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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

心のこもったヨイショの先にあるもの~2019年9月8日 湯島天神 謝楽祭~

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落語好きなら一度はおいで

感謝 感謝の 謝楽祭

全てのことはメッセージ

楽しく笑って触れ合って

人と人との温かさ

嗚呼 今日という一日に

嬉しいあなたの心意気

『心を込めてヨイショ!』

開幕 

 

まえがき

落語好きの皆様、祭り好きの皆様、お待たせ致しました。森野照葉でございます(妙に仰々しい)。私、この度、謝楽祭記事に関しては若干、いつもと方針を変え、謝楽祭に行けなかった皆様のために、また、謝楽祭に参加した皆様のために、どちらにも楽しんで頂ける記事を書いて行こうと思います。

というわけで、私の体験を追体験する形で、私の一日の行動を詳細に記すことと致しましょう。

 

 目覚めの朝、湯島天神へ。

朝4時30分起床。謝楽祭です。そう、謝楽祭です。しぇからしか!ではございません。ご安心ください、謝楽祭です。身支度を整え、湯島天神へと向かいました。7時30分には列に並びました。早すぎました。ラダニアン・トムリンソン並みの速さでした。この段階では、まだ並ぶ人は一桁でしたが、読み通り8時30分頃から爆発的に人の列が増え、9時30分ごろには150人に達していたとのことでした。まさに謝楽祭の産業革命が8時30分には起こっていたのです。

さて、去年の私は調子の舟を自堕落な若旦那の如く漕いており、それこそ1時間前に列に並んだのですが、サートゥルナーリアよろしくの出遅れた感があったため、今回は思い切って早めに列に並びました。iPhone発売日かと思うほどの速さで並びました。そこで、私は新しい楽しみを発見したのです。

それは、『噺家さんの会場入りの様子を見ること』でした。正直、こんなに面白いのかと驚いたくらいです。自転車で入場する才賀師匠。タクシーで入る喬之助師匠、喬太郎師匠、正蔵師匠、その他、文楽師匠や市馬師匠のお弟子さん達など、様々な方が入場する様子を見ることが出来たのは、とても嬉しかったです。そして、一人一人が丁寧に挨拶をしてくれました。喬太郎師匠と目と目が合う。そこから恋が始まる、訳もなく、私はドキドキしながら開会の10時を待っていたのでした。忠犬ハチ公のように。

もう一つ発見もありました。それは8時に朝礼があることです。工事現場じゃないです。祭りの現場です。

実行委員長のたい平師匠が司会となり、落語協会所属の早々たる面々が輪になって朝礼を行っているのです。そこでは、最後の掛け声が素敵でした。

たい平師匠の「心をこめて~?」の後で、皆が一斉に、

 

「「「「「ヨイショー!!!!!」」」」」

 

と、声を合わせて叫んでいました。あの場面を見ることが出来たのも、早く並んだおかげだったと思います。文蔵師匠と菊之丞師匠の会場準備の様子も見ることができ、とても幸福でした。

 

福扇をGetしたら、即座に松島屋へ

如何に効率よく巡るか。これが私のテーマです。天駆ける馬、疾風の如し、です。福扇で白玉を見て景品を貰った直後、混雑状況を推測し、一路、エボエボBOSEのある店へと駆けました。人混みに一切左右されないルート、そう、『唐門~本殿通りの鳥居間ルート』こそ、エボエボBOSE攻略における最短ルートなのです。距離・混雑量を加味しても最速。誰の邪魔もなく目指せる最短のタッチダウンルート。世界中の優秀なランニングバックが、こぞって選択するルートを、私は駆けました。脱兎の如く。

しかし、見事なタッチダウンを決めた私でしたが、エボエボの混雑状況を見てスルー、ここでの時間ロスはいかんと、すぐに松島屋へ向かいました。

 

エボエボから松島屋へ

天駆ける馬は止まることを知りません。馬はマグロになりました。そう、マグロは止まると死ぬのです。眠る時さえ目を開けて眠るのです。鰯の群れ、失礼、人混みを掻き分けて、脳内に完全にインプットした屋台ゾーンの配置を、鷹の眼の如く遥か高みから自分を鳥瞰して見るのです。今自分が、図面のどの位置にいるのかハッキリと認識できるのです。サッカー選手だったらベルギーのデブライネと同じ俯瞰視点で私は自分を見ていたのです。鳥瞰ですよ。超感動しませんか。超考えてるんですよ。超簡単なことじゃないんですよ、長官。

冗談はさておき、私は一目散にも二目散にも龍角散にも、春風亭一門の『みそ田楽』が販売されている『松島屋』へ急行しました。見事な低空飛行で空を滑空し、受付にいた春風亭朝七さんからクリアファイルをゲット、写真もゲット。そこからみそ田楽を購入し、一朝一門の写真をゲット。笑顔の無いクールな㐂いちさんの写真をゲット。

ここまでの所要時間、僅か9分。最速ではないですか。福扇→松島屋までの目標達成時間、なんと僅か9分ですよ!!!と言っても、福扇で3時間近く並んでいるというオチ。。。

 

即刻、エボエボへリターン

手薄になった本殿の通りを駆け抜け、再びエボエボへ。狙い通りの薄い並び。即座にツイートしたのが10時12分。すなわち、松島屋→エボエボ間を3分で移動している。インスタントラーメン一個分である。その間にみそ田楽の食事はもちろん終えている。

列に並んだ私がたこ焼きを食すまでにかかった時間、僅か8分。どうですか。その間に、私は菊之丞師匠とのツーショットを決め、そこからたこ焼きのしょうゆ味を食したのです。この時短、これぞ謝楽祭に参加した者だけが見つけられる、最速のルートだと思いませんか。えっ、思わない!?がびーん。

時刻はなんと、まだ10時20分弱。たった20分の間に、福扇から超人気店の二つを制覇するという偉業を成し遂げたのです。といっても、何度も言いますが、3時間福扇に並んでいる私です。。。

とにかく、これぞ最短の奥義。宮本武蔵もびっくりの『謝楽祭の書』の効果でした。

格言としては、『福扇の並びを制する者は、謝楽祭を制する』です。

完全に調子の舟に乗って、爆漕ぎしておる。

 

持て余した解放感ゆえの時間ロス

自分でも衝撃的な速さで目標を達成してしまった私。競馬で言えばオッズが1.0倍のディープインパクトの気持ちでした。何を賭けても、賭けた分がそのまま帰ってくるという無意味の境地。

圧倒的な時短行動は完全に私を狂わせました。

一体、私は次にどこへ行けば良いというのか。そんな考えに支配されたのです。

船長を失ったクルーの如く、船内をあたふたと歩き回る私。

砂漠に放り出されたマグロ。

とりあえず物販コーナーに行くも、特に欲しいものが無く、目当てはまだピークが去ってから狙おうという、計画に準ずる性格が災いし、軽いパニックに陥る。例えるならば、子供が「パパー!お菓子買ってー!」と言った瞬間に口にお菓子を放り込まれるような感覚をずっと味わっていたのです。

唐突な願望の達成に混乱した子供は、お菓子を得た喜びを感じるのに時間がかかり、「えっ、お菓子・・・えっ!?」という、自分でも何を望んでいたのか分からなくなる状態。

これぞ、時短ゆえの空中浮遊。悪夢の無重力

何をトチ狂ったのか、見慣れた顔のサンキューさんと一平さんのいるアサダ二世さんのブースに行き、特に欲しくも無いが写真を撮る手前、買わなきゃ失礼だと思い、缶バッチ四種を買うという愚行に走った(いや、善行だけども)。

本来であれば、もっと遅い時間に回る筈だった物販ブースが、予想以上に早く回れてしまったが故のパニック。こうなった私はただ焦りながらも、『写真を撮ろう』と思い立ちます。

サインに応じる小猫さん。志ん生師匠のブースで古今亭一門のサインを見せる菊寿師匠。なぜか屋台ブースの混雑状況を写真に撮りながら、特に何も出来ずに11時を迎えたのでした。

考えてみれば、この時に『円山暴挙』に名前を書いておけば良かったのです。似顔絵を描いてもらえばよかったという後悔が残りました。自分の作戦が上手くいかないという予想は多くしても、自分の予想が上手くいった後のことは、まったくもって考えていなかったのです。なんと、寂しい思考力。次回に活かします。

 

のど自慢大会 開幕

11時になると、イベント『のど自慢大会』の開幕です。林家ぼたんさんと林家たけ平師匠の司会。

市馬師匠のアカペラ熱唱の後、扇兵衛さんの市馬師匠好みの渋い歌唱。はん治師匠の石原裕次郎、こみち師匠の偉大なる伴奏、小傳次師匠の土建屋と勘違いするかのような吉幾三、わん丈さんのアリーナ感炸裂のTUBE、あずみさんの色っぽい中島みゆき、きく麿師匠のクレイジー・プー、途中ワイロ、文生師匠の歌詞みまくりで天候悪化の歌唱、志ん吉さんのエロい金髪、かゑるさんのペーさん激似物真似、権太楼師匠と扇遊師匠の豪華すぎるデュエット、茶番も込みで笑えるおきゃんでぃーず、そしてトリは、座布団を被ったたい平師匠のヨイトマケでフィニッシュ。

何と言っても、きく麿師匠の衣装と歌は最高で、会場は大爆笑。あんなん笑うしかない!!!

わん丈さんは見事な歌声を披露して、見事に大賞でした。

噺家の新たな一面も見れる『のど自慢大会』、落語以外でもこんなに素敵な芸をお持ちの皆さん、めちゃくちゃ笑ったイベントでした!

 

 突然の大雨、そんなの吹き飛ばせ!

丁度、のど自慢大会の優勝発表辺りから大粒の雨がざあっと降りだしました。即座に脇に逃げ込む私。水も滴る良い男なので、水に濡れると良い男になりすぎるという懸念は一切しておりませんが、雨が過ぎるのを待ちました。

途中、和助さん、小もんさん、やなぎさんの曲芸・数字当ての茶番を眺めて時間を過ごし、その後再び物販ブースへ。

そこで、見覚えのある顔をアサダ二世先生のブースで発見。

そこにいたのは、

 

 えっ!!??

 おさむさんっ!!!???

 

思わず心拍数の上がる私。ナツノカモ低温劇団に所属し、昨日のカレーを温めてというお笑いコンビを組み、元オフィス北野で、『ノットヒーローインタビュー』という伝説的なコントで、大爆笑をかっさらった天才、みんなのおさむさんがそこにいたのです。思わず「おさむさんですか!?」と声をかけると、驚いた様子で「はいっ!」と答えるおさむさん。私はていおんで毎日見てることを伝え、「写真を撮ってもいいですか!?」と聞き、写真を一枚。なんて素敵な笑顔。

おさむさんは、天才です。天性の面白さを兼ね備えているのです。そんな人を私が見紛う筈も無いのです。嬉しくて握手をしてもらいました。きっとサンキューさんに誘われたのかも知れません。あの場にいた何人が気づいたか分からないけれど、おさむさんがいたのは衝撃的でした。

時刻は12時20分ほど。このタイミングであれば、立呑屋文蔵は手薄になっているだろうと考え、足早に向かいました。案の定、文蔵師匠のサインの列は長蛇でしたが、狙い目の塩モツ煮込みは手薄。チャンスとばかりに一杯購入。

受付に立っていた文吾さんにお願いして一枚パシャリ。偉大なる文蔵師匠の一番弟子にして、流麗なる語りを持ち、ひたすらに逞しく明るい文吾さん。今月のシブラクで見るのが待ち遠し二ツ目噺家さんです。

この辺りで、正気に戻ってきた私は、サイン帳を求めようと思いました。しかし、時すでに遅く完売でした。仕方なく、傍にあったソフトドリンクを購入。すると、パンフレットコーナーに台所おさん師匠がいらっしゃいました!!!

