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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

【Day1】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月10日 

 

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男は座して、こちらを見ている。

 

想像の風景 

男は、座している。紫毛氈の台があり、舞台中央に置かれた座布団に男は座している。男の後ろには六尺六曲の鳥の子紙の和紙屏風がある。

男の目の前には、栗皮色の釈台がある。釈台の右端には新調した和紙で出来た張り扇。左端には白扇がある。

眼前には、300席ほどの椅子がある。無人の客席。そこに観客は座していた、と、男は座しながらに思う。そうだ、座していたのだ、と男は無人の客席を見て思う。男は、前夜祭を含め六日間。釈台を前にして座し、300人に対して一人の男の物語を語ったのだ、と改めて思い返す。そして、今夜再び俺は語るのだ、と思う。一人の男の誕生を語るのだ、と思う。今宵、再びに。

一日、300人が前夜祭を含めて六日間。俺の語る物語を聞きに来たのだ、と男は思う。素性も知れず、どんな生活環境かも知れず、顔も、名前も、性格すらも分からぬ300人ほどが五日間集まり、一人の講談師の語る物語を聴く。男は身震いする。それがどれだけの奇跡かを想像して身震いする。同時に、俺一人の力でここまでやってきたのではない、と男は思う。何者でもない俺を一人の講談師として育て上げてくれた師匠の存在、互いの才能を認め合い磨き合った仲間、そして自らの芸に応えるかのように会に足を運んでくれる客、そして自分の思う舞台を作り上げてくれたスタッフ。全てが今の俺を形作っているのだ、と男は思う。

振り上げた張り扇が、釈台に当たる。パンッという乾いた音が、無人の会場に響き渡る。その凛とした張りのある音に、男は耳を澄ませ、じっと目を閉じて頭を下げる。再び、300人が五日間、この会場に集まってくる。一人の講談師の語る物語を聞きに来るのだ、と男は再び思う。俺は一度語り終えたのだ、と男は確かめるように思う。その確かな自信が自らの心にあることを男は確かめる。

顔を上げ、目を開けると、一人の男が客席に座っている。その男は、こちらを真剣な表情で見つめている。高座の男と、客席の男。そこには二人しかいない。二人は言葉を交わすことはない。だが、互いに同じことを思っていた。

 

この五日間、全力でぶつかり合おう。

 

張り扇が再び釈台にぶつかったとき、高座の男と客席の男の姿は、霧のように消え去り、ただ無人の空間だけがそこに残った。だが、確かに漂う静かな熱狂の意志が、会場には物言わず充満している。そして、講談界をその両肩に背負った男が、高座に上がり、物語を語り始める。慶安太平記、その全19話を。

 

なぜ慶安太平記は全19話なのか

森野は、数日前から楽しみにしていた慶安太平記が全19話であることに意味があるように思っていた。19という数字は奇数であり素数である。19は2で割り切れない。2で割れば1余り、3で割れば1余り、4で割れば3余り、5で割れば4余り、6で割れば1余り、7で割れば5余り、8で割れば3余り、9で割れば1余り、10で割れば9、11で割れば8、12で割れば7、13で割れば6、14で割れば5、15で割れば4、16で割れば3、17で割れば2、18で割れば1、19で割れば0。1で割れば19。一人の男を割り切るためには、19の話を要する。19の話であれば一人の男を語り切ることが出来る。

19は重苦だ、と森野は思う。一人の男が抱く野望、その野望の潰えるまでの様を語り切るためには、重苦が必要だったのだ。故に慶安太平記は19話なのではないか。一人の男を斬るための重苦。そんなことを考え、森野は一人の講談師のいる会場に足を踏み入れた。

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しんと冷えた場内

場内は撮影禁止のため、上の写真をご覧いただき、どのような会場かご確認頂きたい。300名ほどの収容人数があり、同場所、同時刻、同席、同客が集う。高校生以来であろうか、同場所、同時刻、同席、同人間が集まるという状況は。しかも、それが300人である。この事実一つをとってみても、一人の講談師がどれだけの魅力を持ち、その魅力にどれだけの人間が惹かれているか(或いは憑りつかれているか)が分かるだろうと思う。

