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【Day2】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月11日 

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男は座して、こちらを見つめ笑みを浮かべている

  

 続・想像の風景

男は、語った、と思う。俺は一話、二話、三話、四話を語ったのだ、と思う。新たなる300人のために、確かに俺は語ったのだ、と思う。一人の男が生まれ、その男の悪行を語り、その男が丸橋という名の男を仲間にするまでを語ったのだ、と思う。

偉業だ、これは偉業。俺以外の誰一人として成しえない偉業を、俺は再び成しえようとしているのだ、と男は思う。自らの工夫を話に落とし込み、観客と対峙する。見てろよ、見てろ。誰にも文句を言わせない、最高の一席をやってやる。

見てろよ、談志。

それを、客席にいる男は見ている。客席の男は、初日の記事を書き終え、二日目の記事に取りかかろうとしている。時間と言葉を探し、目の前の、高座の、一人の講談師の姿を描写しようと考える。

張り扇が振り下ろされ、釈台にぶつかった刹那。舞台に座す一人の講談師と、客席に座す一人の男が、同時に互いの眼を見る。そして、にやりっと笑みを浮かべ、そして霧散する。

 

第五話『秦式部』

何日も雨の降ることが無い日々が続き、浅草で正雪は一人の男に出会う。松之丞の勇ましく勢いのある声が、すっと物語の世界へと私を誘った。特に、正雪が心奪われる皿回しの秦式部の表情と言葉が面白い。街ゆく人々を引き付けようと、様々な言葉を駆使する秦式部の言い立てが、松之丞の魅力と怪しさ、底の見えなさと相まって見事に表現されていた。そこに胡散臭さは微塵もなく、むしろ本当に天候を操る力を持っているのだと思ってしまうほどに、表情と言葉には力が漲っていた。皿回しの描写も実に緻密で、皿から霧が出る場面や、それを浴びて喜ぶ子供たちの様子、大人の様子など、仕掛けはあれど、人を魅了する技を持った秦式部が印象深い。

とある月(7月?)の3日間に必ず雨が降る。という秦式部の言葉を信じ、雨乞いをする正雪の姿には、正雪の人を信じる力の強さを感じた。どちらかと言えば、かなり安直に人の言葉を信用する性格なのかも知れないと思った。道端でたまたま出くわした大道芸人のような秦式部の姿に惹かれ、自らの仲間にし、秦式部の言葉を信じる。この慧眼には感服するのだが、雨乞いをするにはもう少し理論、理屈を考えても良かったのではないか、と正雪に対して思ってしまう。恐らく雨乞いの三日間のうち、初日はパフォーマンス、二日目くらいで雨が降ればいいや、くらいに私だったら思うかもしれない。ところが、正雪はかなり真剣に雨乞いをするのである。その間、秦式部や周りの人間の介入は無い。ただひたすらに一人で雨乞いを続け、三日目の終盤で自害しようと決意する。この辺りで、正雪はあまり計画性を重視しない人なのかも知れないと思った。人を信じ、その人を信じた自分を信じる力があまりにも強い。正に諸刃の剣のような雨乞いで、ようやく墨を落としたかのような黒雲が立ち込め、雨がザーっと降ってくる場面には、正雪の執念の恐ろしさを私は感じた。それは単なる賭けに出たという感じではなく、悍ましいほどに秦式部の言葉を信じた正雪の性格を見事に浮き彫りにしていたように思う。普通の人間だったら、そこまで人を信じることはない。目の前で7000万を当てた人間がいて、「次に3日分買えば1億必ず当たりますよ」と言われても、私だったら絶対に買わない。もっと様々な理由や理屈を探し、8割くらい1億が当たるかも知れないという確信を持ったら買う。当たらなかったら死ぬとなれば、その辺りはかなり慎重になっても良いのではないだろうか。

松之丞の語りには、その真剣さに凄味を与える表情と言葉があった。森羅万象さえも俺は思いのままに操ることが出来るのだ、という絶対の自信で祈りながらも、その自信が揺らぎ、ならば死ぬか、と腹を斬ろうとする瞬間にやってきた黒雲を見て、正雪は勝ち誇ったような表情を浮かべる。恐らく、天は我に味方したのだ!と思ったに違いない。当然、雨が降らなければ慶安太平記は五話で終わってしまうのだが、雨が降ってくる描写の邪悪な雲の訪れ、その雨を浴びる正雪。雨に喜ぶ村人達。歓喜と野望が物言わぬ自然の描写と相まって、実に印象的だった。

