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短歌と位相とバーネット・ニューマンと~2019年1月24日 雑記~

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三十一音の位相

 

日常生活は正弦波だ。山あり谷ありだけれど、一日を終えてベッドに入ると、最初の位置に戻っている。日々が進むほどに、振幅が大きくなったり、かと思えば小さくなったり、時々、ノイズが乗ったりして、波形が乱れる。

 

私は自分の感情が正弦波のようだ、と感じることがある。商用電源と同じくらいの正弦波交流だと思っている。素敵な演芸に出会うと、ノイズまみれになるし、美人に出会うと振幅が大きくなるし、怖い人に出会うと振幅が小さくなる。

 

短歌に出会うと、感情の正弦波の位相をずらされるような気持ちになる。まるでコンデンサか何かかも知れないと思う。コンデンサは電気を蓄えたり放出したりする部品だが、短歌は感情を蓄えたり放出させてくれると私は思う。「きっとこんな感情に違いない」とか「ああ、これはこんな気持ちなんだ」と、短歌を詠むことで感情の蓄積と放出があって、それは一種の快感に近い。コンデンサが放つ電気のように、ビリビリと力強くて痺れるものだ。

 

たった三十一音なのに、世界の全てを見てしまったかのような気分になる短歌がある。私の好きな短歌を幾つか紹介しつつ、私の感情の正弦波の位相が、どのようにズラされたかを解説していこう。

 

 

 

山階基

 

缶コーヒー買って飲むってことだってひとがするのを見て覚えたの

出典:「早稲田短歌」41号 2011年 山階基

 

 

 

何気ない日常生活の、当たり前の行為を再認識することによって、今現在、自分が行っていることの全てが「他人の模倣」によって習得されたのだ、と考えさせられた短歌である。キーボードを叩いて文字を打つこと、ペンを持って文字を書くこと、自転車に乗ること、言葉を話して人と会話をすること。全てが先人の行動の上に成り立っているという『受け継がれていく感じ』がひしひしと伝わってきて、自分の遺伝子や日常生活の無意識のレベルまで他人の影響があることを認識した。同時に、亡き祖父の好きだった言葉、口癖、笑顔、行動、ありとあらゆる小さな行動の一つ一つが、自分の動作に生きているのだという喜びを感じた一首でもある。

 

他にも、例えば小さな失敗をした時にも思い出したい短歌である。出来るはずだと思っていたことが出来なかったときに、こんなことも出来ないのかと自分を責めてしまうことがあっても、ふいにこの短歌を思い出すと、「もっと色んな人の工夫を知って、再度チャレンジしよう!」という気持ちになる。だから、この短歌はとても『開かれている』ような気がする。音の響きやリズムも良いし、最後の『覚えたの』という言葉の選択に、言いようの無い力強さを感じてしまうのだ。

 

大丈夫、今出来ないことも、きっと出来るようになる。だって、君の覚えてきたことは、誰かがやるのを見て覚えたことなのかも知れないのだから。

 

そんなメッセージを感じとってしまって、私の位相は見事にズレた。人が失敗するのを見ると、「次はこんな風にやってみたら?あの先輩はこんな風にやってたよ」と声をかけて励ましてあげたくなる。そんな素敵な短歌だ。

 

 

 

初谷むい

 

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

出典:『花は泡、そこにいたって会いたいよ』 2018年

 

ああ、もう超良い。と思ってしまう素敵な恋の短歌である。イルカが飛んで、イルカが落ちた後で、目の前でそれを見ていた彼氏が「ん?」と振り向くのを見る彼女の視線がある。この『何も言ってないのに』という言葉の選択が痺れる。そこに言葉は無いのだけれど、目の前の彼氏は確かに言葉を聞いたような気がして振り向く。言葉を発したのではなく、イルカが飛んで落ちただけなのに、振り向く。この二人の関係性の瑞々しさが伝わってくるというか、何とも言いようの無い感じ。

 

恐らく水族館でイルカショーか何かだと思うのだが、後になって思い返しても「どうしてあの時、きみは振り向いたんだろう?」という謎を残したまま永遠に消えない記憶。言葉と言葉で繋がっていたお互いの関係性が、幻の言葉に振り向くような関係になったことを象徴するかのような、素晴らしい一瞬を切り取った短歌のように思える。

 

私のように文章をだばだばと書く人間からすれば、言葉を放っていないけど、振り向くっていう、この短歌の雰囲気が、たまらなく良い。

 

