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向き合い続けること、立ち続けること~2019年1月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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第一回の時には、お客さんが3人しかいなかったんですよ。

 

みんな、いつの間にか上手くなってねぇ。

 

ここの珈琲を飲まなきゃね。 

 思う・思わない

 目が覚めると、白い天井が目に入る。今日も白いな、とは思わない。天井がまだ存在していたんだ、とも思わない。というか、何とも思わない。

 布団から出て、洗面台に立って顔を洗う。顔を上げて鏡を見る。老けたな、とは思わない。ちょっと顔色が悪いな、とも思わない。あれ、おでこに目があるぞ、とも思わない。というか、何とも思わない。 

 服を着替えて、身支度を整える。今日もカッコイイ、とは思わない。似合ってるな、とも思わない。誰かが振り向くだろうな、とも思わない。というか、何とも思わない。

 荷物を持って、玄関で靴を履き、ドアの扉を開いて外に出る。「いってらっしゃい」という言葉を言ってくれる人がいたら、と思う。「おはよう、今日も寒いね」と言ってくれる人がいたら、と思う。「忘れものは無い?」と言ってくれる人がいたら、と思う。というか、声をかけてくれる人がいたら、と思う。思うだけで、現実は私ただ一人。でも、深くは考えない。全てはタイミング。

 

 スタジオフォーへ

 ぶらぶらと散歩をしながら、西巣鴨へと辿り着く。この辺りは閑静という言葉が似合う気がする。都電荒川線が通っていて、どことなく雰囲気がのんびりしている。以前にも記事にしたが、本当に素敵な場所だ。言葉でどう表現していいか分からない部分が数多くある。何か失われてしまったものの名残りのある空気というべきか。長く住んでいる人達の密かな魂の交流が漂っているというか、そんな空気感がある。

 開場時刻になり、入場する。見慣れた風景である。2000円を払って着座。

 開演時刻になるにつれて、お客様がぞろぞろと入場し、気が付けば大入り満員である。おお、やっぱりすごいな、と思っていると私の隣に座っていた大先輩が声をかけてくださった。

 

 隣客の話

隣客「今日は大入り満員ですね」

森野「そうですね、やっぱり出ている人が凄いですから」

隣客「私は第一回から来ているんですが、その時はお客さんが3人しかいなかったんですよ」

森野「ええっ!?」

 詳しく話を聞くと、初期の頃は、あまりにも人が集まらなかったため、駅の方に出向いてチラシを配ったり、お客が三人の時は、コーヒーを売っているお姉さんが客席に座ったそうである。

 また、今から7年~8年前になるだろうか。四の日寄席は、今の固定メンバー(文菊師匠、やまと師匠、左橋師匠、馬石師匠、駒治師匠)になる前は、もっと人数がたくさんいたのだそうだ。いつの間にか一人減り、二人減り、今のメンバーになったようである。

隣客「それが今じゃ、みんな真打になってね。随分と上手くなりましたよ」

森野「そんなことがあったんですねぇ」

 まだ出演者が二ツ目の頃は、金額も1000円だったそうである。そのうち演者が真打になって、駒治師匠が昨年真打になり、今では2000円となっているのだそうだ。

隣客「駒治もねぇ。苦労するでしょうねぇ。彼は新作を作っているから」

森野「鉄道落語が有名ですよね」

隣客「新作の人は大変ですよ。時代が変わって行ってしまいますから」

森野「お話の内容が、時代によって通じなくなってしまう」

隣客「そうそう」

 話を聞くと、隣客は昭和30年(1955)に両親に連れられて寄席に行ったという。その頃と言えば、落語の黄金時代である。今でも名を残す志ん生文楽圓生、小さん師匠達の全盛期である。その時代の中にあって、新作落語を見てきた隣客は、新作を作っていく落語家さんを心配されている様子だった。

隣客「文菊も、駒治も随分上手くなりました。今じゃあ、こんなにお客さんが入るようになりましたからね」

 隣客はそっと周囲を見渡した。私もつられて見渡した。後ろの壁まで大勢の人が着座している。

森野「大入り満員ですね」

 たった3人の前で落語をしていた頃から、満員の観客の前で落語をするようになった師匠達の心持ちは、一体どんなものなんだろうと想像する。

 答えは一つ。嬉しい筈だ。嬉しくて嬉しくて、涙が出るくらいに嬉しい筈である。同時に、お客が増えて行く喜びもあったに違いない。たとえお客が一人でも高座に上がり、落語を披露する。何日も何日も高座に上がり続ける。知らず知らずにお客が増えて行く。やがて、高座に上がるたびに客席が満員になる。嬉しいと同時に、その期待に応えようと芸を磨く。聴いてくれた人に喜んでいただけるように、毎日毎日高座に立ち続けた結果として、大勢のお客様が客席に座ってくれた時、自分の芸は間違っていなかったのだと思うだろう。同時に、さらに高みを目指そうと思うだろう。今、目の前にいるお客様に自分の全てでぶつかっていく。そんな師匠達の姿を想像して、私は胸が熱くなった。

