落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

シラズシラズ・シラヲキリツ~2019年6月14日 渋谷らくご 20時回~

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好きになった人が

 

飲んだんじゃなくて吸った

 

スケジュール・ミス

 

はっはー

  シラ切り坊主

いけないことだと頭では分かっているけれど、どうしてもやめられないことが、誰にでも幾つかあるのではないだろうか。『分かっちゃいるけど止められない』とか『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂とか、様々に、思考と行動がかけ離れてしまうことを表す言葉が、昔から存在している。

そして、私にも、知らず知らずの内に止められなくなってしまったことが、幾つかある。落語を聞くことや、楽しいことがそれだ。

何か楽しいものに触れたいという気持ちが強いと、やらなければならないことを放り投げて、そちらを優先してしまう。甘い水に誘われた蛍みたいに、キラキラと目を輝かせて、楽しい方に飛んでいってしまう。お酒だって、美人だって、何だって、自分の心の『』に抗えなくなる時がある。今はある程度の自制が出来ているけれど、もっと歳を取ったらどうなるか分からない。気が短くなって怒りっぽくなったり、酒ばかり飲んで自暴自棄になったり、美人に手を出して酷い目に合うかも知れない。自分でも『今はダメな状態だな』とはっきりと自覚しているのに、それでも止められないのは、どうしてなんだろう。答えが出たって止められないのだから、それはきっと理屈じゃない。生まれながらに私に備わっている、欲望そのものが、私を止めないのかも知れない。もちろん、こうやって書くことだって、結局、止められないのだ。

こと渋谷という街は、きっと色んな人の欲望が入り乱れている場所だ。道玄坂を何周もする見知らぬアイドルグループの画像が張られたトラックに目を留める男達、ニッキー・ミナージュのコピーのコピーのコピーみたいな異国の女性。シェイン・マガウアンみたいな歯並びの家無き紳士、『ゴースト・ワールド』に出てくるイーニドとレベッカみたいな恰好の女性が楽しそうに話しかける電話の向こうで、どんな骸骨が骨と骨をすり合わせて笑っているんだろう。真っ赤なライトに照らされたホテル『Beat Wave』に消えて行くボニーとクライド、『ル・ペイ・ブラン』の前ではタンクトップのすらっとした男が、スマホに向かってニタニタと微笑みかけている。きっとスマホが糸電話になってもニヤニヤするだろう。

そんな人達を横目に見ながら、私も観察者ではなく、観察する人々の一部なのだと知る。たまたま好きなものが落語なだけであって、私の欲望が落語を聞くことなだけであって、ニッキー・ミナージュのコピーになる人とも、イーニドとレベッカとも、私は本質的に何の差も無いような気がしてくる。

だから、ユーロライブに入って階段を上り、会場にいる人の姿を見たとき、私はこう思った。

私と同じ欲望を持って、知らず知らずのうちに集まってきた人々。表向きは平穏を装っているけれど、誰もがシラ切り坊主だ。

私はあらゆる欲の中で、演芸に触れるという欲求に忠実な人々を愛する。

今月今夜の渋谷らくご、開幕だ。

 

 笑福亭羽光 私小説落語 ~青春編1~

自分では全くそんなつもりは無かったのに、たった一つの言葉をきっかけに、まるで自分の言葉で自分に呪いをかけたかのように、人を好きになって、どんどんエスカレートしていく男が出てくる、そんな『私小説落語 青春編』を語る羽光さん。私は羽光さんほどでは無いけれど、好きな人の前では素直になれない性分である。相手のことが好きなのに、それを上手く伝えることの出来ないもどかしさ。あらぬ妄想に走って、ついつい相手との理想の関係を思い描いてしまう愚かさ。全てが愛おしくて、青春に満ちているけれど、ギリギリアウトな恋物語の落語。

今まさに青春時代を過ごしている高校生には、どんな風に響くんだろうか。「キモいな」とか思って欲しくない。私を含め、落語を好きになる男子は、少なからず羽光さんの私小説に共感する部分を多く持っている。

今でも思い返す度に不思議に思うけれど、中学生や高校生だった私は、どうしてあんなに、人を好きになれたんだろう。自分が体験してきた筈なのに、その体験を上手く説明できないのは、その時の私にはそれを言い表す言葉が無かったのと同時に、そんな言葉さえも凌駕するような、理屈じゃない本能があったからなんだろうか。そう考えると、私が中学生や高校生だった頃、今まさに恋をしている人達って、動物みたいだな、と思える一瞬があるけれど、それもどうかな、と思ったりもして、結局、何にも結論が出ないまま、ただただ薄っすらとした記憶の前に立っていることしか出来ない。

