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生きて生きて~2019年11月9日 古今亭文菊独演会 なかの芸能小劇場~

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はて、「てんしき」とな?

 

忘れてきちゃった

 

いっそ殺してくれよ

  

七つの穴

中国の神話に不思議な話がある。宇宙の始めのまだ形の無い混沌に通ずる名を持つ渾沌に、形を与えようとしたがために渾沌が死んだというお話である。

南海の帝『儵(しゅく)』と北海の帝『忽(こつ)』は、中央の帝『渾沌(こんとん)』の領地へ赴き、手厚いもてなしを受けた。渾沌の恩に報いようと、儵と忽は話し合い、「どんな人間にも七つの穴がある。見たり、聞いたり、食べたり、呼吸をしたりする穴だが、渾沌にはそれが無い。ならば我々で与えてやろう」と決め、毎日一つずつ穴を開け、七日かけて渾沌に七つの穴を拵えた。ところが、七つの穴が開くと渾沌は死んでしまったのだった。

以来、形の無い渾沌は犬のような姿をしており、内臓が無く、見ることも聞くことも出来ない怪物となった。という話が『荘子』には記されている。

人間の顔には七つの穴がある。目、鼻、口、耳。それぞれ視覚、嗅覚、味覚、聴覚が与えられている。先の中国神話を読むと、渾沌は七つの穴が開いたことによって死ぬが、人は生まれながらに七つの穴が開いているが死ぬことはない。当然のように『生まれながらに七つの穴が開いている』と書いたが、世の中には『七つの穴が開いていない人々』も存在している。

感覚器官が備わっているがゆえに、人は様々な『混沌』に巻き込まれやすい。目にも耳にも捉えることのできない『混沌』に通じる穴を、人間は生まれながらに有している。口は災いの元、目は口程に物を言う、地獄耳、阿鼻叫喚などの言葉にもあるように、なまじ感覚を有しているが故に、苦労するということは常々である。

考えてみれば、日本の伝統的な正月の遊びとして『福笑い』がある。目隠しした人間が感覚だけを頼りに、人の顔のパーツを思い思いに配置して形作る遊びである。今でも盛んに行われているかは分からないが、よく器量の悪い人を「失敗した福笑いみたいな面だ」と言って揶揄することもあった。人の顔を使って遊ぶおおらかさは、今の時代では些か奇妙なものとして映るだろうか。大学時代に海外の学生を招いて『福笑い』をやったことがあり、私は間抜け役で無様な『福笑い』を作り上げたが、作り上げる過程で大声を出して笑う海外の学生たちの声を聞いたとき、なんともいえない気持ちになったことを覚えている。

人の容姿に関する作品で言えば、オスカー・ワイルド萩尾望都先生、つげ義春先生から水木しげるまで、様々な作品で言及されているが、それをいちいち記していてはキリが無い。これはまた別の機会に申し上げるとして、今朝は、『人に備わる感覚』について、ぼんやり思いを馳せた。

落語という世界にあって、三遊亭圓朝という人が盲目の弟子の話を聞き、作り上げたという一席を聞いて、大きな脱力感と壮大なぼんやりの冒険に出ることになった私の思いを、記していくことにしよう。

 

 古今亭菊一 転失気

開口一番は古今亭菊太楼師匠門下の菊一さん。ハーフのような甘いマスクと、やわらかい声のトーンが魅力的な噺家さんである。菊太楼師匠譲りの上半身のピョコピョコ感に、「ああー、菊太楼師匠のお弟子さんらしいなー」と感じる。客席も温かく、菊一さんの語りのリズムも調子が良い。

これはのちに判明したことであるが、どうやらご親族の方も会場にいらしていた様子。子の成長というのは、いつ見ても嬉しいものであることに間違いはない。

これから落語の世界でどんな風に魅力を備えて行くのか、とても楽しみである。

 

古今亭文菊 出来心

昨夜のシブラク『お直し』の興奮冷めやらぬまま、登場の文菊師匠。かくっと膝を落とし、若干右斜めの態勢から座布団へと着座する姿はいつ見ても美しい。

マクラでは菊一さんに触れ、ご親族の厚い愛も放たれ、つるつるに幸福で満ちた会場で泥棒のお話。

この話は簡単に言えば『新米泥棒のズッコケ奮闘記』というような話で、泥棒に成り立ての男が、親分に色々なことを教わるのだが、どうにも上手くいかないお話である。

文菊師匠の描く新米泥棒は、無類の愛嬌がある。可愛くてたまらない。ついつい盗みに入りやすそうな家を教えたくなってしまうくらいだ。

泥棒になったばかりで、右も左も分からない男は、親分の家の隣の家に入ったり、玄関先で中の様子を伺おうと声を出したら、返事をされて驚いて逃げたり、家の前で留守番をしている人に「留守になったら来ますねー」と訳の分からないことを口走る。

