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猛暑跳ねのけ飛ぶ燕~2019年8月17日 黒門亭 一部~

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こんな暑い日は外に出ちゃダメ!

 

 こんがりフォックス

『暑』という漢字には、日(太陽)が物を煮るほどであるという様が表されている。確かに、外に一歩出てみればアスファルトで牛肉が焼けるほどの暑さである。そこかしこでBBQ大会である。裸足で歩き回ると足裏に網目状に焼き跡が残るやも知れない。ビールなんぞ飲めばすぐに酔って倒れるであろう。

そんな暑さから逃れられる筈もなく、仕方なしに肌だけは焼けぬようにと日焼け止めクリームを顔に塗るのだが、これが目に染みる。昔の人は一体どうやって暑さをしのいでいたというのか。日焼け止めクリームの代わりに樹液でも塗っていたんだろうか(昔の人を舐めすぎ)これほどの暑さには行水ですら意味を成さないのではないか、と思えるほどに暑いのである。暑さ寒さも彼岸までというので、早く彼岸が来てくれぬものかと願いながら、じりじりと地面から跳ね返ってくる熱に耐えながら、黒門亭へと私は歩いた。

街ゆく人は皆半袖半ズボンである。日から隠れた場所は白くなり、日を浴びた腕やら脚やらは焼けるのであろうと思うと可哀想でならない。自然光による人体のトーストが完成するのである。このトースト状態で銭湯に行った時の悲惨さたるや目も当てられぬ。太腿の付け根から尻にかけて、生まれたての子豚のようにぷりっとした白い肌であるのに、それ以外の部分がこんがり狐色となってワイルドに見える。このキューティーな白豚の腰回りと、それ以外の部位全てワイルド・フォックスという対比が、何とも言えない違和感となって、銭湯にいる者の哀しみを誘うのである。どうせなら、全身こんがりフォックスになって欲しいと切に望むのだが、そういうアンバランスさは銭湯でしか見ることが出来ないので、気にすることでは無いのかも知れない。

かくいう私は、絶対に白豚で無ければならぬ派である。銭湯で哀しみの眼差しを浴びないために、日を浴びる部分にはくまなく日焼け止めクリームを塗っている。絶対焼かない肌である。気持ちのSPFは100+である。BBQで焼けない肉なぞ持ってきたら顰蹙を買うかも知れないが、こと日焼けに関しては、焼いては肌に著しい損傷をきたすので、絶対に焼けないのである。ハンプティ・ダンプティよろしく、剥き立ての卵の如き白艶肌で無ければ、嫌なのである。文菊師匠が松崎しげる並みの黒さであったら、読者は耐えられないではないか。落語を見る気を失いかねないのではないか。それと同じで、私も自分がこんがりフォックスであることに耐えられないのである。日焼け止めと保湿。この二つを徹底していたいのである(乙女かっ)

まさに上野・御徒町は人間のBBQ状態である。水を飲まなければ大変である。ルフィも水があったからクロコダイルに勝てたわけで、熱中症には塩と水である。飲みすぎは腎臓に負担がかかるので適量が良い。と、今更注意したところで遅いかも知れない。

さて、そんなわけで絶対焼かない私は黒門亭へと入って行った。

全員を語ると長くなりそうなので、抜粋で、以下気になった演者を。

 

古今亭菊寿 強情灸

枕では銭湯の話。古今亭志ん生師匠や志ん駒師匠の話題。もう無くなってしまった『世界湯』という志ん生師匠行きつけの銭湯があった噺。

猛烈に心の中で、

 

 行きたかったぁ~~~♨♨♨!!!

 

と、心のケロリンをカポーンさせながら、菊寿師匠が嬉しそうに銭湯の思い出を語る様子を見ていた。菊寿師匠の語りの優しさの奥には、志ん生師匠や志ん駒師匠、そして円菊師匠が生きている。特に、強情な江戸っ子がお湯に入る場面の表情が最高である。最初に見た頃は、やたらと色んな顔のパーツが揺れる人だな、と思っていたけれど、それがむしろ良いのである。語りのさらりとした滑らかさ、そして温かい登場人物の眼差し、表情。粋でいなせな江戸っ子の、強情っぱりな姿がありありと思い浮かべられて、私は菊寿師匠と一緒に銭湯に行きたいと思った。

そこで、色んな師匠方の話を聞くのだ。志ん生師匠や、志ん駒師匠、円菊師匠などなど、銭湯を愛した噺家の生き様。私は立川談志師匠も行ったという練馬の『たつの湯』に行ったことがある。特に何かを感じたわけではない。特別な感慨が襲ってきたわけでもない。行くまでは、どんな銭湯だろうとワクワクしていたが、行ってみると案外、普通の銭湯である。だが、それは私がまだ、何かを感じられるほどの器ではないからだろうか。銭湯には、その時々の風情と時節がある。ただ一つ、常連客であろう年配の方々が、番台の湯屋番さんと楽しそうに会話する光景だけは、なぜか強く印象に残っている。私も、老いたら近場の銭湯に行って、こうやって常連客と裸で語り合う日が来るだろうか。そろそろ白髪が生えて来たんじゃねぇか?なんて、馬鹿な話をしながら、お湯に浸かって、身も心も温める日が来るのだろうか。

だとしたら、そんな日が楽しみだ。

銭湯を楽しむジジイになろう。そんなことを思い出した一席。絶品の強情灸。

 

 柳亭小燕枝 居残り佐平次

お待ちかねの小燕枝師匠。会場では一言二言で爆笑を起こす。会場にいる全員が小燕枝師匠を待っていたんだなと分かって嬉しくなる。

粋な言葉と、静かで精緻で温かい語り。なんとも言えない懐の深さと言おうか、その奥深い語り口のコクとでも呼ぼうか、それが心地良いのである。

落ち着きがあって、変に誇張せず、地の語りで立ち上がってくる佐平次の姿。その佐平次に巻き込まれながらも、魅了されていく連中、騙されていく連中の姿の痛快さ。

オチまで随分と酷い佐平次なのだけれど、不思議と憎めない。ヘンな落語である。やっていることは殆ど詐欺に違いにも関わらず、それでいて不思議な魅力を秘めている。特に、小燕枝師匠はそんな佐平次の姿を、言葉少なに、佐平次よりもむしろ周囲の人間の僅かな言葉、表情で浮かび上がらせていて、それが何よりも驚きだった。

居残り佐平次と言えば『幕末太陽伝』という映画で重要なストーリーの基盤となっており、『幕末太陽伝』という映画を見た後で、居残り佐平次を聞くと物凄く楽しめると思う。それほど巡り合う機会の多い噺では無いが、オチまでの持っていき方、何よりも佐平次という人物の魅力をどう表現するかという部分が難しい噺であると思う。特に後半のオチの場面では、演者によって好みが分かれるところだと思うのだが、小燕枝師匠のオチは、今まで聞いた居残り佐平次とは違って落ち着きのある、静かな終わり方だった。まさに、小枝に止まった燕が飛び立つが如く、静かで軽やかな飛翔。そんな鮮やかで美しい一席で、終演。

 

 総括 暑さをかいくぐって

黒門亭を出ると、物凄い暑さであった。時刻は14時を過ぎている。一番暑い盛りである。これから、深夜寄席に行くまで時間を潰そうかとも思ったのだが、暑さにやられ断念することにした。

静かに家でクーラーに当たりながら、読書をするのも良いだろうと思った。落語他、演芸を楽しむためには、まず自分の身体を大切にしなければならない。

そんなことを考えながら、アイスを食べ、体を冷やし、惰眠を貪る夏の日の午後であった。