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無音の時に漂うものは~2019年11月29日 Gallery 美の舎 無音の時 西田あやめ~

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一切の藝術は無窮を趁ふの姿に他ならず

藝術は感情を主とす

世界最高の情趣を

顕現するにあり

日本美術院綱領第一項』或いは岡倉天心の言葉 

 

プロローグ

いづかたより来て鳴らされた音か。

遠くにて鳴る鈴の音を聞く。わんおんわんおんと鳴る音が耳に届き、ひととせの音が『和音』となりて唐突に頭を揺らした。響き、輪廻、転生の後の、覚醒。

ハッとして目を覚ますと、窓外には触れれば罅割れるかの如き空がある。ふいに「あそこから落ちてきたのか」と予感めいたものを感じるが、即座に、『海』と声がする。

吾いづかたより生まれ、いづこへ辿りつくのか。

此岸に立ちながら、眼前に彼岸を捉えようとする。

たった一人で。

何も持たずに。

深い海を彷徨う魚の如き知的好奇心と、深淵なる木々の根差す揺るぎない山の如き情を、濁らせ破壊して正道を唱えるほどの気概も無く、まして、自らを誇示するほどの見栄も無い。剰え、細枝の如き小心がぱきりと音を立てないかと情けないほど心配している。

張り詰めた薄氷を踏みしめて歩く。ただぼんやりと無に帰す運命にある自らの肉体に思いを馳せる。いつか痛みも熱も感じぬままに消えゆく肉体の、芯にある骨。最後に残る、自らの線。白線。白骨。

誰かが摘み、納めるであろう骨壺の丸みが脳裏から消えて行かず、閉じるであろう蓋の冷たい音も耳から離れて行かず、墓石に刻まれる名への問いかけに返事は無く、ただ時の流れの中で風化せずに揺蕩う『言葉』に、身を任せて浮遊し逃げる思考。

孤独。或いは信じられないほどの白い痛み。或いは想像を絶するほどの寒さ。悪寒。頭を苛むのは、自らの肉体が、誰に焼かれ、何がどこへ行くのか、という未知への疑問。或いは、恐怖。

混沌とする思考の発端は、一人の画家の個展に行き、絵を見た故である。

彼女の名は、西田あやめ。

ある日突然降りてきた、その絵にうちのめされて、

今宵、言葉を綴る一人の男。

名を、森野照葉。

煮沸された言葉の収束を求めて、言葉を紡ぐ。

 

 Gallery 美の舎

東京都文京区根津一丁目に、その駅はある。根津駅。どうしても『鼠』というイメージが抜けない。

1989年に根津に移り住んだのは立川談志師匠で、『池之端しのぶ亭』をやっているのは三遊亭好楽師匠である。下町情緒なんて言葉には集約しきれない情緒にほだされて、ぶらぶらと歩く。徒歩三分の場所に、それはある。

『美の舎』と名付けられた小さなスペースで、壁にかけられた幾つもの絵。「ここか」と思わず言葉が声をついて出て行く。看板を撮影し中に入った。

 

『なにもしない』

最初に目に入ったのは、『なにもしない』という絵だった。一見すると、どこか美しい湖の中を、白い液体とも生き物とも分からぬ何かが漂っているように見える。ソーメンが好きな人には蕎麦に見えるかも知れない。腹が減っていたら箸で掬いたくなる者もいるかも知れないと思い、ふふっと心の中で笑うのだが、どことなく絡まり合い、糾われた白い糸のようなものが、私には『言葉』に思えた。

言葉を表現したり、自らの思考を口に出して表現するまでの間に、思考や言葉が揺蕩っている場所。それが『なにもしない』という絵にはあるように思えた。知識は良く『水』で表現されるという知識を、私は山水図を見た時に得た。

 

知者楽水

 

知恵ある賢人は、水が流れるように才知を働かせ滞ることがないから、水を好んで楽しむのだという。その言葉の影響か、この絵には、言葉或いは思考を水の流れの無い場所で漂わせている。そんな印象を抱いた。

読書をしたり、落語を見たりしているときの、『なにもしない時間』が、この絵に冠された『なにもしない』という言葉に集約されているのではないだろうか。私はとても楽しく絵を眺めた。同時に、思考を知識の海(そんなものがあるかは知らないが)に漂わせている時とは、芸術に触れている時ではないかと思う。芸術に触れているときは、感情が動き、遅れて言葉がやってくる。かろうじて掴んだ言葉で一応の納得、着地点を見つけたように思うのだが、掴んだはずの言葉も時と共にどこかへ消えていく。時とともに変わりゆく自らの心境の変化、身体の変化にも思いを馳せるような、静謐で、哲学的な絵であるように私には思えた。

