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幾百年を超えて、話芸に生きる志~2018年12月14日 ふたりらくご 18時回~ 

 

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赤穂浪士の討ち入りの日

 

私にも侍の話がありました

 

年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船

我が家にテレビは無い。だから、世情はスマホで知る。落語会はかわら版で知る。様々な用事が予想よりも早く片付いた。これはやはり天命というものかと思い込み、急ぎ渋谷らくごに駆け付けた。

本当は今月の会は行く予定などさらさら無かった。18時の回には間に合わないだろうし、20時の回も文菊師匠がトリじゃないなら、見るもんか!と意固地になっていたのだが、結局どっちも行った。行っちゃった。自分が情けないとは思わない。自分の心の弱さが嬉しい。ブレてくれてありがとう自分。

以下、カッコ内は取り留めのない備忘録のため、読み飛ばし推奨。

【ふと、もしかしたら赤穂浪士の中にも討ち入りなんてする筈なかったという人がいたんじゃないだろうか、と思う。本当は討ち入りなんてしないで、遊んで暮らしたり、和歌俳諧に勤しんだり、美味いもの食って寝るとか、そんなことをし続けて死にたい人もいたんじゃないだろうか。でも、そう思うのは私が現代に生きているからこそ、そう思うのだろうという思いもある。当時の時代背景や、美徳とされていること、武士なら碌より名を残せとか、今以上に武士としての心の在り方が重要視されていたと思う。そう考えると、現代は実に多様化された美意識がある気がする。『みんな違ってみんないい』とか『ナンバーワンじゃなくてオンリーワン』とか、徐々に徐々に個人の意思が尊重され始めたような気がする。飛躍した物の言い方になるけど、それって欧米的なんじゃないかと。むしろ日本人ならば、滅私奉公という言葉に代表されるような、日本人としての心の在り方の名残りを感じさせる言葉みたいに、自分一人ではなくて集団としての個人の意識が当時は強かったんじゃないだろうか。となると、個人尊重を美徳とする欧米人には忠臣蔵とか赤穂義士伝は、全く響かないんじゃないだろうか。「主君のために討ち入りして、最後は全員自殺?ホワイ?」みたいなことになるんじゃなかろうか。そして現代に生きる人にとって、『忠臣蔵』の物語の魅力って伝わるのだろうか。と、色々なことを考えてしまう。

『主君への忠義の心』は日本人にとって最上の美徳だった。今でもそうかは分からない。今、物語の持つ一つの力として、忠義の心と仇討ちがどれほどの力を持つか。それも分からない。でも面白いし、感動するのは、私の中にまだ情緒があるからだろうと思うし、それを持っている自分が嬉しかったりする。なんだかよく分からない。カッコ内の備忘録】

 

会場は超満員である。さすがは松之丞さんのネームバリューというべきか。私の感覚ではざっと40人くらいが新規で、他は松之丞さんファンという感じで、松之丞さん層が分厚い。もはやベルリンの壁並みのファン層である。

比較的30代の女性が多い様子。仕事帰りのサラリーマン、寄席の常連、などなどを見ても、やはり女性率が圧倒的に高い。松之丞さんってどんな人?という興味を持った人が、まだまだ続々と会場にいらっしゃっている様子。是非とも松之丞さんの講談に惹かれてほしいと思う。

そして、もちろん忘れてはいけない。今年真打に昇進、流暢な口跡、唯一無二の鉄道落語を得意とするこの方の登場。

 

古今亭駒治『鉄道戦国絵巻』

普段何気なく乗っている電車でも、色んな角度から見ることが出来るんだなぁ。という一席。

寄席ではお馴染みのマクラから、演目は『鉄道戦国絵巻』。この演目に出会うのは5度目。私は勉強不足であまり笑うことは出来なかったのだけれど、畳み掛けるような口跡、歯切れの良いリズム、そして溢れる鉄道愛。もはや鉄道が好きな人にはたまらない落語だと思える演目で、これを聞くと大体どれくらい新規さんがいるか分かる(笑)という演目でもある。

真打昇進披露の際にもやった演目で、基本的には新幹線との対決(書いてて良く分からないが)がメインである。前の記事では内容を省いたが、簡単に言えば路線の歴史を面白可笑しく戦国時代の合戦になぞらえて語るお話である。