私は台所おさん師匠の醸し出す雰囲気が大好きです。噺の温度が大好きなのです。二度寝するときの布団の温度と、おさん師匠の噺の温度は同じような気がするのです。そのぬくもりの温かさに、安心して心が休まるのです。

だから、おそるおそる近づいておさん師匠にサインを頂きました。そしてお写真も。何と言えば良いのでしょう。私はおさん師匠の醸し出す落語家としての雰囲気が、たまらなく好きなのです。この人となら、学生時代にたくさん色んなことを楽しめたであろうという、そんな不思議な気の合う感じがするのです。

すっかりと晴れた空。狐も何度嫁入りすれば気が済むというのかと思いましたが、ようやく婚礼の儀も終わった様子。喜常に、なんて言葉を思いながら、私は物販ブースへと向かいました。

 

物販にて、計画通り

去年に比べ、予想以上に混んでいたのが寄席文字の店でした。去年は今年のような込み具合はしていなかったように思います。私も割とあっさり買えた印象がありました。

ところが、今回は随分と並んでいます。たまたま一人しか書く人がいなかったというのもあるかも知れません。結構待っていたためか、新真打&二ツ目のお話を遠くで聴きながら、私は『恕』という文字を書いてもらいました。そう、孔子が『恕かな』と言ったという一文字です。一瞬、寄席文字を書く人が「ん?これは、えっと・・・」と言って、戸惑わせてしまいましたが、私は「えっと、じょ、と言います」と言うと、「ああ、はい・・・」と不思議な様子で書いてくれました。

時刻はすっかり14時に近づいており、次のイベント、『三K辰文舎ライブ』です。

 

 三K辰文舎ライブ 開演!!!

去年のほたるさんによるライブを見ることは出来ませんでしたが、2017年に聞いた三K辰文舎ライブ以来のライブ。つまり二年越しのライブです。

文蔵師匠の歌に始まり、扇辰師匠の軽やかな歌、そして小せん師匠の甘くゆったりとした大人の歌。あっという間に過ぎていく30分。

途中、体調を崩された方の救護のため、たい平師匠が動いておりました。確かに温度が高く、熱中症になりかねない気候でした。ついつい聞き入ってしまうと、水分補給を忘れがちになるため、来年も気をつけなければなりません。

台風なんて一体なんだったのか、と思うほどの快晴のなか、美しい曲によってライブが終演。今は一人で撮った動画を聴きながら、うっとりとするという楽しみに浸っております。

 

文菊師匠を探す旅

時刻は14時30分を過ぎていました。私は文菊師匠の寄席スケジュールを眺めながら、「そろそろ鈴本の出番を終えて、こちらにいてもおかしくない」と、推理を始めました。驚異的な推理力です。まずは、昨年、目撃情報のあった場所をくまなく探しました。いません。どこにもいません。

だんだんと、山崎まさよしの『One more time, One more chance』の気持ちになって来ました。向かいの境内、湯島天神の影、そんなとこにいるはずもないのに。

そんなことを思いながら、ふらふらと歩いていると、ふいに、文菊師匠を見つけました。

私の脳内を過った一文字をご紹介致しましょう。

 

白!!!!!!!

 

突如として現れた純白。純白の文菊師匠。心拍数が上がり、ドキドキとRomanticが止まらなくなりました。脳内ではCCBの冒頭のイントロが流れ始めました。周囲の人間が見えなくなり、私の視界には文菊師匠の姿だけ。

周りのお客様には毎度おさわがせします』状態となり、板東英二と風呂に入るのはごめんだが、エッチな話は聞きたいという、自分でも何言ってるんだか訳の分からない状態に突入。でも私という板東英二にとっては、文菊師匠は夏木マリみたいなもんなんですよ(喩えが古すぎて誰も分からない)

惰性と交換という漢字を書いただけでも興奮する思春期少年と化した私は、列に並んで文菊師匠を待ちました。今、文菊師匠と書こうとして、思わず『びんぎく』師匠と書きそうになったんですけど、すいません、もう、赦してください。抗えません。

文菊師匠の前では、何もかも無力なんです。

サミュエル・ウルマンだって言ってます。「青春とはある一定の期間を言うのではなく、心の在り方を言うのだ」と。その通りです。私、否、あたいは、文菊師匠を見た途端に、青春に突入してしまう体質なのです。これまで何度も、あたいは、青春に突入させられました。大気圏を越え、ブラックホールを突き抜けて、第三世界のカラスを殺し、あたいは、タイムリープを繰り返して、夏の扉を開け続けてきたんだわいな(混沌を極めている)

盛り盛りのジョークはさておき、文菊師匠と夢のツーショット。魂が半分抜けた表情のツーショット。もう、このまま、棺桶に入ってもいい。由井正雪に騙された願人坊主になっても構わない。いや、坊主は文菊師匠だけど。

そう思いながら、お礼を言ったかどうかすらも忘れ、私は文菊師匠のもとを去りました。これで私も、文菊師匠の右に立った男になりました。文菊師匠も私に右に立たれた男になりました。だから何だって話なんですけどね。。。

放心状態のまま、私は次のイベント、『たい平の部屋』に向かいました。

 

 たい平の部屋での会話を、窓の外から聞く感覚

文菊師匠とのツーショットに魂を抜かれ、ウォーキング・デッドと化した私は、カメラを止め、空気を吸いながら、白目を剥き、たい平師匠の話を聞いていました。

林家木久蔵師匠と江戸家小猫さんが出ましたが、ゾウが出たんだが猫が出たんだか、さっぱり頭に入ってきません。私の脳を脳内メーカーで調べたら、文菊師匠の爽やかな笑顔で埋め尽くされていたことでしょう。まだ震えている手、高鳴っている鼓動。ツーショットを確認する度に失神しそうになる気力。

これは気温の暑さによる『熱中症』ではありません。文菊師匠の爽やかさによる『文菊熱中症』です。ニトリのNクールも敵わない文菊師匠の醸し出すクールさに、全身からは汗が吹き出し、眩暈、動悸、息切れ、発作を起こしていました。

あ、あかん。体が女性になってしまいそうだ・・・

デタッチャブル・ピーニスだ・・・

そんなことを思ったか思わなかったかは秘密ですが、とにかく、ぼんやりしているうちに、たい平の部屋が終わりました。

 

富くじ、当たらず

その後の富くじは、当たりませんでした。むしろ、運を使い果たしたのではないかと思うほど、幸福なことばかりでした。

素敵な芸人さん達の笑顔。そして、食事。そして、物販。全てが、台風を吹き飛ばしていました。心のこもったヨイショに、私の胸も、お腹も、いっぱいだったのです。最後の文菊師匠との出会いで病院送り寸前でしたが、何とか気を確かに持って、家路へと向かうことが出来たのでした。

そして、私は福扇の袋を開けました。そこには、謝楽祭の全てを総括するような、言葉が書かれていたのです。

 

総括 ヨイショの先に

誰が書いたのか判読できないのですが、そこには『人生のような落語、落語のような人生』と書かれてありました。その言葉を見た時に、全てが今日という日を表しているように私は思ったのです。

今日、9月8日。湯島天神に集まったお客様、演者。

皆が落語を愛しています。これは間違いの無いことだと思います。

誰もが、自分の『人生のような落語』に触れたり、『落語のような人生』を歩んでいたりする。今日という日は、そんな人達のために、普段、『人生のような落語』を見せてくれる芸人と、『落語のような人生』を歩んでいるかも知れないお客様との、一年に一度の大切なお祭りだったのではないでしょうか。

きっと、そんな気が私はするのです。

こんなに素敵なお祭りに出会える幸福。そして、きちんとやってくる『言葉』。私は、全てが腑に落ちました。

落語に笑い、落語に心惹かれ、落語が好きで、落語が人生の傍にある人達。その素晴らしさは計り知れません。こんなに素敵な輝きを、私は他に知りません。

今よりももっと、落語が好きになって、寄席が好きになって、日本の演芸が大好きになる。それが、謝楽祭というお祭りにはあります。

今年は、たい平師匠が実行委員長となり、『心をこめてヨイショ!』をテーマに、大勢の芸人さんが、訪れた観客に、心のこもったヨイショを送りました。

では、そんなヨイショを受けた私を含む多くのお客様は何を思うのでしょう。

これは私の一例ですが、きっと、自分を諦めないことだと思うのです。

自分にある才能や可能性や、ありとあらゆる未来に向かって進む自分を、諦めず、見捨てないことが、大切なのではないでしょうか。

笑顔で迎えてくれる芸人さんの姿。一所懸命に楽しませようとしてくれる芸人さんの姿。何時間もサインに応じる姿、汗をかきながら美味しい食べ物を作る姿。

全てが、お客様の心の奥底を持ち上げているような、ヨイショしているような、そんな心意気があって、その心意気によって、持ち上がった自分の心に、自分でもびっくりするくらい、喜んでいる自分がいることを私は認めました。

自分の可能性を潰しちゃ駄目だ。

自分を見捨てちゃ駄目だ。

自分の素晴らしさに気づいて。

謝楽祭には、そんな流れを私は感じました。

決してスピリチュアルな話ではありません。

自分の感情を左右するのも、

自分の可能性を潰すのも、

全ては自分次第なのだけれど、

自分という存在の偉大さを、

気づかせてくれるのは、

笑いという大きな力で、楽しませてくれる、芸人がいるからではないでしょうか。

自分一人じゃどうしようもできない、辛い状況にあるとき、寄席に行くと本当に心を救われる経験が私にはあります。あなたにもありませんか。

寄席の素晴らしさは、そんな静かで温かい日々が毎日続いていることにあると思うのです。そして、その芸に触れて、自分ではどうしようも出来なかった自分を笑い飛ばして、認めて、抱きしめて、肯定してあげるような芸を見せてくれるのが、芸人なのではないでしょうか。

今日は、そんな芸人とお客様が、垣根を越えて交流し、共に笑顔で笑い合い、認め合った一日なのではないでしょうか。

私は、そんな風に思ったのです。

そして私はこれからも、『人生のような落語』を聴き、『落語のような人生』を歩むのかも知れません。と言っても、私は与太郎にはなるべくならないように気を付けておりますが(笑)

でも、いいんです。与太郎になっても。きちんと、正しく、自分を認めようと思うのです。そりゃ、働いていれば心が擦り切れる日もあるけれども、『毎日を笑って過ごす』ということを、私は絶対に諦めません。

事実、私は落語に出会って、毎日、頬骨が筋肉痛になるくらいに笑って過ごしているのです。ちょっとや、そっとじゃ、凹みません。形状記憶合金です。

さて、最後に、あなたはどんなことを、ヨイショの先に思いましたか。出来ることなら、あなたの言葉で纏めて見て欲しいです。

そして、機会があったら、私に聞かせてはくれませんか。

きっとあなたとなら、もっと楽しい落語が聴けそうだと私は思うのです。

たくさんの落語好きが集まった落語会って、それはそれは楽しいのです。

今日は、そんな落語会と同じ雰囲気のお祭りだったのです。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

本当に楽しかったですね。

それでは、素敵な演芸との出会いを祈りながら。

また、どこかの寄席でお会いしましょう。

ヨイショ!の謝楽祭~森野的 楽しみ方~ 2019年9月4日

2019-1

 http://rakugo-kyokai.jp/activity/sharakusai2019/

 

https://www.youtube.com/channel/UCV1eJRbmHNPu0T7gR0SnQSA

 

心をこめてヨイショ!

