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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

目標を据えた一席~はなし亭 2019年1月28日~

大いなる夜-Great Night-

一歩一歩と足を踏み出すにつれて、夜はその色を濃く深くしていく。建ち並ぶビルの小窓から零れる白熱灯は揺らめきもせず、差すように無機質な光で夜の闇に抗っていた。

本所地域プラザBIG SHIPへと辿り着く前のサミットストアでは、買い物カゴを抱えたご婦人が買い物をしていた。随分と賑やかである。その中にいる私は、この賑やかさとは別の、静かな熱狂がこの後にあるのだと思い、興奮していた。

古今亭菊之丞師匠、古今亭文菊師匠、柳亭こみち師匠。この三人がネタ卸しをする会、はなし亭。昨年の11月6日から僅か2ヶ月と少しでの開催である。ネタ出しがされているため、今回はかなり楽しみだった。

BIG SHIPの中に入りエレベータに乗り込むと、老齢な紳士が後から遅れて乗り込んできた。私は既に階数のボタンを押していたので、慌てて開くボタンを押した。紳士はか細い声で「ああ、すいませんねぇ」と言って乗り込み、点滅した階数のボタンを見て、「あっ、一緒ですね」と言った後に「文菊さんですか?」と尋ねられた。

私は察しが良いので、自分のことを文菊師匠と間違われているとは思わなかった(もし紳士が間違えたのだとしたら、嬉しいが)。当然、言外に「あなたのお目当ては?」と聞かれているのだと察し、「はいっ」と答えた。すると、紳士は嬉しそうに笑って「そうですか。あなた、随分お若いんですねぇ」と聞かれたので、「どうも」と会釈して返した。ここはおかしい。私は60代で薄毛肥満眼鏡の『心の声が口から出る系』親父である筈なのだが、紳士はどうやら見間違えた様子である。

エレベータが開くと、カウンターには菊之丞師匠と文菊師匠。しっとりと穏やかな菊之丞師匠と、なぜか2cmくらい浮いてる!?と思うほどに浮遊感のある表情と佇まいの文菊師匠。入場料1000円を払って、ん?えっ、金額?入場料って、入場料って

 

1000円!?

 

恐らく初めて来た人は間違いなく驚くに違いない。真打三人のネタ卸しの芸が見れて1000円である。めちゃくちゃ申し訳ない気持ちになりながらも、文菊師匠に1000円を渡し(あ、1000円受け取ってもらっちゃった。きゃっ)と思いつつ、菊之丞師匠からパンフレットを頂き入場。

会場の様子はさすがの常連集団はもちろんのこと、ほぼ固定メンツと言った感じの、落語の髄の髄まで知り尽くし、かつ時間に余裕のある年配の紳士淑女がご列席という雰囲気である。一体これだけ大勢のお客様は、どこからやってくるのだろうと不思議で仕方がない。私は毎日どこでもドアを使っているのだが(大嘘)

さて、初っ端から大ネタが続く今回。開口一番はこの方。

 

柳亭こみち『おせつ徳三郎』

前回、見事な『富久』でトリを飾ったこみち師匠。明るく小気味の良い軽やかな口調と、溌溂として芯のある素敵な声をお持ちの落語家さんである。

この話を簡単に言うと『恋に落ちた男女の心中未遂』という内容である。冒頭は、徳三郎という男とおせつという女が恋仲にあるという話を、近くにいた奉公人の定吉から旦那が聴く場面がある。この時の定吉がとても可愛らしかった。あまり話しちゃいけないことだとわかりつつ、給金アップに目が眩んでぽろぽろと徳三郎とおせつの話をしてしまう定吉の表情と声が可愛らしい。この後にまさか暗い話になっていくとは思えないほど明るくコミカルな雰囲気である。

中盤で、おせつのところに婿が来ることを知ってから、徳三郎が刀屋へ行くことになる。調べたところ、どうやら前半は『花見小僧』、後半は『刀屋』と演目が分かれているらしく、二つ合わせて『おせつ徳三郎』であるようだ。