5日間、座る場所を確認し着席する。場内はしんと冷えている。Twitterで情報を見ていたため、厚着をしたおかげか、それほどの寒さを感じることは無かった。

座席には、本日の公演のプログラムが記載された紙がある。あまり前情報を入れたくない性質なので、そっと鞄にしまう。

周囲を見渡すと年配の紳士、ご婦人が多い様子である。常連の顔もちらほら。開場時刻の19時間際になると、ぞろぞろと人が入ってあっという間に客席が埋め尽くされる。その光景を見ているだけでも、私は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。これから5日間、この場にいる299人ほどと同じ時間を過ごすのだと考えると、その奇跡にも驚くが、一体どれだけの芸が作られていくのか。連続読みは初めての経験だけに、全て参加できるかも不安である。それでも、昔から遅刻だけは絶対にせず、遅刻するくらいなら最初から行かない、という性格であるため、何とか都合を付けて行くぞ!という気持ちだけは強く持っていた。だから、19時前に会場に到着できた時の喜びは大きかった。小説なども抜き読みが嫌いで、頭から読まなければ気持ちの悪い性格で良かった、と自分に対して自分をほめたい気持ちだった。

 

19時になり、左の舞台袖から講談師 神田松之丞さん(以下、敬称略)が登場。万感の拍手と大勢の「待ってました!」に迎えられて、猫背気味の松之丞は高座に座し、張り扇を一度叩いてから頭を下げた。会場の照明はとても暗い。

マクラの内容については、私の感想を記すだけに留める。一介の名も無きブロガーとしては、絶賛記事しか書かないことを掲げているため、どんなことがあろうとも、良いと思った部分だけを書く。そう心に決めたマクラだった。出来ることならば、次世代の演芸評論家になりたいとも思うが、さて、どうなることやら。

 

第一話 正雪の生い立ち

高座に上がった松之丞は照明が当たって輝いて見えた。また、着物も白く照明を当てられてより一層輝いている。徳利に酒を注がれているかのような、流れるような言葉の口跡に心地が良くなる。何より声の響きが実に良い。三遊亭圓生師匠を彷彿とさせるような中音が気持ち良く響き、正雪がまだ富士松という名だった頃の話が紡がれていく。何よりもまず、出生の直後に双瞳であり、富士松を取り上げた産婆さん(?)がそれを見て吉相だというくだりの部分が印象に残った。同時に、本当に正雪が双瞳であったかどうかは分からないが、その発想がどこから来たのか、物語が生まれた時代の人の想像力を思って驚嘆した。一つの目玉に瞳孔が二つあるという想像が、物語全体を通して由井正雪の個性を容易に想起させるキーワードになっているように思う。身体的に他者と違う特徴を持っているのだということが、これほどまでに由井正雪という人間像を描いているのかと思うと、双瞳という発想は本当に凄いと思った。

また、身体的特徴が他者と異なると同時に、幼少期から非凡な才能を発揮している富士松の姿を描いているのも良い伏線であるように思った。周りから羨望の眼差しで見つめられ、自らもその羨望に応えるかのように、あらゆる物事で才能を発揮していく。将来を嘱望された富士松が、二十歳になって正雪と改めてから、頼宜と出会う場面も緊張感が漲っていた。この辺りの声の間、薄く消えて去っていくかのような囁き声で「悪相」だと正雪に告げる、頼宜の傍にいた安藤竹脇の表情にゾクリとする。竹脇の慧眼もさることながら、それを告げられた正雪の驚愕の表情。顔面の相だけで人を決めつける竹脇の理不尽さと、その理不尽に打ち砕かれた誇りに戸惑いと苛立ちを見せた正雪。この対比が今後の展開を決定付けるかのような、強烈な場面だった。まだ人を見抜く力を持たない頼宜が竹脇の言葉を信じる場面も、一つ一つの小さな決断が、後々へと続いていく恐ろしさを物語っていて、強烈に印象に残った。