これがマニアック過ぎて、私もどう記述してよいか分からない。今のところ私にとっては『鉄道好きには爆笑必死』の落語という評価である。

 

神田松之丞『大高源吾』

今日は赤穂浪士の討ち入りの日ということもあって、会場にいる全員から「どんな義士伝が聞けるんだろう。ワクワク」みたいな雰囲気が感じられた。かくいう私もその一人である。それまでは討ち入りの日も、赤穂浪士の名も、どんな経緯でそうなったかもわからなかった私が、一年経って講談を聴き続けた結果、討ち入りの日も、赤穂浪士の名も、どんな経緯でそうなったかも分かるようになった。これも一重に松之丞さん、さらには講談の世界に出会ったおかげである。詳しくなったから偉いという訳ではないが、その時代の話を知ることによって過去に思いを馳せていると、今は無き武士の志というものを感じることが出来て、日常生活のふとした瞬間に、武士の姿が思い起こされて、心が奮い立つ。ということが良くある。

主君の仇を討つために集った四十七士の魂。それをなぜ私は美しいと感じるのだろう。上手く言い表すことが出来ない。それは私の心の奥底にある情緒にあるのだと思う。何とも言いようが無いのだけれど、主君の仇討ちのために、自らの人生の様々な物事と別れなければならなかった環境、その周りの人々の姿、そして討ち入りへと向かう赤穂浪士の姿。全てが混ざり合って、到底一言では言い表すことが出来ない。それが、物語が物語として持っている力なのだと私は思う。

さて、物語に移ろう。お初の演目『大高源吾』、松之丞さんはマクラからガラリとトーンを講談にチューニング。この辺りの切り替えの妙は鮮やか。照明も落ちてグッと世界は討ち入り前夜へ。この辺りの演出が凄い。地の語りから物語に移行せず、一旦冒頭に映像的な描写を入れ込む。短歌の話(映像的描写)から地の語りへと移ってから再び物語(映像的描写)へ。技術的な部分が地味に効果を発揮しているように思えた。冒頭の謎を解くかのように物語が進み、俳句の名を子葉という大高源吾が、宝井其角という男と話をする。そこから一つの短歌をきっかけに物語が展開する。言わば短歌を一つの謎としたミステリー調の話だと私は思った。最初にその謎に気づく其角の殿様。聴く者も既に源吾の思いには気づいているが、物語の中の其角だけは気づかない。奥さんや俳句仲間も巻き込んで面白おかしく話題は展開しつつも、ふとしたことがきっかけで短歌『あした待たるるその宝船』の意味に気づく辺りは、ミステリーの謎が解かれた気持ち良さがある。

其角が謎に気づいた後の場面展開は凄まじかった。お互いに思いを抱えながら、短歌で思いを交わす源吾と其角。吉良邸の門へと勇ましく走っていく大高源吾の姿が私には見えた。この辺りは言葉にすると野暮になりそうなので書かない。とにかく講談を聴いて、その時に浮かんだ映像に身を任せてほしいと思う。

最後は今月今夜、吉良邸へと討ち入りまして、定刻でございます。みたいなことを言って終幕。あんまりスピリチュアルなことは言いたくないけど、何かに呼ばれてここに来たんだな、という印象を強く抱いた。

正直に言えば、近頃の私は真剣な芸を見たいという思いが強くなっている。妙に茶化したものよりも、ガチ、本気、真剣勝負みたいな、ひりひりしたものを見たいという欲求が募っていて、それがどうしてなのかは分からない。恐らく、何度かそういう真剣な芸に出会って痺れてしまい、その快感が忘れられないのだと思う。今日はそれほどではなかったし、正直マクラも長いかな、とは思いつつも、素敵なふたりらくごだった。時折、松之丞さんの語り口調に松鯉先生のトーンを感じて、なぜかうるっと来てしまう部分もあった。

時代によって移り変わる鉄道も、どれだけの時代が過ぎても色褪せることの無い赤穂浪士の物語も、そして今、この時代にある講談も、全てが生きて受け継がれていくのだと思う。幾百年、幾千年を超えて、話芸に生きる志、そして話芸そのものに受け継がれた魂を感じた1時間になった。

渋谷らくごの始まり回に外れ無し。素敵な会でございました。

勢いに任せて20時回も行きましたので、そちらは次の記事で。

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