席を体験すると、また違った感覚で寄席をとらえることができた。少し記述したいと思う。

私は常々、人と人との交流はお互いの精神の家に入るような感覚を抱いていた。なぜそう思うようになったかは分からない。とにかく、私の想像では外から家の様子を眺める行為は、相手の外見を眺めることに等しい。Twitterなどで愚痴やら私のように感想を呟くものは、家に窓を付けているようなものである。窓が多ければ多いほど、家(精神)の中が周りの者に見られやすくなる。

自分の精神の家に入れたものを友人と呼び、その家をお互いの所有物とするのが結婚と言えるのかも知れない。その人の家(精神)は、その人の意志によって形作られる。家の中の家具の配置、柱の傷、隅の埃。これらの粗というのは、他人を自分の家(精神)に招き入れ、長く暮らすことによって分かってくるものだ。私のような人間は「この家には入りたくないな」と窓から眺めて拒絶する家もあれば、「凄い綺麗な外観だ。中身はどんな風なんだろう?」と興味が湧いて家に入れてもらった結果、足の踏み場もないほどのゴミ屋敷だった、という経験もある。この辺りの精神構造を家で例える比喩は、読者にご理解いただけるだろうと思う。

そう考えてみると、私は落語家に亭号があるのは、落語家そのものがまさに、『家』だからだと思う。既にこの段階で一つの公式を提示するとすれば『家=その人の精神、心』だとすれば、落語家に亭号があるのは、客を家に招き入れる一つの目印としての機能があるからだと私は思った。

亭という文字には、『眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物』という意味がある。家という文字には『人間が居住する固定式あるいは移動式の建物のこと』という意味がある。柳家、古今亭。桂に至っては木である。そういう場所の苗字の後で、権太楼や白酒や文菊や伸べえなど、その場にいる人の名前が続くのである。

また一つ寄席を見ていて思ったのは、寄席には住宅展示場に近い部分があるということである。15分交代で舞台へと出てくる落語家を家そのものであると考えてみれば、観客は「この家に住みたいな」とか「この家は住みたくないな」と思うことと同じように、「この落語家さんは面白いな」とか「この落語家さんは面白く無いな」と思うのである。気に入った落語家、すなわち家が見つかれば追ってみたいと思うもの。それが独演会という、何人もの人々と一緒に家の佇まいや家の内覧をするような会へと繋がっていく。落語の演目は行ってみれば家に備わった部屋みたいなものかも知れない。

そう考えると、寄席に行く心持ちというもの変わってくる。絶対に心奪われる素敵な家(落語家)に出会うこともあれば、さして住む気の無い家(落語家)に出会うことだってあるのだ。紙切りはイレギュラーで、自分の望むものを与えてくれる。あれは住宅展示場で貰える粗品のような立ち位置だろうか。いや、もっと芸術性があるから、何とも例えずらいけれども。

そんなことを考えながら、昼席は柳家の住宅展示場。最後は高級住宅。

 

柳家権太楼『井戸の茶碗

出てくるなりお決まりのマクラだったのだけれど、驚愕だったのは話に入る瞬間の所作と間である。爆笑をかっさらってどんどん盛り上げて代書屋突入のパターンかと邪推していたが、右手を首の後ろに回して頭を垂れ、「麻布台の裏長屋に」と言った瞬間の権太楼師匠の恰好良さ。あれは強烈だった。笑いで温まった会場を一瞬にして物語に繋ぎ込む鋭い所作と間。そこに引き込まれる会場の空気感の流れが凄すぎて鳥肌が立った。この素晴らしさをどう表現したらいいか迷っているのだが、温かい空気感の中でいきなりスパッと刀を抜かれ、気が付くと異空間に誘われていたかのような感じ。見事に話題を屑屋の正直清兵衛さんに流れさせる技。あの辺り、何回でも繰り返して体験したいくらい、他の落語家さんには無い、まさに「お前はもう死んでいる」という、死んだことさえ気づかないというような、そんな鮮やかな展開に驚嘆。

さらに驚嘆なのは、爆笑の上塗りのような怒涛の展開。権太楼師匠の持つフラを全開に推し進めた井戸の茶碗。それまでどちらかと言えば心温まる人情噺として聞いていた井戸の茶碗が、裃の振り分けと相まって右へ左へ揺さぶられるかのような爆笑の嵐。文菊師匠では威厳と誇りを感じさせる高木 作右衛門や千代田卜斎が、権太楼師匠の手にかかると実に泥臭くて滑稽感が増す。屑屋の自暴自棄感は凄まじく面白かった。どちらかと言えば文菊師匠が屑屋より高木 作右衛門や千代田卜斎を浮き立たせているのに対して、権太楼師匠は屑屋を浮き立たせるとともに、権太楼師匠らしさを高木 作右衛門や千代田卜斎に加味していて、それがとにかく面白かった。同じ噺でも演じる落語家によってこんなに違うんだと改めて思ったし、権太楼師匠はなかなかクレバーに泥臭くて人間味のある登場人物を描いている。でも、笑遊師匠の爆笑感とどう違うかまでは、まだ説明することが出来ない。権太楼師匠には何かがまだ見えて来ない。その見えない何かが物語を引き立たせている気がして、今後機会があったら考えてみたいと思う。トリ以外の寄席では代書屋か町内の若い衆を良く掛けているけれども、大ネタになった時の権太楼師匠のマインドの差みたいなものを、ちょっと知りたくなった。

柳家はどちらかと言えば生粋の庶民派という気がする。夜席は実に対極的な金原亭、古今亭の番組だったので、その辺りの対比も一日お籠りでいて感じられて面白かった。

とにもかくにも、底知れない実力を秘めた権太楼師匠。最高に面白い井戸の茶碗で大笑い。素敵なトリで夜席へ。

 

打って変わって夜は品格と気品の夜席。ニックスという場末のキャバレーにいそうなおばちゃんを抜きにしても、気品が溢れている。特に二つ目昇進の金原亭小駒さんなんかは、見るからに落語の品格を湛えた人である。これからどう進化していくのか楽しみ。渋すぎる伯楽師匠の志ん生師匠との思い出からの『猫の茶碗』もさらりとしている。気品、漲ってますねぇ。

 

隅田川馬石『鮑のし』

不思議な雰囲気と間を持つ馬石師匠。そろそろ中毒になりつつある自分がいる。何て言えばいいんですかね、一定量を超すと発症する病気みたいな、そんな不思議な中毒性のある落語家さん。既に中毒になっているファンの方々も多いし、馬石師匠を通して出てくる登場人物はどこか抜けているし、あの表現しがたい感じは馬石師匠のオリジナリティなのだと思う。似ている落語家が一人もいない。ワールドとまではいかないけれど、馬石師匠独自のテイストが加味された会話が面白い。だんだん面白く感じられてきて癖になる。女将さんの感じが好き。

 

紙切りのリクエストは『白酒師匠・90歳のミッキーマウス・法界坊』。ここでも語りたいこともあるけれど、秘密にしておく。

 

トリはお待ちかねの庵。

 

桃月庵白酒『幾代餅』

桃に月に庵ってどんな場所なのだろうと想像する。パッと浮かぶのは桃源郷。桃のような柔らかいものや、どぶろくや甘酒のような白い酒のある小さい住居なんだろうなぁ。と想像する。五街道は道だし、隅田川は川だし、桃月庵は庵だし、蜃気楼に至っては現象である。観客は凄い亭号に誘われて行くんだなぁと思う反面、やはりそれだけの個性が際立った猛者揃いの一門であると思っている。

その一門の筆頭を進むのが、カワイイピンク色のカバを想起させる桃月庵白酒師匠。名前にぴったりの風体と、何よりも声と間が唯一無二なのだ。天性の声を持っていて、この声色を聞いているだけで惹き込まれるのに、絶妙に屈折した性格からもたらされる唐突な間と言葉、可愛らしい風体とは裏腹に鋭く釘を刺して毒づくスタイル。愛嬌のある人の毒づきのギャップだけでも笑える。

登場から徹頭徹尾、美しい声と気持ちの良い口跡。とんとんと物語が進んでいくと同時に、登場人物達の感情豊かな表情と声色。出てくる登場人物全員に白酒師匠らしさが滲み出ていて、爆笑に次ぐ爆笑。権太楼師匠の爆笑とはまた雰囲気の違う、現代性が加味された爆笑が巻き起こる。若い人には特にウケていて、これからの何十年と無敵なのではないかと思えるほどに非の打ちどころのない古典。100回聞いて100回外れないレベルで面白い白酒師匠。久しぶりに見たけれど衰えない美声と白酒節とも呼ばれる鋭いキレッキレの間。そして独自の演出とワードセンス。春風亭一之輔師匠もそうだけれど、現代の感覚に見事にチューニングを合わせたワードセンスに脱帽。また、現代の感覚に埋もれがちでありながらも、古典に独自の緻密さと品位を加味する文菊師匠。この世代は本当にもう、群雄割拠というか、猛者揃いというか、漫画キングダムで言えば王翦、恒騎、李牧とか、そのくらいの凄まじい力を持っている感じ。(逆にわかりづらい?)

