落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

爆笑と凄惨の高低差~2019年1月15日 渋谷らくご 20時回~

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マコーレー・カルキン

 

(トイレ流すの、紐なんだな・・・)

 

待ちかねましたよぉ!グビグビグビ くぁあああああ!

 

慶安太平記が全然抜けない

犬のように冬が好き

冬が訪れると、自分が犬だということを否が応でも思い知らされる。犬は喜び庭駆け回り、猫はこたつで丸くなるという歌にもあるように、私は冬が来ると、それこそシベリアンハスキー並みに雪道を滑走する勢いで、街へ繰り出している。涎を垂らし、血眼になって、ハァハァ言いながら街を歩く訳ではなく、そこは獲物を狙う狩人のように静かに、ただただ自分の吐く白い息が薔薇にならずに消えていくことの悲しみを覚えながら、ぬくもりを求めて彷徨い歩いている。

街の寒さが厳しくなるほど、私は色んな服を着ることの出来る喜びを感じる。昔は熊の皮とか狐の皮とかを着ていた時代もあったのかも知れない。仮面を被って藁で作った羽織を着て、「アーノルド・シュワルツェネッガー」ではなく、「わりぃごはいねぇが~」と人の家の子供を泣かせるために服を着た時代があったのかも知れない。その時代に比べれば、私は何かしらの化学物質だか、カシミヤだかキンミヤだか知らないが、しょっちゅう焼酎そういうもので出来たコートを着ていて、寒さを凌ぎつつも、お洒落をする喜びを感じている。と言っても浅はかな知識で作り上げられたハリボテのファッションセンスであるから、原宿を闊歩するファッションセンスの極致、THE コシノジュンコ、THE にこるん、みたいな人達に比べれば、バカボンのパパくらいの、安定したスタイル。唯一無二のハラマキスタイル、程度のファッションセンスである。だから、私と同じくらいのファッションセンスの男性の隣に、白鳥のように眩い美人がいたりすると、具合が悪くなることが日常茶飯事左談次である。(失礼な使い方!)

 

渋谷らくごへ行くシュペット・ラガーフェルド

そんな劣等感に苛まれている私だから、冬の渋谷らくごに行くのは非常に億劫である。先ほどまでシベリアンハスキーだった男が、急にシュペット・ラガーフェルドになってしまうくらいの億劫さを発揮してしまうのである。黙っていてもコスプレやら、洋服のアイコンやら、そういうシンボル的な存在になってしまうのである(意味不明)

ホテルへと消えて行くカール・ラガーフェルドばりのセレブを見つめながら、シュペット・ラガーフェルドになった私は、ユーロライブに到着する。渋谷駅からユーロライブの途中でイキイキとしたカップルと擦れ違う度に、臓腑がマグニチュード0.1ぐらいの震度で揺れているかと思うほどの吐き気がやってくる。もはやチャオチュールが無ければ満足できない体になってしまうのである。最もシュペット・ラガーフェルドはチャオチュールなど絶対に口にしないだろうが。

チケットを切ってもらって、開場時刻までの間、しばらく周りの様子を見ていた。やはりかなりの人である。当日券などは行列で、よくぞ耐え忍ばれているなぁ、と思ってしまう。もっとも、当日券の並びには忍耐力と同時に、どうやって時間を潰すか、ということも問われてくる。さらっと見る感じでは音楽や本を読むか、友人と会話をする人が多い様子だ。こういう時間つぶしに私のブログ記事が役立ってくれたら良いな、と勝手に思う。

さて、開場して着座。比較的女性が多い様子である。前列はさすがの常連の布陣。どんな場所でも常連というものは一定数存在するので、初めて来て落語の魅力にはまり、仲良くなりたいなぁ。と思う人は、ご常連の方に声をかけてみるのも良いかも知れない。ま、私は絶対に話しかけてほしくないが。

 

立川談吉『千早ふる』

前回の記事でも書いたかも知れないが、私の中では『メロディアス談吉』の異名を持つ、ハイトーンと流麗な口跡を持った気持ちの良い落語家さんである。談志師匠の口調と、左談次師匠のさらりと流れる水のような美しい口調を混合させた、唯一無二の口調を持った落語家さんだと思っている。9フレット2弦A♭の音に近いハイトーンで耳に水を注がれるように入ってくる言葉。にこやかな笑顔の奥に強烈なこだわりを秘めながらも、その香りだけを客席に届けてふわっと江戸の風を吹かせてくれる。

演目の『千早ふる』は「知ったかぶりの隠居が、歌の意味を聞いてきた男に嘘を教える』というような内容の話である。『ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは』という意味がどういう意味であるか、その謎を解き明かしていく。

隠居も訪ねてきた男も、どっちもとぼけているような印象が面白い。さらにはお互いに物事を間違ったまま認識していくのが面白かった。本来であれば、上記の句は『百人一首』という歌の中で、『在原業平』という良い男が作った歌とされるのだが、メロディアス談吉さんは、そこを見事にズラし、ズラしたまま突き進む。考えてみれば、冒頭で微妙にズラしたり、間違えたまま突き進むことによって、結局何も答えの出ない『千早ふる』という物語が完成している。他の師匠で聞くと、色んな解釈で『千早ふる』が演じられていて、聞き比べも面白い一席だと思う。特に立川流の落語家さんは工夫が際立っているように私は思う。

冒頭のマクラから、最後のオチまで、談吉さんが一言発した途端に、ふんわりと談吉さんの世界に誘われていく感じが心地が良い。まるで、寒い冬の夜に犬となって、霜の出来た大地を踏みしめているような心地よさがあった。

 

柳家小はぜ『厄払い』

柳家はん治師匠門下の小はぜさん。はん治師匠門下の落語家さんは、皆さん総じて『優しい雰囲気』が全開に染み出している。前座の柳家小はださんも、真面目で朴訥とした優しい雰囲気のある落語家さんだ。

寄席で見る小はぜさんは、ふわふわとやわらかくて温かい雰囲気がある。まるで湯たんぽかと思うほどのぽかぽかとした雰囲気である。『黙黙派』という雷門音助さんとの二人会もやっておられる。どこかカラテカの矢部君のような、大家さんとぼくを読んでいるかのような、素朴な優しさを感じるのである。

舞台袖から出てきて、ちょこんと座って顔を上げると、それだけでゆったりとしたやわらかい空気に包まれる。可愛らしくて、ちょっと面倒を見てあげたくなってしまうような雰囲気がある。笑顔が素敵で、一つ一つの所作も可愛らしい。落語が好きで、自分なりに出来る精いっぱいを今やろうという印象を受ける。あまり表立って「どうだ!俺の落語はすげぇだろう!」という感じではなく、「こういう感じなんですが、どうでしょうか」という控えめな真面目さを感じて、ちょっと胸がキュンっとする。

それは仕草にも現れていたり、言葉のリズムに現れていたりする。トイレのマクラでトイレで用を足す仕草をしていたのだけれど、トイレットペーパーを回したり、水を流す時の所作が可愛らしかった。どんなお家に住んでいるのか、何となくわかった。

『厄払い』という演目は初めてで、正月の雰囲気に似合う良い演目だと思った。簡単に言えば『厄払いの文言を覚えたが、失敗して逃げる』という内容である。

一つ一つの言葉も面白いし、上記した『大家さんとぼく』を読んでいるかのような、不思議な魅力がある。最後のオチもふんわりと終わって、小はぜさんのやわらかい雰囲気にマッチした、ぼんやり縁起の良い話だった。

途中、声の枯れ具合や口調が柳家はん治師匠にそっくりで、嬉しく思った。師匠の芸を弟子が継承し、それを自分の中に落とし込もうとしている様子が感じられたからだ。師匠の芸を受け継ぎ、自分のものとして昇華していく落語家さんを見るのは楽しい。もちろん、それは渋谷らくごに通い続けていれば、日常茶飯事柳家はん治のことなのだけれども。(書きたいだけ)

 

 三遊亭遊雀『二番煎じ』

名人の名を欲しいままにしている遊雀師匠。変幻自在の声色と表情、そして旺盛なサービス精神。ヒザ前ということと、松之丞を待ってる感を感じたのか、名言「芸はお客様が作る、今、お客様は歴史の目撃者!」というようなことを言って、「どうですか、私を松之丞だと思って、掛け声の練習でもしましょうか!」というような、物凄いサービス精神を発揮した後で、「待ってました!」、「日本一!」という掛け声と万感の拍手で迎えられ、「気持ちいいねぇ!」みたいなことを満面の笑みで言ってから着座。徹頭徹尾、会場を盛り上げる遊雀師匠。会場を巻き込み怒涛の勢いで会場を温めてから、『二番煎じ』へと入った。

前記事で文菊師匠が演じられてから、短いスパンでの『二番煎じ』。遊雀師匠の爆笑アレンジが強烈に面白かった。特に一番の組の人達の可愛らしさや、酒が異常なまでに好きだという感じが物凄く面白かった。演者によってこんなにも面白い部分が違うのか!という驚きもあったし、とにかく笑わせてやろう!という情熱を感じ、その情熱に応えるかのように会場は爆笑の渦に巻き込まれていた。

遊雀師匠の登場人物は喜怒哀楽の表現がとても素敵である。クロカワ先生、ソウスケさん、三河屋の旦那、たっつぁん(確か違う名前)、全員がまるで男子高校生のような、和気藹々とした空気で酒を飲んだり、鍋をつついたりする。鍋を食べる場面もとにかく大笑いしてしまって、人間の感情がくっきりとしていてとても面白かった。

出来ることならば、ソウスケさんくらいの立ち位置で仲間に加わりたい、酒を飲んだり鍋をつついたりするだけで、あれだけ皆が楽しそうにしているのだから、誰もが「仲間になりたい!」と思ったに違いない。お酒を飲む場面はイケナイ薬でも飲んでいるかのような、真の酒好きの禁断の震えを見ることが出来た。

お役人がやってきた時の「あちゃー!来ちゃった!」感も面白い。一番の組の連中が、まるで修学旅行の夜に、ふざけて枕投げをしていたら担任の教師が入ってきた、みたいな空気が流れたが、お役人が「良い煎じ薬だなぁ」みたいなことを言った時に、枕投げに担任の教師も混じったような、そんな人間の温かさを感じた。

最後にさらりと松之丞さんを引き立てる遊雀師匠。ベテランになっても若手二ツ目を持ち上げる、その懐の深さ。男の中の男、落語家の中の落語家、名人・遊雀師匠の渾身の一席でトリへ。

 

神田松之丞『慶安太平記 第十四話 鉄誠道人』

爆笑の渦に巻き込まれ、誰もが満面の笑みを浮かべているところで、「慶安太平記が抜けない」というようなことを言ってから、「今日はその第十四話を」と言った時に、私は心の中で(マジか・・・鉄誠道人じゃん・・・)とゾッとした。慶安太平記後の松之丞さんがどんな演目をやるか興味があり、見逃すわけにもいかない!と思って参じた私として、鉄誠道人の演目は嬉しいと同時に、「この雰囲気を、あそこに持っていくわけか・・・」と驚愕だった。

演目の内容に関しては、慶安太平記の【Day4】で語ることとして、短いスパンに同じ話を聞くことが出来たのは嬉しかった。やはり、連続読みで聴くのと、独立で聴くのとでは、若干の違いは見られたが、何よりも後半の場面転換の妙が素晴らしい。これはTwitterでも多くの方が話題にされていて、自分の罪を金と坊主の死によって解消しようとする人々の叫び、金を集めて幕府転覆の資金にしようと企てる由井正雪、棺の中で金を集めた後の幸福な人生を想像する鉄誠道人。そして燃え盛る焔、「狂え!狂え!」というカリスマの声。全てが言葉では言い表すことの難しい、様々な感情の入り混じった混沌とした場面がやってきた時、もはや先ほどまでの爆笑の渦はどこかへ消え去り、その渦の後で形を変えた焔が燃え盛り、全てを焼き尽くしていったかのような、衝撃に息をすることさえ忘れてしまうほどの一席だった。

改めて思うが、松之丞さんは真打の力を既に持っている。一挙手一投足から、発言から全て、人を魅了し、人の心を動かし、人を夢中にさせる力を持った講談師である。その両肩に講談界を背負い、あらゆる人々の支えを一心に受けて、今、高座で噴煙を巻き上げている。

慶安太平記の連続読みを終えて、とても自信が漲っている様子だった。真打の披露興行まで、想像以上のお客さんが詰めかけることは間違いない。もしかすると、披露興行の全てに通うお客様もいるかもしれない。否、確実にいるだろう。そのたびに、私は「待ってました!」を聴くことになると思う。

考えてみれば、これほど「待ってました!」の声がかかる講談師は珍しいのではないだろうか。それほど、多くの人が神田松之丞という講談師に魅せられている証拠だと思う。知らない人と知っている人の落差が、とてつもなく大きい人だ。

私は結構松之丞さんの高座を見ているし、その認知度はかなり高いと思われるが、まだまだ世間からすると、それほどではないようである。現に、私の友人は殆ど知らないか、テレビでちらっと見たことがある程度であろうと思う。

恐らく、真打昇進後は柳家喬太郎師匠や春風亭昇太師匠と肩を並べるほどの知名度を手にすることだろう。ますます小さな小屋で見れなくなるのが少し残念である。

 