徳三郎の真っすぐな恋心が気持ちが良い。刀屋に入るなり「刀をください!人が斬れる刀を!」みたいなことを言う場面があるのだが、愛する人と夫婦になれないのなら、愛する人を殺して自分も死ぬという気持ちの強さが心に突き刺さる。本当に人を好きになったり、愛してしまうと、飯が喉を通らなくなってやせ細ったり、歯が抜けて噛むことが出来なかったり、何をしても脳裏に愛する人の姿が浮かんでしまって、何も手に付かないという状況になってしまうほどに、人を愛したことがある人にしか分からない感覚かも知れない。私も含め、現代の人がどれほどの感覚を持っているのかは分からないので一概に言うことは出来ないが、徳三郎のおせつを思う気持ちは、純粋で力強いものだと私は思った。

そんな徳三郎を優しく諭す刀屋の旦那の姿が良かった。こみち師匠は声のトーンを落としつつ、真っすぐな徳三郎の思いを受け止める。少し調子に乗って『どかんぼこん』まで教えてしまう辺りの茶目っ気が面白おかしくも、全体の雰囲気はシリアスでありながら温かい。

『どかんぼこん』を教わって、刀屋を飛び出していく徳三郎。その後の展開は敢えて書かないが、こみち師匠らしい温かいオチが待っている。

全体的に暗くなりがちな話だと思われたが、前半の可愛らしい定吉から、刀屋の旦那の茶目っ気、徳三郎の真っすぐさ、おせつの真っすぐさまで、男女の恋愛における不思議に美しい雰囲気を、こみち師匠の語りと声が作り出していたように思う。

かなりの大熱演で50分くらいだっただろうか。富久に続き、大ネタを卸すこみち師匠の逞しい心意気に感動しつつ、お次はこの方。

 

古今亭文菊『百年目』

いつもの中腰態勢から座布団に着座し、語り始める文菊師匠。自分でもどれだけの時間になるか分からないと言いつつ、丁寧な番頭や旦那のマクラを話始めた。こちらとしては24時間喋りっぱなしでも良いと思うのだが、『百年目』のような大ネタは初めてである。

この話を語る前に、少し余談を。

この記事の冒頭にカート・ヴォネガット・ジュニアの言葉を引用した。

私の好きな言葉である。人が生活をする上で、自分が何かを装っているという気持ちになることがある。社会の中で自分は他人からどう見られているか、という部分は自分という存在を他者に示す上で、とても重要な戦略になってくるものだ。表面に出てくるものが実態にほかならないのだとすれば、何を隠し、何を隠さないか、という部分が自分を形作っていくのではないだろうか。というのも、非常に頑固で真面目だと思われていた人間が、実はかなりの遊び人であったりすることもある。反対に、かなりの遊び人だと思われていた人間が、ひとたび仕事に取り掛かると、無類の真面目さを発揮することがある。

一人の人間の中に相反すると思われる行動や感情が備わっているのだという事実を、ヴォネガットは冒頭の言葉で捉えているのでは無いかと私は思うのだ。

Twitterでは、人間そのものよりも『言葉そのもの』に注目が集められているように思う。その人がどんな人物で、どんな性格で、どんな声をしているかという情報は遮断され、『言葉』だけがクローズアップされる。まるで、湖に落ちた一滴の雫の如く、その雫がどこからやってきたかは分からず、誰が落としたかも分からないことと同じように。

孔子の言葉に、こんなものがある。

水清ければ魚棲まず、人潔白なれば仲間無し

透き通るような川を眺めていると、美しいと感じる。それは、自分の心にある濁りを認め、清き水に対して憧れを抱くからだろうか。

人間はだれしも、清く正しく生きたいと思いながら、清く正しく生きられないというもどかしさを抱えながら生きているのではないだろうか。さらに言えば、そのもどかしさが強ければ強いほど、自分を責め、自分に呆れ、嫌気がさして悩んでしまうのではないだろうか。だから、自分が思う清き人から「君のそれは間違っているよ。全然駄目だよ」と言われた時に、絶望し、自らの命を自ら絶ってしまう人もいるのではないだろうか。