菊之丞師匠とか割と人情噺寄りでやるのに、白酒師匠は爆笑スタイルで畳み掛けるように変化する清蔵の姿が面白い。脇を固める人々も見事に性格が浮き彫りになっていて、これはもはや新しい古典のスタイルなのではないかと思う。

権太楼師匠、白酒師匠と爆笑スタイルで幕を閉じた寄席。最高でした。素晴らしい落語家の番組。今日得た考えは住宅展示場の雰囲気であるということ。落語家という巨大な家に入って、演目という名の部屋に入って、大いに笑った一日だった。

何度入っても良いと思える部屋があるように、何度聞いても良いと思える噺がある。何度入っても良いと思う家があるように、何度聞いても良いと思う落語家がいる。末廣亭に限らず定席のある場には、そんな素晴らしい家と部屋へと誘う会があるのだ。鍵はいらない。払うのは木戸銭のみ。お金を払って木戸を開けて、素敵な家(落語家)を訪れて、素敵な部屋(演目)に出会ってほしいと思います。

それでは、また。素敵な演芸との出会いを祈りつつ、祈りつつ。

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The 鯉八ワールドの風刺性と変態性~2018年11月17日 ちゃお3~

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そういうのちょっと止めてください

 

ニキビ潰れるまで笑わしてやるぞー

 

俺の方がスケベ

  

えっぐたると教授の講演を終え、向かったのは内幸町ホール。オフィスビルが立ち並ぶ新橋。駅前では古本市が最終日だった様子。イルミネーションがとても綺麗で、冬に向けて男女のカップルがわんさか、わんさか。お綺麗な方々も次から次へと擦れ違う。気分はさながらファッションショーのランナウェイを大勢のモデルの進行方向とは真逆の方向に掻き分けながら進んでいる感じ。空気感もお洒落で、少し肌寒いかなとは思いつつも、屋台から漂う食べ物の匂いが温かい煙となってガードレール下に充満しているし、穏やかな顔をした人々やもう既に酔っ払いの限界みたいな酒臭いおじさんが喚いていたりと通常運転で、平和な新橋でしばし時間を潰す。

内幸町ホールは三度目。初回は『パーラーまろはちふく』で、二回目は『ちゃお2』。前回の『ちゃお2』記事はまだまだ未熟な文章ですが、下記リンク

 

https://blog.hatena.ne.jp/tomutomukun/engeidaisuki.hatenablog.com/edit?entry=10257846132605815530

前回は結構斜に構えていて『鯉八好きがなんぼものもんじゃい』くらいの意識で臨んでいたのだが、今回もう少し穏やかになって鑑賞する。鯉八さんの人気はすさまじいもので、開演30分前で既に長蛇の列。指定席なのになぜこんなに行列なのかと言うと、開場と同時に次回の独演会のチケットを購入することが出来るからだ。かなり先の講演のため、買ったことさえ忘れそうなくらいなのだが、その人気は凄まじく、もう既にこの開場後の段階でチケット完売なんてことが起こりうる。それほどにファンが熱心なのだ。おまけに土日ということもあって、ファンも行きやすい状態になっている。

客層判断だが、驚愕の女性率である。ほぼ8割が20代後半~50代後半の女性で、30後半~40代前半が多い様子。空気感が独特で、殆どゆるキャラを見に来ているような感覚のような方々が多い。また女性同士にしか分からない複雑な人間関係を見事に浮き彫りにするのが、鯉八さんの独自のオリジナリティで、男である私には分からないどろどろっとしたものが、さして灰汁や違和感なく伝わった結果、女性の圧倒的支持を得ているのだろうと思う。

少し不思議な雰囲気とお坊ちゃま感を発しながら、独自の間と可愛らしい喜怒哀楽のある表情で、ドギツイワードを緩和しているような語り口。かつてキモカワイイという言葉が流行ったが、ゆるドス黒い感じのニュアンスが鯉八さんからは漂っているように思う。これはあくまでも私の勝手な想像なのだが、女性は言葉を操る能力が男性よりも長けているが故に、その言葉の強度を男性以上に強く持っている感じがする。白という言葉一つをとっても、男性が白にオフホワイトだのなんだの、別の白を表すニュアンスの言葉を用いるのに対して、女性は白は白!の一点ばりというニュアンス。うーん、書いていていまいち伝わらない感じもするが、そんな感じである。

会場に入って、女性達にガッチリ囲まれると、私は妙にそわそわしてしまう。男はいつだって女よりも馬鹿な生き物だという固定観念から抜け出せそうにない。と思いつつも、本当に異空間の独演会である。前回も書いていると思うが、普段の寄席や他の落語家の独演会とは一ミリも被らない、鯉八さんの独演会にしか存在しない空気感がある。それはまだ私自身も未体験のマダムのゾーン、女の花園ゾーンなのかも知れない。と勝手に想像しているが、そういう『未体験ゾーン』の感覚が鯉八さんの独演会にははっきりと存在しているのだ。決してジャニーズとかイケメン落語家の独演会にある『素敵な殿方、眼福ぅ』というような空気感ではない。なんと表現すれば良いのだろうか。女性の持つ感性のギリギリの琴線をほぼ寸分の狂いも無く滑っていく感覚と言えば良いのだろうか。上手く言葉はまとまらないが、そういう幻想性を抱かせるようなワールドが、開幕する。

余談だが、開場前にはザ・カーディガンズの『カーニバル』が流れていた。歌詞を見ていても実に興味深い。鯉八さんはザ・ストーン・ローゼズのような『憧れられたい』ではなく、『愛してほしい』という姿勢を持っているのかも知れない。この『愛してほしい』はそのまま『俺を褒めてほしい』という言葉へと繋がってくる。さらに余談だが、今回の独演会の帰りに、酔っ払いの50代くらいのサラリーマンが「誰も俺のこと褒めてくれないからさ。たまには自分で自分を褒めたいじゃん』というようなことを言っていて、鯉八さんが見事に表現しているのは、そういう部分なのだと思った。

さて、長くなるので開口一番。

 

桃月庵ひしもち『子ほめ』

舞台袖から出てきたのは、お笑い芸人のモンキッキー(元芸名:おさる)に似たひょろひょろっとしたひしもちさん。顔が何とも言えない幸薄感(褒めてます)であり、吐き出される言葉もひょろひょろとしている。実は新作もやる前座さんで、最初に見た時より随分と声が出るようになっている。白酒師匠譲りのキレの良さにひしもちさん独自の雰囲気が足されて、可も不可も無い『子ほめ』。前列右側のお客様は結構温かくて、お決まりの個所で笑いが起こる。まだこれと言って目立ったところは無いけれど、着実に技術力を上げている様子。さらりと舞台袖に下がっていく。

 

瀧川鯉八『ぷかぷか』

独演会の主役である鯉八さんの登場。会場の空気がぐっと熱くなる感じがする。マクラは学校寄席の話。男子校と女子高の違い。この辺りのマクラは最後のトリネタに向けた大きな伏線になっていることに後々気づく。

強引にマクラを繋げてからの『ぷかぷか』。一人の男の栄枯盛衰かと思いきや!なお話。ある地道な努力によって自分すらも気づかなかった才能を見出され、あれよあれよとスターダムに駆け上がるが、時代の流れとともに衰退していく。再び返り咲いて活躍し、遂には伝説に!というような展開から、最後でさらに一捻り。今話題の映画を無理やりリンクさせるとすれば、『落語版・ボヘミアン・ラプソディ』=『ぷかぷか』という印象を私は持った。誰もが体験するかも知れない成功物語の中で、様々な思惑や事態に振り回される主人公。ところどころのネーミングセンスも奇妙で面白いし、現代のスキャンダルのような話も挟み込まれていて面白い。私はこの話を聞いて『かもめのジョナサン』を思い出した。登場人物が多く、主人公を取り巻く環境もめまぐるしく変わる中で、場面転換の時に発せられる言葉と間が見事なブリッジとして綺麗に作用している。そのため、人物が多く展開が早くても容易に想像することが出来る。一人の人間の栄枯盛衰をぎゅっと濃縮した様は、自分も同じような体験をしたら、きっとそう思ってしまうのかも知れないというリアリティがある。後半、主人公が再起を誓うシーンなども笑いもありつつ感動もあって、思わずうるっとくる。どうにかしてるのかも知れないが、自分の感情の琴線がめまぐるしい男の人生を追っていくうちに揺れ始める。ジョン・レノンの最後を彷彿とさせるようなシーンもあったりで、個人的には一本の映画を見るような感覚になった。最後のオチでさらりと着地点をずらすけれども、この辺りの言葉や間、声の張り具合も見事に映画的な音響効果を発揮していて、鯉八さんの細部までこだわった演出と展開に驚愕の一席だった。