総括 爆笑と凄惨の高低差 エベレストからマントル

前半の二人の心地よい雰囲気から、後半の爆笑と凄惨の高低差まで、どういう感情でユーロライブを出て行ったらいいんだろう。という気持ちになってしまうくらい、四人の演者さんのパフォーマンスが最高だった。

ロディアス談吉さん、やさしくふんわり小はぜさん、爆笑の嵐・遊雀師匠、惨たらしさのドーパミン・松之丞さん。終わった後のお客さんの表情を見てみたいくらいに、素晴らしい会だった。

寒い冬でも犬のように街を歩き回って、色んな物事に出会って、色んな感情を抱いて、色んな言葉を見つけていきたいと思う。

さてさて、やることは山済み。頑張って冬を乗り越えて行こう。

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【Day2】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月11日 

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男は座して、こちらを見つめ笑みを浮かべている

  

 続・想像の風景

男は、語った、と思う。俺は一話、二話、三話、四話を語ったのだ、と思う。新たなる300人のために、確かに俺は語ったのだ、と思う。一人の男が生まれ、その男の悪行を語り、その男が丸橋という名の男を仲間にするまでを語ったのだ、と思う。

偉業だ、これは偉業。俺以外の誰一人として成しえない偉業を、俺は再び成しえようとしているのだ、と男は思う。自らの工夫を話に落とし込み、観客と対峙する。見てろよ、見てろ。誰にも文句を言わせない、最高の一席をやってやる。

見てろよ、談志。

それを、客席にいる男は見ている。客席の男は、初日の記事を書き終え、二日目の記事に取りかかろうとしている。時間と言葉を探し、目の前の、高座の、一人の講談師の姿を描写しようと考える。

張り扇が振り下ろされ、釈台にぶつかった刹那。舞台に座す一人の講談師と、客席に座す一人の男が、同時に互いの眼を見る。そして、にやりっと笑みを浮かべ、そして霧散する。

 

第五話『秦式部』

何日も雨の降ることが無い日々が続き、浅草で正雪は一人の男に出会う。松之丞の勇ましく勢いのある声が、すっと物語の世界へと私を誘った。特に、正雪が心奪われる皿回しの秦式部の表情と言葉が面白い。街ゆく人々を引き付けようと、様々な言葉を駆使する秦式部の言い立てが、松之丞の魅力と怪しさ、底の見えなさと相まって見事に表現されていた。そこに胡散臭さは微塵もなく、むしろ本当に天候を操る力を持っているのだと思ってしまうほどに、表情と言葉には力が漲っていた。皿回しの描写も実に緻密で、皿から霧が出る場面や、それを浴びて喜ぶ子供たちの様子、大人の様子など、仕掛けはあれど、人を魅了する技を持った秦式部が印象深い。

とある月(7月?)の3日間に必ず雨が降る。という秦式部の言葉を信じ、雨乞いをする正雪の姿には、正雪の人を信じる力の強さを感じた。どちらかと言えば、かなり安直に人の言葉を信用する性格なのかも知れないと思った。道端でたまたま出くわした大道芸人のような秦式部の姿に惹かれ、自らの仲間にし、秦式部の言葉を信じる。この慧眼には感服するのだが、雨乞いをするにはもう少し理論、理屈を考えても良かったのではないか、と正雪に対して思ってしまう。恐らく雨乞いの三日間のうち、初日はパフォーマンス、二日目くらいで雨が降ればいいや、くらいに私だったら思うかもしれない。ところが、正雪はかなり真剣に雨乞いをするのである。その間、秦式部や周りの人間の介入は無い。ただひたすらに一人で雨乞いを続け、三日目の終盤で自害しようと決意する。この辺りで、正雪はあまり計画性を重視しない人なのかも知れないと思った。人を信じ、その人を信じた自分を信じる力があまりにも強い。正に諸刃の剣のような雨乞いで、ようやく墨を落としたかのような黒雲が立ち込め、雨がザーっと降ってくる場面には、正雪の執念の恐ろしさを私は感じた。それは単なる賭けに出たという感じではなく、悍ましいほどに秦式部の言葉を信じた正雪の性格を見事に浮き彫りにしていたように思う。普通の人間だったら、そこまで人を信じることはない。目の前で7000万を当てた人間がいて、「次に3日分買えば1億必ず当たりますよ」と言われても、私だったら絶対に買わない。もっと様々な理由や理屈を探し、8割くらい1億が当たるかも知れないという確信を持ったら買う。当たらなかったら死ぬとなれば、その辺りはかなり慎重になっても良いのではないだろうか。

松之丞の語りには、その真剣さに凄味を与える表情と言葉があった。森羅万象さえも俺は思いのままに操ることが出来るのだ、という絶対の自信で祈りながらも、その自信が揺らぎ、ならば死ぬか、と腹を斬ろうとする瞬間にやってきた黒雲を見て、正雪は勝ち誇ったような表情を浮かべる。恐らく、天は我に味方したのだ!と思ったに違いない。当然、雨が降らなければ慶安太平記は五話で終わってしまうのだが、雨が降ってくる描写の邪悪な雲の訪れ、その雨を浴びる正雪。雨に喜ぶ村人達。歓喜と野望が物言わぬ自然の描写と相まって、実に印象的だった。

前半の出会いから後半の雨の場面まで、その緩急を自在にリズムと声の大小を変えながら表現する松之丞。私が思うに前半から後半までの物語の起伏が大きければ大きいほど、とても印象深い物語になっているように思っている。まさに松之丞の真骨頂はそこにあるのではないか。

 

第六話『戸村丹三郎』

最初に言っておくが、第六話は紛れもなく名演だった。徹頭徹尾、素晴らしかった。冒頭、戸村丹三郎という浪人が、遊郭に誘われる場面がある。「あんたの器量なら、女郎の方から銭を出しますから!」という言葉を信じて遊び続ける。この時の松之丞の、客引きの胡散臭さは実に見事である。この人は落語をやっても一流になるかも知れないという雰囲気が現れていた。

遊び続けた戸村が、客引きに「あれは冗談です」みたいなことを言われても、突っぱねる場面が面白い。言葉の裏を読まず、言葉通りに受け取った戸村の純粋な悪気の無さが、戸村という人間を見事に浮き彫りにしているように思った。戸村が金を払わない理由には一理ある。客引きがいくら冗談だと言おうが、偉い人が出てこようが、金を払わない理由が正当である以上、戸村は金を払わない。その素直さが面白いのだ。人の冗談を逆手に取り、自らの私利私欲を満たす戸村の傲慢さが前半ではっきりと描かれているように私は思った。

結局、見世の主に気に入られて柳生の家に奉公することになった戸村。名前を変え、奉公をする戸村の性格がガラッと変わるのだが、そこに私は戸村という人間の邪悪さを見たように思ったのだ。いわば、サイコパスと言えば良いだろうか。柳生家へ奉公するまでの戸村は、人の言葉の足を取るかのように、自分の都合の良い理屈を仕立て上げる男だった。もしかすると、この理屈を理不尽に否定されると、戸村は激高する人物なのかも知れない。そんな危うさを垣間見ながらも、柳生家に奉公すると、一所懸命に道場を眺めながら、柳生に手習いを受けたいと思うようになる。ここでも、戸村は自己中心的なのだ。自分に与えられた使命(掃除)を放り投げてでも、自らの武芸を極めたいという純粋な思いがある。まだ何者でもない人間が、一流に憧れるかのような態度を見せるのである。

そして、たまたま不良旗本を戸村が退治する。周りの連中は体を交わすだけだったが、自分は退治したのだ!と喜んで柳生に報告する。この時もまだ、どこまでも戸村は自己中心的である。さらには自らの思いを口にし、「どうか、一つ二つのご指導を」みたいなことを言うのだが、柳生に断られる場面は残酷でありながら、面白い。

松之丞の描き方も実に良かった。前半で真っすぐに遊び呆ける純粋な戸村を描き、後半で戸村が思いを寄せる柳生への言葉を口にさせる。その瞬間の柳生の表情と言葉があまりにも冷たい。人の心を突き刺すかのような、冷酷無比な言葉を戸村に浴びせるのである。言葉少なく、一言一言がえげつないほどに重たい。「お前の眼は猜疑心に溢れている」とか、「お前は何も分かっていない」みたいなことを、ゆっくりと、確実に傷つけるように放つ柳生。一流の人間の恐ろしさが滲み出ていた。

柳生の言葉に戸惑い、柳生へと襲い掛かる戸村の姿が胸に痛い。刀を持って襲い掛かるのだが、柳生に首を抑え込まれる。悲しみと絶望と憎しみと僅かばかりの憧れの入り混じった、あの戸村の、松之丞の表情が忘れられない。一流に憧れ、一流に認められる機会を得たと思っていたが、それは幻想だったと気づき、一つ二つの教えを受けることさえ出来ない戸村の絶望。遊び呆けながら、真っすぐに生きてきた戸村の挫折感が、痛切に胸を貫き、私は戸村に同情した。同時に、芥川龍之介に憧れながら、その生涯でたった一度も芥川賞を取ることが出来ず、人間失格という自らを嘲笑するかのような作品を書き、女と共に死んでいった太宰治の姿を私は思い出していた。

一流になれずに、一流から否定された時の戸村の、言葉にならない「うううう~う」という呻き声に、私は胸が震え涙が込み上げてきた。同時に、柳生に対して「一つ二つくらいの教えさえも受けさせてやれないのかっ!」と憎しみが湧いたのである。聴いていた私ですら柳生に対して憎しみを抱いたのだから、戸村の憎しみは尋常ではなかっただろう。可愛さ余って憎さ百倍となった戸村の表情を、松之丞は渾身の怒りで表現していた。

そして、最後に正雪が登場してくる。この物語の構造が実に見事だ。正雪と戸村もまた、あと一歩のところで憧れの役を得ることの出来なかった存在なのだ。正雪は仕官に、戸村は一流の武芸者になれなかった。ここに、一流と一流に憧れる者達の強烈な対比がある。自分では到底理解することの出来ない理屈によって、憧れの道を閉ざされた正雪と戸村。その憎悪と憤りの凄まじさは計り知れない。一流と一流でないものの違いは一体何なのだろうか。一体どう運命が作用して、頼宜や柳生は一流の世界に身を置き、正雪と戸村は一流への復讐を決意したのか。改めて、慶安太平記という物語の大きなテーマを発見したような、偉大な、あまりにも偉大な一席だった。

私にも、戸村のような経験がある。生徒会長になりたいと望みながら、その望みが叶わず、生徒会長となった者に対して罵詈雑言を浴びせた記憶がある。悔しかったのだ。それは、自分の思い通りとなる校風を作り上げることさえ叶わないという絶望感。頭の良いもの、人望のあるものには負けるのだという事実。全てが憎いと思った。だが、当然復讐することなど出来ない。ただ対岸から言葉を発すというだけの、虚しさを抱いたまま大人になった。

戸村の悲しみを思い出すたびに、私は胸が苦しくなる。柳生の冷たい視線、首を締めあげられた時の表情、涙を流して呻き声をあげ、倒れ込む戸村。自分の力では死ぬまでどうすることも出来ない、圧倒的な力を前にして屈する人間の姿。そこに、あらゆる人間の挫折感が集約されているように思った。その心の隙間を縫うように手を差し伸べた正雪の残酷な表情、そして冷たい眼、そして見えない邪悪な野望。まるでダークサイドに落ちたアナキン・スカイウォーカーを見ているような、強烈な悪の誕生があった。

仲入り後も、その凄まじさの余韻に痺れ、この後にさらなる大ネタが待っているという事実に驚愕と同時に、心の癒しが必要だと思われた。それほどに、松之丞の語りはドラマチックで、残酷で、救いようがなく、その暗黒面が見事に表現されていたのだった。

 

第七話『宇都谷峠』

落語では立川談志師匠と談春師匠でお馴染みの話。慶安太平記と言えば、まさにこの話が一番有名なのではないか!と思うほどに、慶安太平記という物語の中でも、一話の知名度が圧倒的に高い演目。

物語も実に面白い展開を見せる。江戸から京の本山知恩院まで二千両という大金を行きと帰りで十日間運ぶという任務を、怪力僧の伝達が申し出る。足と体力に自信のある伝達が京まで行く道中で、謎の男・甚兵衛に出会う。落語で聴き馴染んでいたところでは、甚兵衛はどちらかと言えば滑稽な道化師のような描き方をされていたように思うが、松之丞は甚兵衛の不気味さ、怪しさを滑稽感を排除して語っていたように思う。頬に傷があったり、「お前何者なんだ!?」と戸惑う伝達に「ただの商人で」とほほ笑む甚兵衛。甚兵衛の表情が実に不気味で、観客は伝達と同じ気持ちで甚兵衛を見ることになる。甚兵衛の描写を徹底することで、観客を巻き込んで「甚兵衛は一体何者なんだ?」という謎を残しながら、宇都谷峠までやってくる。そこで初めて甚兵衛の正体が明かされる。

