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一周年の上機嫌、いつか花咲く浪曲の春~2018年11月4日 浅草木馬亭 月例玉川太福独演会~

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よろしかったら、一周年の記念に日本酒をいかがでしょうか。

 

ぴったりジャスト十年!?

 

じゃあ腕を戻す

 

立派な力士になって、俺を投げ飛ばしてくれ 

朝は講談、昼は落語、締めはもちろん、浪曲である。日曜日は見事に三扇を決めることが出来た。幸福な気持ちのまま浅草に着くと、弘前ねぶた祭をやっていたので、幾つか写真を撮った。

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浅草は実に素敵である。人の情けに共に涙してくれるような、人情が満ちている。落ちぶれて袖に涙の降りかかる、人の心の奥ぞ知らるる。というが、そういう人間の持つ温かさや雑多さが入り混じって、少し下世話だけれどもどこか人情の風が吹く。そんな浅草を歩いていると、浪曲小屋の『浅草木馬亭』が見えてきた。

入場すると、太福さんがお出迎え。1周年ということで日本酒がふるまわれており、私は『上機嫌』というお酒を頂いた。これが誠に美味で、浪曲を聞く前に酔ってしまうという、なんとも一日の締めにふさわしい幸福な酔い心地を味わった。酔い心地は良い心地、なんてね。

ずらりと集まった観客は、殆ど毎度お馴染みの方々である。常連さんは前の方にばちっと固まっているし、後方には様々な会の主催者の方々、ひょっとすると民謡クルセイダーズのベースの方ではないか、という人まで、種々様々なきりっとしたお顔立ちのお客様が集まっている。

一周年という華やかなお祝いムードの中、幕が開いて主役が登場する。

 

玉川太福『地べたの二人 十年』

お馴染みの浪曲セットを拵えて、玉川太福さんが登場する。11月はCDの発売やら様々な企画やら、とにかく精力的に舞台に立たれている。喉を酷使されているのではないかと心配になるくらいに、とにかく様々な会に出て浪曲を広めている。単なる色物ではなく、正しく浪曲師として芸を披露される姿は、観るたびに勇ましく、凄まじくなっていくので、浪曲がもっともっと広まってくれればいいな、と思う次第である。

落語や講談や浪曲を聞いていて、どれが一番痺れる機会が多いかと言えば、間違いなく私は浪曲だと答える。言葉が節と三味線に乗って発せられるのはもちろんのこと、未だ知られていない数々の素晴らしい人情噺がたくさんあるのだ。もうどれだけ太福さんに泣かされていることか(笑)前回の西村権四郎やら、笹川の花会やら、とにかく胸を締め付けられて思わず泣いてしまう、そんな凄い演目がたくさんあるのだ。一言で言えば染み入るというのか、浪曲の素晴らしさは何度聞いても胸に染み入る節と物語にあるのだと、私は思う。

地べたの二人シリーズの第一作、十年。1周年の記念にふさわしい演目で、金井くんと齋藤さんの掛け合いが面白い。これは間で笑わせると同時に、節に入るタイミングと節に入った後でも笑わせるという、絶妙な間の芸だと私は思っている。決して派手なことは起こらないのに、なぜか笑ってしまうのは、浪曲の一つの本質があるからだろうと思う。落語や講談には無い三味線が一役買い、言葉を超えた間の面白さを見事に表現している。私は地べたの二人では齋藤さんが好きである。

 

玉川太福『秋葉の仇討ち』

清水次郎長伝からの一席。激しい修羅場は無いが、仇である神沢小五郎を殺すまでの経緯が面白い。そうか、昔の人はこんな風に騙されるんだ、という発見と、次郎長親分の心意気みたいなものが素敵な一席である。清水次郎長伝はこういった親しき人が傷つけられ、それに対する仇を討つというのが根底にあって繰り返されているのだという。この物語を土台にした有名な話と言えば、ご存知『ワンピース』である。日本人の大好きな仇討ちものを聞ける喜びを噛み締めつつ、仲入り。

 