この段階で既に、私は鯉八さんの落語には社会風刺的な要素が多く含まれているように思った。鯉八さん自身が自らの新作落語を『中の下と思っている人に向けて作っている』というように、まさしくこれは社会で生きる人々の全てに共通する部分を切り取った落語だと私は思った。落語という仮想の空間でありながら、現実との共通点が多く、現実に限りなく近い仮想世界の中で、葛藤したり、調子に乗ったり、立ち直ったり、神と崇められたりと、様々な人間の感情が渦巻いている。『かもめのジョナサン』のような寓話的要素ももちろん含みながら、より現代の事例を多く取り込んだ作品に仕上がっているように思えた。題材の馬鹿馬鹿しさでオブラートに包み込まれているが、現実の社会的な様々な問題に当てはめた時に、『ぷかぷか』に出てくる登場人物の行動や言動は見事に置換可能な状態であると私は思っている。だから、笑えるし面白いということの反面、現実社会のリアリティに迫っていて真顔になるという。相反する気持ちを私は鯉八さんから抱くのである。

さて、お次は真打昇進後のお方。

 

古今亭駒治『すももの思い出』

寄席では鉄道落語でお馴染みの駒治師匠。鉄道はもちろんのこと、プロレスやCO-OPの話題など、様々な新作を意欲的に生み出し続ける新作派の真打。流麗なる語り口は前回の真打昇進披露の記事でも書いたとおりである。高座へ上がる姿も背筋が伸びていて実直、真面目な雰囲気がある。お馴染みの学校寄席の話題から、駄菓子の話。私も昔食べたことのあるすももの話から『すももの思い出』。ちなみに私はすももが漬けられた汁は飲まずに捨てる派だった。

この辺りのネタの選択センスが駒治師匠はさすがだな、と思う。鯉八さんの『ぷかぷか』が大スターへの風刺だとすれば、『すももの思い出』は日常で体験する庶民への風刺だと私は思った。幼少期のトラウマ体験が大人になっても劣等感に多大な影響を及ぼすというような話で、最後は気持ち良くオチが決まる清々しい一席。これも落語という仮想世界ではありながら、ひょっとしたら誰か一人くらい経験しているかも知れない現実感のあるお話。主人公の劣等感に溢れた言葉の数々は面白いし、それを取り巻く脇役も面白い。さして大きな山場のある話ではないのに、随所に挟み込まれる感情の緩急が面白くてついつい引き込まれる。何より、駒治師匠の口跡は聴いていて心地が良い。まるで心地の良い電車に乗っているかのような心地よさがあるのだ。

ネタの詳細は他に任せるとして、普通の人間が体験するであろう様々な心の傷、そしてどうしようもない環境、つい嘘をついてしまう虚栄心。そんなものが面白おかしくないまぜになった作品で、聞く者の『酸っぱい思い出』にフィットしてくるような、会の流れに完璧に沿った一席。もし駒治師匠に興味を持たれた方がいたら、是非とも『鉄道戦国絵巻』や『十時打ち』を聞いて頂きたいと思う。

気持ちの良いオチで仲入り。

 

瀧川鯉八『暴れ牛奇譚』

仲入り後はマクラは無く占い師の場面から、『暴れ牛奇譚』へ。社会風刺の小噺を繋げたような作品である。暴れ牛が来るという夢を巡る長老と副長老の権力闘争や、生贄を巡る民子の葛藤など、物語で隠されてはいるが、社会に生きる人々が体感する人間同士の立場を巡る争いを見事に落語にした一席。私個人としては、長老のずる賢い感じ。新長老になった副長老の戸惑いの感じ。生贄になる前と後で態度を変える民子の様子が興味深かった。この辺りは醜く書けばどこまでも醜くかけそうな話題で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のような短編小説的な趣がある。菊池寛の『義民甚兵衛』のような後味の悪さを残さないのは、オチで見事に着地点をずらしているからだろうと思う。暴れ牛は動物の牛ではなく、何かの比喩だったりするんじゃないかと私は思った。生贄に捧げられた民子がそのあとどうなったかは語られない。ただ一言「意外とゴツゴツしてる」という言葉から想像するのは、生贄に捧げられた民子自身も想像しなかった、新しい変化なのではないだろうか。暴れ牛とは唐突にやってくる時代の流れだとしたら、その時代の犠牲者として民子が存在していた。だが犠牲者だと思っていたのは時代の流れから逃げた村人たちの方で、当の民子は実は時代の流れに胸をときめかせたのではないか。とか、色んな想像が出来るのだが、まだどうにも確証が無いので、これは聴いていくうちにおいおい考えて行こうと思う。

 

瀧川鯉八『にきび』

一度舞台袖に下がって、お馴染みの出囃子で再び再登場。敢えて書かないが、冒頭から過激なワードを連発。私の近くにいた客席の女性が「使わねぇーよ」とぼそりと言っていたのが印象的。実は冒頭のマクラから「俺はお前たちよりエロい」とか「ニキビ潰れるくらい笑わせてやるぜー」みたいな発言をしていて、それが見事に繋がったネタ卸しの『にきび』。感想としては、「え?何これ、催眠?快感へと誘う催眠?」くらいの強烈なワード連発で、引くか、引かないで乗って笑うかの見事な二択を迫られる一席。私は大いに笑ってしまったのだが、会場の得体の知れない笑いの質、会場の感情を真っ二つに叩ききるような強烈なワードの連続で、特に前方舞台より右側の女性のお客様には馬鹿受けの話だった。この際どさに笑えるご婦人は、相当に酸いも甘いも噛み分けてきている方々であろうと思う。いっぱい紹介したいワードはあるのだけれど、これはせっかくのネタ卸しなので、是非ともどこかで出会ってほしいと思う。

終演後の男性のお客様の、何とも言えない複雑な表情が印象に残ったし、全員が晴れやかな表情というよりも、どこか気恥ずかしい表情で、僅かに伏し目がちになっているのが印象的だった。ガッハッハと笑って満足そうなご婦人もいらっしゃったが、そういう人は恐らく40代を過ぎたエッチな人だと私は勝手に思っています。

 

総括すると、極限までヒートアップしたカルト感もさることながら、笑いに包みつつも風刺的なニュアンスを感じさせる、まさに『中の下という意識を持つ人々』に向けた落語会だった。私はそれほど熱狂的な鯉八ファンという訳ではないので、是非とも鯉八さんが大好きという女性にお話を伺ってみたいと思っている。なんとなくの感覚であるが、ヴィジュアル系バンドが好きな女子と同じような雰囲気を、鯉八さんの独演会に来る女性から感じたのである。これはあくまでも私個人のアンテナなので、正しいとか正しくないという話ではない。

いずれにせよ、正しくカルト的な落語会であったと私は思う。さて、次回はどうするか考えましょう。お次はモモエ師匠ですから、これは鯉八ワールドと百栄ワールドの強烈なぶつかり合いになることでしょう。どんな話をやるのか楽しみ。

さてさて、そんなわけで日付も変わってしまいましたが、本日はこれにて。

明日はどんな素敵な演芸に出会えるやら。

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えっぐたると教授の台湾漫遊記~2018年11月17日 成城学校 小講堂~

縁は異なもの味なもの。袖擦り合うも他生の縁。Twitterで熱い講談論や自虐的に「この親父は」と呟いている『えっぐたると教授』が、母校に錦を飾るというので、発表された段階から行くことは決めていたのだけれど、敢えて言うまいと心に決め、講演を終えた後で発表するというスタイルを取った。

台湾に関する講演会を行うという話だったが、私はそもそもえっぐたると教授はどんな講演スタイルなのだろうということが気になった。常日頃、演芸を愛し、朝練講談会やその他の講談会に行っている様子。あまり落語関係の話は聞かないので、講談や浪曲に食指が伸びているのかなという印象。お写真を何度か拝見したことがある感じでは、若輩者の私が言うのも恐縮なのだが、好きなものをとことんまで好きになった人の目をしていて、私の友人にも同じ目をした人がいるので親近感が湧いた。