これは想像することしか出来ないし、安易に言葉をかけることは出来ない。それでも、生きていた方が良いと私は思う。世の中には一見真面目に見えるが、見えないところで大いに遊んでいる人達がいる。人間とは本来、自分勝手で我儘でありながら、やるべきことはきっちりとやる存在なのだと思う。

もう一つ、ロバート・ウェストールの名作『禁じられた約束』の中に、こんな言葉がある。

きみは、このひどい世の中をわたっていくには気立てがよすぎる

とある方のご意見から、興味を持って読んでみた。やはり運命というものはあるようで、私が『百年目』を聴いたことによって抱いた思いの手助けをするかのように、あらゆるものが私の元に集まってくるのだな、と思った一冊、そして言葉である。

気立てがいい、すなわち心の持ち方である。ひどい世の中を渡っていくには、心の持ち方が良過ぎると生き難い。これはかなりの名著なので、是非読むことをオススメする。

以上のことを踏まえて、『百年目』について語ろうと思う。この物語は簡単に言えば『普段は真面目な男が大恥を晒して悶え苦しむが、最期には救われる』という内容である。

『百年目』の主人公で番頭の次兵衛は『真面目で主人から厚い信頼を受ける男』である。冒頭は小言マシーンの如く、奉公人に対して細かく小言を発する。小言を発する文菊師匠の声とリズムが気持ち良くて、「あっ、私も小言を言われて叱責されたい」という無駄な願望を抱きつつも、立派な番頭であるということが分かる。

番頭が店を出て幇間の一八と出会う場面から、着替えをして屋形船に乗り込むまでの場面は、真面目な番頭から生粋の遊び人へと変貌を遂げる次兵衛の、人間らしい姿が鮮やかに描かれていた。先に引用したヴォネガットの言葉のように、表向き(店)では真面目な男を装いながら、一度店(表向き)から離れると屋形船でベロベロに酔っぱらう遊び人となる。この人間らしさが実に面白い。そうそう、人間ってそうだよね。という気持ちになるのだ。

次兵衛が屋形船に乗りながらも、人に見られないように窓を閉めて外面を気にするところなど、実社会においても十分に起こりうるというか、今まさに起こっている風景があった。仕事とプライベートにきっちり線を引いている感じも、次兵衛にかなり共感してしまう部分である。

この辺りの変貌前、変貌後の文菊師匠の変わりっぷりも面白いし、状況的にも奉公人だらけの変貌前から、遊女と幇間に囲まれた変貌後と、見事に『所変われば品変わる』という感じで、かなり面白いと私は思った。

変貌前、変貌後と書いたが、どちらが本当の姿であるかということは、私は決めない性質である。一所懸命に仕事に精を出し、主人から厚い信頼を受ける次兵衛と、幇間や遊女に囲まれてベロベロに酔う次兵衛も、どちらも本当の次兵衛だ。そして、私自身にも次兵衛と共通する部分がたくさんある。会社に勤めている方には、是非とも見て頂きたい演目である。

さて、そんな遊び人となった次兵衛は、遊んでいる先で、なんと勤め先の主人にバッタリ出くわしてしまう。狼狽のあまりパニックになった次兵衛は「お久しぶりでございます!」というようなことを言って、一気に酔いが覚めて青ざめる。主人は周りの幇間や遊女に「私の大事な番頭さんです。楽しんで遊ばせてください」みたいなことを言って足早に去って行ってしまう。

文菊師匠の演じる主人の温かさと、一瞬で青ざめ絶望感に苛まれる番頭次兵衛の対比が実に見事で、強烈に印象に残っている。特に、主人に遊びが露見したことに慌てふためき絶望し、寝込んだり、普段やらないことを率先して行うようになる次兵衛の姿に、涙が込み上げてくる。詳しくは書かないが、私にもそういう経験があるからだ。