前半の出会いから後半の雨の場面まで、その緩急を自在にリズムと声の大小を変えながら表現する松之丞。私が思うに前半から後半までの物語の起伏が大きければ大きいほど、とても印象深い物語になっているように思っている。まさに松之丞の真骨頂はそこにあるのではないか。

 

第六話『戸村丹三郎』

最初に言っておくが、第六話は紛れもなく名演だった。徹頭徹尾、素晴らしかった。冒頭、戸村丹三郎という浪人が、遊郭に誘われる場面がある。「あんたの器量なら、女郎の方から銭を出しますから!」という言葉を信じて遊び続ける。この時の松之丞の、客引きの胡散臭さは実に見事である。この人は落語をやっても一流になるかも知れないという雰囲気が現れていた。

遊び続けた戸村が、客引きに「あれは冗談です」みたいなことを言われても、突っぱねる場面が面白い。言葉の裏を読まず、言葉通りに受け取った戸村の純粋な悪気の無さが、戸村という人間を見事に浮き彫りにしているように思った。戸村が金を払わない理由には一理ある。客引きがいくら冗談だと言おうが、偉い人が出てこようが、金を払わない理由が正当である以上、戸村は金を払わない。その素直さが面白いのだ。人の冗談を逆手に取り、自らの私利私欲を満たす戸村の傲慢さが前半ではっきりと描かれているように私は思った。

結局、見世の主に気に入られて柳生の家に奉公することになった戸村。名前を変え、奉公をする戸村の性格がガラッと変わるのだが、そこに私は戸村という人間の邪悪さを見たように思ったのだ。いわば、サイコパスと言えば良いだろうか。柳生家へ奉公するまでの戸村は、人の言葉の足を取るかのように、自分の都合の良い理屈を仕立て上げる男だった。もしかすると、この理屈を理不尽に否定されると、戸村は激高する人物なのかも知れない。そんな危うさを垣間見ながらも、柳生家に奉公すると、一所懸命に道場を眺めながら、柳生に手習いを受けたいと思うようになる。ここでも、戸村は自己中心的なのだ。自分に与えられた使命(掃除)を放り投げてでも、自らの武芸を極めたいという純粋な思いがある。まだ何者でもない人間が、一流に憧れるかのような態度を見せるのである。

そして、たまたま不良旗本を戸村が退治する。周りの連中は体を交わすだけだったが、自分は退治したのだ!と喜んで柳生に報告する。この時もまだ、どこまでも戸村は自己中心的である。さらには自らの思いを口にし、「どうか、一つ二つのご指導を」みたいなことを言うのだが、柳生に断られる場面は残酷でありながら、面白い。

松之丞の描き方も実に良かった。前半で真っすぐに遊び呆ける純粋な戸村を描き、後半で戸村が思いを寄せる柳生への言葉を口にさせる。その瞬間の柳生の表情と言葉があまりにも冷たい。人の心を突き刺すかのような、冷酷無比な言葉を戸村に浴びせるのである。言葉少なく、一言一言がえげつないほどに重たい。「お前の眼は猜疑心に溢れている」とか、「お前は何も分かっていない」みたいなことを、ゆっくりと、確実に傷つけるように放つ柳生。一流の人間の恐ろしさが滲み出ていた。

柳生の言葉に戸惑い、柳生へと襲い掛かる戸村の姿が胸に痛い。刀を持って襲い掛かるのだが、柳生に首を抑え込まれる。悲しみと絶望と憎しみと僅かばかりの憧れの入り混じった、あの戸村の、松之丞の表情が忘れられない。一流に憧れ、一流に認められる機会を得たと思っていたが、それは幻想だったと気づき、一つ二つの教えを受けることさえ出来ない戸村の絶望。遊び呆けながら、真っすぐに生きてきた戸村の挫折感が、痛切に胸を貫き、私は戸村に同情した。同時に、芥川龍之介に憧れながら、その生涯でたった一度も芥川賞を取ることが出来ず、人間失格という自らを嘲笑するかのような作品を書き、女と共に死んでいった太宰治の姿を私は思い出していた。

一流になれずに、一流から否定された時の戸村の、言葉にならない「うううう~う」という呻き声に、私は胸が震え涙が込み上げてきた。同時に、柳生に対して「一つ二つくらいの教えさえも受けさせてやれないのかっ!」と憎しみが湧いたのである。聴いていた私ですら柳生に対して憎しみを抱いたのだから、戸村の憎しみは尋常ではなかっただろう。可愛さ余って憎さ百倍となった戸村の表情を、松之丞は渾身の怒りで表現していた。