 

 橘家圓太郎 猫の災難

上手く説明できないけれど、泣きそうになった圓太郎師匠の語り。じわじわ、じわじわっと胸の奥から何かが込み上げてきて、最後のオチを聞いて、じんわりと涙が零れてきてしまったのは、きっと私の心が圓太郎師匠に癒されたからだ。

猫の災難という話は、簡単に言えば『飲みたい欲求を押さえられない男が、自らの悪事を猫に押し付ける』内容である。

これがね、今日はなんだか凄く響いた。

最初に羽光さんの落語を聞いたせいかも知れないけれど、知らず知らずに自分が危なくなっている時がある。好きな女の子の家の住所を調べて、その家の前の駄菓子屋で張り込むとか、考えたら完全にアウトだけれど、それでも、その時はそういう行動を起こしてしまう何かが確実にあって、それにガツンと捉えられたら、もう逃げられない。

『猫の災難』という話に出てくる男も、飲みたいと思ったら、猫の食い残した鯛を貰って、酒を飲もうと友人に提案される。これって、不意に舞い込んでくる善意だと私は思った。

社会に出て生きていると、様々な人の善意に助けられる。右も左も分からずに右往左往していたら、誰かが手を差し伸べてくれる。右に行ってお寺にお参りしたいと思えば、右に行ってお寺に行く道筋を教えてくれて、さらには寺に参る際の作法まで教えてくれる人に出会ったりする。左に行って滝を見たいと思えば、左に行って滝を見る道筋を教えてくれて、さらにはより綺麗に滝が見える場所を教えてくれる人に出会ったりする。自分が望んだことを誰かが叶えてくれたとき、知らず知らずに自分が他者に甘えてしまっているということを、自覚したことが私にはある。

折角、様々な助言を頂いているにも関わらず、自分の身勝手な欲求に抗えず、助言を頂いた方に迷惑をかけてしまうことがある。その迷惑に対して、自分自身の非を認める前に、自分以外に原因はあるのだと言い訳してしまうことがある。鯛が頭と尻尾だけになった口実を猫のせいにする男のように。人の善意に甘えて、自分に都合よく言い訳を作りあげて、その場をしのぐ男の姿に、私は思わず「ああ、この人、私だな」と思って、胸が痛んだ。

酒を買うために懸命に奔走してくれた友人は、鯛が猫に食われたことを知って激怒する。それでも、鯛が猫に食われたことを信じて、「じゃあ鯛を買ってくる」と言って駆け出していく友人。そんな友人を見送りつつ、自らの飲みたい欲求に抗えず、酒を全て飲み干してしまう男。そして、酒が無くなった理由を猫のせいにする男。

全部、私みたいだ。と思って、泣きそうになった。人の善意に胡坐をかいて、自分の欲求だけを満たして、深く突っ込まれないことを良いことに、散々言い訳をする。言い訳の出汁にされた物からは苦情は来ないけれど、結局、自分自身の心に傷が増えて行くだけだ。

だからこそ、酒を飲み干し、猫のせいにし続けてきた男が最後に放つ言葉には、どこか一筋の希望があるように思えた。そして、そんな雰囲気を感じたのは、全て、圓太郎師匠の語りの力だ。

圓太郎師匠の包み込むような語りには、言葉の一つ一つに温かい感情が籠っていて、そして、何よりも言葉が凄くシンプルで削ぎ落されている。一つ一つの言葉が、ズシン、ズシンと胸に響いてくる。今までは『猫の災難』は酔っぱらっていく男に面白さがあると思っていたけれど、また別の意味を感じた。なんだか、凄く胸に響いて、この一席だけが会を終えた今もなお、深く心の奥に残っている。

正直、この部分が語りたくてこの記事を書いているようなものだ。

一度何かを強く望んでしまったら、知らず知らずのうちにのめり込んで、自分でも信じられないくらいに、周りに対してシラを切って、気が付けば取り返しの付かないところまで達したとき、人は初めて詫びる。詫びずに突き通してしまう人もいるかも知れないけれど、それは人間として情が無いような気がする。『猫の災難』という話に、こんな情の部分を感じるなんて、想像もしなかった。