仕官できなかった正雪の失望に私は同情する。あらゆる物事に秀で、自らの才能を過信していたかも知れないが、それでも他者よりズバ抜けた力を持っていたのに、どこぞの馬の骨とも分からない老人に、「お前は顔が悪い」と言われただけで、役人になるという将来を潰されるのである。こんな理不尽があるだろうか。才能ある者が、その才能を間違った方向へと進めることになるきっかけが、実に理不尽極まり無いのである。だからこそ、もしもこの時、竹脇が「是非とも頼宜様のお傍に!」と言っていたら、正雪の人生は違っていただろうな、と思うからこそ悔しいのである。正雪の失望、それによる憎悪が後の事件へと発展するのだが、そのきっかけにふさわしい最高の一席である。竹脇と正雪が対峙する場面の松之丞の語りは圧巻。語られることの無いそれぞれの心模様が物語の余白となり、見る者がそこに言葉を足すことによって、何倍にも印象が膨れ上がっていく。張り扇の音と、白扇の音。そして正雪の憎しみに満ちた漆黒の表情を目に焼き付けながら、物語は不穏な気配を残して終わった。

 

第二話 楠木不伝闇討ち

自らの師匠を他人に殺させる正雪の話である。仕官の夢が潰え、失望による憎悪と怒りを原動力とした正雪が、由井宿時代の剣術の恩師、楠木不伝と出会う場面がある。不伝からすれば正雪は可愛い元教え子なのだが、正雪からすれば邪魔な存在となる。この辺りは『師匠殺し』の狡猾な正雪の姿が、松之丞の語りと表情で見事に表現されていた。穏やかな表情と語り口の不伝に対して、誰にも明かさない深い野望を抱えた正雪の心象を語る松之丞の姿は、心にザラっとした、砂が混じったような、不純さを抱かせた。さらには、不伝の娘、お重と恋仲にある村上をそそのかす場面が、凄まじいリアリティがあるように私には思えた。

剣術の指導に関しては師である不伝を抜き、道場生から信頼を得た正雪が、その信頼の方向性を巧みに転換して、悪事へと進めようとする。その語りの囁くような口調が、心の奥底にある狭い狭い悪心を筆で撫でるかのようにして迫ってくる。村上に向かってお重と不伝の淫行を語る正雪の語りは、松之丞の真骨頂とも言うべき影のある語り。煌々とした場所から、ふいに現れた暗黒を覗いているかのような、底の見えない恐怖に心が引き込まれていく。同時に、正雪の言葉に戸惑う村上の「本当なんですか!?」と次第に気持ちを高ぶらせていく姿が、徐々に徐々に暗黒の、回帰不能点を超えていく恐怖と、得体の知れない興奮と混じって心を搔き乱していく。

そして、ついに正雪の言葉を信じ、怒りと戸惑いに体を震わせながら、不伝の闇討ちを決意する村上の姿にゾッとする。情報を信じる術が人を信頼することだけだった時代だからこそ成り立つかに思われるが、現代もまた、人の信頼を巧みに利用して悪事へと誘う人間も存在する。そんな犯罪者の心理が垣間見えた瞬間を目の当たりにして、背筋が凍る思いであったと同時に、村上に闇討ちを提案する正雪の、濁りの無い嘘と、言葉と表情に恐ろしい説得力があった。双瞳の眼、内に秘めた野望、その障害となる者達を消し去って、自らの基盤を構えようと計画し、それら全てを自らの手を汚すことなく手に入れようとする正雪の知恵。正しき道に進み、正しき場所でその知恵を発揮すれば、後世に名を残す偉人となれるほどの才能を持った正雪が、暗黒の道へとその第一歩をこの時、進めるのである。

正雪にそそのかされた村上が不伝を切り殺し、それを聞いた正雪が村上を切り殺す場面。松之丞の語りは迫真である。それまでの流れるような口跡から、重い寸胴を振り下ろすかのように、気迫のある声と、勢いよく振り下ろされる張り扇。声を発する間も無く血飛沫を上げて絶命する村上。その返り血を浴びながら、自らの野望を手に入れた正雪の表情。月明かりに照らされた表情に、全身を駆け巡る血が凍るかのような恐怖を覚えた。かつての剣術の恩師である不伝と、自らの嘘に騙された村上を見つめる正雪の表情。それまで照明に照らされていた松之丞の瞳に影が差し、その眼を伺い知ることは出来ない。その冷たさに、私は言葉を失った。