また、『白』と言葉で書くと一色に思われるかも知れないが、微妙にその色合いは違って見える。水への沈み具合、動き、絡まり、全てが『どこから来て、どこへ行くのか』が分からない。始点と終点が不明であることが、まさに思考、言葉の突発性、不確かに浮かび上がってくる感覚に近いと感じた。

西田あやめという一人の画家が、どこまで意識的に絵を描いているかは分からないが、無意識から生まれきた感情の発芽、発露、滲み溶け、じんわりと出でる白き何かが、音もなく揺蕩っている光景は、感情を主とする、画家自身の情趣が顕現しているように思われて、一目見たときから「ううむ、凄いなぁ」と唸った作品である。

 

さく』

続いて目にしたのは、怪しく不穏めいた蛇の絡まりを見るかのような絵。『咲く』という言葉を当てるには些か怪しげで、『割く』という言葉を当てるには鋭さはなく、鈍痛のような鈍く重い、のしかかるような雰囲気を感じる。となれば『策』であるかと思えば、何となくであるが腑に落ちるようにも思われ、私は敢えて尋ねることなく『策』であろうと思った。

不穏な血生臭さと、密林の湿気。蠢き、噛みつかんとする大蛇の這いずり。そんな不穏さを感じる絵だった。

『なにもしない』という絵の白さから一転、暗い色使いが印象的だった。どことなく、暗躍するスパイの悪だくみにも思える。どこかの村の民族が肌に装飾のために塗っているような、独自の美的感覚を感じる。

長く見ていると、こちらまで何か悪い予感に飲み込まれるかのような、怪しい絵だった。

 

われる ひらく まく 

続く作品は、五つで一つのような、連なりを感じる作品。名前を失念してしまったのが二つあるのが申し訳ないのだが、一番右にあった絵には、どこか水平線を思わせる感覚があり、続く『まく』という絵には、勢いよく何かが撒かれていく様があった。

気になったのは、『われる』と題された作品と『ひらく』と題された作品である。『われる』という言葉は、そのまま『割れる』という言葉に置き換えられた。

『笑う』という言葉は『割る』という言葉に語源があるという説がある。顔が割れるほどの動作から、笑うという言葉に転じたのだそうだ。西田さんの描く『われる』には、人が笑うに至るまでが表現されているように思った。知識の湖を揺蕩う白い言葉が、黒い何かに侵食される。黒い何かを、私は『笑う』ための要因であるように思った。

人が笑う時というのは、自分の想像が予期せぬ方向に着地する瞬間であるように思う。水の中を漂う白さに、想像もしなかった黒が染み入ることの、不思議な『ひび』。『われる』という絵に着目すると、白さが持つ柔和さに、黒の持つ固さ、歪さがあるように思われ、これがすなわち『緊張と緩和』なのではないかと思った。

『ひび』という言葉に近い。それまでは平穏で柔らかく知識に浸っていた白い思考が、唐突に黒の、予期せぬ染み込みによって、意図せずして境界が生まれる。その小さな落差と言うか、割れ目、クレバスを感じた時に起こる『割れ』、転じて『笑い』が、この絵には顕現しているように思えた。

とても興味深い絵であると私は思った。

続く『ひらく』という絵も、どちらかと言えば中心に閉じているようにも見えるから不思議だ。或いは、『ひらく』とは、自分の思う『閉じる』なのかもしれない。或いは、内側に『ひらく』のか、外側に『ひらく』のかという違いに過ぎず、全ては観測者の立ち位置にあるのではないか。と考えるが、考えは定まらない。

何かが中心から噴き出してくるような感覚がある。突如として、間欠泉のように知識が知恵となって噴き出す前の静けさ。嵐の前の静けさとも言えるそれは、どこか緊張感と柔らかさを含んでいるように思えて、不思議な感覚に陥る絵だった。

 

 おりる のぼる

青と赤の対比が美しい、二作の強固な連なりを感じる『おりる』と『のぼる』と題された作品。

まずは『おりる』から語る。

赤い背景と、中心に白い何かが鈍い渦を巻いているように見える絵。私は、この絵の中心にある白とも灰とも分からぬ色が、『骨』、『梵字』、『言葉』のどれでもあるように思われた。