何も知らずに宇都谷峠で飛脚が奇襲される場面は凄惨で鮮やかである。ほぼ伝達の視点から繰り広げられていく甚兵衛の所業。三千両という金を強奪するための共犯にされてしまう伝達。普通の人間であれば、逃げ出してしまいたくなる状況の中でも、自らに与えられた使命を全うしようとする伝達の精神が、よくぞ破綻せずにいられるな、と驚嘆する。甚兵衛が高坂陣内という豊臣の残党であることが知れ、行動をともにすることになる伝達の不運。陣内が正体を明かした時の邪悪な表情と言葉が目に焼き付く。

特に印象深いのは安部川を渡る伝達と陣内の姿であろう。まるで現世と黄泉の狭間を歩くかのような場面がある。照明の暗転などもあって、非常に没入感のある印象的な場面だった。ここは、Pen+に描かれている絵を見ると、より一層の緊迫感、悍ましさを伴って想像することが出来る。

伝達を肩に背負った甚兵衛の表情、言葉、間、全てが暗い闇の中で、川を渡る光景と相まって、気が狂わんばかりの冷たさで胸に迫ってくる。自らの命を甚兵衛に握られている伝達の、発狂しそうな恐怖感を味わって、私は首を締上げられたかのような思いになった。

泳げないという圧倒的に不利な立場である伝達に対して、どうして甚兵衛は殺さなかったのだろうか、と私は考えた。それは、甚兵衛に残った僅かばかりの良心であろうか。それとも、何かの策略があったのだろうか。いずれにせよ、ゆっくりと、お互いの立場を逆転させていく甚兵衛の言葉が、伝達と同様に客席にいる全員に迫ってくる。

陣内と伝達。この二人の掛け合いと、様々に起こる物事によって互いに対して抱く感情が変化していく部分が、この物語の最大の魅力ではないだろうか。大悪党でありながらも、どこか魅力的な言葉と表情を持つ陣内。大金を届けるという立派な使命感に燃えながら、陣内と出会ったことによって振り回され、挙げ句は性格まで変わってしまうほどの不運な伝達。

照明が消え、鼻を摘ままれても分からないほどの暗黒の中で、陣内と伝達が交わす言葉。私の耳に届くその言葉が、どこからともなく闇の中から響いてくる。恐怖と同時に、互いが互いに命を支え合っているのだという安心感。目に見えない情のようなものが、暗黒の中で混じり合って、小さな光となっているかのように思えた。

吉田の焼き討ちの場面は爽快である。僅かにコミカルな老夫婦の話も挟まれて、ひと時の緩和に身を落ち着けることが出来る。それでも、最後は松平伊豆守に見つかって命を落とす陣内。知恵伊豆を前にして憎しみと同時に、吐き捨てるように言葉を放つ陣内の最後は、哀れではあるが惜しくもあった。

正雪という主人公が登場しない物語にこれほど大きな魅力があるのは、人が人と出会うことの危うさがとても感情移入しやすい形で表現されているからだと私は思う。日々を生きる人間もまた、いつどこで陣内のような人間に出会うかも分からない。それによって運命が大きく変わってしまうことが、人生には起こりうるのだ。

松之丞の語りは、流麗で流れるような口跡でありながら、安部川の辺りでゆったりとした、どろっとしたリズムで一つ一つ雫を垂らすような語りに変調する。そこから再び歌うようなリズムとトーンで語りが始まっていく。まるで交響曲を聴いているかのような、壮大なリズムと声の調子で、物語の起伏を見事に表現していた。

前話の戸村丹三郎では、一人の男の挫折を描きながら、今話で大きく物語を展開させることによって人生の波乱を描いた。改めて、このような順番で物語を編集した神田松鯉師匠の才能もさることながら、その教えをアレンジを加えながらも忠実に継承し、自らのものとしていく神田松之丞の気概に驚嘆する。一話独立ではなく、全19話の一つとして聞くことによって立ち上がってくる素晴らしさを、この時、私は感じたのだった。大熱演で、恐らく50分くらいやっていたのではないかと思うが、あっという間の一席だった。

 

 総括 名演の一夜

第五話、第六話、第七話。どれも緊張感と集中力が凄まじい、白熱の三席だった。それぞれ独立して聴いても痺れるくらいの名演であった。一話~四話の通しで聴くことによって、正雪の野望、正雪という人物の性格が浮き彫りになり、またそれに一役買った正雪の脇を固める人物達の、思いの強さが強烈に胸に響いてきた。物語に通底する、言葉では言い表すことの難しい邪悪さ、挫折によって起こる憎しみ、そして唐突にやってくる悪意。それら全てが前日の一話~四話によって、より一層底上げされていたように思う。

悪党でありながらも不思議な魅力を持つ正雪や忠弥、式部、丹三郎、伝達、陣内に心惹かれるのは、そこに悪には悪の理論があるからだ。悪と書いているが、正雪らにとってみれば、それは立派な正義なのである。浪人の身である不遇、徳川家への恨みが一つの結束を生んでいるという部分に、無意識のうちに心惹かれている私がいるのだ。特に、第六話の戸村丹三郎を聴いた時にそれを強く思った。

由井正雪を起点として、大きく拡がっていく物語。果たして由井正雪の野望は叶うのか。知恵伊豆の登場は何を示唆しているのか。次々と仲間を増やしていく正雪。

まるで巨大な超新星爆発の様を見ているかのように、慶安太平記という物語は急速に膨張していく。明日の第三夜は一体どんな風に展開されていくのか。

あうるすぽっとを後にした私は、興奮冷めやらぬまま、家路へと帰るのだった。

 

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私はあなたの親指になりたい 倒錯の変身願望~渋谷らくご 2019年1月13日 14時回~

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なんていうかー 和風?

 

あおう!えぎやおうあ!

 

なんで寝るんだよー!

 

ゴクッゴクッ

 

あなたはわたしだったからです 

  

誰でも一度は何かになって

子供の頃、私は女の子になりたかった。とびきり美人で、性格が良くて、誰もが羨む肉体を持った女の子になりたかった。子供心に、美人な女であれば得が多いだろうと考えていた。胸が大きければグラビアアイドルになって、ただ写真を撮られて写真集やDVDを出せば、何万部と売れてがっぽりお金が入ってくるだろうと考えたし、血の滲むような努力をして会社を立ち上げ、毎月何億円も稼ぐ男と結婚すれば、一生安泰。さらには美人だから、男達は私の気を引こうと「一杯ごちそうしますよ」とか、「今度食事でもどうですか?」と誘ってきて、食事代にも困らなくなるだろう。つまり、美人であることのメリットは人生を生きて行く上でかなりある。だから、私は女の子になりたかった。

クラスの女子達を見ていてもそうだった。比較的器量の良い女性は徒党を組んだ軍隊かのように群れて、同じく器量の良い男達の中から自分にふさわしい男が誰であるかを相談しあっていたし、そのお眼鏡に叶わなかった私を含む多くの豚どもは、器量の良い女性達に特攻よろしく告白し、予想通り撃沈して豚バラにされて生姜焼きにされる運命を辿った。器量の悪い女性達が慰めに「森野っち、大丈夫ぅ?」と愚にも付かない同情の眼差しで差し伸べた手に噛みつき、「俺と付き合え!」と、女なら誰でもいいという悲しすぎる理屈によって、結局器量の悪い女と付き合って、僅かばかりの優越感を満たし、横目で美男美女のカップルを眺めながら「あいつら二人とも、絶対性格悪い」と、イソップ寓話の【酸っぱい葡萄】ばりの精神を発揮し、結局器量の悪い女に「私が森野っちを駄目にしちゃってる」という訳の分からない理由、むしろ「お前なんぞ俺の人生に一ミリも影響を及ぼしてないわ!」と反論したくなる思いを抱いたが別れ、結局、美人に生まれていれば最初から人生イージーモードだと再認識した。

そんな私のような浅はかな変身願望を抱く男のほかにも、実際に女性になった元男や、自らをアニメのキャラクターだと名乗っている男女も数多く存在する。誰にでも何かになりたいという気持ちは、程度の差こそあれ、確実に心のどこかに生まれているようである。

今日の渋谷らくごの四人の落語家もまた、そんな浅はかな変身願望を抱く私にとって、最高の四人だった。では、私は何になりたかったのか。もう答えをタイトルに書いてしまっているが、書いていこう。

 

 三遊亭粋歌『銀座なまはげ娘』

久しぶりの高座だという粋歌さん。美人である。夫は柳家小八師匠。美男である。落語界の美男美女カップルというだけで、私は若干羨ましい。子供の頃は「あいつら絶対性格悪い」と思っていたが、大人になると許容できるようになってくる。嬉しい進化だ、と思う。

この話の簡単な内容は「ジュエリーショップを辞めた女性が、なまはげになってジュエリーショップに戻ってくる」というお話である。

物語の登場人物である女性は、周りの友人に「パリ留学中」と嘘を付きながら、実際はナマハゲになって、秋田のPR活動をすることになる。普通の人間からナマハゲになる過程が描かれ、ナマハゲの基礎講座なるDVDを鑑賞し、ばっちりナマハゲに成る態勢を整える。ナマハゲと言えば寄席通いの常連には『三遊亭たん丈』という人がいるが、これは初心者の方には覚えの無い落語家さんである。ナマハゲ小噺に定評があるので、是非どこかで名前を見つけたら、体験して欲しい。

周囲に振り回されながらも、ナマハゲになって精いっぱい頑張っている主人公の女性を見ていると、なぜだかうるっときた。転職してナマハゲになり、子供たちに殴られ、上司に無理難題を押し付けながらも頑張る姿に心打たれる。どれだけ涙腺が緩く、心の琴線の防御壁が弱いのだ!と思われるかも知れないが、周囲に嘘を付きながらも自らの使命を全うしようとする女性の姿は感動してしまう。粋歌さんは美人だが、きっと物語の登場人物の器量は可も不可も無くて、きっと何かを頼まれたらノーと断れない性格で、家族にも相談できずに一人で何かを処理してしまうような、そういう健気な女性なんだろうなぁ。と思ってしまって、私は最後の場面もちょっと感動した気持ちで見ていた。ナマハゲへの突然の変身から、最後はその変身が解けて元の自分の姿が周囲の目にさらされる。あ、可哀そうだなぁ。と思って見ていた。なんだか笑って泣けるお話で、あっという間だったのだけれども、それはどうやら実際にちょっと早く終わったらしいことが、次に出てくる圓太郎師匠の話から推察された。

とにもかくにも、何かに変身するということは、その変身が解ける瞬間もある。今思えば、これが最後の私の考えを生み出す、伏線になっていたのかも知れない。ナマハゲに変身したが、最後はバレてしまう女性の悲哀を感じた一席。

 

橘家圓太郎『唖の釣り』

圓太郎師匠を見ていると、その佇まいの緩やかさというか、醸し出す雰囲気の落ち着きが凄くて、高座に座った後で、まるで温かい大地に腰を落としているかのような、そんな土着の思いを私は抱く。粋歌さんの体内時計が狂った影響で、時間調節をしながら夫婦の小噺をされているときの、表情や声の調子が面白い。ただお茶を飲んで新聞を読むだけの話を、巧みな話術で面白可笑しくしている。浪曲でやっても面白い小噺だと思った。同時に、物語に大きな起伏が無くとも、聞く人を惹き付ける話芸というのは実に見事だと思った。

この話は簡単に言うと「釣りをして怒られる」という話である。釣りをしてはいけない場所で釣りをし、その場所を偉い人に見つけられて問い詰められる。問い詰められる際に舌がもつれ、言葉を上手く発することが出来ない男が登場する話だ。ボディランゲージで説明をする男の必死さが面白い。出来ることならば、私は縺れた舌になってあげたいと思った。ふいに、自分の舌は誰か他の舌になりたかった人が舌になっているのではないか、という想像がやってきた。舌だけではなく全身が、そう成りたいと望んでそう成っているのかも知れない。とすると、私の体は誰もが望んだ通りの体だということになる。目に成りたかったものが目に、耳になりたかったものが耳に、歯になりたかったものが歯になった。そう考えると、より一層自分の体を大切にしなければならない、と私は思った。目は見えなくなるし、耳は聞こえなくなるし、歯は抜けて行くし、なるべくならば、ずっと健康でありたいと思う。私の体になりたかった細胞達が、長く私であり続けられるように。私は『唖の釣り』を見てそんなことを思った。

 

春風亭昇々『初天神

鮮やかな着物姿の昇々さん。美男である。それも狂った美男である。ギョロリとした目の奥に狂気を湛えた落語家さんである。昇々さんの間は独特で、私は聴く度にスポンジボブを思い出してしまうのだが、アメリカのアニメのような間で始まった『初天神』。

この話は簡単に言えば「子供を祭りに連れて行くが駄々をこねて面倒が起きる」話である。休日の昼間にフードコートで言い争いながら子供と食事をするヤンキー夫婦みたいな、そんな感じの間とトーンで物語が進んでいく(どんなんやねん)

今の知識を持って子供になれたら幸せだろうなぁ、と、ふいに私は思った。『初天神』に出てくる子供は知恵のある子供である。時間もあれば、周りの人間が面倒を見てくれるという状況で、大人になった知識があったら、ありとあらゆる策を練って周囲の人間より抜きんでて、幸福な学校生活、学び舎生活を過ごすことが出来るだろうなぁと思う。残念ながら人生は逆行しない。巻き戻し不可の人生だからこそ、初天神に出てくる子供の姿を見ていると、「ああ、子供になりたいなぁ」と思ってしまうのである。

