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枝雀師匠のDNA~2019年3月30日 お江戸日本橋亭 九雀・坊枝二人会~

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やったるでぇ! 

ぼんやりボンボヤージュ

桂枝雀師匠と言えば、落語好きなら知らない人がいないほど有名な落語家である。何を隠そう私も、たまたまYoutubeで見た桂枝雀師匠の『代書屋』を見て落語に魅了された人間である。生の高座が見たい!と思って調べたのだが、残念ながら既にこの世界にはおらず、天国に存在する寄席で名人達と肩を並べながら、天国の人々の爆笑をかっさらっている。

その日は、たまたま用事で東京近辺をぶらぶらとしていた。東京駅は随分と人で賑わっており、少し肌寒い空気ではあったが、人々の熱気が街を温めていた。何となくぼんやりと散歩をするのが好きな私は、自分の直感に従って歩き、道に迷ったり、飽きて家に帰ろうかと思ったところでスマホを見るようにしている。Google mapという非常に便利なアプリで現在地を確認したら、私の散歩は終了することになっている。

ぼんやりと歩いていると、『綾鷹の木』やらが立ち、有名シェフが一同に会した祭りのようなものが行われていた。なんとなく景色に見覚えがあり、一体どんなシェフが店を開いているのだろうと気になりつつ、店の様子を眺めた。各地の日本酒やら寿司やら肉串などが並べられ、『三代目がどうのこうの』と書いた看板があった。顔の黒いどこかで見たシェフが、陽気に酒を飲みながら周りの友人たちと語り合っているのを見た。

今になって思えば、これも全て何かの縁であったと思う。ぼんやり円を描きながら始まった私の散歩が、円の閉じる位置でばったりと何かにぶつかった。それは、何代も受け継がれる食の技術の祭り。正式な名称は全く覚えておらず、一体何の祭りだったかすらも覚えていないのだが、白い調理服を身に纏った有名なシェフが露店で店を出していたことだけは覚えている。何となく、何かが受け継がれているのだという空気がそこにはあった。

 

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なんともいい加減な覚え方であるから、私は全く自分というものが信用ならないと思うのだが、そこにあった空気感だけははっきりと覚えているので、何の問題も無いと思う。大事なのは情報ではなく、その時自分が何を感じたかであると思うので、この記事は正確な情報というものを必要としない。それは誰かがそのうちに、「3月30日のイベントはこれこれ~」と教えてくれるだろうと思う。別に教えてくれなくても良いが。

 

ばったりお江戸日本橋亭

そんないい加減な人間であっても、見覚えのある通りを歩いていると、「あ、ここは前に来たことがあるぞ」と思い出して驚くことがある。ぼんやりと歩いていると、お江戸日本橋亭を発見し、「おっ、懐かしいな」と思った。朝練講談会でお馴染みの日本橋亭である。直近では左談次師匠を偲ぶ会が最後であったと思う。僅か数日間で懐かしさを感じるほどなので、私は随分と忘れっぽい性格のようである。

せっかくお江戸日本橋亭まで来たのだから、落語の一つでも聞かねばなるまいぞと思い立ち、早速スマホで今日の会を調べる。『桂九雀・桂坊枝二人会』とある。調べると、九雀師匠は桂枝雀師匠のお弟子さんであると書かれており、このときに私は、「これは聴かねば!」と思ったのである。

今まで、桂枝雀師匠には夢中になっても、お弟子さんについて考えることは無かった。よく目にするのは桂雀々師匠で、いつか高座を見たいと思っている。

思わぬところで桂枝雀師匠のお弟子さんの高座が見れるということで、私の胸は高鳴った。また、今では6代目で有名な桂文枝という名であるが、5代目の桂文枝師匠のお弟子さんである桂坊枝師匠も見ることが出来るとのことで、一体どんな落語が見れるのだろうと、興奮を抱えながらドトールに入った。結婚式帰りの美人集団が珈琲を飲んでいたので、無条件で癒されながら、私は開場時刻まで待った。

 

前情報一切なし 一目惚れ

落語も恋もそうだが、一目惚れというのはどうにも頭を悩ませて仕方がない。ぼんやりとした寄席の中で、綺羅星の如く光り輝く文菊師匠を見た時もそうだが、一目見て「これぞ!」と思う落語家に出会ってしまうと、無性に色んな演目をその落語家さんで見て見たくなってしまう。恋も同じで、全ての美人の中にあって「これぞ!」と思う美人に出会ってしまうと、何度か足繁く通って、顔と名前を憶えてもらうところから会話が生まれ、美人が何を考え何を好んでいるかなど、いちいち全ての事柄に対して美人が感じることを知りたくなってしまう癖がある。一言で言えば恋愛体質であるのかも知れぬが、物事はそれほど単純ではない。また、これはセックスにも言えることで、一度体を重ねてみると、いや、よそう。

