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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

断ち切れぬ思いの縁、遠、煙~2019年8月18日 鈴本演芸場 夏夜噺 夜席~

 

お手紙書いても、いい?

 

これは想像のストーリー

嘘だと思うかも知れないが、『初恋の嵐』という名前のバンドがいたことを、読者はご存知であろうか。三人組のロックバンドで、ギター・ボーカルの西山達郎さん、ベースの隅倉弘至さん、ドラムの鈴木正敏さんで構成されていた。

ちょっと前に、スピッツが『初恋の嵐』というバンドの、これも嘘みたいな曲名なのだが、『初恋に捧ぐ』という曲をカバーしている。メロディアスな曲で、ラジオでも何度かかかったことがある。以前、『SHIBA-HAMAラジオ』でも立川吉笑さんが原曲を紹介していることもあり、リスナーの方ならばご存知であろうと思う。

そんな信じられないバンド名の『初恋の嵐』だが、残念なことにギター・ボーカルを務めた西山さんは急性心不全により25歳の若さでこの世を去っている。天性の声と音楽的才能は、たった2枚のアルバムで幕を降ろすこととなる。

そんな『初恋の嵐』の中で、屈指の名曲とも呼ぶべき曲がある。今や政治の世界で活躍(?)している山本太郎さんが出演するPV、『真夏の夜の事』。これがとんでもない名曲なのである。

夏になれば思い出す曲の一つに、私はこの一曲を挙げたい。奇しくも、この日の夜の最後に聴いた、柳家さん喬師匠の『たちきり』に登場する若旦那の思いに、この歌詞は繋がっているように思えるのだ。蔵の中で、若旦那は、『真夏の夜の事』の歌詞のようなことを思い浮かべていたのではないか。

ずっと前から、私はこの日を楽しみにしていた。正直、『たちきり』さえ聞ければ後はどうでも良いとすら思っていたのだが、嬉しい誤算があった。

寄席の世界に花開いた、品の世界について語ることにしよう。

 

 露の新治 口入屋

袖から現れるなり、舞台上で真正面を向き、にっこり笑ってお辞儀をしてから、衝立の後ろに敷かれた座布団に座した新治師匠。各方面で絶賛されていることはTwitterを見て知っていたが、お初の上方の噺家さんである。

正に金糸雀色とも呼ぶべき覇気が高座から放たれているように思える。近い覇気は松浦四郎若師匠である。思わず日本酒が飲みたくなるほどの気品と渋み。乙な色男の雰囲気に、どれだけの美女が魅了されてきたのであろうか。

艶やかな声と、さらりとして軽やかな語り。そしてニカッと笑った表情の色気。

 

 惚れてまうやろっーーー!!!!

 

と、思わず叫びたくなってしまうほど、何とも言えない品が伝わってくる。そんな絶品の色男である新治師匠のネタは『口入屋』。

この話は、簡単に言えば、『絶世の美女に興奮する男達の物語』である。女と聞けば口説いたり、ワンナイト・ロマンスを望んでしまうのは、男なら仕方の無いことだ、という得体の知れない説得力。男と生まれたからには女に惚れなきゃ男じゃない、とばかりに奮起する男の姿が面白い。

一番番頭から二番番頭、手代に至るまで、絶世の美女と聞いてワンチャンを狙った男達が陥る哀れな状況。その滑稽さに男として同情する。

そういえば、私にもこんな話がある。

私がまだわんぱくな小学生だったころ、下級生の男子を騙して女子更衣室の扉を開けさせた思い出が蘇ってくる。

あの時は本当に悪いことをしたと思っている。

「掃除道具が、あの部屋にあるから、取って来てくれ」と私は下級生に言ったのだ。私の言葉を信じた下級生の男子のつぶらな瞳が未だに脳裏に焼き付いている。下級生は私に騙されるがまま、掃除道具など無い、まだ女子が着替えている女子更衣室の扉を開けたのだった。そして女子の絶叫。下級生男子の硬化。それを見ていた私の高笑い。あの頃、私は悪魔だったと思う。