もしも今の知識で子供に戻れたら、間違いなくテストで良い点数を取れるだろうし、言葉巧みに器量の良い女性を騙して付き合うことが出来るだろうし、器量の良い男達に知識で勝って、「男は面より、ここよ、ここ」と人差し指でこめかみを差して、ナポレオンばりの優越感で勝ち誇ることが出来るだろうと思う。思う、思うのだが、それは叶わない。

昇々さんも、昔は太って女にモテなかったという。今の感じのまま、子供に戻れたらどんな風になるのだろう。そんな新作を見てみたいと勝手に思う。

 

古今亭文菊『二番煎じ』

ここで、私に事件が起こった。

小豆色の羽織に銀色のお着物を召した文菊師匠が、いつものようにちょっと腰を落として浮遊するような態勢から着座。丁寧な火の見回り役の状況を説明しながら話に入った。

登場人物が多く、全体を通して地味になりがちな話である。内容は『火の見回りを行う人達が、番小屋で酒を飲み、鍋をつつく』という話である。文菊師匠の良い声が、次々と登場する人物を見事に描き分けていて、寒い冬の乾燥した空気の中で、人と人とのふれあいが面白いお話だ。

普段は、それぞれに担うべき役があって、それを思い思いに全うする。その延長として火の見回り役に選ばれた人たちが、町内を回って「火の用心!」と声をかける。火事を起こさないように注意喚起を行うという、その温かさが気持ちが良い。

火の見回り役の人達も個性豊かで、教師であろうかクロカワ先生、もうすっかり隠居生活であろう伊勢屋の旦那、まだ若くて引っ込みがちなソウスケさん。勢い真っすぐ江戸っ子のたっつぁん。そしてそれを纏める月番さん。

考えてみれば、文菊師匠を含めて今回の四人は、かなり特異な組み合わせである。新作、古典、古典、古典という形であるが、それぞれに個性が際立っていて、ともすればごちゃごちゃ感もある。話の高低差というか、物語を語るテンポも変幻自在で、ちょっと食あたりを起こしかねない並びであったが、そのごちゃごちゃ感を全て見抜いて、『二番煎じ』を選択した文菊師匠のセンス。見事に纏め上げる渾身のネタ選びだと思う。

町内を一週し終え、番小屋に戻ってきた一行。月番さんが火を起こす所作の繊細さに震えた。文菊師匠は一体どれだけ人の所作を細かく見ているのだろう。火を起こした時に、僅かに舞い上がった灰が見えるかのように、小さく顔の辺りで灰を払うような所作をした。危うく見逃しがちな細かい動作に文菊師匠の緻密さが表れている。

クロカワ先生が酒を出す場面で交わされる言葉も粋である。月番さんの頭の良さを見事に表現している。特に表情が堪らない。酒を煎じ薬ですよと言った後で、緊張感がぐっと解れて、人間臭い気持ちの良い空間が生まれる。この辺りの表情の緩急が、言葉にならない部分を想像させる。

一所懸命仕事をした後は、酒を飲んで気持ち良くなりたい。誰かが言い出さないかなぁ、と周囲の顔色を窺っていたところで、教師であるクロカワ先生が酒を出してきた。きっと周りの連中は「良かった!酒が飲めるぞ!」と思ったに違いないのだが、月番さんがどう対処してくるかに注視する。火の見回り役を務める月番さんが認めれば、酒を飲んで鍋をつついて、静かに一日の疲れを癒そう。誰もがそう思った。それを見ている客席の人々もまた、表向きは一所懸命に仕事をする自分と、家に帰ってゆっくり美味しい物を食べる自分。その姿を見ているようで心が温まる。特に、都都逸や俳句など、文菊師匠の美声が冴え渡り、心の温度が心地よくなった。

まるで、仕事の後のささやかな宴会を見ているかのような場面が続き、最後は役人がやってくる。これは部署の宴会中に招いていない社長が来るような事態である。月番さんをはじめ、多くの人々は慌てふためくが、役人も同様に、一日の疲れを癒そうとする。人間、起きてから眠るまでずっと仕事をしている訳ではない(中には、そういう人もいるのかもしれない)。自らに与えられた使命を全うし、そのうえで酒を飲んだり、誰かと話をしたりして、心を癒す。人と人とのぬくもりを感じさせる一席だ。

さて、冒頭に書いた事件について説明しよう。それは、文菊師匠が酒を飲んでいた場面だ。じっと親指を見ていた時に、どこからともなく「あ、今、文菊師匠の親指になりたい」と思ったのだ。書いていて気づいたのだが、粋歌さんのナマハゲへの変身が作用していたのかも知れない。

もしも、あの時、その一瞬だけ文菊師匠の親指になっていたら。と思うと、私はあらぬことを想像した自分を戒めたい気持ちになった。

も、も、もちろん。じょ、ジョークですからね!?

 

総括 私は私のままで

冒頭に書いた「女の子になりたい」という気持ちは今はもう無い。むしろ、私は私のままで十分だと思うようになった。時々、ほんの一瞬だけ「三分くらい女の子になりたい」と思うことはあるけれど、変身したが最後、元の体には戻れないのだとしたら、それは勘弁してもらいたい。

『寄席芸人伝』という本の中で、とある話がある。人を殺して懲役二十年の判決を受けた男が、いよいよ出所するという時に有名な落語家が慰問にやってきて、面会する。人を殺した男は、二十年間、その落語家の記事をスクラップブックとして作成していた。そのスクラップブックを見て驚く落語家に向かって、懲役二十年の男はこう言うのである。

それは師匠の二十年です。そして私の二十年です。

 

あなたはわたしだったからです。

その男は、娑婆の世界で活躍する誰かだと思って二十年を暮らそうと考え、慰問に訪れた落語家を二十年間、自分だと思って過ごしてきた。

一体、その男は最後にどうなるのか。それは、是非『寄席芸人伝』を見て頂きたい。もしも手に入らないという方がいれば、TwitterのDMにご連絡いただければお貸し致します。

その話を聴いて、今回の四人の噺家に対して思うことは、自分の歩まなかった別の人生を生きているのだ、ということ。人の数だけ人生がある。誰もがふとしたタイミングで、その人生に触れて、ある者は共に生きる。ある者は何かを学ぶ。そんな人と人との巡り合いのぬくもりを、私は感じるのだった。

結局、文菊師匠の親指になれないまま、私は会場を去っていった。帰り際、ちゃお缶を販売している吉笑さんがいた。既に6缶持っていて、全缶聴いている。私は小満ん師匠のエピソードがお気に入りである。

冷たい風が吹く夜へと消え去るように渋谷の街を後にし、私は一路、池袋を目指して歩き始めた。

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【Day1】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月10日 

 

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男は座して、こちらを見ている。

 

想像の風景 

男は、座している。紫毛氈の台があり、舞台中央に置かれた座布団に男は座している。男の後ろには六尺六曲の鳥の子紙の和紙屏風がある。

男の目の前には、栗皮色の釈台がある。釈台の右端には新調した和紙で出来た張り扇。左端には白扇がある。

眼前には、300席ほどの椅子がある。無人の客席。そこに観客は座していた、と、男は座しながらに思う。そうだ、座していたのだ、と男は無人の客席を見て思う。男は、前夜祭を含め六日間。釈台を前にして座し、300人に対して一人の男の物語を語ったのだ、と改めて思い返す。そして、今夜再び俺は語るのだ、と思う。一人の男の誕生を語るのだ、と思う。今宵、再びに。

一日、300人が前夜祭を含めて六日間。俺の語る物語を聞きに来たのだ、と男は思う。素性も知れず、どんな生活環境かも知れず、顔も、名前も、性格すらも分からぬ300人ほどが五日間集まり、一人の講談師の語る物語を聴く。男は身震いする。それがどれだけの奇跡かを想像して身震いする。同時に、俺一人の力でここまでやってきたのではない、と男は思う。何者でもない俺を一人の講談師として育て上げてくれた師匠の存在、互いの才能を認め合い磨き合った仲間、そして自らの芸に応えるかのように会に足を運んでくれる客、そして自分の思う舞台を作り上げてくれたスタッフ。全てが今の俺を形作っているのだ、と男は思う。

振り上げた張り扇が、釈台に当たる。パンッという乾いた音が、無人の会場に響き渡る。その凛とした張りのある音に、男は耳を澄ませ、じっと目を閉じて頭を下げる。再び、300人が五日間、この会場に集まってくる。一人の講談師の語る物語を聞きに来るのだ、と男は再び思う。俺は一度語り終えたのだ、と男は確かめるように思う。その確かな自信が自らの心にあることを男は確かめる。

顔を上げ、目を開けると、一人の男が客席に座っている。その男は、こちらを真剣な表情で見つめている。高座の男と、客席の男。そこには二人しかいない。二人は言葉を交わすことはない。だが、互いに同じことを思っていた。

 

この五日間、全力でぶつかり合おう。

 

張り扇が再び釈台にぶつかったとき、高座の男と客席の男の姿は、霧のように消え去り、ただ無人の空間だけがそこに残った。だが、確かに漂う静かな熱狂の意志が、会場には物言わず充満している。そして、講談界をその両肩に背負った男が、高座に上がり、物語を語り始める。慶安太平記、その全19話を。

 

なぜ慶安太平記は全19話なのか

森野は、数日前から楽しみにしていた慶安太平記が全19話であることに意味があるように思っていた。19という数字は奇数であり素数である。19は2で割り切れない。2で割れば1余り、3で割れば1余り、4で割れば3余り、5で割れば4余り、6で割れば1余り、7で割れば5余り、8で割れば3余り、9で割れば1余り、10で割れば9、11で割れば8、12で割れば7、13で割れば6、14で割れば5、15で割れば4、16で割れば3、17で割れば2、18で割れば1、19で割れば0。1で割れば19。一人の男を割り切るためには、19の話を要する。19の話であれば一人の男を語り切ることが出来る。

19は重苦だ、と森野は思う。一人の男が抱く野望、その野望の潰えるまでの様を語り切るためには、重苦が必要だったのだ。故に慶安太平記は19話なのではないか。一人の男を斬るための重苦。そんなことを考え、森野は一人の講談師のいる会場に足を踏み入れた。

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しんと冷えた場内

場内は撮影禁止のため、上の写真をご覧いただき、どのような会場かご確認頂きたい。300名ほどの収容人数があり、同場所、同時刻、同席、同客が集う。高校生以来であろうか、同場所、同時刻、同席、同人間が集まるという状況は。しかも、それが300人である。この事実一つをとってみても、一人の講談師がどれだけの魅力を持ち、その魅力にどれだけの人間が惹かれているか(或いは憑りつかれているか)が分かるだろうと思う。

5日間、座る場所を確認し着席する。場内はしんと冷えている。Twitterで情報を見ていたため、厚着をしたおかげか、それほどの寒さを感じることは無かった。

座席には、本日の公演のプログラムが記載された紙がある。あまり前情報を入れたくない性質なので、そっと鞄にしまう。

周囲を見渡すと年配の紳士、ご婦人が多い様子である。常連の顔もちらほら。開場時刻の19時間際になると、ぞろぞろと人が入ってあっという間に客席が埋め尽くされる。その光景を見ているだけでも、私は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。これから5日間、この場にいる299人ほどと同じ時間を過ごすのだと考えると、その奇跡にも驚くが、一体どれだけの芸が作られていくのか。連続読みは初めての経験だけに、全て参加できるかも不安である。それでも、昔から遅刻だけは絶対にせず、遅刻するくらいなら最初から行かない、という性格であるため、何とか都合を付けて行くぞ!という気持ちだけは強く持っていた。だから、19時前に会場に到着できた時の喜びは大きかった。小説なども抜き読みが嫌いで、頭から読まなければ気持ちの悪い性格で良かった、と自分に対して自分をほめたい気持ちだった。

 

19時になり、左の舞台袖から講談師 神田松之丞さん(以下、敬称略)が登場。万感の拍手と大勢の「待ってました!」に迎えられて、猫背気味の松之丞は高座に座し、張り扇を一度叩いてから頭を下げた。会場の照明はとても暗い。

マクラの内容については、私の感想を記すだけに留める。一介の名も無きブロガーとしては、絶賛記事しか書かないことを掲げているため、どんなことがあろうとも、良いと思った部分だけを書く。そう心に決めたマクラだった。出来ることならば、次世代の演芸評論家になりたいとも思うが、さて、どうなることやら。

 

第一話 正雪の生い立ち

高座に上がった松之丞は照明が当たって輝いて見えた。また、着物も白く照明を当てられてより一層輝いている。徳利に酒を注がれているかのような、流れるような言葉の口跡に心地が良くなる。何より声の響きが実に良い。三遊亭圓生師匠を彷彿とさせるような中音が気持ち良く響き、正雪がまだ富士松という名だった頃の話が紡がれていく。何よりもまず、出生の直後に双瞳であり、富士松を取り上げた産婆さん(?)がそれを見て吉相だというくだりの部分が印象に残った。同時に、本当に正雪が双瞳であったかどうかは分からないが、その発想がどこから来たのか、物語が生まれた時代の人の想像力を思って驚嘆した。一つの目玉に瞳孔が二つあるという想像が、物語全体を通して由井正雪の個性を容易に想起させるキーワードになっているように思う。身体的に他者と違う特徴を持っているのだということが、これほどまでに由井正雪という人間像を描いているのかと思うと、双瞳という発想は本当に凄いと思った。