落語のお祭り!

突然ですが、あなたは落語がお好きですか。

このブログを読んでいるくらいですから、お好きですよね。

お好きに決まっていますよね。

好きじゃなかったら、そもそもこのブログを読んだりしませんよね。

来たる、2019年9月8日の日曜日、午前10時より、御徒町駅より徒歩8分、湯島天神の境内にて、『謝楽祭』という、一年に一度、落語協会が主催するお祭りがあります。落語好きは勿論のこと、落語を知らない方でも十分に楽しめるお祭りがありますが、このブログを読んでいる皆さんは、もちろん、行きますよね。

行くに決まっていますよね。

っていうか、行かないのなら、そもそもこの記事を読んでませんよね。

というわけで、落語好きであり、謝楽祭に行くことを決めている方だけに、森野的な楽しみ方をご紹介したいと思います。落語は好きじゃないけど、祭りは好きだから謝楽祭に行くという方や、落語も祭りも好きじゃないけど謝楽祭に行くという方にも、お喜び頂ける内容になるかと存じます。

では、早速、8点記載致しましょう。

 

 1.福扇の列は、1時間30分前並びをオススメ!

去年の混雑状況から推測すると、福扇の列はかなり長蛇の列になります。特に午前9時頃には、『湯島天神入口』の信号近くにある、駐車場には朝早くから並ぶ落語ファンの方々が列を成します。体感的に100人近く並んでいました。お気に入りのお店がある方や開会式を近くで見たい方は、早めに列に並ぶことをオススメ致します。

目安としては1時間30分前に福扇販売会場入口(唐門付近)に並ぶのがベストです。列が出来ると、近くの駐車場に列が伸びます。

あまり気合が入り過ぎると終盤までの体力を失い、疲れ切ってしまうので、短期決戦で臨まれた方が良いです。ちょっと体力に自信の無い方は1時間~30分前絶対の自信がある方は何時間前でも大丈夫です。私の並ぶ時間は、、、内緒です。

残り物には福があると考えて、会場時間ギリギリになってから福扇を買う人は、あまり効率良くお店を回ることが出来ないという可能性を覚悟した方が良いと思います。

前回はおよそ12時から13時の間には、福扇は売り切れていたと思います。前年は柳家小三治師匠、最後の揮毫という振れ込みで、すぐに売り切れた印象がありました。

今年は林家正楽師匠デザインの福扇となっており、福扇の入った袋にはランダムで、落語協会に所属する方の内、誰か一人のサインが入っています。去年、福扇の受付にいらっしゃったのは、私は柳家小せん師匠でした。他にも落語家さんが受付をしております。

寄席の招待券が入っていることもあって、大変人気になることは間違いないです。謝楽祭に来たら、まずは『福扇を購入!』をオススメ致します。

 

 2.屋台飲食ゾーンは、優先順位を決めよう!

屋台飲食ゾーンは朝~昼にかけて激込みです。買えないことは無いと思いますが、猛暑の中、待つのが耐えられない!という方には、行きたいお店の優先順位を決めて行かれることをオススメ致します。

特に毎年、橘家文蔵師匠の『三代目立呑屋文蔵』や古今亭菊之丞師匠の『エボエボBOSE』、林家つる子さん、春風亭一花さん、林家あんこさんの『アイスキャンディーズ』は長蛇 OF 長蛇なので、この三件で長蛇の列に並び時間ロスするくらいなら、早めに抑えて、師匠方のサインと合わせて食事をした方が絶対良いです。

まして、今年は春風一刀さんが名前に上がっている『松島屋』が初出店です。味噌田楽を販売するとともに、春風亭一朝師匠のグッズも出るとあって、今回はここが物凄い列になると思われます。一朝師匠自身が動画でお店にいるとのことなので、春風亭一朝一門が大好きな方、一朝師匠の似顔絵入りTシャツ(販売とのうわさ)等が欲しい方は、絶対に、早めに、行った方が良いです。

もしも目当てのお店を早めに回ることが出来たら、その後はゆっくり他の出店店舗を見ながら、歩くのも良いかと思われます。まずは腹を満たして冷静に物販店舗を見る心を整えましょう!

 

 3.芸人屋台物販ゾーンは、よほどのことが無い限り行ける

落語協会の中でも、ベテラン勢が軒を連ねる『物販ゾーン』に関しては、余程のコアなファンでない限りは、それほど気合を入れて並ばなくても良いと思います。何としてでも手に入れたい物や、この落語家のサインが欲しい!という方で無い限りは、ゆったりのんびり見ても良いと思います。というのも、ベテラン勢が多いため、初心者にはなかなか興味が湧きにくい場所であると思われるからです。去年の様子を見ていても、どの屋台も確かに混雑はしていますが、マニアックなお店が多いため、少し間を開けて、時折眺めていれば、サッと入れるという印象です。

オススメとしては橘右樂さんの『寄席文字の店』です。こちらはお好きな文字、一文字を寄席文字で色紙に書いてくれるお店で、一枚1000円だったと思います。早めに書いてもらうと荷物になりますので、もしも寄席文字に興味があって、家に色紙を飾りたいという方は、様子を見て書いてもらうのが良いでしょう。

ちなみに私は今年は、『』という漢字を頂こうかなと思っています。意味は『思いやり』です。『怒』と似ていますが、全然意味の異なる漢字で、私の中のトレンドになっている言葉なので、これを今回は部屋に飾ろうと思っています。

他には、自分の似顔絵を三遊亭天どん師匠か春風亭正太郎さんが書いてくれる『円山暴挙』。落語家さんに顔を観察されるのが恥ずかしい方にはオススメしませんが、似顔絵ということもあって、オススメのお店です。

他にも、パンフレットを眺めながらお目当てのお店にのんびり訪れて見てはいかがでしょうか。

 

 4.富くじは本気なら十枚買い!?

15時30分より発表予定の富くじ。去年は末番の数字が合っている方はもれなく景品が貰えていた記憶があるので、たとえば富くじの番号の末番が2で始まれば、2,3,4,5,6,7,8,9,0,1で、10枚買えば末番の数字をコンプリート出来ます。これは1000円かかるので、どうしても富くじで景品が欲しいという方は、10枚買いをオススメします。ただ、今年も同様のルールかはわかりませんので、ご自分の判断でお買い求めいただくようお願いいたします。

 

5.お目当て落語家のサインを求めて時間ロスしないように!

大好きな落語家さんのサインを求めて、サイン帖や色紙をたくさん持参しようと考えている方は、時間ロスにご注意ください。

基本的に、屋台にいる落語家さんはサインを狙いやすいのですが、屋台を出店されていない方のサインを求めるのは至難の業です。どのタイミングで、どの場所に、どれくらい滞在するか、全く読めません。気づけば「あ、なんか行列が出来てるな・・・」と思っていると、人気のある落語家さんの列だったりします。毎年、春風亭一之輔師匠や林家たい平師匠、柳家喬太郎師匠は大変な人気があり、ポケモンで言えば伝説のポケモン並みに、ゲットするのに苦労するので、基本的には屋台に出店されている落語家さんのサインを貰い、大体の目的が達成されたら、ゆったりと時間に余裕を持って落語家さん探しをして、サインを貰うのが良いでしょう。

特に今年は江戸家小猫さんが人気でしょう。Twitterでは可愛らしい猫のサインとあって、女性人気は確実。狙い目は謝楽祭寄席終わりの社務所でしょうか。この辺りで13時くらいに待機していると、寄席を終えた小猫さんに会える確率が高いと思います。『ポケモンGO』のレアポケモン発生時のような、大勢の人が集まる状況になるかも知れません。

ちなみに私は前回、古今亭文菊師匠が見当たらず、後になってTwitterで情報を知るという悲しい出来事がありました。時間の関係もあって、サイン関係は捨てて臨みました。全てを手に入れるのは、なかなか難しいです。サイン一本集中という方であっても、手に入れることが出来るかは何とも言えないところです。大いなる時間ロスをしても、全然大丈夫だ!という人にはオススメです。

 

 6.寄席のチケットは、ご自由に!

謝楽祭寄席や梅香殿の二つ目寄席が開催されています。私は参加したことがありません。余程、場所への思い入れが無い限り、寄席のチケットは買わなくても良いのではないか、と思っております。参加したことが無いので何とも言えませんが、わざわざ謝楽祭で聞かなくても良いのではないか。と思います。

もちろん、あまり寄席に通えない方や、落語が初めてという方にはオススメできると思います。落語好きで、頻繁に寄席に通っている方には、それほどの魅力があるとは思えませんが、誰か謝楽祭の寄席に大変な魅力がある!と思っている方には、是非、その魅力を教えて頂きたいと思います。

 

7.特設舞台のイベントは時間をきっちり把握!

最前列でイベントを見たい方や、お目当てのイベントがある方は、パンフレットに記載のイベント開始時間を把握しておきましょう。湯島天神境内のほぼ中心で行われているため、どこにいても何となく鑑賞はできますのでご安心ください。ただ飲食ゾーンにいると難しいので、イベント開始時間に合わせて物販ゾーンを巡るのが良いかと思います。写真や動画が撮りやすいのは圧倒的に前列で、前列はコア・ファンがたくさんいる印象です。ゆったりと楽しめるように、時間に余裕を持って参加しましょう。

また、炎天下となりますと非常に暑いため、水分補給・日焼け止めクリームの塗布・日除けの帽子・汗を拭うタオルは持参しましょう。今回はトイレットペーパーも無くなる可能性があるとのことで、自信の無い方はトイレットペーパーを用意しましょう。私はタンクが大きいので、トイレに行ったことはありません。全部汗で出し切ります。

 

 8.なんだかんだ言ったけど、無理しない範囲で楽しもう!