 翻って自分の記事に関しても同じことを思った。最初は一日に5人くらいが読んでいた。Twitterに上げると「いいね」をくれる方や、コメントをくれる方がいた。どんどん読む人が増えて、一日10人、50人、100人と増えて行った。記事によっては1000人に読まれた記事もあった。それがとても嬉しかった。読者も増えて今は4人。4人の読者のためにも、恥の無い記事を書きたいと思った。一つ一つの記事に全力でぶつかっていきたいと思うようになった。

 同時に、記事を書けば書くほど怖くもなった。今回の記事は受け入れてもらえるだろうか。喜んでいただけるだろうか。でも、自信をもって書くことでしか、それを解消することは出来ない。だから、今自分に出来る全てで記事を書くこと。それが自分に対する挑戦になっている。

 そうなってくると、自然と周りのことが気にならなくなった。自分に出来る精いっぱいの記事を書いていると、他人の記事に対しては何も言おうという気にはならなくなった。同時に、言える立場には無いということも分かった。相手に対して辛口の批判をするような、偉そうなことを言えるような力も無ければ、立場も私には無い。では、私に何が出来るかと考えると、それは『素晴らしい部分を見つけること』だった。

 私はどんな落語家さんにも優れた部分があるのだと考えるようになった。この世界に人を批判したり否定したりする記事や文章が数多くあるのならば、私は人を褒めたり肯定する記事や文章だけを書こうと思った。誰に何と言われても、どんなにつまらないと言われている人でも、必ず素晴らしい部分がある。間違いなくある。

 そう心に決めて、記事を書くようになったのは最近である。今、それが出来ているかは分からない。言葉足らずで変な誤解を招いてしまうこともあるかも知れない。それでも、私は真っすぐに『肯定し続ける人』でありたい。そんなことを思って、記事を書く決意をした。

 隣客は最後にこんなことを私に言った。

「お若く見えますが、随分前から落語がお好きなんですか?」

 私は力強く答えた。

「はい、大好きです」

 

 古今亭文菊『千早ふる』

 薄紫色のお着物で登場の文菊師匠。新年最初の文菊師匠である。

 人を好きになると、その人が何かをしているだけで心地よくなる。何度同じ話をしても、それは一つとして同じ話にならない。好きな人が何かをしていると、勝手にそれを聴いている私の方が変化に気づき、同じ話でも同じように捉えなくなる。究極を言えば、好きな人がこの世界に生きていて、出会う度に新鮮な気持ちを感じるように、ただ出会って何かしているのを見ているという、それだけで幸福を感じられるようになる。今、私は文菊師匠に対して、まさにその心持ちである。

 表情や仕草を見ていても、文菊師匠は文菊師匠を毎日更新している。日常生活の中で、様々なことに対して考えを持ったりしている。そんな日々の小さな小さな変化が落語に現れていて、それが私には分かる。というか、分かった気になっているのかも知れないけれど(笑)

 同じことを伸べえさんについても思うのだけれど、それは別の記事で書く。

 『千早ふる』の話の中に浪花節が出てきた時も、演目に入る前に話されていた内容が作用して、文菊師匠の『歌』に対する気持ちが伝わってくる。本当に小さく、演目の角度が変わって聞こえてくるのだから不思議だ。一つとして同じ話にならないのは、演者も観客も『今』を生きているからだと思う。生まれてから今日まで、地続きの日々が高座に現れてくる。それを出会う度に私は感じるのだ。大好きな落語家さんになればなるほど、それははっきりと、しっかりと、確実に分かる。

 隣客の話と、文菊師匠の姿と相まって、とても素敵な一席だった。お客が3人の頃から満員の今に至った文菊師匠の姿が見えて、感動的な一席だった。

 私は真打になった文菊師匠から見始めたので、お客様が少ない会を想像したことが無かった。今回、隣客の話を聞いて映像が脳裏に浮かび、その映像と現在の狭間にある思いを感じて、言いようの無い感動を抱いた。