また、身体的特徴が他者と異なると同時に、幼少期から非凡な才能を発揮している富士松の姿を描いているのも良い伏線であるように思った。周りから羨望の眼差しで見つめられ、自らもその羨望に応えるかのように、あらゆる物事で才能を発揮していく。将来を嘱望された富士松が、二十歳になって正雪と改めてから、頼宜と出会う場面も緊張感が漲っていた。この辺りの声の間、薄く消えて去っていくかのような囁き声で「悪相」だと正雪に告げる、頼宜の傍にいた安藤竹脇の表情にゾクリとする。竹脇の慧眼もさることながら、それを告げられた正雪の驚愕の表情。顔面の相だけで人を決めつける竹脇の理不尽さと、その理不尽に打ち砕かれた誇りに戸惑いと苛立ちを見せた正雪。この対比が今後の展開を決定付けるかのような、強烈な場面だった。まだ人を見抜く力を持たない頼宜が竹脇の言葉を信じる場面も、一つ一つの小さな決断が、後々へと続いていく恐ろしさを物語っていて、強烈に印象に残った。

仕官できなかった正雪の失望に私は同情する。あらゆる物事に秀で、自らの才能を過信していたかも知れないが、それでも他者よりズバ抜けた力を持っていたのに、どこぞの馬の骨とも分からない老人に、「お前は顔が悪い」と言われただけで、役人になるという将来を潰されるのである。こんな理不尽があるだろうか。才能ある者が、その才能を間違った方向へと進めることになるきっかけが、実に理不尽極まり無いのである。だからこそ、もしもこの時、竹脇が「是非とも頼宜様のお傍に!」と言っていたら、正雪の人生は違っていただろうな、と思うからこそ悔しいのである。正雪の失望、それによる憎悪が後の事件へと発展するのだが、そのきっかけにふさわしい最高の一席である。竹脇と正雪が対峙する場面の松之丞の語りは圧巻。語られることの無いそれぞれの心模様が物語の余白となり、見る者がそこに言葉を足すことによって、何倍にも印象が膨れ上がっていく。張り扇の音と、白扇の音。そして正雪の憎しみに満ちた漆黒の表情を目に焼き付けながら、物語は不穏な気配を残して終わった。

 

第二話 楠木不伝闇討ち

自らの師匠を他人に殺させる正雪の話である。仕官の夢が潰え、失望による憎悪と怒りを原動力とした正雪が、由井宿時代の剣術の恩師、楠木不伝と出会う場面がある。不伝からすれば正雪は可愛い元教え子なのだが、正雪からすれば邪魔な存在となる。この辺りは『師匠殺し』の狡猾な正雪の姿が、松之丞の語りと表情で見事に表現されていた。穏やかな表情と語り口の不伝に対して、誰にも明かさない深い野望を抱えた正雪の心象を語る松之丞の姿は、心にザラっとした、砂が混じったような、不純さを抱かせた。さらには、不伝の娘、お重と恋仲にある村上をそそのかす場面が、凄まじいリアリティがあるように私には思えた。

剣術の指導に関しては師である不伝を抜き、道場生から信頼を得た正雪が、その信頼の方向性を巧みに転換して、悪事へと進めようとする。その語りの囁くような口調が、心の奥底にある狭い狭い悪心を筆で撫でるかのようにして迫ってくる。村上に向かってお重と不伝の淫行を語る正雪の語りは、松之丞の真骨頂とも言うべき影のある語り。煌々とした場所から、ふいに現れた暗黒を覗いているかのような、底の見えない恐怖に心が引き込まれていく。同時に、正雪の言葉に戸惑う村上の「本当なんですか!?」と次第に気持ちを高ぶらせていく姿が、徐々に徐々に暗黒の、回帰不能点を超えていく恐怖と、得体の知れない興奮と混じって心を搔き乱していく。

そして、ついに正雪の言葉を信じ、怒りと戸惑いに体を震わせながら、不伝の闇討ちを決意する村上の姿にゾッとする。情報を信じる術が人を信頼することだけだった時代だからこそ成り立つかに思われるが、現代もまた、人の信頼を巧みに利用して悪事へと誘う人間も存在する。そんな犯罪者の心理が垣間見えた瞬間を目の当たりにして、背筋が凍る思いであったと同時に、村上に闇討ちを提案する正雪の、濁りの無い嘘と、言葉と表情に恐ろしい説得力があった。双瞳の眼、内に秘めた野望、その障害となる者達を消し去って、自らの基盤を構えようと計画し、それら全てを自らの手を汚すことなく手に入れようとする正雪の知恵。正しき道に進み、正しき場所でその知恵を発揮すれば、後世に名を残す偉人となれるほどの才能を持った正雪が、暗黒の道へとその第一歩をこの時、進めるのである。

正雪にそそのかされた村上が不伝を切り殺し、それを聞いた正雪が村上を切り殺す場面。松之丞の語りは迫真である。それまでの流れるような口跡から、重い寸胴を振り下ろすかのように、気迫のある声と、勢いよく振り下ろされる張り扇。声を発する間も無く血飛沫を上げて絶命する村上。その返り血を浴びながら、自らの野望を手に入れた正雪の表情。月明かりに照らされた表情に、全身を駆け巡る血が凍るかのような恐怖を覚えた。かつての剣術の恩師である不伝と、自らの嘘に騙された村上を見つめる正雪の表情。それまで照明に照らされていた松之丞の瞳に影が差し、その眼を伺い知ることは出来ない。その冷たさに、私は言葉を失った。

その後、牛込榎木町に『張孔堂』の看板を掲げ、不伝の娘お重を妾同様に扱うこととなった正雪。何も知らない道場生の信頼を得ている正雪。光と闇、陰と陽、白と黒。表向きはにこやかな表情でありながら、その裏で残酷な思想を抱いている正雪。一人の男の中に、これほどはっきりとした明暗が存在しているということの、その現実味が恐ろしい。誰もが単純な心の持ち主ではないということ、見え方によって人の性格は様々に変化するのだということ。人間の狡猾さと愚直さが混合しているということ。この複雑さが見事に絡まり合っていた。さらには松之丞の語りはそれを見事に描き切っていた。残忍さと慈悲さを同居させた正雪。これもまた双瞳という身体的特徴に現れているのかも知れない。松之丞の語りもまた、明るさと暗さを併せ持ち、さらには語りの緩急が克明に物語に意味合いを与えているように思った。緻密さと大胆さが胸に迫る。圧倒的な名演の一席で仲入り。

 

 第三話 丸橋忠弥登場

前半二話の残酷さ、陰鬱さから一転、明るくコミカルな話。槍の名人である丸橋忠弥が登場し、正雪のことが癪に障った忠弥は正雪を懲らしめようと思い立つ。聴いていて私は一気に晴れやかな気持ちになったが、男同士が決闘をしようというのだから、内容自体はそれほど穏やかではない。

忠弥が絵師の狩野に絵を頼み、毎日訪れてくる繰り返しの場面が面白い。細かく注文を付けながらも、絵を依頼したのは正雪に会うためだという忠弥の単純な策も面白い。正雪を見つけた途端に、絵を蔑ろにして正雪に立ち会いを申し込む忠弥の姿は、槍のように真っすぐで気持ちが良い。

正雪の残忍性を二話で表現しきった後で、パッと明るく愛嬌のある忠弥を登場させる発想は、一体誰が思いついたのだろう。見事に物語を中和しているし、何よりも闇を抱えた正雪と、吹きさらしの腹を持つ真っすぐな忠弥との対比が実に面白い。松之丞の声や表情もさることながら、ぽんぽんっとテンポ良く鳴らされる張り扇が気持ちが良い。

コミカルなキャラクターを演じさせても違和感の無い松之丞。それは恐らく巧みな声色の使い分けとリズムがあるからだと思う。そして絶品の間。この間が唯一無二の『松之丞節』になっていて、人物が切り替わるコンマ何秒の世界の話なのだけれど、声の抑揚と合わさって、とても面白い。声のクレシェンドが緊張感を生んでいるのか定かではないが、人物同士の会話は見事だった。

正雪と忠弥の対決が行われるか!というところで後席。

 

 第四話 忠弥・正雪の立ち合い

狩野の家で立ち会うかに思えた正雪と忠弥だが、舞台を張孔堂に移すことになる。この辺りは策士正雪の策に引っかかった忠弥の姿が情けない。籠に乗った正雪に振り回される忠弥の姿が面白く、忠弥の性格が見事に表現されていた。引っかかる方が情けないとは思うのだが、そのコミカルさが後半のシリアスさに見事に共鳴しているように私は思った。

張孔堂に着いて、いざ立ち合いか!と意気込む忠弥だが、門弟を二人相手にすることになり、最後に正雪と対峙する。前半のコミカルさから後半のシリアスさへと移る語りは、実に見事である。つくづく思うのだが、松之丞のシリアスさは凄まじい。物語の緩急、緩和から緊張へと物語が展開していく様は、下手をすれば笑ってしまうくらいの強烈な魅力を持っている。穏やかで心地の良い波に身を委ねていたら、いつの間にか沖に流されており、遠くから巨大な波が押し迫ってきているかのような、唐突にシリアスに展開する様が実に見事である。

そして、正雪と忠弥の立ち合いの場面は圧巻である。槍の名人である忠弥が正雪を打ち負かし、ついに正雪が屈するのかと思いきや、正雪は懐から白扇を取り出し、双瞳の眼で忠弥を見つめる。蛇に睨まれた蛙のようになった忠弥に、白扇を持った正雪がゆっくりと近付いていく描写、そして松之丞の動き。目には影が差してはっきりと捉えることは出来ないが、想像によって補正された双瞳を持つ正雪の表情となって、忠弥同様に身が固まる。その眼と圧に耐え切れず負けを認める忠弥。この場面が特に素晴らしかった。会場に満ちた緊張感、そして明るい忠弥が本物の殺意に圧倒されて屈する姿。ここでも対比が生まれている。この圧倒的な物語の対比の構造、それらを見事に描き分ける松之丞の語り、表情、声色。全てが後に繋がる物語の基礎となるような、圧巻の一席だった。

 

総括 名演の予感

終演後、私は慶安太平記のチケットを手に入れたことに間違いはなかった、と思った。あらゆるものを犠牲にしつつ会場に通うことを決意した日から今日まで、自分の選択は間違っていなかったのだと改めて思った。

真打昇進が決まり、名実共に世間に周知される身となった今でも、講談に対する思いと情熱は一つも損なわれていない。むしろ、さらに増幅されているように思った。今、間違いなく講談界を背負い、講談の全てをその両肩に担っているのは、神田松之丞、その人であろうと思う。

確固たる意志と意地を見せたマクラについて、私は松之丞の誇りを感じた。未だ誰も知ることの無い、表立っては見えない松之丞の情熱と、思いと、積み上げてきたものがあるのだという自負を私は高座の姿から感じたのである。

普段の寄席を見ていれば、明らかに松之丞のモードが異なっていることに、常連の方であれば気づくのではないだろうか。それほどに、五日間、慶安太平記という連続物を読み続けることには、熱意と情熱が必要なのだ。

残念ながらA日程を見てはいないが、B日程の初日。松之丞の気概と強烈な思いをマクラで聴くことが出来て、私は嬉しかった。同時に、私はあらゆる演芸の良き論者でありたいと願った。それは分からない。今は無垢な心でも、いずれは間違った方向に進んでしまうのかも知れない。人は、自分ではどうしようもない理不尽に襲われた後、次の行動で自分自身を知るのかも知れない。初日を終えて、私はそんなことを思った。

同時に、一席一席を作り上げていく観客の静かな熱意も私は感じた。咳やくしゃみも僅かにあったが、全員が一人の男に視線を注ぎ、その一言一句に耳を傾けているのである。一体、神田松之丞以外に誰がそんなことを出来るというのだろうか。暗い照明の中で、300人が息を殺して、息を呑み、思い思いに痺れ、震え、驚愕し、笑い、語り合える講談。その魅力は計り知れない。

それは、かつての時代を知る者からすれば大したことは無いのかも知れないが、間違いなく今を生きる人間には強烈に響いているし、大切な物であることを、某評論家に私は言いたい。まるで言い訳をするようなことなど書いてはならないと思う。正しく、良いと思うべきところを良いと書くことを信条として、私はこれからも記事を書き続けて行きたい。

 

名人・神田松之丞

残すはあと四日。一体どうなっていくのだろう。一日一日を終える度に、私は一体何を思うのだろうか。そして、一体何を得て、何を失うのだろうか。

ただ人の話を聞きに行っているだけなのに、それ以上の何かが心の中に残る。それこそが、演芸の魅力。そして、講談の魅力、そして、神田松之丞の魅力なのだ。

今、私を含む300人の客は歴史の証人である。間違いなく、後世に名を残すことになる名人の若かりし日の姿を、その最初の一歩を、我々は見ているのである。

講談師、神田松之丞。後の名人となる男の大いなる一歩を、私は今日胸に刻んだ。

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この人の古典を聴いた!~2019年1月5日 神田連雀亭~

 

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この人の面白さは、アインシュタイン相対性理論を越えてる。

 

投げられた球を受け止めた捕手が、そのまま地球7周半してバターになるくらい。

 

となりのトトロ冥王星のトトロになるくらい、遠い存在 。

 

言葉で表現できないことはない。

 

ぞなもしの友人

 

 

 なんだ!?