さて、ここまで書いてきましたが、結局は自分が好きなように楽しむのが一番です。ここに記載したのは、あくまでも私が去年の体験から感じたことに過ぎません。参考にしてもしなくても、どちらでも構いません。楽しんだもん勝ちです。

今年は実行委員長が林家たい平師匠です。キャッチフレーズは『心をこめてヨイショ!』。年に一度の落語協会のサービス精神溢れるお祭りです。

遠方からお越しの方も、普段寄席に通いなれている方も、笑点くらいなら知っている方も、落語を全く知らない方も、色んな方々が楽しめるお祭り、それが『謝楽祭』です。

飲食に徹するも良し、サインに徹するも良し、寄席に徹するも良し。それぞれの思う楽しみ方で、お祭りを楽しんで頂けたら、落語好きとして嬉しいです。

今よりももっと落語が好きになるでしょう。お目当ての落語家さんのことが、もっと好きになるでしょう。どんどん落語が身近になって、落語にハマっていくでしょう。

私も、謝楽祭は今年で3回目の参加になります。毎年、楽しくて楽しくてついつい、時間を忘れてしまうほどです。ようやく、どう効率良く回れば良いかが、分かってきたような、分かっていないような、感じです(笑)

もちろん、私も行きます。「あ、あの人かな?」と思っても、軽く無視して頂けると幸いです。ご常連さんもたくさんいらっしゃるので、「あっ!あの人見たことある!!」と、寄席常連あるあるはあるかも知れませんが、お知り合いの方ならご一緒に、単独参加ならマイペースに、楽しむのが一番かと思います。

いずれにせよ、体調管理は万全に。小銭の準備もしっかりと。そうそう、小銭は大事ですね。芸人さんにご面倒をおかけしないように、なるべくぴったりの金額でお支払いする心のゆとり、思いやりを持って参加して頂ければと思います。

長々と書きましたが、私は謝楽祭の運営には一切関与しておりません(笑)

単なる一ファンとして、演芸に興味のある方、演芸がお好きな方の、少しでもご参考になればと思い、この記事を書きました。

ヨイショ!と言えば古今亭志ん駒師匠が思い浮かびます。高座は見たことはありませんが、伝え聞くと『ヨイショの志ん駒』と呼ばれていたそうです。芸人もお客も、一体となって生み出されるのが芸ですから、お互いに楽しむお祭りになるといいですね。

きっと、素敵なお祭りになるでしょう。

そんなことを祈りながら、この記事を終わりたいと思います。

お読み頂き、ありがとうございました。

 

心に出来た『こぶ』~2019年8月29日 深川江戸資料館 笑福亭たま独演会~

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タテカワキッショー

 

ボンヤ

 

オヤカタシュー

 

ベンケイー

 

カンコー

 

イメージと現実

 

Tickle Toe

ふいに空き時間が出来たときは、まず落語会を探す。あまり事前に予定を立てて行動するということが少ないため、落語会は『当日ふらっと派』である。その時、その時で、自分の感覚に合った落語会に行きたいと思うし、その方がお得感もあるのである。もちろん、会によっては料金が500円アップするけれども、「今日はこの会に参加できる運命にあったのだな」と思うと、得した気分になるのである。

そんなこともあって、久しぶりに笑福亭たまさんの独演会に参加することが出来た。恐らく『遊雀スペシャル』以来の深川江戸資料館では無いかと思う。

会場に入ると、笑福亭羽光さんが会場に来たお客様の様子を伺っていた。会場の雰囲気を掴むために、熱心な噺家さんである。その姿勢が素晴らしいなぁ、と思いながらぼんやり見ていた。

受付には、前回同様、あんぱんさんとどっと鯉さんがいて、チケットを切ったり当日券を売ったりしていた。ご常連さんが多い会である。皆さん、笑福亭たまさんをお目当てに来られている雰囲気が満ちていた。

以下、ざっくりとした感想を、

 

 瀧川あまぐ鯉 長短

てっきり瀧川鯉昇師匠のお弟子さんかと思っていたのだが、鯉朝師匠のお弟子さんだったあまぐ鯉さん。時間調整もあってか僅かにテンポが早い気がする長短。新作系の雰囲気を感じる前座さんなので、今後、どのような演目が見れるか楽しみ。

 

 笑福亭羽光 ペラペラ王国

会場の雰囲気を読んで、『TPOをわきまえた落語』を宣言していた羽光さん。そんな羽光さんが選んだのは『ペラペラ王国』の一席。渋谷らくごポッドキャストで一度聞いたことはあったけれど、生で聞くと面白さが増している気がする。会場のお客様も、どうやら羽光さんを初めて聞く方が多かった様子で、どっかんどっかんと受けていた。『マトリョーシカ構造』のお話の気持ち良さが素敵である。確か、深夜寄席で聞いたことがあったと思う。複雑な構造でありながら、意外と理解しやすい噺の構造。そして、最後の最後まで明かされない謎。全てがミステリアスで、何も解決しないのだけれど、その解決しないままに終わる面白さが素晴らしい一席だ。

 

 笑福亭たま 茶漬間男

お待ちかねの笑福亭たまさん。枕に関しては「書けないっ!」のだが、難解な話を見事に分かりやすく伝える様子が、改めて見ても、物凄く頭の良い方だなと思う。実にクレーバーで知的で賢さに溢れている。めちゃくちゃ好きだけど、プライベートで関わるとドキドキしそうな噺家さんである。何と言うか、上方落語界の『永世中立国』的な立場の人である気がする。一言で言えば『中庸』であろうか。常にきちんとした指針というか、軸があって、どちらか一方に偏ることなく、どちらの立場でも合理的に思考して考えを受け入れている噺家さんであるように見える。もちろん、許せない出来事に対しても、冷静に合理的に論理立てて説明できる人だから、そのクレーバーさが魅力的に私には映った。

そんなたまさんが不倫の噺をする。そこに違和感が無い。むしろ、常識人であるからこそ、ちょっとした偏りが面白く感じられるのだろう。不倫という行為自体を、許す許さないという次元での語りではなく、むしろ現象としてのみ捉える感じと言えば良いだろうか。良い悪いを抜きにして、噺の中で起こった不倫という現象のおかしみを抽出しているような、そんな雰囲気を感じた面白い一席だった。

以前、繁昌亭の乙夜寄席で桂しん吉さんの『茶漬間男』を聞いて以来の演目である。茶漬けを食べる仕草であったり、二階でごちゃごちゃが起こったり、丁寧な盆屋の説明であったりと、想像しやすく、滑稽なお話だった。

 

 笑福亭福笑 大真夜中

こちらもお目当ての福笑師匠。この噺家さんは絶対に見逃しちゃいけない落語家のうちの一人。会場も物凄い温かい雰囲気で、拍手喝采。抜群のウェルカム・ムードに気分を良くしたのか、彦八まつりで披露するというQueenの『We Will Rock You』をアカペラで披露。古希を迎えてもなお、より一層の逞しさを見せる福笑師匠に拍手喝采

演目は、どういえば良いのか、お楽しみを残すためにも、ざっくり言えば『大安売り』という演目の形を借りた一席である。

これがもう、抱腹絶倒の一席だった。福笑師匠に外れ無しである。面白くて殆ど詳細は覚えていないのだが、『大安売り』という噺の形式を模した語りの面白さ。随所に光る福笑師匠の笑いのセンス。全てが会場を巻き込んで爆笑を起こしていた。

凄い。本当に凄い落語家さんである。

 

 笑福亭たま こぶ弁慶

お初に聞くお話で、昔の人達の想像力が爆発した面白い一席である。今でいえば『寄生獣』とか、『南くんの恋人』とか、伊藤潤二先生だったらホラーテイストで描きそうな一席で、「そんな設定があるんかいっ!!!」と思わず膝を打つような、面白いお話である。簡単に言えば、『壁土食べたら、こぶが出来て・・・』という噺で、物凄い発想だなぁ、と驚愕の物語である。作者は笑福亭吾竹という人で、一体どうやったらそんな発想が出来るのか、ご本人に伺ってみたいくらいである。

不思議な噺ではあるのだが、こぶが出来てからの痛快さが面白い。これは是非生で聞いて頂きたい演目で、初見であるため詳細を語ることは止しておく。

 

笑福亭たま ショート落語&ベトナム

ショート落語と言う名の短い小噺の後、新作の『ベトナム』。いやー、これは、

度肝を抜かれるほどの面白さでありながら、様々なことを考えさせられる新作である。ざっくりこの噺の内容を書くとすれば、『想像と現実は・・・』ということを考えさせられる一席である。

とにかく、自分の思い込みであったり、固定観念であったり、無意識の『決めつけ』が、翻って行く様を見ているような心地よさ。同時に、自分自身が無意識に持っているそうした『当たり前』に対する違和感を見つめ直すような一席である。

言われてみればそうだよね、という発見もありながら、たまさんの思考実験の結晶のような噺で、ここまで切り込んで様々な例をあげながら、一つのテーマを突き詰めて行きつつ、同時にそれが面白いという、簡単なようで、物凄くアクロバティックな難解さを秘めているような内容だった。最初の羽光さんの一席にも通ずるのだけれど、何かが解決しないままの感じ。というか、解決しないということが一つの解決であるというようなことを感じる一席だった(ちょっと書いててよくわかんないけど)

いずれにせよ、改めて笑福亭たまさんの知の泉に触れた一夜となった。

 

総括 Tama's Oregano

Twitterのみならず、高座の外・内の姿を見ると、笑福亭たまさんの気配りであったり、配慮であったり、お客様へのサービス精神であったりが、如実に感じられた。決して知的だからとっつき難いとか、難しそうということは無い。むしろ、普遍的な哲学、中庸の精神を、笑いをまぶしながら、とても分かりやすく発信されている噺家さんであると私は思った。近頃は、某上方落語評論家がトヤカク色々と言っているが、私はそんなことを言う人間になったら、お終いシウマイだと思っている。

どんな瞬間であっても、客として落語家の素晴らしさ、演芸の素晴らしさを説いていくのが、落語好きの落語好きたる在り方ではないか。本当に嫌いな落語家がいるのならば、私だったら語らない。少なくとも、ネット上では絶対に語らない。そもそも、私には落語の世界で活躍されている噺家さんに文句を言えるほどの立場では無いと思っているし、芸の世界には、否定はいらないと思う。なぜなら、その人には、その人にしか出来ない落語があると思うからだ。それが正しいとか、正しくないと言うのはお門違いであると思う。どんなときであっても、後世に落語に出会った人々が、「この落語家さんには、こんな素晴らしいところがあるんだ!」という喜びと発見に満ちた情報を伝えていくのが、演芸好きの使命なのではないか。

私は、恐らく存在する評論家や趣味でブログを書いている人間とは、その辺りの考えが決定的に違うように思う。私は人の美点しか見ないし、書かない。それじゃ面白くないよ、と言われても一向にかまわない。それが、私の在り方なのである。

そして、ずっとそれを続けていると、色々と良いことが起きてくるようである。別にスピリチュアルな話をするわけでは無いが、どうやら現実はそのように、変わってくるようである。

良い点は語り、悪い点は語らない。それが私の心に出来た『こぶ』かも知れない。もしかしたら、否定ばっかりする人には、何か『こぶ』が心に出来ているのかも知れない。そんな『こぶ』がいずれ私の身体を乗っ取って、動くのだろうか。

はてさて、どうなることやら。

おしまいの無い永遠の旅路へ~2019年8月24日 新宿末廣亭 深夜寄席~

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さーちゃーん!!!