新米泥棒に心惹かれるのは、私にも同じような思いがあるからだ。もちろん、泥棒をしたというわけではないが、社会に出て右も左も分からず、上司の助言を受けても的外れな行動をして、後々になって考えてみれば「なんであんなことしちゃったんだろう」というような、間抜けな失敗を繰り返したことが私にはあった。だから、新米泥棒は昔の自分を見ているようで微笑ましいのだ。もちろん、新米泥棒ほど間抜けではないと思っているが。

後世に名を残す立派な人物も、始まりは失敗ばかり。こんな人が出世するのか?と思う人が思わぬ出世をしたりする。人間、いつどこでどうなるかなんてことは誰にもわからない。『出来心』の新米泥棒には、在りし日の自分と重ね合わせてしまう部分が多い。

どんな失敗こそすれ、生きていればきっと誰かが見ていてくれる。最後に新米泥棒はドジをするけど、そんな小さなドジでさえ愛おしくて笑ってしまうのは、何よりも自分がそこに表現されているように思うからであろう。

会場も爆笑に包まれて、微笑ましい空気で満ち満ちた。ぼんやりと閉まった幕を見つめながら、私は緩んだ頬の柔らかさを手で確かめた。餅のように柔らかくて、餡でも買って饅頭でも作ろうかと思った。(ジョーク)

仲入りで、12月のスケジュールを確認。12月29日は休日である。圓菊一門会の演者と演目を見ると、なんと文菊師匠が昼トリで『お見立て』、菊之丞師匠が夜の仲トリで『抜け雀』とある。

 

ぬ、ぬ、ぬ、抜け雀!!??

 

驚きながら、これは見るしかあるまいと、チケットを購入。なんと、担当の欄には文菊師匠の手書きで『文菊』とある。これは嬉しい。まだ一ヶ月以上も先であるが、楽しみでならない。

ほくほくのお芋気分で席に戻り、開演を待った。

 

古今亭文菊 心眼

マクラを聞いただけで、「あっ!!!心眼だ!!!」と心が高鳴る。たっぷり四十分の『心眼』は、シブラクで聴いて以来であった。

毎度、文菊師匠の所作には感嘆のため息を漏らしてしまう。特に、賽銭箱にお金を落とした後に、左耳できちんと小銭が落ちたかを確かめる所作。物凄く細かいので見過ごしがちなのだが、この所作だけで、いかに文菊師匠が目の不自由な人を観察しているかが分かる。

この話は簡単に言えば『盲人の見る映像』のお話である。楽しみを奪わないために、敢えて『映像』とだけ記す。

品川で実の弟である金に出会った後、家に帰ってきた按摩の盲人『梅喜(ばいき)』。帰宅した旦那に声をかける妻のおたけ。文菊師匠が鮮やかに描くのは、冒頭の二人の会話と表情である。痺れるほど見事なのだが、悔しさを抑え込みながらも、ふつふつと込み上げてくる怒りに耐え切れず、声を荒げる梅喜の姿。そして、旦那である梅喜の、妻以外の他人には分からない心の機微に、姿を見ただけで勘づくおたけの姿。言葉少なに表情で互いの心情を映し出す文菊師匠の、凄まじいまでの緻密さに声も出ない。

私はおたけの心配りに目を開かされる思いである。梅喜に優しく声をかけながら、本心を語らせ、勇気づける言葉をかけるおたけ。言葉は人を作る。おたけの一言一言が、いかに梅喜を思い、梅喜の生活を支えているかと言うことが、詳細に語らずとも理解できるところに、文菊師匠の語りの素晴らしさが表れている。

酔っぱらって眠りについた梅喜。お薬師さまへ日参をして、なんとか目が開かないかと拝み続ける梅喜。それを支える女房のおたけ。ようやく満願の日。梅喜は賽銭箱にいつものように銭を入れ、お薬師さまに願う。

与えたら、与えた分だけの見返りを求めてしまうのも人の業か。満願を迎えても、自分の願いが満たされずに憤る梅喜の姿には、言いようの無い苦しさを覚える。憤慨し、自暴自棄になり、ヤケクソで、何もかもがゼロになってしまう気持ち。私にもある。毎度、書いても『どがちゃが』に載らないレビューとか。他にも天満宮に『受験に合格しますように』と祈っても不合格だったり、手書きの恋文で告白をしても相手にされなかったり、宝くじを大量に購入しても一つも当たらなかったり。世の中は常に『願ったり、叶ったり、叶わなかったり』の連続。

もちろん、梅喜は自分のためだけに祈っているのではない。自分を支えてくれるおたけの思いを背負って祈っている。おたけの言葉を語る梅喜の姿に、私はどうしても涙を抑えられない。「着ている着物の縞の柄」に関する言葉を聞くと、一所懸命に梅喜を支えるおたけの笑顔が浮かび、それに頷く梅喜の姿が浮かび、胸を締め付けられて泣いてしまう。

