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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

生身の研鑽、スリルと可能性~2018年11月6日 本所地域プラザ はなし亭~

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お客さんは少ない方が良いの

 

 差し上げます!差し上げます!

 

つるのはっぴゃくはちじゅうはちばん!

  

ざあざあ降りの雨の中、傘を差して向かった先は本所地域プラザ。今日は何か素敵な落語会があるかなーと探していた。その日にやっている落語会に興味がある方は、東京かわら版と、もう一つ以下のサイトをオススメする。

 

落語系情報サイト 噺-HANASHI-

 

このサイトを見ていて発見したのが、古今亭文菊師匠、古今亭菊之丞師匠、柳亭こみち師匠がネタ卸しをされているという『はなし亭』。二時間たっぷりでなんとお値段、驚愕の1000円である。さらに驚いたのは、文菊師匠が『つる』と『手紙無筆』をやるというのだ。

言ってしまえば、これはMISIAがかえるの合唱を歌うようなものである。基礎の基礎、寄席などでいずれ頻繁にかかるであろう軽い噺のネタ卸しとあって、これは見るしかない!と思い立ち、今日の舞台に辿り着いた。

本所地域プラザには、彦いち師匠と小ゑん師匠の二人会で何度か来たことがある。客席と舞台の距離が何とも言えない微妙な距離間で、なかなか不思議でありつつも、ホールらしい落ち着きのある場所である。一つ難点があるとすれば、椅子が非常に振動の伝わりやすい構造になっているのか、隣の人が笑ったりすると、煽りを食らって自分の席まで良く揺れるのである。

会場に着くと、古今亭菊之丞師匠と柳亭こみち師匠が受け付けにいて、チラシを渡して頂いた。自主的な勉強会という雰囲気が既に漂っている。

会場に入ると、彦いち師匠や小ゑん師匠の時とはがらっと客層も変わって、年配の方からお美しいご婦人方までずらりと勢ぞろい。驚くべきはいつも見かける文菊師匠ファンのご婦人方がいなかったことくらいであろうか。ネタ卸しにはあまり興味が無かったのかな、などとご婦人方に思いを馳せつつ着座。こういういつものご常連さんの姿を見かけない日というのも、なんだかさみしい気もするのが不思議である。

さて、勉強会ということもあってめくりは無し、トップバッターが出てくる。

 

古今亭文菊『つる』

普段のお声に戻った文菊師匠。西川美和じゃないけど『永い言い訳』、レイモンド・チャンドラーじゃないけど『長いお別れ』という感じに、マクラで予防線を張る文菊師匠のお姿が素敵である。言い訳を言いつつもきっちりとした完成度で仕上げてくるあたりはさすが文菊師匠である。冒頭でMISIAがカエルの合唱を歌うようなものだと言ったが、こちらは赤とんぼを歌っているような感じ。粗茶が出てくるまでの流れは道灌と殆ど一緒である。恐らくではあるが、私としては文菊師匠の第一声「こんちわ」は、権太楼師匠から習っているのではないかと思ったりもする。どちらかと言えば、古今亭のイメージである江戸っ子気質、とんとん拍子の畳み掛けるような言葉の応酬からすると、じっくりと、落ち着いていて、炬燵を挟んで会話をしているような穏やかさがある。隠居からつるの名の由来を聞いて、それを他で試して失敗するのだが、文菊師匠の見た目の知的さが滑稽っぽさの足掛けになってしまっているように感じられた。

考えてみると、今までそれなりに文菊師匠の落語を聞いてきたが、誰かから教わった話を他で披露して失敗するというパターンの滑稽話は、殆ど聞いていないということに気づいた。ぱっとそんな噺をやっていたっけ?と思い起こしても、私にはすぐにこの噺だ!と思いつくネタが無い。これにはちょっと驚いた。寄席ネタの中でも長短、強情灸、千早ふるが良くかかっている。唯一の道灌も、どちらかと言えば教わったことを試そうとして失敗しているだけで、教わったことを真に受けて他に披露しているわけではない。代表的なものであれば新聞記事なんかも同じような失敗噺である。