先述した『知者楽水』と対になる言葉に、

 

 仁者楽山

 

仁徳の備わった人間は、欲に動かされず心が穏やかでゆったりとしているので、おのずからどっしりと、揺らぐことの無い山を楽しむのだという。

『おりる』という絵には、揺らぐことのない山の奥深く、深部、マグマに迫ろうとする意志を感じた。それは肉体の芯である骨が、揺らぐことの無い山への憧れなのか、或いは『梵字』に近い『言葉』による接近、根差しなのかは分からない。太く、人間の肋骨のようにも見える白い何かが求めているのは、山が抱え込んでいるマグマの、熱そのものなのではないだろうかと思った。

それまで水に思考を漂わせていた白き何かが、初めて深く、熱のある何かに『おりる』、或いは『おりようとしている』のは、西田さん自身の無意識から生まれる、安定への渇望なのだろうか。分からないままに見た。

ふいに、人間や動物には『赤い血』が流れていることを思い、『おりる』という絵には、血や皮膚を纏おうとする『骨の動き』であるのかも知れないという考えがやってきた。どんな赤子も母の胎内で肉や皮を身に纏うように。『おりる』という絵には、そんな骨とも言葉とも判別の付かない白い何かが、何かを纏おうとする、鈍い動きが感じられた。

そして、『おりる』という作品は、『のぼる』という絵を見ると、より鮮明に様々な考えが浮かび上がってくる作品である。その逆も然りで、この二つは切っても切れない関係にあるのではないかと思った。

では、『のぼる』について語ろう。

『のぼる』は、青い背景に、『おりる』よりも鋭さと細かさの増した白い何かが、渦を巻いて上昇していくような絵である。

言葉と色と、中心を突き抜けて行く白の組み合わせが、何とも言えず心を揺さぶられる。初め、どう言葉にしてよいか迷った。

先述の『知者楽水』のように、再び水の中へと昇っていくように感じられた。同時に、山に雨が降ると、山に蓄えられた水が溢れ、流れができ、やがては河になって川になるという考えがやってきた。

つまりは、深淵なる仁徳の上部、表面には、目を見張るような鮮やかな湖である知識が湛えられているのではないか。故に、『のぼる』と『おりる』の中心に描かれた白には、仁徳を身に付け、知恵の湖を優雅に勇ましく泳ごうとする思考の躍動が感じられた。同時に、その白さには、肉も皮も無い故に、芯の部分で活発に動いているように思った。

どうしても、湖を泳ぐ生き物となると魚を思い出す。『のぼる』に描かれた白には、まだ肉や皮を持たない、何者でもない存在(魚、亀、海蛇など)の、鋭く激しい生命の回転、渦があるように思えた。

一見すれば、上に向かって放たれ、突き抜けていくように見えて、ふいに下へと突き抜けていくように、『のぼる』も『おりる』も感じられた。この二つの絵には、左右も上下も無いのかも知れない。そうした『方向性』が無いからこそ、いかようにも捉えられることができ、この二つの絵を見たときに溢れくる、無限の言葉に私自身も驚くのだが、今のところを書き記した。この絵を再び見た時に、次はどんな感想を抱くことになっているのか、自分自身に対しても楽しみである。

 

きおく

私はこの絵が一番好きである。エメラルドグリーンに染まる湖とも、温泉とも思われる場所を、白い何かが絡まり合いながら揺蕩っている。全体を通して、『定まることなく揺れる白い何か』に翻弄されながらも、一応の着地点を見つけた私は、しばし、この絵に釘付けになった。

色に関しての語彙が貧相で大変申し訳ないのだが、エメラルドグリーンの湖が、私には草津温泉のような、温かい硫黄を含んだ湯に見えた。こんな色の風呂があったら入らずにはいられないとまで思った。その湖を、気持ちよさそうにふらふらと漂っている白い何かが羨ましくさえ思える。『きおく』と題された文字を見たとき、はじめ、絵の奥に向かって白い何かが伸びているように思えた。

深い深い湖に沈んでしまった記憶を引き戻そうと、浅瀬でもじゃもじゃしているような、なんともいえない穏やかさ。出来ることなら、いつまでもエメラルドグリーンに染まる記憶の湖を揺蕩っていたいと思わせるほどに、温かく、ぬくもりがあって、心地よい雰囲気がある。