布団に籠りながら、絶望に打ち震え、夜逃げか謝るかの二択で苛まれ、結局眠れない一夜を過ごす次兵衛。この次兵衛の人物描写たるや、文菊師匠は凄まじかった。何よりも次兵衛という人間を幾重にも表現しているのが凄まじい。冒頭の辣腕の次兵衛、着替えて遊びまくる次兵衛、そして主人にバレてパニックに陥る次兵衛、布団の中でもがき苦しむ次兵衛。全てがくっきりと丁寧に細部まで表現されているからこそ、次兵衛が主人と対面する場面が物凄くくっきりと、鮮明に立ち上がってくる。緻密かつ精巧な文菊師匠だからこそ浮かび上がってくる、感動のラスト場面。次兵衛の思いが込み上げてきて、私の眼からは熱い涙がとめどなく流れ始めた。

震えながら主人の前に出てくる次兵衛。細かい説明は無いが、私の想像では頬が痩せこけ、目の下には隈ができ、虚ろな表情である。そんな次兵衛をじっと見つめながら、温かい表情、全てを受け止めた主人の表情、そして穏やかな語り口に胸を締め付けられる。

一所懸命に番頭として働いていることを褒め、旦那という言葉の由来を説明するくだりがあり、それから帳簿を調べたこと、一つの抜けもなかったこと、自分の金であれだけの遊びが出来るのは立派だ、と、ゆっくりと、丁寧に、まるで頭を撫でて優しく褒めたたえるかのような、主人の語り口と視線、表情に涙が止まらなかった。次兵衛と同じ気持ちになって、感動に咽び泣きながら主人の言葉を聴き、その一つ一つが胸に染みた。文菊師匠の描き出す主人の姿、俯きながら主人の言葉が一つ一つ体に染み込んでいく次兵衛。どれもが静かにじんわりと輝いている気がした。叱るどころか褒め称えるという主人の懐の深さが、何よりも温かい人情を感じさせた。

どうか終わらないで欲しいと思いながらも、最後のオチを言ってお終い。気が付けば1時間を超える大熱演だった。あまりの凄まじさに、仲入りで席を立つことが出来ず、放心状態のまま菊之丞師匠の出番がやってきた。冒頭はあまり話が入って来なくて申し訳なかった。

仲入りの最中、私の頭の中には「すげぇ」しか浮かんでこなかった。ひたすらに「すげぇ、すげぇ」と笠を取って欲しいわけでもないのに、頭の中はその言葉でいっぱいだった。しばらくすると「次の段階に進んだんだ。これはネクストレベルへの大きな指針だ」と思うようになった。

文菊師匠は、40歳を迎えるにあたって、大きな指針として『百年目』を選んだのではないか、と私は思った。自らの体力を大ネタを演じることに合わせに来ているという印象を受けた。これから先の10年、20年、30年に向けて、大きな基礎を作り上げようとしているのではないか。それほどに凄まじい一席であったし、とてもネタ卸しとは思えないほど仕上げられた一席だった。

恐らく、今後は大ネタを演じるために地盤を固めて行くような気がする。いずれは真景累ヶ淵や塩原多助一代記とか、牡丹灯籠とか、長編において無類の真価を発揮していくのではないか。そう思ってしまうほどに凄まじい演目であると同時に、もはや30分ネタでは他の追随を許さないほどの段階にまで、自らを高めようとしているような、凄まじい気迫のようなものも、私は感じてしまったのである。もしかすると、それは私の願望に近いかも知れないが、初めて1時間を超すほどの大ネタを聴くことが出来て、文菊師匠の見えない決意を感じてしまったのである。

同時に、もはや15分でも物足りないくらいに文菊師匠にどっぷり浸れる演目に接したいという欲求が生まれてきた。1時間でも2時間でも、語り続ける文菊師匠を体験したいという願望。何とも我儘な願望であるが、それほどに『百年目』を演じた文菊師匠は、今までとは明らかに違う次元に達した感じがあった。

誰も到達したことの無い未知の領域へと進む決意と同時に、人間らしく酒を酌み交わして遊ぶことにも同じくらい全力であるというような、文菊師匠の見えない思いを勝手に感じ取ってしまった『百年目』。もしも今、見逃したら絶対後悔する。そんな次元に文菊師匠は達しようとしている気がする。あくまでも私の個人的な意見ですが、明らかにギアが変わった文菊師匠。見逃し厳禁の一席で仲入り。