 

「せいねんがっぴー」でお馴染み

 

死ぬんですぅ!ぼくはしぬんですう!

 

ここからが面白いところ 

I'm praise man

人の悪いところを見つけるよりも、人の良いところを見つける。そして、それを多くの人に知ってもらう。私にとって、それがブログを書き続けるための大きな指針となっている。

思えば、160記事を越えて多くの記事を書いてきた。その全てが誰かを賞賛している。というか、賞賛しかしていない。今では、すっかり人の良い点しか見えなくなった。というか、良い点を見れば見ようとするほど、自分が幸福になっていくことに気づき、記事を書くことを止められなくなった。

一体なぜ、自分でもこんなに幸福なことがずっと続くのかさっぱり分からない。ただ、なぜだか人を褒めたり、人の良い点を表す言葉を探していると、実生活を含めあらゆることが幸福になっていくのである。実におかしなことであると思う。

元来、私は臆病な人間である。人前で話すことは苦手であるし、何か自分のことを言葉で伝えようとしても、なんだか上手く伝えられる自信が無い。また、人から褒められることにも慣れていない。褒められても「自分はまだまだ・・・」という気持ちになって、一向に満足するということがない。常に人の良い点をちゃんと言葉で表現できているのか不安でいる。誰かに認められても、まだまだ、全然、未熟であるという思いが強く、書いても書いても、満足するということがない。むしろ、マンネリ化していないか、とか、適切な言葉だっただろうか、と不安になることもある。それでも、一応の目途が立って記事をアップする。色んな人が見てくれて、評価をしてくれる。嬉しい。確かに嬉しいのだが、その嬉しさに甘えていられない自分がいるのである。

これはきっと、おしまいの無い永遠の旅なのであろう。なまじ文章を書くことが、幼い頃から出来てしまったがために、こうやって文章を書いて誰かに伝えたいという思いを抱くことになったのだ。そして、そこからずっと今でも『誰かに自分の思いを伝えたい』という、その思いに突き動かされて、言葉を探し、私は記事を書くのだ。

どんなことでも、人にはそれぞれに楽しみ方というものがある。短い言葉で思い出を表現する人もいれば、何も言葉にせず胸に秘めている人もいる。私がただ、ブログを開設して記事を書いて、演芸を楽しみたいと思っている人間だというだけの話だ。

それでも、きっと私の思いは、色んな人に共有できるのではないか。私が考えて紡いだ文章は誰かに届くのではないか。追体験とまでは行かなくても、私の思ったことが書かれた記事を読んだ人が、私の考えに新たな発見をするのではないか。そんなことを思ったら、書いてみる価値もあるだろうと思った。

既に演芸関連の記事を書く人のブログを幾つか読んだ。批判している者、枕を詳細に書く者、端的に自分の思ったことを書く者、幾つかのブログを読んで、私はどんなブログ方針で書くべきかが分かってきた。まだ、他の誰もやっていないブログを、まだ他の誰も気づいていない記事を、書こうと思った。

それが、このブログとなった。

私は『賞賛者』の立場になることに決めたのだった。どんな演者からでも、良い点を見つけ出し、言葉にする。そう決めた日から、今日まで、何度か挫折しそうになったり、不適切な言葉を書いてきたかも知れないが、読者に支えられて、なんとか今日まで来た。

まだまだである。私はまだまだなのである。スタートにも立っていないのである。しかしながら、書き続けてきたことで、私は今、他の誰よりも人の良い点、日本演芸に携わる人々の良い点を、見つけ出し、言葉にしてきた人になっているのではないか。

そう思ったところで、どうという話ではない。これからも、私は書き続けるのだ。そして、いつか現代の噺家の、良い点だけが集まった本が出せたら本望である。どうやって出すかは分からないけど、目の前のことを一歩一歩続けて行こうと思う。

さて、今宵、四人の二つ目が深夜寄席の高座に上がり、二つ目として最後の深夜寄席を行う。9月下席から始まる真打昇進披露興行に向けて、準備で大忙しのなか、互いに切磋琢磨した噺家の今の姿を見ることが出来るとあって、大勢の人が押しかけていた。

そうだ。誰もが何かに向かって突き進んでいる。どんなに足取りが遅くとも、歩み続けている限り、前に進むのだ。そんなことを思いながら、受付にいた柳家わさびさんに「おめでとうございます」と言って入場。

 

 初音家左吉(9月下席より 古今亭ぎん志) 無精床

トップバッターは初音家左橋師匠の一番弟子、愛称は『さーちゃん』でお馴染みの初音家左吉さんである。真打昇進とともに、愛称である『さーちゃん』を呼ぶことが出来なくなってしまうのは、何だか寂しいけれど、新しい名前の『ぎん志』もカッコイイ。というか、左吉さんは見た目もカッコイイ。ロックンロールが好きな感じが伝わってくるし、何より、左橋師匠に弟子入りするというセンスが最高だと思う。金糸雀の如く、歌うような鉄板ネタを幾つも持ち、ぎらりと光った丸い目と、整った顔立ちで女性人気の高そうな左橋師匠の弟子になるということが、左吉さんの何よりのセンスというか、ぴったりな選択だと私は思ったのである。

左橋師匠の男前ぶりを左吉さん流に継承している感じが、見ていて清々しい。古典ネタにも独自のヒネリを効かせて、滑らかに歌うようなトーンで流れて行く語り口。この演目は、簡単に言えば『無精な店主のいる床屋で起こる騒動』という感じなのだが、絶妙な軽さと、クールな佇まいが最高である。

真打になって、どんな演目を見せてくれるのか。新作もやったりするのだろうか。どんな風に左吉さんが落語の世界を切り開いて行くのか、楽しみだ。

 

柳家ほたる(9月下席より 柳家権之助) 居酒屋

お初の噺家さんで、師匠は寄席の爆笑派、柳家権太楼師匠である。深夜寄席開演前の段階から面白く、行列に対して「壁際に寄ってください。沢田研二でお願い致します」と言ったり、列が動き始めると「皆様、クラウチングスタートでお願い致します」と言ったり、「おっ、面白そうな人だ」と思う発言が、寄席の開演前から既に始まっていた。

落語が始まる前も、落語が始まってからも面白い柳家ほたるさん。権太楼師匠譲りのゴン太な感じもありながら、独自のセンスが光る一席だった。

随所に権太楼師匠の影響を感じる間やトーンがあったり、権太楼師匠の物真似がめちゃくちゃ上手かったりするなど、多才な噺家さんである。真打の興行ではどんな演目をトリに演じるのか、今まで見て来なかったことを後悔するくらい、面白そうな落語家さんである。

演目の簡単な内容は、『居酒屋で酔った客がくだらないことを言う』感じで、この絶妙にくだらない感じ、何のためにもならない感じが面白かった。

 

柳家わさび ダメな人間

柳家さん生師匠の弟子であるわさびさん。真打になっても名前はそのままである。

まず思うのは、

 

 いやー!!!

 すげぇわ!!!

 

である。

もはやわさびさん唯一無二と言っても良いフラ(雰囲気)。わさびさんにしか出来ない話し方のトーンであったり、醸し出す雰囲気が物凄い爆笑を巻き起こしていた。

なんというか、『点滴の最中にこっそり病院を抜け出して落語をやっている人』と言えば良いだろうか。そんな風貌のわさびさん。その瀕死の雰囲気から繰り出される、全てが振り切れた全力の落語が、めちゃくちゃに面白いのである。恐らくはとてもクレーバーな人で、自分という存在がどう見られているかを気にしている一方で、新作落語の先駆者達の背中を見ながら、自分にしか出来ない落語を追及している噺家であると私は思った。

そんなわさびさんの魅力が、全開にまで溢れ出していると感じたのが『ダメな人間』という一席である。凄い新作である。こんな新作を生み出すまでに、どれだけの試行錯誤があったのか分からないし、どんな思いでネタを書いていたのか、想像が付かない。それでも、この一席を作り上げたわさびさんの新作落語家としての未来は、決して『ダメ』ではなく、『良い』筈である。

たとえば、大勢のいる教室で一人だけ誰とも交わらずに、こっそりと自分の世界を作り上げながらも、スクールカーストの上位に位置する人々に一瞥をくれるだけで、ひたすらに自分自身を磨き上げて行くタイプのように思えた。自分の信じていたり、憧れている噺家に対して、熱狂的なまでの情熱を捧げる一方で、自らはそんな存在と同じことは出来ないのだと悟り、ならば自分にしか出来ないもので、多くの人々を熱狂させようと、自らの道を切り開いていくような噺家だと私は思った。

万人受けするかは分からないけれど、おそらく、生まれつき病弱で、なかなか学校に行けなくて、病院に入院している人達と仲の良い人であったり、クラスの生徒達の輪に入れず、自分の存在意義を見失っている人には、絶対にオススメの噺家さんである。恐らく、全ての噺家の中で、わさびさんだけが救うことの出来る人達というか、わさびさんだけが笑わせることの出来る人が存在するのではないか。そんなことを思ってしまうほどに、わさびさんの魅力が溢れ出した一席だったのである。

それまで、私はわさびさんは春風亭百栄師匠作『露出さん』くらいしか聞いて来なかったけれど、改めて聞いてみて、こんなに凄い人だったとはと衝撃を受けた。

なんていうか、色んな人の話を聞く感じでは、『可愛がられる後輩』という感じがわさびさんにはあるように思えるのだ。春風亭一之輔師匠だったり、柳家喬太郎師匠だったり、柳家わさびさんが憧れる先輩達は、同時に柳家わさびさんを愛しているのではないか。そんな雰囲気が何となく感じられて、凄く、良いのである。

『ダメな人間』という演目も、敢えて内容は語らないけれど、絶望を笑いで何とか希望へと逆転させていく、光のような人情がそこにあるように思えた。最後の瞬間にハッとするような一言があって、それだけでも柳家わさびさんの創作能力の高さ、視点、着眼点の素晴らしさが分かる。

くそう、もっとシブラクで聴いておけばよかった。と、今更後悔しても遅いのだが、今後は、柳家わさびさんにしか出来ない新作が続々と生まれてくるような気がする。そして、それは多くの人に笑いをもたらし、多くの人を救うのではないかと思う。

 

笑いって、救いだね。

 

そんなことを感じた、素晴らしい一席だった。

 

柳家喬の字(9月下席より 柳家小志ん) のっぺらぼう

深夜寄席のトリを飾るのは、柳家さん喬師匠門下の8番弟子、喬の字さん。高座姿から性格が見えないミステリアスな噺家さんだと私は思っている。普段の私生活とかどんな感じなのだろうか。何とも言い表せない不思議な噺家さんである。