そうかと思って、今度は奥から手前に向かってくるように見たとき、今度は、白い何かが観測者である私に向かってくるように見えて驚いた。この白い何かこそ、記憶を思い出そうとしてもがき、知らず知らず絡まり合ってしまった思考のようにも見えて、ハッとしつつも、奥も手前もない絵の、不思議な感覚が心地よかった。

上手く表現できないが、この絵がとても好きである。もしかすると、私は常に『きおく』の絵のような状態にあるのかも知れない。様々な本から得た知識を抽斗にしまうというよりも、どこかだだっぴろいところに漂わせている感覚が私にはあって、それが『きおく』という絵にぴたりと合っているように思えた。

ここには、感情のダイナミックな動きというよりも、静かな揺らぎがあるように思えた。悲しくて、刺すように泣く、とか、怒りに満ちて、爆発するように怒るとか、そういう激しい動きは感じられず、もっと微細な、見過ごされがちな感覚が表現されているように思われた。

常々思うのだが、抽象的な絵とは、『言葉にならない部分が顕現したもの』ではないだろうか。岩本拓郎先生や、ジャクソン・ポロックの絵などを見ても、パッと言葉では言い表せず、その絵そのものが、一つの感覚を現わしているようなこと。私は美術の専門家ではないから何とも言えないが、西田さんの描く『無音の時』という個展の絵には、そんな思いを抱かざるを得ないほど、『言葉にならない部分』がたくさん表現されているように思えた。

そして、西田さんはこの絵をどのような思いで書いたのだろうか。思いを聞けば、妙に納得する部分があった。

私にもそういう経験があるので、良く分かる。ある日突然、どこからともなく言葉がやってくる。それは、今まで蓄え続けたものが、揺れて、ぐっと出てくるものなのか、それとも、何もないところから、突如として生まれてくるものなのか。観測位置によっては、どちらとも捉えられる気がするが、私は、自分が見聞きしたことが、脳の記憶のどこかに蓄積して、それが不思議な組み合わせによって、いつの間にか表出するのではないかと思っている。

膨大なインプットの後の、至高のアウトプット。その一瞬の輝きが、全作品に光っている気がした。これは西田さんに言ったかも知れないけど、前回の展示は、『あの時はあの時で素晴らしかった』、そして『今は今で素晴らしい』。私は『きおく』という作品に出会えただけでも、何か、西田さんという一人の画家の、巨大な可能性を感じられた。

同時に、不思議な縁で、何がきっかけでそうなったかも分からないが、西田さんの作品に惹かれるのは、西田さんの持つ感覚が、どことなく、私が常日頃触れている落語、講談、浪曲に近いものを感じるからであろう。また、私自身が円山応挙長沢芦雪、田能村竹田や、岩澤重夫などの作品に感じる、強烈で、圧倒的なまでの、身体が震えるような表現を好んでいるからであろう。

これも不思議な偶然だが、大分の美術館で見た岩澤重夫先生の作品には緑が多かった。『緑』などという一言には収まりきらないほどの、あらゆる緑が絵に表現されていた。『きおく』にも、どこかその系譜に連なる魂を感じるのである。

素晴らしい絵。この絵を見るだけでも、西田あやめさんの類稀なる才能が感じられる。

 

かがみ

大衝撃の『きおく』の後で、『かがみ』と題された絵。はじめ、『屈み』かと思ったが、西田さんの言葉では、どうやら『鏡』であるらしいということを知る。

なかなか最初の言葉が張り付いて離れていかない。ここには、黒が縺れながら、屈んでいるような、何か別の場所へ移動する前の、準備段階のような雰囲気を感じた。

どこか機械的な雰囲気もあり、それが『鏡』という装置の纏う雰囲気なのかも知れない。或いは、絶え間なく変化し続ける自らの身体や細胞の小さな抵抗のうねりかもしれないと思った。排水溝に流れていく髪の毛とも思って、ふふっと心の中で笑う。種々様々に捉えられる、不思議な絵だった。

 

 ふゆう

志賀直哉の言うところの『うじゃじゃけた』雰囲気を感じる『ふゆう』という絵。最初に見た『なにもしない』などの絵に感じられた『水の中を揺蕩う』イメージから一転、黒い糸とも言えぬ何かがぐるぐるとうねっている。ともすれば落書きのように見えるが、その黒い何かがどこから現れて、どこへ行くかも分からない。その不安定さの中に、僅かな遊び心があるように思えて、見ていて面白い絵だった。