Twitterでなんとなく行くことを匂わせつつ、私は『寛永宮本武蔵伝』でお馴染みの『小野忠明の墓』を見に常楽寺に行ってきた。

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どこに墓があるのだろうかとずんずん奥へと進むと、寺の方から「おはようございます。お参りですか?」と尋ねられて驚き、「いえ、あの、そうじゃないです・・・」と言って足早に立ち去った。完全に怪しい奴だと思われたと思う。結局、小野忠明の墓前まで行くことは出来ず、常楽寺の看板と鐘を撮って退散。

成城学校の門を通ると、右にテニスコートがあった。中学生・高校生ほどの若い生徒達が声をかけてラケットを振っている。その手前の通路では陸上部であろう集団が短距離を走っていた。久しぶりに高等学校に来たな、という気持ちになって懐かしさを感じた。あまり良い思い出が無いぶん、楽しそうに友人達と会話をしている生徒達の姿を見ていると、なんだか少し寂しい気持ちにもなった。

成城と聞くだけで、私は頭が良くてお金持ちが多いイメージがある。白金とか、世田谷育ちと聞くだけで、ああ、お金持ちの住んでるところね。となるくらいの田舎者である。

何やら生徒と一緒に歩くご婦人方も、品が良くて知的な感じである。さすが成城だなぁ。と思いながら、小講堂へと続く階段を降りた。

小講堂へと入る前の広いスペースには、何やら海外研修に行ったという写真が並べられていた。水泳の写真もあった。トイレへ行くと、近くに剣道を行うスペースがあるようで、竹刀のぴしゃぴしゃという音と威勢の良い掛け声が聞こえてきた。うーむ、学校だねぇと思いながら用を足して、私は小講堂へと向かった。

小講堂のキャパは約600人。青い椅子席に600人のお客様がびっしりと並び、その様はさすがえっぐたると教授、という訳では無く、左・中・右と分かれており、右の席群はほぼ一人もいない。中央にまばらに散ったように客がいて、あとは左右にぽつぽつという感じ。ざっと50~60人くらいだろうかと思った。

小講堂の壇上にはPC画面がプロジェクターから投影されて映し出されている。何やら音楽も流れたが、舞台の右側にスーツ姿のえっぐたると教授を発見。体格が良い。何やらオイカワさんと呼ばれる方とお話をされている様子。

会場の客層(と呼んでいいのか分からないが)は、生徒が数名と、その生徒の母親らしい人がちらほら。ご婦人が多く、後列には渋めの紳士がぽつぽつ。どんな会場になるのやらと思いながら、定刻の14時になってえっぐたると教授の自己紹介の後、2時間の講演会が始まった。

 

えっぐたると教授『台湾あちたりこちたり』

えっぐたると氏のまず第一声を聞いて、思い浮かべた人物は林修。若干声質と語りのテンポに似たようなものを感じた。それでも、演芸を愛する人として、まずは観客を引き付けるために軽い話をする。自分は一日喋りっぱなしでも平気なこと。長い話よりもむしろ短い話の方が緊張すること。そして何よりキラーフレーズ「皆さんがうんざりするくらい喋ります」で、会場から笑いが起こる。内心、おお、掴みはばっちりだと思いつつ、話題は台湾に纏わる数字の話。輸入・輸出・輸出入の話から、日本に来る留学生はどこの国が多いかなど、普段何となく想像していたことが具体的に説明された。といっても頭の片隅くらいに置いておこうかなと思ったくらいで、詳しいメモを取ることは無かった。ところどころで客席の、特にご婦人方から笑いが起こる。中でも秀逸だったのは、『講演中でもTwitterのいいねが来ると、PC画面に映し出される』という実に素晴らしいシステム。何度かベストタイミングで『いいね表示』が出てきて、それに対してツッコみを入れるえっぐたると教授が面白くて、私は「もっといいねいっぱい来ないかな」と若干期待してしまった。私のすぐ近くにいた生徒は「何あれ、やばくね」と、若干鼻で笑ってはいたのだが、予期せぬ間でふいに訪れる『いいね表示』あれはとても良かったと思っている。

約30分ほどを費やされて語られた準備運動的な話。恐らくここが予想より長かったがために後半に影響を及ぼしたと思えるほどの熱弁だった。ところどころで「皆さんご承知のように」とか「既にご存知だと思うのですが」と前置きをされてから話をしていたのだが、台湾について殆ど無知である私は申し訳ないと思った。ある程度台湾に知識があったら楽しめたと思う。小籠包、牛肉麺、マンゴーかき氷、いずれも台湾に纏わる食事だとは知らなかった。

語り口は若干高いトーンであるが、ところどころに垣間見える自虐的ワードとホワイトボードに書かれた年代の説明。恐らく秦朝の時代と言っているのだと思うが、私には志ん朝の時代と聞こえてしまう呪いがかかっていた。イントネーションがまんま志ん朝でも違和感が無かったので、あの江戸弁が私の脳内で聞こえたのは言うまでもない。

台湾を理解するうえでとても重要な前座噺という感じで、台湾という国が存在しないことや、台湾島やら金馬やら金門の話から、オリンピック選手はどこの代表となるのか、など非常に面白い話で、聴衆を巻き込んでいく姿は圧巻だった。随所でご婦人方の笑いが起こると、とても嬉しそうに早口になって声の大きさが一段上がるというのも、大学の教授っぽくてとても良かった。こういう講演を聞くこと自体、恐らく四~五年ぶりだったので、久しぶりに大学教授らしい人を見て嬉しくなる。好きなものを好きなだけ好きなように話す人の姿は、いつだってとても魅力的なものなのだ。

 

えっぐたると教授『ティンタイフォン調べ』

一枚の小籠包の写真から、話題は鼎泰豊(ティンタイフォン)という小籠包のお店のお話。私はこのお店自体初耳で、えっぐたると教授曰く「もとは油屋で、今は饅頭屋』。日本の新宿高島屋にあるらしく、世界第一号店であるというようなことを仰られていた。ここで見事な啖呵、ならぬ中国語?で出店している国名を言うと宣言。「私が中国語を読めるということをご理解いただきましょう」と言ってから、「台湾、日本、アメリカ、中国~~~アラブ首長国連邦、フィリピン」と見事な翻訳。「たかが饅頭屋がですよ、こんなに世界に出てるんです」というようなことを言いつつ、「この中に饅頭屋さんがいたらすみませんね。他意はありません」ときっちりフォロー。この辺りは演芸仕込みだなぁ。と若造のくせに分析してしまう。

確か名古屋に美味しい小籠包屋があったが潰れ、そこにアントニオ猪木酒場があったが、それも潰れたというような話をされていて、それが見事に会場の爆笑をさらっていた。さらには台湾に行ったらもう、ティンタイフォンの小籠包を食べなきゃダメだというようなことから、パワーワード『小籠包ハラスメント』という言葉を発していて、台湾と小籠包に携わっているからこそ生み出されるえっぐたると教授のワードセンスに脱帽。連雀亭だったら500円払っても良いと思えるくらいの記憶に残るワードでした。思わず私もスケジュール帳にメモをしてしまった。アントニオ猪木酒場からの小籠包ハラスメントというワードだったと思う。どちらもとても面白いワードだった。

 

えっぐたると教授『パイナップル騒動』

落語通の方ならば既にお気づきかも知れないが、今回は落語の演目に若干準えて、私的にえっぐたると教授の講演をネタとして分割している。最初の30分は柳家小満ん師匠の名作『あちたりこちたり』、二作目は『大工調べ』、そして三作目は柳家小三治師匠の『ドリアン騒動』のオマージュだ。

私も初めて知ったのだが、パイナップルは地面に作られるという。ずっと木になるものだとばかり思っていたので驚いた。一面のパイナップル畑の写真や、パイナップル製造工場の写真もあり、台湾が土産物に力を入れているということが分かってくる。この辺りはえっぐたると教授もかなりヒートアップしていて、パイナップルという単語を連発、パイナップルケーキの話では実に熱の籠った談志ばりの語り口で、パイナップルケーキの味の変換を見事に表現されていた。ここでもご婦人方の波に乗るような笑い声が誘い水になったのか、非常に興奮されて話をされていたように思う。私はパイナップルケーキを食べたことは無かったので、水増しされた方と現在のとで食べ比べをしてみたいなと思った。

ここで気づいたことは、えっぐたると教授の指使いである。人差し指をくっと伸ばして身振り手振りで伝えようとするさまに、松之丞さんのエッセンスを感じた。また、語りの随所で「これは一体何か」とか、「じゃあこれは、どういう意味か」などの前フリを行っていて、講演スタイルは講談の知恵が活かされているんだなぁと、演芸ファンとしてそんなところを興味深く見てしまった。

また、美味しいパイナップルケーキの味を言葉で表現するときの気持ちの籠りようもすさまじい。「これがめちゃくちゃ美味い」と文章で書いても何も伝わらないが、あの間とトーンは聴いているこちらも思わず食べたくなるくらいだった。