 この激ヤバな番組は!?

2019年1月5日の朝。アルキメデスは叫んだ。こんな番組で「エエノカ!」と。

Twitterの文字を見れば、『行くしかないよねっ☆』と、つのだ☆ひろが『ひろだのつ☆』になるくらい衝撃の、もはや意味を超越した最高の演者が並ぶツイートがある。呟き主は連雀亭だ。

「草原の道」から「海の道」までを含めて「シルクロード」と呼ぶように、「柳家小もん」から「立川寸志」までを含めて「ラクゴロード」と呼ぶような、最高の番組を発見し、ナイフとランプを鞄に詰め込まず、手帳と携帯を入れて家を出た。

前半にワンコイン寄席で天歌さん、喜太郎さん、橋蔵さんを聴き、至福の喜びと頬骨の痛み十三を感じながら、待ち合わせをしていた友人と電気街をぶらぶら。

友「ふふ、森野氏。今日は我輩のPC魔改造計画にようこそぞなもし。ぴっかぴかの空冷ファンと、華厳の滝もびっくりの水冷装置を見せてやるぞなぁ!」

森野「お、おう・・・・・・」

友人に誘われるまま『なんたら商店』やら『かんとか電気』という店に入り、パソコンに取り付ける装置を説明される。

友「ぶふふ、森野氏。これはオーラシンクというぞなもしよ」

森野「オーラツー?ステインクリア?」

友「そんなに真っ白くないぞな。レインボーぞなもし」

森野「オールステンレス製シンク?」

友「違うぞな!オーラシンク!」

森野「神田真紅?」

友「どこぞな!??これぞな!」

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森野「エイリアンの内臓みたいだね」

友「超カッケェぞな。マジヤベェぞな」

森野「語彙と語尾・・・」

連れまわされるがまま一時間。私には分からない謎のPCパーツの説明をひとしきりして頂いた後で、神田連雀亭に行くことになった。

森野「よし、じゃあ連雀亭行こうか」

友「はっ!?待つぞな。どこぞな!?」

森野「いいから、いいから」

半ば強引に友人を引っ張り、連雀亭の前に到着。

 

続・ぞなもしの友人

友「落語は言葉が分かんないぞなもし。専門用語が多すぎぞな」

森野「聴いていれば、話の流れから分かる」

友「無理ぞな。オーラシンクも分からない森野氏に言われたくないぞなもし」

森野(ちっ、こいつ・・・)

友人を無視し、ざっと表の看板に書かれた演者を友人に説明する。

森野「君に分かりやすいように説明してあげよう」

友「誰ぞな、この人たち。有名な人ぞな?笑点出てるぞな?」

森野「出てない。かなり有名だよ。私の中では」

友「狭すぎぞな!猫の額より狭いぞな!」

森野「この『柳家小もん』さんはね。凄く良い声です。聴いていると湯上り?ってくらい気持ちいい」

友「我輩はシャワーぞな」

森野「じゃあ、シャワー後ね。『三遊亭好吉』さん。この人は聴いたことないから分かんない」

友「イケメンぞな」

森野「そだね。で、『桂伸べえ』さん。この人はめちゃくちゃ面白い」

友「あ、森野氏がいっつも言ってる奴ぞな。どのくらい面白いぞな?」

森野「まぁ、投手が伸べえさんで、俺が捕手だとしたら、伸べえさんの投げた球を受け止めたら、地球七周半してバターになるくらい面白い」

友「光の速さぞな。しかも『ちびくろサンボ』のパロディも挟んでるぞな」

森野「はいはい、『柳家小太郎』さん。この人は首を吊るのが上手い」

友「はっ!?意味不明ぞなもし」

森野「今日分かるかは分からないが、そのうち分かる」

友「首吊りが上手いって、誰と比較して上手いぞな?」

森野「うーん、近藤市太郎かな」

友「誰ぞな!?マジで誰ぞな!?」

森野「えー、お次は『桂伸三』さん。この人は眼力と所作が凄い」

友「眼力!?誰と比較して?」

森野「松島トモ子

友「誰ぞな~!!!マジで誰ぞなぁ~!」

森野「虎に噛まれたら分かるよ。で、最後のトリ。『立川寸志』さん。この人は口跡が気持ち良くて、聴いていて超気持ちいい」

友「マッサージくらい?」

森野「ふんっ(鼻で笑う)、AC/DCの音楽を聴いている感じ。アンガス・ヤングのギターを聴いている感じ」

友「森野氏。どうせ我輩が分からないから、からかってるぞな!?」

森野「1500円は持ったね。よし、後は笑うだけ。携帯の電源は切った?鳴らしたら退場だからね?」

友「き、厳しすぎるぞなぁ~」

というわけで、入場料を払って入場。

 

古典の万華鏡

さて、茶番はこのくらいにして、ざっと会場の様子を伺う。満員の客席。ご常連が多い。深夜寄席が無かったためか、そちらのご常連も流れてきた様子。

番組構成を見た時から、最高の構成だと思っていた。改めて、同じような心持ちの人もいたのだと思う。好吉さんについては存じ上げていなかったが、十人十色というか、六人全員がそれぞれの古典の雰囲気というか、フラというか、風を持っているように私は感じていた。それは一体どんなものか、一人ずつ解説していこう。

 

柳家小もん『黄金の大黒』

私が思う小もんさんの特徴は、前記事にも書いたが美声である。舞台袖から出てきて、一つ声を発した途端に気持ち良く入ってくる声が、気づかぬうちに江戸の世界へと観客を誘う。私は常々、小もんさんの落語を聞くと、まるで温かい風呂から出てさっぱりとした心持ちになるような、そんな気持ち良さを感じていた。「ちょいと落語の世界に行きましょうか」と手をひかれ、落語風呂(そんなものがあるか分からないが)に入ると、日常生活の空気感がさらっと洗い流されて、気が付けば落語の空気感が体に染みている。そんな印象を受ける落語家さんである。それは、小里ん師匠にも共通していて、小里ん師匠が高座に上がって何かを話すだけで、雑多な浅草や泥臭くて人間味溢れる江戸の世界に知らぬ間に誘われる。私はそんな感覚を高座から受ける。

だから、小もんさんは開口一番にはベストな落語家さんだと思う。乙な佇まいと粋な言葉、そして気持ちの良い声。心地よい湯船に無意識のうちに観客は浸かっているのだ。

この話は簡単に言えば「大家さんを祝う」という内容である。前半は大家さんから呼ばれ「家賃の催促?」と戸惑う住人達の姿が描かれ、後半は砂場から黄金の大黒が見つかり、その祝いだと気づいた住人達が大家さんを祝おうとして色々ボロが出る。おめでたいお話で、笑えて気持ちの良い一席だ。全体にお祝いの雰囲気が漂っていて素敵な一席だった。

 

三遊亭好吉『しの字嫌い』

お初の落語家さん。かなりのイケメン。確か萬橘師匠がポッドキャストでオススメされていた落語家さんである。三遊亭好楽師匠の三番弟子で、まるで俳優さんのような容姿。刑事ドラマで中堅の刑事を演じているような風貌で、物凄く真面目そうな雰囲気を感じた。

この話は簡単に言えば「主と奉公人が対決する」という内容である。知恵比べの延長として『し』と付く言葉を言ったら罰を与え、お互いに言わないように約束する。お互いに『し』という文字を言わせようとするお話である。

お互いのせめぎ合いが面白いと同時に、嫌な話になりがちな難しい話だと私は思う。この話を楽しめるかどうかは、主と奉公人の関係性をどう見せるか、という部分ではないかなぁ。と素人ながらに思ってしまう。

好吉さんは、初めてだったので、まだ上手く言葉には出来ないのだけれど、丁寧で真面目な印象を受けた。主と奉公人もお互いに立場とか考えを曲げない感じではなくて、むしろ筋が通っていれば、納得して相手を認めるというような素直さを感じた。特に主の描き方が素敵で、自分の知恵が奉公人に通じず、逆に奉公人から「謝れ!」と言われた時に、いさぎよく「すみませんでした」と頭を下げる感じが、とても良かった。

もう少し聞き続けて、良さを発見したい素敵な落語家さん。ご婦人には眼福だった筈。

 

桂伸べえ『新聞記事』

見る度に進化が止まらない伸べえさん。桂伸治師匠門下。何度も高座を聴いているので、如実に変化が分かる落語家さんの一人だ。私は伸べえさんの大ファンで、前記事に書いたが『好きな人が何かをやっている。それだけで面白い』という落語家さんである。私は伸べえさんの話が聞けるだけで満足である。間違いなく面白いし、聴く度に面白さは増していくし、何度聞いても絶対に外れない人で、私の笑いのツボをど真ん中で突き抜けて行く落語家さんである。

サッカーで言えば、伸べえさんの蹴ってくるボールは、直線かな?と思いきや、一度自陣に飛んでいき、そのままオウンゴールかと思いきや、強烈な回転で敵陣のゴールに向かって進み、強風によって大腸を描くかのように左右に動いたあと、敵陣のゴールネットに入ったかと思いきや、そのままスタンドを突き抜けて空へと消えて行くというような、予測のつかない面白さがある。

そしてフラ。醸し出す雰囲気と、唐突に差し込まれるフレーズ。今回も「ついに!それを言ったか!」というような、大ファンとして嬉しい言葉も演目中に飛び出し、大笑いして腹が捩れた。盲腸じゃないけど、もう丁度いいのである。

会場が爆笑の渦に巻き込まれていると、私はとても嬉しくなる。自分のことのように嬉しいという感覚がある。それは、客席に2人しかいない時の高座を見ているからだと思う。たった2人でも、全力で落語をする伸べえさんは輝いていた。今でもその輝きは1mmも損なわれていない。むしろ、輝きが増し続けている。凄いのだ、本当に凄いのだ。好きが強すぎて迷惑なんじゃないかと思うくらいに好きである。

ふと、前記事で書いた隣客の言葉が頭をよぎった。「最初はたった3人しかいなくてねぇ」という言葉を放った隣客の思いと、同じ気持ちを私は伸べえさんに対して感じているのだと思った。

だから私は、大勢の前で、自分を出し切っている伸べえさんを見ていると、笑うと同時に感動が押し寄せてくるのだ。良かった。この人の面白さが伝わって良かった。本当に良かった。届いてる、届いてるよ、伸べえさん。あなたの面白さは、

 

届いてるよ!伸べえさん!

 

勝手に私がそう思っているだけなので、何とも言えないのだけれど、楽しそうに落語をやっていて、色んな葛藤をしながら、たまにボソッと呟くような言葉を聴くときも、私は嬉しくて堪らない。もしも伸べえさんが気になった方は、是非西新宿のミュージック・テイトでやっている独演会にも足を運んで欲しいと思う。

こんな記事を私が書かなくても、伸べえさんは間違いなく凄い落語家さんになっていくことは確かである。最高の一席だった。

 

 柳家小太郎『おすわどん』

柳家さん喬師匠門下の小太郎さん。早朝寄席や寄席で何度か見たことがあって、会場を巻き込んで盛り上げるお姿が素晴らしく、早朝寄席で見た、演目は忘れてしまったのだが、手ぬぐいを使って首を吊る場面のある話で、会場を爆笑の渦に巻き込んだ落語家さんだという記憶が強い。

面白い怪談話が凄い人という印象があり、その印象をさらに強めた演目だった。この話は詳しく書くとオチになってしまうので、書かない。

オチはかなりバカバカしいのだけれど、小太郎さんはマクラから見事に会場の空気を掴んでいた。伸べえさんの後で、絶対やりづらいだろうなぁと思っていたら、伸べえさんを背負い投げするようなマクラで爆笑をかっさらい、そのままの勢いで演目に突入した。『おすわどん』は桂歌丸師匠が掘り起こした話である。芸協の会長の話をさらりと選択した小太郎さんのセンスに脱帽。随所に挟まれる落語好きなら笑えるワードを入れてくるのも面白い。『おすわどん』は桂歌丸師匠が掘り起こし、柳家喜多八師匠が持ちネタとして演じられていた話である。小太郎さんが意図して『おすわどん』を選んでいるのかは分からないが、芸協に対する敬意と、喜多八師匠の魂を継承していくというような、そんな強い心意気を感じて、私は勝手に「す、すげぇ」と心の中で思っていた。

オチはさらりと気持ち良く、色んなことが感じられた素敵な一席で仲入り。

 

 桂伸三『七段目~奴さん』

終演後、唯一友人が「しちだんめ?あの話は難しくて良く分からなかったぞなもし」と言った演目である。確かに私もなかなか理解が及ばない部分があって、特に歌舞伎の内容はあまり詳しくない。それでも、何となく面白いことをやっているのだなぁ、という雰囲気で楽しんでいる。

桂伸治師匠門下の桂伸三さんは、大ネタを得意とする、と噂されている落語家さんである。まだ二ツ目だけれど、風格があって佇まいは本寸法。登場と同時に客席がピリッと緊張感に包まれる。穏やかな低い声から、高い声までの振れ幅と、眼力と表情、所作まで、全てが力強い本格の落語家さんである。深夜寄席でトリを取っている時も見たことがあって、その時も大ネタだった記憶がある。ちょっと見た目は怖いのだけれど、落語に入ると変化する表情が面白い。語り口も丁寧で、語られる言葉の一つ一つがはっきりとしているし、固有名詞がばんばん出てくるのだが、それを記憶して、すらすらと語ることが出来るところに、見えない努力が感じられて凄まじいなと思う。

これからは三遊亭圓生師匠のような名人になっていくかも知れないと思うような落語家さんである。

P.S.