その後、牛込榎木町に『張孔堂』の看板を掲げ、不伝の娘お重を妾同様に扱うこととなった正雪。何も知らない道場生の信頼を得ている正雪。光と闇、陰と陽、白と黒。表向きはにこやかな表情でありながら、その裏で残酷な思想を抱いている正雪。一人の男の中に、これほどはっきりとした明暗が存在しているということの、その現実味が恐ろしい。誰もが単純な心の持ち主ではないということ、見え方によって人の性格は様々に変化するのだということ。人間の狡猾さと愚直さが混合しているということ。この複雑さが見事に絡まり合っていた。さらには松之丞の語りはそれを見事に描き切っていた。残忍さと慈悲さを同居させた正雪。これもまた双瞳という身体的特徴に現れているのかも知れない。松之丞の語りもまた、明るさと暗さを併せ持ち、さらには語りの緩急が克明に物語に意味合いを与えているように思った。緻密さと大胆さが胸に迫る。圧倒的な名演の一席で仲入り。

 

 第三話 丸橋忠弥登場

前半二話の残酷さ、陰鬱さから一転、明るくコミカルな話。槍の名人である丸橋忠弥が登場し、正雪のことが癪に障った忠弥は正雪を懲らしめようと思い立つ。聴いていて私は一気に晴れやかな気持ちになったが、男同士が決闘をしようというのだから、内容自体はそれほど穏やかではない。

忠弥が絵師の狩野に絵を頼み、毎日訪れてくる繰り返しの場面が面白い。細かく注文を付けながらも、絵を依頼したのは正雪に会うためだという忠弥の単純な策も面白い。正雪を見つけた途端に、絵を蔑ろにして正雪に立ち会いを申し込む忠弥の姿は、槍のように真っすぐで気持ちが良い。

正雪の残忍性を二話で表現しきった後で、パッと明るく愛嬌のある忠弥を登場させる発想は、一体誰が思いついたのだろう。見事に物語を中和しているし、何よりも闇を抱えた正雪と、吹きさらしの腹を持つ真っすぐな忠弥との対比が実に面白い。松之丞の声や表情もさることながら、ぽんぽんっとテンポ良く鳴らされる張り扇が気持ちが良い。

コミカルなキャラクターを演じさせても違和感の無い松之丞。それは恐らく巧みな声色の使い分けとリズムがあるからだと思う。そして絶品の間。この間が唯一無二の『松之丞節』になっていて、人物が切り替わるコンマ何秒の世界の話なのだけれど、声の抑揚と合わさって、とても面白い。声のクレシェンドが緊張感を生んでいるのか定かではないが、人物同士の会話は見事だった。

正雪と忠弥の対決が行われるか!というところで後席。

 

 第四話 忠弥・正雪の立ち合い

狩野の家で立ち会うかに思えた正雪と忠弥だが、舞台を張孔堂に移すことになる。この辺りは策士正雪の策に引っかかった忠弥の姿が情けない。籠に乗った正雪に振り回される忠弥の姿が面白く、忠弥の性格が見事に表現されていた。引っかかる方が情けないとは思うのだが、そのコミカルさが後半のシリアスさに見事に共鳴しているように私は思った。

張孔堂に着いて、いざ立ち合いか!と意気込む忠弥だが、門弟を二人相手にすることになり、最後に正雪と対峙する。前半のコミカルさから後半のシリアスさへと移る語りは、実に見事である。つくづく思うのだが、松之丞のシリアスさは凄まじい。物語の緩急、緩和から緊張へと物語が展開していく様は、下手をすれば笑ってしまうくらいの強烈な魅力を持っている。穏やかで心地の良い波に身を委ねていたら、いつの間にか沖に流されており、遠くから巨大な波が押し迫ってきているかのような、唐突にシリアスに展開する様が実に見事である。

