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演者と繋がるための糸~浪曲 玉川太福の世界を聴いて~2018年12月11日

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CD無事に購入できました。

 

サイン頂きました

 

聴き比べ してみました

私は布団になりたい。この時期は寒いから、体温で温められた布団になって、一日中寒さから逃げ続けていたい。と、考えてしまうくらいに寒い朝

身支度を整えてから、休息代わりに一杯の珈琲を飲む。美味。パソコンを開いて、使いずらい『Music Center for PC』のアイコンをクリックする。アンダーソンの『そりすべり』を聴きながら、さらさらっとネットサーフィン(死語)をしつつ時間を過ごす。

気分が良くなってきたので、だらだらっとしながら、先日購入した『浪曲 玉川太福の世界』の古典・新作を聴く。

TwitterAmazonを見ていても、発売から2週間ほど経とうとしているが、あまり目立った感想というものが見られなかった。むしろ、『買った』という報告や『サインを貰いました』という報告の方が、12月11日現在、多いように私には思えた。

ざっと十回繰り返し通しで古典・新作を聞いたので、そろそろ感想でも書こうかと思い立ち、この記事を書くことにした。決して購入をオススメしたり、購入を阻害するような思いは一切無い。私が聞いて、どう思ったかを参考にしていただければ良いというだけの、ただ一人の感想記事に過ぎない。だから、これは賞賛でもなければ、批判でもないということをご理解いただきつつ、読んで頂きたい。

 

玉川太福さんのCDを買うまで、私は生の高座でしか玉川太福さんの浪曲に触れたことが無かった。厳密に言えば、玉川みね子師匠の三味線に導かれた太福さんの浪曲は、ライブでしか聞いて来なかった。

私がCDの音源を聴いた時に感じたことに対して、最も影響を及ぼしたことは、生の浪曲を聴いてからCDを聴くという、この過程にある。ライブからCDへと視聴が移る過程こそ、私がCDの音源に対して最初にどう思ったかということに、大きな影響を及ぼしたのだ。

私の体験として、音楽を聴くとき、邦楽・洋楽のバンドはまずCDを最初に買って聴いていた。或いは、テレビから流れた曲を聴いて良いなと思い、休みの日にCDショップに行って、目的のCDを購入し、自宅にあるCDプレーヤーで聴いていた。そのバンドがどこかでライブをするとなれば、是非生演奏を聴いてみたいと思い、チケットを購入して見に行くことがあった。すなわち私にとっては、『CDを聴いてからライブへ行く』ということが当たり前の過程だった。

当然、私が体験したライブは『CD以上の凄さ』という感想になった。CDでは削ぎ落されてしまうもの、生でしか味わえないものを感じるからこそ、私はライブそのものに魅了された。友人にもオススメのCDを渡すときは「ライブはもっと凄いよ」と言って貸していた。

特に私にとって思い出深いのは、真夏のサマーソニックThe Strokesを聞いた時だ。それまでは『Is This It?』というアルバムを繰り返し繰り返し聞きながら、ライブの日を楽しみにしていた。いよいよThe Strokesが出てくると、会場にいた人々がわっと前列に押し寄せ、楽曲中は押し合い圧し合い、荒れ狂わんばかりの熱気。メンバーのギターの音色、ベースの音色、ドラムの音色、そしてボーカルのジュリアン・カサブランカスの声。全てが蕩けそうなほどカッコ良くて感動したことを今でも覚えている。

その後でCDの音源を聴いた時、あの瞬間にあった興奮は無く、むしろその名残りを思い出すためのきっかけになるようなものとして、CDが機能し始めたように思う。

いつの間にか私の中で、『CDの音源には、ライブに勝る迫力は無い』という思いが強まっていた。あくまでもCDはライブに行くための一つのきっかけ、扉に過ぎないのだと思うようになっていた。

 

以上を踏まえて、私が『浪曲 玉川太福の世界』を聞いた時に最初に思ったことは、『あれ!?あんまり迫力が無いな』ということだった。

私の『Music Center for PC』では、『浪曲 玉川太福の世界』に収録された演目のジャンルは『話し言葉(一般)』になっていたので、すぐに『浪曲』に変えた。この辺り、SONYさんはまだジャンル判断がプログラムされていないのかな、と思いつつ音源を聴いた。