玉川太福『梅ケ谷江戸日記』

太福さんの魅力は?と聞かれた、『人情』と私は答える。浪曲の世界に飛び込み、師である玉川福太郎さんに浪曲を学びながら、突然の師匠の死を前にしても立ち止まらずに前に進んだ覚悟。浪曲の未来を背負い、第一線で活躍している国本武春先生を追いながら、突然の死によって目標すらも失ってしまった太福さん。それでも、自らを信じて浪曲のすばらしさを伝えるため、新作浪曲『地べたの二人シリーズ』を生み出し、怒涛の勢いで浪曲を盛り上げている姿には、人情という見えない大きく太い柱を伸ばしているように私には思えた。

未だ名人上手と呼ばれる腕は無いかもしれない。本域の浪曲師達に比べれば、まだまだなのかも知れない。それでも、唸りの美しさ、胸を震わせる節と言葉の数々。そして何よりも浪曲の消えかかった灯を再び強い炎へと燃え上がらせようとする強い意志。とても人間らしくて、決して清らかなだけではなくて、孤高というわけでもない。ひたすらに浪曲師として節を唸って、浪曲のすばらしさを伝えている。

『梅ケ谷江戸日記』は後に15代横綱となる梅ケ谷藤太郎が、両国橋で乞食を助けるところから始まる。上方から江戸にやってきて、強いけれど人気が出ない梅ケ谷。乞食を助けた恩返しというのが簡単なあらすじなのだが、その短い物語の中にも、随所に胸が熱くなって染みてくる言葉がたくさんあって、後半の乞食の正体が分かるシーンの節や言葉で私は涙した。何とも言いようの無い感情がこみ上げてきて、ただただ泣いてしまうのだ。人気が出ず、上方に帰ろうと思う梅ケ谷を必死で止める救われた乞食の姿とか、こんな親方にはついていけない!と弟子二人が言い放つのだが、梅ケ谷の心意気に触れて改心するシーンとか、型通りだとか、テンプレートだとか、お涙頂戴だとかそういう理屈抜きで、感動するのである。私は上方弁やら言葉の言い間違いなど些細なことはあまり気になる質ではなく、ただただ物語を想像することに集中している。すると、その想像を超えてくる節と、三味線の音色がやってきて、言いようの無い熱い感情がこみ上げてきてしまうのだ。

こんなにも鮮やかにくっきりと脳内に現れる映像とは、一体私の何がどう働いてそうなっているのか、全く説明が付かない。それでも、私ははっきりとその映像を見て、言葉から表情を思い浮かべて、そしてそれらが自分の、自分による、自分だけのために動き始めて、そうしていつの間にか、感動しているのだ。

日常生活でも時々、そういうことが襲ってくる。親しき人の別れとか、言葉とかが沸き起こってきて、急に胸が熱くなってしまうことがある。読者の方にそんな体験があるかは分からないのだが、夕日などを見ていて涙が零れそうになる感覚に近い。私はそれを『感動ゾーン』と勝手に呼んでいる。これは本当に何の前触れもなくやってくるので、そういう時はあまり表に表情を出さずに、ただただ涙ぐむようにしている。

例を挙げるとすれば、幼稚園に通う幼い男女の別れのシーン、脳内では仲良くしていた女の子の転校が決まり、本当は好きだと伝えたいけれど気丈に振る舞う男の子の姿がぱっと浮かび、バックで太福さんの声で「別れと出会いは世の常ぞ、泣くな男が泣いたら廃る、決してめげずに生きたなら 二人笑ってまた会える」とか、そういうニュアンスの言葉が脳内で再生され、道端で普通にうるうるするヤバイ人になる。

こういう時に創作意欲が湧いてきて、浪曲脚本でも書こうと思うのだが、あいにく募集しているところがない。もしも再び浪曲脚本を募集する会があったら、幼稚園に通う男女の出会いと別れを浪曲にしてみたいと、こっそり思ったりもするのだ。名づけるとすれば『幼い二人シリーズ』なんてね。

 

総括すると、毎回、凄まじい勢いでメキメキと良くなっていく太福さんの今を、月一で見ることの出来る素晴らしい会だった。日本酒も美味しかったし、笑ったり泣いたりしたけれど、一日の締めくくりとしては最高の会だった。こんな日が毎日続いたら、大変だね(笑)

今週は物凄い会が目白押し。シブラクももちろんレポ書きますよ。

それでは皆様、良い週末を。

 

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