そして、最後に正雪が登場してくる。この物語の構造が実に見事だ。正雪と戸村もまた、あと一歩のところで憧れの役を得ることの出来なかった存在なのだ。正雪は仕官に、戸村は一流の武芸者になれなかった。ここに、一流と一流に憧れる者達の強烈な対比がある。自分では到底理解することの出来ない理屈によって、憧れの道を閉ざされた正雪と戸村。その憎悪と憤りの凄まじさは計り知れない。一流と一流でないものの違いは一体何なのだろうか。一体どう運命が作用して、頼宜や柳生は一流の世界に身を置き、正雪と戸村は一流への復讐を決意したのか。改めて、慶安太平記という物語の大きなテーマを発見したような、偉大な、あまりにも偉大な一席だった。

私にも、戸村のような経験がある。生徒会長になりたいと望みながら、その望みが叶わず、生徒会長となった者に対して罵詈雑言を浴びせた記憶がある。悔しかったのだ。それは、自分の思い通りとなる校風を作り上げることさえ叶わないという絶望感。頭の良いもの、人望のあるものには負けるのだという事実。全てが憎いと思った。だが、当然復讐することなど出来ない。ただ対岸から言葉を発すというだけの、虚しさを抱いたまま大人になった。

戸村の悲しみを思い出すたびに、私は胸が苦しくなる。柳生の冷たい視線、首を締めあげられた時の表情、涙を流して呻き声をあげ、倒れ込む戸村。自分の力では死ぬまでどうすることも出来ない、圧倒的な力を前にして屈する人間の姿。そこに、あらゆる人間の挫折感が集約されているように思った。その心の隙間を縫うように手を差し伸べた正雪の残酷な表情、そして冷たい眼、そして見えない邪悪な野望。まるでダークサイドに落ちたアナキン・スカイウォーカーを見ているような、強烈な悪の誕生があった。

仲入り後も、その凄まじさの余韻に痺れ、この後にさらなる大ネタが待っているという事実に驚愕と同時に、心の癒しが必要だと思われた。それほどに、松之丞の語りはドラマチックで、残酷で、救いようがなく、その暗黒面が見事に表現されていたのだった。

 

第七話『宇都谷峠』

落語では立川談志師匠と談春師匠でお馴染みの話。慶安太平記と言えば、まさにこの話が一番有名なのではないか!と思うほどに、慶安太平記という物語の中でも、一話の知名度が圧倒的に高い演目。

物語も実に面白い展開を見せる。江戸から京の本山知恩院まで二千両という大金を行きと帰りで十日間運ぶという任務を、怪力僧の伝達が申し出る。足と体力に自信のある伝達が京まで行く道中で、謎の男・甚兵衛に出会う。落語で聴き馴染んでいたところでは、甚兵衛はどちらかと言えば滑稽な道化師のような描き方をされていたように思うが、松之丞は甚兵衛の不気味さ、怪しさを滑稽感を排除して語っていたように思う。頬に傷があったり、「お前何者なんだ!?」と戸惑う伝達に「ただの商人で」とほほ笑む甚兵衛。甚兵衛の表情が実に不気味で、観客は伝達と同じ気持ちで甚兵衛を見ることになる。甚兵衛の描写を徹底することで、観客を巻き込んで「甚兵衛は一体何者なんだ?」という謎を残しながら、宇都谷峠までやってくる。そこで初めて甚兵衛の正体が明かされる。

何も知らずに宇都谷峠で飛脚が奇襲される場面は凄惨で鮮やかである。ほぼ伝達の視点から繰り広げられていく甚兵衛の所業。三千両という金を強奪するための共犯にされてしまう伝達。普通の人間であれば、逃げ出してしまいたくなる状況の中でも、自らに与えられた使命を全うしようとする伝達の精神が、よくぞ破綻せずにいられるな、と驚嘆する。甚兵衛が高坂陣内という豊臣の残党であることが知れ、行動をともにすることになる伝達の不運。陣内が正体を明かした時の邪悪な表情と言葉が目に焼き付く。

特に印象深いのは安部川を渡る伝達と陣内の姿であろう。まるで現世と黄泉の狭間を歩くかのような場面がある。照明の暗転などもあって、非常に没入感のある印象的な場面だった。ここは、Pen+に描かれている絵を見ると、より一層の緊迫感、悍ましさを伴って想像することが出来る。