 

えっぐたると教授『憧れの海の向こうの甲子園』

巨大な噴水の上に、泥棒が物を盗んで逃げている最中のような人間の像がある写真。これは熱投する投手を模した像であるらしく、話題は台湾の野球事情の話へ。この辺りは真面目なトーンになったのだが、随所で挟まれる『いいね表示』が不意の緩急になって笑いが起こる。因みに今回のタイトルは笑福亭福笑師匠の『憧れの甲子園』のオマージュ。

台湾という国は一般的に親日だと思われているが、映画『海の向こうの甲子園』と同じ監督による『セデック・バレ』という話題へ。この辺りの話は実に興味深い。一方は抗日、一方は親日と、見事な二項対立を提示しており、私はこの話題をとても興味深く聴いた。というのも、私は台湾だけが中国や韓国と比較して唯一の親日派であると思っていたからだ。あまりこの辺りの話は色が付くといけないので深くは追及しないが、一人の監督から生み出された映画が、これほどまでに相反するものであるという一つの事実に、何かさらに国家というものに対して考えを深めて行くヒントになるのではないか、と私は思ったのである。印象としては台湾は様々なものを取り込みつつ発展してきたようなイメージを、何となくこの辺りから抱くようになった。つまり、台湾という島嶼が様々な国々の様子を眺めながら、或いは侵されつつも独自の発展を遂げてきたというような、そんなぼんやりとしたイメージを私は抱いたのである。

既に時間は1時間を超えている。えっぐたると教授の熱い思いはヒートアップして「ここまで、ここまでちょっと話をさせてください」という姿が微笑ましい。私の大学時代にも少人数だった『好きなことを好きなだけ話したい人』が見れて嬉しかった。幾つか写真を紹介されており、チャペルや大学、文理大道?も写真とともに紹介されていた。語りたいことが溢れてしまっている状態で五分の休憩。「本当は休憩を取りたくないんですけど、皆さんが疲れてしまうので」というような配慮。「じゃあこの辺りでチョーン」というような、『木がチョーン』と言って一旦幕切れというような、歌舞伎?文楽的ワードが入っていたが、会場で反応していたのは私だけだったかも知れない。

私は全く疲れは感じず、むしろもっと聴きたいと思いつつもの休憩。すなわち、仲入りだ。

 

えっぐたると教授『台南・道具屋』、『蜜豆』

仲入り後は台湾は台北よりも台南というようなことを仰られて、話題は国立歴史博物館の宝物の話。茶碗やら円の彫り物などの写真がスクリーンに映し出される。非常に高い値段であることや、台南を推す語り口に熱が籠っていた。台湾の大部分が山脈であることで、人口密度が非常に高いという話をされていた。話題は『道具屋』から『味噌豆』ならぬ『蜜豆』の話題へ。「私のような粋な人間は、豆缶うんぬん」という「粋な人間」ワードを三回繰り返し、ご婦人方の笑いを引き出す。この時のえっぐたると教授の表情を見ていると、「ああ、ウケるって楽しそうだなぁ」と見ているこっちも微笑ましい。伸べえさんを見ている時に感じるような「他人の笑いが自分のことのように嬉しい状態」になって話を聞いていた。

私はあまり甘いものが得意では無く、それほど興味はそそられなかったが、標高2000m辺りにあるレストランの話を饒舌に語るえっぐたると教授を見ていると、思わずそのレストランに行ってみたくなった。景色とか、その他の空気感はどんな感じなんだろうと思いつつ聴いていた。えっぐたると教授の講演は食べ物や、歴史、レストランなどの話の際に、どう感じたかということや、どういう事実があったかというようなことが主として語られていた。どちらかと言えば私は食べ物よりも、その食べ物を出す店の風景、佇まいに興味が湧いた。確か何かの麺類の写真の時に「夫婦がいつも喧嘩していて、その喧嘩がむしろ味を引き立てていた」というような話をされていて、私としてはそういう話題の方が好みだった。これはあくまでも私の好みだが、食べ物やレストランで出される食事の味よりも、そのレストランがどんな空気で、どんな店構えで、どんな店長や従業員がいるのか、レストランからの眺めはどんな感じか、というような周りの情報の方が気になってしまう。むしろ、自分がそういう風に物事をとらえていたのだと気づいて、その差異というか捉え方の感覚の違いが非常に面白かった。

演芸を鑑賞するときも、私はどうしても周囲の状況、場の空気感が気になる性質であるらしい。これはどういう理屈でそうなったかは分からない。久しぶりに講演なるものを聞いて、そんなことを発見した自分に驚く。

話題を戻す。台南の通のお土産として、サクラエビカラスミ、ごま油の写真が映し出された。もしも台湾に旅行に行く機会があったら、是非とも購入したい。

話が前後したが、茶葉の話も興味深かった。ウーロン茶の色や貿易関係の話。さすがに話題が多すぎて全てを覚えきることは出来なかったので、要所要所のワードをメモしつつ講演を聞いていた。警察の話やらもあったが、どういう流れでそうなったのかは覚えていない。馬を降りろという看板の話、『テイセイコー?』なるものの話もあったが、詳細は覚えていない。

 

えっぐたると教授『夢の跡』、『バナナ高雄(さらりと)』

時刻はまもなく16時になろうとしている。どんな風に講演が収まるのだろうかと若干ハラハラしつつ聞く。写真は17世紀の壁の話題から、別の場所で見た要塞の壁の話題へ。この辺りも軍記的な匂いは感じられたのだが、いかんせん時間が差し迫っており、バナナ工場の話題なども写真が多く、時間さえあればじっくり聴けたであろう部分があって、それを詳細まで聞くことが出来ずに少し惜しい気持ちになる。

16時近くになるとオイカワさんがえっぐたると教授の横の辺りの席に座る。横から表情を見ていたが若干険しい様子。まさか時間超過を咎める気かなとハラハラしつつ、多量の熱意を残してするりと講演が終了。どちらかと言えば浪曲的な、ストンッと落ちないが後を残すような講演だった。

講演後に校長が感想を述べた。お綺麗なご婦人の校長で、まぁ、その、校長らしい当たり障りの無い感想を述べた後で、「さすが、成城生」で笑いが少し起こる。校長という立場上の発言だなぁと思っていると、壇上からぺりっ、ぺりぺりっと音がする。むむっ?と思って壇上を見ると、何やら紙を剥がしているえっぐたると教授。この辺りも見事に大学教授っぽいなぁという感想。私の友人そっくりで、自分の好きなことを語り終えると他のことには一切気を配らなくなる状態になっていた印象。校長の説明によれば「えっぐたると先生は名刺を剥がしておられます」とのことで、校長の話の最中に名刺をぺりぺり剥がすえっぐたると教授の姿を見つつ、会場を後にした。

 

全体的な講演の感想を述べるとすれば、台湾に対する熱い思いを噴水の如く提示したえっぐたると教授の姿が、実に気持ちが良くて、私が大学生の頃に見た好きな教授の姿と重なって、とても懐かしく思ったと同時に、私が大学生だったら履修していただろうと思う。台湾に纏わる話は面白いし、脇を固める小ネタや『いいね表示』も面白い。何よりもえっぐたると教授が楽しそうに、時々自虐的になりながらも語る様が面白かった。二時間という時間はとても短かった。それほど台湾に興味は無かったが、台湾というものの一部分を垣間見ることが出来て非常に有意義な会だったと思っている。美食の固定観念を超えると題されていたが、結構グルメな話題が多かったのも興味深い。

何よりも台湾国内における二項対立の視点というものが、私がトーマス・マンの『魔の山』で感銘を受けた思想と重なって、とても興味深かった。この視点を持っている台湾人の思考や、生活、社会思想なども今後は知りたいなぁと思った。

恐らくえっぐたると教授はまだまだ話足りないと思っているだろうし、それこそ『慶安太平記』や『寛永宮本武蔵伝』並みの『台湾漫遊記』を連続物として、語りつくせないほどのネタをお持ちの筈である。二時間という尺であっても、まだまだ正雪の生い立ち、似巌流、も語り終えていないくらいではなかろうか。三方ヶ原軍記の読み抜きのようなものであろうか。いずれにせよ、もしもまた機会に恵まれたら、台湾の話をより詳細に聴いてみたいと思う。

最後に名刺を頂く時間があったのだが、恥ずかしいし、あまり身バレをしたくない性格(といいつつ結構バレるような情報を流しているのだが)なので、名刺を頂くのはやめて足早に会場を去った。