蛇足だが、帰り際に圓太郎師匠と擦れ違い、会釈をした。とても優しい朗らかな表情をされていた。私はまだジーンとした気持ちを抱えながら、小さく、聞こえるか聞こえないかの声で「ありがとうございました」と言った。

素晴らしく温かくて、人間の愚かだけどどうしようも無い輝きを見た、素晴らしい一席で、インターバル。

 

柳家 緑太 宮戸川

じんわりした温かさに包まれ、インターバル後は雰囲気も変わって凝り性のお話から演目へ。柳家花緑師匠門下の六番弟子の緑太さん。地元の友達にそっくりな語り口で、見た目からは想像できないほどアクティブ。長距離移動、頑張ってください。と思わず声をかけたくなってしまうほどの逞しさ。

曲者と呼ばれているように、底の見えない性格で、花緑師匠譲りの品と明るさの中に、どこか独特の不思議な雰囲気があって、まだ二席くらいしか聞いた記憶が無いので、上手く説明は出来ないけれど、女性の声色が色っぽい。

宮戸川は通しでやると長い演目で未だに宮戸川・下を聞いたことは無い。宮戸川・上は『男女の欲、寸止め』と言った内容で、開口一番の羽光さんの『行き過ぎたリビドー』から、圓太郎師匠の『分かっちゃいるけど止められない』という人間の愚かさを見せた後の流れで、再びテーマが戻ってきたような感じ。若い人って、性欲が旺盛だよね。

絶妙な立ち位置でさらりと袖に下がっていく緑太さん。過剰に笑いを求めないあっさりとした宮戸川。素敵な語りの一席でした。

 

 古今亭文菊 鰻の幇間

前回の拝鈍亭で書いた時から予感していたのだが、今日のシブラクは恐らく『鰻の幇間』だろうと睨んでいたところで、見事命中の演目。文菊師匠の求めるような「どうなの?」という言葉に頭を縦に振るしかない私。声をかけたいけども、ぐっと堪える。

羽光さんからの流れから見れば、

行き過ぎたリビドー』→『分かっちゃいるけれどやめられない』→『男女の欲、寸止め』→『職業の業

というような、若手が性の欲求を見せ、ベテランが人の業を見せた、素晴らしい流れが生まれたと私は思っている。

文菊師匠の幇間も、前記事で記したように『哀しいくらいに騙されても、なお挑み続ける』姿勢が見事に表現されていた。若干、テンポはシブラク仕様になっていたように思うけれど、絶品の幇間だった。

一八という幇間もまた、私は聴く度に「ああ、私だな」と思う。確か山道を歩き続けてボロボロになった草履を見て、「ああ、これは私だ」と阿闍梨は思ったというが、大体そんな感じのことを、私は圓太郎師匠の『酒を飲みたい男』、そして文菊師匠の『手銭で飯を食いたくない男』に感じた。

とことんまで人を信じて、とことんまで騙されても、それでも「この仕事は辞められない」という図々しさにしがみつきながら、私は生きているのかも知れない。でも、そんな図々しさに甘えていてもだめだ、とも思う。色んな思いがせめぎ合うけれど、適切な時に、適切な演目は、知らず知らずに向こうの方からやってくるみたいだ。

シブラクという会の流れもあって、最後は会場も爆笑に包まれた。じんわりと、胸に染み込んで、生きて行くための処方箋をもらったような、そんな素敵な一夜だった。

 

総括 切ったシラを繕いながら

ユーロライブの外に出ると、雨がぽつぽつと降り始めていた。どうやら明日は大雨になるらしい。でも、そんな小粒の雨さえすぐに蒸発してしまうくらいに、私の心と頬は火照っていた。駅へと続く坂の両端には聞いたことの無いバンドのTシャツを来た若い人達が楽しそうに会話をしている。彼らは音を楽しみ、私は言葉を楽しんだ。

圓太郎師匠が特に素晴らしかった。同じ演目でも、演者によって全然見える角度が違うと言うか、私自身も感じる部分が異なる。今日はそんな体験ができてとても幸福だった。圓太郎師匠の落語って、『阿武松』もそうだけど、凄く温かくて元気が出てくる。落語の情の部分が、凄くシンプルに響いてきて、また一つ、落語の素晴らしさを知ったように思う。羽光さんは相変わらずこじらせを突き進み、緑太さんは曲者で、文菊師匠は言わずもがなだ。

今日、知らず知らずの内に切ったシラを繕いながら、私は家路へと急いだ。何度もシラを切らないように、気を付けなくちゃと思った。