普通に音楽を聴く音量の倍以上にすると幾分か迫力は解消された。それでも、やはり私の脳内には最初の体験として『生の玉川太福さん/みね子師匠の浪曲』がインプットされている。イヤホンで聞いても、パソコンに設置したスピーカを通して聴いても、生の迫力がもたらす感動がやってこない。高級なスピーカであれば、また違う意見になるのかも知れないが、一般的なオーディオ機器では、生の浪曲を超えているとは思わない。だから惜しい。僅か数メートルで唸る玉川太福さん、みね子師匠の三味線を聴いている私としては、まだまだこんなものじゃない。と知っているからこそ、惜しいなぁ。と感じてしまう。

だから、私ははっきりと区別することにした。CDの音源は『扉』に過ぎないのだと。音源を聴いて、生の浪曲を聴いてみたいと思う人々にこそ、CDは大きな作用を及ぼすのではないか、と私は思った。

もちろん、どんな時でも玉川太福さん/みね子師匠の音源を聴けるのは嬉しい。何度も繰り返し聴くことで、演目への愛着が湧くし、CDに収録された音源を生で聞いた時に、また新しい発見が出来るだろうと思う。生の浪曲を聴いてきた人達にとってCDの音源は、『再び玉川太福さんの生の浪曲に出会うまでの、楽しみの糸』だと私は思う。糸を何度も手繰り寄せるように聞いて、自分の中で出来上がった思い(それはセータ、もしくはチョッキかもしれない)を、ライブの時に立派に仕立て上げてくれるのが、玉川太福さん、そしてみね子師匠なのだ。私はそういう向き合い方で、CDに収録された演目を聴くことにした。

演芸は一期一会だ。その時、その場所、その空間にしかない空気。目に見えない色んなことが影響を及ぼして演芸は作られている。これは生の浪曲を楽しんだことのある人間の感想である。世の中には、まだ玉川太福さん、みね子師匠の浪曲を聴いたことが無い人たちがたくさんいるのだ。

だから今回のCDは、まだ生の浪曲に触れたことの無い人にとって、大きな意味を持つだろう。理由があってCDしか聴くことが出来ない人もいるだろう。生の高座を見ていたが、地方に転勤になって聴けなくなった人もいるだろう。そんなたくさんの人々を結ぶ一つの糸として、『浪曲 玉川太福の世界』はある、と私は思う。

浪曲 玉川太福の世界』に限らず、多くの演芸関連のCDは、全て演者と繋がるための糸だと私は思う。残念ながら故人の生の高座は見ることは叶わないけれど、それでもライブ録音されたものから雰囲気を感じることが出来る。例え演者の肉体は亡くなっても、芸、そして魂で、CDに収録された音源という糸を介して繋がることが出来るのだ。

 

Twitterを見ていても、まだあまり表立った感想が呟かれていないのは、きっと生の高座を体験した人が多いからなのではないか、と私は推測している。これはあくまでも私の推測だが、CDを聴いた人は『物足りなさ』を感じたのではないだろうか。

志ん生師匠や文楽師匠の生の高座を見たぞ!と威張って、今の落語家は志ん生文楽の高座には敵わない!と威張っているような人にはなりたくない、が、生の高座にしか無いものは確実にあって、それはやはり何度も同じことが繰り返されるCDには無い、大きな大きな魅力があるのも事実である。だから、私はまだCDをどう捉えて表現して良いか分からない。願わくば、玉川太福さんとみね子師匠の生の高座を見たことが無い人が、どう感じたのかという感想を聞いてみたい。一度生の高座を体験してしまうと、CDから玉川太福さんとみね子師匠に出会った気持ちは、想像することしかできない。

 

とにもかくにも、再び玉川太福さん、みね子師匠の生の高座を見る日まで、太福ロスを何とか凌ぐためにも、『浪曲 玉川太福の世界』の古典・新作を聴いて行きたい。個人的なオススメ演目は古典なら『若き日の大浦兼武』、新作なら『湯船の二人』である。この二つは生の高座を聴く度に発見があって面白い。

出来ることなら『不破和右衛門の芝居見物』と『西村権四郎』をライブ音源で出してくれることを望む。不破和右衛門が芝居を見ている時、判官が出てきたところで平伏する場面は、いつも涙がこみ上げてしまうし、西村権四郎は全編良い話なので、偉い人、お願いいたします。

 

という訳で、演目解説はしなかったが、今回の『浪曲 玉川太福の世界』。私には物足りないけれど、太福ロスを補う重要なCDになった!同時に、不正な録音・録画は絶対禁止です。その瞬間にしかないものを楽しみましょう。

今週も演芸に触れる楽しみを抱きつつ、抱きつつ。それでは、また。