時刻は16時を過ぎている。次の会場に向かわなければならない。足早に駅に向かっていると、同じ会場にいた生徒とその母親が講演の感想の話をしていた。5駅ほど過ぎてもまだ話をしていて、「中国や韓国と比べると、台湾は親日じゃない?」とか「台湾の歴史には興味あるけど」というような言葉が聞こえてきた。こういう名も顔も知れぬ人の話題に、えっぐたると教授の講演が影響を及ぼしたと、この記事の最後に伝えておきたい。

ざっと書いたら8000文字近くになった。えっぐたると教授にご満足いただけるかは分からない。けれど、私に素敵な情報やネタをくださった恩返しとして、記事を書かせて頂きました。直接お話することは無いと思いますが、ここに感謝の意を記します。素敵なお声と、自らの研究に対する熱い思い。座布団の上では無く板の上で繰り広げられた素敵な台湾のお話。またご縁がありましたら、その時はまたレポを書きます。

素敵なネタ卸し(?)の会でございました。

この後は新橋へ向かい、天才を見に行ってきましたよー、うほほーい。

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大丈夫だ、しんぺぇねぇ!~2018年11月14日 古書くしゃまんべ 桂伸べえ独演会~

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今日も絶好調ですー

 

そりゃ良かったねぇ

 

雪舟って書いておいてください。

 

エボシボタンザクラでも見てこい

 

え、ちょっと何この人パワハラ・・・

 

頭痛が続いている。昨日の朝からずっとズキズキ痛んで、偏頭痛というやつで、立ち上がったりするとピキンッと突っ張るような痛みがある。眼精疲労か肩こりなのかは分からないが、ロキソニンを飲んでもそう簡単には治らない様子。偏頭痛が続くと気分も少し落ち込むのだが、今日はお待ちかねの会があったので行ってみた。

王子の駅から徒歩8分ほどの場所にそれはある。『古書くしゃまんべ』という名で、店先の佇まいが何とも言えない良い雰囲気。照明も温かくて、なんだか秘密基地みたいな場所なのだ。もっともっと社会が豊かになったら、こんなところで芸談を語り合うような人々が出てくるのかも知れない。今、そんな芸談を語り合う場がどこにあるのだろう。私はそんな場所に行ってみたいのだが、なかなか情報が集まって来ないので寂しい。

王子という街は王子駅前交差点を過ぎた辺りの公園が少し賑やかで、その先へと進むとお洒落な飲み屋さんや、美容室などがある。何か特別の魅力があるのかなぁと思ったのだが、あまり発見することは出来なかった。しいて言えば公園の雰囲気が良いとか、王子という名前の響きがいいなぁと思った。そんな夜の公園がこちら。

 

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『古書くしゃまんべ』の店内に入ると、オレンジ色の半被を着た金子ざんさんがいらっしゃった。Facebookではお馴染みの『ざんぱら企画』の主催者さんで、素敵な紳士である。直接お話するのは恥ずかしかったので、そそくさと席に着く。ざんさんは見た目からしてとても可愛らしくて、人の良さが滲み出ている素敵な方である。何せ伸べえさんの独演会を企画するほどだから、悪い人な筈がない。伸べえ好きに悪い人無し、である。

店内の様子。これもまた素敵である。ちらっと周りの方の話を聞いてうろ覚えなのだが、創業48年のお店で、カフェスタイルになったのは7年前らしい(正直あまり覚えていないので、正確ではない)。

写真をご覧になって頂けると分かると思うが、棚に演芸・サーカス・大道芸関連の書籍が並べられている。私が中学生の頃に人にウケたくて買った『ウケる技術』という本が並べられていて、なんだか家の本棚を見ているようで嬉しくなった。

と同時に、私は不思議な感覚に襲われた。来たるべくしてこの場に来たんだなぁという気持ちになったのだ。懐かしさと人間の魅力が壁に染み込んでいるかのような、とても居心地の良い空間で、私は辛口のジンジャーエールを飲みながら、家にいるような気分になったのだった。

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居心地の良い空間で聴く落語もまた一つ、思い出に残るだろうと思いつつ開演時刻を待つ。穏やかで温かい空気と匂いに包まれて、とても落ち着く。朝からずっと続いていた偏頭痛もすっかり鳴りを潜めた様子で、開場に集まったざっと10~12名の間に優しい空気が流れ込んだ。

出囃子が鳴ってお目当ての登場。

 

桂伸べえ『熊の皮』

エピソードトークは飛行機話。するりと演目に入って優しい夫婦の会話で幕開きの『熊の皮』。なぜか凄いほっこりするのは、伸べえさんの口調のせいか、単に私の涙腺が緩いのか。お互いを思いやっているかのような、決して夫婦の差がはっきりとはしていない感じの会話がとても好きである。前回聞いたときと変わらず、優しいメロディを聞いているようで温かい気持ちになる。夫に色々とお願い事をする奥さんの姿がとても優しくって、ああ、いいなぁ。素敵な夫婦だなぁと思う。特に「そりゃよかったねぇ」とどこのタイミングでのセリフだったか忘れたが、その間とトーンに思わずうるっときた。不思議なもんですねぇ、空間がそうさせるんでしょうかね。

赤飯のお礼を言いに行くくだりや、医者のお使いさんが「せんせー、甚兵衛さん、今日も絶好調ですー」というくだりが面白い。何だろう、滑稽噺なのに人情味があるというか、登場人物の誰もがお互いにお互いを心得ている感じ。これって、普通の人には出せない空気感だよなぁ。と思うし、他の人で聞いた時には絶対に感じられない優しい空気感を伸べえさんは醸し出している。どんどん伸べえさんの魅力が滲み出てくる、奥の深い一席。

 

桂伸べえ『だくだく』

ちりとてちんでの失敗マクラから、泥棒の話をと言ったとき、思わず私は「おや、夏泥か何かかな?」と思ったが、なんとまさかの『だくだく』。これが伸べえさん、よくぞその話を習った!そして習得した!と思えるほどの会心の一席。『だくだく』の筋は他に任せるとして、冒頭から伸べえさんが実に楽しそうに語っていく。詳細はお楽しみにしてほしいので敢えて書かないが、もう伸べえ印のパワーワード連発の爆笑の一席である。聴いた後に仲入りだったのだが、これが凄すぎて大爆笑だった。

是非聞いた時のお楽しみにしてほしいのは、壁一面に白い紙を貼った男の部屋を見て画家にある発言をする。これがもう、凄いパワーワードである。

余談であるが、Twitterで私はナホシツさんという方のツイートを見た。落語家を画家で例えると誰かという話題である。面白かったのでここに記すが、私としては文菊師匠は雪舟春風亭一之輔師匠は白隠、鯉八さんはミロコマチコ、松之丞さんはドラクロワ、笑遊師匠は岡本太郎という印象を抱いている。

そんな画家繋がりで、まさか伸べえさんから『だくだく』を聞くことになろうとは思わなかった。特に画家と男のやりとりが楽しくて、聞いているこっちもウキウキしてくる。どんな後半になるのだろうかと思いきや、意外とあっさりと「つもり」の話をして終了。個人的には泥棒と男の「つもり部分の応酬」もたっぷり聴きたい!と贅沢にも思ってしまった。いずれにせよ、伸べえさんのオリジナリティが随所に発揮された素晴らしい『だくだく』だった。

こういう滑稽噺は真打の師匠でさえ難儀するであろうと思う。ある程度齢を重ねて風格が出てくると、滑稽さに影響を及ぼして、滑稽に見えなくなってしまう部分がある。与太郎を地で行く笑遊師匠の天衣無縫さとか、伸べえさんの滲み出るフラは滑稽噺に実に適していると私は思っていて、『つる』のような演目を是非とも伸べえさんで聞いてみたいと思っている。

とんでもなくウキウキで楽しくて、色んなくすぐりの入った『だくだく』が終わって仲入り。

仲入りで私くらいの歳の方が「やばくね?あの間が凄くね?」「ていうかさ、あのほら、~~ってどういう意味?」「あ、あれね。あれ面白いよな。~~はこういう意味があってさ」という、伸べえさんのパワーワードを語り合うお客様がいて、私はめちゃくちゃ嬉しくなった。そうそう、そういうのを考えるのも伸べえさんの魅力だよね。と一人心の中で思っていたので、ここでひっそり公開しておく。

 

桂伸べえ『宿屋の仇討ち』

これぞ桂伸べえという『だくだく』の後で、もはや私の中では思い出の一席『宿屋の仇討ち』。場の空気が正に芸を作って、穏やかで温かい『宿屋の仇討ち』になった。連雀亭で聞いた時のパワーワード「なんでこういうときは早いのー」が、今回は案外さらりと伊八の口から漏れていて、あの時は狙った間とトーンじゃなかったのかと驚いた。連雀亭での絶妙の間に比べるとテンポが少し早い気もしたが、侍の拍手はしっかり鳴っているし(ここ、深夜寄席での思い出があるだけに、ついつい笑ってしまう)、声も侍っぽくなっていて、深夜寄席で見た頃とは比べ物にならないほど上手い。マクラも上手くなってるし、話もどんどんうまくなっているし、もはや子供の成長を見守る母親くらいの気持ちで鑑賞しているのだが、見るたび上手くなっているのが分かるし、丁寧さを心がけているところも凄い。この『宿屋の仇討ち』も、私にとってはどんどん伸べえさんの魅力を知れる素敵な一席である。