キーボードを叩いていると「また何かブログでも書いてるの?」と聞かれて「ううん、君との結婚式の場所を探してたの」と返すような感じと言えば、ご理解いただけるだろうか。こちらの意志とは全く予想もしなかった角度からの相手の反応というか、「何も言ってないのに、ちゃんと私のこと思ってくれるんだ」というような瞬間が、この短歌にはあるわけですよ。

 

こんな恋、こんな関係性も素敵だなぁと。彼氏のその謎の反応に、ありとあらゆる意味を見出してしまいそうな、素晴らしい短歌に位相をズラされて、素敵な恋がしたくなる短歌です。

 

 

 

 北村早紀

 

みんな好きなら私の好きはいらんやろかき氷でつくるみずたまり

出典:「現代短歌」2016年10月号

 

女子会でお互いに好きなものを言い合う風景が浮かんでくる。それぞれに好きなものを言い合っていくと、みんなが好きなものが発見される。例えば五人中四人がかき氷が好きだったとしたら、この短歌の主人公は残りの一人で、「いや、みんなかき氷好きなら、私の好きは言わなくてもいいと思うけどさ、かき氷でつくるみずたまりなんだわ」みたいな、周囲の反応を見つつ、自分の一番好きなものを発表する信念の強さを感じてしまって、微笑ましいなぁ。と思う短歌である。

 

落語好きの方でも、有名な噺家さんの話題になると「柳家小三治師匠のココが!凄いの!」とか「一之輔師匠はね、この話のこのフレーズが!」みたいなこだわりの多い人がいて、それは通になればなるほどというか、好きになればなるほど、好きな部分が細かくなっていく感じがあって、それは誰にも理解されなくても良い!という強い信念があるのだと思う。

 

本当に好きなものというのは、他者から全く理解されなくても全然平気なものなのだと思う。私の場合は、私が自分が好きなものを留めておきたくてブログを書いているし、こんなに素晴らしい人がいて、私はこの人にこんな素晴らしさを感じるんだ!ということを発信していきたいから記事を書いている。幸いにして、認めて頂けているのかも知れないが、自分としてはまだまだ書き足りないことの方が多い。一生かかっても語りつくせるか分からないほど、好きなものというものは、それだけ自分にとって特別なものなのだ。

 

この世界に自分しか愛していないだろうな、と思うモノがたくさんあると、それはとても幸福なことだと思う。なぜなら、そのモノ自身もあなたにしか愛されていないのだから、お互いがお互いに一つしかないという特別感。そんな素敵な位相のズレを与えてくれる短歌。

 

 

 

総括 短歌を詠むということ

 

短い言葉で世界を切り取る短歌。バーネット・ニューマンの絵画に感じるような清廉さが短歌にはあると私は思っている。

 

バーネット・ニューマンの絵で、1953年作の『Onment Ⅵ』というものがあるが、『Zip』と呼ばれる白線こそが短歌であるように私は思うのである。

 

白線を描かれる前の青い景色は、日常生活を送る自分自身が見えている景色。短歌という白線が描かれたことによって、それまでの日常生活の見え方が変わってしまった後の絵、それが『Onment Ⅵ』だと私は思うのだ。さらに言えば、自然で言えば『滝』が一番短歌に近い気がする。

 

私は語るとかなり煩い『滝マニア』で、長期休暇があると地方の滝を見に行って写真と動画を撮るほど滝が好きなのだが、滝には様々な形があって、エロスを感じさせるものから、清らかな心を感じさせるもの、生命の逞しい勢いや、龍の如き勇ましさを感じさせるものまで、もはや語りつくせぬほどに素晴らしい滝が日本に数多くある。いずれ、滝についてもじっくり語りたいと思うのだが、そんな滝のように、心という名の山から染み出してきた、美しい水の如き言葉。滝に打たれて体が清められるように、短歌を詠むと心が清められる気がする。

 

短歌を詠むということは、自分の感情の位相がズレるとともに、よりクリアに世界が見えてくることなのだと思う。出来ることならば、短歌について熱く語り合う会があっても良いのではないかと思う。でも、バーネット・ニューマンと絡めて語るのは私くらいかも知れないが。

 

それでは、本日は短歌のお話でございました。演芸好きなら短歌は気に入って頂けると思うし、より短歌の世界に親しみやすい下地が出来ているのではないかと思います。

 

 

eidaisuki.net/?p=462

 

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