伝達を肩に背負った甚兵衛の表情、言葉、間、全てが暗い闇の中で、川を渡る光景と相まって、気が狂わんばかりの冷たさで胸に迫ってくる。自らの命を甚兵衛に握られている伝達の、発狂しそうな恐怖感を味わって、私は首を締上げられたかのような思いになった。

泳げないという圧倒的に不利な立場である伝達に対して、どうして甚兵衛は殺さなかったのだろうか、と私は考えた。それは、甚兵衛に残った僅かばかりの良心であろうか。それとも、何かの策略があったのだろうか。いずれにせよ、ゆっくりと、お互いの立場を逆転させていく甚兵衛の言葉が、伝達と同様に客席にいる全員に迫ってくる。

陣内と伝達。この二人の掛け合いと、様々に起こる物事によって互いに対して抱く感情が変化していく部分が、この物語の最大の魅力ではないだろうか。大悪党でありながらも、どこか魅力的な言葉と表情を持つ陣内。大金を届けるという立派な使命感に燃えながら、陣内と出会ったことによって振り回され、挙げ句は性格まで変わってしまうほどの不運な伝達。

照明が消え、鼻を摘ままれても分からないほどの暗黒の中で、陣内と伝達が交わす言葉。私の耳に届くその言葉が、どこからともなく闇の中から響いてくる。恐怖と同時に、互いが互いに命を支え合っているのだという安心感。目に見えない情のようなものが、暗黒の中で混じり合って、小さな光となっているかのように思えた。

吉田の焼き討ちの場面は爽快である。僅かにコミカルな老夫婦の話も挟まれて、ひと時の緩和に身を落ち着けることが出来る。それでも、最後は松平伊豆守に見つかって命を落とす陣内。知恵伊豆を前にして憎しみと同時に、吐き捨てるように言葉を放つ陣内の最後は、哀れではあるが惜しくもあった。

正雪という主人公が登場しない物語にこれほど大きな魅力があるのは、人が人と出会うことの危うさがとても感情移入しやすい形で表現されているからだと私は思う。日々を生きる人間もまた、いつどこで陣内のような人間に出会うかも分からない。それによって運命が大きく変わってしまうことが、人生には起こりうるのだ。

松之丞の語りは、流麗で流れるような口跡でありながら、安部川の辺りでゆったりとした、どろっとしたリズムで一つ一つ雫を垂らすような語りに変調する。そこから再び歌うようなリズムとトーンで語りが始まっていく。まるで交響曲を聴いているかのような、壮大なリズムと声の調子で、物語の起伏を見事に表現していた。

前話の戸村丹三郎では、一人の男の挫折を描きながら、今話で大きく物語を展開させることによって人生の波乱を描いた。改めて、このような順番で物語を編集した神田松鯉師匠の才能もさることながら、その教えをアレンジを加えながらも忠実に継承し、自らのものとしていく神田松之丞の気概に驚嘆する。一話独立ではなく、全19話の一つとして聞くことによって立ち上がってくる素晴らしさを、この時、私は感じたのだった。大熱演で、恐らく50分くらいやっていたのではないかと思うが、あっという間の一席だった。

 

 総括 名演の一夜

第五話、第六話、第七話。どれも緊張感と集中力が凄まじい、白熱の三席だった。それぞれ独立して聴いても痺れるくらいの名演であった。一話~四話の通しで聴くことによって、正雪の野望、正雪という人物の性格が浮き彫りになり、またそれに一役買った正雪の脇を固める人物達の、思いの強さが強烈に胸に響いてきた。物語に通底する、言葉では言い表すことの難しい邪悪さ、挫折によって起こる憎しみ、そして唐突にやってくる悪意。それら全てが前日の一話~四話によって、より一層底上げされていたように思う。

悪党でありながらも不思議な魅力を持つ正雪や忠弥、式部、丹三郎、伝達、陣内に心惹かれるのは、そこに悪には悪の理論があるからだ。悪と書いているが、正雪らにとってみれば、それは立派な正義なのである。浪人の身である不遇、徳川家への恨みが一つの結束を生んでいるという部分に、無意識のうちに心惹かれている私がいるのだ。特に、第六話の戸村丹三郎を聴いた時にそれを強く思った。

由井正雪を起点として、大きく拡がっていく物語。果たして由井正雪の野望は叶うのか。知恵伊豆の登場は何を示唆しているのか。次々と仲間を増やしていく正雪。

まるで巨大な超新星爆発の様を見ているかのように、慶安太平記という物語は急速に膨張していく。明日の第三夜は一体どんな風に展開されていくのか。

あうるすぽっとを後にした私は、興奮冷めやらぬまま、家路へと帰るのだった。

 

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