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男が惚れる男の中の男 ハードボイルド・ダンディ 柳家小満ん 2018年8月21日

樽で作った酒ってのは、知らぬ間に減っちまうんだってね。

なんでも、天使の飲み代って言うそうじゃねぇか。

粋だねぇ 

ダンディの基準は何だろう。缶コーヒーのBOSSのマークだろうか、ロバート・デニーロだろうか、アル・パチーノだろうか、それとも坂野?

ダンディの基準は人によって違う。ダンディだと思う人の中でダンディだと思うものがあれば、それはその人にとってダンディ以外の何物でもないのダンディ。

落語界にも静かなダンディズムを持ったハードボイルドな落語家がいる。柳家小満ん、その人である。

一聴すれば、その声に痺れる。良い具合に枯れたハスキー・ボイス。素朴でありながらもあらゆるものを深く取り入れようとする佇まい。まるで、紫の霧に包まれるかのようにじっくりと聴く者を魅了する語りのリズム。考えている最中の間ですら粋と思える所作。その全てに生きてきた人生を感じさせる落語家である。

最初に聞いたときは、正直、その魅力に気づくことが出来なかった。何をしゃべっているのか分からない時があったし、強い魅力を解き放つというようなタイプでも無い。ただ淡々とぼそりぼそりと喋る。確か末廣亭で『悋気の火の玉』をやっていたと思う。

ところが、長く寄席を聞いていて久しぶりに聴く機会があった。確か昼の部のトリが小満ん師匠だった。夜席まで居残りをすることが常だった私は、さして期待もせずに昼のトリで舞台に上がった小満ん師匠を見ていた。じっと話を聞いていると、随所に筋金入りの博識ぶりが伺えたし、その時やった演目は『寝床』だった。私の隣にいた大学生の集団はきょとんとした様子で、笑いもせずにじっと聴いていたが、私は小満ん師匠の一つ一つの言葉を聞いているうちに、思わず笑ってしまった。この笑いは面白くて笑うというのもあるが、その博識ぶり、間、言い方に笑ってしまったのだ。笑うという行為には大体見下した印象を持たれる方もいるが、そうではない。むしろまるきり正反対の『凄すぎて笑う』ということが起こった。

読者諸君に同じような体験があるかは分からない。私には時折、そういう『凄すぎて笑う』時がたまにある。ぱっと思い出せるものでは文菊師匠の『長短』、神田松之丞の『乳房榎』などがある。

この時の『寝床』という演目も、簡単にあらすじを言うと『歌が下手な人が下手な歌を聴くのが嫌な人たちに下手な歌を聞かせる』というものなのだが、この歌を聞かせるまでの過程が実に面白い。小満ん師匠は何より癖のある演じ方をしない。この癖のある演じ方というのは、個を消しているという部分だと私は思っている。

寝床という演目は、歌を聞かせようとする旦那と何とか歌を聞かまいとする番頭の掛け合いで大部分が進む。この会話に癖が無い。これは文章で表現するのは非常に難しい。聴き比べて頂ければはっきりと分かると思うのだが、トーンが一定というか、さらりとしているというか、うーむ、書こうと思ったが上手い表現が見つからない。

とにかく、初見ではあまり素晴らしさに気づくことが出来ない落語家であることには変わりはないと思う。華やかな色どりと、若さの勢いでドンドンドカドカと笑いを取る爆笑派と比べると、明らかに地味だし、派手さも無い。しかし、一度その魅力に気づいてしまうと、もう追わずにはいられないほど、とんでもない魅力を持っているのである。

つい最近、黒門亭小満ん師匠の『応挙の幽霊』を聞いた。これは円山応挙という画家が描いた女の幽霊画の幽霊と、その画を仕入れた者が酒を酌み交わす話である。

恐らく、小満ん師匠の真骨頂は登場人物の『掛け合い』だと思う。落語の殆どは『掛け合い』なのだから、これが真骨頂というのは変な気もするが、この『掛け合い』に極上の知性が漲っているのである。酒の知識、絵の知識、次々に繰り出される女の幽霊との会話は惚れ惚れするほどである。粋な会話というものを学ぶには小満ん師匠の落語を聞くのが一番だとさえ思える。さらには、その知性が全く嫌味っぽくないのだ。こういうことを知っている俺、凄いだろう?という嫌味が全くない。じっと聞いていると、ぽろりぽろりと零すように粋な言葉を発する。聴く度に痺れるくらいクールなのである。冒頭に引用した『天使の飲み代』も、小満ん師匠の口から発せられれば、それだけで最高にクールなのである。物事は誰が、どのタイミングで、どんなリズムで、どんなトーンで言ったかで響き具合がまるで違うのだということを、私は落語を聞く度に感じるのである。