奴さんの踊りに入る前に、舞台袖で兄弟子を見つめる伸べえさんの姿が見えた。恐らく音楽を流すタイミングを見計らっていた様子。高座裏の姿を見逃さないスタイルです。

 

立川寸志『三方一両損

シブラクではお馴染みの寸志さん。44歳で脱サラし、立川談四楼師匠の門を叩いた異色の落語家さんである。私は常々、幇間が登場する話は唯一無二の面白さがあるなぁ。とブログでも書いてきたが、今回、その考えを改めた。啖呵も抜群の口跡である。とにかく気持ちのいいリズムとトーン。私としては、エレキギターをオーバードライブというエフェクターを通してマーシャルのアンプに繋ぎ、7フレットの4弦を単音で弾いたら、それが寸志さんのトーンであるような気がする。その4弦をチョーキングしたり、ビブラートを効かせたりするような、トーンだと思う。曲で言えばAC/DCの「Highway to Hell」を聴いているような心地よさ。単音で弾き続けたAの音が、観客の笑い声がAメジャーの和音で返ってきて、とってもA空気。

もはや真骨頂だと私が勝手に思っている機関銃のようなトークが、とても気持ちが良い。聴いていて胸がスッとするような啖呵と、人の意地と心意気の張り合いが最高の演目である。考えてみたら、啖呵が出てくるような話を寸志さんで聞いたことは無かった。啖呵と言えば『大工調べ』であるが、これも是非聞いてみたい。

ミドルの効いた音が好きで、志ん朝師匠のような畳み掛けるようなリズムが好きな方には堪らない落語家さんである。江戸の風をびゅーびゅー吹かせる落語家さんだなぁ。と改めて思った。一席終えた後の心地よさ、爽快感が堪らなかった。

 

総括 古典の多様性

古典落語のサンプルブックのような、古典であっても現代にその力を残しているような、色んな楽しみ方を発見できる最高の会だった。その中でも、私は伸べえさんの雰囲気が特に好きなのだが、他の演者さんもそれぞれの古典の世界を見事に表現されていて、古典落語を聴き始めた初心者にも、常連にも最適な番組構成だったと思う。改めて、この番組を構成した天歌さんのセンスに驚愕&脱帽である。

では、最後は再び茶番で幕を閉じたい。以下はお暇な人だけ読んで頂ければ幸い。

 

エピローグ~ぞなもしの友人~

森野「いやー、最高だったね!最高だったね!最高だったねぇ!」

友「なぜ三回繰り返すぞな、森野氏はAKBぞなか」

森野「よし、飯食いに行こうか」

友「無視かぞな。昼飯食べてないからお腹ペコペコぞな」

森野「だね。でも心は満腹だ」

友「うーん、まぁ、専門用語が難しかったけど、前よりわかりやすくて面白かったぞな」

森野「どの人が良かった?」

友「古典だけど新作寄りの人?あのタイの人が面白かったぞな」

森野(そうかそうか、ふふふ・・・)

友「何ニヤニヤしてるぞな、気持ち悪いぞな」

森野「失礼失礼。逆にどこが分からなかった?」

友「オアシってなんぞな」

森野「お金のことだね」

友「あとちゅーしんぐらってなんぞな」

森野「えっ、そこから?殿中松の廊下も知らない?」

友「全く知らんぞな。理系の我輩に文系の話が分かる訳ないぞな」

森野「赤穂義士四十七士も知らない?」

友「だから知らないぞな」

森野(人非人・・・)

友「あっ!今あからさまに冷たい眼をしたぞな!なんぞな!なんぞな!」

森野「あ、ごめんごめん。そこからか、と思って」

友「詳しく教えてくれぞな」

森野「君に分かるように言うね。吉良っていう偉い人がいたの」

友「デスノートみたいぞな」

森野「それはキラね。この人は、まぁ、パーティに参加するための情報を知っている人だと思ってもらっていい。偉い人がたくさん参加するパーティのドレスコードとかを知ってる人ね」

友「ふむふむ」

森野「で、吉良よりちょっと下の人達は、このパーティに参加するときに、吉良にお金を渡して、パーティに参加する服装を教えてもらってたわけ。例えば、スーツを着て、赤いネクタイを付ける、とかね」

友「ほうほう」

森野「で、浅野って人だけが、吉良にお金を渡さなかったの。そしたら、吉良に嫌われちゃった。どういう服装かも教えてもらえなかったら、パーティでもみんなと服装が違って笑われちゃった。吉良も大勢のみんなの前で、浅野を馬鹿にしたりしたわけ」

友「ふむふむ」

森野「当時は、武士は誇りを傷つけられるのは恥だった。そういうことが積み重なって、屏風に松が書かれた長い廊下で、吉良に馬鹿にされてた浅野は斬りかかった。で、吉良を殺せなくて、そのまま自害したの」

友「なんと、残念ぞなもし・・・」

森野「浅野は大名だった。まぁ、今で言えば社長みたいなもの。吉良を殺せなかった浅野が自害したことを知って、浅野の家来、まぁ社員が黙ってなかったんだね」

友「ほうほう」

森野「で、何百人かの家来のうち、四十七人が吉良を殺そうと、吉良のお家に飛び込んだ」

友「そんな大勢で行くのかぞな。二人とか三人じゃ駄目だったのかぞな」

森野「また殺し損ねたら嫌だったんじゃない?」

友「なるほど。じゃあ大勢で暗殺したということぞなね」

森野「そういうこと。で、この四十七人はお寺で全員自害したの」

友「む、むごすぎるぞな・・・」

森野「当時は仇討ちは武士の美徳とされてた。でも、幕府がそれを認めなかったんだね。赤穂浪士の話を聞いた町の人達は、仇討ちの美徳に感銘して物語を作った。それが忠義の忠、大臣の臣、仇討ちの番頭をしていた大石内蔵助の蔵と書いて、忠臣蔵と呼ばれるようになったんだね」

友「なるほど。要は社長が会長に馬鹿にされ続けて、怒った社長が会長に斬りかかったけど殺せなくて、それを知った社員が会長を暗殺するということぞな?」

森野「まぁ、大体そんな感じ」

友「まぁ、馬鹿にされたくらいで殺さなくてもいいのにと思うけどぞな」

森野「それが現代の感覚かも知れないね。当時は馬鹿にされることはどうしても許せないことだったんだよ」

友「ふーん」

森野「それにね。四十七人は12月14日に吉良を殺しに行くんだけど、それまで家族や兄弟に吉良を殺しに行くことは黙っているわけさ。バレないようにね。で、前日に嘘を付いたり、兄弟に挨拶しに言ったり、変な人に絡まれたりするの。でも、絶対に吉良を殺すなんて言わないの」

友「暗殺だから、当然ぞな」

森野「その前日の話が面白いのよ。遠い旅に出るとか嘘ついてさ。家族とか周りの人は慌てたりするわけさ。どうして急に!?みたいなね。で、遠い旅に出ると言ってた人が、翌朝に吉良を殺した集団の一人であったことに周りが気づくわけ」

友「お、おお。面白そうぞな」

森野「そうなのよ。ここからが凄いんだけどね。そろそろ終電よ」

友「ああ~、マジかぞなぁ~。続きを聞かせてほしいぞな」

森野「分かった。じゃあ次は講談を聴きに行こう。松之丞さんとか貞橘先生とかいっぱいいるから」

友「ぐぬぬぅ」

森野「じゃあねー」

 

友人と分かれ、私は温かい気持ちで家に着いた。茶番、終わり。

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浪曲は燃えている! Rokyoku's burning~2019年1月1日 木馬亭~

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 人は心よ 見た目じゃないよ

 

せめて君のために歌を書きたいけど

もどかしい想いはうまく歌にならない

 

スターライトパレードな連雀亭がSEKAI NO OWARI、ならぬ2018年の終わりを締め括った後で、星が降らなくても眠れない夜を過ごした私は、誰に連れて行かれるでもなく浅草木馬亭の地に足を運んだ。

浅草寺の境内へと続く長い行列を見ていると、真っ黒い山芋が境内の中で洗われて出てくるのではないかという気がしてくる。去年は戌年ということもあって、柔らかい銀行さんが拵えた白犬の像が景観をぶち壊していた。今年は三井群に住む友達がウリボーの銅像VISAカードを配っているかと思ったが、景観を損なうような像は無かったゾウ。

木馬亭の前では天中軒景友さんと天中軒すみれさんがチラシを配っていた。その横では木馬館の役者さん達が、お客様と写真を撮っていた。私もデーモン閣下ばりのメイクをして「貴様を浪曲師にしてやろうかぁ!」と三味線を持って客に襲い掛かり、音締めならぬ首絞めを行って浅草寺の交番に連れ込まれ、罪は『浪曲』で罰として口三味線と浪花節を一節唸らされて釈放されたい。と想像したが、やめた。

木戸銭を払うと、ガムみたいな白い包み紙に包まれた何かを渡された。後に家に帰ってそれを開けると、金色の猪のアクセサリー。縁起が良いと思いながら、鞄の中に入れておく。

相変わらず長時間の着席は厳しい椅子であるが、浪曲を長時間聴こうという体力は何とあったので、ぶっ通しで聞いた。さすがに全てを書くのは時間を要するので、気になった演者と演目だけ記載する。

 

はる乃/秀敏『真柄のお秀』

もはや浪曲の一つの到達点であるというような、風格も声も節も、何もかも桁違いに凄まじいはる乃さん。秀敏師匠の三味線に導かれて、怒涛の勢いで話が進んでいく。はる乃さんはまさに『情熱の人』で、イタリア人が見たら「コンプリメンティ!、ローキョク!コンプリメンティ!」と声を発するくらいコンプリメンティな人で、マンマがミーアな力強い節を聞かせてくれる。

この話を誇張して言えば「北斗晶山下智久と結婚して、ジャイアント馬場を生む」みたいな内容で、誇張せずに言えば「ガタイの良い女が侍と結婚して、後世に残る侍を生む」というような話。

はる乃さんは『不器量な女性が、心の清らかさで出世するという話』を浪曲で披露されている。この世の中に不美人など存在せず、地球上の全ての女性は美しいと思っている私には、あまり共感できる話ではないが(えっ、なんですか読者の皆様のその顔は)、笑いと涙でほっこりする良い話である。特にガタイの良い女であるお秀が、ご先祖様に祈る場面はハッとさせられて胸が締め付けられる。

きっと勇気と希望が湧いてくるし、「人は見た目じゃなくて心よ!」と強く思うだろうと思う。私からすれば、世の女性は化粧なぞしなくても十分に綺麗です。(あれ、読者からの冷たい視線を感じるぞ・・・)

 

太福/みね子『若き日の大浦兼武』

安心安定の太福さんとみね子師匠。やっぱりCDより生の浪曲は痺れる。岩倉具視が大浦を呼びつける場面の後のてんやわんや感が泣ける。

この話は簡単に言えば『岩倉具視の落書きを大浦兼武が買い、それによって兼武が出世する』という内容である。誇張して言えば『バスキアの絵を買ったZOZOの前澤社長が、それによってディカプリオになる』みたいな話である。今回から誇張シリーズを勝手に始めました。

絶品なのは岩倉具視が大浦兼武の金を握りしめ、「悪かったねぇ」の後の節。これがほろりと来る。CDでも生でも、どっちで聞いてもほろっと来てしまう。是非、生で聞いて胸を温めてほしい。

 

一舟/美『暁の唄』

言うことが正直無いくらい、凄い節。声。そして全身から滲み出る優しさの風。もう聞いて、泣いてください。

 

孝子/貴美江『竹の水仙

甚五郎ものが聞ける!と感動。Youtubeの動画で凄まじかった京山幸枝若師匠の『竹の水仙』をテープだったら擦り切れるほど聞いていたので、大興奮。

孝子師匠の圧巻の節と、貴美江師匠の抜群の三味線。悔しいかな、どう表現して良いか分からない。この二人は正に究極の二人で、二人で一つというような、ドラゴン・ボールで言えば、孫悟天とトランクス、危ない刑事で言えば、タカとユージみたいな、そんな究極のバディである。

この話は簡単に言えば『名人が宿代の代わりに作った竹の水仙が、高く売れる』というお話である。誇張して言えば『西村賢太がソープ代の代わりに書いた苦役列車が、芥川賞を取る』みたいな話である。(かなり語弊がある)

最初の節から、物語の笑いどころ、そして最後まで。私としては最後は節で聞きたかったなぁ。と思うけれども、さらっと語りで終わった。いずれ、どこかで最後は節で締めくくられる『竹の水仙』を聞いてみたい。

 

総括 浪曲は燃えている!

