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神様も笑う~2019年8月24日 第二十七回 亀戸寄席 桃月庵白酒 独演会~ 

浮かれの屑より

浮足立つのに慣れている。足裏に地球と反発する磁石でもあるかのように。たとえ、暑い日の昼下がりであっても、「今日は涼しいね」と言ってしまうくらいに、何もかもが、浮いて、立っている。全身浮遊である。足はちゃんとある。体もちゃんとある。だが、どこか『浮いている』と感じるのである。水に浮かぶ豆腐のように。空気よりも比重が軽い、アンモニアである。アンモニアと同じ比重である。水があったらすぐ溶けている。無色だけど、刺激臭がある。ちょっと臭いくらいである。でも、臭いのは男として恥ずべきなので、ちゃんとデオドラントスプレーはする。男はデオドラントである。ディズニーランドより、デオドラントである。で、踊らんと、である。(何が)

さて、暑さも徐々に薄れ始め、吉本の話題も薄れ始め、私の髪の毛も薄れ始め(?)た夏の午後。八月ももう終わりに近づいているのかと思うと驚いてしまう。まだTUBEを聴いていないし、スイカも食べていない。毎日Youtubeは見るし、改札口でSuicaはタッチしているが、私の夏は帰省と寄席で終わる夏であったのか。否、嬉しいことは幾つかあった。それが、私を『浮かれの屑』にさせているのだと思う。

人は幸福過ぎると、どうやら脳が麻痺するらしい。『森野照葉と脳内マヒナスターズ』である。決してヒマナヒトーズではない。心の名曲は『泣かないで』である。明日の晩も会えるという気持ちである。さっきから私は一体何を書いているというのか、まるで霧の中でラッパを吹いている気持ちである。誰に向けた音色であるのか、さっぱり見当が付かない。

ま、簡単に言えば、色々と嬉しいことがあって、麻痺したまま、私はぼんやり、亀戸寄席に来ていた。『亀戸香取神社 参集殿』。そこで開かれる『桃月庵白酒 独演会』へとやってきたのである。大勢のお客様と、高い高座。どんな演目が聴けるやら。楽しみと幸福に包まれながら着座した。

近くでは『納涼踊り大会』が開かれており、落語どころではないのではないか、と懸念したが、どうやら開始は19時であるらしく、それまでには会も終わるとのこと。

踊りと落語に包まれて、きっと神様も笑っているに違いない。

 

 桃月庵白酒 風呂敷

風呂敷という話は、簡単に言えば『旦那の勘違いを恐れた女房が助かる』噺である。どんな風に助けられるのかは、見た人のお楽しみということにしておこう。

配られた冊子を見ると、白酒師匠の語りは広瀬和生氏いわく、志ん朝師匠に似ているのだそうである。私には分からないが、どうやらそうであるらしい。切り返しの早い白酒師匠の語りのリズムは、プールで鮮やかなターンを決めるイアン・ソープに似ている。25mといわず、ほんの僅か5mほどを素早く何度も切り返しているかのような、ボケとツッコミの応酬が心地いい。同時に、声のトーンも絶妙である。クロールの腕の動きに無駄の無い感じである。また、一体どこで息継ぎをしているのかと驚いてしまうほどに、素早い呼吸の間。全身から放たれる雰囲気には、どこか擦れているような感じを受けながらも、芯の通った骨太な語り口。正に白酒、マッコリである。美しき白を纏いながらも、一口飲めば甘さが広がるマッコリに対して、むしろ白酒師匠は甘そうに見えて内実、美しく真っ白な力を備えた噺家であるように思える。

相談をしてきた女を助ける政五郎の姿が面白い。何か厄介ごとがあると、助けてくれる人というのは、大体が美化されて格好良く思われがちだが、落語に登場する人物はどこか愛嬌があって、かっこいいというよりもむしろ、巻き込まれて仕方なくやっている感じの、その気負いの無さが心地いい。村上春樹で言う『やれやれ・・・』な感じと言えば良いだろうか。オリンピックに出場したフィリピンの『スプラッシュブラザーズ』のように、初心者であってもオリンピックに出るという気概に近いものを感じるのである。(そこまで大きく無いかも)

会場も温かく、爆笑の一席だった。

 

桃月庵白酒 馬の田楽

田舎者の語りが絶品の一席で、内容は『消えた馬を探して右往左往する』噺である。どうでもいい噺であるのに、聞き入ってしまうのは、馬を探す男の求めている言葉と、男に尋ねられた人々の答えが絶妙にズレている面白さを感じるからであろうか。