 

 しょうか

西田さん曰く、この絵が今回の最初に描かれた絵であり、『なにもしない』が二作目なのだそうだ。最初は「えっ、『なにもしない』が先じゃ無いんだ!?」という驚きがあったが、今では妙に納得している。

前述したことが繰り返されるが、はじめ、これは知識の湖を出ようとする白い何か(言葉、思考、意志など)が、きらきらと動き始めているように見えた。上に向かって『昇華』していくように思えたのだ。すると、絵が途端に上へと昇っていくように限定されているような気がして、むむっと思ったのだが、なんてことはない。私自身に再びやってきた『しょうか』は『消化』だった。

この絵は、『昇華』でもあり、『消化』でもあるのか。と思って、妙に腑に落ちた。しょうか、しょうか、と思った。(いらないギャグ)

何を素人が腑に落ちたなどと言っているのか、と思われる方がいるかも知れないが、『しょうか』と題された絵も、それまでの作品同様、上も下も、左も右も無い。そうした方向性を持たない絵であるように思えた。

画面の全体にはぐじゃぐじゃと絡まり合った白い何かが、上に向かって収束していくようにも見え、反対に、上に白い何かがあって、それがゆっくりと知識の湖に解けて行くような風にも見えた。

自らの内部で絡まり合い、複雑さを増した白い何かが上に向かって洗練されていく『昇華』と、複雑に形成された白い何かが解きほぐされて、湖に溶けていく『消化』。この二つを感じた時に、矛盾する言葉が絵の中で一体になっていることの面白さがあった。これを無意識で書いているのだから、信じられない才能だと思う。まさに『何かが降りてきている』としか言いようの無い、驚嘆の着眼点。そして、それを絵として顕現させる技量。凄まじい。もしもこの絵を神が西田さんを借りて書いているのだとしたら、神に問うてみたい。「なぜ西田さんを選んだのか」と。

恐らく答えは私と同じであろうと思う。神はきっとこういうだろう。「この者の無意識の間隙が、居心地が良かったからだ」と。

私はどうにも言葉で考えがちな人間で、それ故に『狙って書く』ということをすることが多々ある。こう書けば、読む者は驚くのではないか。こう書けば、読む者は笑うのではないか。それはある種の邪念で、西田さんの絵で言うところの『さく』かも知れない。だが、西田さんの絵には、そうした策とか、狙いが、今回の展示では一切無いような気がした。

そこが、凄いのだ。私のような邪念だらけの人間には、無意識でここまでの作品を書くことは出来ないのではないか。と思ってしまう。その純粋さというか、意識のなさが、とてつもなく羨ましい部分である。と、日ごろ古典芸能に触れ、その感動を言葉にしている男は、こういうところで妙に心が痛むのである。

それはさておき、この絵には荒々しい噴出と瑞々しい解きがあるように思えた。相反するものが、一体となっている。陰陽合体とも呼ぶべきであろうか。この絵が今回の個展で最初の作品というのも、頷ける絵だった。

 

 まやかし ひかり

怪しげな文字が記されているような二つの絵。眺め続けると怖くなりそうな絵だ。どこか人の身体のようで、字のようにも見え、体が文字なのか、文字が体なのか、或いはどちらでもない、一つの未知の何かなのか。

分からない。分からないけれど、それまでの作品のいずれにも潜んでいた何かのような気もする。或いは、それまで神が西田さんを借りていたがゆえの、残像なのだろうか。

私は無宗教であるし、特にスピリチュアルな話をするわけではないが、ひょっとすると、誰にでもそんな体験はあるのではないかと思う。ある日突然、自分ではない何かが暴走を始める。一体自分が何に惑わされたのかも分からないまま、自分の意志ではどうすることも出来ないまま、行動して、誰かを傷つけてしまったりする。

この絵には、そんな『自分ではどうすることも出来ない何かに突き動かされた者』だけが見ることのできる、『神の残像』が記されているのかもしれない。

チバユウスケは『神の手は滲むピンク』と歌ったが、ひょっとすると、神の姿は人間に似ているのかもしれない。否、人間の姿に似ているからこそ、神なのかも知れない。神社仏閣に存在する神々の像が、人間に似ている、或いは人間そのものであるように感じられるのは、そういった部分にあるのかも知れない。

だからこそ、神は人間の姿を『まやかし』だと言っているのかも知れない。これは想像に過ぎない。本物の神に「お前らの作った像はすべて、まやかしだ。真の神の姿ではない」と言われたら、何を信じてよいのか分からない。