 まるで魔法にかけられたかのように、この後に出てくる演者に対しても『三人の客から、満席となった今』という言葉が常に頭をよぎった。

 文菊師匠を含めて、演者の皆さん全員が『自分と向き合い続け、高座に立ち続けてきた人』なのだ。

 

 桂やまと『反対俥』

 前記事でも書いたかも知れない。PTA会長を務めているやまとさん。高座から漂う素敵な香り。そして元気いっぱいの高座。見れば元気が湧いてくる。明るくて、真面目で、真っすぐで、強い。普段の生活でも頼りにされている人だろうというのが、高座から伝わってくる。思わず背筋が伸びるくらいに真面目で、気配りの人のように見える。観客を巻き込みつつ、勢い満点の一席だった。

 

 隅田川馬石『粗忽の使者』

 馬石師匠の生み出す空気感、世間とちょっとだけズレてる?というような違和感。それでも、その微妙なズレが醸し出す面白さがあって、マクラでは「ええー!?」という客席の驚きの声もあったりして、普通の人に見えるのに、よくよく関わってみると、ちょっとはみ出しているような、何とも言えない雰囲気なのに、落語にそれが見事に生きてきて、まさに馬石師匠の世界を作り出している気がする。それは、技術的なことではなくて、馬石師匠が馬石師匠としてやっていることで、それがそのまま唯一無二の落語になっているというような、まさに落語の人である。

 高座のお姿を見ていても、とても楽しそうに話されている。馬石師匠が落語になっている、という表現が一番しっくりくる。登場人物を演じているというよりも、登場人物が馬石師匠になっているというか、何とも伝えにくいのだけど、そういう感じ。

 語りや間とかうんぬんよりも、馬石師匠の思う「落語とはこんなものじゃ!」というのが伝わってくるという感じではなくて、『落語=馬石』になっているというような感じである。書いていて難しさを感じています。

 粗忽な人達が登場するのだけど、それが完全に馬石師匠そのもの、というのが、何の不純物もなく伝わってくる。臭さとか、演じてるという感じではない。成りきっているという感じでもない。成っているでもない。最初からそれである、最初から落語である、という感じ。駄目だ。やめとこう。

 最後のオチも分かり切っているのに笑えるのは、落語だからである。馬石師匠が落語だから面白い。うーん、伝わるのか(笑)

 

 初音家左橋『紙屑屋』

 十八番!と思うような絶品の一席。左橋師匠は見た目は可愛くてカッコイイし、声も美しい。以前、カナリアを思い出すと書いたかも知れないが、まさに七色の声を使いわける素敵な一席。是非ともCD化して欲しいと思うし、たくさんの人に聴いて欲しい一席である。笑える個所も、驚く個所も、流麗なる左橋師匠の調べに乗せて耳に心地よく響いてくる。

 

 古今亭駒治『都電物語』

 鉄板の鉄道落語。今回はほろりと泣ける人情噺。詳しくは書かないけれど、駒治さんもまた『自分と向き合い続け、高座に立ち続けてきた人』だし、『これからも自分と向き合い続け、高座に立ち続ける人』なのだ。素敵なお話なのでネタバレは避けたい。この物語に登場する女性のように、私を振り回してくれる女性が現れてくれることを切に願った(何を言っているんだ君は)

 

 総括 向き合うこと、立ち続けること

 帰り際、隣客に挨拶をして会場を出た。不思議と私の胸には隣客の言葉が残っていた。いつの時も、先達の言葉というものは強く胸に響いてくる。今、ふと思ったが、隣客の言葉は亡き祖父の言葉でもあったのかも知れない。祖父と演芸について語り合うことは出来なかった分、こうして隣客から話を聞くことが出来たのではないか。普段、全くスピリチュアルなことを考えないのだが、都合よくスピリチュアルなことを考えてしまう自分がいる。

 翻って、自分にも同じことが言える。好きで選んだ道を今も走っている。走り続けている。自分の全てでぶつかって、自分の能力や性格と向き合い、記事を書き続ける。毎日毎日自分の行動を顧みて、次に生かそうとしていれば、きっと誰かが見てくれる筈である。というよりも、自分で自分に納得できる自分であり続けたい。そう思うばかりである。

 素敵な隣客との出会い。そして昔話。全てが今に生きている。これからも生き続ける。2019年も、素敵な演芸との出会いがありますように。

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