泣きながら下級生の男子が「もりのさんが~、掃除道具があるって~、言ったから~」と泣いているのを見て、罪悪感を抱くことなく、「良いもん見れたから、チャラだろ」と思っていた私を許してほしい。後年、占い師に「あなたは優しい」と言われた私を許してほしい。

そんな、思春期の男子の性の悪戯(?)に近い、男の性欲が爆発した『口入屋』という演目。一度でも美女に惚れたことのある男なら、共感できるのではないかと思う。何やら最近では、アイドルを神格化し、付き合うとか性的な意味でアイドルに接している人はいないと豪語する者までいるというが、果たしてそうだろうか。性欲のある男性が、絶世の美女にすり寄られて、正気でいられるというのだろうか。少なくとも、私は正気ではいられぬ。ロロノア・ゾロの言葉を借りるとすれば、『絶対に人を噛まねぇと保証できる猛獣に、会ったことあるか?』である。噛む。私だったら絶対噛む。歯が無くて歯茎だけだったとしても、あむあむする。(錯乱)

私が書くと若干品を欠くが、これが新治師匠の手にかかると、大人の色気に様変わり。いやらしさはなく、むしろ「あらまぁ~、やんちゃさんね~」というような、お姉さんからの優しい愛撫を頂けるほどの、色気噺に変わるのである(何を言っているのやら)

そんな(どんな?)露の新治師匠。お初だったけど魅力全開!また見たい、追いたい落語家が一人増えた瞬間だった。

 

 柳家権太楼 猫の災難

爆笑派の権太楼師匠。枕ではネタの内容をざっくりと話しながら会場を爆笑の渦に巻き込む。何と言うか、『ゴンぶと』な感じである。『ゴン太(ぶと)』な高座が権太楼師匠の語りにはある。一言一言が鉛の如く腹を抉り、どわっはっは!と笑ってしまうような痛快な面白さがある。

また、私の想像の中では、権太楼師匠の演じる女将さんは殆ど、器量が良くない。美人で色気のある女性というよりも、アフリカとかベトナムで泥だらけの川で洗濯をしながら、50人くらいの子を持つビック・ファミリーのビッグ・ママみたいな逞しい女性の姿を、権太楼師匠の高座から感じるのである。と言っても、それほど多くの高座を見ているわけではないから、色っぽい女性も登場するのかも知れないが、今のところ、私は色っぽい女性を権太楼師匠で見たことがない。これは決して批判ではなく、むしろ、その逞しさが権太楼師匠の、『ゴンぶと』な感じに沿っていて良いと思うのだ。

さて、『猫の災難』という噺は、簡単に言えば『言い訳の多い男が、全てを猫のせいにする』という内容である。

飲みたくて堪らない男が、たまたま隣人から鯛の頭と尻尾を貰ったところから、悲劇は始まって行く。自らの私利私欲のために猫を言い訳にし、酒を飲む男の滑稽な姿が笑いを誘う。人の善意を無下にしながら、ひたすらに自分のために酒を飲み、言い訳をする男の姿が、だらしなくてなんだか憎めない。権太楼師匠の底抜けの呆気っぷりと、とことんまで自分に甘い男の演じ方が、とてつもない面白さを生み出している。

最後のオチも、なんだかだらしがなくって仕方がない。自分の欲を優先した自堕落な男が、とことんまで堕ちきって最後に見せる詫びの心。坂口安吾だったら、この酒飲みの男を叱責するであろうか。否、私はむしろ「よくぞ堕ちきった!偉い!偉い!偉い!」なんてことを、言うのではないかと思う。

痛快で自堕落な男の爆笑の一席だった。

 

柳家さん喬 たちきり

自らの生い立ちを思い出すかの如く、滔々と優しい語り口で語り始めたさん喬師匠。一声発すれば、その何とも言えない柔らかい言葉の雰囲気に包まれ、じっと耳を傾けてしまう不思議。テレビで見て号泣した『たちきり』が、いよいよ目の前で始まった。