柳家小太郎さんであったり、柳家やなぎさんだったり、高座から何となく人柄が想像できる噺家さんもいるのだが、喬の字さんに限っては不思議と、どんな人柄なのか言い表す言葉が見つからない。何とも、言えないのである。むしろ、それが喬の字さんの魅力なのかも知れない。

トリの演目選びは完璧だと思った。この演目は『のっぺらぼうの繰り返し』というような内容で、正に真打としての在り方を問うような一席だと私は思った。

なんというか、『おしまいのない旅路』を、この『のっぺらぼう』という演目から感じ、喬の字さんの隠れたメッセージがあるように思ったのだ。噺の中に何度も登場する『のっぺらぼう』。そして、どこまで行っても続くのっぺらぼうの無限ループ。これは、噺家が高座に上がり続けることを暗示しているのではないか。

いつもまっさらな、のっぺらぼうの顔のような気持ちで、高座に上がる。のっぺらぼうからは、どんな表情かも、どんな人間かも感じることが出来ない。目と鼻と口などがあって、初めて「なんとなく、この人はこんな感じの人かな」ということが推測できる。イケメンだったら性格が良いだろうとか言える。いかにも悪そうな顔の人だな、とか、無意識のうちに、何の根拠も無く決めつけてしまうことができる。だが、『のっぺらぼう』だけは、そんな風に言葉で言い表すことができない。

これも私の想像だが、恐らく、喬の字さんは、そんな『のっぺらぼう』に自分を投影していたのではないか。冒頭に記したように、喬の字さんから感じられない人柄であったり、何となくの雰囲気、それがのっぺらぼうに近いのではないかと思ったのだ。

前座の醸し出す雰囲気とは違うのである。前座の場合はまだ入り立てで、噺が肚に入っていないまっさらさがあるけれど、真打になる喬の字さんの醸し出す雰囲気は、何と言えば良いのか、私も上手く言葉が見つからないのである。

もっと、高座を見たり、普段の姿を見れば分かるのだろうか。真打になって何年かしたら、何かが分かるのだろうか。ミステリアスに包まれながらも、素敵な決意の一席だと私は思った。

 

 総括 おしまいの無い人生

死ぬまではおしまいの無い人生の門出に立った四人の噺家を見て、私は改めて様々なことを思った。前座時代を過ごし、二つ目時代を過ごし、そして真打になった人に最後に待っているのはご臨終である。その間に様々な賞を取るかも知れないが、待っているのは死である。

死を考えるとき、ぼくは自分が幸福に死にたいと思っている。出来るだけ安らかに、家族に見守られながら、「良い人生だった。何も分からなかったけど」と、そんなことを言って死ねたら、良いなと思う。

そうだ。人は何も分からないのだと思う。分かった気になって死ぬことは出来るけれど、潔く、考えて考えて、生きて生きて生きてきたけど、結局、何も分かんなかったなー、でも、良い人生だったことは確かだな。と、言えたらいいな、と思う。

耄碌して、自分は全知全能の神だとか、ボケて、俺は落語家だ。とか言わないようにしたい。近所を徘徊して誰かに迷惑をかけることなく死にたい。

何も分からないからこそ、自分が好きなことを突き詰めていきたいのだ。もちろん、生きていくために金銭を稼いでいきつつ、自分の好きなことに没頭する。それが、何よりも、良い生き方なのではないか。

毎日笑って過ごせたら、それだけで幸福である。金が無くたって、何も望まなければいいのだし、何も望まなくても、幸福でいるためには、笑いの多い場所にいるのが、一番ではないか。

そう、笑いの多い場所にいればいいのである。どんなに苦しい状況であっても、笑いの多い場所にいたら、それだけで幸福だろうと思う。

誰がどんな生き方をしようと、人生を決めることが出来るのは自分自身である。「お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!」なんて言葉を吐く人は、自分で自分の人生をめちゃくちゃにしていることに気づいていないのではないか。最終的には全て、自分の心と行動が、全てを決めるのだと私は思う。

今宵、深夜寄席の卒業公演を行った四人にも、これから様々な困難であったり、苦しいことがあるかも知れない。それは主に金銭的なものであるかも知れない。でも、それさえクリア出来たら、否、そんなものをクリアしなくても、落語を含む多くの演芸の世界は、それが続く限り、幸福なのではないかと思う。

どんなどん底からも、這い上がれるだけの力は全て、落語にある。講談にある。浪曲にある。

そう、全ては

 

 演芸にあるのだ。

 

そんな力を感じた深夜寄席だった。

そして、私自身も、落語の魅力、講談の魅力、浪曲の魅力。演芸の魅力を発信し続けて行きたい。私だけの言葉で、私だけの表現で、日本演芸の素晴らしさが伝わるように。

あなたが素敵な演芸と出会えますように。

そして、少しでも、

あなたの人生が豊かになることを祈って。

それでは、また。

神様も笑う~2019年8月24日 第二十七回 亀戸寄席 桃月庵白酒 独演会~ 

浮かれの屑より

浮足立つのに慣れている。足裏に地球と反発する磁石でもあるかのように。たとえ、暑い日の昼下がりであっても、「今日は涼しいね」と言ってしまうくらいに、何もかもが、浮いて、立っている。全身浮遊である。足はちゃんとある。体もちゃんとある。だが、どこか『浮いている』と感じるのである。水に浮かぶ豆腐のように。空気よりも比重が軽い、アンモニアである。アンモニアと同じ比重である。水があったらすぐ溶けている。無色だけど、刺激臭がある。ちょっと臭いくらいである。でも、臭いのは男として恥ずべきなので、ちゃんとデオドラントスプレーはする。男はデオドラントである。ディズニーランドより、デオドラントである。で、踊らんと、である。(何が)

さて、暑さも徐々に薄れ始め、吉本の話題も薄れ始め、私の髪の毛も薄れ始め(?)た夏の午後。八月ももう終わりに近づいているのかと思うと驚いてしまう。まだTUBEを聴いていないし、スイカも食べていない。毎日Youtubeは見るし、改札口でSuicaはタッチしているが、私の夏は帰省と寄席で終わる夏であったのか。否、嬉しいことは幾つかあった。それが、私を『浮かれの屑』にさせているのだと思う。

人は幸福過ぎると、どうやら脳が麻痺するらしい。『森野照葉と脳内マヒナスターズ』である。決してヒマナヒトーズではない。心の名曲は『泣かないで』である。明日の晩も会えるという気持ちである。さっきから私は一体何を書いているというのか、まるで霧の中でラッパを吹いている気持ちである。誰に向けた音色であるのか、さっぱり見当が付かない。

ま、簡単に言えば、色々と嬉しいことがあって、麻痺したまま、私はぼんやり、亀戸寄席に来ていた。『亀戸香取神社 参集殿』。そこで開かれる『桃月庵白酒 独演会』へとやってきたのである。大勢のお客様と、高い高座。どんな演目が聴けるやら。楽しみと幸福に包まれながら着座した。

近くでは『納涼踊り大会』が開かれており、落語どころではないのではないか、と懸念したが、どうやら開始は19時であるらしく、それまでには会も終わるとのこと。

踊りと落語に包まれて、きっと神様も笑っているに違いない。

 

 桃月庵白酒 風呂敷

風呂敷という話は、簡単に言えば『旦那の勘違いを恐れた女房が助かる』噺である。どんな風に助けられるのかは、見た人のお楽しみということにしておこう。

配られた冊子を見ると、白酒師匠の語りは広瀬和生氏いわく、志ん朝師匠に似ているのだそうである。私には分からないが、どうやらそうであるらしい。切り返しの早い白酒師匠の語りのリズムは、プールで鮮やかなターンを決めるイアン・ソープに似ている。25mといわず、ほんの僅か5mほどを素早く何度も切り返しているかのような、ボケとツッコミの応酬が心地いい。同時に、声のトーンも絶妙である。クロールの腕の動きに無駄の無い感じである。また、一体どこで息継ぎをしているのかと驚いてしまうほどに、素早い呼吸の間。全身から放たれる雰囲気には、どこか擦れているような感じを受けながらも、芯の通った骨太な語り口。正に白酒、マッコリである。美しき白を纏いながらも、一口飲めば甘さが広がるマッコリに対して、むしろ白酒師匠は甘そうに見えて内実、美しく真っ白な力を備えた噺家であるように思える。

相談をしてきた女を助ける政五郎の姿が面白い。何か厄介ごとがあると、助けてくれる人というのは、大体が美化されて格好良く思われがちだが、落語に登場する人物はどこか愛嬌があって、かっこいいというよりもむしろ、巻き込まれて仕方なくやっている感じの、その気負いの無さが心地いい。村上春樹で言う『やれやれ・・・』な感じと言えば良いだろうか。オリンピックに出場したフィリピンの『スプラッシュブラザーズ』のように、初心者であってもオリンピックに出るという気概に近いものを感じるのである。(そこまで大きく無いかも)

会場も温かく、爆笑の一席だった。

 

桃月庵白酒 馬の田楽

田舎者の語りが絶品の一席で、内容は『消えた馬を探して右往左往する』噺である。どうでもいい噺であるのに、聞き入ってしまうのは、馬を探す男の求めている言葉と、男に尋ねられた人々の答えが絶妙にズレている面白さを感じるからであろうか。

結局、馬を引き連れた男も勘違いをしており、まともに男の質問に返事をしているのは、馬の乗せた荷物である味噌を届けられた男(実は別の男に届ける味噌を届けられた男である)と、子供くらいのもので、後は全員、馬を引き連れた男の質問に正しく答えられていないのである。

これも村上春樹に例えれば、『誰かを探している感覚』と呼べばよいだろうか。ついさっきまであった物が、突然、消えてしまう。それは自分の不注意であったり、抗えないものであったり、日ごろの自分の行いであったりするのだが、先ほどまで当たり前であったことが、当たり前でなくなった事態に直面した人間が、再び当たり前である状態に戻そうとするときに起こす行動が、ここにはあると思う。そこが、村上春樹の作品に見られる特徴に似ているように思えるのだ。と、詳しく書くと、落語家を目指す落語研究会の方々に質問攻めにされそうだが、とにかく、私はそんな風なことを『馬の田楽』という演目から感じるのである。

今まで演じられてきた『馬の田楽』というものの基本的な形を私は詳しく知らないが、登場してこない人物に対して語る場面は面白いし、最終的に馬が見つかるのかどうかも分からないまま噺が終わる点も面白い。途中、太鼓の試し叩きもあったのか、会場の外から太鼓の音が鳴って、噺の中に取り入れられた瞬間も面白かった。こういう不測の事態を噺に即座に入れ込む噺家さんは素敵だなと思う。

さて、馬を失った男はどうなるのだろうか。果たして馬に会えるのだろうか。そんなことは誰にも分からないのだが、ただただ面白い一席で仲入り。頂いたお茶を飲みながら休憩。

 