相手の高座を初めて見る時のドキドキ感もさることながら、自分の中で固まりつつある江戸の落語家さん達の風から、一転して上方の落語家さん達の風を感じる時、果たして自分はその風に馴染むことが出来るだろうか、という不安がある。だが、そんな不安も全く杞憂であった。それは開口一番に、圧巻の前座さんが登場したからである。

 

桂九ノ一 兵庫船

これまでの落語鑑賞人生において、これほどまでに漲った落語は聴いたことが無かったし、これほどまでに溌溂とした熱気を放ち続けた落語家はいなかったように思う。九ノ一という名から、美人な前座さんかなと思っていたら、力士のような体格と、まさに「やったるでぇ!」というような笑みを浮かべ、眼にはたっぷりの気合と情熱を燃え滾らせた男が出てきた。その名を、桂九ノ一。

後に偉大な落語家になるであろう素質を持っている。一目見れば、その勢い、汗、熱量、そして圧巻の大音声に心を奪われることは間違いない。もはや前座レベルではない。一つ一つの言葉に淀みは無く、眼は仁王の如くに輝きを放ち、厚い眉と気迫に溢れた口元。全身を使って船を漕ぐと、鳴り物が鳴る。完全に気迫にノックアウトされ、私の頭の中はこんな言葉で埋め尽くされた。

 

物凄い気迫だ!

 

何よりも、眼である。その眼には幾千年もの年月に耐えうる、強烈な力があった。落語において、今まで想像もしなかった『気迫』という言葉が、私の脳内に沸き起こった。同時に、『気迫』という言葉は講談に主に用いられるものであろうと私は思っていたし、現に神田松之丞さんなどの講談師には『気迫』という言葉が芸の表現のどこかには表れてくるだろう。肩の力を抜き、独特のフラで笑わせる桂伸べえさんや、鮮明かつ端正で緻密な落語の世界を構築する文菊師匠、そして、ついに新たなる落語の魅力、気迫と熱量の落語を見せる九ノ一さん。この三人のトライアングルが私の中に出来上がったのである。あまりの嬉しさに身悶えし、二日ほど目覚めの時には「九ノ一さん、凄かったなぁ・・・」という衝撃が残るほどであった。

ただただ気迫に圧倒され、大振りの大剣を振り回すかのような圧巻の落語に打ちのめされた。同時に、上方にこれほどの逸材が存在しているということが、堪らなく羨ましいと思った。出来ることならば、東京の落語界に九ノ一さんが欲しいほどである。まだ前座という身分であり、調べると入門して僅か2年であるという。Twitter等で演目を調べると、ネタ数も多く、どんな風にやっているのか、物凄い興味がある。

出来る限り東京にも来て欲しいと思う。そんなスペシャルな存在との嬉しい出会いがあり、今もまだ「九ノ一さんの落語がみたい」という欲求に苛まれている。

 

桂坊枝 手水廻し

初見であるため、詳細な判断を下すことは出来ないが、愛らしい姿と可愛らしい声が魅力的な落語家さんだと思った。なぜか私は春風亭一朝師匠を思い出していた。寄席の中において、この人が出てくると場が締まるという感じがする。本寸法の落語を何とも可愛らしく演じ、聞く者を惹き付ける声と言葉。手水を飲む場面も面白く、ベテランの落語家さんが持つ、噺の世界に誘う力が物凄いと思った。最初に九ノ一さんを見てしまったため、さすがに溌溂さは無かったが、細部まで配慮された言葉と所作、何よりも深みのある芸が光った。出来ることならば、寄席の流れの中で見てみたい落語家さんである。

 

 桂九雀 桜ノ宮

九ノ一さんの師匠ということで、一体どんな落語が見れるのだろうかと期待して見た。結論から先に言えば、物凄い溌溂とした落語家さんで、なるほど九ノ一さんの溌溂さ、気迫の根底には、九雀師匠の存在があったのだな、と改めて思った。どの落語家さんでもそうだが、気になった落語家さんの師匠の芸を見ると、芸の中で生き、受け継がれたものがあるのだなと感じることがある。それは小八師匠に受け継がれた喜多八師匠の芸であったり、談吉さんに受け継がれた談志師匠と左談次師匠の芸であったりもする。そして何より、桂九雀師匠には、確かに、桂枝雀師匠の芸が受け継がれていた。