心のどこかで、目が見える日が来ないのではないか、という葛藤を抱えていたのではないか、と思ってしまうほど、梅喜の表情は怒りに溢れていた。声を荒げ、命も惜しくないと語る梅喜の姿が切ない。きっと、おたけに迷惑をかけたくないのだろうなぁ、とか、おたけの支えが嬉しくもあり、辛くもあるのかなとか、色んな思いが駆け巡って、それでもおたけの笑顔と温かい表情が脳裏を掠めて、ただただ目から熱い雫が零れた。

上総屋の旦那とぶつかり、目が開いたことに気づく梅喜。ここからの梅喜の変わりようが実に見事で、つくづく物語の作者である圓朝師匠の驚愕の創作能力に痺れる。目が見えた途端、一気に開花していく梅喜の喜びように、見ている私も喜んでしまうのだが、次第に梅喜の心が、おたけを蔑ろにしていくのを見るのが、なんとも言えない、胸の辺りに靄のかかったような思いになる。

最後に、おたけが梅喜にかける言葉と、その後に様々な思いをかき混ぜられたかのような表情をする梅喜の顔が忘れられない。冒頭に記した『混沌』が、梅喜の表情を様々に変化させているように思えたのだ。文菊師匠は、一体どんな思いで、梅喜の表情を表現しているんだろう。物凄く聴きたいけど、聴いたら野暮なところだから聞かない。

徹頭徹尾、圧巻の一席である。数ある文菊師匠の至宝の一席において、『心眼』は随一の素晴らしさを誇ると思っている。もしも文菊師匠に出会ったら、一生に一度は見ておかなければ後悔する一席と言える。それほどに、圧倒的で、緻密で、微に入り細を穿つ見事な一席だ。

先月に続き、朝から泣かされる一席である。先月とは異なる涙が、私の頬を伝った。正直に申し上げると、「おたけみたいな女房、どこにおんねん・・・」と思ってしまうほど、絶品の心配りを持った女性が登場するので、人は見た目が9割だと思っている人には、是非、見て欲しい演目である。見た目の美しさは心の美しさに比例するとだけ、言っておこう。幸い、私の見た目がどうかは分からないが、私の周りには眉目秀麗な美人が多いので、類は友を呼ぶのかもしれませんね(まとめ台無し)

 

総括 生きて生きて

冒頭の『七つの穴』ではないが、生きている限り、穴が開いているが故に苦労することは多い。目が見えるばっかりに「あいつは美人で、あいつはブサイクだ」などと判断出来たり、口があるがゆえに罵倒したり批判したりする。耳があるがゆえに「あいつの声は汚い」とか言ったり、鼻があるがゆえに「こいつ、臭いな・・・」と思ったりする。だが、そうした感覚器官が備わっているがゆえに、多くの危険から避けられたり、喜びを感じられることも多い。

永井龍男先生の随筆集『カレンダーの余白』には、『味覚の無い人』に言及した個所がある。是非、どこかで見かけたら読んで欲しいのだが、永井先生は、『味覚の無い人』に会って話を聞きたいと記している。

食べ物の味を感じることが出来ない人は、一体何を幸福として生きているのだろうか。想像が付かない。何を食べても味がしないということの絶望感は果てしないのではないか。私は断食をしたことがあるが、物を食べられないというのはとてつもない悲しみだった。およそ人生における喜びの大部分を失われたような思いだった。

何かを失うことは、それだけの絶望を伴う。だが、考えてみれば、感覚が与えられていることは、当たり前ではないのだ。世の中には目の見えない人もいれば、味覚の無い人もいる。大切なことは、決してそういう人々を否定したり馬鹿にしないこと。金さんのように梅喜を馬鹿にしてはいけないと思う。そういう人々に出来ることは、おたけのように、支えてあげることだと私は思う。

だから、どうか、何かを失って絶望している人がいるとしたら、支えてあげてほしい。生きて、生きて、その先に待っている色んなことを体験して欲しいと思う。

でも、本当のところは私には分からない。生きることさえ辛い現実に打ちのめされて、死んでしまいたいと思う日が来るのかも知れない。

生きて生きて、それでも死にたいと思う日が来るのだろうか。

そんなときに、私は誰に支えられるんだろう。

ぼんやり、ぼんやり、

そんなことを考えながら、私はなかの小劇場を出ると、渋谷の改良湯で行われている『湯沸かし市』に行った。欲しいものは既に売り切れていた。仕方なく近くの蕎麦屋で蕎麦を食い、家に帰って、ぼーっとしながら、この記事を書いている。

色んなことは、分からないままだけど、生きて生きて、それでも生きて、最後に「なんか全然、分かんなかったけど、楽しかったことだけは、間違いないな」と思って、死ぬことができたらいいな、と思う。

そんなことを考えた朝になった。

さて、明日はどんな素晴らしい演芸に出会うことが出来るやら。

あなたが素敵な演芸に出会えることを祈って。

それでは、また。どこかでお会いしましょう。