結局、馬を引き連れた男も勘違いをしており、まともに男の質問に返事をしているのは、馬の乗せた荷物である味噌を届けられた男(実は別の男に届ける味噌を届けられた男である)と、子供くらいのもので、後は全員、馬を引き連れた男の質問に正しく答えられていないのである。

これも村上春樹に例えれば、『誰かを探している感覚』と呼べばよいだろうか。ついさっきまであった物が、突然、消えてしまう。それは自分の不注意であったり、抗えないものであったり、日ごろの自分の行いであったりするのだが、先ほどまで当たり前であったことが、当たり前でなくなった事態に直面した人間が、再び当たり前である状態に戻そうとするときに起こす行動が、ここにはあると思う。そこが、村上春樹の作品に見られる特徴に似ているように思えるのだ。と、詳しく書くと、落語家を目指す落語研究会の方々に質問攻めにされそうだが、とにかく、私はそんな風なことを『馬の田楽』という演目から感じるのである。

今まで演じられてきた『馬の田楽』というものの基本的な形を私は詳しく知らないが、登場してこない人物に対して語る場面は面白いし、最終的に馬が見つかるのかどうかも分からないまま噺が終わる点も面白い。途中、太鼓の試し叩きもあったのか、会場の外から太鼓の音が鳴って、噺の中に取り入れられた瞬間も面白かった。こういう不測の事態を噺に即座に入れ込む噺家さんは素敵だなと思う。

さて、馬を失った男はどうなるのだろうか。果たして馬に会えるのだろうか。そんなことは誰にも分からないのだが、ただただ面白い一席で仲入り。頂いたお茶を飲みながら休憩。

 

桃月庵白酒 鰻の幇間

どこまでも情けないがまっつぐな太鼓持ち、通称『幇間』が登場する演目である。随所に小ネタが仕掛けられ、ポコポコと笑いの爆発が起こって会場は物凄い爆笑に包まれた。この話は何度か簡単に要略しているが、『哀れな幇間の一日の記録』というような噺で、前半の浮足立った幇間の姿から、後半の不満爆発の姿への見事な心変わりが面白い。最終的に散々な目に合うのだが、懲りずに幇間を続けるであろう逞しさを感じる一席である。随所にちりばめられた面白い小ネタを語りたい気持ちもあるが、そこは是非、演目に出会って聞いて欲しい部分である。

また、白酒師匠の幇間には、幇間だけれども気合の入っていない感じが面白い。仕方なく幇間をやっている感じと言えば良いのだろうか。もっと、なんというか、棚からぼたもちを常に狙っている感じと言えば良いだろうか。まさにコバンザメのごとく、人の情けで世を渡っている感じが面白いのである。幸運にもおこぼれにあずかって、何とか食うに困らずに生きてきた幇間が、手酷い目にあって不満を爆発させる。それでも、どこか本気というよりも、その状況を楽しんでいるような雰囲気が幇間から感じられるのである。

明石家さんまさんは『人生うわっつら』ということを言っているが、鰻の幇間に出てくる幇間も、うわっつらな感じなのである。そういう職(?)、立場に収まっているからそうしているだけというような、軽さ。その風のように軽く浮いた風体が、絶妙な面白さを醸し出していた。

爆笑の渦に巻き込まれて、幸福な気持ちで終演。

 

 総括 神様も笑う

スピリチュアルな話をするわけではないが、読者は人に何かをプレゼントしたり、何か行動をしてあげたときに、相手が感情を爆発させて喜んでくれたら、こちらまで嬉しくなって、もっとプレゼントしてあげようとか、もっと何かこの人のために行動しようという気持ちにならないだろうか。反面、何の感情も無く、むしろプレゼントや行動に対して、嫌がるような態度を示したら、「もうこの人には、何かするのはやめよう・・・」という気持ちにならないだろうか。そういうことが、人間だけではなく、神様にもあるとしたら、どうだろう。

常にムスッと仏頂面で、他人に対して感謝の無い人と、いつもニコニコの笑顔で、他人に対して感謝している人だったら、どちらの方に恵みを与えたいと思うだろうか。私はもちろん後者である。笑顔である人には、色々な幸福が集まってくると思うのだ。

そして今宵は、そんな笑顔に包まれて、そして踊りに包まれて、神社に集まった誰もが楽しく笑顔である。そんな空間で落語会が開かれたのだった。

きっと、神様も腹を抱えて笑っているに違いない。

そんなことを思いながら、私は亀戸の藤井屋で餃子とザーサイとマッコリを食した。このままベロベロに酔おうかと思ったのだが、バイタリティが溢れており、私は次の会場に向かうことに決めたのだった。

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