動画でしか見たことはない枝雀師匠の姿であるが、その溌溂としながらも流れるような言葉運び、そして知性に溢れたワードの数々。九雀師匠には枝雀師匠の溌溂とした姿が受け継がれているように思った。そして、何よりも眼である。九ノ一さんの時にも思ったのだが、とても素晴らしい眼を持っていると私は思う。それはどうにも理屈では言うことが出来ない。ただ『素晴らしい眼だ』と思う心が、私の中にあり、そんな眼をしているのである。

さて、『桜ノ宮』というネタは、東京で言えば『花見の仇討ち』に相当する。何とも季節に合った素晴らしい噺で、九雀師匠の声と表情がとても素敵だった。満開の桜の中で、芝居に興じる人達の姿が面白い。花見をしたくなる素敵な一席で仲入り。

結局、仲入り中も私は『九ノ一さん、すげぇなぁ』という気持ちでいっぱいだった。

 

 桂九雀 鰻屋

軽めのネタでさらりとやった九雀師匠。一杯飲むために振り回される男の様子が面白い。一杯の正体が判明するオチまで聞いた後、鰻屋のオチまで、音源で聞いていた枝雀師匠の型だと私は思った。嬉しそうに語る眼と表情がとても素敵で、何よりも元気である。明るくて元気で、それでいて可笑しみがある。まだ初見のため、良い言葉を発見できていないのが残念だが、気持ちの良い型で落語を聞いているような感覚がある。sれは変に入れ事のない、落語本来の面白さに寄り添った語りにあると私は思う。もっと色んな話を聞きたいと思った。

 

桂坊枝 天王寺詣り

大変に失礼な輩がいるもので、こんな無礼を働くのであれば未来永劫、演芸の神様から呪われてしまえ、と一瞬思うような、酷く礼を失した者がいたらしく、登場した坊枝師匠が優しく制していた。そこでブチ切れずに冷静に伝達する坊枝師匠は、とても大人の対応であったと思う。これは読者にも察して欲しいのだが、寄席や落語にはルールがある。それは、聞く者が勝手に捏造したり、拡大解釈してはならないものである。以前、寄席の録音行為について記事を書いたが、録音・録画は一切禁止である。これを読む読者の中には、そんな不届き者はいないと思っているが。

優しく制した坊枝師匠は、気を取り直してネタに入った。これが絶品で、『付き馬』にも似た、二人で移動する系のお話である。愛犬の供養のために四天王寺へとお詣りをする六さんと甚兵衛さんの姿が、楽しくて仕方がない。微笑ましいお詣りの姿の底には、『愛犬の死』という悲しいテーマが流れているのだが、温かくて、なんだかほんわかするような語り口で、最後のオチの辺りは少し涙さえ浮かんでくる始末。

後になって、五代目桂文枝師匠の音源を聞いた。坊枝師匠の語りの中に、文枝師匠の語りは生きていた。あの優しく、高い声と、独特の間の愛らしさ。初見であるため、まだ適した言葉を持たないが、ほんわかとした雰囲気がとても素敵だった。

 

 総括 それぞれのDNA

今回の三人はどなたも初めてだったが、上方には上方の素晴らしさがあることを改めて知った。東京と上方で優劣などなく、どちらも素晴らしいことに間違いはない。だが、私の心は確実に『上方の落語家さんをもっと見たい。聞きたい!』という気持ちで埋め尽くされている。どんな逸材が眠っているのか想像も付かない。また、上方の地で感じる寄席そのもの、寄席の空間そのものも、まるで東京の空間とは違うのではないだろうか。それぞれの空間に存在する風、雰囲気を味わってみたい。

長く東京の寄席に通っている身としては、東京には東京の風が吹いているように思う。そんな場所に、上方の落語家が現れてくると、それはそれは魅力的に私には感じられるのである。

また、上方で隆盛を誇った名人。桂米朝師匠、桂枝雀師匠、桂文枝師匠、笑福亭松鶴師匠等々、名人たちのDNAは確実に弟子達へと受け継がれているのだと知った。東京ではお馴染みの噺であっても、上方で聞くとまた違った味わいがある。だから、落語は奥深いのだ。

もっともっと、上方の落語が聞けるように、東京で開催された時は通ってみたいと思った。

お江戸日本橋亭を出て、少しハッとする。そうか、私はいつの間にか上方の地に誘われていたのだな、と思いながら、東京の街の中へと消えて行くのだった。

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