 

古今亭菊之丞『星野屋』

大ネタ二席でガッツリ体力を奪われ、さらには文菊師匠の大熱演の長講で集中力をごっそり奪われ、感動で半永久的に震え続けるんじゃないかと、自分が音叉になったのかな?みたいなことを思いつつ、登場の菊之丞師匠。大阪では最期は案外短い話が多いと言いつつ、演目へ。

ほぼ『おせつ徳三郎』から全員ネタの内容が被りつつも、この話は簡単に言えば『男女の心中に絡んでいざこざが起こる』という内容である。

途中、館内放送が流れて雰囲気は台無しかつ、『おせつ徳三郎』とほぼ同じようなパターンということもあって、大変申し訳ないのだが私の集中力も途切れ、ざっくりとした印象しか無いのだが、それでも、女性のズルさとか、男の願望みたいなものが言葉から伺えた。仲入り前の文菊師匠の人情噺とあたたかさが気持ち良過ぎて、あんまり人が言い争う話を聞きたくなかったということもあって、大変申し訳ないが、うろ覚えである。

寄席においてもそうだが、ネタのリレーというのは非常に難しいものがあって、そのセンスの良しあしは寄席に通って見分けつつ、自分なりに決めていくしかない。寄席に行って噺家の話を聞き「あ、この流れでこのネタか。センスいいな」とか、自分の価値観を決めて行くのも寄席の素晴らしさだと私は思う。この人、同じ話しかしないんだな、と思うのも寄席ならではである。

今回は三人が好きなネタを卸すということもあって、そういったリレー的な趣向は排除されているため、観客としても鑑賞の際に難しい面もあるかも知れないが、そういうものだと割り切って望むのが良いと思う。

館内放送に邪魔されつつ、最後は綺麗にオチ。

 

総括 文菊師匠のネクストレベル そして大きな目標を据えた一夜

もはや放心状態で、家に帰るまでの間に『百年目やべぇ、百年目やべぇ』と繰り返しながら家路についた。それから圓生師匠の『百年目』を聴いて、もしかしたら圓生師匠の型で文菊師匠も演じられているのかな、と想像しつつ、文菊師匠の余韻を確かめるように圓生師匠の『百年目』を繰り返し聞いた。

私にとっても、文菊師匠の現在を知り、かつ今後の未来を感じさせる上で、非常に重要な一席になった。まだ体験されていない方には是非とも体験してほしいと思うし、恐らく20年、30年後には十八番、至高の芸になっていると思わざるを得ないほどに凄まじい一席である。とにかく凄まじい。そして、聞き終えた後に文菊師匠に対して感じる思いが色々と付加される演目である。と、ここまで書いているが、これはあくまでも私の個人的な感想及び願望が含まれているかも知れないので、真意は分かりません。

100年先にも語り継がれるであろう、究極の一席。その誕生の一夜に立ち会うことが出来てとても幸福だった。熱い涙をぬぐったとき、晴れやかに心に訪れたぬくもりを感じながら、不思議と温かい夜を歩いた。

一歩一歩と家へと足を踏み出す度に、『百年目』の物語の先で、次兵衛が立派な存在になっていることを思う。同時に、次兵衛も立派な存在となり、同じように番頭の働きを褒める存在になっているだろうことを思う。人の心のあたたかさは、その温度を保ちながら未来永劫続いていくのではないだろうか。そんな人と人の温かさに、じんわりと心震えながら、私は夜の闇の中へと消えて行った。

 

余談、『百年目』の最後の辺りで、主人が『栴檀と南縁草』の話が出てくる。『子ほめ』で聞き知っていた栴檀がこの大ネタの最後に出てくるというのが、何とも感慨深い。前座噺として慣れ親しんだ栴檀が、見事に染み込んでくる素敵な法話を聴いて、落語の物語における大きな繋がりを感じた。ますます落語が好きになる。

 

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