落語の醍醐味として『聴き比べ』は非常に良いことだと思う。落語家の優劣は別にして、色んな落語家で同じ演目を『聴き比べ』することによって、自分というものがはっきりと見えてくるのである。小満ん師匠の場合も、最初に聞いた時は分からずとも、色んな落語家を聴いて、聴き比べて、再び小満ん師匠で聞いた時に驚愕の発見がある。そういう体験が出来るのも落語を聞き続けることの楽しみの一つと言ってもよいだろう。

さらに言えば、落語家は自分という存在の興味を計るリトマス試験紙のようだと思える。どんどん聴いて、自分がどんなものに興味があるのか発見してほしい。

 

さて、柳家小満ん師匠に話を戻そう。とにかく博識ぶりが滲み出ているし、それは小満ん師匠の落語をじっと聴いていれば分かることだと述べた。では、ダンディズムについてさらに掘り下げていこう。

小満ん師匠のダンディズムは、例えば単純に顔がカッコイイとか、声が良いというものではない。イケメン落語家とメディアで持て囃される落語家や美声の落語家なども多々いるが、小満ん師匠は『言葉の選択が粋』なのだ。これはもう、具体的にどうというのは難しい。何を粋と感じるかにもよるのだが、例えば例をあげよう。

 

銭湯で古今亭志ん生が弟子にタワシで体を洗われた時の一言

「おれはお地蔵様じゃないよ」

 

どうだろう。痺れるのは私だけだろうか。これは黒門亭の仲入り前に柳家小きん師匠が言っていた短い粋な会話である。これくらい短ければ覚えることが出来る。他には

 

エレベーターに乗っていた立川談志、目的とする階に上昇した際、途中の階でエレベーターが止まり、扉が開くと目の前には女子高生 。その女子高生、談志を見るなり、気だるそうに

「上?下?」

と言って、人差し指でジェスチャー

談志が一言。

「横にはいかねぇ」

粋である。どうです、痺れませんか。痺れるのは私だけか。この絶妙な返し。例えばここで『どちらかに行くと思って乗ってみろ』というのはキザだし、『下に行きませんよ』と応えるのは野暮である。

こういう例に近いものが柳家小満ん師匠の落語には溢れているのである。こういう粋な発想は経験と知性がものを言うと思う。粋が素晴らしいという訳ではないが、少なくとも粋であるということは美しいことには間違いないという気がする。粋な会話には知性や、新しい視点を発見できるのである。例えば真正面から捉えていた富士山をふいに角度を変えられて見たらさらに美しく見えたというような、感覚的には『錯視絵』を見ている感じに近いと言ったら良いだろうか。ある角度から見ていると不思議に思える絵が、ぱっと角度を変えた瞬間にカラクリが分かるというか、そういう感じである。

 

それまで見聞きしていた落語の演目も、小満ん師匠を通した瞬間に、何度もそういうハッとさせられる体験が出来るのである。これはもうほぼ才能と言っても良いかもしれない。経験や知識を絶妙に織り交ぜて言葉として発する才能。小満ん師匠の魅力はそこにあるのではないかと思う。もちろん、これは一朝一夕で身に着く才能ではない。小満ん師匠が色々な体験をし、それを記憶して忘れずにいるからこそ成せるものだと私は勝手に思っている。

これに限らず様々な才能を持った落語家は貴重だが一定数いる。私がこれまでに記した『桂伸べえ』なども強烈な才能を持った落語家である。いつか全十回に分けて桂伸べえさんの魅力に迫りたいと思っている。そのためには、もっと彼の落語を聞かなければならないのだが、いかんせん、公演情報をツイッターであまり公表しないので、こちらが必死になって見つけるしかない。いずれホームページが出来ることを期待するばかりである。

話が逸れたところで、今日はお開き。