桃月庵白酒 鰻の幇間

どこまでも情けないがまっつぐな太鼓持ち、通称『幇間』が登場する演目である。随所に小ネタが仕掛けられ、ポコポコと笑いの爆発が起こって会場は物凄い爆笑に包まれた。この話は何度か簡単に要略しているが、『哀れな幇間の一日の記録』というような噺で、前半の浮足立った幇間の姿から、後半の不満爆発の姿への見事な心変わりが面白い。最終的に散々な目に合うのだが、懲りずに幇間を続けるであろう逞しさを感じる一席である。随所にちりばめられた面白い小ネタを語りたい気持ちもあるが、そこは是非、演目に出会って聞いて欲しい部分である。

また、白酒師匠の幇間には、幇間だけれども気合の入っていない感じが面白い。仕方なく幇間をやっている感じと言えば良いのだろうか。もっと、なんというか、棚からぼたもちを常に狙っている感じと言えば良いだろうか。まさにコバンザメのごとく、人の情けで世を渡っている感じが面白いのである。幸運にもおこぼれにあずかって、何とか食うに困らずに生きてきた幇間が、手酷い目にあって不満を爆発させる。それでも、どこか本気というよりも、その状況を楽しんでいるような雰囲気が幇間から感じられるのである。

明石家さんまさんは『人生うわっつら』ということを言っているが、鰻の幇間に出てくる幇間も、うわっつらな感じなのである。そういう職(?)、立場に収まっているからそうしているだけというような、軽さ。その風のように軽く浮いた風体が、絶妙な面白さを醸し出していた。

爆笑の渦に巻き込まれて、幸福な気持ちで終演。

 

 総括 神様も笑う

スピリチュアルな話をするわけではないが、読者は人に何かをプレゼントしたり、何か行動をしてあげたときに、相手が感情を爆発させて喜んでくれたら、こちらまで嬉しくなって、もっとプレゼントしてあげようとか、もっと何かこの人のために行動しようという気持ちにならないだろうか。反面、何の感情も無く、むしろプレゼントや行動に対して、嫌がるような態度を示したら、「もうこの人には、何かするのはやめよう・・・」という気持ちにならないだろうか。そういうことが、人間だけではなく、神様にもあるとしたら、どうだろう。

常にムスッと仏頂面で、他人に対して感謝の無い人と、いつもニコニコの笑顔で、他人に対して感謝している人だったら、どちらの方に恵みを与えたいと思うだろうか。私はもちろん後者である。笑顔である人には、色々な幸福が集まってくると思うのだ。

そして今宵は、そんな笑顔に包まれて、そして踊りに包まれて、神社に集まった誰もが楽しく笑顔である。そんな空間で落語会が開かれたのだった。

きっと、神様も腹を抱えて笑っているに違いない。

そんなことを思いながら、私は亀戸の藤井屋で餃子とザーサイとマッコリを食した。このままベロベロに酔おうかと思ったのだが、バイタリティが溢れており、私は次の会場に向かうことに決めたのだった。

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断ち切れぬ思いの縁、遠、煙~2019年8月18日 鈴本演芸場 夏夜噺 夜席~

 

お手紙書いても、いい?

 

これは想像のストーリー

嘘だと思うかも知れないが、『初恋の嵐』という名前のバンドがいたことを、読者はご存知であろうか。三人組のロックバンドで、ギター・ボーカルの西山達郎さん、ベースの隅倉弘至さん、ドラムの鈴木正敏さんで構成されていた。

ちょっと前に、スピッツが『初恋の嵐』というバンドの、これも嘘みたいな曲名なのだが、『初恋に捧ぐ』という曲をカバーしている。メロディアスな曲で、ラジオでも何度かかかったことがある。以前、『SHIBA-HAMAラジオ』でも立川吉笑さんが原曲を紹介していることもあり、リスナーの方ならばご存知であろうと思う。

そんな信じられないバンド名の『初恋の嵐』だが、残念なことにギター・ボーカルを務めた西山さんは急性心不全により25歳の若さでこの世を去っている。天性の声と音楽的才能は、たった2枚のアルバムで幕を降ろすこととなる。

そんな『初恋の嵐』の中で、屈指の名曲とも呼ぶべき曲がある。今や政治の世界で活躍(?)している山本太郎さんが出演するPV、『真夏の夜の事』。これがとんでもない名曲なのである。

夏になれば思い出す曲の一つに、私はこの一曲を挙げたい。奇しくも、この日の夜の最後に聴いた、柳家さん喬師匠の『たちきり』に登場する若旦那の思いに、この歌詞は繋がっているように思えるのだ。蔵の中で、若旦那は、『真夏の夜の事』の歌詞のようなことを思い浮かべていたのではないか。

ずっと前から、私はこの日を楽しみにしていた。正直、『たちきり』さえ聞ければ後はどうでも良いとすら思っていたのだが、嬉しい誤算があった。

寄席の世界に花開いた、品の世界について語ることにしよう。

 

 露の新治 口入屋

袖から現れるなり、舞台上で真正面を向き、にっこり笑ってお辞儀をしてから、衝立の後ろに敷かれた座布団に座した新治師匠。各方面で絶賛されていることはTwitterを見て知っていたが、お初の上方の噺家さんである。

正に金糸雀色とも呼ぶべき覇気が高座から放たれているように思える。近い覇気は松浦四郎若師匠である。思わず日本酒が飲みたくなるほどの気品と渋み。乙な色男の雰囲気に、どれだけの美女が魅了されてきたのであろうか。

艶やかな声と、さらりとして軽やかな語り。そしてニカッと笑った表情の色気。

 

 惚れてまうやろっーーー!!!!

 

と、思わず叫びたくなってしまうほど、何とも言えない品が伝わってくる。そんな絶品の色男である新治師匠のネタは『口入屋』。

この話は、簡単に言えば、『絶世の美女に興奮する男達の物語』である。女と聞けば口説いたり、ワンナイト・ロマンスを望んでしまうのは、男なら仕方の無いことだ、という得体の知れない説得力。男と生まれたからには女に惚れなきゃ男じゃない、とばかりに奮起する男の姿が面白い。

一番番頭から二番番頭、手代に至るまで、絶世の美女と聞いてワンチャンを狙った男達が陥る哀れな状況。その滑稽さに男として同情する。

そういえば、私にもこんな話がある。

私がまだわんぱくな小学生だったころ、下級生の男子を騙して女子更衣室の扉を開けさせた思い出が蘇ってくる。

あの時は本当に悪いことをしたと思っている。

「掃除道具が、あの部屋にあるから、取って来てくれ」と私は下級生に言ったのだ。私の言葉を信じた下級生の男子のつぶらな瞳が未だに脳裏に焼き付いている。下級生は私に騙されるがまま、掃除道具など無い、まだ女子が着替えている女子更衣室の扉を開けたのだった。そして女子の絶叫。下級生男子の硬化。それを見ていた私の高笑い。あの頃、私は悪魔だったと思う。

泣きながら下級生の男子が「もりのさんが~、掃除道具があるって~、言ったから~」と泣いているのを見て、罪悪感を抱くことなく、「良いもん見れたから、チャラだろ」と思っていた私を許してほしい。後年、占い師に「あなたは優しい」と言われた私を許してほしい。

そんな、思春期の男子の性の悪戯(?)に近い、男の性欲が爆発した『口入屋』という演目。一度でも美女に惚れたことのある男なら、共感できるのではないかと思う。何やら最近では、アイドルを神格化し、付き合うとか性的な意味でアイドルに接している人はいないと豪語する者までいるというが、果たしてそうだろうか。性欲のある男性が、絶世の美女にすり寄られて、正気でいられるというのだろうか。少なくとも、私は正気ではいられぬ。ロロノア・ゾロの言葉を借りるとすれば、『絶対に人を噛まねぇと保証できる猛獣に、会ったことあるか?』である。噛む。私だったら絶対噛む。歯が無くて歯茎だけだったとしても、あむあむする。(錯乱)

私が書くと若干品を欠くが、これが新治師匠の手にかかると、大人の色気に様変わり。いやらしさはなく、むしろ「あらまぁ~、やんちゃさんね~」というような、お姉さんからの優しい愛撫を頂けるほどの、色気噺に変わるのである(何を言っているのやら)

そんな(どんな?)露の新治師匠。お初だったけど魅力全開!また見たい、追いたい落語家が一人増えた瞬間だった。

 

 柳家権太楼 猫の災難

爆笑派の権太楼師匠。枕ではネタの内容をざっくりと話しながら会場を爆笑の渦に巻き込む。何と言うか、『ゴンぶと』な感じである。『ゴン太(ぶと)』な高座が権太楼師匠の語りにはある。一言一言が鉛の如く腹を抉り、どわっはっは!と笑ってしまうような痛快な面白さがある。

また、私の想像の中では、権太楼師匠の演じる女将さんは殆ど、器量が良くない。美人で色気のある女性というよりも、アフリカとかベトナムで泥だらけの川で洗濯をしながら、50人くらいの子を持つビック・ファミリーのビッグ・ママみたいな逞しい女性の姿を、権太楼師匠の高座から感じるのである。と言っても、それほど多くの高座を見ているわけではないから、色っぽい女性も登場するのかも知れないが、今のところ、私は色っぽい女性を権太楼師匠で見たことがない。これは決して批判ではなく、むしろ、その逞しさが権太楼師匠の、『ゴンぶと』な感じに沿っていて良いと思うのだ。

さて、『猫の災難』という噺は、簡単に言えば『言い訳の多い男が、全てを猫のせいにする』という内容である。

飲みたくて堪らない男が、たまたま隣人から鯛の頭と尻尾を貰ったところから、悲劇は始まって行く。自らの私利私欲のために猫を言い訳にし、酒を飲む男の滑稽な姿が笑いを誘う。人の善意を無下にしながら、ひたすらに自分のために酒を飲み、言い訳をする男の姿が、だらしなくてなんだか憎めない。権太楼師匠の底抜けの呆気っぷりと、とことんまで自分に甘い男の演じ方が、とてつもない面白さを生み出している。

最後のオチも、なんだかだらしがなくって仕方がない。自分の欲を優先した自堕落な男が、とことんまで堕ちきって最後に見せる詫びの心。坂口安吾だったら、この酒飲みの男を叱責するであろうか。否、私はむしろ「よくぞ堕ちきった!偉い!偉い!偉い!」なんてことを、言うのではないかと思う。

痛快で自堕落な男の爆笑の一席だった。

 

柳家さん喬 たちきり

自らの生い立ちを思い出すかの如く、滔々と優しい語り口で語り始めたさん喬師匠。一声発すれば、その何とも言えない柔らかい言葉の雰囲気に包まれ、じっと耳を傾けてしまう不思議。テレビで見て号泣した『たちきり』が、いよいよ目の前で始まった。

人の縁とは不思議なもので、いつどこで、どんなきっかけで結ばれるのか、とんと分からない。皆目見当も付かない。いつしか、結ばれた縁は、運命の巡り合わせか、やがて疎遠の遠になって、二人の間は遠く離ればなれ。最後は、一つの線香の煙になって消えて行く。