前座さんに若くて綺麗な女性が多く、浪曲界が今、かなり盛り上がろうとしている。後の名人と呼ばれるような才能を持った若い人達が、まだ数は少ないけれど誕生しようとしているのだ。今後も、若くて美人な浪曲師、曲師さんが増えて行くことは間違いない。どんな世界も美人が多いと嬉しいものである。眼福である。

新年早々気の抜けた記事になりました。どうかご容赦を。

向き合い続けること、立ち続けること~2019年1月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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第一回の時には、お客さんが3人しかいなかったんですよ。

 

みんな、いつの間にか上手くなってねぇ。

 

ここの珈琲を飲まなきゃね。 

 思う・思わない

目が覚めると、白い天井が目に入る。今日も白いな、とは思わない。天井がまだ存在していたんだ、とも思わない。というか、何とも思わない。

布団から出て、洗面台に立って顔を洗う。顔を上げて鏡を見る。老けたな、とは思わない。ちょっと顔色が悪いな、とも思わない。あれ、おでこに目があるぞ、とも思わない。というか、何とも思わない。

服を着替えて、身支度を整える。今日もカッコイイ、とは思わない。似合ってるな、とも思わない。誰かが振り向くだろうな、とも思わない。というか、何とも思わない。

荷物を持って、玄関で靴を履き、ドアの扉を開いて外に出る。「いってらっしゃい」という言葉を言ってくれる人がいたら、と思う。「おはよう、今日も寒いね」と言ってくれる人がいたら、と思う。「忘れものは無い?」と言ってくれる人がいたら、と思う。というか、声をかけてくれる人がいたら、と思う。思うだけで、現実は私ただ一人。でも、深くは考えない。全てはタイミング。

 

スタジオフォーへ

ぶらぶらと散歩をしながら、西巣鴨へと辿り着く。この辺りは閑静という言葉が似合う気がする。都電荒川線が通っていて、どことなく雰囲気がのんびりしている。以前にも記事にしたが、本当に素敵な場所だ。言葉でどう表現していいか分からない部分が数多くある。何か失われてしまったものの名残りのある空気というべきか。長く住んでいる人達の密かな魂の交流が漂っているというか、そんな空気感がある。

開場時刻になり、入場する。見慣れた風景である。2000円を払って着座。

開演時刻になるにつれて、お客様がぞろぞろと入場し、気が付けば大入り満員である。おお、やっぱりすごいな、と思っていると私の隣に座っていた大先輩が声をかけてくださった。

 

隣客の話

隣客「今日は大入り満員ですね」

森野「そうですね、やっぱり出ている人が凄いですから」

隣客「私は第一回から来ているんですが、その時はお客さんが3人しかいなかったんですよ」

森野「ええっ!?」

詳しく話を聞くと、初期の頃は、あまりにも人が集まらなかったため、駅の方に出向いてチラシを配ったり、お客が三人の時は、コーヒーを売っているお姉さんが客席に座ったそうである。

また、今から7年~8年前になるだろうか。四の日寄席は、今の固定メンバー(文菊師匠、やまと師匠、左橋師匠、馬石師匠、駒治師匠)になる前は、もっと人数がたくさんいたのだそうだ。いつの間にか一人減り、二人減り、今のメンバーになったようである。

隣客「それが今じゃ、みんな真打になってね。随分と上手くなりましたよ」

森野「そんなことがあったんですねぇ」

まだ出演者が二ツ目の頃は、金額も1000円だったそうである。そのうち演者が真打になって、駒治師匠が昨年真打になり、今では2000円となっているのだそうだ。

隣客「駒治もねぇ。苦労するでしょうねぇ。彼は新作を作っているから」

森野「鉄道落語が有名ですよね」

隣客「新作の人は大変ですよ。時代が変わって行ってしまいますから」

森野「お話の内容が、時代によって通じなくなってしまう」

隣客「そうそう」

話を聞くと、隣客は昭和30年(1955)に両親に連れられて寄席に行ったという。その頃と言えば、落語の黄金時代である。今でも名を残す志ん生文楽圓生、小さん師匠達の全盛期である。その時代の中にあって、新作落語を見てきた隣客は、新作を作っていく落語家さんを心配されている様子だった。

隣客「文菊も、駒治も随分上手くなりました。今じゃあ、こんなにお客さんが入るようになりましたからね」

隣客はそっと周囲を見渡した。私もつられて見渡した。後ろの壁まで大勢の人が着座している。

森野「大入り満員ですね」

たった3人の前で落語をしていた頃から、満員の観客の前で落語をするようになった師匠達の心持ちは、一体どんなものなんだろうと想像する。

答えは一つ。嬉しい筈だ。嬉しくて嬉しくて、涙が出るくらいに嬉しい筈である。同時に、お客が増えて行く喜びもあったに違いない。たとえお客が一人でも高座に上がり、落語を披露する。何日も何日も高座に上がり続ける。知らず知らずにお客が増えて行く。やがて、高座に上がるたびに客席が満員になる。嬉しいと同時に、その期待に応えようと芸を磨く。聴いてくれた人に喜んでいただけるように、毎日毎日高座に立ち続けた結果として、大勢のお客様が客席に座ってくれた時、自分の芸は間違っていなかったのだと思うだろう。同時に、さらに高みを目指そうと思うだろう。今、目の前にいるお客様に自分の全てでぶつかっていく。そんな師匠達の姿を想像して、私は胸が熱くなった。

翻って自分の記事に関しても同じことを思った。最初は一日に5人くらいが読んでいた。Twitterに上げると「いいね」をくれる方や、コメントをくれる方がいた。どんどん読む人が増えて、一日10人、50人、100人と増えて行った。記事によっては1000人に読まれた記事もあった。それがとても嬉しかった。読者も増えて今は4人。4人の読者のためにも、恥の無い記事を書きたいと思った。一つ一つの記事に全力でぶつかっていきたいと思うようになった。

同時に、記事を書けば書くほど怖くもなった。今回の記事は受け入れてもらえるだろうか。喜んでいただけるだろうか。でも、自信をもって書くことでしか、それを解消することは出来ない。だから、今自分に出来る全てで記事を書くこと。それが自分に対する挑戦になっている。

そうなってくると、自然と周りのことが気にならなくなった。自分に出来る精いっぱいの記事を書いていると、他人の記事に対しては何も言おうという気にはならなくなった。同時に、言える立場には無いということも分かった。相手に対して辛口の批判をするような、偉そうなことを言えるような力も無ければ、立場も私には無い。では、私に何が出来るかと考えると、それは『素晴らしい部分を見つけること』だった。

私はどんな落語家さんにも優れた部分があるのだと考えるようになった。この世界に人を批判したり否定したりする記事や文章が数多くあるのならば、私は人を褒めたり肯定する記事や文章だけを書こうと思った。誰に何と言われても、どんなにつまらないと言われている人でも、必ず素晴らしい部分がある。間違いなくある。

そう心に決めて、記事を書くようになったのは最近である。今、それが出来ているかは分からない。言葉足らずで変な誤解を招いてしまうこともあるかも知れない。それでも、私は真っすぐに『肯定し続ける人』でありたい。そんなことを思って、記事を書く決意をした。

隣客は最後にこんなことを私に言った。

「お若く見えますが、随分前から落語がお好きなんですか?」

私は力強く答えた。

「はい、大好きです」

 

古今亭文菊『千早ふる』

薄紫色のお着物で登場の文菊師匠。新年最初の文菊師匠である。

人を好きになると、その人が何かをしているだけで心地よくなる。何度同じ話をしても、それは一つとして同じ話にならない。好きな人が何かをしていると、勝手にそれを聴いている私の方が変化に気づき、同じ話でも同じように捉えなくなる。究極を言えば、好きな人がこの世界に生きていて、出会う度に新鮮な気持ちを感じるように、ただ出会って何かしているのを見ているという、それだけで幸福を感じられるようになる。今、私は文菊師匠に対して、まさにその心持ちである。

表情や仕草を見ていても、文菊師匠は文菊師匠を毎日更新している。日常生活の中で、様々なことに対して考えを持ったりしている。そんな日々の小さな小さな変化が落語に現れていて、それが私には分かる。というか、分かった気になっているのかも知れないけれど(笑)

同じことを伸べえさんについても思うのだけれど、それは別の記事で書く。

『千早ふる』の話の中に浪花節が出てきた時も、演目に入る前に話されていた内容が作用して、文菊師匠の『歌』に対する気持ちが伝わってくる。本当に小さく、演目の角度が変わって聞こえてくるのだから不思議だ。一つとして同じ話にならないのは、演者も観客も『今』を生きているからだと思う。生まれてから今日まで、地続きの日々が高座に現れてくる。それを出会う度に私は感じるのだ。大好きな落語家さんになればなるほど、それははっきりと、しっかりと、確実に分かる。

隣客の話と、文菊師匠の姿と相まって、とても素敵な一席だった。お客が3人の頃から満員の今に至った文菊師匠の姿が見えて、感動的な一席だった。

私は真打になった文菊師匠から見始めたので、お客様が少ない会を想像したことが無かった。今回、隣客の話を聞いて映像が脳裏に浮かび、その映像と現在の狭間にある思いを感じて、言いようの無い感動を抱いた。

まるで魔法にかけられたかのように、この後に出てくる演者に対しても『三人の客から、満席となった今』という言葉が常に頭をよぎった。

文菊師匠を含めて、演者の皆さん全員が『自分と向き合い続け、高座に立ち続けてきた人』なのだ。

 

桂やまと『反対俥』

前記事でも書いたかも知れない。PTA会長を務めているやまとさん。高座から漂う素敵な香り。そして元気いっぱいの高座。見れば元気が湧いてくる。明るくて、真面目で、真っすぐで、強い。普段の生活でも頼りにされている人だろうというのが、高座から伝わってくる。思わず背筋が伸びるくらいに真面目で、気配りの人のように見える。観客を巻き込みつつ、勢い満点の一席だった。

 

隅田川馬石『粗忽の使者』

馬石師匠の生み出す空気感、世間とちょっとだけズレてる?というような違和感。それでも、その微妙なズレが醸し出す面白さがあって、マクラでは「ええー!?」という客席の驚きの声もあったりして、普通の人に見えるのに、よくよく関わってみると、ちょっとはみ出しているような、何とも言えない雰囲気なのに、落語にそれが見事に生きてきて、まさに馬石師匠の世界を作り出している気がする。それは、技術的なことではなくて、馬石師匠が馬石師匠としてやっていることで、それがそのまま唯一無二の落語になっているというような、まさに落語の人である。

高座のお姿を見ていても、とても楽しそうに話されている。馬石師匠が落語になっている、という表現が一番しっくりくる。登場人物を演じているというよりも、登場人物が馬石師匠になっているというか、何とも伝えにくいのだけど、そういう感じ。

語りや間とかうんぬんよりも、馬石師匠の思う「落語とはこんなものじゃ!」というのが伝わってくるという感じではなくて、『落語=馬石』になっているというような感じである。書いていて難しさを感じています。

粗忽な人達が登場するのだけど、それが完全に馬石師匠そのもの、というのが、何の不純物もなく伝わってくる。臭さとか、演じてるという感じではない。成りきっているという感じでもない。成っているでもない。最初からそれである、最初から落語である、という感じ。駄目だ。やめとこう。

最後のオチも分かり切っているのに笑えるのは、落語だからである。馬石師匠が落語だから面白い。うーん、伝わるのか(笑)

 

初音家左橋『紙屑屋』

十八番!と思うような絶品の一席。左橋師匠は見た目は可愛くてカッコイイし、声も美しい。以前、カナリアを思い出すと書いたかも知れないが、まさに七色の声を使いわける素敵な一席。是非ともCD化して欲しいと思うし、たくさんの人に聴いて欲しい一席である。笑える個所も、驚く個所も、流麗なる左橋師匠の調べに乗せて耳に心地よく響いてくる。

 

 古今亭駒治『都電物語』

鉄板の鉄道落語。今回はほろりと泣ける人情噺。詳しくは書かないけれど、駒治さんもまた『自分と向き合い続け、高座に立ち続けてきた人』だし、『これからも自分と向き合い続け、高座に立ち続ける人』なのだ。素敵なお話なのでネタバレは避けたい。この物語に登場する女性のように、私を振り回してくれる女性が現れてくれることを切に願った(何を言っているんだ君は)

 

総括 向き合うこと、立ち続けること

帰り際、隣客に挨拶をして会場を出た。不思議と私の胸には隣客の言葉が残っていた。いつの時も、先達の言葉というものは強く胸に響いてくる。今、ふと思ったが、隣客の言葉は亡き祖父の言葉でもあったのかも知れない。祖父と演芸について語り合うことは出来なかった分、こうして隣客から話を聞くことが出来たのではないか。普段、全くスピリチュアルなことを考えないのだが、都合よくスピリチュアルなことを考えてしまう自分がいる。

翻って、自分にも同じことが言える。好きで選んだ道を今も走っている。走り続けている。自分の全てでぶつかって、自分の能力や性格と向き合い、記事を書き続ける。毎日毎日自分の行動を顧みて、次に生かそうとしていれば、きっと誰かが見てくれる筈である。というよりも、自分で自分に納得できる自分であり続けたい。そう思うばかりである。

素敵な隣客との出会い。そして昔話。全てが今に生きている。これからも生き続ける。2019年も、素敵な演芸との出会いがありますように。

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