人の縁とは不思議なもので、いつどこで、どんなきっかけで結ばれるのか、とんと分からない。皆目見当も付かない。いつしか、結ばれた縁は、運命の巡り合わせか、やがて疎遠の遠になって、二人の間は遠く離ればなれ。最後は、一つの線香の煙になって消えて行く。

そんなことを思わせる『たちきり』という演目。この話は『芸者に惚れた若旦那が、百日間の蔵住まいの後に、再び芸者の元を訪れるのだが・・・』という内容である。

冒頭では、若旦那が親族から散々に言われ、抵抗虚しく百日間の蔵住まいを受け入れる。その百日の間、若旦那が惚れた芸者から手紙が届くのだが、八十日目にぴたりと止まる。ようやく百日を終えた若旦那が、芸者と遊んでいた場所で、女将から知らされる真実。その真実を聞いた若旦那の胸に宿る思い。そして、最後の線香の煙。

全てが、胸に迫る哀しい物語。終演後、会場ではすすり泣く声が至る所から聞こえてきた。

遊びと仕事。どちらが大切かと問われれば、私はどちらも大事だが、やはり遊ぶためにはしっかり働かなければならないと思う派である。無論、宝くじに当たったり、十分な蓄えがある人ならば遊ぶだけでも良いかも知れない。だが、きちんとした職にあって、遊びに夢中になり過ぎて、職を疎かにしてしまうと、後で取り返しの付かない目に合ってしまうという一例が、『たちきり』という話にはあるように思えるのだ。

それも全て、『縁』の力が大きすぎるのではないか。本当に素敵な人に出会ってしまうと、それこそ大黒摩季の『ららら』のように、『今日も明日もあなたに逢いたい』と思ってしまうし、『今日も明日もあなたに逢えない』ということが、どれほどじれったいことであるかが身に染みて分かる。好きになるのは簡単だが、輝き持続するのは・・・ららら、なのである。

心の中に、断ち切れぬ思いを抱える一つのきっかけが、『縁』なのである。本当にこればかりは、どうしようも無いと私は思う。私自身ですら、どうしようもない『縁』に苛まれているのだから、若旦那だって苛まれたに違いないのである。そして、ずっと近くにある筈だと思っていたお互いの『縁』が、『遠』になってしまった悲しみたるや、想像を絶する筈である。麻薬をやったことは無いが、ほぼそれを断絶されたくらいの哀しみに近いのではないかと思う。止めよう止めようと思っても、体が無意識の内に、理性を跳ねのけて本能で求めてしまうのが、『縁』なのである。

そして、『遠』になった『縁』は、最期、線香の『煙』となって空気に溶けていくのである。この哀しみをどう表現したら良いと言うのか。

『たちきり』という演目の終盤に響く三味線の音。うっすらとどこかに浮かび上がる芸者の姿。つま弾かれる音色は『本調子』か否か。

様々な思いが、三つの糸に乗せて、言葉とともに紡がれる。『縁』と糸と、三味線と音と。全てが言いようの無い儚さの中に、煙となって姿を消していく。

さん喬師匠の静かな語りで、オチが語られ、終演。頬を伝う一滴を拭いながら、私は拍手を送るのだった。

 

 総括 縁は強く

テレビで見るのと生の高座を見るのとでは、また何百倍も印象が違って聞こえた。一瞬一瞬が最高の瞬間なのであると改めて思った。今日ある芸こそが頂点なのだと、私は改めて思った。思えば、テレビで見たのは恐らく四~五年前である。色々と、前々から準備していたことが花開きつつある今。これもまた一つ運命なのではないかとさえ思える。

あらゆることが、もしも花開こうとしているのならば、今まさに私は、その渦中にいると言える。これまでのあらゆる事柄が、一つのことに結ばれていくのではないかという、淡い予感はある。

それでも、奢ってはならない。

自分の今ある位置をしっかりと確かめて、前に進まなければならない。

『たちきり』の若旦那のように、遊び過ぎて百日間の蔵住まいにならぬように、心の手綱をぎゅっと引き締めて前に進んでいこう。

そんな思いを抱きながら、私は御徒町の夜へと消えていくのだった。