そんなことを思わせる『たちきり』という演目。この話は『芸者に惚れた若旦那が、百日間の蔵住まいの後に、再び芸者の元を訪れるのだが・・・』という内容である。

冒頭では、若旦那が親族から散々に言われ、抵抗虚しく百日間の蔵住まいを受け入れる。その百日の間、若旦那が惚れた芸者から手紙が届くのだが、八十日目にぴたりと止まる。ようやく百日を終えた若旦那が、芸者と遊んでいた場所で、女将から知らされる真実。その真実を聞いた若旦那の胸に宿る思い。そして、最後の線香の煙。

全てが、胸に迫る哀しい物語。終演後、会場ではすすり泣く声が至る所から聞こえてきた。

遊びと仕事。どちらが大切かと問われれば、私はどちらも大事だが、やはり遊ぶためにはしっかり働かなければならないと思う派である。無論、宝くじに当たったり、十分な蓄えがある人ならば遊ぶだけでも良いかも知れない。だが、きちんとした職にあって、遊びに夢中になり過ぎて、職を疎かにしてしまうと、後で取り返しの付かない目に合ってしまうという一例が、『たちきり』という話にはあるように思えるのだ。

それも全て、『縁』の力が大きすぎるのではないか。本当に素敵な人に出会ってしまうと、それこそ大黒摩季の『ららら』のように、『今日も明日もあなたに逢いたい』と思ってしまうし、『今日も明日もあなたに逢えない』ということが、どれほどじれったいことであるかが身に染みて分かる。好きになるのは簡単だが、輝き持続するのは・・・ららら、なのである。

心の中に、断ち切れぬ思いを抱える一つのきっかけが、『縁』なのである。本当にこればかりは、どうしようも無いと私は思う。私自身ですら、どうしようもない『縁』に苛まれているのだから、若旦那だって苛まれたに違いないのである。そして、ずっと近くにある筈だと思っていたお互いの『縁』が、『遠』になってしまった悲しみたるや、想像を絶する筈である。麻薬をやったことは無いが、ほぼそれを断絶されたくらいの哀しみに近いのではないかと思う。止めよう止めようと思っても、体が無意識の内に、理性を跳ねのけて本能で求めてしまうのが、『縁』なのである。

そして、『遠』になった『縁』は、最期、線香の『煙』となって空気に溶けていくのである。この哀しみをどう表現したら良いと言うのか。

『たちきり』という演目の終盤に響く三味線の音。うっすらとどこかに浮かび上がる芸者の姿。つま弾かれる音色は『本調子』か否か。

様々な思いが、三つの糸に乗せて、言葉とともに紡がれる。『縁』と糸と、三味線と音と。全てが言いようの無い儚さの中に、煙となって姿を消していく。

さん喬師匠の静かな語りで、オチが語られ、終演。頬を伝う一滴を拭いながら、私は拍手を送るのだった。

 

 総括 縁は強く

テレビで見るのと生の高座を見るのとでは、また何百倍も印象が違って聞こえた。一瞬一瞬が最高の瞬間なのであると改めて思った。今日ある芸こそが頂点なのだと、私は改めて思った。思えば、テレビで見たのは恐らく四~五年前である。色々と、前々から準備していたことが花開きつつある今。これもまた一つ運命なのではないかとさえ思える。

あらゆることが、もしも花開こうとしているのならば、今まさに私は、その渦中にいると言える。これまでのあらゆる事柄が、一つのことに結ばれていくのではないかという、淡い予感はある。

それでも、奢ってはならない。

自分の今ある位置をしっかりと確かめて、前に進まなければならない。

『たちきり』の若旦那のように、遊び過ぎて百日間の蔵住まいにならぬように、心の手綱をぎゅっと引き締めて前に進んでいこう。

そんな思いを抱きながら、私は御徒町の夜へと消えていくのだった。

猛暑跳ねのけ飛ぶ燕~2019年8月17日 黒門亭 一部~

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こんな暑い日は外に出ちゃダメ!

 

 こんがりフォックス

『暑』という漢字には、日(太陽)が物を煮るほどであるという様が表されている。確かに、外に一歩出てみればアスファルトで牛肉が焼けるほどの暑さである。そこかしこでBBQ大会である。裸足で歩き回ると足裏に網目状に焼き跡が残るやも知れない。ビールなんぞ飲めばすぐに酔って倒れるであろう。

そんな暑さから逃れられる筈もなく、仕方なしに肌だけは焼けぬようにと日焼け止めクリームを顔に塗るのだが、これが目に染みる。昔の人は一体どうやって暑さをしのいでいたというのか。日焼け止めクリームの代わりに樹液でも塗っていたんだろうか(昔の人を舐めすぎ)これほどの暑さには行水ですら意味を成さないのではないか、と思えるほどに暑いのである。暑さ寒さも彼岸までというので、早く彼岸が来てくれぬものかと願いながら、じりじりと地面から跳ね返ってくる熱に耐えながら、黒門亭へと私は歩いた。

街ゆく人は皆半袖半ズボンである。日から隠れた場所は白くなり、日を浴びた腕やら脚やらは焼けるのであろうと思うと可哀想でならない。自然光による人体のトーストが完成するのである。このトースト状態で銭湯に行った時の悲惨さたるや目も当てられぬ。太腿の付け根から尻にかけて、生まれたての子豚のようにぷりっとした白い肌であるのに、それ以外の部分がこんがり狐色となってワイルドに見える。このキューティーな白豚の腰回りと、それ以外の部位全てワイルド・フォックスという対比が、何とも言えない違和感となって、銭湯にいる者の哀しみを誘うのである。どうせなら、全身こんがりフォックスになって欲しいと切に望むのだが、そういうアンバランスさは銭湯でしか見ることが出来ないので、気にすることでは無いのかも知れない。

かくいう私は、絶対に白豚で無ければならぬ派である。銭湯で哀しみの眼差しを浴びないために、日を浴びる部分にはくまなく日焼け止めクリームを塗っている。絶対焼かない肌である。気持ちのSPFは100+である。BBQで焼けない肉なぞ持ってきたら顰蹙を買うかも知れないが、こと日焼けに関しては、焼いては肌に著しい損傷をきたすので、絶対に焼けないのである。ハンプティ・ダンプティよろしく、剥き立ての卵の如き白艶肌で無ければ、嫌なのである。文菊師匠が松崎しげる並みの黒さであったら、読者は耐えられないではないか。落語を見る気を失いかねないのではないか。それと同じで、私も自分がこんがりフォックスであることに耐えられないのである。日焼け止めと保湿。この二つを徹底していたいのである(乙女かっ)

まさに上野・御徒町は人間のBBQ状態である。水を飲まなければ大変である。ルフィも水があったからクロコダイルに勝てたわけで、熱中症には塩と水である。飲みすぎは腎臓に負担がかかるので適量が良い。と、今更注意したところで遅いかも知れない。

さて、そんなわけで絶対焼かない私は黒門亭へと入って行った。

全員を語ると長くなりそうなので、抜粋で、以下気になった演者を。

 

古今亭菊寿 強情灸

枕では銭湯の話。古今亭志ん生師匠や志ん駒師匠の話題。もう無くなってしまった『世界湯』という志ん生師匠行きつけの銭湯があった噺。

猛烈に心の中で、

 

 行きたかったぁ~~~♨♨♨!!!

 

と、心のケロリンをカポーンさせながら、菊寿師匠が嬉しそうに銭湯の思い出を語る様子を見ていた。菊寿師匠の語りの優しさの奥には、志ん生師匠や志ん駒師匠、そして円菊師匠が生きている。特に、強情な江戸っ子がお湯に入る場面の表情が最高である。最初に見た頃は、やたらと色んな顔のパーツが揺れる人だな、と思っていたけれど、それがむしろ良いのである。語りのさらりとした滑らかさ、そして温かい登場人物の眼差し、表情。粋でいなせな江戸っ子の、強情っぱりな姿がありありと思い浮かべられて、私は菊寿師匠と一緒に銭湯に行きたいと思った。

そこで、色んな師匠方の話を聞くのだ。志ん生師匠や、志ん駒師匠、円菊師匠などなど、銭湯を愛した噺家の生き様。私は立川談志師匠も行ったという練馬の『たつの湯』に行ったことがある。特に何かを感じたわけではない。特別な感慨が襲ってきたわけでもない。行くまでは、どんな銭湯だろうとワクワクしていたが、行ってみると案外、普通の銭湯である。だが、それは私がまだ、何かを感じられるほどの器ではないからだろうか。銭湯には、その時々の風情と時節がある。ただ一つ、常連客であろう年配の方々が、番台の湯屋番さんと楽しそうに会話する光景だけは、なぜか強く印象に残っている。私も、老いたら近場の銭湯に行って、こうやって常連客と裸で語り合う日が来るだろうか。そろそろ白髪が生えて来たんじゃねぇか?なんて、馬鹿な話をしながら、お湯に浸かって、身も心も温める日が来るのだろうか。

だとしたら、そんな日が楽しみだ。

銭湯を楽しむジジイになろう。そんなことを思い出した一席。絶品の強情灸。

 

 柳亭小燕枝 居残り佐平次

お待ちかねの小燕枝師匠。会場では一言二言で爆笑を起こす。会場にいる全員が小燕枝師匠を待っていたんだなと分かって嬉しくなる。

粋な言葉と、静かで精緻で温かい語り。なんとも言えない懐の深さと言おうか、その奥深い語り口のコクとでも呼ぼうか、それが心地良いのである。

落ち着きがあって、変に誇張せず、地の語りで立ち上がってくる佐平次の姿。その佐平次に巻き込まれながらも、魅了されていく連中、騙されていく連中の姿の痛快さ。

オチまで随分と酷い佐平次なのだけれど、不思議と憎めない。ヘンな落語である。やっていることは殆ど詐欺に違いにも関わらず、それでいて不思議な魅力を秘めている。特に、小燕枝師匠はそんな佐平次の姿を、言葉少なに、佐平次よりもむしろ周囲の人間の僅かな言葉、表情で浮かび上がらせていて、それが何よりも驚きだった。

居残り佐平次と言えば『幕末太陽伝』という映画で重要なストーリーの基盤となっており、『幕末太陽伝』という映画を見た後で、居残り佐平次を聞くと物凄く楽しめると思う。それほど巡り合う機会の多い噺では無いが、オチまでの持っていき方、何よりも佐平次という人物の魅力をどう表現するかという部分が難しい噺であると思う。特に後半のオチの場面では、演者によって好みが分かれるところだと思うのだが、小燕枝師匠のオチは、今まで聞いた居残り佐平次とは違って落ち着きのある、静かな終わり方だった。まさに、小枝に止まった燕が飛び立つが如く、静かで軽やかな飛翔。そんな鮮やかで美しい一席で、終演。

 

 総括 暑さをかいくぐって

黒門亭を出ると、物凄い暑さであった。時刻は14時を過ぎている。一番暑い盛りである。これから、深夜寄席に行くまで時間を潰そうかとも思ったのだが、暑さにやられ断念することにした。

静かに家でクーラーに当たりながら、読書をするのも良いだろうと思った。落語他、演芸を楽しむためには、まず自分の身体を大切にしなければならない。

そんなことを考えながら、アイスを食べ、体を冷やし、惰眠を貪る夏の日の午後であった。