そして、正雪と忠弥の立ち合いの場面は圧巻である。槍の名人である忠弥が正雪を打ち負かし、ついに正雪が屈するのかと思いきや、正雪は懐から白扇を取り出し、双瞳の眼で忠弥を見つめる。蛇に睨まれた蛙のようになった忠弥に、白扇を持った正雪がゆっくりと近付いていく描写、そして松之丞の動き。目には影が差してはっきりと捉えることは出来ないが、想像によって補正された双瞳を持つ正雪の表情となって、忠弥同様に身が固まる。その眼と圧に耐え切れず負けを認める忠弥。この場面が特に素晴らしかった。会場に満ちた緊張感、そして明るい忠弥が本物の殺意に圧倒されて屈する姿。ここでも対比が生まれている。この圧倒的な物語の対比の構造、それらを見事に描き分ける松之丞の語り、表情、声色。全てが後に繋がる物語の基礎となるような、圧巻の一席だった。

 

総括 名演の予感

終演後、私は慶安太平記のチケットを手に入れたことに間違いはなかった、と思った。あらゆるものを犠牲にしつつ会場に通うことを決意した日から今日まで、自分の選択は間違っていなかったのだと改めて思った。

真打昇進が決まり、名実共に世間に周知される身となった今でも、講談に対する思いと情熱は一つも損なわれていない。むしろ、さらに増幅されているように思った。今、間違いなく講談界を背負い、講談の全てをその両肩に担っているのは、神田松之丞、その人であろうと思う。

確固たる意志と意地を見せたマクラについて、私は松之丞の誇りを感じた。未だ誰も知ることの無い、表立っては見えない松之丞の情熱と、思いと、積み上げてきたものがあるのだという自負を私は高座の姿から感じたのである。

普段の寄席を見ていれば、明らかに松之丞のモードが異なっていることに、常連の方であれば気づくのではないだろうか。それほどに、五日間、慶安太平記という連続物を読み続けることには、熱意と情熱が必要なのだ。

残念ながらA日程を見てはいないが、B日程の初日。松之丞の気概と強烈な思いをマクラで聴くことが出来て、私は嬉しかった。同時に、私はあらゆる演芸の良き論者でありたいと願った。それは分からない。今は無垢な心でも、いずれは間違った方向に進んでしまうのかも知れない。人は、自分ではどうしようもない理不尽に襲われた後、次の行動で自分自身を知るのかも知れない。初日を終えて、私はそんなことを思った。

同時に、一席一席を作り上げていく観客の静かな熱意も私は感じた。咳やくしゃみも僅かにあったが、全員が一人の男に視線を注ぎ、その一言一句に耳を傾けているのである。一体、神田松之丞以外に誰がそんなことを出来るというのだろうか。暗い照明の中で、300人が息を殺して、息を呑み、思い思いに痺れ、震え、驚愕し、笑い、語り合える講談。その魅力は計り知れない。

それは、かつての時代を知る者からすれば大したことは無いのかも知れないが、間違いなく今を生きる人間には強烈に響いているし、大切な物であることを、某評論家に私は言いたい。まるで言い訳をするようなことなど書いてはならないと思う。正しく、良いと思うべきところを良いと書くことを信条として、私はこれからも記事を書き続けて行きたい。

 

名人・神田松之丞

残すはあと四日。一体どうなっていくのだろう。一日一日を終える度に、私は一体何を思うのだろうか。そして、一体何を得て、何を失うのだろうか。

ただ人の話を聞きに行っているだけなのに、それ以上の何かが心の中に残る。それこそが、演芸の魅力。そして、講談の魅力、そして、神田松之丞の魅力なのだ。

今、私を含む300人の客は歴史の証人である。間違いなく、後世に名を残すことになる名人の若かりし日の姿を、その最初の一歩を、我々は見ているのである。

講談師、神田松之丞。後の名人となる男の大いなる一歩を、私は今日胸に刻んだ。

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