 

総括すると、『古書くしゃまんべ』で見る伸べえさんの落語。また一味違った雰囲気が加味されていて最高です。また、お初の『だくだく』。これはいずれ寄席のトリで大勢の大爆笑をかっさらう、その一端を垣間見た素晴らしい一席でした。もう伸べえさんの記事は絶賛しかありません。とにかく凄いです。

これからどんな風に『だくだく』が変わっていくのか、そして、次はどんなネタを覚えて見せてくれるのか。とても楽しみでならない。

久しぶりの伸べえさん。やっぱり大満足。昨日の若干消化不良の遊雀スペシャルに比べれば、もう大満足の会でした。

今回の会を企画してくれたざんぱら企画さん、金子ざんさん。そして古書くしゃまんべの方々に深くお礼を申し上げます。シャイなのであまりお話することが出来ずに申し訳ありません。

さてさて、こっそり次回予告ですが、おっと、止めておきましょう。もう既に私に気づいた方はひっそりと遠くの火事を眺める気持ちでいてください。まだ気づいていない方は、この人かな?と想像しつつ演芸に触れてください。

素敵な平日の夜。私は最初から伸べえさんをしんぺぇなんかしてません(笑)最高の会。次も行きたい!

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きっとみんなが『待ちかねた(?)』~2018年11月13日 遊雀式スペシャル 深川江戸資料館~

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日本一お客に優しい落語家だから

 

しまったぁ、こりゃ芝居だったぁ

 

10秒黙ってみましょうか

 

判官が切腹するから由良助は行くんだ

澤村淀五郎の切腹なんか行きやしねぇよ

 

肚だな、お前さんは肚がいけないよ

午前0時に即完売したという『遊雀スペシャル』のチケットを握りしめ、名演を期待しつつ江戸深川資料館 小劇場に向かった。

会場に入ると、スーツ姿の50代~60代と見られる男性方が大勢ロビーでお話をされている。あまりにもわいわいガヤガヤしていたので、何を言っていたかは分からない。着物姿の方もいらっしゃったし、ご婦人方も多い。全体的に『遊雀師匠を見に来ている』という方々が多い様子だった。恐らくサラリーマンでも役員クラス、或いはそれなりの地位を獲得したスマートな紳士が多い。また、お綺麗なご婦人や落語会には付き物ののんびりとしたお顔立ちの方まで、二日前の渋谷らくごとの客層のギャップが凄すぎて、正直体と脳が追い付かないとは思いながらも、どんな会になるのだろうと思って期待していた。

ロビーには昔の名横綱大鵬の展示物が飾られてあった。今回の『遊雀スペシャル』は落語、講談、浪曲の三扇だったので、思わず『巨人 大鵬 卵焼き』にかけて、『遊雀 太福 松之丞』と身バレ覚悟で呟いたが、誰も反応しなかった。

大鵬の展示物に興味を持ったお客様は私を含めてもそれほど多く無かった。みんなが遊雀師匠やら松之丞さんに胸をときめかせている様子で、三人全てに期待をしている方というのは私だけだったのではないでしょうか(調子に乗っている・・・)

会場入りして着座。開場時刻は15分押していたが、遊雀師匠が飛んでやってきて「すみませ~ん、申し訳ございませんでした~」と直々に頭を下げていた。最近、なんだか色気の増したと勝手に思っている遊かりさんが受付にいて券を切ってくれた。落語ファンは心が広いので、誰も文句や不満を言わずに会場入りすることができた。

300人ほどのキャパにずらっとびっしりお客様が並ぶ。志茂田景樹のような髪型の方から、森星似の女性、Twitterではお馴染みのお着物の女性まで、それ相応に個性の際立つお客様もいらっしゃったが、松之丞会では常連の方々の姿は見えず、この辺りからよりはっきりと『遊雀師匠を待っている』客層だということが分かってくる。

オープニングは遊雀師匠、松之丞さん、みね子師匠、太福さんのかなり豪華なトーク。みね子師匠はお綺麗だし可愛いなぁ。好き。とか思いつつ、松之丞さんと太福さんを誘った経緯を語る遊雀師匠。ここでも松之丞さんの振る舞いが上手くて、「開口一番の太福兄さんでだあっと上がって、私はだらだらっとやって、最後は遊雀師匠で再びズバンっと盛り上がって終わるっていう」というようなことを仰られていて、それに恐縮する太福さんの感じも、いつもの太ちゃんだなぁと思ってほっこり。軽く赤穂義士の話題に触れ、持ち上げに持ち上げられた太福さんと、あくまでも自分がメインじゃないということを自覚して行動する松之丞さんの振る舞いは、なんだかそれぞれに色んな思惑がありそうで面白かった。遊雀師匠も松之丞さんに褒められて(どう褒められたかは書かないけど)、思わず「本音を言えよ!本音を!」と突っ込まれていて、なんだか微笑ましいなぁと思いつつも、松之丞さんの思惑を勘ぐってしまった。

隅田川馬石師匠から習った『淀五郎』は、今回ネタ卸しだという。事前にネタ出しはされており、太福さんは『不破数右衛門の芝居見物』、松之丞さんが『中村仲蔵』、そしてトリの遊雀師匠が『淀五郎』という、出演者と演目だけで垂涎ものの凄い会だ。

一体どんな遊雀スペシャルが見れるのか期待大である。

まずは開口一番。もはや『我らが』という形容が付くほどの浪曲師。

 

玉川太福/みね子『不破数右衛門の芝居見物』

万感の拍手と客席からの掛け声(聞き取れなかった)に迎えられて登場の太福さん。マクラでは松之丞さんが後に出るということを、上手く表現して笑いを取る。でも、浪曲の世界で今、太福さんに肩を並べる若手はいないと私は思っている。講談には松之丞、浪曲には太福さんがいる。頑張れ!太ちゃん!と思いながら演目に入った。

不器用だけれども忠義に厚い、粗忽で無鉄砲だけど人情に溢れる人間をやらせたら、太福さんの右に出る者はいない。オープニングのトークで松之丞さんが「太福兄さんの不破数右衛門。これがねぇ、凄く良くて染みるんですよ。泣き笑いというね」というようなことを仰られていて、まさにその言葉通りの泣き笑いの一席。

浅野内匠頭の殿中松の廊下での刃傷事件、その後の切腹から一年後。向島で酔っ払いに絡まれた女を助けた不破数右衛門。女は中村座の役者で、助けてもらったお礼にと舞台を見に来てくれという。粗忽だが真面目な不破数右衛門は、武士が芝居を見て良いか堀部弥兵衛に確認する。忠臣蔵という芝居で、浅野内匠頭の刃傷事件が克明に表現されているという噂から、二人は芝居見物に行くことにする。

芝居の忠臣蔵を見て不破数右衛門は感極まる。今は亡き殿に瓜二つの姿をした判官の役者を見て男泣きする。この辺りの節と言葉が素晴らしくて、不破数右衛門の姿と重なる。芝居なのだが芝居だと思えず、目の前に切腹した殿がいると思い込むほどに感極まる不破数右衛門の姿に、私は不覚にも笑いながらも目からは熱い涙が零れた。判官を「鮒じゃ、鮒じゃ、鮒侍」と罵る高師直に思わずいても立ってもいられず、舞台に上がって高師直を殴りつける。そこで役者の髷が取れて、初めて「ああしまった!これは芝居だった!」と言って反省するが、周りの者から一人で歩くことを禁じられるという話。

玉川太福さんのこういう熱くて真っすぐな話が凄く良くて、私は大好きである。国本武春さんから教わったという『若き日の大浦兼武』や、『西村権四郎』のような話もとっても良くて、殆ど泣かされるのは太福さんの浪曲である。落語は笑って心が穏やかになるし、講談は誇りと勇ましさに勇気が湧くし、浪曲は人情と心意気に泣かされる。まさか開口一番から胸が熱くなって泣かされるとは思わなかった。