文菊師匠を見ていて思ったのは『つる』の由来を信じる八五郎の姿に、まだまだ違和感があったことである。むしろ、際立っていたのは脇役の方で、八五郎が隠居から教わった話を大工のたっつぁんに話すシーンで、たっつぁんの演じ方が上手かったし、隠居から再度教わってたっつぁんのところに行く間で笑いが起こった。これは演じる物の個性というか、その人の素質に関わってくるものだと思うのだが、正直、文菊師匠にはこの手の滑稽噺は難しいのではないか、と思ってしまったのである。というのも、滲み出る品が、どうにも真に勘違いをする八五郎像を邪魔してしまっている気がするのである。かと言って、八五郎がわざと間違えるという風に演じ方を変えてもどうなるのか、その辺りの演じ分けは難しいところかも知れない。その点、こういった滑稽噺を得意とする落語家さんと言えば、桂伸べえさんであったり、台所おさん師匠であったりすると思う。これはあくまでも私の意見だが、滑稽さ、八五郎の愚かさを表現するためには、文菊師匠の言う、ちょっと顔が崩れていた方が落語はやりやすい。という冗談に通じてきたりするのではないか、と思った。

 

古今亭文菊師匠『手紙無筆』

あっさりと『つる』が終わって、後から入ってきたお客さんに声をかける配慮を見せる辺りにも、やはり滲み出る品と知性を感じてしまって、美しい所作と清い心を持った人が滑稽噺をやるのはさぞ難しいだろうなと思う。『手紙無筆』を聞いていても、字を書く奴を許せないという小噺は間も言葉選びも素敵だったのだが、肝心の字が読めず字を書けない者が掛けあうシーンでは、やはり知性と品が邪魔してしまっているような気がする。これはもう、何とも表現が難しい。なぜ滑稽さが無いのかと言われれば、歌舞伎役者のような風貌と、口調が合っていないとしか言いようが無い。市川海老蔵おぼっちゃまくんを演じるのと、ビートたけしおぼっちゃまくんを演じるのとでは、違和感の差が違うという感じである。逆にビートたけしが歌舞伎をやるというときの違和感ももちろんある。

そこに得体の知れないわざとらしさのようなものを感じてしまって、むしろその知性と品を取っ払って、本当の意味で滑稽さを滲ませることが出来たら、どんなことになるのだろうか、と想像が付かない可能性を感じる。そういう意味では、文菊師匠は文菊師匠なりに、自分の性質にあったネタをこれまで選んできたのだなぁ、と少し思ったりもした。人それぞれ自分の性格に合うネタを習得していると思うと、私はすっと腑に落ちる部分があった。だからこそ、自分の性質とは対極にあるネタに挑戦するとき、そこには観客以上の苦労が演者にやってくるのだろうと思った。

ネタ卸しという会でありながら、そんな演者の難しさを考えることが出来てとても貴重な体験をしているなと思った。

私自身はネタ卸しのような会は二度目である。一度目はシブラクでの『しゃべっちゃいなよ』で、その時に聴いた彦いち師匠の『つばさ』に思い入れがある。

シブラクでのネタ卸し後、彦いち師匠がトリの鈴本に行き、そこで再び『つばさ』を聞いた。どっかんどっかん会場で爆笑が起こっているのを見て、なんだか言いようのない感動が襲ってきたのである。それは恐らく、最初にネタが披露された瞬間に立ち会っていたという喜びと、それが今まさに寄席の大きな会場でたくさんの人に受け入れられているという喜び、それらが彦いち師匠も同じことを思っているんだろうなぁと何となく思ってしまって、笑いと感動が押し寄せてきたのである。その時初めて、ネタ卸しの会に立ち会うことのできた喜びを知った。

そのネタを初めて見た観客の脳内にインプットされた演者の映像があるとして、それが寄席でかけるために、さらにブラッシュアップされて披露されたとする。すると、初めて見た時の演者の映像と、寄席で披露された時の演者の映像とが重なって、その差異に驚くのである。何というか、初めて自転車に乗れた人を見たときと、その人がそれから三年後に自転車に乗っている姿を見た時に感じる心の差異みたいなものである。うーん、どう表現していいか分からないが、とにかく未熟さが熟成に近づいているのだと認識した時に感じる喜びみたいなものが、襲ってくるのである。

そんなことを考えながら、お次。

 