信じるとは、難しいことだ。と、つくづく思う。

そんなことを考えさせられる絵だった。

 

まよい

この絵も凄い。私は、それまでの思考の流れから、『まよい』で初めて、白い何かが肉体を得ようとしているように見えた。それはちょうど、骨が内臓や神経や皮膚を纏うように、或いは、言葉が様々なものに触れて形作られるかのように、或いは、思考が様々なものと混合して、一つの形として顕現するかのように。

ここには、『かたちにならないものが、かたちになろうとするときの、まよい』があるような気がする。白という、自身の色に、他の色を混ぜようとして、なにかになろうとするときの『まよい』。この色を取り込むべきか、この色を自分の一部にするべきか、この色の先には何が待っているのか。そんな『まよい』はそのまま『迷い』となって、『間』に渦巻いている。ぐるりと、灰色や黒や、茶や青緑を囲むように白が激しく渦巻いている様子が、自らを形成する上での『まよい』に感じられたのである。

どんな人間も、どんな他者に出会うか、どんな言葉に触れるか、どんな考えに触れるかによって、形成される自己は異なってくる。もちろん、自分の器量や、自分の好みや、自分の趣向というものは、誰に何の影響を受けて実体を成したのか分からない部分が数多くある。たとえば、スポーツ万能で、両親ともにオリンピック選手の子供が、スポーツが苦手で読書家になりうる。反対に、鳶が鷹を生むようなことだって起こりうる。それは一体、どんな理屈でそうなるのか、誰にも説明できない。その混沌さ、自分の意識とは無関係に混ざり合っていく思考の白さが、知らぬ間に『まよい』ながら、様々な色を身に付けて行く。そんな様子を見ているような絵だ。

たとえば、全身を青一色で塗った人と、全身を赤一色で塗った人が、道で偶然すれ違い、互いに肩がぶつかったとする。触れた部分は互いにピンク色になる。これくらい、人の影響が目に見えるほど分かりやすかったら、「この色は嫌だな。ちょっと青足しちゃおう」とか思えるのだが、人生にそんなことを行うことはできない。

触れたら、触れたものの面積も、色も、形も分からないまま、何かしらが自らに付着する。時には肌で、時には言葉で。そうした自分とは異なるものとの抗えない接触、それによって生じる『まよい』が、この絵にはあるように思えた。

この絵はダイナミックさがあって、鋭敏さがあって、躍動感に満ち溢れている。『まよい』とは題されているが、それは決して負の雰囲気に埋め尽くされておらず、どこか正の、ポジティブな雰囲気にも彩られている。

ここにも一つ、相反するもの達が一つに顕現されているような、圧倒的なまでの躍動があった。

 

はじまり

最後に見たのがこの絵だった。全てが腑に落ちるような思いだった。というか、この絵を最後に見るような見方をして良かったとさえ思った。

私はここまで、知識の湖を思考が揺蕩うと書いてきた。事実、そう思ったし、今もそう思っている。『はじまり』という絵を見て、さらにもう一段階、知識の湖を揺蕩う前の存在を認識した。

それは『海』だった。考えてみれば、ビッグバンが起こったことによって地球は生まれ、やがて雨が降り、海が生まれた。この地球には最初、水素しか無かった。やがて、ヘリウムが生まれ、次いでリチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素と、次々に元素が生まれてきた。

ここで考えてみて欲しい。人は最初、海の生き物だった。微生物だった。それがどういうわけか陸地に上がり、やがては四足歩行から二足歩行になり、武器は石とこん棒から、核ミサイルと戦闘機に変わった。想像もできないような長い年月を経て、今、この世界に生きる人間はみな、海から生まれてきたのだった。

『はじまり』という絵には、まだ何者でもなく、白い何かであった人間たちが、生まれたばかりの世界で、海の中を彷徨いながら、宇宙の中心で回転し続ける太陽の光を浴びて生きている。そんな光景があるように思えた。

すべての作品を振り返れば、白い何か、黒い何かは、全て生命を持った何かであり、それは私自身、人間自身だったのではないかという考えがやってきて、『はじまり』という一つの作品が、『無音の時』の全てを集約しているのではないかとさえ思った。