浪曲は本当に文章にするのが難しい。何よりも音と節は味わってもらわなければ何とも言えないからだ。物語をただ語るだけでは駄目で、その心意気の振れ幅というか、微妙なニュアンスを節で持って流麗に胸に染み込むように語るのが、浪曲という芸の素晴らしさだと私は思っている。加えて太福さんの人間らしさが加味されて、不破数右衛門の粗忽っぷり。決して語られないが、不破数右衛門に芝居であることを忘れさせるような芝居をする中村座。この想像の余地を見事に埋めてくる節と三味線。一度聴いたら、不破数右衛門の真っすぐさに泣くことは必死である。私の隣のお客様はぽかんとしていたし、会場全体が浪曲をあまり知らない様子で、拍手した方が良い場所でも拍手は起こらなかったけれど、私は小さく拍手をしつつ、太福さん、さすがだ。と思いつつ目から零れた涙を拭った。

たとえ遊雀師匠がトリの会であっても、自分に与えられた役割と浪曲という芸の魅力を引き出した太福さんは素晴らしい。会場の空気感も太福さんの浪曲に反応して笑いが起こっており、特に前列は反応が早い。さすがは落語家トリの会にくるお客様である。

最高の開口一番を終えて舞台袖に下がる太福さんとみね子師匠。お次はTheの佇まいで登場。

 

神田松之丞『中村仲蔵

第一声と間から、あ、今日はちょっと本気じゃないな。と私は思った。それは松之丞さんも認識している様子。何せ、ここは松之丞さんメインの会ではない。あくまでもトリは遊雀師匠。そして、遊雀スペシャルなのだ。

「本当はね、マクラなんか振らずに入った方がいいと思うでしょ。鶴瓶師匠との二人会みたいに、出てくるなりバンっとやった方がカッコイイの。でもね、今日はそれはやりません」

みたいなことを言って、山形のマクラで笑いを誘う。この辺りで松之丞さんも客層の感じをつかんでいたと思う。行けるところまでお遊び的な面白マクラを披露したところで、「これ以上のお遊びは止めます」と言って『中村仲蔵』に入った。その前に「今日はね、そういうマクラ振らずにやる感じじゃなくて、泥仕合ですから」というようなことを言っていた。こういう時の松之丞さんは割とガチである。

内容はと言えば以前ブログにも書いた『伝説の夜』回の『中村仲蔵』と比べると、やはり本調子ではない様子。前半は特に客席のゴッホン、ブホォというような咳と、なぜそのタイミングで笑うのか?と疑問ばかり浮かぶ笑いが起こり、客席にいた私も内心で(なるほど、今日は笑いに寄せて行く感じかな)と思って聞くモードに入る。深夜寄席の時の『真剣モード』に比べると、やはり客層がそれを求めていない感じが如実に伝わってきた。松之丞さんの凄みが笑いの間によって打ち消されつつ、後半はボルテージが上がって真剣味が増していくのだが、やたらと咳が多い客席に聴いている私も若干ペースを乱される。講談というのは、本当に客席が聞き入っていなければならない芸かも知れないと思う。その点、二日前の渋谷らくごは時計の時刻音はあれど、殆ど咳き込まず、誰もが真剣に聞き入っていた。再三にわたって書いているが『芸は演者と客が作る』ということを今回も感じた。今回に関していえば、松之丞さんの真剣な熱意に対して、呼応する客よりも呼応しない客の方が多かったという印象である。

だから、深夜寄席では印象的だった「堺屋ぁ!日本一ぃ!良い工夫だぁ!」も何度か繰り返されたのだが、間と空間とトーンが微妙にずれていて、最初に聴いた時のような痺れる感覚は無かった。少し残念に思いつつも、後半の見事な迫真の語りは真に迫っていたし、仲蔵の工夫、仲蔵に痺れた観客の様子は何とか善戦していたように思う。ただやはり残念だったのは微妙な間で起こる笑いと、咳込む音だったように思う。まぁ、仕方がないと私はあきらめることにした。この会場にいるのはあくまでも『遊雀師匠を待っている』人達なのである。そして、私もその一人である。

だからこそ、自分の立ち位置の中で精いっぱいの芸を披露した松之丞さんの芸は素晴らしかった。きっとトリでメインの会だともっと凄いのだろうけども(笑)今回は遊雀師匠を食うという感じではなかった。まだ二つ目という立場上での芸だったと、素人ながらにそんなことを思った。

「お次は中村仲蔵が座頭になって登場します」とあくまでも遊雀師匠に花を持たせて去っていく松之丞。輝くべき場所で期待以上の輝きを放つ男は、今回の場ではその輝きの位置が遊雀師匠にあることをしっかりと認識していた。良いリレーの後で仲入り。

 

三遊亭遊雀『淀五郎』

二日前に見た神田松之丞さん、すなわち講談の『淀五郎』の後で、今度は馬石師匠に習った遊雀師匠ネタ卸し、落語の『淀五郎』。これはそもそも比べてはならないものだと思いつつ、その違いを考えざるを得ないだろうと思いつつ聞く。

落語に出てくる淀五郎は、とにかく勘違い役者である。判官切腹に浮足立って周りの連中から呆れられる。松之丞さんの講談『淀五郎』とのセリフの違いを考えるのも面白い。「お前のは腹を切る真似をしているだけだ」という講談の團蔵に対して、落語の團蔵は「判官が腹を切るから客は見るんだ。誰が澤村淀五郎が腹を切るところなんか見るか!」と、あくまでも落語の常識に即して発言される。この辺りの淀五郎の苦悩、葛藤の浮き立たせ方というのが決定的に違う。松之丞さんの講談の淀五郎は本気で絶望している様子だが、遊雀師匠の落語の淀五郎は少し軽い。本気で死ぬ感じじゃないなぁと思うのは、やはり落語がそこまで真剣に聴く話ではないからだろうか。

中村仲蔵に出会うシーンや中村仲蔵の雰囲気も、講談と落語ではまるっきり違う。はっきり言って、講談の中村仲蔵を落語に求めたらガッカリする確率の方が高い。松之丞さんの講談の中村仲蔵の姿は、苦労して苦労して苦労して、芸を極めた者の至高の言葉のように感じられたが、遊雀師匠の落語の中村仲蔵の姿は、まんま落語界の芸人のようなアバウトな言葉に感じられた。特に松之丞さんの講談の仲蔵は具体的なアドヴァイスを淀五郎にする。腹を切る時の所作、耳の裏への仕込み、そして肚。この辺りの語りと間とトーンが、唯一無二の座頭、中村仲蔵を想像させたのに対し、遊雀師匠の落語の仲蔵は「あとは肚だな、肚」とか「本当に腹を切ったことは無いが、聴いた話によると腹を切るときは寒いって思うらしい」という言葉を聞いて、少し「あれ?軽い感じの歌舞伎の世界だな」と思った。二日前の記事で感じた伝統芸能の世界の厳しさを感じた講談の『淀五郎』に比べると、落語の『淀五郎』はあくまでもオチを言うまでの一つの過程に過ぎないのかも知れないと思った。ネタ卸しだからそこまで真剣に評価をするものではないと思ったが、今の私が思ったのはその辺りである。

仲蔵の助言を受けて舞台に立ち、見事な切腹を決める淀五郎。最後の「待ちかねた~」で終演。同じ四段目の演目をやっていても、落語の『四段目』と『淀五郎』の四段目の語りは違う。そのニュアンスと語りのリズムの違いを知ることが出来て興味深かった。どちらかと言えば落語の『四段目』のような語りが実に落語らしいし、オチも見事に決まっている。今回に関して言えば、私は講談の『淀五郎』を、講談の『中村仲蔵』とセットでオススメする。今まさにそれをやっているのは松之丞さんただ一人。是非とも出会ってほしいと思うものである。

遊雀師匠と言えば、十八番の『堪忍袋』や『宗論』のような爆笑派のイメージが強い。喬太郎師匠とはまた違ったベクトルで古典を面白おかしく演じられている方である。特に女形が素敵で、寄席で『堪忍袋』でどかどかウケているのを見るのは気持ちがいい。出だしの「殺すなら殺せ~」の感じも面白い。

ただ、私は遊雀師匠に爆笑を期待していた分、淀五郎や中村仲蔵のようないわゆる芝居話は正直期待していなかった。感想としては「ふ~ん、こんな感じかぁ」という印象を抱いている。とてもらしい太福さんと、また違った松之丞さんの一面を見ただけでも良かったし、四段目と淀五郎での語りの違いなども感じられてとても良かった。

午前0時にチケットを取ってから、今日までかなり『待ちかねた』。正直に言うと、それほど痺れる会という訳でも無く、個々の良さを改めて認識した会になった。私的には今日一は玉川太福さんだったかなと思う。

さてさて、そんなわけで遊雀スペシャル。あくまでも遊雀師匠がメインの遊雀式だったということで、熱心な私のブログ読者には、私の熱意が低調子であることが分かってしまうかと思われますが、これにて失礼。