古今亭菊之丞『柳田格之進』

これはまた偉く難しい噺だと思っている。『二番煎じ』ほどではないが、どちらかと言えば講談寄りの演目で、人情と滑稽のどちらに語りのチューニングを合わせて行くかが、演者に求められる技量だと私は思っている。噺自体を聞くのは二度目で、文菊師匠の『柳田格之進』を聞いたことがある。滔々とした語り口で、どちらかと言えば滑稽寄りだった。どこに力を入れると私好みになるかと言えば、50両を盗んだのだと格之進に詰め寄るシーンや、50両を盗んだというあらぬ疑いを掛けられ、娘を吉原に売ることになるシーンや、50両が見つかった後に首を差し出そうとする二人の庇い合いのシーンなどを、じっくりと描き出すと深みが増すと思ったりする。全体的に地味な物語でありながらも、人間の心の汚さと清らかさ、何ともいえない心の交差する様が素敵であり、後を引くお話だと思っている。特に柳田格之進の説明『嘘も方便というけれど、その嘘さえつけない正直な男』というところに、この物語の肝はあると思うのだ。

強い意志を持って世間に相対する人がいる一方で、いろいろと詮索をしたり、勝手な想像を膨らませて人を貶める人間もいる。そういう人間同士の小さなズレが大きな悲劇を巻き起こす。決してすとんっと心が爽快になるお話ではなく、どこか言いようの無い霧のようなものを胸に残すお話が柳田格之進だと思っているし、去年の暮れにきいた文菊師匠の柳田格之進には、そんな雰囲気を感じさせたのだった。

肝心の古今亭菊之丞師匠の『柳田格之進』である。まだ人情味には至っておらず、緊張感もある。真打であってもネタ卸しはやはり難しいものなのだなぁと痛感する。三遊亭笑遊師匠の火焔太鼓の時もそうだったのだが、スリルはありながらもきちんと立て直して繋ぐ精神に感動する。笑いも少ないし、全体を通して聴かせる噺。これをモノにしたらさらに菊之丞師匠は凄くなるだろうという予感を感じさせる一席で仲入り。

 

柳亭こみち『富久』

地味で暗い噺の後は、明るいけれども不安を残す『富久』。こみち師匠は本当に後ろに燕路師匠のお姿がうっすら見えるくらい(まだ死んでないけど)に、随所に燕路師匠のエッセンスを醸し出している落語家さんである。同期で小八師匠なんかは、もはや喜多八師匠が憑依しているのか、という『らくだ』を見たことがあるけれども、TENの世代は良くも悪くも師匠の魂を受け継いでいる落語家さんばかりで素晴らしい。

そんなこみち師匠はマクラでお酒の失敗談から『富久』に入った。抜群の安定感で、たっぷりの大ネタなのだが大きく詰まることもなく、笑いも随所で起こる。『柳田格之進』に比べれば笑える個所も随所にあるし、久蔵の演じ方やその周囲の人たちの演じ方も、あっさりではあるがとても流暢なテンポで進んでいく。マクラの話題をネタの中に入れてきたりと芸達者で、人情噺からの緩急を付けた良い演目であったと思う。寄席や普通の落語会と違って、勉強会であるから暗黙のリレー感はもちろんない。何せ『柳田格之進』という大ネタの後に大ネタをやるのだから、これは聴く方も試されている。そういう部分も含めて1000円だと思うのだが、もっとお高くても文句は言いませんというくらいにレベルは高かった。

こみち師匠は珍しい噺も比較的寄席でやられているし、溌溂とした表情と確かな語り口、そして何よりも燕路師匠の持つ愛嬌を身に纏っている。女性の落語家さんの中では隠れているけれども確かな技術力があるし、落語が好きなんだなぁという雰囲気をたっぷり感じる。どちらかと言えば滑稽噺よりの語り口であるが、人情噺を上手に語る姿も今後は見てみたいと思ったりする。

そんな安定感のある『富久』でお開き。

 

総括すると、文菊師匠が最初にマクラで言ったように、『壁に向かって何百回とやったって、生身の反応を見なければ分からない』部分がたくさんあって、それが大勢の観客の前で試された、まさに勉強会の場だったと思う。値段云々はお客様がめちゃくちゃお得であることは間違いないし、不慣れな話を一所懸命にやる落語家の姿にハラハラしつつも、今後磨かれていく噺の可能性に期待が膨らむ、そんなとても素敵な会だった。

ネタ卸しの会の面白さ、是非是非読者の皆様にも味わって頂きたいと思う。