私は、生まれたばかりの地球に思いを馳せる。まだ地球に生命が無く、自分が何かの元素であった頃の風景。白い何かであり、形を成さない自分を想像する。

生命の無音がある。ここには『無』でありながらも、揺蕩う生命の、静かな、それでいて力強い動きがあるように思えた。『はじまり』を見たとき、鳥肌が立ったのは、今まで湖だと認識していたものや、言葉や思考だと認識していたものが、この絵を見て初めて『生命』だと強く思ったからだった。

そうか、命だったのか。と驚愕しながらも、それは今の自分がそう思うだけだと思い改める。私が記したことは、あくまでも私が感じたことに過ぎず、見たものによって幾通りもの解釈があるのが、絵だ。それでも、私の中で結びついた、一つの壮大な物語に、私は思わず驚きとともに、言葉を失った。

『はじまり』の絵が、この個展の中に並んでいることの絶対的な運命。そして、それを最初に見なかったことの偶然、或いは必然に感謝したい思いだった。恐らく、最初に見ていたら、「おおー、なんか卵焼きみたいな太陽だー」と思っていたに違いない。

美術館でもそうだが、『見せ方』は意外に重要なのだと思う。今回の『無音の時』の鑑賞は、私は右回りからオススメする。最初に『なにもしない』を見て、『はじまり』を見て欲しいと思う。もちろん、見方は自由なので、特に強制もしない。

この『はじまり』こそ、西田さんに伝えれば良かったかなと思った。凄い作品である。恐らくは、この一作でも素晴らしいが、他の作品を見ると、妙に輝いて見える。一つの絵にも、様々に付随する名作・傑作があるのだと思うと、一体、西田さんは今後、どんな作品を生み出していくのか。楽しみでならない。

 

総括 無音の時に漂うもの

なんとも言えない衝撃を抱えながら、西田さんにお礼を言って美の舎を出た。ついつい喋りすぎてしまう癖と、飲んでいない時のたどたどしい喋りが申し訳なかったと思う。しかも、仕事帰りという体たらくだった。

どうにも天気が良かったので、こんなに天気が良いのだから、見るなら絵だよな、と思っていた矢先のことだったので、この偶然の空き時間がとても嬉しかった。

ぼんやり、色んな言葉をお伝えした気がするが、どれも素人の戯言と思って頂いて構わない。私は美術はあまり詳しくない。抽象絵画が好きな人間なだけである。

改めて、西田あやめさんという画家は、他の人には無い、類稀なる才能の持ち主であると思う。こんなことを私が言うのもあれだが、もっと自信を持っても良いと思う。だが、創造する人間の性分なのか、私を含め、自信がない人間が多い。もちろん、自信満々の画家の絵というのも、興味はあるが、あまり好んで読みたくなるかは正直何とも言えない。

でも、素晴らしいことに変わりはない。

相も変わらず、素晴らしいのだ。その一言に尽きる。

そうそう、言い忘れたことが一つあった。

これも山水図を見ていた時に知った言葉だが、「単にいい景色だとされていた場所が、世に名所、景勝地と呼ばれるようになったのは、文人墨客達がこぞってテーマにしたり、文字にしたり、絵にしたからだ」という言葉を見たときに、私は「そうか!」という強烈な発見をした。

私はまだ、名も無い一介の人間である。だが、自分の見たものの素晴らしさを正しく評価できる言葉は持っていると思う。誰かが、「あー、良い絵ですね」とか「綺麗ですね」とか「凄いですね」と言うことが、とても大切だと思った。

だから、私は言葉にしたいのだ。世には知られぬ単なる良い景色が、やがては名勝と呼ばれるようになるように。優れた才能を持つ一人の画家が、世には知られぬ一人の画家が、やがては日本を代表する画家と呼ばれるようになるように。

私以外にも、多くの人が見て、触れて、言葉にしてくれたらよいと願う。それほどに、西田さんの作品には、得体の知れない、日本人の根源的な何かが蠢いているような気がする。

才能って、放っておかれないのだ。少なくとも、才能に気づく人にとっては。

無音の時に漂うものは、きっとそうした才能の可能性なのかも知れない。

そしてそれは、知識の海を漂う、

白い生命なのかも知れない。

そんなことを考えながら、

私は言葉を紡いだのだった。

あなたにも、素敵な絵画との出会いがありますように。

そして、西田あやめという素晴らしい画家の未来が、

輝くものでありますように。

そう願いながら、この記事を終わる。

では、またいずれどこかでお会いしましょう。

あなたの『はじまり』に添えて。